1931年(昭和6年)9/18「満州武力侵攻」、1932年5/15、犬養首相暗殺「5.15事件」
●年表では日本国内の政治・経済・事件を、昭和6年(1931年)から昭和7年(1932年)まで書き出した。特に満州事変(1931年9/18)と満州国樹立(1932年3/1)は、「アジア・太平洋戦争」の始まりである。そして日本は、総理大臣に対するテロの続発により、陸軍が実権を持つ軍国主義の道に進んだのである。
(上右写真)1931年9/21竜山駅を出動する第20師団(京城)歩兵七七連隊。(左写真)1931年11/17広島宇品港を発つ第8師団(弘前)の兵士を、広島市愛国婦人会、青年団、市民ら多数が見送った。-写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
昭和6年~昭和7年 | 主要項目 |
---|---|
昭和6年(1931年) 濱口雄幸首相(死亡)→第2次若槻礼次郎内閣→犬養毅内閣 | ●濱口首相は前年の11月に右翼のテロで重傷を負った。幣原外相が首相代理として内閣を運営したが、民間右翼団体と軍部若手将校らによる政府転覆行動が活発となり、三月事件(軍事政権樹立を目ざした旧日本陸軍青年将校によるクーデター計画3/20)が発覚し、未遂に終わった。そんなおり退院し無理な登院を続けていた濱口首相は、病状を悪化させ、内閣は総辞職した。元老・西園寺公望は、暗殺による政権交代があれば暗殺を奨励するようなものだとして、若槻礼次郎(民政党)への大命降下を奏請したのであった。 |
昭和7年(1932年) 犬養毅(5.15事件暗殺)→斎藤実内閣 | ●犬養毅は、陸軍大臣に急進派が推す荒木貞夫中将(皇道派)、内閣書記官長に大陸積極論者である森恪を登用した。荒木貞夫中将は、前年の10月事件(クーデター計画)では、首相に目された人物であった。犬養毅はこの人事で軍部をコントロールしようとしたのだが、逆に軍部が発言力を強めていったのである。 |
(注)このページでは、右下「緑・矢印ボタン」で目次に戻り、その下の「赤・矢印ボタン」でページトップへ戻ります。
年・月 | 1931年(昭和6年) |
---|---|
(昭和6年のポイント) ●遂に関東軍は満州事変(9/18)を起こし、満州武力侵攻を開始した。国内でも右翼と軍部若手将校によるクーデター計画(3月事件・10月事件)未遂事件が起こり、軍部独裁体制への動きと、国民に対するマスコミの戦争扇動も加速していく。国際連盟理事会による日本軍満州撤退勧告案(10/24)も、逆に国民の軍部に対する支持・共感を高めていったのであろう。10/12、大阪朝日新聞社は重役会議で次のように決定したという。(講談社「昭和2万日の全記録」より) 「国家重大事ニ処シ日本国民トシテ軍部ヲ支持シ国論ノ統一ヲ図ルハ当然ノ事ニシテ現在ノ軍部及軍事行動ニ対シテハ絶対批難批判ヲ下サス極力之ヲ支持スヘキコト」「憲兵情報秘第658号」 そして12月には「軍国美談」が賞賛され、新聞、放送、雑誌、映画などマスメディアは、なだれを打ったように軍国主義に向かったのである。 | |
1931年 昭和6年 1月 | ●1/1「のらくろニ等卒」少年倶楽部新年号に連載開始。田河水泡。 ●1/4前年度労働争議発生11月までで1682件、年間新記録。 ●1/22第59議会再開。首相代理問題で紛糾するが、幣原首相代理が予定通り施政方針演説を行う。 ●1/31ブラジル移民再開 |
1931年 昭和6年 2月3日 | ●幣原首相代理のロンドン条約に関する「失言」で衆議院予算総会大混乱となる。この問題で議事が混乱していたが、ついに2/6乱闘国会となり、予算審議は10日間中断する。![]() (新聞)2/4東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1931年 昭和6年 2月8日 | ●東京と大阪で無産婦人大会が開催され、徹底婦選獲得を決議する。東京ではデモで婦人多数が検束される。 |
1931年 昭和6年 3月2日 | ●ロンドン条約による軍縮により、海軍工廠整理が閣議で決定され、8900人が解雇、手当は1人平均690円。 |
1931年 昭和6年 3月10日 | ●濱口首相、狙撃事件後27日ぶりに登院し、職務復帰のあいさつをする。 |
1931年 昭和6年 3月17日 | ●労働組合法案・労働争議調停法改正案が衆議院本会議で可決される。しかし貴族院で審議打ち切りとなる。この政府案も、労働者の団結権や争議権など基本的権利を保障する法ではあったが、取り締まる色彩の強いものだった。それでも貴族院は審議打ち切りとし、これ以後戦前には上程されることはなかった。 |
1931年 昭和6年 3月20日 | 三月事件未遂 ●軍事政権樹立を目ざした旧日本陸軍青年将校によるクーデター計画。桜会の急進派と陸軍首脳部が謀議し、宇垣一成内閣樹立を企図したが、未遂に終わった。(出典)「日本国語大辞典精選版」
