(14世紀頃まで)朝鮮(古代~高麗王朝時代)

日本・中国・朝鮮

●王朝の正史・歴史書に残されたものだけが歴史ではない。
 他国の歴史について日本人がとやかく言う必要はないことだが、日本と「韓国・北朝鮮」は古代より関係が深く、互いに重層する歴史をもっている。そしてそれが故に、現代においてもナショナリズム(民族主義・国家主義・国粋主義など)が絡み合い、一つの事件に対する歴史的評価すらも、異なったものになっている。
●特に7世紀(660年代~)は、日本と朝鮮にとって特筆される時代である。唐と新羅によって百済が滅亡(660年)すると、百済の復興を援助する日本が、白村江の戦で唐・新羅に大敗(663年10月)する。続いて唐と新羅は、高句麗を滅ぼし(668年10月)、その結果、新羅が朝鮮半島を統一した。(676年)。
 日本は、この朝鮮半島の動乱によって、百済、高句麗から多くの亡命者を受け入れ、政治的にも文化的にも大きな影響を受けた。この7世紀は重要な世紀であると考えられる。中国では「唐」が成立し、朝鮮半島は「新羅」によって統一され、日本列島(倭国)では、「日本」という国号をもつ王権が成立した。「日本」の誕生である。
●だが現代人として知っておかねばならないポイントがある。それは次の事である。

①ある王権による「正史・歴史書」は、その支配層が書き留めた一部のものにすぎず、それが歴史の全てを現代に伝えるものではない。国の成立と民衆の歴史は別のものである。(例えば日本書紀、古事記など文字で書かれた書物だけを偏重してはいけない)
②日本列島は、縄文の昔から海に囲まれた島国で孤立していた、と考えてはいけない。「日本海」「東シナ海」と続く海は、サハリン、日本列島、沖縄諸島、台湾と連なる列島群に囲まれたアジア大陸の内海と考えたほうがよい。古代からの交通手段は、なんといっても船による海・河川(湖)交通が主体だった。そうみたとき、日本列島は森林と山地が多く内陸の平地が狭いために、海に面する潟や港、そして河川沿に集落が発達していったと考えられる。
③日本は、縄文時代晩期から稲作(水稲栽培など)を中心とした自給自足の閉鎖的な農業社会だった、という認識は間違いである。日本は、稲作以外の数多くの産物・生産物(漁撈、狩猟、植物・樹木の栽培・燃料、製塩、養蚕・織物、土器・陶器・磁器、宝飾類・貴金属、青銅・鉄器・武器製造など)を生産・加工し、それらを数多くの「市」によって交易していた商業社会でもあったのである。弥生時代中期以降において、日本(倭国)が稲作中心の農業経済社会という理解では、国々が争う状況が生まれるはずがない。

(魏志倭人伝)「・・その国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年、・・」

●3世紀中国の「魏(220-265)・呉(220-280)・蜀(221-263)」の正史である『三国志』のなかに「魏志倭人伝」がある。その倭人伝の「邪馬台国」に関する記述に次のようなことが書かれている。

(対馬国)「・・居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸あり。良田なく海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。(してき=米を買い入れるという意味だけでなく、南北(九州と朝鮮)に交易していたと考えられる)」
(一大国=壱岐)「・・方三百里ばかり。竹木・叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す。
(倭地の風俗)「・・尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦(=ねんぐ・みつぎ)を収む、邸閣あり、国々に市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。・・」

そして卑弥呼への詔書(魏の皇帝からの)のなかに「(卑弥呼の)大夫の難升米と次使の都市牛利」と書かれている箇所がある。この「大夫」と「都市」は官職のことで、この「都市」が「市」を司る役職と考えられている。それほど「市」は重要であった。漢の官名で「都水」というのがあり、これは治水を司る役人だったといわれている。
●また同じ『三国志』の「魏志韓伝弁辰条」には、次のようにある。

「国に鉄を出し、韓・濊・倭皆従いてこれを取る。諸そ市買に皆鉄を用い、中国の銭を用いる如し。又以て二郡に供給す」

●上記を見るだけでも、日本列島が孤立しているのではなく、交易が盛んで人々の活動が活発であったことが読み取れる。同時にこの「鉄」を中国の「銭」のように用いているとも書かれている。貨幣経済の初期の形態を示すものであろう。
貿易や国境が国家によって規制されるものだという概念は、現代人の思い込みにすぎないのである。

左図は、中国・朝鮮・日本の略年表。(出典:『日本の中の朝鮮文化』金達寿(キム タルス)講談社2001年刊)。また右地図(出典)『朝鮮の歴史(新版)』は、カタカナで発音を書いたもの。

●「韓国・北朝鮮の歴史と日本」古代~高麗王朝時代(14世紀頃)まで
ここでは、「朝鮮の歴史(新版)・三省堂1995年」の年表を中心に記述し、日本との関係の深いポイントを書き出してみた。また「古代朝鮮・井上秀雄・講談社2004年」「日本の歴史1・神話から歴史へ・井上光貞・中公文庫改版7刷2014年刊」「日本の時代史・吉川弘文館2002年」「日本古代の歴史1『倭国のなりたち』・吉川弘文館2013年」などからも、要約抜粋した。特に日本と朝鮮の古代史は、日本の国家誕生に関わる、神話と歴史が交錯する重要な部分である。
「韓国・北朝鮮の歴史と日本」古代(紀元前)~高麗王朝時代(14世紀頃)まで
(年・事項は、朝鮮の歴史(新版)より引用。備考および欄外の注釈文は、本文及び他資料から要約。)

朝鮮史年表(朝鮮の歴史・新版)
旧石器時代
B.C.数十万年 ●旧石器時代始まる。
東アジアにおける人類の出現は中国の藍田原人(らんでんげんじん)といわれ、75万年~65万年前といわれる。北京原人は46万年~23万年前とされる。
朝鮮半島ではピョンヤン市力浦(リョクポ)区域にある、大峴洞(テギョンドン)洞窟遺跡から、原人と旧人の中間形態を示す少女の頭蓋骨が発見されている。これが今のところ最も古い化石人骨とされる。
B.C.5000年頃 ●櫛目文(くしめもん)土器時代始まる。
この土器は、底が尖った砲弾形の器形を持った、櫛の歯でひっかいたような短斜線文や綾杉文が描かれた尖底深鉢である。
この頃の生業は、採集と漁撈であるが、中期以降には畑作農耕も行われた。遺跡が海岸沿いにあることや出土する道具をみると、専ら漁撈が中心だったようだ。
B.C.1000年頃 ●無文土器時代始まる
中国東北地方の影響を受け、櫛目文土器から無文土器の出現にかわる。無文土器は、朝鮮半島全体で同じ形を共有するわけでない。地域、時代によってそれぞれ特徴を持つ。例えば、後期で粘土を口縁に巻きつけた粘土帯土器が現れたが、これは北部九州を中心に日本にも影響を与えている。
B.C.10~8C. ●稲作始まる。
中国の長江下流域で紀元前5,000年頃に始まった稲作は、インデカ(長粒米)とジャポニカ(単粒米)だったが、長い年月を経て北上する過程でジャポニカが残り、山東半島あたりから朝鮮半島に伝わったと考えられる。
農具は石製や木製であり、後期になると鉄製鎌や鉄製鍬などが現れたが、それほど鉄製農具は普及しなかった。半島を経由して日本に伝播した稲作は初期の段階から水稲耕作だった。
●新しい墓制が出現。
支石墓(しせきぼ)・石棺墓(せっかんぼ)・甕棺墓(かめかんぼ)・木槨墓(もっかんぼ)である。
●支石墓は威鏡北道の北半分を除く半島のほぼ全域に分布している。構造的に2種類あり、北方式(テーブル式)と南方式(碁盤式)とに分けられる。このうち南方式支石墓は、縄文時代後期から弥生時代にかけて日本の北部九州に伝播した。

