1936年(昭和11年)①2/26「2.26事件」の勃発
2023年4月15日アジア・太平洋戦争

陸軍の「統制派」は、事件を起こした「皇道派」を一掃し、日本は陸軍を中心に戦争国家改造に突き進む。
前年まで右翼によるテロ未遂事件や陸軍青年将校による政府転覆計画が連続して発覚していた。そしてついに陸軍内部の皇道派である急進過激派は、2.26事件(昭和11年2月)を起こした。帝国陸軍といっても派閥争いは激しく一枚岩であったわけではない。ここでは、「2.26事件」と、旧帝国陸海軍の「統帥権思想」について述べる。
(左写真)「憲兵のものものしい警備に守られた、戒厳司令部になった東京・九段の軍人会館」(1936/2)(右写真)「Google ストリートビュー」から切り抜いた東京・九段会館(撮影日2017/10)(出典)「2.26事件と昭和維新」新人物往来社1997年刊
★1936年(昭和11年)2月26日2.26事件勃発。4-1
2月26日の早朝(午前5時)、各連隊の青年将校らは、蹶起と同時に目標とした政府首脳や重臣をその官邸や私邸に襲った。
翌日2月27日東京市に戒厳令が公布され、戒厳司令部は最初の三宅坂から九段の軍人会館に移された(午前6時)。
ここではその概要と、2.26事件の「蹶起趣意書」、「判決文(罪状)判決理由書(動機と原因)」などから陸軍の思想的背景などについて考えてみたい。

1936年(昭和11年) |
2.26事件勃発
写真2枚とも(出典)「別冊歴史読本永久保存版」「2.26事件と昭和維新」新人物往来社1997年2月刊
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事件の概要
●昭和11年(1936年)2月26日の早朝(午前5時)、「昭和維新」の断行を旗印に、憂国の気概に燃えた各連隊の青年将校らは、蹶起と同時にいっせいに政府首脳や重臣をその官邸や私邸に襲った。
●蹶起部隊は各所の襲撃終了後、麹町区永田町一帯を占拠し交通遮断に及んだ。この間蹶起部隊の首脳将校は、陸軍大臣に「蹶起趣意書」を読み上げ、要望事項を提示しその実施を迫った。判決文の「行動の概要」は次段以下に引用。
写真と以下の「判決文」「陸軍大臣告示」「戒厳司令部発表」は、(出典)「2.26事件 獄中手記・遺書 」河野司 編 河出書房新社 昭和47年初版 平成元年(1989年)新装初版発行
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蹶起(けっき)趣意書
謹ンデ惟(おもいみ)ルニ我神洲タル所以(ゆえん)ハ、万世一神タル天皇陛下御統帥ノ下二、挙国一体生成化育(せいせいかいく= 天地自然が万物を育て、この宇宙を成り立たせていること)ヲ遂ゲ、終二八紘一宇(はっこういちう=地の果てまでを一つの家のように統一して支配すること)ヲ完(まっと)フスルノ国体二存ス。此ノ国体ノ尊厳秀絶ハ天祖肇国(ちょうこく=国をひらきはじめること)神武(じんむ=神武天皇)建国ヨリ明治維新ヲ経テ益々体制ヲ整へ、今ヤ方(まさ)二万方(ばんぽう=あらゆる方面)二向ツテ開顕(かいけん=ひらきあらわすこと)進展ヲ遂グベキノ秋(とき)ナリ

然ルニ頃来(けいらい=この頃)遂二不逞兇悪ノ徒簇出(そうしつ=むらがりでる)シテ、私心我慾ヲ恣(ほしいまま)二シ、至尊絶対ノ尊厳ヲ藐視(びょうし=軽んじること。軽視。蔑視)シ僭上(せんしょう=身分を越えておごりたかぶること)之レ働キ、万民ノ生成化育ヲ阻碍(そがい)シテ塗炭ノ痛苦二呻吟セシメ、従ツテ外侮(がいぶ=外国または外部の人から受けるはずかしめ)外患日ヲ逐(お)フテ激化ス
所謂(いわゆる)元老重臣軍閥官僚政党等ハ此ノ国体破壊ノ元兇ナリ、倫敦(ロンドン)海軍条約並二教育総監更迭二於ケル統帥権干犯、至尊兵馬大権ノ僭窃(せんせつ=身分を越えて位をぬすむこと)ヲ図リタル或ハ三月事件或ハ学匪共匪大逆教団等利害相結デ陰謀至ラザルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ、其ノ滔天(とうてん=天まではびこること)ノ罪悪ハ流血憤怒真ニ譬へ難キ所ナリ。中岡、佐郷屋、血盟団ノ先駆捨身、五・一五事件ノ噴騰、相沢中佐ノ閃発トナル、寔(まこと)二故ナキニ非ズ
而モ幾度カ頸血(けいけつ=くびを切ったときに流れる血)ヲ濺(そそ)ギ来ツテ今尚些カモ懺悔(ざんげ)反省ナク、然モ依然トシテ私権自慾ニ居ツテ苟且(かりそめ=一時的なこと)偸安(とうあん=目先の安楽をむさぼること)ヲ事卜セリ。露支英米トノ間一触即発シテ祖宗遺垂ノ此ノ神洲ヲ一擲(いってき)破滅二堕ラシムルハ火ヲ睹ルヨリモ明カナリ
内外真二重大危急、今ニシテ国体破壊ノ不義不臣ヲ誅戮(ちゅうりく=罪のある者を殺す)シテ、稜威(りょうい=うちひしぐような威光)ヲ遮り御維新ヲ阻止シ来レル奸賊ヲ芟除(さんじょ=刈り除くこと)スルニ非ズンバ皇謨(こうぼ=天皇の国家統治のはかりごと)ヲ一空(いっくう=すっかりなくなること。また、すっかりなくすこと)セン。恰(あたか)モ第一師団出動ノ大命渙発(かんぱつ=勅令などを広く天下に発布すること)セラレ、年来御維新翼賛ヲ誓ヒ殉国捨身ノ奉公ヲ期シ来リシ帝都衛戍(えいじゅ=旧陸軍で、軍隊が永久的に一つの場所に配備、駐屯すること)ノ我等同志ハ、将二万里征途二上ラントシテ而(しか)モ顧ミテ内ノ世状二憂心転々禁ズル能ハズ。君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ、彼ノ中枢ヲ粉砕スルハ我等ノ任トシテ能ク為スベシ。臣子夕リ股肱(ここう=手足となって働く、最も頼りになる部下)タルノ絶対道ヲ今ニシテ盡サザレバ破滅沈淪(ちんりん=おちぶれはてること)ヲ翻ヘス二由ナシ
茲(ここ)二同憂同志機ヲ一シテ蹶起シ、奸賊ヲ誅滅(ちゅうめつ)シテ大義ヲ正シ、国体ノ擁護開顕(かいけん)二肝脳(かんのう)ヲ竭(つく)シ、以テ神洲赤子(せきし=天子を親にたとえ、その子の意味)ノ微衷(びちゅう=自分の本心、まごころをへりくだっていう語)ヲ献ゼソトス
皇祖皇宗ノ神霊冀(こいねがは)クバ照覧(しょうらん=神仏、また、貴人がご覧になること)冥助(みょうじょ=目に見えない神仏の加護)ヲ垂(たる=目下の者や後世の者に表し示す)レ給ハンコトヲ
昭和十一年二月二十六日
陸軍歩兵大尉 野 中 四 郎
外 同志一同
「趣意書」(出典)「2・26事件 獄中手記・遺書」 河野司 編 河出書房新社 昭和47年初版 平成元年(1989年)新装初版発行
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「判決文7/7」の蹶起部隊の「行動の概要」の部分。
「・・麹町区西南地区一帯の交通を制限し、以て香田清貞、村中孝次、磯部浅一等の陸軍首脳部に対する折衝工作を支援せり。 前記香田清貞、村中孝次、磯部浅一等は丹生誠忠の指揮する部隊と共に、二月二十六日午前五時頃陸軍大臣官邸に到着、陸軍大臣川島大将に面接し、香田清貞は一同を代表して蹶起趣意書を朗読すると共に各所襲撃の状況を説明したる後、維新断行のため善処を要望し、また真崎大将、古荘陸軍次官、山下少将、満井歩兵中佐を招致して事態収拾に善処せられたき旨要請せり。」とある。
●要望には、反皇道派の宇垣一成大将、南次郎大将の逮捕もあった。そして午前8時30分頃、陸軍大臣川島大将の要請で来た皇道派の真崎大将は、蹶起将校達に「とうとうやったか、お前たちの心はヨヲッわかっとる」(磯部浅一手記)と言ったという。
●その後川島陸相は宮中に赴き、天皇に状況を報告した。天皇は「速ニ事件ヲ鎮定」するように命じたという。
●午後1時30分、宮中において陸軍軍事参議官会議(天皇の下問に答える陸軍長老会議)が開かれ、皇道派幕僚である真崎、荒木貞夫大将らが中心となって、蹶起将校を説得するための下記「陸軍大臣告示」が作成された。それが蹶起将校の行動を是認する内容のものであったため事態はさらに紛糾していった。 |
「陸軍大臣告示」(2月26日午後3時30分 東京警備司令部)
一、蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり
二、諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む
三、国体の真姿顕現(弊風を含む)に就ては恐懼に堪へず
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申合せたり
五、之れ以上は一に大御心に待つ
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2/27天皇は陸軍当局による鎮圧が進まないことに憤りをおぼえる。
●しかし翌2月27日になると、天皇は陸軍当局による鎮圧が進まないことに憤りをおぼえ、「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ、朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」とし、ついに「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当ラン」(本庄繁「本庄日記」)とまで言ったといわれる。27日朝、政府は東京地区に戒厳令をしいた。
●決起部隊は「事態収拾を真崎大将に一任したい」と要望したが、真崎大将は天皇の強い言葉により言動が慎重となり、決起部隊の聯隊復帰をすすめるだけとなってしまった。「維新遂行・真崎内閣」をも期待されていた真崎大将は豹変したのである。
参謀本部は、鎮圧をしぶる皇道派の香椎陸軍中将・戒厳司令官に
「奉勅命令」(戒厳司令官は占拠部隊を所属部隊に復帰させよ、という内容)を下達するように命じた。
●こうして2月28日午前5時すぎに「奉勅命令」が下達され、もし決起部隊が従わなければ反乱軍となり、戒厳司令部は2月29日朝9時攻撃開始を決定した。
●2月29日朝より鎮圧軍は戦闘態勢にもとに原隊復帰勧告を行い、結果決起部隊は抵抗をやめ、下士官・兵は原隊に復帰していった。将校准士官は逮捕され陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所に収容された。野中大尉は2月29日陸相官邸で自決、別動隊の河野大尉は3月6日東京陸軍病院熱海分院で自決した。安藤大尉は拳銃で自決を図ったが一命をとりとめた。
●蹶起将校たちは自決することより法廷で闘うことを決めて投降したが、陸軍は非公開で上告も許さない特設軍法会議で、同年昭和11年(1936年)7月5日には判決を下し、1週間後に死刑を執行した。
●2・26事件の論理的支柱であった北一輝と西田税は翌年8月19日には、常人(一般人)である磯部、村中等と共に銃殺刑に処された。
上のビラの写真は(出典)「雪未だ降りやまず(続2・26事件と郷土兵)」昭和57年埼玉県史刊行協力会発行
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戒厳司令部発表(ラジオ放送)(二月二十九日午前八時五十五分)
「兵に告ぐ」
勅命が発せられたのである、既に 天皇陛下の御命令が発せられたのである
お前達は上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従をして、誠心誠意活動して来たのであろうが、既に 天皇陛下の御命令によって、お前達は皆原隊に復帰せよと仰せられたのである。此上お前達が飽く迄も抵抗したならば、夫(それ)は勅命に反抗することとなり、逆賊とならなければならない
正しいことをして居ると信じていたのに、それが間違って居ったと知ったならば、徒らに今迄の行懸りや義理上から何時までも反抗的態度を取って天皇陛下に叛き奉り、逆賊としての汚名を永久に受けるような事があってはならない
今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ、そうしたら今までの罪も許されるのである
お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを心から祈って居るのである
速かに現在の位置を棄てて帰って来い
戒厳司令官 香椎 中将
戒厳司令部発表(ビラにて撒布)(二月二十九日午前八時五十五分)
「兵に告ぐ」
既に勅命は発せられた、諸士が飽く迄も原隊に復帰する事を肯んぜざるは、畏くも勅命に反き奉り、逆賊たるの汚名を蒙る事となるのである。凡そ諸士が上官に対し献身忠誠を致すのは一に上官の命は直に陛下の命を承る義なりと心得ればこそである
然るに、不幸にして上官が勅命に反抗するに至った以上、猶且小節の情義に捕われ或は行き懸りの上に引きずられて最後迄之と行動を共にせんとするのは、諸士も叛逆者として屍の上の汚名を後世迄も残さねばならぬ事となるのである
諸士は飽く迄も大綱の順逆を誤って最後の決断を忘れてはならぬ、それには潔く意を決して再び軍旗の下に復帰し、速かに大御心を安じ奉らねばならぬ、全国民亦衷心諸士の翻意を念願しつつあるのである
戒厳司令官 香椎 中将
「2・26事件蹶起部隊参加人員内訳」

