1931年(昭和6年)9/18「満州武力侵攻」、1932年5/15、犬養首相暗殺「5.15事件」

アジア・太平洋戦争

日本は1931年9月、政治・経済・軍事面において、歴史の転換点を迎えた。それは陸軍による満州武力侵攻(満州事変)の開始であり、国内では右翼と軍部による政府転覆計画とテロの続発である。
 われわれはここで知ることができる。軍部は政府を「統帥権干犯」であるとして、軍部に対する干渉を拒否し侵略戦争に突き進んだが、根本において天皇に対する「統帥権干犯」を犯したのは軍部であったことである。
●年表では日本国内の政治・経済・事件を、昭和6年(1931年)から昭和7年(1932年)まで書き出した。特に満州事変(1931年9/18)と満州国樹立(1932年3/1)は、「アジア・太平洋戦争」の始まりである。そして日本は、総理大臣に対するテロの続発により、陸軍が実権を持つ軍国主義の道に進んだのである。

(上右写真)1931年9/21竜山駅を出動する第20師団(京城)歩兵七七連隊。(左写真)1931年11/17広島宇品港を発つ第8師団(弘前)の兵士を、広島市愛国婦人会、青年団、市民ら多数が見送った。-写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

目次
昭和6年~昭和7年 主要項目
昭和6年(1931年)
濱口雄幸首相(死亡)→第2次若槻礼次郎内閣→犬養毅内閣
●濱口首相は前年の11月に右翼のテロで重傷を負った。幣原外相が首相代理として内閣を運営したが、民間右翼団体と軍部若手将校らによる政府転覆行動が活発となり、三月事件(軍事政権樹立を目ざした旧日本陸軍青年将校によるクーデター計画3/20)が発覚し、未遂に終わった。そんなおり退院し無理な登院を続けていた濱口首相は、病状を悪化させ、内閣は総辞職した。元老・西園寺公望は、暗殺による政権交代があれば暗殺を奨励するようなものだとして、若槻礼次郎(民政党)への大命降下を奏請したのであった。

下

昭和7年(1932年)
犬養毅(5.15事件暗殺)→斎藤実内閣
●犬養毅は、陸軍大臣に急進派が推す荒木貞夫中将(皇道派)、内閣書記官長に大陸積極論者である森恪を登用した。荒木貞夫中将は、前年の10月事件(クーデター計画)では、首相に目された人物であった。犬養毅はこの人事で軍部をコントロールしようとしたのだが、逆に軍部が発言力を強めていったのである。

下

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年表、1930年(昭和6年)~1932年(昭和7年)
年・月 1931年(昭和6年)
(昭和6年のポイント)
●遂に関東軍は満州事変(9/18)を起こし、満州武力侵攻を開始した。国内でも右翼と軍部若手将校によるクーデター計画(3月事件・10月事件)未遂事件が起こり、軍部独裁体制への動きと、国民に対するマスコミの戦争扇動も加速していく。国際連盟理事会による日本軍満州撤退勧告案(10/24)も、逆に国民の軍部に対する支持・共感を高めていったのであろう。10/12、大阪朝日新聞社は重役会議で次のように決定したという。(講談社「昭和2万日の全記録」より)

「国家重大事ニ処シ日本国民トシテ軍部ヲ支持シ国論ノ統一ヲ図ルハ当然ノ事ニシテ現在ノ軍部及軍事行動ニ対シテハ絶対批難批判ヲ下サス極力之ヲ支持スヘキコト」「憲兵情報秘第658号」

そして12月には「軍国美談」が賞賛され、新聞、放送、雑誌、映画などマスメディアは、なだれを打ったように軍国主義に向かったのである。

1931年
昭和6年
1月
●1/1「のらくろニ等卒」少年倶楽部新年号に連載開始。田河水泡。
●1/4前年度労働争議発生11月までで1682件、年間新記録。
●1/22第59議会再開。首相代理問題で紛糾するが、幣原首相代理が予定通り施政方針演説を行う。
●1/31ブラジル移民再開
1931年
昭和6年
2月3日
●幣原首相代理のロンドン条約に関する「失言」で衆議院予算総会大混乱となる。この問題で議事が混乱していたが、ついに2/6乱闘国会となり、予算審議は10日間中断する。
●この幣原首相代理の発言は「・・・ロンドン条約は日本の国防を危うくするものとは考えないという意味は申しました。現にこの条約はご批准になって居ります。ご批准になって居るということを以て、このロンドン条約が国防を危うくするものでないことは明らかであります」と答弁したことが大問題となった。それは「天皇に責任を帰し奉るとは何事であるか」ということであった。
(新聞)2/4東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1931年
昭和6年
2月8日
●東京と大阪で無産婦人大会が開催され、徹底婦選獲得を決議する。東京ではデモで婦人多数が検束される。
1931年
昭和6年
3月2日
●ロンドン条約による軍縮により、海軍工廠整理が閣議で決定され、8900人が解雇、手当は1人平均690円。
1931年
昭和6年
3月10日
●濱口首相、狙撃事件後27日ぶりに登院し、職務復帰のあいさつをする。
1931年
昭和6年
3月17日
●労働組合法案・労働争議調停法改正案が衆議院本会議で可決される。しかし貴族院で審議打ち切りとなる。この政府案も、労働者の団結権や争議権など基本的権利を保障する法ではあったが、取り締まる色彩の強いものだった。それでも貴族院は審議打ち切りとし、これ以後戦前には上程されることはなかった。
1931年
昭和6年
3月20日
三月事件未遂