(上写真・出典:『朝鮮の歴史(新版)』三省堂1995年刊)

●農業生産という集落の共同作業は、集団の長や有力階層を生み、防御的性格の強い環濠集落の出現をみた。この環濠集落は、集落間の争いと稲作の始まりと関係するらしい。また墓制の多様化や変化が進み、集団的支石墓から、区画持ったり単独に営まれ豊かな副葬品をもつ石棺墓が出現した。このことは階層分化が進み、部族国家の形成へと進んだことを示している。(朝鮮の歴史より)

青銅器文化
B.C.9~8C.
青銅器使われ始める

●中国の遼寧地方の青銅器文化が波及し、それを基盤に後期には、朝鮮独自の細型銅剣に象徴される青銅器文化が生み出された。この細型銅剣は、遼寧式銅剣の下半部が細くなったもので、その盛行とともに銅戈、銅矛などの武器、銅斧などの工具や多紐細文鏡とよばれる銅鏡があった。

B.C.4~3C.
鉄器が使われ始める

●青銅器は機能を失い、鉄器が本格的に生産され普及した。武器・農工具や交易で使われた後の時代の鉄鋌(てつてい)のような鉄の地金も作られた。
●『魏志』韓伝弁辰条に、次のようにある。

「・・・国に鉄を出し、韓・濊・倭皆従いてこれを取る。諸そ市買に皆鉄を用い、中国の銭を用いる如し。又以て二郡に供給す」とある。

●また「古代朝鮮」井上秀雄(著)には次のようにある。

鉄器の使用は西北朝鮮で前4~前3世紀ともいわれ、北中国の燕(えん)の明刀銭の分布から第2次青銅器文化と鉄器文化の伝来経路は、遼東半島から鴨緑江(アムノッカン)中流をへて大同江(テドンガン)上流にはいり、平壌(ピョンヤン)地方に定着したと推測される。この経路はのちに高句麗の王都となった輯安(しゅうあん)地方を通っていることや、燕からの亡命者の満(まん)の移住と建国にもかかわるものとして注目されている・・・・
●ここで、押さえておくべき文献資料などを一覧にしておく。
(出典):石原道博編訳『新訂・魏志倭人伝・他3編』岩波書店1951年第1刷。
(出典):石原道博編訳『新訂・旧唐書倭国日本伝・他2編』岩波書店1956年第1刷。
(出典):佐伯有清編訳『三国史記倭人伝・他6編』岩波書店1988年第1刷。
(出典):広辞苑等より
●基本的な文献などの一覧(中国・朝鮮)
撰者(年)

出身王朝 書名 (成立年)対象の時代 備考
班固(はんこ)
(32-92)
後漢
(25-220)
漢書(82年頃成立)
前漢(前202-後8)の歴史を記した紀伝体の書。
24史の1。本紀12巻、表8巻、志10巻、列伝70巻。計100巻(現行120巻)
王充(おうじゅう)
(27-101?)
後漢
(25-220)
論衡
30巻。もと100編というもの、今本は85編(第44編を欠く)。
当時のあらゆる学説・習俗に対し独自の批判を記したもの。
禹の治水を助けた白益の著といわれる? 戦国時代~秦・漢代の作 山海経
中国古代の神話と地理の書。18巻。
山や海の動植物や金石草木、また怪談を記す。
范曄(はんよう)
(398-445)
南朝宋
(420-479)
後漢書(432年頃成立)
後漢(25-220)の事跡を記した史書。
24史の1。本紀10巻、列伝80巻。志30巻は、晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用。
陳寿(ちんじゅ)
(233-297)
西晋
(280-316)
三国志(280年代成立)
・魏(220-265)
・呉(220-280)
・蜀(221-263)
3国の正史。24史の1。65巻。
「魏志・呉志・蜀志」のうちの魏志「烏丸伝・鮮卑伝・東夷伝」の東夷伝の中に「夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓(馬韓、弁韓、辰韓)・倭人」条がある。
「魏略」について。「石原道博編訳『新訂・魏志倭人伝・他3編』岩波書店1951年第1刷」によると、以下のようにある。

「・・陳寿の通称『魏志』倭人伝は、この大半が魚拳(ぎょけん)の『魏略』によったことはうたがいない。魚拳の生卒年代はつまびらかでないが、陳寿のほぼ同時の人で、かれより数年ないし10数年まえに没したらしく、『魏略』の原本はもちろんほろびてつたわらず、諸書にみえる逸文(=書物は失われたが、その一部分が他の本に引用されて残った文章。)によってそのおもかげをしのぶにすぎない。・・・」
撰者(年)

出身王朝 書名 (成立年)対象の時代 備考
房玄齢(ぼうげんれい)
(578-648)

(618-907)
晋書(648年成立)
晋(265-420)代の正史
24史の1。帝紀10巻、志20巻、列伝70巻、載紀30巻。
沈約(しんやく)
(441-513)
南朝梁(502-557) 宋書(488年成立)
南朝宋(420-479)の正史。
24史の1。帝紀10巻、志30巻、列伝60巻。
蕭子顕(しようしけん)
(487-537)
南朝梁(502-557) 南斉書
南朝斉(479-502)の史書。
24史の1。本紀8巻、志11巻、列伝40巻。
姚思廉(ようしれん)
(-637)
唐(618-907) 梁書(636年成立)
南朝の梁(502-557)の4代の事跡をしるした史書。
24史の1。本紀6巻、列伝50巻。
李延寿(り えんじゅ)
(不明)
唐(618-907) 南史
宋・南斉・梁・陳の4史を要約し、南朝4代(420-589)170年間の事跡を記した史書。
24史の1。本紀10巻、列伝70巻。
李延寿(り えんじゅ)
(不明)
唐(618-907) 北史
北朝の魏・斉・周・隋の歴史を1つにまとめたもの。
24史の1。本紀12巻、列伝88巻。
魏徴(ぎちょう)
(580-643)
唐(618-907) 隋書(636年成立、656年志30巻成立、後に編入)
隋代(581-619)を扱った史書。
24史の1。本紀5巻、志30巻、列伝50巻。特に「経籍志」が名高い。
劉昫(りゅうく)ら
(887-946)
五代晋(936-946) 旧唐書・くとうじょ(945年成立)
唐代(618-907)の正史。
24史の1。本紀20巻、志30巻、列伝150巻。
欧陽 脩(おうよう しゅう)(1007-1072)、宗祁 (そうき) (998-1061) 北宋(960-1127)南宋(-1279) 新唐書(1060年成立)
唐代(618-907)の正史。旧唐書の欠を補い補修したもの。
24史の1。本紀10巻、志50巻、表15巻、列伝150巻。
托克托(トクト・脱脱)
(1314-1355)
元(1271-1368) 宋史(1345年成立)
宋代(960-1279)の正史。
24史の1。本紀47巻、志162巻、表32巻、列伝255巻。全496巻で、歴代正史中最も膨大。
宋濂(そうれん)
(1310-1381)
明(1368-1644) 元史(1370年成立)
元(1271-1368)の正史。わずか8ヶ月で成り、誤謬が多いため、中華民国になって「新元史」が作られた。
24史の1。本紀47巻、志58巻、表8巻、列伝97巻。
柯劭忞(かしょうびん)
(1850-1933)
中華民国(1912~) 新元史(1919年成立)
「元史」に代わる元朝(1271-1368)の歴史。1919年大総統令で正史に列せられた。
25史の1。本紀26巻、志70巻、表7巻、列伝154巻。
王鴻緒(おうこうしょ)
(1645-1723)
清(1616-1912) 明史稿(1723年成立)
明朝(1368-1644)一代の史書。「明史」は本書を基にして増減。
本紀19巻、志77巻、表9巻、列伝205巻。
張廷玉(ちょうていぎょく)
(1672-1755)
清(1616-1912) 明史(1739年成立)
明(1368-1644)の正史。60年を費やして成立する。
24史の1。本紀24巻、志75巻、表13巻、列伝220巻、目録4巻。
趙 爾巽(ちょう じそん)
(1845-1927)
中華民国(1912~) 清史稿(1927年一応の完成)
清朝(1616-1912)の正史を作成するための草稿。
本紀25巻、志142巻、表53巻、列伝316巻。
撰者(年)