上図(出典)新編埼玉県史 別冊「2・26事件と郷土兵」埼玉県史刊行協力会 1981年発行
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★1936年(昭和11年)2・26事件の処刑一覧、判決文(罪状)判決理由書(動機と原因)、「2・26事件と郷土兵」4-2
1936年(昭和11年)7月7日午前2時陸軍省発表。反乱将校ら17名に死刑の判決下る。准士官以下47名処断される。
段の最後に、2・26事件に参加したり関係した埼玉県関係者の証言記録である「2・26事件と郷土兵」埼玉県史刊行協力会 1981年発行を一部抜粋した。

1936年(昭和11年) |
反乱将校ら17名に死刑の判決下る。
●反乱将校ら17名に死刑の判決下る。准士官以下47名処断される。1936年(昭和11年)7月7日午前2時陸軍省発表。(新聞)7/7東京朝日新聞市内版(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●「2・26事件と郷土兵」には次のようにある。「・・事件は4日目になって収拾されたが、その直後、特設された軍法会議において反乱罪を問われ、将校の殆んどが死刑となり、命令を忠実に実行した部下も多数有罪の判決をうけた。また一般兵も隔離の上、憲兵のきびしい取調をうけた後無罪放免となっている。この時兵士たちは憲兵から『上官のあやまった命令に服従したお前たちは間違いである』といわれ驚きとともに命令とは何かと苦しんだとのことである。 事件後主力となった歩一、歩三の部隊は渡満し新任地で汚名挽回を期し専心軍務に励んだものの、決して汚名の消えることはなかった。・・」とある。
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2・26事件の判決。7月7日陸軍省発表
●事件の詳細は、判決文に述べられているが、一部を引用する。順に「陸軍省発表文」「処刑一覧(将校・元将校・常人)の部分」「判決文(罪状)」「判決理由書(動機と原因)」を引用した。(出典)「2・26事件 獄中手記・遺書」 河野司 編 河出書房新社 昭和47年初版 平成元年(1989年)新装初版発行
●陸軍省発表(昭和十一年七月七日午前二時)
去る二月二十六日東京に勃発したる叛乱事件に付ては、其の後特設せられたる東京陸軍軍法会議に於て慎重審判中の処、直接事件に参加したる将校一名、元将校二十名(内二名は事件直後自決死亡す)、見習医官三名、下士官二名、元准士官下士官八十九名、兵千三百五十八名、常人十名中、起訴せられたる者は将校一名、元将校十八名。下士官二名、元准士官下士官七十三名、兵十九名、常人十名にして七月五日その判決言渡を終了せり。
右軍法会議の審判の結果に基く処刑及び判決理由概ね左の如し。
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2・26事件「処刑」一覧(元准士官、元下士官、兵、常人ら、省略)
(注)首魁とは悪事・謀反むほんなどをたくらむ中心人物。首謀者。

●階級等と氏名 |
区分・刑 |
罪状 |
●陸軍歩兵少尉今 泉 義 道 |
将 校・禁錮四年 |
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●元陸軍歩兵大尉・香 田 清 貞 |
元将校・死刑 |
(首魁) |
●元陸軍歩兵大尉・安 藤 輝 三 |
元将校・死刑 |
(首魁) |
●元陸軍歩兵中尉・栗 原 安 秀 |
元将校・死刑 |
(首魁) |
●元陸軍歩兵中尉・竹 嶌 継 夫 |
元将校・死刑 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍歩兵中尉・対 馬 勝 雄 |
元将校・死刑 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍歩兵中尉・中 橋 基 明 |
元将校・死刑 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍歩兵中尉・丹 生 誠 忠 |
元将校・死刑 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍歩兵中尉・坂 井 直 |
元将校・死刑 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍砲兵中尉・田 中 勝 |
元将校・死刑 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍工兵少尉・中 島 莞 爾 |
元将校・死刑 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍砲兵少尉・安 田 優 |
元将校・死刑 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍歩兵少尉・高 橋 太 郎 |
元将校・死刑 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍歩兵少尉・林 八 郎 |
元将校・死刑 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●村 中 孝 次 |
常 人・死刑 |
(首魁) |
●磯 部 浅 一 |
常 人・死刑 |
(首魁) |
●渋 川 善 助 |
常 人・死刑 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●水 上 源 一 |
常 人・死刑 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍歩兵少尉・麦 屋 清 済 |
元将校・無期禁錮 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍歩兵少尉・常 盤 稔 |
元将校・無期禁錮 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍歩兵少尉・鈴 木 金次郎 |
元将校・無期禁錮 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍歩兵少尉・清 原 康 平 |
元将校・無期禁錮 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●元陸軍歩兵少尉・池 田 俊 彦 |
元将校・無期禁錮 |
(謀議参与又は群衆指揮) |
●以下、元准士官元下士官、兵、常人ら、略 |
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2・26事件の判決文(罪状)判決理由書(動機と原因)
罪 状
被告人中、将校、元将校及重要なる常人等が、国家非常の時局に当面して激発せる慨世憂国の至情と、一部被告人等が其進退を決するに至れる諸般の事情とに就いては、これを諒とすべきものなきにあらざるも、その行為たるや聖諭に悖り理非順逆の道を誤り、国憲国法を無視し、而も建軍の本義を紊り、苟も、大命なくして断じて動かすべからざる皇軍を僭用し、下士官兵を率いて叛乱行為に出でたるが如きは其の罪寔に重且大なりと謂うべし、仍て前記の如く処断せり。
又下士官、兵中有罪者一部の者に在りては、兵器を執り、叛乱をなすに当り、進んで諸般の職務に従事したるものと認め得べしと雖も、その他の者にありては、自ら進んで、本行動に参加する意志なく、平素より上官の命令に絶対に服従するの観念を馴致せられあり、尚同僚始め大部隊の出動する等、周囲の状況上之を拒否し難き事情等の為、已むなく参加し、その後においても唯命令に基き行動したるものにして、今や深くその非を悔い、改俊の情顕著なるものあるを以て、之等の者に対しては刑の執行を猶予し、爾余の下士官兵は上官の命令に服従するものなりとの確信を以て、其の行動に出でたるものと認め、罪を犯す意なき行為として之を無罪とせり。
2・26事件の判決理由書(動機と原因)
判決理由書
一、動機と原因
(イ) 村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀、対馬勝雄、中橋基明は夙に世相の頽廃、人心の軽佻を慨し、国家の前途に憂心を覚えありしが、就中(なかんずく)昭和五年のロンドン条約問題、昭和六年の満洲事変等を契機とする一部識者の警世的意見、軍内に起れる満洲事変の根本的解決要望の機運等に刺戟せられ、逐次内外の情勢緊迫し、我国の現状は今や黙視し得ざるものあり、まさに国民精神の作興、国防軍備の充実、国民生活の安定等、まさに国運の一大飛躍的進展を策せざるべからざるの秋に当面しあるものと為し、時艱(じかん)の克服打開に、多大の熱意を抱持するに至れり。
尚この間軍隊教育に従事し、兵の身上を通じ農山漁村の窮乏、小商工業者の疲弊を知得して深く是等に同情し、就中一死報国共に国防の第一線に立つべき兵の身上に、後顧の憂多きものと思惟せり。渋川善助亦一時陸軍士官学校に学びたる関係により、同校退校後も在学当時の知己たる右の者の大部と相交わるに及び、是等と意気相投ずるに至れり。

