1934年(昭和9年)国内では大災害、大凶作に見舞われる。1935年(昭和10年)「相沢事件」起こる。
2023年4月26日アジア・太平洋戦争
前年の昭和8年3月には三陸地方にM8.3の大地震が発生し大津波が三陸海岸の町や村を襲ったばかりであった。津波の被害は、岩手県が最も大きく、青森県、宮城県、福島県、北海道などを合わせると、死者・行方不明者3064人、流出・破損船舶8078隻を数えた。
昭和10年8/18、永田鉄山少将(陸軍省軍務局長)が軍務局長室で相沢三郎(歩兵中佐)に刺殺される事件が起きた。これは陸軍内部の「皇道派」と「統制派」の派閥争いでもあったが、この争いは翌年の2.26事件につながり、陸軍内部を揺るがした大事件の前兆だった。
(写真)凶作にあえぐ東北の農村。(出典)「日本の歴史(第12巻)世界と日本」読売新聞社1966年刊
●国内では、天災・災害が頻発した。3月に函館で大火が発生し2万4千余戸が焼失、9月には「室戸台風」最低気圧911.9ミリバール(現在だとヘクトパスカル)を記録した前例のない大型台風が上陸し関西を直撃した。家屋の全半壊は8万8000戸を超え、特に大阪では、暴風による小学校(7割以上)が倒壊し児童676人教員ら18人が死亡した。10月には東北地方が明治38年以来の大凶作に見舞われ、岩手県では約2万4000の欠食児童がうまれ娘の身売りが急増した。
●軍事面では、満州国は3月1日を期して、国号を満州帝国とし、執政溥儀を皇帝とした。7/26官民合同による海陸空の演習である近畿大防空演習が行われ、9/1には東京、横浜、川崎3市による連合防空演習が行われた(約50万人が参加)。
10/1陸軍省が「国防の本義と其強化の提唱」を公表、「陸軍パンフレット」問題となる。これは陸軍の統制派が公然と政治に介入することを宣言したものであった。11/20「士官学校事件」発覚、青年将校らクーデター容疑で検挙される。
12/19天皇親臨枢密院本会議で、「ワシントン海軍軍縮条約破棄」を全会一致で可決する。
●政治面では、1月「時事新報」が「番町会を暴く」という連載を開始した。この番町会とは郷誠之助を中心とした財界の気鋭のグループで、後に台湾銀行からの「帝人株式」の斡旋で斎藤内閣が倒閣する「帝人事件」の発端となった。7/3斎藤内閣は帝人事件の責任をとり総辞職。7/4重臣会議が開かれ、海軍大将岡田啓介を全員一致で推挙し7/8岡田内閣が成立した。
●経済では、1月に国産原料と国産技術によってアルミ生産が成功した。アルミは航空機資材として軍事的にも重要だった。また前年可決された法律に基づき日本製鉄株式会社が発足(1/29)した。国家主導による官営八幡製鉄所を中心に5社が合同したトラストである。銑鉄部門においては国内生産能力の97.1%を占めた。また3月には「石油業法」を公布し、政府による統制経済法の先駆けとして、軍事資源としての石油の安定供給と国内資本による石油業の発達を図った。5月には、重要産業統制法によって、ビール醸造業・石炭鉱業を重要産業に指定し、7月にはセメント統制方針を決定した。
●思想統制面では、5/1出版法改正公布(8/1施行)され、皇室の尊厳冒涜・安寧秩序の妨害など取り締まりを強化し、同時にレコードの検閲も開始した。
年・月 | 1934年(昭和9年) |
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1934年昭和9年1月1日 | (東京日比谷に、東京宝塚劇場開場)![]() (写真)前列左から、大空ひとみ、三浦時子、中列左から、草笛美子、雲野かよ子、後列左から、葦原邦子、橘薫、巽寿美子、小夜福子。葦原は宝塚のクラーク・ゲーブル、小夜は宝塚のゲーリー・クーパーと呼ばれた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1934年昭和9年1月5日 | (日印新通商協定成立) ●インドへの日本の綿織物輸出が急増したことに対してインドとイギリスは抗議、イギリス政府は昭和8年4月、日印通商条約の廃棄を通告。9月日印会商が開始された。 ●そしてここに、幾多の困難や決裂の危機に瀕しながらも、インドの関税引下げと交換的に日本の印(インド)綿不買を解除して、新たな日印新通商協定が成立したのである。 |