出身王朝 書名 (成立年)対象の時代 備考
金 富軾(きん ふしょく)
(1075-1151)
高麗(918-1392) 三国史記(1145年成立)
新羅(356-935)・高句麗(紀元前-668)・百済(346-660)の3国の歴史を紀伝体に記す。
朝鮮の現在最古の史書。新羅本紀(12巻)・高句麗本紀(10巻)・百済本紀(6巻)、年表(3巻)、雑志(9巻)、列伝(10巻)、計50巻。
僧一然
(1206-1289)
高麗(918-1392) 三国遺事(1280年前後成立)
三国史記に漏れた事項などを収録。
5巻。三国の遺聞、特に仏教説話が多く、風俗・地理などの資料を含む。
撰者(年)

出身王朝 書名 (成立年)対象の時代 備考
舎人親王らの撰
(676-735)
飛鳥時代~奈良時代(710-784) 日本書紀(720年成立)
神代~持統天皇

「訓讀日本書紀. 上巻」
国立国会図書館デジタルコレクション
「訓讀日本書紀. 中巻」
国立国会図書館デジタルコレクション
日本最古の勅撰の正史。編年体の史書。30巻。

「訓讀日本書紀. 下巻」
国立国会図書館デジタルコレクション
太安万侶
(?-723)
奈良時代(710-784) 古事記(712年献上)
天地開闢~推古天皇
現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼が誦習した「帝紀」および先代の「旧辞」を、選録したもの。
檀君(タングン)神話の伝承

●古朝鮮(コジョソン)の伝説。檀君(タングン)神話の伝承。
「古代朝鮮」井上秀雄(著)より引用してみる。この神話は、モンゴル軍の侵入を受け、高麗王朝は江華島へ逃げたが、残された国民は各地で侵略軍と戦い、支配者とは別な愛国心が広範に広がった。この愛国心の象徴こそが壇君神話であり、「三国遺事(サムグンニュサ)」において民間信仰の壇君神話を巻頭にあげたことは、朝鮮の歴史観の特色を示すとある。また「本当は怖い韓国の歴史」豊田有恒・祥伝社2012年刊では、この壇君神話は一種の天孫降臨神話であり、韓国ではつい近年まで壇君紀元が使われていたとあります。西暦2012年は、壇君紀元4345年である。

天神桓因(ファニン)の子桓雄(ファヌン)は人間世界を治めるため、太伯山の頂上に降りてきた。そのとき同じ穴に住んでいた熊と虎が、桓雄に祈願して人間になるための修行をした。虎は途中で修行を放棄したが、熊は修行をおえて人間の女になった。やがて桓雄と結婚し、檀君王倹(ワンゴム)を生んだ。檀君は中国の堯帝即位五十年に、平壌城に都し、はじめて朝鮮(チョソン)と称した。国を治めること千五百年で、周の武王が箕子(キジャ)を朝鮮に封じたので、阿斯達の山神となった。

●古朝鮮の箕子朝鮮については、「史記」や「漢書」にも箕子による開国記事がみえ、当時からそのような伝説が流布していたことは事実であろう。これらの伝説とは別に、具体的な朝鮮半島の動向が明らかになるのは、中国の戦国時代からである。前4~3世紀には、中国の秦・漢交代期の動乱を避け、逃れてきた燕・斉・趙の人々を朝鮮は積極的に受け入れた。そして朝鮮王を自称する首長に代表される独自の勢力があり、中国と交渉を持っていた。
漢の支配
B.C.2C.初
衛氏朝鮮が成立する

●前195年頃、衛満(ウイマン)は動乱を避けて、1000人余りの手勢を率いて燕から亡命した。やがて亡命中国人らを統合して、朝鮮王・準を攻撃して国を奪った。そして王検(ワンゴム)城(ピョンヤン)を都として王朝をたてた。これが衛氏朝鮮である。
●衛満は、中国との安定化を図り、軍事・経済力を背景に、朝鮮半島の北部から中部にかけて統合支配した。こうして3代にわたり支配体制を築いたが、孫の右渠(ウゴ)の代に、辰国の朝貢問題で漢と緊張状態となった。

B.C.108
前漢が衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪など4郡を置く

●前109年、漢の武帝が王検城を攻撃し、漢と決定的破局となった。前108年内部分裂で右渠が殺され、王検城が陥落し滅んだ。
●漢は王検城を中心に4つの郡を配置し、朝鮮半島の直接支配にのりだした。●楽浪(ナンナン)郡●真番(チンボン)郡●臨屯(イムドゥン)郡●玄菟(ヒョント)郡である。

B.C.82 ●前漢、真番・臨屯の2郡を廃止する。しかし漢の支配は、当初から在地諸族の抵抗に遭い、はやくもこの2郡が廃止された。
B.C.75
前漢、玄菟郡を西方に移す

●玄菟郡は、高句麗の攻撃により移動を余儀なくされた。そして朝鮮半島には楽浪郡だけが残り、設置後30年にして、はやくも漢の郡県支配体制は修正を余儀なくされてしまった。
しかし楽浪郡は中国による朝鮮支配の拠点として機能した。その勢力は、紀元前後には、25県、6万2812戸、40万6748人に達し、中国の東方支配の拠点であった遼東郡を上回る勢いだった。
しかしその後、前漢の王莽による新王朝の建国、滅亡により漢による支配力は低下していった。そしてそういう状況の中で、最も早く成長・自立したのが、郡県の周辺にあった高句麗(コグリョ)であった。 (上図・出典:「古代朝鮮・井上秀雄・講談社2004年」

A.D.105
高句麗、遼東郡を攻める

●高句麗の名は、玄菟郡の属県に高句驪県があるように、郡県設置当初からすでに中国に知られていた。そして玄菟郡の西方移動は、高句麗の成長と拡大による圧力によることが大きい。その激動期(紀元前後)には、中国・新(王莽)は、統制に服さない高句麗候・騶(チェ)を殺し、国名を「下句麗」と蔑んだ。その後再興した後漢王朝は32年、高句麗の朝貢を入れて国号と王号を回復させた。以後高句麗は国家的発展を遂げていく。

106 ●後漢、玄菟郡をさらに西方に移す。
2C.末~3C.初
公孫氏、帯方郡を置く

●2世紀末、遼東太守だった公孫度は、後漢滅亡の契機となった黄巾の乱やそれに続く混乱に乗じて、遼東郡と玄菟郡を領有して事実上独立した。そしてその子の公孫康は、朝鮮半島の楽浪郡を支配下におき、その南に漢人支配の足がかりにしようと帯方郡を設置した。しかし238年、中国の魏は、蜀の諸葛孔明の死を契機に公孫氏討伐にのりだし、4万の大軍で三代目公孫淵を戦死させ、公孫氏を滅ぼした。そして楽浪郡・帯方郡は魏の領土となった。「三国志・魏志・東夷伝・韓(馬韓、弁韓、辰韓)条」には、次のようにある。

「・・建安年間(196~220)、公孫康は、屯有県以南の荒地を分割して、帯方郡を定め、公孫模、張敞などを派遣して、もとの住民を集めなおし、兵をおこして韓濊を討った。もとの住民も、しだいに出てくるようになり、こののち倭も韓も、とうとう帯方郡に属するようになった。・・」

(出典:「歴史から消された邪馬台国の謎」豊田有恒・青春出版社2005年刊)