①1万人(民間の右翼と左翼)を動員して、閉会中の議会にデモをかける。 ②政友会と民政党両本部と首相官邸を爆破する。 ③軍隊は非常集合を行って議会を包囲する。 ④陸軍省軍務局長・小磯国昭少将か参謀本部第2部長(諜報)・建川美次少将が「桜会」の将校を率いて議場に入り、幣原外相兼首相代理以下の各大臣から辞表を出させる。 ⑤陸軍大臣・宇垣一成大将を首班とする内閣を作り、国家改造を一気に進める。 (出典)別冊歴読本 2.26事件と昭和維新 新人物往来社1997年刊 ●しかしこの計画は宇垣大臣の心変わりで中止となった。計画に加わった陸軍首脳は、宇垣、小磯、建川のほか、陸軍次官・杉山元中将、参謀次長・二宮治重中将ら陸軍省と参謀本部の最高首脳であった。また橋本欣五郎中佐が率いる「桜会」の青年将校も加担した。大川周明は、右翼の巨頭・頭山満、徳川義親、建川少将らの意見を聞き、ようやく中止に踏み切ったといわれる。また、このクーデター自体に反対したのは別の派閥である旧「一夕会」の流れをくむ、陸軍省軍事課長・永田鉄山大佐や陸軍省補任(人事)課長・岡村寧次大佐らをリーダーとするグループだった。 |
1931年 昭和6年 3月24日 | ●婦人公民権案、貴族院本会議が否決する。 ●2月28日衆院本会議で可決した婦人公民権法案(有権者25歳以上で市町村選挙に限定など制限付き)を、貴族院本会議は62対184で否決した。 |
1931年 昭和6年 4月1日 | ●重要産業統制法公布・8/11施行。 これは金解禁後の日本の国際競争力向上を目指すために、産業の組織化、合理化運動を行ってきた到達点ともいうべきものだった。この法律により、主要産業のカルテルを公認し、これに従わない企業を強制的にカルテルに参加させることが可能となった。つまり企業間の競争はやめ、業界ごとに価格協定や生産数量割り当てを行い、価格の下落を防ぎ、一定の利潤を確保することが目的だった。この運動を主導したのは商工省の中堅官僚(吉野信次、岸信介ら)であった。 |
1931年 昭和6年 4月14日 | 第2次若槻礼次郎内閣成立(民政党)
|
1931年 昭和6年 4月21日 | ●全国産業団体連合会設立。これは労働運動対策のために結成された資本家の団体で、全国175の産業団体で結成された。会長は郷誠之助。 |
1931年 昭和6年 5月2日 | ●井上蔵相邸爆破事件起こる。 これは5/2午後10時15分頃、東京麻布区の大蔵大臣井上準之助私邸表門にダイナマイトが仕掛けられ爆発した事件。井上は御殿場の別邸にいて無事だった。犯人は倒閣維新連盟の高畑正、後備陸軍中尉の荒川精一らで、5月に逮捕された。また同月6日には、急進愛国党の児玉誉士夫が、短刀の入った小包を井上邸に送り付ける事件も起きた。 ●ロンドン軍縮会議締結による軍縮、緊縮財政、金解禁による不況の深刻化などは、右翼にとって井上が元凶とされテロの標的とされたのである。(翌昭和7年2/9、井上は血盟団によって暗殺された) |
1931年 昭和6年 5月3日 | ●軍制改革大綱を決定。![]() (新聞)5/3東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1931年 昭和6年 5月 | ●内務省、昭和5年末の全国労働組合数712、労働組合員数35万4312人と発表。 ●内務省社会局、1/1現在の全国失業者総数を37万1802人と発表。(7/15には、5月の全国失業者数は、昭和4年9月以来最高の推定40万1000余人と発表した) |
1931年 昭和6年 5月27日 | ●俸給令《減俸令》公布。《6/1施行》。![]() ●これは濱口内閣が断行しようとしたが、特に法曹界からの反発で中止した官吏を対象にした減俸令の再度の断行であった。濱口内閣当時とは事情が変わってきており、農業恐慌による農村の疲弊や物価の下落にもかかわらず、官吏の俸給が割高になっていたことが理由だった。だがこれは反対運動(鉄道省によるゼネスト突入の危機など)により政府は妥協することになった。だが官吏の俸給は民間に比べて高いという風潮を決定づけ、各地方の吏員や教員の減俸に拍車をかけた。 (新聞)5/28東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1931年 昭和6年 6月20日 | ●フーバー・モラトリアム発表。![]() (新聞)6/22東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1931年 昭和6年 6月・7月 | ●6/27陸軍歩兵大尉・中村震太郎、北満で中国兵に殺される(中村大尉事件)![]() ●7/2満州長春郊外万宝山で中国人農民(約500人)と中国側官憲が、朝鮮人農民と衝突する(万宝山事件)。 ●7/19上海で日貨排斥運動始まる。南京、天津、奉天と反日運動広がる。 |
間島暴動事件、万宝山事件そして中国人惨殺事件に発展
| |
