(14世紀頃まで)朝鮮(古代~高麗王朝時代)

2022年6月24日日本・中国・朝鮮

日本と「韓国・北朝鮮」は古代より関係が深く、互いに重層する歴史を持っている。
 他国の歴史について日本人がとやかく言う必要はないことだが、日本と「韓国・北朝鮮」は古代より関係が深く、互いに重層する歴史をもっている。そしてそれが故に、現代においてもナショナリズム(民族主義・国家主義・国粋主義など)が絡み合い、一つの事件に対する歴史的評価すらも、異なったものになっている。
 だが古代史において、7世紀(660年代~)は日本と朝鮮にとって特筆される時代であると思う。唐と新羅によって百済が滅亡(660年)すると、百済の復興を援助する日本が、白村江の戦で唐・新羅に大敗(663年10月)する。続いて唐と新羅は、高句麗を滅ぼし(668年10月)、その結果、新羅が朝鮮半島を統一した。(676年)。
 日本は、この朝鮮半島の動乱によって、百済、高句麗から多くの亡命者を受け入れ、政治的にも文化的にも大きな影響を受けた。この7世紀は日本にとっても重要な世紀であると考えられる。
 中国では「唐」が成立し、朝鮮半島は「新羅」によって統一され、日本列島(倭国)では、「日本」という国号をもつ王権が成立した。「日本」の誕生である。

★下地図をみて直感的にわかることだが、朝鮮半島と真正面に位置しているのは、対馬を中間において北九州である。そして朝鮮半島側では、古来日本と関係が深かったのが、加羅(加耶)諸国(=6世紀に新羅に滅ぼされる)である。日本では加羅諸国を「任那」と総称した。

年表は、中国・朝鮮・日本の略年表。(出典:『日本の中の朝鮮文化』金達寿(キム タルス)講談社2001年刊)。また地図は、カタカナで発音を書いたもの。(出典)『朝鮮の歴史(新版)』

日本列島は孤立していたわけではない。

 注意すべき点は、日本列島は縄文の昔から海に囲まれた島国で孤立し、自給自足の閉鎖的農業(稲作)社会だった、と考えてはいけない。何故ならその稲作自体も、朝鮮半島あるいは中国から伝播してきたからである。その伝播も日本では当初より水稲栽培であったといわれる。このことは重要なことで、水稲栽培を行うということは高度な技術、用具そして集団の力が必要だということであり、単に稲だけが来たわけではない。農業を含めた経済(社会の基盤)という面からも理解が進めば、古代史もより興味ぶかいものとなるだろう。

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紀元前・旧石器文化~青銅器文化

 ここでは、「朝鮮の歴史(新版)・三省堂1995年」の年表を中心に記述し、日本との関係の深いポイントを書き出してみた。また「古代朝鮮・井上秀雄・講談社2004年」「日本の歴史1・神話から歴史へ・井上光貞・中公文庫改版7刷2014年刊」「日本の時代史・吉川弘文館2002年」「日本古代の歴史1『倭国のなりたち』・吉川弘文館2013年」などからも、要約抜粋した。特に日本と朝鮮の古代史は、日本の国家誕生に関わる、神話と歴史が交錯する重要な部分である。

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文献資料一覧

 ここで、押さえておくべき文献資料などを一覧にしておく。特に三国志は著名だが、この3国とは、「魏・呉・蜀」をいう。そして「邪馬台国」が書かれているのは、3国の中の、魏志の中の「烏丸伝・鮮卑伝・東夷伝」とあるうちの東夷伝の中である。さらにこの東夷伝のなかの、「夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓(馬韓、弁韓、辰韓)・倭人」とあるうちの「倭人の条」のなかである。

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朝鮮の建国神話

古朝鮮(コジョソン)の伝説で、檀君(タングン)神話の伝承がある。「古代朝鮮」井上秀雄(著)には次のようにある。
『この神話は、モンゴル軍の侵入を受け、高麗王朝は江華島へ逃げたが、残された国民は各地で侵略軍と戦い、支配者とは別な愛国心が広範に広がった。この愛国心の象徴こそが壇君神話であり、「三国遺事(サムグンニュサ)」において民間信仰の壇君神話を巻頭にあげたことは、朝鮮の歴史観の特色を示すとある。』また「本当は怖い韓国の歴史」豊田有恒・祥伝社2012年刊では、この壇君神話は一種の天孫降臨神話であり、韓国ではつい近年まで壇君紀元が使われていた』とあります。西暦2012年は、壇君紀元4345年である。

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紀元前・漢の支配~紀元後3世紀頃

 衛氏朝鮮は前漢によって滅ぼされ、漢は朝鮮半島の直接支配にのりだした(B.C.100年前後)。だが高句麗などの攻撃により、朝鮮半島における漢の拠点は「楽浪郡」だけになってしまった。この激動期(紀元前後の前漢~後漢)において、朝鮮半島において勢力を伸ばしたのが高句麗だった。その後の2世紀末になると、遼東太守だった公孫度は、後漢滅亡の契機となった黄巾の乱やそれに続く混乱に乗じて、遼東郡と玄菟郡を領有して事実上独立した。そしてその子の公孫康は、朝鮮半島の楽浪郡を支配下におき、その南に漢人支配の足がかりにしようと帯方郡を設置した。