「東夷伝」による諸民族の地理的位置。(参考)

●「古代朝鮮・井上秀雄」によれば、東夷伝では編者の考えている「倭」の地理的位置は2通りあったという。それは、朝鮮半島南部と、海島の「倭」であるという。
●「魏志」韓伝から地理的位置をみると次のようになる。
「韓は帯方郡の南にあって、東西は海であり、南は倭と接している」「韓には3種類あって、馬韓・辰韓・弁韓という。馬韓は西にある」「辰韓は馬韓の東にある」「弁韓は辰韓と雑居している。弁辰の瀆盧(とくろ)国は倭と境を接している」。また濊伝には「濊は南方で辰韓と接している」とある。そして「倭人伝」では九州へ渡っていくので、こちらにも「倭」があるとする。
(図・出典:「古代朝鮮・井上秀雄・講談社2004年)


●これに対して、佐伯有清編訳『三国史記倭人伝・他6編』岩波書店1988年第1刷の解説では、この井上秀雄氏の所説は特異なものであると除き、次のようにある。

「・・しかしながら倭人や倭国を、後の日本人や日本の国としてしまうことには、なお問題が残っている。その問題とは、倭がのちの日本であるとしても、それが日本列島内の大和政権のことなのか、それとも九州北部にあった勢力のことなのかという問題である。その典型的な例として、高句麗の広開土王(好太王)碑文にみえる倭・倭人・倭賊・倭寇は、南朝鮮にいた倭人であろうという井上秀雄氏の所説を特異なものとして除いても、今日、碑文にみえる倭人などを北九州の海賊集団、あるいは九州王朝であるとする新説が人びとの関心を集めている。そして、大和政権であるとみる説とするどく対立している。・・・」
●そして「倭」の女王「邪馬台国」「卑弥呼」が登場し、この帯方郡とつながる。「郡」とは帯方郡のことである。「三国志・魏志・東夷伝・倭人条」では次のように書かれている。

「・・景初2年(238年)6月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。」
(出典):石原道博編訳『新訂・魏志倭人伝・他3編』岩波書店1951年第1刷。

●この景初2年(238年)は、魏と公孫氏の戦乱の最中であるので、朝貢は翌年景初3年(239年)の誤りとする見解が主流らしい。

東明王(トンミョンワン)伝説と朱蒙(チュモン)伝説

●ここで、「三国志・魏志・東夷伝・夫余条」より、東明王(トンミョンワン)伝説、そして「三国史記」の朱蒙(チュモン)伝説を引用する。これらは東アジアで共通する日光感情神話といわれる。そして朱蒙伝説は、高句麗・広開土王碑文の第1段の開国伝承と類似しているとされ、東明王と朱蒙は同一人物とされている。

●「三国志・魏志・東夷伝・夫余(ふよ)条」より、東明王(トンミョンワン・とうめい王)伝説。
「魏略にいうには、この国は富み盛んであり、昔から破壊されたことがない、と。 その印文には「濊王(わいおう)之印」とある。この国の本来の都は、濊城(わいじょう)と呼ばれている。
おそらく、もともとは濊貊(わいばく)の地であったのだが、夫余王は自ら亡命者と称している。それなりに根拠のあることであろう。
 魏略はいう。さらに古い記録にもある。むかし北のほうに高離(こうり)国という国があった。その王の侍女が身ごもったので、王は殺そうとした。侍女は、答えた。鶏卵のような気が、わたしのほうに落ちてきたため、妊娠してしまったのだ、と。やがて、赤ん坊が生まれた。王は、この子を便所に捨ててしまった。だが、(便所で飼われている)豚が、息を吹き掛けて、蘇生させた。そこで、厩に捨てたのだが、今度は馬が、息を吹き掛けて、蘇生させてしまった。王は、やはり天の子ではないかと考え、母親に引き取らせ育てさせることにした。東明と名付けた。常に馬飼いをさせたのだが、東明は弓矢が得意だった。王は、やがて東明に国を奪われるのではないかと恐れ、殺そうとした。東明は、南方へむけて脱走し、施掩水(しえんすい)という河にでた。弓矢で川面をたたくと、魚や鼈(すっぽん)が出てきて橋になり、東明か対岸に渡ったとたんに解散した。追ってきた王の兵は、渡ることができなかった。こうして東明は夫余の地で王となったのである。
(出典:「歴史から消された邪馬台国の謎」豊田有恒・青春出版社2005年刊)

●「三国史記」の朱蒙(チュモン・しゅもう)伝承の概略
「・・扶余王解夫婁(かいふろ)は子がなく山川の神を祭って嗣子を求めた。そうすると金色の蛙形の小児を得て金蛙(きんあ)と名づけこれを養い、位を譲った。金蛙は鴨緑江の河神の娘柳花(りゅうか)をとらえて問うと次のように答えた。「私は天帝の子解慕漱(かいぼそ)と自称する者と交わった。その後、彼は帰ってこなかった」。金蛙はこの話を不思議に思って柳花を部屋の中に閉じこめた。柳花は日の光にあたると妊娠して大きな卵を生んだ。金蛙はこれを嫌って犬や豚に与えても喰べないし、道に捨てても牛馬がこれを避けた。金蛙はこれを割こうとしたが殼を破ることができなかったので、卵を柳花に返した。やがて殼を破って朱蒙が生まれ、七歳になると弓を射ることが非常に巧く、百発百中したという。金蛙の王子たちは彼を嫌って殺そうとしたので、柳花は彼に南方に逃れるようにいった。佟佳江(とうかこう)まで逃げてきたところ追手が迫ったので、川に向かって朱蒙は「自分は天帝の子で、河神の孫である。追手が迫っているのでなんとかして欲しい」といった。すると、魚や亀が浮きあがって橋を作った。その後、さまざまな苦労を重ね、ついに朱蒙は高句麗を建国したという。・・」
(出典:「古代朝鮮・井上秀雄・講談社2004年」広開土王陵碑文、開国の伝承より一部引用」

高句麗
3C.初
高句麗、国内城(丸都城)を都とする

●高句麗(コグリョ)は北方民族のツングース族系統の貊(メク)族に属し、韓族主体の新羅、百済とは大きく異なっている。高句麗は鴨縁江の中流域およびその支流の渾江の流域などを本来の住地とし、しだいに南下した。建国当初の中心は、卒本(チョルボン)で、現在の桓仁(遼寧省)であった可能性が高い。
●高句麗は、いくつかの部族に分かれていたが、それらは、奴とよばれる邑落共同体(郡集団)を構成した。それぞれの郡集団は、首長層としての大加・諸加と、被支配民としての下戸に分かれていた。そしてそれらは、紀元前後ごろまでに、政治的な郡集団を形成していったとおもわれる。有力な郡集団うち5つを、5族(5部)とよび、消奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部があった。当初、王は消奴部から出ていたが、のちに桂婁部からでるようになった。3世紀の初め、王位継承の争いが起き、国内(クンネ)城(集安)に移って、新国を建てた。(209年)
(地図)出典:『朝鮮の歴史(新版)』三省堂1995年刊)

244
魏、高句麗を攻める

●後漢を継いだ魏は、公孫氏を滅ぼし、高句麗と直接国境を接することになった。魏は公孫氏討伐に活躍した将軍を派遣し、高句麗侵攻をくわだてた。そして244年から本格的に侵攻し、王都を陥落させたが、高句麗王は逃げ延びて、再興を期した。
●その後、高句麗はしだいに復興し、美川(ミチョン)王の時代、中国の戦乱を好機に勢力をたくわえ、楽浪郡や帯方郡を攻撃するようになった。

3C.中頃
三韓、帯方郡を攻めて、太守を敗死させる

●韓族はしだいに強力になり、帯方郡の設置も韓族の侵入に備えていたものだった。『魏志』韓伝によれば、3韓のうち、「馬韓」は50余国総計10余万戸、「辰韓・弁韓」は、馬韓より規模が小さく、24の小国で総計4万~5万戸であったという。