斯くて前記の者は、此の非常時局に処し、当局の措置徹底を欠き内治外交共に萎靡して振わず、政党は党利に堕して国家の危急を顧みず、財閥亦私慾に汲々として国民の窮状を思わず、特にロンドン条約成立の経緯に於て統帥権干犯の所為(しょい)ありと断じ斯くの如きは畢竟元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥等所謂特権階級が国体の本義に悖(もと)り大権の尊厳を軽んずるの致せる所なりとなし、一君万民たるべき皇国本然の真姿を顕現せんがため、速かにこれら所謂特権階級を打倒して、急激に国家を革新するの必要あるを痛感するに至れり。
而して其の急進矯激性が国軍一般将士の堅実中正なる思想と相容れざりしに由り、思想傾向相通ずる歩兵大尉大蔵栄一、同菅波三郎、同大岸頼好等の同志と気脈を通じ、天皇親率の下挙軍一体たるべき皇軍内に、所謂同志観念を以て横断的団結を敢てし、又此の前後より前記の者の大部は、北輝次郎及び西田税との関係交渉を深め、その思想に共鳴するに至りしが、特に北輝次郎著「日本改造法案大綱」たるや、その思想根柢において絶対に我が国体と相容れざるものあるに拘らずその雄勁(ゆうけい)なる文章等に眩惑せられ、ために素朴純忠に発せる研究思索も漸次独断偏狭となり、不知不識の間、正邪の弁別を誤り、国法を蔑視するに至れり。
而して此間生起したる、昭和七年血盟団事件、及び五・一五事件に於て、深く同憂者等の蹶起に刺戟せられ、益々国家革新の決意を固め、右目的達成の為には、非合法手段も亦敢て辞すべきに非ずと為し、終に統帥の根本を紊り、兵力の一部を僭用するも已むなしとなす危険思想を包蔵するに至れり。
斯くて昭和八年頃より、一般同志間の連絡を計り、又は相互会合を重ね、種々意見の交換をなすと共に、不穏文書の頒布等各種の措置を講じ、同志の獲得に努むるの外、一部の者にありては軍隊教育に当り、其独断的思想信念の下に、下士官兵に革新的思想を注入してその指導に努めたり。次で昭和十年、村中孝次、磯部浅一等が不穏なる文書を頒布せるに原由して、昭和十年、官を免ぜらるるや著しく感情を刺戟せられ、且上司よりこの種運動を抑圧せらるるに及びて、愈々反撥の念を生じ、その運動頻に尖鋭を加え、更に天皇機関説を繞りて起れる国体明徴問題の進展と共に、其の運動益々苛烈となり、時恰(あたかも)も教育総監の更迭あるや、之に関する一部の言を耳にし、軽々なる推断の下に、一途に統帥権干犯の事実ありと為し、大に憤激せるが、会々相沢中佐の永田中将殺害事件に会し、深く此の挙に感動激発せらるる所あり、遂に該統帥権干犯の背後には一部の重臣、財閥の陰謀策動ありと為すに至り、就中此等重臣は、ロンドン条約以来、再度兵馬大権の干犯を敢てせる元兇なるも、而も此等は国法を超越する存在なりと臆断し、合法的に之が打倒を企図すとも到底其の目的を達し得ざるに由り、宜しく国法を超越し、軍の一部を僭用し、直接行動を以て此等に天誅を加えざるべからず。而も此の行動は、現下非常時に処する独断的義挙なりと断じ、更に之を契機として国体の明徴、国防の充実、国民生活の安定を庶幾し、軍上層部を推進して、所謂昭和維新の実現を齎らさしめむことを企図せるものなり。
(ロ) 竹嶌継夫、丹生誠忠、坂井直、田中勝、中島莞爾、安田優、高橋太郎、常盤稔、林八郎、池田俊彦及び山本又も、かねてより、我国現時の状態を以て国体の本義に反するものありと為し、特権階級を排除して、いわゆる昭和維新を促進するの必要を痛感しつつありしが、昭和八年前後より逐次村中孝次等の思想信念に共鳴し、同志としてこれ等に接触し、ついに直接行動をも是認するに至れり。
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「2・26事件と郷土兵」新編 埼玉県史別冊 より
この本は、2・26事件に参加したり関係した埼玉県関係者の証言記録である。蹶起部隊として事件に参加した約1500名の将兵のうち、ほぼ半数が埼玉県出身の兵士だったからである。ここでは、その証言記録のなかから大宮市出身、歩兵第三聯隊第六中隊 軍曹 大正2年(1913年)生まれの谷中靖(旧姓中村)の「黒い影に憤怒」を紹介してみる。
「黒い影に憤怒」
昭和十一年連隊は渡満の関係で戦時編成となり、第六中隊は従来四コ班だったが一コ班増加し、私が新設の第五班長に、大木作蔵伍長が班付に任命された。
一月十日新兵の入隊以降、私は毎日これの内務教育と訓練に忙殺されていた。
その頃連隊内では相沢事件の公判をめぐって青年将校の間には何か緊張感が漲っていたようで、第六中隊でも毎週一回ずつの安藤大尉の精神訓話の中にそのことがいつも出てきて、これに関連した世なおしの必然性が説かれていた。このため心ある者は近く何か事件が起こることを意識していた。
果たせるかな、二月二十六日○一・〇〇非常呼集によって遂にその日がやって来た。
今週の週番司令は我が中隊長安藤大尉だ。間もなく命令がきた。
「第六中隊は只今から靖国神社の参拝に向う、第二種着用!」

舎前に整列するとすぐ中隊編成が下達された。私は第一小隊の第一分隊長となる(第一小隊長は永田露曹長)編成が終わると同時に実弾と食糧が配給された。神社参拝に何故このようなものが配給されるのか、私にはすでに他方面に出動することが解った。準備が済むと一度舎内待機となり、○三・三〇、改めて出発命令が下った。
一時間ほど行進して到着した所は鈴木侍従長官邸付近だった。ここではじめて鈴木侍従長を殺ることを告げられた。襲撃開始は五時、間もなく開始の時間だ。そこで永田曹長は第一小隊の任務を区処した。
私の第一分隊は邸外の東側及び北側に転開して警備にあたる。第二、第五分隊は邸内及び裏門付近の警備、第三分隊は小隊長の指揮で屋内に突入し本人を襲撃する。
私は示された位置に到りMGを配置した上で警戒についたが約三十分後、目的を達したとの連絡を受けたので現地を撤収して正門前に集合、安藤大尉から状況を聴いた後三宅坂下に移動、警備につき、そのままの態勢で夜を明かした。
翌日になると一帯は物々しい雰囲気が立ちこめ、他部隊の兵隊が遠巻きに我々を包囲しているのが眺められた。緊張した数日の後、中隊は幸楽から山王ホテルに移り他の蹶起部隊と合流して包囲部隊と一戦を交えるところまで推移したが、二十九日、遂に奉勅命令に従って連隊に復帰することとなった。午後二時頃ホテル玄関前で安藤大尉から最後の訓示をうけ、次いで中隊歌を合唱、そのさ中大尉は突如ピストル自殺を図った。だが傷は浅く致死とはならず、すぐ衛戍病院に送られた。ここにおいて中心を失った我々は一刻も早く連隊に帰る以外に行く道はなくなった。四日間に蓄積した睡眠不足と疲労は誰彼の区別なく重くのしかかり休養をとることが先決になっていた。しかも今ホテルに頑張っているのは安藤中隊だけになってしまったのである。
かくして寂寞孤立化した第六中隊は一五・〇〇整理をすませた後、永田曹長指揮によって帰隊したのであった。
中隊に戻るとすぐ入浴して体を洗い夕食をとったが、間もなく下士官全員は日用品を携行して野重八の営倉に隔離された。ここで一同は陸軍懲罰令にもとづく免官のいいわたしを受けた。その日以来私は軍人ではなくなったのである。
翌日はトラックに乗せられて代々木衛戍刑務所に送られ囚人服に着替えて雑居房にほうり込まれた。一部屋に八名が収容されたが一切雑談を禁止され、互いに背中を向合わせて正座していなければならない。入所中は全員番号で呼ばれ氏名は伏せられる。私は第三四ニ番であった。
ここで一人一人が呼び出されては法務官の取調に答えるのだが、その狙いは事件中の行動、思想及び改悛の状況といったもので、これを数回に分けて調べあげてゆくやり方である。私は四~五回取調を受けたがその都度同じことを申述べた。
房内では何することもなく時折仏教書を手にするぐらいで退屈この上もない。看守が時折体調の工合などを問いかけたが、中には、君たちは本当によくやってくれたとほめてくれる者もいた。
三月入所以来辟易とするような毎日を過すうち気候はすでに夏を迎えていた。
やがて七月五日になって、はじめて裁判が開かれ判決が言い渡された。
判決 反乱軍参加の科により禁錮二年 但し執行猶予三年に処す。 (求刑は七年であった)
裁判長(広島歩兵第十一連隊付山崎三子次郎中佐)が静かに判決を下した時、期せずして法廷にザワメキが起こった。そして実刑をいい渡された者、執行猶予になった者、無罪の者それぞれにいいしれぬ表情が浮かんでいた。
ここに開かれた陸軍特別軍法会議は一名暗黒裁判ともいわれ、弁護はなく一方的な見解で判決をくだす仕組みとなっていて内容は一切公開しないことを原則とされていた。しかも被告が如何に不服であっても控訴できない一審制というおよそ現代では考えられない制度だった。だから我々は唯黙って判決を聴いているしかどうすることもできなかった。
閉廷すると私はすぐ出所手続きをとってその日のうちに帰宅した。その頃私の家は桶川在の川田谷にあったが、それからの毎日は蟄居に似たわびしい生活で、不景気のため再就職のあてもなく、無聊の日々を送った。
ややしばらくして原隊から就職斡旋の通知が来た。それは三宅坂にある陸軍兵器本廠の事務員にどうかという内容だった。私は早速受諾の旨を返信したところ十二月十日頃から勤めることになった。一か月ばかり通勤した後東京の親戚の世話で干住に下宿をとり、そこから通勤した。仕事は一般事務で肩書きは筆生である。
こうして昭和十三年一ぱい勤務し、養子になったのを機会に退職、以後家業の工場経営にたずさわった。
戦争が漸次劇しくなってきた昭和十八年私にも召集令がきて甲府連隊に一等兵として入隊、編成完結をまってすぐビルマに派遣されメルギー地区の警備につき、以後終戦までいたが引続き二十二年八月まで労役に服した。
階級については終戦後軍曹に戻ったが、これは正規の進級規程にょるものである。
以上の如く二・二六事件以後の私の歩んだ道は決して明るいものではなかった。心に残る不快な思い出といえば、一二七日にわたる刑務所暮らしの精神的苦痛は当然としても、出所後、家にこもっていた頃、二度にわたり特高の坂本(後に大宮署に転勤してきた)という男がやってきて色々と素行について調べていったことだ。今でもあの白い背広姿が目の底に浮かんでくる。多分家にこないときは付近にかくれて見張りをしていたのかも知れぬ。
執行猶予の身だから止むを得ないとしても、私は軍隊の一員として命令で行動しただけで特高に監視されるような危険思想など持ってはいないつもりだ。彼等の考えはあまりにも神経過敏すぎるようだ。
千住に下宿してからは、今度は千住署からお声がかかり、所在を明らかにするため時々署に出てこいとの申しつけがあった。こんなことを三年も続けるのかと思うと我が身が情なくなってきた。十二年に皇太子の立太子式が行なわれ恩赦により刑期が一年短縮されたか、警察との縁はなお続いたのである。
次は召集で甲府の連隊に入隊した時のことだが、一等兵として丘の仲間に入り徹底的にしごかれた時は実につらかった。幹部の幾人かは私の前身を知っていたようだが連隊が異るためか殆んどの者が単なる一等兵と見ていたようである。訓練は辛かったが私はジッと耐えて毎日の日課に励んだ。その後ビルマに行ってからは私に対する特別な差別というものはなかった。
一体あの頃の国の政治はどうなっていたのであろうか、ほんとうに国民のための政治が行なわれていたなら、二・二六事件など起こらなかったのではなかろうか。
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★大川周明「大東亜秩序建設」、北一輝「日本改造法案大綱」の思想4-3
ここでは陸軍に思想的影響を与えたかもしれない大川周明と北一輝の著作の一部を紹介する。