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「倭」の女王「邪馬台国」「卑弥呼」の登場

238年、中国の魏は、蜀の諸葛孔明の死を契機に公孫氏討伐にのりだし、4万の大軍で3代目公孫淵を戦死させ、公孫氏を滅ぼした。そして楽浪郡・帯方郡は魏の領土となった。 そしてこの時日本列島の倭国では、「邪馬台国」の女王「卑弥呼」がこの帯方郡に使いを送り、魏の天子に朝献を求めたと、下記「三国志・魏志・東夷伝・倭人条」にある。「郡」とは帯方郡のことである。

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高句麗の始祖伝説

ここで、「三国志・魏志・東夷伝・夫余条」より、東明王(トンミョンワン)伝説、そして「三国史記」の朱蒙(チュモン)伝説を引用する。これらは東アジアで共通する日光感情神話といわれる。そして朱蒙伝説は、高句麗・広開土王碑文の第1段の開国伝承と類似しているとされ、東明王と朱蒙は同一人物とされている。

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3世紀~4世紀、高句麗の建国(新国)

3世紀高句麗は国内(クンネ)城(+丸都城)を都とする新国を建てた。近くには有名な広開土王碑がある。後漢を継いだ魏は公孫氏を滅ぼし、その勢いで244年から高句麗を攻め、王都を陥落させた。だが高句麗王は生き延び、しだいに復興を遂げた。3世紀後半、晋が中国を統一すると、倭国では266年、卑弥呼の後を継いだ女王壱与が晋に朝貢した。

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「干支(かんし・えと)」

 ここで、前段ででてきた「干支」について簡単に述べる。紀元前より連綿と続く、2文字の漢字組み合わせについて、基本事項を知っておく必要があるとおもう。中国を中心とする「中華圏」では古代から年代表現で必ずでてくるからである。(星野)

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5世紀~6世紀。高句麗、新羅、百済、倭国の戦い。

5世紀、倭の5王とよばれる「讃、珍、済、興、武」が、中国の王朝に朝貢したことが、年代順に「晋書」「宋書」「南史」「南斉書」「梁書」に記されている。倭の5王は413年~502年までの約89年間に中国の南朝を中心に朝貢したのである。なかでも「宋書・倭国伝」に記されている「倭王・武」の478年の上表文は、倭国内統一戦争、朝鮮半島での高句麗との戦い等の歴史を述べていることで有名である。

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6世紀の朝鮮半島と日本

6世紀朝鮮半島は、高句麗は南進政策、百済(東城王・武寧王・聖明王)は中興の時、新羅(照知王・智証王・法興王)は国家興隆の時であった。特に新羅は、日本との関係の深かった加耶諸国(日本では任那)を562年に滅ぼした。特に加耶をめぐる新羅・百済・倭の抗争は、複雑な様相を呈した。
★ヤマト王権あるいは日本列島と任那(加耶諸国)とは深い結びつきがあったことは間違いない。

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7世紀の大動乱

隋の煬帝は、612年100万の軍で高句麗を攻めた。また翌年、翌々年にも大軍を送ったが、高句麗はこの3次におよぶ隋の遠征軍を迎え撃ち退けた。さらに隋は4次の攻撃を計画したが、国内で反乱が起き、隋は滅びた。
そして618年唐が興ると、3国は唐の冊封をうけ安定するかにみえた。しかしその後、3国の抗争はさらに激化していった。
そんな中で百済と高句麗では内乱が起きた。その後、高句麗と百済は連携し新羅に対抗したので、新羅は唐に出兵を求めた。この3国の抗争は、ついに唐の直接介入を招き、朝鮮半島と日本は、大きな破局と動乱期をむかえた。

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朝鮮半島の動乱と日本7世紀

一方、朝鮮半島の動乱は、日本列島にも多大な影響を与えた。対外戦争(白村江の戦い)で敗退したことにより、日本列島では重大な転機が訪れた。日本国の誕生である。この7世紀の出来事の一部を抜き出すと、以下のようである。

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●特に京都市太秦の広隆寺・弥勒菩薩半跏思惟像は、朝鮮半島と日本が緊密な関係にあったことを示している。


●左写真(奈良県斑鳩町の中宮寺・菩薩半跏像(伝如意輪観音)飛鳥時代(7世紀)出典:『国宝50選日本の彫刻』毎日新聞社1970年刊)。聖徳太子中宮の尼寺の本尊として名高い斑鳩町の中宮寺・菩薩半跏像・国宝。
●右写真(京都市太秦の広隆寺・弥勒菩薩半跏思惟像)出典:『図説日本仏教の歴史 飛鳥・奈良時代』校正出版社1996年刊)。623年新羅・真平王より贈られた仏像と考えられる国宝・彫刻の部第一号の広隆寺・弥勒菩薩半跏思惟像

新羅と渤海

8世紀朝鮮半島の新羅の北東、中国の東北部に渤海が興る。9世紀になると朝鮮半島では内乱が続き、後百済・後高句麗(摩震・泰封)・新羅の後三国時代を迎える。10世紀になり王建(ワンゴン)が、高麗(こうらい・コリョ)を建国し、936年後三国を統一した。

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