●3世紀後半、晋が中国を統一し、幽州の5郡を分割して平州を置いた。これにより、とくに馬韓・辰韓地方の諸国が、晋に朝貢するようになった。そういうなかから小国の連合体が生まれていった。(倭国では266年、女王壱与が晋に朝貢)
313頃
高句麗、楽浪郡を滅ぼし、翌年には帯方郡も滅ぼす

●これには馬韓・辰韓なども高句麗とともに参加していたと思われる。高句麗による楽浪郡や帯方郡の攻撃は、その郡民の多くを、鮮卑族の慕容氏(遼河方面に勢力を持っていた)のもとへ移住させた。その後高句麗は遼東を確保した慕容氏と衝突するようになる。高句麗は西進のため新城(シンソン)を築き、南進のため、平壌を拠点とした。

342 ●前燕、高句麗を攻めて、国内城を破壊する。燕王を称するようになった慕容氏は、5万の大軍で王都を攻めた。王都に侵入した燕王は、前王美川王の墓を暴き、王母や妃を捕らえ宮殿を焼きはらった。故国原(コググォン)王は、翌年臣と称して朝貢し、父の屍を取り戻した。
<三国時代>
●百済(ペクチェ)は朝鮮半島中西部におこり、高句麗・新羅とともに三国を形成した。百済の前身は馬韓(マハン)の50余国の小国のひとつ伯済(ペクチェ)国で、漢江(ハンガン)下流域、ソウルの江南を中心としていた。4世紀なかば、近肖古(クムソゴ)王代までには、周囲の小国をあわせた連合体に成長した。
●新羅(シルラ)は辰韓(チンハン)12国のひとつ、慶尚北道慶州(キョンジュ)の斯盧(サロ=シラ)国が4世紀なかばに成長して、先進の高句麗に従属するかたちで、勢力を伸ばしていった。
●加耶(カヤ)諸国は、百済や新羅に取り込まれない残された諸小国や、弁韓(ピョンハン)地域の諸国のことをいった。日本で「任那」とよぶのは、加耶の1国(金官国)の別な呼び方であった。金官は、3世紀の狗邪(クヤ)国の後身であり、鉄生産や海上交易などの利を得て、大加耶とよばれる勢力となった。海をへだてた倭とも関係が深く、4世紀以降、百済-加耶南部-倭の同盟関係が6世紀初めまで維持された。
371
百済、高句麗を平壌で破り、故国原(コググォン)王を敗死させる

●百済の太子の近仇首(クングス)は、南進してくる高句麗軍を平壌城に攻め、故国原王を殺した。百済は、北の高句麗と対立し、南の加耶諸国と親交を結び、倭とも接近し同盟関係を持った。369年には「七支刀」を倭王に贈っている。現在日本国奈良県石上(いそのかみ)神宮に所蔵(国宝)されている。

「宝物」七支刀「石上神宮公式サイト」
372
高句麗に仏教伝わる。百済、晋に朝貢する

●百済は東晋へ使者を送り、鎮東将軍・領楽浪太守の号を受けた。高句麗は中国北部の前奏と通じており、護国的仏教が伝わった。(朝鮮において初)

377 ●新羅、高句麗とともに前秦に入貢する。新羅が前秦に入貢できたのは、高句麗が認めていたからであり、新羅は高句麗に従属する形をとった。
384
百済に仏教伝わる

●東晋から西域僧の摩羅難陁(マラナンダ)によって、仏教が伝えられた。百済は、前秦・高句麗・新羅に対抗するため東晋に通交していた。

391
高句麗、広開土(クァンゲト)王即位する

●広開土王、故国壌(コグギャン)王のあとを継いで18歳で即位した。広く領土を開いた王という諡(おくりな)もち、永楽大王と称した。対外的に大きく発展した時代を築いた。

414 ●高句麗、広開土王陵碑を建てる。王の死後にその功績を顕彰すべく建てられたものである。この碑文によれば、高句麗は「新羅」を助け、「百済」と結んだ「倭」を破ったとある。日本古代史にとって、この碑文の価値は最重要なものとなっている。
●広開土王碑文抄を下記に引用する。(出典)佐伯有清編訳『三国史記倭人伝・他6編』岩波書店1988年第1刷。
特に①については、ウイキペディアによれば、日本・韓国・北朝鮮で解釈が異なるという。「新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に来たので(高句麗は)海を渡って百残を破り、新羅を救って臣民とした。」韓国学会の定説とある。

①百残・新羅は、旧(もと)是れ属民にして、由来朝貢す。而(しか)るに倭は、辛卯の年(391年)を以て来りて海を渡り、百残・口口・新羅を破り、以て臣民と為す。(辛卯年条)
②九年己亥(399年)、百残、誓いを違(たが)えて、倭と和通す。(九年己亥条)
③王、平穣に巡下す。而(すなわ)ち新羅、使を遣わして、王に白(もう)して云く。倭人、其の国境に満ちて、城池を潰破(かいは)し、奴客を以て民と為(な)せり。王に帰して命を請うと。 (同右条)
④十年庚子(400年)、歩騎五万を遣わして、往(ゆ)きて新羅を救わ教(し)む。男居城従(よ)り、新 羅城に至るまで倭、其の中に満つ。(十年庚子条)
⑤官兵、方(まさ)に至り、倭賊、退(しりぞ)く。(同右条)
⑥倭、満ち、倭潰(つい)ゆ。(同右条)
⑦十四年甲辰(404年)、而(すなわ)ち倭、不軌(ふき)にも帯方界に侵入す。(十四年甲辰条)
⑧倭寇、潰敗し、斬殺するもの無数なり。(同右条)

●『太王四神記』(たいおうしじんき・テワンサシンギ)韓国MBCTVドラマ(2007年)
韓国で、歴史上尊敬する人物のベスト3は、「世宗大王」「李舜臣将軍」「広開土大王」であるという。この『太王四神記』は広開土大王を主人公にペ・ヨンジュンを起用し、最終回の放送では35.7%の高視聴率を記録したとある。「古代韓国の歴史と英雄」(康 熙奉)実業之日本社2011年刊
「三国史記」にみる倭関係記事
●「三国史記」にみる倭関係記事は以下のようである。(出典)木下礼仁「5世紀以前の倭関係記事-『三国史記』を中心として」より。1982年中公新書「倭人伝を読む」収録。
●紀元前より5世紀末までの倭関係一覧。「倭人」「倭国」「倭兵」など。
三国史記の六部 件数 備考
新羅本紀 59 倭関係記事はほぼ「新羅本紀」に集中しており、大部分は「倭人あるいは倭兵」が新羅の辺境を犯したというものである。この「倭」の根拠地がどこにあるかが、大きな問題となっている。
高句麗本紀 2 「高句麗本紀」には2例みられるが、これは「倭山」という「有名未詳地」であるので、倭関係記事はひとつもない。
百済本紀 16 「百済本紀」の倭関係記事は、例外なく、百済王の即位・廃位・結婚などに関連する外交記事が中心。
雑志 7
列伝 26
合計 110 ●記事の例をあげる(408年・実聖7年春2月記事)

「王、倭人の対馬島に営を置き、貯うるに兵革・資糧をもってし、以て我を襲わんことを謀るを聞き、我、その未だ発せざるに先んじて、精兵を練り兵儲を撃破せんと欲すと。・・・・」
日本書紀の「神功紀」にみる朝鮮半島との歴史