1934年昭和9年1月12日 | (日本沃度《ヨード》大町工場、国産初のアルミニウムの工業的生産に成功する。)![]() ●そして昭和8年6月、日本沃度(ヨード=現昭和電工)社長の森矗昶(のぶてる)は、長野県大町に工場を建設し、翌昭和9年1月10日に操業を開始、12日に初めての製品を得たのである。(森コンツエルンである) (写真)アルミは「粘土から得た銀」と呼ばれた。昭和9年1/12に日本沃度大町工場で製造された国産アルミニウムインゴットの第1号。記念の刻印は翌日打たれた。写真-昭和電工(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1934年昭和9年1月17日 | (「番町会を暴く」時事新報社が連載を開始。) ●下がそのまえがきである。政治的な問題となっていったことが想像される。「帝人事件」の発端となった。
政党と政商の結托暗躍はあらゆる社会悪の源となり、遂に五・一五事件を誘発して非常時内閣の出現を見たことは汎く知るところ、然も五・一五事件の洗礼をうけた非常時内閣下に於て政党政商等はしばらくその爪牙を隱して世の指弾を避くるに汲々たる折柄、こゝにわれらはわが政界財界の蔭に奇怪な存在を聞く。曰く「番町会」の登場がそれである。
即ち彼等はいまやその伏魔殿に立籠り、嘗て政党政商が爲せるが如き行爲。紐育タマニー者流にも比すべき吸血をなしつゝ政界財界を毒しつゝあるといふ。然もこの「番町会」のメンバーとして伝へられるものに某財界巨頭を首脳とし、これを囲繞するものに現内閣の某大臣あり、新聞社の社長あり、政権を笠に、金権と筆権を擁して財界と政界の裏面に暗躍する暴状は目に餘るものがあり、既に彼等の飽くなき陰謀の一端は、さきには商工会議所乗取り、近くは帝国人絹の乗取り、紳戸製鋼所株の拂下げ或は政民聯携運動等となって、世人を戦慄せしむるに至った。我等は敢て事を好むものではない、然も非常時内閣の下、更始一新が叫ばれる今日、権力と金力を背景とする不義不正が横行するに対し、言論機関の使命の爲めに、断じて黙過すべきでない。よって本社はこの利権の伏魔殿の策諜に対し忌憚なき摘発を加へ、以て社会の批判に訴へることゝした。 昭和九年一月 時 事 新 報 社 *リンクします「『番町会』を暴く・ 帝国人絹の巻」 時事新報社昭和9年刊→
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1934年昭和9年1月23日 | ![]() (新聞)1/23東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1934年昭和9年1月29日 |
「鉄の巨人」日本製鉄設立
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1934年昭和9年2月15日 | (東海林太郎《しょうじたろう》「赤城の子守唄」ポリドールから発売。) ●この曲は松竹映画「浅太郎赤城の唄」の主題歌で、約40万枚が売れた。昭和2年に日本ビクター、昭和3年に日本コロンビアが設立されると、ヒット曲はレコード会社が作るようになった。そして同時期に蓄音機、ラジオが普及したことも、次々とヒット曲が生まれる要因の一つとなった。下でユーチューブにリンクした。 *リンクします「赤城の子守唄」
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1934年昭和9年3月1日 |
満州国帝政を実施。執政溥儀(ふぎ)皇帝に即位。
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1934年昭和9年3月9日 | ![]() 犯人はその場で自殺したため動機は不明だが、武藤が帝人事件の告発や、「政・財・官」の癒着を暴いたことが関係するとみられている。 (新聞)3/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1934年昭和9年3月12日 | (新鋭水雷艇「夕鶴」設計ミスで転覆、100人殉職) ●佐世保警備戦隊は、長崎県五島列島付近の海上で、昭和9年3月6日から行っていた夜間訓練を、同月10日に中止した。これは荒天と濃霧によるもので、旗艦の巡洋艦竜田から各艦艇に帰投信号が発せられたが、水雷艇夕鶴(艦長岩瀬奥一少佐)の応答はなかった。夕鶴は、同日午前4時12分、波浪を受け、すでに転覆していたのである。夕鶴は同年2月に就役したばかりの水雷艇だった。 ●この事故原因の調査の結果、原因は船体が傾いた時に元の状態に戻ろうとする復元力不足にあることがわかった。設計ミスだったのである。この背景には、1930年に締結したロンドン海軍軍縮条約があった。同条約は600トン未満の艦艇の建造を制限しなかったことから、軍令部は、設計担当の艦政本部に、艦艇の能力を超えた兵装を要求したのである。基準排水量535トンの夕鶴に1000トン級駆逐艦の性能を詰み込んだのである。そのため、重心が通常の設計よりも1m以上も高くなり、転覆したのであった。 |