●軍事政権樹立を目ざした旧日本陸軍青年将校によるクーデター計画。桜会の急進派と陸軍首脳部が謀議し、宇垣一成内閣樹立を企図したが、未遂に終わった。(出典)「日本国語大辞典精選版」
●これは陸軍首脳と大川周明を中心とした民間側右翼・左翼を動員した計画で、内容は次のようであった。

①1万人(民間の右翼と左翼)を動員して、閉会中の議会にデモをかける。
②政友会と民政党両本部と首相官邸を爆破する。
③軍隊は非常集合を行って議会を包囲する。
④陸軍省軍務局長・小磯国昭少将か参謀本部第2部長(諜報)・建川美次少将が「桜会」の将校を率いて議場に入り、幣原外相兼首相代理以下の各大臣から辞表を出させる。
⑤陸軍大臣・宇垣一成大将を首班とする内閣を作り、国家改造を一気に進める。
(出典)別冊歴読本 2.26事件と昭和維新 新人物往来社1997年刊

●しかしこの計画は宇垣大臣の心変わりで中止となった。計画に加わった陸軍首脳は、宇垣、小磯、建川のほか、陸軍次官・杉山元中将、参謀次長・二宮治重中将ら陸軍省と参謀本部の最高首脳であった。また橋本欣五郎中佐が率いる「桜会」の青年将校も加担した。大川周明は、右翼の巨頭・頭山満、徳川義親、建川少将らの意見を聞き、ようやく中止に踏み切ったといわれる。また、このクーデター自体に反対したのは別の派閥である旧「一夕会」の流れをくむ、陸軍省軍事課長・永田鉄山大佐や陸軍省補任(人事)課長・岡村寧次大佐らをリーダーとするグループだった。

1931年
昭和6年
3月24日
●婦人公民権案、貴族院本会議が否決する。
●2月28日衆院本会議で可決した婦人公民権法案(有権者25歳以上で市町村選挙に限定など制限付き)を、貴族院本会議は62対184で否決した。
1931年
昭和6年
4月1日
●重要産業統制法公布・8/11施行。
これは金解禁後の日本の国際競争力向上を目指すために、産業の組織化、合理化運動を行ってきた到達点ともいうべきものだった。この法律により、主要産業のカルテルを公認し、これに従わない企業を強制的にカルテルに参加させることが可能となった。つまり企業間の競争はやめ、業界ごとに価格協定や生産数量割り当てを行い、価格の下落を防ぎ、一定の利潤を確保することが目的だった。この運動を主導したのは商工省の中堅官僚(吉野信次、岸信介ら)であった。
1931年
昭和6年
4月14日
第2次若槻礼次郎内閣成立(民政党)

●前日4/13濱口首相は病状悪化を理由に総辞職した。若槻礼次郎は民政党総裁就任で、後継内閣を組閣した。若槻礼次郎首相は、前濱口首相の方針を踏襲すると声明をだした。外相は幣原喜重郎、大蔵大臣は井上準之助、陸軍大臣は南次郎陸軍大将であった。
(新聞)4/15東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1931年
昭和6年
4月21日
●全国産業団体連合会設立。これは労働運動対策のために結成された資本家の団体で、全国175の産業団体で結成された。会長は郷誠之助。
1931年
昭和6年
5月2日
●井上蔵相邸爆破事件起こる。
これは5/2午後10時15分頃、東京麻布区の大蔵大臣井上準之助私邸表門にダイナマイトが仕掛けられ爆発した事件。井上は御殿場の別邸にいて無事だった。犯人は倒閣維新連盟の高畑正、後備陸軍中尉の荒川精一らで、5月に逮捕された。また同月6日には、急進愛国党の児玉誉士夫が、短刀の入った小包を井上邸に送り付ける事件も起きた。
●ロンドン軍縮会議締結による軍縮、緊縮財政、金解禁による不況の深刻化などは、右翼にとって井上が元凶とされテロの標的とされたのである。(翌昭和7年2/9、井上は血盟団によって暗殺された)
1931年
昭和6年
5月3日
●軍制改革大綱を決定。
●陸軍は三長官会議で、師団を3種に改変し、3年以内に装備を完成するなどの軍制改革大綱を決定する。下段の記事と写真は、前日の井上蔵相邸爆破事件。
(新聞)5/3東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1931年
昭和6年
5月
●内務省、昭和5年末の全国労働組合数712、労働組合員数35万4312人と発表。
●内務省社会局、1/1現在の全国失業者総数を37万1802人と発表。(7/15には、5月の全国失業者数は、昭和4年9月以来最高の推定40万1000余人と発表した)
1931年
昭和6年
5月27日
●俸給令《減俸令》公布。《6/1施行》。