●日本では、この4世紀の朝鮮半島との歴史は、日本書紀の「神功紀」のなかに書かれている。この「神功紀」の前半は、伝承にすぎず歴史事実ではないが、後半は逸書である「百済記」をもとに書かれているので、史実も発見できると「日本国家の起源」井上光貞著にはある。この「百済記」は百済3書のひとつで、百済の歴史書であるが、現在すべて失われていて、日本書紀にのみ一部逸文として引用されている。「百済記」の他に「百済新撰」「百済本記」がある。
●「日本国家の起源」井上光貞著・岩波書店1960年発行によれば、この日本書紀の「神功紀」の「百済記」の干支は、120年ずらされていて、実際は4世紀の記事を3世紀の記事とされているとある。その部分を120年下げて、百済との国交の始まりの部分を一部抜粋すると以下のようである。

●364年(甲子)、百済の使者の久氐ら3人が卓淳国(慶尚北道大邱)を訪れた。百済は日本とは通じていなかったので、卓淳に日本との国交の仲介を依頼した。
●366年、日本の使者が卓淳国を訪れたので、卓淳王は百済との約束を重んじて、日本の使者を百済に送った。百済の肖古王は喜んで織物や武器を送り、国交が開始された。

●120年の干支の問題は以下によりわかるとある。

●日本書紀・乙亥年(255年)肖古王死す。
●日本書紀・甲申年(264年)貴須王死す。


(これを朝鮮の正史である三国史記では)
●三国史記・乙亥年(375年)近肖古王死す。
●三国史記・甲申年(384年)近仇首王死す。


この2書を比べると、「干支」は同じだが、日本書紀では120年ずらしてある。何故分かるかというと、日本書紀は神武天皇の即位を、紀元前660年の辛酉年としているので、逆算することができるわけである。干支は60年で一巡するので、日本書紀は120年(2運)ずらして、4世紀の事を3世紀のこととした。その理由は、日本書紀は神功皇后を、邪馬台国の「卑弥呼」としたためだとあります。

「訓讀日本書紀. 中巻」→国立国会図書館デジタルコレクション

「干支(かんし・えと)」について。(星野 記)
●ここで、前段ででてきた「干支」について簡単に述べる。紀元前より連綿と続く、2文字の漢字組み合わせについて、基本事項を知っておく必要があるとおもう。中国を中心とする「中華圏」では古代から年代表現で必ずでてくるからである。(星野)

下

高句麗
427
高句麗、平壌城に遷都する

●広開土王の子長寿(チャンス)王は、領土拡大を経て全盛期を現出した。そして本格的な南方経営のため、平壌に遷都した。

475
高句麗、百済の漢城(ハンソン)を陥とし、蓋鹵(ケロ)王を殺す

●百済、熊津城に遷都する。高句麗は、百済に対して455年以降繰り返し侵攻していた。そしてついに百済の王城を陥落させ、王を殺した。ここに百済はいったん滅亡した。蓋鹵王の子(あるいは弟)は熊津(公州)に逃れ、そこで即位し百済を再興した。その後6世紀になると、武寧王は積極的な外交により、大きく領土を広げた。熊津の武寧王陵は「塼(せん)」で築かれ、中国の梁墓に近く、梁と百済の関係はきわめて深かった。

倭の5王

●日本では5世紀、倭の5王とよばれる「讃、珍、済、興、武」が、中国の王朝に朝貢したことが、南朝の史書、特に「宋書・倭国伝」に記されている。なかでも「倭王・武」の478年の上表文は、倭国内統一戦争、朝鮮半島での高句麗との戦い等の歴史を述べていることで有名である。下に「倭の五王」坂元義種著・教育社1981年刊より一部引用する。

興死す。弟武立ち、自(みずか)ら使持節・都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。

下

●この倭の五王が日本の誰にあたるかは諸説ある。その理由は、正史である「日本書紀」と「古事記」に、天皇がこのような立派で堂々とした国書で「朝貢」を行ったという記事がないためである。だがこの事実は、4世紀~5世紀の日本列島が、まさに動乱の渦中にあったことを示している。また同時に、近畿を中心に数多くのエリアに巨大古墳が出現したということは、ヤマト王権の成立の過程が、単純な同一王権による統一ではなかったことを暗示している。

514
新羅、法興王即位する

●法興王は、国制の整備につとめ、兵部を設け法幢(ほうどう)軍団を創設した。

520 ●新羅、律令を定め、官位制を整える。独特の衣冠制など、固有法を明文化したものとみられる。
527 ●新羅、仏教を公認する。5世紀にはすでに仏教が伝わっていた。法興王は反対する群臣をおさえ、仏教を正式に認めた。王は王宮近くに興輪寺を創し、王妃も永興寺を創した。
538 ●百済、泗泚(サビ)に遷都し、国号を南扶余と改める。武寧王をついだ聖(ソン)王(聖明王・ソンミョン)は高句麗に対抗するため遷都した。551年百済は新羅と大加耶と連合して、高句麗を攻め漢城を回復した。(聖王は日本に仏教を伝えたことで有名。)
551~2 ●新羅、半島中央部に進出する。新羅はこの漢城を百済より奪った。
554
新羅、管山城で百済の聖王を敗死させる

●百済の聖王は新羅を討とうとしたが、逆に殺され、百済は滅亡の危機に瀕した。

562
新羅、大伽耶を滅ぼし、加羅諸国を収める

●新羅はこの勢いでのこる加耶諸国を併合していった。(左地図・出典:「日本の時代史2・倭国と東アジア」吉川弘文館2002年刊)
●568年新羅の真興王、「磨雲嶺碑」「黄草嶺碑」を建てる。新羅の飛躍的な領土拡大は、真興王の代にみられた。545年から竹嶺を越えて高句麗領に入り、「丹陽赤城碑」を建て第1歩をしるした。王は拡大した領土を、高僧や高官とともに巡狩し、北のはるか威鏡南道に「磨雲嶺碑」「黄草嶺碑」を建てた。

586 ●高句麗、長安城に遷都する。6世紀になると王権は弱体化し、5世紀に獲得した漢城(ハンソン・ソウル江南)も、新羅に取られた。この新羅の急速な成長に対し、平原王は都を平壌市街の南に移し、計画的な王都・長安城を築いて対抗した。高句麗の寺院の多くは、1塔3金堂式の独特の伽藍配置をもち、新羅・倭に影響を与えた。学問僧も輩出し、日本の三論宗の開祖とされる慧灌(ヘグァン)も、隋に留学したのち、倭に渡った(625年)。また王陵の壁画には四神図が描かれるようなった。
598
隋の文帝。高句麗征討を命じる

●これ以後80年にわたり東アジアの動乱が始まった。中国では、589年隋が陳を平定して、300年ぶりに中国を統一した。高句麗・百済・新羅は隋の冊封を受けたが、高句麗は隋の侵攻をおそれ防備を固めたことにより、逆に隋により水陸30万による攻撃をうけた。

6世紀の朝鮮半島と日本

●6世紀朝鮮半島は、高句麗は南進政策、百済(東城王・武寧王・聖明王)は中興の時、新羅(照知王・智証王・法興王)は国家興隆の時であった。特に新羅は、日本との関係の深かった加耶諸国(日本では任那)を562年に滅ぼした。特に加耶をめぐる新羅・百済・倭の抗争は、複雑な様相を呈した。
●加耶諸国の考古学的出土物は、北九州、畿内の出土物と同様なものがあり、深い交流と結びつきがあったと思われる。
●また同時期の日本(継体天皇・欽明天皇・敏達天皇)においては、日本書紀が「百済本紀」の記事を多く引用しているので、この頃の歴史的事実をある程度記録していると考えられている。
●527年(継体21年)に起きた日本の「磐井の乱」は、朝鮮半島をめぐる高句麗、百済、新羅、加耶(任那)の争いが、日本の九州の豪族・磐井と近畿ヤマト王権の国内戦争にも影響していたことを暗示している。
●下に日本書紀から、欽明天皇が敏達天皇へ遺言するところを引用してみる。当時の任那に対するヤマト王権の強烈な意志が感じられる。(出典:「日本書紀 下」坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋(校注)岩波書店1965年発刊)