1931年 昭和6年 7月14日 | ●ドイツ大銀行遂に破産する。![]() |
1931年 昭和6年 7月15日 | ●全国失業者数40万1千余人と内務省発表。 |
1931年 昭和6年 7月19日 | ●日貨排斥運動を開始(上海)。 |
1931年 昭和6年 8月4日 | ●陸軍、軍縮反対・満蒙問題の積極的解決。![]() ●南陸相、軍司令官・師団長会議で、軍縮反対・満蒙問題の積極的解決を訓示する。これは軍の外交関与と問題化する。しかし軍部は、翌9月に満州事変を起こす。その後の朝鮮軍司令官が、奉直命令なしに軍隊を越境させたことをみれば、満州事変は周到に準備されたもので、関東軍だけの暴走ではないことがわかる。これは陸軍による計画された満州武力侵攻作戦である。 (新聞)8/5東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1931年 昭和6年 8月18日 | ●揚子江の洪水で罹災民3000万人と漢口発。 |
1931年 昭和6年 8月26日 | ●濱口雄幸前首相小石川の自宅で死亡。 |
1931年 昭和6年 9月18日 午後10時20分頃 | 満州事変勃発(柳条湖事件・9.18事件)・15年戦争の発端
「満蒙問題ノ解決策ハ満蒙ヲ我領土トスル以外絶対ニ途ナキコトヲ肝銘スルヲ要ス」と「先ツ国内ノ改造ヲ第一トスルハ一見極メテ合理的ナルカ如キモ・・政治的安定ハ相当年月ヲ要スル恐尠カラス ・・内部改造ヲ先ニスル必スシモ不可ト称スヘカラサルモ我国情ハ寧ロ速ニ国家ヲ駆リテ対外発展ニ突進セシメ途中状況ニヨリ国内ノ改造ヲ断行スルヲ適当トス・・」ということである。 つまり国内改造をまたず、先に対外発展(満州を自国領土とすること)をすべきだといっているのである。 |
「満蒙は日本の生命線」とその前史 ●前年昭和5年の第59議会で、前満鉄副総裁で政友会代議士・松岡洋右は次のように指摘した。 「満蒙はわが国の生命線であって、その重大なることはいふまでもないところであるが、満蒙政策の危機を覚ゆる今日より甚だしきはない」 また更に、前満鉄社長で貴族院議員の・川村竹治も次のように発言し政府の無為を攻め立てた。 「我国の満蒙領有以来20余年、満蒙政策の不満足、不安定なる今日より甚だしきはない」 また同じ議会でも次のような発言があった。 「満蒙問題は極めて重大化し、満鉄は支那鉄道の圧迫によって、空前の大減収に陥ってゐる。・・」 (出典)「朝日政治経済叢書. 第11 (満蒙の諸問題)」 朝日新聞社政治経済部 編 昭和6年朝日新聞社刊 *リンクします 「満蒙の諸問題」→●下は満鉄を象徴する(港湾)「大連港埠頭1934年頃」と(鉄道・輸送)「弾丸列車あじあ号1934年11月」の写真である。この会社は、半分を日本政府が出資した植民地経営のためのマンモス国策会社であり、事業内容は鉄道、港湾の整備、船舶輸送、炭鉱の経営、鉄道付属地での都市建設と都市の管理、農地開発までも行った。具体例は下のようである。 満蒙の小史(1894年~1915年頃まで) ●日本は日清戦争(1894-1895年)の結果、遼東半島の割譲を得た。しかしロシアは、シベリア鉄道を完成し満州に勢力を伸ばそうとする意図から、3国干渉(ロシア・フランス・ドイツの3国)を主導し、日本の遼東半島領有を認めず清国に返還させた。 | |
1931年 昭和6年 9月20日 | ●「酒は涙か溜息か」古賀政男作曲・高橋掬太郎(きくたろう)作詞・藤山一郎歌、コロンビアレコードから発売され、大ヒットとなった。下でユーチューブにリンクしてみた。*リンクします「酒は涙か溜息か」 |
1931年 昭和6年 9月21日 | 英国金本位制から離脱
|
ついに日本はこの9月、政治・経済・軍事面において、歴史の転換点を迎えたのである。 | |
1931年 昭和6年 9月~ | ドル買いと為替差益と金流出
|
1931年 昭和6年 9月~ | ●9/21朝鮮軍司令官林 銑十郎、奉直命令なしに軍隊を越境させる。 ●9/21中国蒋介石、正式に国際連盟に柳条湖事件解決を提訴。 ●9/24政府は満州事変に関し、事態の不拡大と領土的野心のないことを声明(第1次) ●9/26上海で抗日全市総罷業、各地で排日運動激化。 ●10/1中国、南京政府(蒋介石)と広東政府(汪兆銘)抗日で基本的に一致。 |
1931年 昭和6年 10月8日 | ●対満州方針決定。![]() |
1931年 昭和6年 10月17日 | 10月事件《錦旗革命》発覚 ●橋本欣五郎中佐以下首謀者13名、憲兵隊に保護拘束される(逮捕ではない)。これにより10/24に計画されていたクーデター計画が発覚し計画は未遂に終わった。この計画の規模は後の2.26事件よりはるかに大きかったといわれる。 |
1931年 昭和6年 10月24日 | 際連盟理事会、11月16日を期限とする日本軍の満州撤退勧告案を13対1で可決する
|
1931年 昭和6年 10月26日 | ●政府、満州事変に関する第2次声明を発表(撤兵するための前提条件)「国民的生存の権益は絶対変改を許さず」。 |