陸軍の思想的背景 |
大川周明「大東亜秩序建設」
大川周明(おおかわ‐しゅうめい)、日本ファシズム運動の理論的指導者。山形県出身。軍部に接近し、三月事件、五・一五事件などに関係。戦後、A級戦犯の容疑を受けたが精神異常の理由で釈放。(出典)「日本国語大辞典精選版」
●ここで大川周明「大東亜秩序建設」の「大東亜秩序の歴史的根拠」より7の「支那事変より大東亜戦争へ」のところを引用してみる。「大東亜」建設の意味が少しわかる。
●左写真は、極東軍事法廷1946年(昭和21年)5月3日第1回公判開廷時の大川周明(なぜか合掌している黒服の人物)。(出典)「NHK特集・激動の記録・占領時代(昭和21年~23年)」NHKエンタープライズ2008年発売DVD
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大川周明「大東亜秩序建設」より
「7 支那事変より大東亜戦争へ」
是くの如くにして日本の誤れる進路は、満洲帝国の建設と共に、一挙正しき転向を見た。満洲建国は、日本が亜細亜抑圧の元兇たる英米との協調を一抛し、興亜の大業に邁往し初めたものとして、まさしく維新精神への復帰である。満洲事変勃発に際して、国民の熱情が火の如く燃えたのも、実に其為であった。然るに最も遺憾に堪へぬことは支那が日本の真意と亜細亜の運命とを覚らず、満洲建国を以て日本の帝国主義的野心の遂行となし、いやが上にも抗日の感情を昂め来れることである。