1934年昭和9年3月25日 | (栄養士の知識向上のための「栄養士会会誌」創刊される。) ●栄養士会は、アメリカで栄養学を学んだ佐伯矩が、栄養士育成を目的に創立(大正14年)した栄養学校の関係者が作った学会で、この年から日本医学会の第13分会として認められた。これは、栄養改善指導が軌道に乗り始めたことを示していた。 ●この背景には、明治後半から昭和初期にかけて、「国民病」といわれた結核と脚気(かっけ)の問題があった。これらはともに罹病率は高く特効薬がなかったため、いったんかかると栄養をつけ、静養するしか回復の方法はなかった。このため栄養改善指導が行われるようになったが、このきっかけは1882年(明治15年)、海軍が脚気対策に白米と麦を等分に混ぜ、兵食改良を試みたことが始まりだった。 |
1934年昭和9年3月28日 |
石油業法公布(7/1施行)
●この石油業法とは、石油業の許認可制を骨子とした統制経済法である。軍需産業を対象とした一連の事業法の先駆けとして 3月28日に交付された。軍事資源としての石油の安定供給と国内資本による製油業発達を図った軍部及び政府は、石油値下げ競争による市場の混乱を機にこの法を制定。精製および輸入業は許可制とし、業者には常時6カ月分以上の貯油義務を課した。販売価格の決定権は商工大臣がもつことになった。 |
1934年昭和9年4月 | ●4/3、小学校教員3万6000余人による精神作興大会が二重橋前で開催される。「国民道徳を振作」せよ、という趣旨の勅語が出された。 ●4/17、天羽(あもう)外務省情報部長、非公式声明を発する。内容は、欧米諸国の対中国援助は、財政的、技術的とを問わず日本に重大な影響を及ぼすおそれがあるから、反対する、というもの。各国からの非難を受け4/24広田外相は、天羽声明は手違いであると釈明した。 |
1934年昭和9年4月18日 |
帝人事件が起こる。斎藤内閣総辞職に発展
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1934年昭和9年4月~5月 | ●4/19農村自力更生運動の一環として、全国桑園経営競技会優等賞授与。 ●4/30、アメリカで生糸市場大暴落。 ●5/2出版法改正公布。(8/1施行) ●5/14農林省、12県16ヵ所に農民道場を設置する。 ●5/15商工省、ビール醸造業・石炭鉱業を重要産業に指定。 ●5/24ブラジル議会で移民制限条項成立。 |
1934年昭和9年5月30日 | ![]() (新聞)5/30(号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1934年昭和9年6月2日 | ●フランス・リオンで欧州絹生産国代表による国際絹業連合会、日本品の進出阻止で団結することを決議する。 |
1934年昭和9年7月2日 | ●商工省、セメント統制方針を決定。重要産業統制法を発動し、1年間増産中止と建値強制引き下げを行う。 ●7/2東京商工会議所(郷誠之助会頭)は、東京丸ノ内の同所内に商工相談書を開設した。中小商工業者を対象に経営相談を行った。 |
1934年昭和9年7月3日 |
斎藤実内閣、帝人事件の責任をとり総辞職。
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1934年昭和9年7月8日 |
岡田啓介(おかだ‐けいすけ)内閣成立
軍人、政治家。海軍大将。若狭(福井県)出身。田中・斎藤両内閣の海相。昭和9年(1934年)首相となったが、2.26事件のため辞職。太平洋戦争末期には重臣として終戦工作に尽力。(出典)「日本国語大辞典精選版」 |
1934年昭和9年7月26日 | (近畿大防空演習開始、~28日まで。)![]() (写真)煙幕に包まれる大阪市外。写真-毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1934年昭和9年8月1日 | (内務省による、レコードの検閲始まる。) ●改正出版法が施行され、内務省によるレコード検閲が開始された。レコードも新聞、雑誌、書籍と同様に、発売前に内務省の検閲を受けねばならないことになった。 |