1931年 昭和6年 10月27日 | ●教員の給与未払は687町村と内務省発表。 |
1931年 昭和6年 10月31日 | 北海道・東北の農村、冷害・凶作飢饉 ●全農作物平均7割減で、要保護の窮民は35万人、と新聞報道される。この年の東北地方は、4月から7月にかけて異常低温で、7月の平均気温は盛岡で18.4度という低さだった。加えて6月は多雨日照不足、稲の苗代での発育不良、移植期の遅れ、田植え後の活着障害、生育障害という状態に陥った。最もひどかった青森県では、5年の130万石(豊作貧乏といわれた)に対して6年は半分以下の60万8000石だった。北海道も稲作は平年の36%強、畑作61%強という大減収だった。作家の下村千秋は、餓死線上の農民は、岩手県下に3万人、青森県下に15万人、秋田県下に1万5000人、北海道全道で25万人と書いた(中央公論昭和7年2月号)。また全国の欠食児童は20万人を越え、東北北海道では人身売買や若い女性の「身売り」が数多く起きた。 |
1931年 昭和6年 11月2日 | ●社会青年同盟員100余人「ドル買い狂奔の三井財閥を粉砕せよ」と東京日本橋の三井銀行へデモ。26人検挙される。 |
1931年 昭和6年 11月3日 | ●宮沢賢治、9月上京後高熱を発し岩手県花巻町に帰省、病床にて11月3日付けの手帳に「雨ニモマケズ」の詩を記した。下はその最初の部分。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシヅカニワラッテヰル ・・・(後略) |
1931年 昭和6年 11月4日 | ●民政党、円売りドル思惑買いが正貨流失の原因と糾弾を決議。 |
1931年 昭和6年 11月 | 関東軍、満州国樹立へ軍を進める
|
1931年 昭和6年 11月29日 | ●日本放送協会、全国各放送局を動員して「在満同胞慰安の夕」を編成、満州へ向け放送を開始。 |
1931年 昭和6年 12月5日 | ●商工省、綿糸紡績業など19産業を、重要産業統制法による重要産業に初めて指定・告示。 |
マスコミの戦争熱強まる ●満州事変後新聞紙各社はこの事件を拡販競争に利用し、大量の記者を派遣し連日センセーショナルな報道を続け、国民の排外熱を煽った。マスコミ各社の論調の基は次のような考えであった。 ●(大阪朝日新聞社重役会議決定) 「国家重大事ニ処シ日本国民トシテ軍部ヲ支持シ国論ノ統一ヲ図ルハ当然ノ事ニシテ現在ノ軍部及軍事行動ニ対シテハ絶対批難批判ヲ下サス極力之ヲ支持スヘキコト」「憲兵情報秘第658号」 ●(東京日日新聞社) 「満蒙における我が権益に対する支那側の侵犯行為に対して国民は極度に憤慨してゐる。従ってこれに関し、支那を責め、日本自らを鞭撻することは、国民悉く異議がないのである。」「東日70年史」 ●(日本放送協会の方針) 「ラヂオの全機能を動員して、生命線満蒙の認識を徹底させ、外には正義に立つ日本の国策を明示し、内には国民の覚悟と奮起を促して、世論の方向を指示するに努める」日本放送協会編「放送50年史」 (出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋 笑いの慰問団
| |
1931年 昭和6年 12月11日 | 若槻民政党内閣瓦解する
|
1931年 昭和6年 12月13日 | 犬養毅(いぬかい-つよし)内閣成立 政治家。号は木堂。備中(岡山県)の人。初め新聞記者。明治23年(1890年)第1回選挙から衆議院議員連続当選17回。国民党、さらに革新倶楽部を結成。のち、政友会総裁。その間、文相、逓相を歴任。昭和6年(1931)首相となったが、翌年五・一五事件で暗殺された。(出典)「日本国語大辞典精選版」 |
1931年 昭和6年 12月13日 | ●政府、13日金輸出再禁止、14日対米為替暴落、17日金兌換停止の緊急勅令公布、諸株暴騰、全国株式市場大混乱となる。![]() グラフ(出典)「日本銀行百年史第3巻」日本銀行 |
1931年 昭和6年 12月25日 | ●社会民衆党の書記長以下約100名のデモ隊が、東京市麻布区今井町の三井総本家に押しかけ、ドル買い糾弾のビラをまいた。デモ隊の代表が三井合名の高井理事と会見し「東北地方の餓死を救へ失業者百万の絶望生活を保障しろ」と要求した。この抗議行動は同時に岩崎家(三菱)、住友家に対しても行われた。 |
1931年 昭和6年 12月27日 | ●関東軍、遼西作戦を開始、満州軍増兵を閣議決定する。陸軍省は朝鮮軍司令官に、師団司令部および1旅団の関東軍への増派を指令した。 |
1931年 昭和6年 12月28日 | ●関東軍、錦州に進撃を開始する。張学良、「我軍は死を誓って抵抗せん」と南京に打電する。 |
●昭和7年1月10日、東京代々木練兵場で「国防献金」による陸軍機2機の命名式(愛国第1号、愛国第2号)が行われ、関係者1000人が主席し、10万余の民衆が集まった。このような献納機に軍が命名と命名式を行う方式は、国民の反響を呼んで、各地で献納を競い合うようになっていった。