吾等は支那の抗日について、決して支那のみを責めようとは思はない。既に述べたる如く、日露戦争以後の日本の国歩は、世界史の根本動向と異なれる方向に進められた。ロシアと戦ひ勝ちて、表面皮相ではあり乍ら世界一等国の班に入るに及んで、是迄張りつめ来れる国民の心の弦ゆるみ、沈滞苟安の風潮、漸く一世に漲り初めた。かくて日露戦争に於ける勝利によって、亜細亜の諸国に絶えて久しき復活の血潮を漲らしめたに拘らず、日本は却って彼等を失望せしむる如き方向に進んだ。日本は亜細亜の友人又は指導者たる代りに、その圧迫者たる欧米に追従したのである。
日露戦争によって「頭脳に新世界」を開かれた安南の青年は、陸続国を脱して東京に留学し、独立運動者としての資格を鍛錬すべく刻苦勉励して居たが、日仏協約の締結によって悉く追放の憂目を見た。日本に亡命し来れる印度革命の志士は、イギリスの強要によって放逐された。東京外国語学校の印度語教師なりしアタル君が、英国大使館の迫害に堪へ兼ね、毒を仰いで自殺せることは、吾等の今尚ほ忘れ得ぬ悲惨事である。
支那に対しては、日支両国の堅き結合による以外、また亜細亜復興の途なき運命を、直覚的に把握し、深き同情と愛着とを以て支那問題に終始し来れる人々が、支那浪人の名の下に活動の舞台から斥けられ、専ら利権獲得を目的とする商人の冷かなる手のみが徒らに支那に伸びて往った。さればこそ孫文一派に対する永年の援助と友誼とに拘らず国民党の権力を最後に確立せしめたる北伐革命に際しては、日本は国民党内部に何等の緊密なる聯繋を有せず、その革命指導権をロシアに与へ去って顧みなかった。此事は日本の不幸であると同時に、一層重大なる意味に於て支那の不幸であった。かくて支那の排日は侮日となり、侮日は抗日となりて遂に支那事変の勃発を見るに至った。
昭和十二年七月七日、蘆溝橋畔一発の銃声を導火線とせる日支両国の悲しむべき争ひが、斯程まで長期に亙らうとは、恐らく当初は何人も予想せざりしところである。現に日本政府は之を北支事件と呼び、暴支膺懲といふ簡単至極のスローガンを掲げ、謂はゆる不拡大方針を以て之に臨んだ。然るに思ひもよらぬ局面の展開は、否応なく事実によって不拡大方針を覆し、名称もまた支那事変と更められ、其名の如く戦線は全支那に及んで今日に至った。昭和十六年十二月八日、対米英戦争の宣戦の大詔下りてより、支那事変は大東亜戦争のうちに包容され、その名称は廃止されたけれど、現に日支両国は激しく戦ひ続けて居る。
前後七年に亙る支那事変の経過を一顧すれば、之を二期に大別することが出来る。初めの一年有半ば所謂進攻作戦の時期にして、当初の不拡大方針が飛躍的に規模雄大を極むる全面戦争となり、目覚ましき勝利を収めて居る。次の四年有半は、一面戦争・一流建設の旗印の下に、大体に於て封鎖戦・建設戦に終始して今日に及んだ。此間に欧羅巴戦争の勃発あり、日独伊三国同盟の締結あり、終に対米英戦争の宣言あり、それぞれ東亜及び欧羅巴に於て戦はれつつありし二つの戦争が、必然の帰着として名実共に一個の世界戦となるに至った。
さて支那事変の本質並に意義は、戦局の進展と共に次第に明瞭となった。単純にして無内容なる暴支膺懲のスローガンは、いつの間にか其影を潜め、東亜新秩序の建設、次では大東亜共栄圏の確立といふ戦争目的並に理想が、高く掲げられるやうになった。東亜秩序は疑ひもなく世界秩序の一部であり、東亜新秩序の建設は世界旧秩序の破壊を前提とする。この論理は青天に白日を指す如く明かなるに拘らず、此の理想が初めて掲げられしころ、日本のうちには東亜を世界から分離し、唯だ東亜だけの新秩序を実現し得るかの如く空想せる者が多かった。さり乍ら東亜新秩序建設のための最も根本的なる条件は、東亜諸民族が日本と協力提携すること、並に米・英・仏・蘭の勢力を東亜より駆逐することである。東亜を白人の植民地又は半植民地たる現状より解放することが、新秩序建設の第一歩である以上、此等の諸国との衝突は遂に免るべくもない。それ故に日本は、万一の場合に此等の諸国と決戦する覚悟なくして斯かる声明を世界に向って発する道理はない。
事情是くの如くなるが故に、支那事変勃発以来、米英両国は日本に対して包み隠すところなき敵意を示して来た。
而して彼等の日本に対する態度は、事変当初より欧羅巴戦争勃発に至るまでの二年間、欧羅巴戦争勃発より日独伊三国同盟締結に至る期問、及び三国同盟成立以後と、前後三段の変化を示した。第一の期間に於て、彼等は支那に於ける自国権益を飽迄も擁護するため、露骨に重慶を援助して日本に抗戦させた。然るに欧羅巴戦争開始後の第二期に於ては、彼等は能ふべくんば日本を自己の陣営に誘致するため、少くとも独伊陣営に参加させまいために、止むなくんば支那に於ける権益の一部を犠牲にしても、日本の甘心を買はんとせるかに見えた。イギリスのビルマ・ルート遮断はまさしく此の政策の一端である。当時の日本には尚多くの英米依存主義者が居たので、是くの如き米英の策動は甚だ危険なる誘惑であったが、日本は其の策動に乗ることなく、遂に三国同盟の成立を見るに至った。英米の態度は此の条約締結と共に三変し、爾来日本を目するに準敵国を以てし、その重慶援助は俄然として積極的となった。而も米英は、事 に至りても尚且日本が直接欧羅巴戦争に参加することを欲せず、極力之を牽制し、少くも参戦を延期せしめることに腐心したが、勢ひの窮まるところ、遂に大東亜戦争の勃発となった。
わが陸海空の精鋭が、東西南北、到る処に米英軍を粉砕し、開戦以来半年ならずして大東亜共栄圈の基本地域を尽く掌裡に収め、更に之を外域に拡大しつつあることは、実に世界戦史の奇蹟である。是くの如く迅速に、是くの如く偉大なる戦果を挙げようとは、恐らく日本国民の多数さへ予想せざる処なりしを以て、その世界に与へたる衝動、わけても敵国に与へたる驚愕は、深刻にして甚大であった。試みに大東亜戦争勃発直前に於ける重慶の観測を見よ。十一月二十六日の申報は「和平か戦争か」と題する社説に於て、日米相戦へばアメリカが勝利を得ることは百分の百明瞭であると断言して居る。また十二月一日には『日本の動向の検討』と題する社説に於て、日本は四年に瓦る支那事変によって、数十年間に蓄積せる資力を消耗し尽し、其上国際環境は極度に悪化し、対外貿易を喪失して外貨獲得も不可能なる窮地に陥って居るとして、日米戦争に対する日本の無力を高調して居る。重慶は日米交渉に於て日本がアメリカの強硬なる態度の前に屈服を余儀なくされるだらうと見縊って居た。若し万一日本がアメリカに屈服せず、起って相戦ふに至らば、アメリカの武力の下に容易に撃砕されるであらうと信じて居た。而して是くの如きは決して重慶のみのことでなく、アメリカ白身もまた同様に推測し且信じて居た。此の憐れむべき推測と信念とは、今や一朝にして覆された。而も其の敗戦によって、支那の対日抗戦は米英に取りて甚だしく重要性を加へ、今や支那に於ける権益擁護といふが如き消極的意味からでなく、米英自身の興廃といふ切実なる必要上の上から、必死に重慶を支援せねばならなくなった。重慶は此間の消息を熟知するが故に、荐りに米英に向って援助を強要しつつある。唯だ日本の海上制覇が逸早く完成された上に、ビルマ・ルートが閉鎖されたので、是くの如き援助は極めて困難なる状態に陷った。
いま翻って支那事変勃発当時の日本の国情を省みるに、内外共に憂ふべきことが数々あった。支那事変の先駆となれる満洲事変は、満洲帝国の建設、その資源の急速なる開発、交通の飛躍的発展、工業の異常なる発達によって、わが国防力の増強に貢献するところ大なりしとは言へ、従来満洲を緩衝地帯として吾国と相対して居た蘇聯は、今や日満一体となれるために、日本と面々相対峙するに至ったので、蘇聯は急速に東方の軍備を強化して吾が陸軍を凌ぐの勢を示し、浦塩には五十隻の潜水艦を集めて吾が大陸聯絡を脅威し、蘇満国境には紛擾の絶える時がなかった。加ふるに吾が陸軍の軍備拡張は、そのころ漸く五箇年計画が着手されたばかりであり、必要なる重工業並に軍需工業の拡充も未だ成らず、飛行機及び戦車の方面に於て所期の希望を距ること甚だ遠かりしことを思へば、当局の苦心は察するに余りある。而して支那に於ける当時の吾が兵力は、北京天津方面に於て一個師団にも足らぬ僅少の駐屯軍と、上海に少数の海軍特別陸戦隊と、揚子江上に若干の艦船があっただけで、急速に之を援助すべき兵力の準備なく、幾万の居留民は奥地深く散在し、外交機関の引上げさへも容易ならぬ状態であった。もと支那を敵国として大規模なる戦争を行ふことは、軍当局はいざ知らず、国民一般の殆ど予想せざりしところである。国民は支那と戦ふどころか、国民党が日本に対して狂暴化した後でさへ、専ら親善提携を望んで居た。それ故に支那事変は、日本としては戦ひを欲せざる国と、戦ひを欲せざる時に勃発せるものであり、政府が努めて不拡大方針を取らんとしたのも無理ならぬ次第である。
恐らく蔣介石にもまた日本に対して勝算を抱いて居なかった。彼もまた当初は局地解決を望んだことと想像される。
併し乍ら国民党の狂暴焦躁分子は、最早彼の手によって制御すべくもなかった。彼等は英米蘇聯の支援を頼み、彼等にとりて好都合なる資料のみによって日本の国情を誤算し、遂に『抗戦徹底』を叫ぶに至った。想ふに国民党及び彼を支援せる欧米列強は、日本の国力は断じて長期戦に堪へず、三年を出でずして国民生活の逼迫から国内崩壊は必然であると判断して居たであらう。然るに事実は完全に彼等の予想を裏切り、国民は克く一切の経済的困苦を克服し来れるのみならず、支那事変の刺戟によって、飛行機・戦車其他作戦資材の整備が飛躍的に促進された為に、陸海軍の戦闘力は驚嘆すべき躍進を示した。加ふるに長期に亙る戦争の間に、兵士の訓練にも兵器の改良にも、深甚なる工夫が凝らされた。或は厳冬蒙古の原野に、或は炎熱南支の山嶽に、或は湿地に、或は密林に、一切の時節と場所に於て作戦上の最も貴重なる経験を積んだ。それ故に重慶及び米英が、日本の国力は最早疲弊し果てて、新に強敵と戦ふ勇気を失ったであらうと想像せる五年の長期戦が、実は却って日本を空前に強力なる国家たらしめ、一旦大東亜戦争の勃発を見るや、古今東西に比類なき武威を発揮することができた。かくて支那事変は、一面に於て最も悲しむべき出来事であったと同時に、他面に於て大なる利益を日本に与へ、東亜全面より米英勢力を駆逐する覚悟と、この覚悟を決行するに足る武力を養はしめることとなった。
若し是が清朝末期又は軍閥時代の支那であったならば、恐らく南京陥落の後に、然らずば漢口・広東を失った時に支那は早くも吾が軍門に降ったことであらう。然るに戦へば必ず敗れながら前後七年に亙りて抗戦を続け、殊に大東亜戦争半年の戦果を目睹して、日本の武力の絶対的優越を十二分に認識せるに拘らず、また其の最も頼みとせる米英の援助が殆ど期待し難くなれるに拘らず、尚且抗戦を止めんとせざるところに、吾等は此の四半世紀に於ける支那の非常なる変化を認めねばならぬ。若し日本が現在の支那を以て、清朝末期又は軍閥時代の支那と同一視して居るならば、直ちに其の認識を更めねばならぬ。
日支両国は何時までも戦ひ続けねばならぬのか。これ実に国民総体の深き嘆きである。普通の常識を以てしても、日支両国は相和して手を握れば測り知れぬ利益あり、戦って相争へば百害がある。わけても世界史の此の偉大なる転換期に於て、若し両国が和衷協力するならば、亜細亜の事、手に唾して成るであらう。いま日支両国が復興亜細亜の大義によって相結び、その実現のために手を携へて起つとすれば、印度また直ちに吾に呼応し、玆 に独自の生活と理想とを有する大東亜圈の建設が、順風に帆を挙げて進行するであらう。
然るに現実は甚だしく吾等の理想と相反する。もとより南京政府は既に樹立せられ、汪精衛(汪 兆銘)氏以下の諸君は、興亜の戦に於て吾等と異体同心であり、進んで大東亜戦争に参加するに至ったのではあるが、支那国民の多数は其の心の底に於て尚ほ蒋政権を指導者と仰いで、反日・抗日の感情を昂めつつある。かくして日本は、味方たるべき支那と戦ひ乍ら、同時に亜細亜の強敵たる米英と戦はねばならる破目になって居る。
大東亜戦争当面の目的は、大東亜地区より米英其他の敵性勢力を掃蕩することにあり、其次に来るものは大東亜秩序の確立であるが、そのための絶対的条件をなすものは支那事変の処理即ち支那との和衷協力である。此事は今後戦線が如何に拡大されようが、また其の戦果が如何に偉大であらうとも、決して変るまじき順序である。支那事変が処理せられざる限り、米英の抗戦力が如何に弱り、如何に低くならうとも、大東亜戦争は決して有終の美をなすことが出来ぬ。
さて日独伊三国同盟が結ばれたころから、支那事変は世界戦争の連環の一つであり、従って是くの如きものとして解決せらるべきものであるとの主張が、いろいろなる方面から唱へられ初めた。此の主義は半ば正しく、半ば誤まって居る。即ち支那事変は単に日支両国だけの関係に於て考ふべきものでなく、事変の背後には有力なる第三国が、日本を敵として東洋制覇の野心を抱き、あらゆる術策を逞しくして来たので、事変の進展如何によっては、遂に其の第三国とも、具体的に言へば英米とも一戦せねばならぬことを認識するものとして、この主張は正しくある。而して現に事変は対米英戦争にまで発展した。併し乍ら其故に支那事変は、世界戦争の一連鎖として、世界戦争そのものの処理と共に解決せらるべきものとする意見は、吾等の決して首肯し得ざるところである。
日支両国の間に第三国の介在せることが、従来常に両国の溝を深くせることは、歴史の示すところ最も明白である。日清戦争に於ける三国干渉は言ふまでもなく、第一次世界戦争に際しても、支那は日本と共に聯合国側に参戦し与国として戦へるに拘らず、欧米勢力を有力なる決定者として日支両国の間に介在させたので、両国の親善友好を増す代りに、反って反目敵意を助長した。満洲事変に際しても、支那は日本との談合を避けて終始英米に泣訴したため一層問題を紛糾させた。支那事変は欧羅巴戦争に先ちて、日支両国の間に起れる悲劇である。その解決は決して第三国の介入を許さず、両国直接の折衝によって解決せねばならぬ。加ふるに大東亜戦争は、事実によって支那事変の性格を一変し、之を以て東亜に於ける一個の内乱たるに至らしめた。吾等は一刻も早く此の内乱を鎮定してこそ、初めて大東亜戦争の完遂を期し得るのである。
曽て第一次世界大戦に当り、大隈内閣の所謂二十一箇条要求が、甚だしく支那を憤激せしめた。而も此の要求は、支那の保全を本願とせるものであり、此の条約にして一たび締結される以上、世界の如何なる国家と雖も最早日本と一戦を交へる覚悟なくしては、支那沿岸の一寸一尺の土地をも奪ひ得ぬこととなる。それ故に条約の精神は明白に亜細亜復興の要件なりしに拘らず、之を因縁として支那の排日運動は、年々広汎深刻を加へ、それが満洲にまで波及せるため、遂に満州事変の発生を見るに至った。而して日本は既に述べたる如く、此の事変によって其の誤れる進路を改め、維新精神に復帰して亜細亜解放の戦士たる覚悟を決着し、支那との間にも従前にまさりて緊密なる肉親的結合を再建せんと努めたのである。是くの如き日本の精神と理想とは、対米英宣戦によって火の如く瞭然となれるに拘らず、蒋政権が今尚ほ亜細亜共同の敵と相結んで、興亜の大義を蹂躪しつつあることは、真に痛恨無限と言はねばならぬ。
而も今より八十年以前、日本が其の国民的統一のために奮起せる当時を回顧せよ。ロシアは対馬の租借を迫り、アメリカは開国を強要し、フランスは其のメキシコ政策の失敗を東亜に於て回償せんとし、イギリスは貪婪の爪を磨いで近海に出没し、日本の運命累卵よりも危かりし時、薩長両勢力は不倶戴天の敵の如く柤争って居た。いま日本がアングロ・サキソン世界幕府を倒して亜細亜復興のために獅子奮迅する時、日支両国は曽て薩長が相争へる如く相争って居る。支那の国民党には明治維新の研究者多く、蔣介石自身もまた其の研究に大なる興味を持ったと言はれて居る。若し彼等にして明治維新の精神を真個に把握し得たならば、日本に対して沙汰の限りなる狂暴を敢てし、十年の建設を一朝にして空無に帰せしむるが如きことなかったであらう。さり乍ら維新精神の継承者が明白に自覚し誠実にその実現に努力し来れる日本の国家的統一と支那の革新、此の両者の堅き結合による亜細亜復興は、両国共同の宿命的課題なるが故に、やがては正しく解決されるであらう。唯だ吾等は其の解決の一日一刻も速かならんことを切願して止まない。
佐藤信淵が欧羅巴列強わけてもイギリスの東亜侵略に備へるための国防を強調せる『防海余論』『呑海肇基論』『存華挫狄論』の三著は、彼が八十一歳の高齢に達しながら、日本の現在及が将来を『慷慨善思』して筆執り、之を安濃津侯に献ぜんとせるものである。而も其子信昭が「不肖此書を一見するに。実に是れ世界を混同し、万邦を統一するの大議論にて、八十老翁の壮心感伏に堪たり。然りと雖も家厳は草間の小父なり、卑賤にして如此の大議論を為す者は、往々不測の大患に遇ふ。……且又此書世上に漏らば、或は越爼の刑あらんことを畏る。願くは固く辞して此書を献ずること勿れ』と諫め、実に『書を抱いて悲泣連日』に及んだので、遂に之を焼棄てたと信淵自身が述べて居る。その草稿が幸に家に伝へられ、写本として坊間にも流布した。彼は此年の初秋より健康頓に衰へて、身を病床に横へるに至り、食を摂り難きこと三箇月に及べるに拘らず、酒を以て飯に代へながら『在華挫狄論』の稿を床中に改め、翌嘉永三年正月六日、つひに八十二歳の長き生涯を終へたのである。爾来春風秋雨百年、いま『在華挫狄』の日が到来したのだ。
大東亜秩序建設は、亜細亜的規模に於て行はれる第二維新である。そは慘怛たる経営に終生を託して、一身を国事に倒したる幾多先輩の志業を完うするものである。天上に物見人多し、幽魂みな還現する。後代に志士あり、長く当年に鑑みんとする。吾等は必ず此の大業を成就せねばならぬ。
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日本改造法案大綱(北一輝著)
●ここで、2・26事件の青年将校たちの思想的根拠となった「北一輝」の「日本改造法案大綱」の最初の部分を引用してみる。クーデターを実行するべきと言っているようである。
「国家改造論策集 内務省警保局保安課 1935年刊 「日本改造法案大綱」 北一輝著」
緒言
今や大日本帝國は内憂外患竝び到らんとする有史未曾有の国難に臨めり。國民の大多数は生活の不安に襲はれて一に歐洲諸國破壊の跡を學ばんとし、政權軍權財權を私せる者は只龍袖に隂(かく)れて惶々(こうこう=おそれるさま)其不義を維持せんとす。而して外、英米獨露悉く信を傷けざるものなく、日露戦争を以て漸く保全を與へたる隣邦支那すら酬ゆるに却て排侮を以てす。眞に東海粟島の孤立。一歩を誤らば宗祖の建國を一空せしめ危機誠に幕末維新の内憂外患を再現し來れり