1934年昭和9年8月2日 | (ドイツ、ヒンデンブルク大統領死去、ヒトラー大統領を兼務する。) ●8/19ヒトラー首相、大統領兼任を問う一般投票で賛成90%を獲得。「総統」の地位を確認される |
1934年昭和9年8月 | (純国産練習機「赤とんぼ」誕生。)![]() 写真・野沢正(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1934年昭和9年9月1日 | ●東京・横浜・川崎の3市連合の防空演習が、午後1時から翌2日午後3時まで実施される。約50万人が参加した。 |
1934年昭和9年9月5日 | (東京市電従業員、整理案に対して1万1千余名始発からストを行う。)![]() (新聞)9/5(号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1934年昭和9年9月~10月 |
アメリカ・アリゾナ州で排日運動激化。
●9/13、排日運動激化で20数人が日本人農園を襲撃した。(8/20、アリゾナ州の排日実行委が、在留日本人農家を訪ね25日までに立ち退きを要求していた。) |
1934年昭和9年9月14日 |
政府、陸軍による在満機構改革案を承認。
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1934年昭和9年9月18日 | ●国際連盟総会、ソ連の国際連盟への加入を、賛成39、反対3、棄権7で可決。常任理事国の地位賦与も承認。 |
1934年昭和9年10月1日 |
陸軍パンフレット問題起こる。「国防の本義と其強化の提唱」
*リンクします「国防の本義と其強化の提唱」軍事叢書. 第1輯 軍事思想普及会 昭和13年刊→
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1934年昭和9年10月24日 |
日米海軍予備第1次会談開催
「海軍軍備制限に関する條約」(ワシントン海軍軍縮条約)(1922年2月)
(文は「日本の歴史」読売新聞社1963年より引用・要約) これは戦後の戦勝列強の政府にとって大変な財政負担であった。その上に悲惨な大戦の経験の直後、全世界に起こった平和風潮は、いっそうこのような巨大な軍事費の財政負担に対する批判を強めた。どの国でも、軍からの膨大な軍事費の要求を、議会や政府が削るのに大わらわという状態であった。ことに、海軍の建艦費が問題であった。何しろ、ちっぽけな排水量1000トンぐらいの駆逐艦でも、総製作費は東京の国会議事堂の建築費総額ぐらいかかるのであった。しかも大戦前の軍艦はもはやすっかり旧式化してしまった。早急に最新型の軍艦を建造しなければならないということで、戦勝列強つまりイギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアは、いずれも大規模な建艦計画を抱えていたのである。
「1930年ロンドン海軍条約」(1930年4月)
●1922年のワシントン海軍軍縮会議は、主力艦と航空母艦を制限したものだったので、各国の補助艦艇(巡洋艦以下)についての建造競争は激化していた。そこで1927年(昭和2年)、ジュネーブで補助艦を制限する会議が開かれたが、これは各国の主張が対立してまとまらなかった。 ●この会議の主な目的は、①補助艦艇の建造に新たな制限を設けること。②主力艦の建造停止期間を延長すること、であった。 *リンクします「海軍軍備制限ニ關スル條約」1922年「ワシントン会議」→
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1934年昭和9年10月25日 | (高山本線、悲願の全通)![]() (写真)は祝賀の花電車。写真-中日新聞社。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1934年昭和9年11月2日 | (ベーブ・ルースら大リーグ選抜チーム17名来日)![]() ●12/26読売新聞社は野球人気を背景に、全日本チームを母体に、日本初の職業野球団「大日本東京野球俱楽部」(現読売ジャイアンツ)を結成した。 (写真)ファンに手を振る初来日のルース。-写真・朝日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