●下の一覧は、陸軍省が1933年(昭和8年8月)に発行した、満州事変「国防献品記念録」のうち「主要献納兵器一覧表(其一)(飛行機ノ部)」である。昭和7年1/10から昭和8年8/8(予定)までの一覧で、下の飛行機の写真は、リストに赤丸で示した。また一覧には個人献納者もいるが、愛国名称・第三(小布施)・第四(同)・第五(同)・第三十七(同)の献納者小布施新三郎とあるのは、ネットでは明治-大正時代の長野県出身の実業家(投機家・相場師)で、莫大な財産を得た人物とある。
年・月 | 1932年(昭和7年) | |||
---|---|---|---|---|
1932年 昭和7年 1月18日 | 第1次上海事変、関東軍の謀略 (これは関東軍が、満州への列国の注意をそらせ、そのすきに満州国を独立させるための陽動作戦だった。しかし日中両軍は全面衝突する)
(左写真)3/1午後0時30分、呉淞(ウースン)の鉄道桟橋に上陸した上海派遣軍司令官白川義則大将。(中写真)北四川路付近を急ぐ避難民たち。(右写真)北四川路西側の閘北を守る中国第19路軍。「鉄軍」と呼ばれた精鋭部隊。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
*リンクします「爆弾三勇士の歌 (歌詞改訂前)」 | |||
1932年 昭和7年 2月2日 | 国際連盟主催・第1回世界軍縮会議開催 ●第1回は1932年2月から7月まで開催。米ソなど61カ国が参加しジュネーブで開催される。日本の首席全権は松平恆雄駐英大使(元会津藩主・京都守護職の松平容保の六男で、長女・節子(成婚後「勢津子」と改名)は秩父宮雍仁親王の妃)。 | |||
1932年 昭和7年 2月4日 | ●第3回冬季オリンピック、アメリカのレークプラシッドで開催。日本はスキーおよびスケート選手20人が参加する。 | |||
1932年 昭和7年 2月5日 | ●関東軍、錦州占領後日本人居留民保護を名目にハルビン方面の反吉林軍を攻撃、2/5ハルビンを占領した。 | |||
1932年 昭和7年 2月9日 | 血盟団・小沼正が前蔵相・井上準之助を射殺する
| |||
1932年 昭和7年 2月11日 | ●大川周明を中心として国家主義団体「神武会」を結成する。「既成政党の糾弾、財閥打倒、満蒙権益の国民化」などをスローガンに掲げた。昭和10年に解散した。 | |||
1932年 昭和7年 2月20日 | ●第18回総選挙、政友会が圧勝する。政友304、民政147、社会民衆3、労農大衆2。民政党は解散時の247議席から一挙に147議席と大敗した。 | |||
1932年 昭和7年 2月21日 | ●中国国民政府外交部、満州新国家否認の声明を発表。東北3省は中国領土の一部と声明。 | |||
1932年 昭和7年 2月24日 | (アメリカ、上海事件条約違反と非難)![]() (新聞)2/26東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 | |||
1932年 昭和7年 2月29日 | リットン調査団一行来日
| |||
1932年 昭和7年 3月1日 | 満州国建国宣言・首都は新京(長春)・元号は大同
| |||
1932年 昭和7年 3月5日 | 血盟団・菱沼五郎が三井財閥総帥・團琢磨を射殺する
●(血盟団)首謀者の井上日召は、頭山満の邸宅に潜伏していたが3/11自首し事件は解決した。血盟団は、東京帝大、京都帝大の学生らと結びつき、また海軍の青年将校や陸軍の青年将校らとも関係をもった。しかし10月事件のあと消極的になった陸軍将校からはなれ、海軍将校と民間側だけで事を起こすことを決め、決起第1弾を民間側のみで決行した。これは「1人1殺」で政財界の要人を暗殺するもので、2人のみ実行できた。裁判では大衆の同情を受け、30万通もの減刑嘆願書もあり、無期懲役の判決を受けた井上日召は5年で仮釈放、小沼正と菱沼五郎も昭和18年には恩赦・特赦で出獄した。(標的は列記すると次のようであった。西園寺公望、徳川家達、牧野伸顕、伊東巳代治、犬養毅、井上準之助、幣原喜重郎、若槻礼次郎、床次竹二郎、鈴木喜三郎、池田成彬《三井財閥No2》、團琢磨《三井財閥総帥》) | |||
1932年 昭和7年 3月18日 | (大阪で国防婦人会発会・会長三谷英子、副会長安田せい) ●最初は地域の婦人会の仲間で会員40人程度が、「白いかっぽう着」姿で大阪港・大阪駅を通過する軍隊を接待した。この頃の大阪港は、上海事変の増援部隊が送り出されており、在郷軍人会、愛国婦人会など送迎を行っていたが、安田らは「暖かい見送りしようと考え」湯茶の接待を始めたのである。その後「白いかっぽう着」を制服とした国防婦人会は陸軍省の支持も受け、「大日本国防婦人会」に改められた。そして街頭活動を中心とする団体から、「日本婦徳」を掲げる修養団体へと方向を転換し、「1家に1人」をスローガンにし、昭和17年に「大日本婦人会」へ統合されたときは、公称会員数1000万人といわれた。 ●昭和17年2/2、愛国婦人会、国防婦人会、大日本連合婦人会は「大日本婦人会」へ統合された。満20歳未満の未婚者を除く女性は同会の加入を義務づけられた。会員数1900万余の婦人組織の誕生だった。 | |||