只天佑六千萬同胞の上に炳(へい=明らかであるさま)たり。日本國民は須らく、國家存立の大義と國民平等の人權とに深甚なる理解を把握し、内外思想の淸濁を判別採捨するに一點の過誤なかるべし。歐洲諸國の大戦は天其の驕侈(きょうし=おごりたかぶること)亂倫(らんりん=人としての道理を乱すこと)を罰するに「ノア」の洪水を以てしたるもの。大破壊の後に狂亂狼狽する者に完備せる建築圖を求む可らざるは勿論の事。之と相反して、我が日本は彼に於て破壊の五ケ年を充實の五ヶ年として恵まれたり。彼は再建を云ふべく我は改造に進むべし。全日本國民は心を冷かにして天の賞罰斯くの如く異なる所以の根本より考察して、如何に大日本帝國を改造すべきかの大本を確立し、「舉國一人の非議なき國論を定め、全日本國民の大同團結を以て終に」天皇大權の發動を奏請し、天皇を奉じて速かに國家改造の根基を完うせざるべからず。
支那印度七億の同胞は實に我が扶導擁護を外にして自立の途なし。我が日本亦五十年間に二倍せし人口増加率によりて百年後少くも二億四五千萬人を養ふべき大領土を餘儀なくせらる。國家の百年は一人の百日に等し。此の餘儀なき明日を憂ひ彼の悽惨たる隣邦を悲しむ者、如何ぞ直譯社曾主義者流の巾幗(きんかく=女性・めめしさ)的平和論に安んずるを得べき。階級闘争による社會進化は敢て之を否まず。而も人類歴史ありて以來の民族競争國家競争に眼を蔽ひて何の所謂科學的ぞ。歐米革命論の權威等悉く其の淺薄皮相の晢學に立脚して終に「劒の福音」を悟得する能はざる時、高遠なる亞細亞文明の希臘(ギリシャ)は率先其れ自らの精神に築かれたる國家改造を終ると共に、亞細亞聯盟の義旗を飜して眞個(しんこ=まこと)到來すべき世界聯邦の牛耳を把り(ぎゅうじをとり=同盟の盟主になる)、以て四海同胞皆是佛子の天道を宣布して東西に其の範を垂るべし。国家の武装を忌む者の如き其の智見終に幼童の類のみ。
日本改造法案大綱
卷一 國民の天皇
憲法停止
天皇は全日本國民と共に國家改造の根基を定めんが爲めに天皇大權の發動によりて三年間憲法を停止し兩院を解散し全國に戒厳令を布く。
註一。 權力が非常の場合有害なる言論又は投票を無し得るは論なし。如何なる憲法をも議會をも絶對視するは英米の教權的「デモクラシー」の直譯なり。是れ「デモクラシー」の本面目を蔽ふ保守頭迷の者、其の笑ふべき程度に於て日本の國體を説明するに高天ヶ原的論法を以てするものあると同じ。海軍擴張案の討議に於て東郷大将の一票が醜惡代議士の三票より價値なく、社會政策の採決に於て「カルヽマルクス」の一票が大倉喜八郎(大倉財閥)の七票より不義なりと云ふ能はず。由來投票政治は數に絶對の價値を附して質が其れ以上に價値を認めらるべき者なるを無視したる舊時代の制度を傳統的に維持せるに過ぎず。
註二。 「クーデター」を保守専制の爲めの權力濫用と速斷する者は歴史を無視する者なり。奈翁(なおう=ナポレオン)が保守的分子と妥協せざりし純革命的時代に於て「クーデター」は議會と新聞の大多敷が王朝政治を復活せんとする分子に満てたるを以て革命遂行の唯一道程として行ひたる者。又現時露國(ろこく=ロシア)革命に於て「レニン」が機關銃を向けて妨害的勢力の充満する議會を解散したる事例に見るも「クーデター」を保守的權力者の所爲と考ふるは甚しき俗見なり。
註三。 「クーデター」は國家權力則ち社會意志の直接的發動と見るべし。其の進歩的なる者に就きて見るも國民の團集(だんしゅう=寄り集まること)其の者に現はるることあり。奈翁「レニン」の如き政權者によりて現はるることあり。日本の改造に於ては必ず國民の團集と元首との合體による權力の發動たらざるべからず。
註四。 両院を解散するの必要は其れに據る貴族と富豪階級が此の改造決行に於て、天皇及國民と両立せざるを以てなり。憲法を停止するの必要は彼等が其の保護を將に一掃せんとする現行法律に求むるを以てなり。戒厳令を布く必要は彼等の反抗的行動を彈壓するに最も拘束せられざる國家の自由を要するを以てなり。
而して無智半解の革命論を直譯して此の改造を妨ぐる言動を爲すものの彈壓をも含む。
天皇の原義
天皇は國民の總代表たり、國家の根柱たるの原理主義を明かにす。此の理義を明かにせんが爲に神武國祖の創業明治大帝の革命に則りて宮中の一新を圖り、現時の樞密顧問官其他の官吏を罷免し以て天皇を補任し得べき器を廣く天下に求む。
天皇を補佐すべき顧問院を設く。顧問院議員は天皇に任命せられ其の人員を五十名とす。
顧問院議員は内閣會議の決議及議會の不信任決議に對して天皇に辭表を捧呈すべし。但し内閣及議會に對して責任を負ふものにあらず。
註一。 日本の國體は三段の進化をなせるを以て天皇の意義又三段の進化をなせり。第一期は藤原氏より平氏の過渡期に至る専制君主國時代なり。此間理論上天皇は凡ての土地と人民とを私有財産として所有し生殺與奪の權を有したり。第二期は源氏より徳川氏に至るまでの貴族國時代なり。此間は各地の群雄又は諸侯が各其の範圍に於て土地と人民とを私有し其上に君臨したる幾多の小國家小君主として交戦し聯盟したるものなり。從て天皇は第一期の意義に代ふるに、此等小君主の盟主たる幕府に光榮を加冠する羅馬(ローマ)法王として、國民信仰の傳統的中心としての意義を以てしたり。此進化は歐洲中世史の諸侯國神聖皇帝羅馬法王と符節を合する如し。第三期は武士と人民との人格的覺醒によりて各その君主たる將軍又は諸侯の私有より解放されんとしたる維新革命に始まれる民主國時代なり。此時よりの天皇は純然たる政治的中心の意義を有し、此の國民運動の指揮者たりし以来現代民主國の總代表として國家を代表する者なり。即ち維新革命以來の日本は天皇を政治的中心としたる近代的民主國なり。何ぞ我に乏しき者なるかの如く彼の「デモクラシー」の直譯輸入の要あらんや。此の歴史と現代とを理解せざる頑迷國體論者と歐米崇拝者との爭闘は實に非常なる不祥を天皇と國民との問に爆發せしむる者なり。兩者の救ふべからざる迷妄を戒しむ。
註二。 國民の総代者が投票當選者たる制度の國家が或る特異なる一人たる制度の國より優越なりと考ふる「デモクラシー」は全く科學的根據なし。國家は各々其の国民精神と建國歴史を異にす。民國八年までの支那が前者たる理由によりて後者たる白耳義(ベルギー)より合理的なりと言ふ能はず。
米人の「デモクラシー」とは?會は個人の自由意志による自由契約に成ると云ひし當時の幼稚極まる時代思想によりて、各歐洲本國より離脱したる個々人が村落的結合をなして國を建てたる者なり。其の投票神權説は當時の帝王神權説を反對方面より表現したる低能晢學なり。日本は斯る建國にも非ず、又低能哲學に支配されたる時代もなし。國家の元首が賣名的多辯を弄し下級俳優の如き身振を晒して當選を爭ふ制度は、沈默は金なりを信條とし謙遜の美徳を教養せられたる日本民族に取りては一に奇異なる風俗として傍観すれば足る。
註三。 現代の宮中は中世的弊習を復活したる上に歐洲の皇室に殘存せる別個の其等を加へて、實に國祖建國の精神たる平等の國民の上の總司令者を遠ざかること甚し。明治大帝の革命は此の精神を再現して近代化せる者。從て同時に宮中の廓淸を決行したり。之を再びする必要は國家組織を根本的に改造する時獨り宮中の建築をのみ傾柱壞壁のままに委する能はざればなり。
註四。 顧問院議員が内閣又は議會の決議によりて弾劾せらるる制度の必要は、天皇の補佐を任とする理由によりて専恣(せんし=ほしいままにすること)を働く者多き現状に鑑みてなり。樞密院諸氏の頑迷と專恣とは革命前の露國宮廷と大差なし。
天皇に累する者は凡て此の徒なり。
華族制廢止
華族制を廢止し、天皇と國民とを阻隔し來れる藩屏(はんぺい=おおい防ぐ垣根)を撤去して明治維新の精神を明にす。
貴族院を廢止して審議院を置き衆議院の決議を審議せしむ。
審議院は一囘を限りとして衆議院の決議を短否するを得。審議院議員は各種の勳功者間の互選及勅選による。
註一。 貴族政治を覆滅したる維新革命は徹底的に遂行せられて貴族の領地をも解決したること、當時の一佛國を例外としたる欧洲の各國が依然中世的領土を處分する能はざりしよりも百歩を進めたるものなりき。然るに大西郷等革命精神體現者世を去ると共に單に附随的に行動したる伊藤博文等は、進みたる我を解せずして後れたる彼等の貴族的中世的特權の殘存せるものを模倣して輸入したり。華族制を廢止するは歐洲の直譯制度を棄てて維新革命の本来に返へる者。我の短所なりと考へて新なる長を學ぶ者と速斷すべからず。既に彼等の或者より進みたる民主國なり。
註二。 二院制の一院制より過誤少なき所以は輿論が甚だ多くの場合に於て感情的雷同的瞬間的なるを以てなり。
上院が中世的遺物を以てせず各方面の勳功者を以て組織せらるる所以。
*リンクします「日本改造法案大綱」 北一輝著」→
●翌年、北一輝・西田税に死刑判決が下った。新聞は昭和12年(1937年)8月14日の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」昭和49年朝日新聞社発行
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★帝国陸海軍の統帥権思想と統帥権干犯。4-4
統帥権干犯とはどういう意味か。この統帥権の問題については、新陸軍読本と海軍読本から陸海軍の統帥権のところを抜き出してみる。陸海軍の主張する「統帥権」の意味がわかる。軍部は政府に対して、「政府は第1次ロンドン会議で、天皇の大権である兵力量を勝手に外国と決めた」ことを「統帥権干犯」と主張した。だが「満州事変の際、関東軍は天皇の命令を待たず軍事行動を起こし、かつ朝鮮総督は朝鮮軍を命令を受けずに勝手に越境させた」。この方が「統帥権干犯」であることは明白である。