 夏(なつ)四月(うづき)の戊寅(つちのえとら)の朔(ついたち)壬辰(みづのえたつのひ)に、天皇(すめらみこと)、寢疾不豫(おほみやまひ=天子の病気)したまふ。皇太子(ひつぎのみこ=のちの敏達天皇)、外(ほか)に向(ゆ)きて在(はべ)りまさず。驛馬(はいまは)せて召(よ)び到(いた)りて、臥内(おほとの)に引入(めしい)れて。其の手を執(と)りて詔(みことのり)して日(のたま)はく、
 「朕(われ)、疾(やまひ)甚(おも)し。後(のち)の事(こと)を以(も)て汝(いまし)に屬(つ)く。汝、新羅を打(う)ちて、任那を封(よさ)し建(た)つべし。更(また)夫婦(をうとめ)と造(な)りて、惟(これ)舊日(もとのひ)の如(ごと)くならば、死(みまか)るとも恨(うら)むること無(な)けむ」とのたまふ。
 是の月に、天皇、遂に内寢(おほとの)に崩(かむがあ)りましぬ。時(とき)に年(みとし)若干(そこばく)。

●欽明天皇は、新羅に対する敵対感情と、任那に対して昔のように夫婦となれと、親愛の情を吐露し、任那の復興を皇太子である敏達天皇へ遺言している。また敏達天皇も、皇太子である用明天皇へ任那復興を命じている。

隋・唐、百済・高句麗・新羅と日本
●隋の煬帝は、612年100万の軍で高句麗を攻めた。また翌年、翌々年にも大軍を送ったが、高句麗はこの3次におよぶ隋の遠征軍を迎え撃ち退けた。さらに隋は4次の攻撃を計画したが、国内で反乱が起き、隋は滅びた。
●そして618年唐が興ると、3国は唐の冊封をうけ安定するかにみえた。しかしその後、3国の抗争はさらに激化していった。
●そんな中で百済と高句麗では内乱が起きた。その後、高句麗と百済は連携し新羅に対抗したので、新羅は唐に出兵を求めた。この3国の抗争は、ついに唐の直接介入を招き、朝鮮半島と日本は、大きな破局と動乱期をむかえた。
612 ●隋の煬帝、高句麗を攻める(613、614)
642 ●百済、新羅西南部を奪う。高句麗の泉蓋蘇文、権力を握る
644 ●唐、高句麗を攻める(647、648)
647 ●新羅、毗曇が乱を起こす
651 ●新羅、執事部を設け、官制を整える
●新羅でも内乱が起きたが、金春秋(後の武烈王)らが鎮圧し、親唐路線を継承し、権力の集中を成し遂げた。
●武烈王が即位すると、高句麗と百済は連合して新羅を攻めた。これに対し新羅は唐に援軍を求め、660年新羅と唐の連合軍は百済の王都を攻略し、ついに百済は滅んだ。
●しかし百済の遺民による、百済復興の挙兵が相次ぎ、なかでも鬼室福信の兵が有力であった。彼は日本に援軍を求め、同時に人質として日本に来ていた百済の王子豊璋を、王として立て百済を再興しようとした。しかし内紛と日本軍の白村江での敗退で、百済復興は失敗した。
654 ●新羅、武烈王即位する
655 ●唐、高句麗を攻める(658、659、661~2)
660
唐、新羅と結び百済を滅ぼす

●そして五都督府を置く。

663
唐、白村江で日本軍を破る
668
唐、新羅と結び高句麗を滅ぼし、翌年、安東都護府を置く
●新羅は唐と連合して、百済・高句麗を滅ぼしたが、唐は朝鮮半島全域を支配することをもくろんでいた。そこで新羅は、670年唐に対して軍事的反抗に踏み切った。そしてついに唐の勢力を朝鮮半島より撤退させ、朝鮮半島統一を成し遂げた。(ただ高句麗が所有していた北部地域の大半は放棄した。)
●高句麗滅亡後、唐によって強制移住させられていた高句麗人と靺鞨(まつかつ)人達は反乱を起こし、後に大祚栄(テチョヨン)は渤海(パルヘ)を建国し強大な国家を築いた。
670 ●新羅、唐と争い、百済故地を収める(~676)
676 ●唐、熊津都督府・安東都護府を撤収する
684
新羅、報徳国を滅ぼす(統一の完了)
687 ●新羅の郡県制(九州五京制)が確立する
698 ●大祚栄、震国王を称する(渤海の建国)
●新羅は律令国家ではあったが、唐制に従うのではなく固有の官制を継承発展させ、中央集権化を行ったことに特徴があった。685年には、全土を九州に分け、郡・村(城)から郡・県に改め、州-郡-県制とした。同時に軍制も改編整備した。また旧百済人・旧高句麗人らを新羅の身分制へ編入させ、身分制秩序を一元化した。このようにして新羅は、統一国家を築き上げていった。
●この新羅独特の身分制度は骨品制(コルプム)である。これは血統によって8階層に区分された。聖骨・真骨・六頭品・五頭品・四頭品・三頭品・二頭品・一頭品である。
朝鮮半島の動乱と日本

●一方、朝鮮半島の動乱は、日本列島にも多大な影響を与えた。対外戦争(白村江の戦い)で敗退したことにより、日本列島では重大な転機が訪れた。日本国の誕生である。この7世紀の出来事の一部を抜き出すと、次のようである。左の壁画は、1972年に奈良県高市郡明日香村、高松塚古墳より発見されたもの。服装の点でも朝鮮半島と日本との繋がりが深いことがよくわかる。(出典「仏教の幻惑」「華麗なる飛鳥幻想から」学習研究社1898年刊)
①飛鳥時代を通じて蘇我氏は、葛城氏没落後に台頭し、朝鮮系および渡来系氏族と密接な関係を持ち、東漢氏・西文氏・秦氏・船史らを配下に置き、仏教の導入を積極的に行い、ヤマト王権内にあって、知識階級および権力階級として君臨した。645年その蘇我氏が、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後の藤原鎌足)らのクーデター(乙巳の変)によって暗殺され蘇我氏本宗家は滅びた。
②中大兄皇子らは、都を飛鳥から摂津の難波へ遷都した。その後内紛が起き、中大兄皇子は飛鳥に戻ったが即位せず、母にあたる皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。その後の新政権政策と国政改革を、大化の改新という。またこの頃のヤマト王権による国内征服で特筆すべきことは蝦夷征討であった。
658年越(こし)の国主であった阿倍比羅夫は、180艘を率いて北に遠征を行い、秋田から津軽半島へ蝦夷(えみし)の征討と巡撫を行った。660年頃には200艘を率い2回目の遠征を行い、粛慎(みしはせ)と戦ったといわれる。この粛慎とは日本では、北海道のアイヌともいわれる。この阿倍比羅夫は、663年の白村江の戦いのとき、征新羅将軍として朝鮮にも派遣された。
③660年の百済滅亡により、多くの百済人が倭国へ亡命したといわれる。661年には、斉明天皇が百済復興救援のため筑紫に赴くが、其の地で死去した。中大兄皇子は数年間称制を続けた。(即位したのは668年)そして、663年の白村江の敗戦後、唐・新羅の侵攻をおそれ、特に筑紫における水城(みずき)の建設や、九州から瀬戸内に朝鮮式山城を建設した。これらの建設の主体は、亡命百済人たちであったといわれる。
④671年に天智天皇が死去すると、672年壬申の乱が勃発した。その結果673年大海人皇子(天智天皇の弟)は大友皇子(天智天皇の子)を自害させ勝利し、天武天皇として即位した。この天武朝の時代に天皇号が創設され、新たな日本という国号ができたとされる。
⑤中国の旧唐書・日本伝には以下のように書かれている。