1932年 昭和7年 3月24日 | ●貴族院本会議、婦人公民権案を否決。賛成62票、反対184票 | |||
1932年 昭和7年 4月26日 | ●瑞金の中華ソビエト共和国(中国共産党)臨時政府、対日宣戦を布告する。 | |||
1932年 昭和7年 4月29日 | (上海の天長節《=天皇誕生日》祝賀会場で爆弾テロ事件発生)![]() ●尹奉吉は忠清南道礼山郡出身の独立運動家で、1931年上海に渡った。そして1月の「桜田門事件」が起こると金九を訪ねて朝鮮独立運動に加わったのである。逮捕された尹は5月に上海派遣軍の軍法会議で死刑判決を受け、その後日本に移送され12月19日金沢市で銃殺された。(尹は25歳だった) (新聞)4/30東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 | |||
1932年 昭和7年 5月1日 | ●第13回メーデー開催。東京では75団体が参加し市内を行進したが、1200人超が検挙された。新聞には「当局徹底的の弾圧」「4500名の大警戒、警官のメーデー」とある。 | |||
1932年 昭和7年 5月15日 | 5.15事件起こる・犬養毅首相暗殺される ●5/15の夕方5時ごろ、三上卓中尉ら海軍将校4名と後藤映範ら陸軍士官候補生5名からなる一団は、2台の自動車に分乗して首相官邸を襲った。犬養首相は頭部に2発の銃弾を受け死亡し、官邸警備の巡査2名も撃たれ、1人が死亡し1人は重傷を負った。第1組(計9名)。 5.15事件、事件後の動き ●この事件の社会に与えた衝撃は大きく、当初は新聞にも軍部批判の論調が見られたが、軍部の圧迫などによりしだいに沈黙させられていった。 「これら純真な青年が、かくのごとき行動に出たその心情について考えれば、涙なきをえない。名誉のためとか、または売名的行為ではない。真に皇国のためになると信じてやったことである・・」 また大角海相も次のように語った。(出典)「日本の歴史12巻」読売新聞社1963年第12刷 「なにが、かれら純情の青年にこの誤りをさせるようになったかを考えるとき、つつしんで三思(=熟慮)すべきものがある・・」 ●事件後70余の新聞が一時的に発禁処分を受け、軍部を批判できなくなった。しかしそんな中でも「福岡日日新聞(現西日本新聞)」は、5/15の夕刊から菊竹六鼓(ろっこ)の社説「敢えて国民の覚悟を促す」を掲載し軍部を批判した。その書き出しは次のように始まる。 頻々(ひんぴん=同じような事が引き続いて起こるさま)たる暗殺の連続として、犬養首相がついに陸海軍人の一団のために兇手に斃れたことは、われわれが国民とともに悲憤痛恨に堪えざるところである。・・・ ●これに対して陸軍の反応はすさまじく、福岡連隊区司令部は「軍隊に対する侮辱である」との手紙を送りつけ、社屋の上空を大刀洗航空隊(福岡)の軽爆撃機を旋回させ攻撃の脅しすらかけたのである。
| |||
1932年 昭和7年 5月26日 | 斎藤実(さいとう-まこと)内閣成立 海軍大将、政治家。子爵。陸奥水沢藩(岩手県)出身。海軍大臣、朝鮮総督、枢密顧問官を歴任。五・一五事件の後、首相となり、挙国一致内閣を組織したが帝人事件で辞任。のち内相。二・二六事件で暗殺された。(出典)「日本国語大辞典精選版」 | |||
1932年 昭和7年 6月3日 | (全国初の煤煙防止規則制定) ●大阪府は全国に先がけて煤煙防止規則を制定し、10月1日から施行した(大阪、堺、岸和田の3市に適用)。大阪は視界の悪さでは「霧の都」ロンドンをしのぐといわれ、「煙の都」大阪といわれた。原因は工場に使われる石炭の質の悪さと、煤煙防止装置の未設置によるものだった。大阪の工業は、明治中期からの紡績業の発展、大正期の染色業、金属工業の発展、そして軍需関連産業や輸出関連産業が活況となるなかで工場が続々と増設されていったのである。昭和7年頃の大阪には、約1万本の煙突が立っていたとされる。 | |||