帝国陸海軍の統帥権思想
●下の陸海軍の「統帥権」について読むと、ポイントは軍に対する「統帥権」とは独立したものであり、『国家の主権者親(みずか)ら統帥権を施行するのを本則』であるとして天皇だけが「統帥権」を持っているとした。これを言いかえれば、軍は天皇にしか従わないといっているのである。海軍はもっとはっきりと『帝国海軍は、行政機関たる政府、又は立法機関たる議会から、指揮、命令、干渉を受けない。帝国海軍を指揮命令し得るものは、時の平戦を問はず、たゞ 大元帥陛下の統帥大権あるのみである。海軍の用兵作戦は何者の干渉をも許さない。』といっているのである。
●だが天皇の「統帥権」を干犯したのは軍自体であろう。
「大日本帝国憲法」には次のように書かれている(一部抜粋)。
第1章 天皇(てんのう)
第1条大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之ヲ統治ス
第3条天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス
第4条天皇ハ国ノ元首(げんしゅ)ニシテ統治権(とうちけん=国家を統治する大権。国土・人民を支配する権利。主権)ヲ総攬(そうらん=政事・人心などを、一手に掌握すること)シ此ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依リ之ヲ行フ
第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス
第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(じょうびへいがく)ヲ定ム
第13条天皇ハ戦(たたかい)ヲ宣(せん)シ和ヲ講(こう)シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
新陸軍読本から「統帥権の帰属」の部分
「第二 建軍の樣式と兵役制度」より「統帥権の帰属」
各国の軍隊成立の要素の中で最重要なものは統帥権の所在と兵役制度であります。国防上軍の存在することが絶対不可欠でありますから、此の軍を統率し指揮運用する統帥権は独立不羈
(どくりつふき=他から制御されないで自己の所信で事に処すること。また、そのさま。)、他の要因に依って影響されることなく存在することと徴兵制度の施行が絶対に必要となります。
我が国は萬邦無比の神聖なる国体に基いて此の統帥権の不羈独立と徴兵制度を確立し、世界に比類のない軍制を確立しているのであります。
一 統帥権の帰属

統帥権とは軍を統率し指揮運用する大権を云うのであります。且つ此の統帥の実行は迅速果敢なことを絶対に必要とし、又軍を如何に指揮運用するかは絶対に機密を必要としますから、一度実行に移された後、此の軍の指揮運用を訂正し變更すると云う事は多くの場合不可能なのであります。此の故に各国共その国家の主権者親(みずか)ら統帥権を施行するのを本則としています。若しこれを合議制に依るものとすれば、統帥権を実行する迄に多くの時間と労力を要し秘密を保つことは困難となり、その上機に臨んで神速に処置することは到底希(のぞ)むことが出来ません。且つ統帥権の施行は全軍の将兵を真心から服従させるに足る希望と権威とを併せ有つ統帥者に依って行はれることを必要としますために、各国共唯一最高の意志である主権者が親(みずか)らこれを行うものであり、その上統帥は一般国務の外にあって完全に独立し他より影響を受くることなく果敢に断行されることを必要とします。
然し乍ら列強中には統帥部を一般国務機関の中に置いているものもあるのであります。これはその国情及因習に依るものであって完全な統帥の運用とは云い得ないのであります。第一次大戦に於ける苦き経験は英国の参謀本部を陸軍省から分離独立させようと建議したように、英米仏等の諸国の統帥の運用は我が国の独立不羈なのに比べて非常に煩わされ勝ちであります。
第一次大戦の初期に於て連合軍の敗色濃厚となりましたのも、此の統帥権の確立がなく、各国事情に煩わされ勝ちであったため、果敢な作戦の遂行が不可能であったが為で、フォッシュ元帥が最高指揮官となり統帥部を独立してから、初めて神速な作戦と機敏な軍の運用指揮が出来、連合軍を勝利に導いたものと言はれています。又今次の大戦に於て北仏戦線の英仏連合軍の有史以来の惨敗は政治が統帥権を干犯した故に生じたものとして特記するに値します。
仏国(フランス)の伝統的作戦はマヂノ線の延長である北仏とベルギーとの国境を堅固に守備し、此処で独逸(ドイツ)の大部隊の攻撃を頓挫せしめるにありました。然し乍ら独逸軍の果敢なる進撃は一日にしてルクセンブルグを陥し、数日ならずして和蘭(オランダ)を席捲し今やベルギーをも同じ運命に陥れんとした時、英国政府は英本土防衛のためベルギー海岸を独逸軍に掌握せらるることを恐れて、仏国政府に仏軍主力のベルギー進入を強要したのであります。英国の属国の如き観を呈して居りました仏国政府としましては、ベルギー進入が仏国自体を窮地に追い込むこととは知りつつも、英国の強要のもとに遂に屈服し、レイノー仏首相は精鋭な仏軍主力を北仏よりベルギーに進入させたのであります。此の瞬間既に独逸軍の攻撃に惨敗しなければならない最大の原因が横っていたと云はなければなりません。5月21日レイノー首相が上院に於て軍弾劾の悲壮なる演説をしましたが、弾劾されるものは仏軍隊に非ずして、英国政府の強要の前に屈服し、統帥権を犯し軍の作戦を襲断したレイノー首相彼自身でなければならなかったのです。
斯くの如く統帥権の干犯こそは最も戒(いまし)むべきものであって、作戦及び軍の運用が政治に依って自由に動かされる時こそ、敗北は常に其の傍(かたわら)にあると云はねばなりません。
唯此処に注意しなければならない事は、国粋運動の下に起った独逸及び伊太利と革命に依って建設されたソ連邦の全体主義国家の政治組織であります。是等の国家は一国一党であり寡頭強力な政治組織自体が統帥に必要な実行力を示しているのであって、威力あるこれ等の政府首脳部に統率せられる軍隊は、事実上不羈独立の統帥に依るものと云はねばなりません。
「新陸軍読本」武田謙二 著 高山書院 昭和15年(1940年)刊