「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。・・・・後略」

また『三国史記』日本伝の新羅本紀670年12月条には次のようにある。

「倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日(ひ)出(い)づる所に近し。以(ゆえ)に名と為すと。」

●下写真は、623年新羅・真平王より贈られた仏像と考えられる国宝・彫刻の部第一号の広隆寺・弥勒菩薩半跏思惟像と聖徳太子中宮の尼寺の本尊として名高い斑鳩町の中宮寺・菩薩半跏像・国宝。


●左写真(奈良県斑鳩町の中宮寺・菩薩半跏像(伝如意輪観音)飛鳥時代(7世紀)出典:『国宝50選日本の彫刻』毎日新聞社1970年刊)
●右写真(京都市太秦の広隆寺・弥勒菩薩半跏思惟像)出典:『図説日本仏教の歴史 飛鳥・奈良時代』校正出版社1996年刊)

新羅と渤海
713
大祚栄、唐より渤海郡王に封じられる

図は統一新羅と渤海(8世紀頃)である。(出典:『図説韓国の歴史』河出書房新社2002年新装改訂2版)

733 ●新羅、唐の要請により渤海に出兵する
735 ●新羅、唐より浿江(大同江)以南の領有を認められる
751 ●新羅の仏国寺・石窟庵創建される
757 ●新羅、郡県名を唐風に改称する
759 ●新羅、官庁・官職名を唐風に改称する
780 ●新羅の上大等金良相、恵恭王を殺して、即位する(宣徳王)
822 ●金憲昌の乱起こる
●新羅では8世紀末頃より王族内部での確執があらわになり、反乱が頻発し王位の簒奪もしばしば起こった。
●そして9世紀末になると、農民の反乱が全国で頻発し、また地方豪族の反乱もあいついだ。そして後百済・後高句麗(摩震・泰封)・新羅の後三国時代を迎えた。
846 ●張保皐(弓福)の乱起こる
892 ●甄萱、完山に後百済を建国する
902 ●弓裔、後高句麗を建国する
904 ●弓裔、国号を摩震とする(911年。泰封と改める)
918
王建、弓裔を放逐して、高麗を建国する

●後高句麗の勢力拡大を支えた王建(ワンゴン)は、高麗(こうらい・コリョ)を建国し、936年後三国を統一した。 (出典:『図説韓国の歴史』河出書房新社2002年新装改訂2版)

922 ●高麗、契丹と国交を結ぶ
923 ●高麗、この頃後梁に入朝する
926
契丹、渤海を滅ぼす

●この前後、渤海人、高麗に多数亡命する

933
王建、後唐から高麗国王に封じられる
935 ●新羅の敬順王、高麗に降り、新羅滅ぶ
936年高麗、後百済を滅ぼし、統一を完了
●高麗は対外的には、遼河の上流域を本拠地とする遊牧民の契丹と、11世紀初めまで侵略戦争を戦った。
●内政では中央権力機構を整備し、王権の強化に努めた。高麗の官僚は、文臣(文班)と武臣(武班)からなり、あわせて両班(ヤンバン)といった。
●田柴科(でんさいか)制度とは、両班や胥吏や軍人には、国家から土地が支給された。田地(耕作地)と柴地(燃料採取地)の両方が支給されたのでそういった。
●姓氏や本貫(ほんがん)も支配体制の一環として制度化された、高麗国家の繁栄は、王族と門閥官僚の繁栄であったといえる。
940 ●州府郡県の名号を改める。
945 ●王位をめぐり、王規の乱起こる
958 ●科挙が施行される
976 ●田柴科制度を定める
983 ●12牧を定め、中央から牧使を派遣するなど、地方行政機構を整備する
993 ●契丹、高麗を攻める
995 ●州県制を施行する
1009 ●康兆、穆宗を殺し、顕宗を国王に擁立する。
●高麗は契丹や女真族の侵攻を防ぐため、1033年から12年歳月をかけて、鴨緑江(アムノッカン)の河口から東海岸の都連浦にかけて長城(千里長城)を築いた。
●内政では、貴族間の争いが起こり、武臣による反乱も起こるようになった。
1010 ●契丹の第2次侵攻(~11)
1014 ●武臣が乱を起こす
1018 ●地方官制が改められ、郡県制が確立する。契丹の第3次侵攻(~19)
1033 ●西北境に長城の築造を始める
1076 ●官制、田柴科制改められ、中央官制が確立する
1095 ●李資義の乱起こる
1106 ●監務の地方派遣始まる。
●1170年武臣が多くの文臣らを殺害し実権を握った。この武臣政権に対して民衆の反乱が起こり、12世紀末になると各地の反乱軍は連合するようになった。これらは民衆による支配層に対する蜂起であった。
●1196年には武臣である崔忠献(チェチュンホン)がクーデターを起こし、政権を掌握した。
1107 ●尹瓘、長城を越えて女真を攻める
1126 ●李資謙の乱起こり、慶源李氏没落する。金に服属する
1135 ●妙清ら、西京で反乱を起こす(~36)
1145 ●三国史記編纂される
1170 ●武臣政権が成立する(庚寅の乱)
1173 ●金甫当、武臣政権に抗して挙兵する
1174 ●西京留守の趙位寵、挙兵する(~76)
1176 ●公州鳴鶴所民の亡伊と亡所伊らが蜂起する(これ以降、民衆反乱相次ぐ)
1196 ●崔忠献、政権を掌握する(崔氏政権の成立)
1198 ●開城で私奴万積らの反乱計画発覚する
1218 ●モンゴルと国交を結ぶ。
●13世紀になると崔氏政権は、文臣と武臣のバランスをとり、その上に自身が武臣の第一人者として執権するという体制を確立していった。
●しかし1231年モンゴルが侵攻してくると、崔氏政権は王都(開城)を江華島に遷都し抵抗したが1258年滅びた。これにより王権は回復したが、太子をモンゴルに送り降伏した。
●これに反対する三別抄(武人政権の軍隊)が蜂起し抵抗したが、最後に済州島で滅亡した。
1231
モンゴル、高麗に侵攻する(~59)
1232 ●開城から江華島に遷都する
1258 ●崔氏政権、倒れる
1259 ●太子倎をモンゴルに送り、降伏する
1270 ●武臣の執権終わる。開城に復都する。三別抄の乱起こる(~73)
1274
元、日本を攻める(1281)
元、日本、東南アジア侵略を開始

●1273年元は、日本、東南アジア侵略を開始する。日本侵攻は、1274年・文永の役。1281年・弘安の役。
●モンゴルの第二次遠征(弘安の役)は、南宋征服後、10万人の中国人を徴兵して決行したが、失敗した。しかしモンゴルは、第三次遠征を企てた。
●1282年、中国・高麗に大船3000隻の建造を命じ、準備を進めた。また1284年には、ベトナムへ大軍を送り攻撃を開始したが、ベトナムの果敢な抵抗にあい失敗した。この敗戦により、フビライ・ハーンは第三次日本遠征計画を中止した。

1350 ●倭寇の侵入激しくなる。
●元に屈服した高麗王朝は、元の王女を妃とすることで、地位の安全を図った。高麗王室も、今まで「祖」や「宗」が使われていた廟号も「王」に格下げされた。「太子」も「世子」に格下げされ、人質として元で生活を余儀なくされた。
●こうして14世紀後半になると南からは倭寇の侵略をうけ、北からは漢族の反乱軍である紅巾軍の侵入をうけ、戦乱の中で指揮官の一人であった李成桂が政権を掌握し、朝鮮王朝を建国した。
1356 ●恭愍王、反元運動を展開する
1359 ●紅巾軍侵入する(1362)
1388 ●李成桂、鴨緑江の威化島で回軍し、政権を掌握
1391 ●科田法を制定する
1392
李成桂即位する。朝鮮王朝の建国