1932年 昭和7年 6月8日 | (ブラジル移民船ラプラタ丸、762人を乗せ神戸港出港) ●この年のブラジル移民は1万5072人となりピークを迎えていく。政府は9月、農村救済策として、ブラジル移民に対する船賃全額補助(1923年より実施)に加え、支度金補助を決定した。こうして翌8年ブラジル移民は2万3389人と戦前のピークを迎えた。これは8年の海外移民総数の85%にあたった。 ●しかしブラジルは昭和9年(1934年)7月、新憲法を交付し移民を大幅に制限した。ブラジル国内の失業者対策、人種対策などが主な理由だった。その後日本は満州への移民政策を重視したため、ブラジル移民は急速に減っていった。 ●昭和7年における海外在留邦人数を列挙すると以下の通りである。ブラジル(13万2699)、中国(5万3374)、満州国・関東州(26万332)、アメリカ合衆国(24万9659)、カナダ(1万9625)、計(その他の国含む)(82万5100)。 「我国民の海外発展」日本統計年鑑より(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 | |||
1932年 昭和7年 6月14日 | ●満州新国家承認決議案を、衆議院本会議、満場一致で可決。 | |||
1932年 昭和7年 6月23日 | (三島徳七、MK磁石鋼の特許を取得) ●東大教授三島徳七が発明した(昭和6年7月)強力な磁石鋼が、世界最高の評価を受け日本および欧米8カ国で特許を得た。1917年に発明された(本多・高木による)KS鋼の保磁力を倍増させたものだった。 | |||
1932年 昭和7年 7月30日 | (第10回オリンピック、ロサンゼルスで開幕)
| |||
1932年 昭和7年 7月31日 | ドイツ・ナチ党230議席を獲得、第一党となる ●深刻な経済恐慌と560万人の失業者であふれるドイツで総選挙が行われ、ナチ党(=ナチス、ナチス党、国民社会主義ドイツ労働者党)は、37.4%の得票率で230議席を獲得、第一党となる。これまでワイマール共和国(ドイツ共和国)を擁護し、常に第一党だった社会民主党は133議席に後退した。共産は89議席。ヒトラーの政権担当を期待する広範な国民の声が広がっていく。 | |||
1932年 昭和7年 8月14日 | (麻生鉱業争議おこる) ●福岡の麻生鉱業の朝鮮人労働者約80名が、酷使廃絶、賃上げなどを要求してストに突入した。争議団はハングル文字で「差別しないで互いに手をつなぎ、早く組合に覚悟をもって結集しよう」とビラを作って呼びかけた。それに応えて425人が参加したが263人が解雇された。日本人労働者は参加しなかった。ビラの最後には漢字で「打倒 暴力搾取之巨傀 麻生財閥 民族的差別待遇 絶対反対」とある。(1872年、石炭採掘事業に着手した麻生太吉は、第92代内閣総理大臣・麻生太郎の曾祖父である) | |||
1932年 昭和7年 8月22日 | 時局匡救(きょうきゅう)議会招集 ●農産物価格指数は、昭和元年(1926年)を100とすると、昭和6年(1931年)は54.5まで下落し、農家の負債総額は、昭和4年40億円から昭和6年60億円と膨れあがった。1戸あたりの借金額は1000円となり平均年収を超えた。 農村漁村及中小商工業の窮状に対し、之が匡救策を講ずることは、今期議会の使命であります
(匡救対策) ●米価対策・・米穀法の改正による米穀統制法の成立(昭和7年末64議会)。 この米穀統制法は公布(昭和8年3/29)、施行(昭和8年11/1)されたもので、内容は米価の最低・最高価格を公定し、それを維持するために政府が最低価格で米を買い入れ、最高価格で売り渡しを行うもので、申し込みがある限り無制限で政府が買い入れる義務を負うものだった。しかし輸入米(内地米より2,3割安い)の流入を制限しなかったために、米価は下落する傾向にあり、買い上げ予算の破綻も予測され始めたのである。 ●負債整理対策・・農村負債整理組合法を昭和8年3/29に公布し、各町村に負債整理組合を設置した。これは国の仲介による、負債条件の緩和、利子の減免などを図ろうとしたものだったが、対象を中農以上としたため実効をあげることができなかった。 ●時局匡救予算・・この予算は昭和7年度から9年度かけて、約8億6000万円が認められた。 ![]() ●農村経済更生運動・・これは政府が最も力を入れたもので、農民自身による「自力更生」を目的としたもので、これは土地利用・生産の合理化、販売統制、生活改善と農村生活の全てに及んだ。また農林省経済更生部は農民に産業組合(農協の母体)への加入を指導した。この産業組合は、農村を対象に金融、購買、販売などの事業を行う協同組合で、この頃最も規模の大きい農民組織だった。 | |||
1932年 昭和7年 9月15日 | 日本政府、満州国を正式承認
條約第九號 議定書 日本國ハ満洲國が其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ獨立ノ一國家ヲ成スニ至リタル事實ヲ確認シタルニ因リ 満洲國ハ中華民國ノ有スル國際約定ハ満洲國ニ適用シ得ベキ限り之ヲ尊重スベキコトヲ宣言セルニ因リ 日本國政府及満洲國政府ハ日満兩國間ノ善隣ノ關係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土權ヲ尊重シ東 *リンクします 「日満議定書」→国立公文書館アジア歴史資料センター | |||