「海軍読本. 第20号」の統帥権の独立不可侵の部分
第7 帝国海軍の組織
一 統帥権の独立不可侵
天皇の海軍
建国の初、天皇定って日本国家あり、これ我が国体の大本であって、天壌とともに窮(きわま)りなく、天皇は日本国家と一体たること萬世に亙(わた)って不動である。
(注:天壌無窮=てんじょうむきゅう=天地とともにきわまりのないこと。永遠に続くこと。)
抑〃(そもそも)国軍の使命は、一に国家生命の独立を主張し、防衛して、以て国と国と対立するの間、我が国の由って立つの国是を遂行するにある。
されば国家を離れて国軍なく、天皇を離れて皇軍なし。
天皇は親ら国軍を統帥し給う。 これ神武肇国
(ちょうこく=新しく、国家をたてること。建国。)の厳然たる事実であり、祖宗(そそう)の御制であって、帝国憲法が、第11條に於て「天皇は陸海軍を統帥す」と統帥大権を明らかにした所以である。

故に帝国海軍は 大元帥陛下の海軍である。海軍軍制の生命は統帥大権の独立神聖にある。帝国海軍の組織編制は、大元帥陛下の統帥大権を一系の法規的な骨組として、建立せられたものに外ならない。
而して 天皇の大権は、申すまでもなく、天照大紳に発する大権を代々御継承になったものであり、永遠に絶対にして神聖である。
この故に帝国海軍は、行政機関たる政府、又は立法機関たる議会から、指揮、命令、干渉を受けない。
帝国海軍を指揮命令し得るものは、時の平戦を問はず、たゞ 大元帥陛下の統帥大権あるのみである。海軍の用兵作戦は何者の干渉をも許さない。
軍隊に於ける総ての命令は、上は元帥の命令より下は一兵卒の命令に至るまで、皆その源を 天皇の統帥大権に発している。 すなはち 天皇の大権を一系の骨組とする組織編制中に在って、各級軍人が其の地位と職責に附随して有するところの命令権は、即ち統帥大権の一部を行使する絶対且神聖なる権能である。
さればこそ戦に臨んで、各級指揮者は統帥の目的の為には自らを犠牲とすると同時に、其の部下を駆って水火の中にも躍り入らしむることを得るの権能を有するのである。即ち一個の人間としては持つことを許されない人命の生殺与奪の権を統帥大権を通して神から授けられているのである。
故に此の神聖なる統帥権を行使するに當って、統帥者は、たゞ至誠(しせい=きわめて誠実なこと。まごごろ。)、神に通ずる至誠を以てし、秋毫(しゅうごう=きわめて微細なこと。わずかなこと。)の私心あることを許さるべきでない。
彼の「一将功成って萬骨枯る」と謂ふやうな不純な思想は、我が国の軍隊に関する限り断じて有り得べからざる所である。
畏くも 明治天皇は、明治38年5月27日、日本海海戦の大捷(たいしょう=大勝利)を聞召されて、「聯合艦隊は敵艦隊を朝鮮海峡に激撃し奮戦数日遂に之を殲滅して空前の偉功を奏したり 朕は汝等の忠烈により祖宗の神霊に対(こた)うるを得るを懌(よろこ)ぶ 惟ふに前途は尚遼遠なり汝等愈(いよい)よ奮励して以て戦果を全うせよ」と仰せられ、最高の統帥者で在らせられる陛下は先づ祖宗の神霊に皇軍の戦捷を誥げ給う。東郷提督はこれに奉答して、「日本海の戦捷に対し特に優渥(ゆうあく)なる勅語を賜はり臣等感激の至りに堪へず此海戦予期以上の成果を見るに至りたるは 陛下御稜威(りょうい=天子の威光)の普及及び歴代神霊の加護に依るものにして因より人為の能くすべき所にあらず臣等唯益々奮励して犬馬の老を尽し以て皇謨(こうぼ=天皇の国家統治のはかりごと)を翼成(よくせい=助けてなしとげること。)せんことを期す」と誓ひまつった。
東郷提督が、皇国の興廢を此一戦に賭して全軍を指揮せるの時、既に一個の東郷なく、神人合一の境地、満身是至誠の権化であった。聖将東郷としては、彼の千古未曾有の大捷を以て、真に「御稜威の普及 及び歴代神霊の加護」と仰ぎまつるより外に言葉を知らなかったのである。
噫(ああ)、陛下の軍隊、天皇の海軍、世界の何処に類例が見出されよう。
外国に於ては、政府又は議会が、国軍の統帥に干渉した為に、用兵作戦上に齟齬支障を来し、延いて敗戦の因を成した実例は尠くない。世界大戦の初期イギリス海軍が文官海軍大臣チャーチルの作戦容喙(ようかい=横から口を差しはさむこと。)に悩まされ、又ドイツ海軍が政府の圧迫に依って、其の潜水艦戦を龍頭蛇尾に終らしめたことは顕著なる事例である。
国軍の機能を完全に発揮させる為には、統帥権の独立不可侵は絶対に必要であり、之なきところ、軍隊の行動は到底萎縮することを免れない。
故に我が国の陸海軍は、祖宗の御制に遵い、大元帥陛下の軍隊として、統帥の神聖を、永遠に憲法によって明かにされて居るのである。 かくの如き我が国の軍制は世界列強の斉(ひと)しく羨望措く能はざる所であるが、是其の源を 天津日嗣(あまつひつぎ=天照大神の系統を継承すること。)の大権に発し、萬邦無比なる我が国体の精華の然らしむる所、世界列強の摸倣追随を永劫に許さない。
統帥権と編制権
統帥の目的が、国軍の使命を完全に遂行せしむるにある以上、統帥権が独立していても、用兵作戦の実行に必要なだけの兵力がなければ、統帥権の独立は無意味である。
此の故に憲法は統帥のみならず、これと離るべからざる陸海軍の編制及び常備兵額を定むるもまた 至尊の大権に属せしめ、以て 天皇の陸海軍たるの趣旨を徹底している。
憲法第12條に「天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む」と規定して編制大権を明らかにして居る。此の大権は国務大臣たる陸海軍大臣が輔弼の実に任ずるのである。
帝国憲法の草案者たる伊藤博文公は、不朽の名著「憲法義解」の中に「本條(第12條)は陸海軍の編制及常備兵額も亦 天皇の親裁する所なることを示す、此れ固より責任大臣の輔翼に依ると雖も、帷幄の軍令(第11條)と均しく、至尊の大権に属すべくして、而して議会の干渉を須(ま)たざるなり」と明言して居る。これは実に伊藤公が憲法の草案者たる重大なる責任感から、永遠に帝国憲法の大生命を主張して已まざる不朽不滅の文字である。
統帥大権と編制大権とが同心一体となってこそ初めて統帥の目的とする国軍の機能を完全に発揮させることが出来るのである。故に軍政と作戦計画とは離れたものであってはならない。
内閣官制第7條に「事の軍機軍令に係り奏上するものは 天皇の旨に依り之を内閣に下附せらるゝの件を除くの外、陸軍大臣、海軍大臣より内閣総理大臣に報告すべし」とあるのは兵権独立の意味を明らかにしたものである。即ち軍機軍令に関する限り、陸海軍大臣は内閣総理大臣を経ずして帷幄上奏を行ふのである。こゝに我が陸海軍大臣独自の立場がある。
(注:帷幄上奏(いあくじょうそう= 明治憲法下、一般の国務外におかれた軍の指揮・統帥に関する事項について、統帥機関たる参謀総長(陸軍)・軍令部総長(海軍)、が閣議を経ずに直接天皇に上奏すること。)
皇軍の獨立と政府及び議会
統帥権と編制権とは共に 天皇の大権に属するとはいえ、政府及び議会が無視されるものではない。
すなわち国防計画竝に兵力量の決定は、大元帥陛下からこれを帷幄の幕僚長である参謀総長及び軍令部総長に起案を命ぜられ、立案の上は内閣総理大臣に諮問あらせられるのである。而して立法機関たる議会は、軍事予算に関して予算決定権を持っているのである。
かくして皇軍の軍制は、最も理想的な形態内容を完備して、萬邦無比と讃へられ、過去数次の戦役に於ても、帷幄機関と行政・立法機関は、天皇の下に一致団結して、よく戦争目的を達成したのである。
統帥権の独立神聖と編制権の特殊性は永遠に保たれなければならぬ。国軍はこれに依って其の使命を完全に遂行することが出来、帝国海軍はこれに依って、輝く歴史と伝統とを永遠に全うすることが出来るのである。 日本国民たるものは、常に皇国の国体と建軍の本義を忘却することなく、統帥権の独立を擁護し、
皇軍をして永遠に光輝あらしめよ。
帝国海軍をして永久に光栄あらしめよ。
「海軍読本. 第20号」阿部信夫 著 海軍省海軍軍事普及部 昭14(1939年)