![]() (写真)第10戦で好投した沢村栄治投手(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 (注)沢村栄治、プロ野球投手。三重県出身。京都商業在学中から速球投手として知られ、東京巨人軍に入団後、エースとして活躍し初の最高殊勲選手となる。第2次世界大戦に応召し台湾沖で戦死。昭和22年(1947)その功績をたたえて「沢村賞」が制定された。大正6~昭和19年(1917-1944)(出典)「日本国語大辞典精選版」 |
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1934年昭和9年11月20日 |
士官学校事件。青年将校らクーデター計画容疑で逮捕
●逮捕された将校は、陸軍歩兵太尉・村中孝次(のちの2.26事件で死刑)と、陸軍一等主計(大尉)磯部浅一(のちの2.26事件で死刑)、そして士官学校区隊長片岡太郎中尉であった。そしてその他に陸軍士官学校士官候補生5人が容疑で士官学校に軟禁された。 |
1934年昭和9年12月19日 |
ワシントン海軍軍縮条約破棄
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1934年(昭和9年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化
「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋 1. 19 エチオピア皇太子妃候補に黒田雅子決定 |
1935年(昭和10年)1月、中国大陸ではソ連から満州国に北満鉄道譲渡に関する協定が成立する。4月、満州国皇帝溥儀が来日する。溥儀はこの訪日によって自らが至高の権威をもったと錯覚するに至ったと自伝で自嘲したという。
6月、「梅津・何応欽協定」、さらに「土肥原・秦徳純協定」が成立する。これは軍部による華北分離工作であり、塘沽停戦ラインからさらに南下侵攻しようとする軍部の工作であった(11/25冀東防共自治委員会成立、12/11冀察政務委員会成立)。
10/19毛沢東率いる第1方面軍が、1万2500kmにわたる「長征」を終え、陝西省保安の呉起鎮に到着し第15軍団と合流した。この長征途上共産党中央は「8.1宣言」を行い、内戦を停止し国家民族の危機にあたり一致協力して抗日民族統一戦線の結成を呼びかけた。
●軍事面では、2月、海軍が初の実用低翼単葉戦闘機(九六式艦上戦闘機)の試験飛行に成功する。11月には「九三式魚雷」(液体酸素推進式魚雷)を正式採用する。
陸軍内部では7月、真崎甚三郎教育総監が更迭され、皇道派と統制派の抗争が激しさを増す。8月には陸軍省軍務局長永田鉄山少将が皇道派に省内で刺殺される「相沢事件」が起こる。陸軍は「粛軍=統制強化」実現を申し合わせるが、2.26事件へとむかう。12月、日英米仏伊5ヶ国による「ロンドン海軍軍縮会議」が始まる。
●政治面では、2月、貴族院で貴族院議員菊池武夫が同院議員で東大名誉教授の美濃部達吉の「天皇機関説」を排撃した。3月、共産党はただ一人残っていた袴田里見が特高に逮捕され、共産党中央委員会は壊滅した。
天皇機関説問題はさらに大きな問題となり、8月政府は「国体明徴声明」を公式発表する(10月にも第2次国体明徴声明)。
●社会面では3月、あの「忠犬ハチ公」が渋谷区内の路上で死亡。13歳だった。
●諸外国の面では、1月国際連盟が日本の南洋委任統治継続を正式に承認した。2月アメリカで日本人の移民を排除する「排日土地法案」がアリゾナ州議会に提出された。9/15ナチスはナチ党党大会(ニュルンベルク)で、ドイツ人の純血を守る「純血保護法」を公布した。ユダヤ人迫害の始まりである。10/3イタリアがエチオピア侵略を開始。1896年イタリア軍がエチオピア軍に大敗を期したアドワへ進軍を開始した。
●報道・文化などでは、8/10、第1回芥川賞(石川達三)・直木賞(川口松太郎)が発表される。10/23日本ペンクラブが誕生した(会長は島崎藤村)。11/7国策的通信社である「同盟通信社」が誕生した。国策として有利な宣伝戦を展開したい政府、軍部の強い要請で作られた。12/8近代史上最大の宗教弾圧が行われた。大本(おおもと)教の出口王仁三郎ら一斉検挙される。