平頂山事件 ●日満議定書が調印された昭和7年(1932年)9/15の夜から9/16にかけて撫順炭鉱(遼寧省)4km南の平頂山部落で、日本軍による虐殺事件「平頂山事件」が起きた。 (注)三光作戦(「光」は…しつくすの意) 殺しつくし(殺光)、焼きつくし(焼光)、奪いつくす(略光)の意で、第二次世界大戦中に中国を占領した日本軍の行動を中国人が告発していったことば。(出典)「日本国語大辞典精選版」 極東国際軍事裁判所判決から「匪賊」 ●この事件については、極東国際軍事裁判所判決から「匪賊」の部分を引用してみる。日本軍は、満州における日本の支配に抵抗する反日反満武装勢力に対し「匪賊(ひぞく)」《盗匪(=盗賊・匪賊)など》として取扱ったことが記されている。 ●中国戦争で捕虜となった者は匪賊(ひぞく=徒党を組んで殺人・略奪を行う盗賊)として取扱われた 国際連盟は1931年12月10日の決議でリットン委員会を設け、事実上の停戦を命じたが、この決議を受諾するにあたって、ジュネーヴの日本代表は、日本軍が満州で『匪賊』に対して必要な行動をとることを、この決議は妨げるものでないという了解のもとに、これを受諾すると言明した。 極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪 極東国際軍事裁判所 編 1948年刊満州国の法律「暫行懲治盜匪法」の意味すること ●ここで満州国の法律「暫行懲治盜匪法」を下段に引用してみる。満州国政府(日本)は、満州における日本の支配に抵抗する反日反満武装勢力を「匪賊(ひぞく)」「盗匪=盗賊・匪賊」とした。そしてその匪賊を掃討粛清するときは、「臨陣格殺」ができるほかに、その軍隊の司令官とその警察の高級警察官は、裁判を経ずに、その裁量で死刑の措置をすることができるとしたのである(7条と8条)。この「臨陣格殺」とは、正しい意味はよくわからないが、「陣を組んで殴り殺す」ような意味であろうか(私見)。
「暫行懲治盜匪法」 大同元年九月十日教令第八十一號 茲ニ参議府ノ諮詢ヲ経テ暫行懲治盜匪法ヲ制定シ之ヲ公布セシム 暫行懲治盜匪法 第一條 強暴又ハ脅迫ノ手段ニ依り他人ノ財物ヲ強取スル目的ヲ以テ聚衆(しゅうしゅう=たくさんの人を集める)又ハ結夥(jié huǒ=徒党を組む)シタル者ハ之ヲ盜匪トス *リンクします 「暫行懲治盜匪法・満州国六法全書 : 満日対訳」→ | ||||
1932年 昭和7年 9月25日 | (右派・中間派労働組合の大合同) ●日本労働史上例のなかった大規模な連合組織である「日本労働組合会議」が結成された。全組織労働者の75%にあたる28万人を擁することになった。「皇道日本の興隆」を掲げた組合の誕生だった。 | |||
1932年 昭和7年 10月1日 | 東京市、世界第2位の都市となる ●東京市は隣接する5郡82町村を合併し人口551万3482人となり、ニューヨークに次ぐ世界第2の大都市となった。国内ではそれまで1位だった「大大阪市」の240万人を超え「大東京市」が誕生した。それまでの東京市の区部15区に、東京府の5郡部から20区を新設し、合わせて35区としたのである。この15区のうち、麹町区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区を「山手(やまのて)」と呼んだようである。参考に下に区分けを書いておく。
●東京市15区 麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区。 ●新設20区 ①(南葛飾郡)・・江戸川区、葛飾区、城東区、向島区。 ②(南足立郡)・・足立区。 ③(北豊島郡)・・荒川区、滝野川区、王子区、豊島区、板橋区。 ④(豊多摩郡=南豊島郡+東多摩郡)・・淀橋区、中野区、杉並区、渋谷区。 ⑤(荏原郡《えばらぐん》)・・世田谷区、目黒区、荏原区、大森区、鎌田区、品川区。 | |||
1932年 昭和7年 10月1日 | リットン調査団、報告書を日本政府に通達
| |||
1932年 昭和7年 10月3日 | 第1回満州武装移民団、東京駅を出発
| |||
1932年 昭和7年 10月6日 | 新生共産党大検挙
| |||
1932年 昭和7年 11月8日 | アメリカ大統領選で民主党ルーズベルトが勝利する
| |||
1932年 昭和7年 11月 | (日本始まって以来の大予算案)![]() (新聞)11/20東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 | |||
1932年 昭和7年 11月21日 | (国際連盟理事会、連盟本部で開催)![]() (新聞)11/22東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 ●12/6国際連盟は、日中紛争に関する討議のために臨時総会をジュネーブで開催する。 | |||
1932年 昭和7年 12月16日 | 日本橋白木屋百貨店で初の高層ビル火災が起こる
| |||