●これは濱口内閣が断行しようとしたが、特に法曹界からの反発で中止した官吏を対象にした減俸令の再度の断行であった。濱口内閣当時とは事情が変わってきており、農業恐慌による農村の疲弊や物価の下落にもかかわらず、官吏の俸給が割高になっていたことが理由だった。だがこれは反対運動(鉄道省によるゼネスト突入の危機など)により政府は妥協することになった。だが官吏の俸給は民間に比べて高いという風潮を決定づけ、各地方の吏員や教員の減俸に拍車をかけた。
(新聞)5/28東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1931年
昭和6年
6月20日
●フーバー・モラトリアム発表。
●アメリカフーバー大統領、関係諸国へ賠償金・戦費支払いの1年間猶予案を発表する。
(新聞)6/22東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1931年
昭和6年
6月・7月
●6/27陸軍歩兵大尉・中村震太郎、北満で中国兵に殺される(中村大尉事件)
●この記事は、8月18日に解禁になった中村大尉事件である。(新聞)8/18東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●7/2満州長春郊外万宝山で中国人農民(約500人)と中国側官憲が、朝鮮人農民と衝突する(万宝山事件)。
●7/19上海で日貨排斥運動始まる。南京、天津、奉天と反日運動広がる。
間島暴動事件、万宝山事件そして中国人惨殺事件に発展


●前年、日本・中国・朝鮮の3民族の複雑で深刻な対立・紛争がつづく間島では、暴動事件(5月~)が起き、7月~8月には敦化、10月には延吉でも事件が起きた。そしてこの間島地域での一連の事件により、日本と張学良政権との間の緊張は一挙に高まった。しかしこの時は、幣原外相による朝鮮総督府からの警官隊派遣の中止などで、一触即発の危機は回避された。
●しかし1931年(昭和6年)5月に万宝山事件が起きた。これは間島や周辺で農地を失った朝鮮人農民の一部が、長春の近郊である万宝山の荒れ地に入植しようとして、反対する中国人農民たちと紛争になった事件である。日本は当然「日本人」である朝鮮人農民を支援したが、中国は日本の勢力拡大を阻止することが目的だったので、対立は続いた。しかし7/2までは双方とも死傷者はでていなかった。
●ところが7/2朝鮮・仁川の「朝鮮日報」が、前日の衝突で「中国人が朝鮮人農民を襲撃し、多数の死傷者が出た」という虚偽を報じた。その結果7/4~7/5にかけて仁川、京城、元山、平壌、新義州など各地で中国人襲撃が起こり。死者127人負傷者約400人となる大惨事が起こった。
●これについて中国の民衆は日本に対する憤激を強め、国民政府は対日非難と日本当局の責任を問う声明を発表した。なぜなら日頃朝鮮人の行動を厳しく監視して取り締まっている日本当局が、この暴動に限って暴徒の殺人・放火・掠奪を許したのは、当局が朝鮮人をそそのかしたのか黙認したかによる、としたのである。
●こうして、万宝山事件と朝鮮での事件をきっかけに、7/19上海で日貨排斥運動始まり、さらに南京、天津、奉天と反日運動が広がっていったのである。
●一方日本では、軍部や関東軍は、中村大尉事件や万宝山事件を、中国に対する憎悪と強硬論を噴出させる決定的な材料として利用していったのである。
(地図)「満州での重要事件関連地図」(出典)「近代史日本とアジア 下」古川万太郎婦人之友社2002年刊

1931年
昭和6年
7月14日
●ドイツ大銀行遂に破産する。
●この銀行はドイツ「ダルムシュタット・ウント・ナチオナル」銀行で、欧州金融恐慌の発端となる。(新聞)7/14東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1931年
昭和6年
7月15日
●全国失業者数40万1千余人と内務省発表。
1931年
昭和6年
7月19日
●日貨排斥運動を開始(上海)。
1931年
昭和6年
8月4日
●陸軍、軍縮反対・満蒙問題の積極的解決。
●南陸相、軍司令官・師団長会議で、軍縮反対・満蒙問題の積極的解決を訓示する。これは軍の外交関与と問題化する。しかし軍部は、翌9月に満州事変を起こす。その後の朝鮮軍司令官が、奉直命令なしに軍隊を越境させたことをみれば、満州事変は周到に準備されたもので、関東軍だけの暴走ではないことがわかる。これは陸軍による計画された満州武力侵攻作戦である。
(新聞)8/5東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1931年
昭和6年
8月18日
●揚子江の洪水で罹災民3000万人と漢口発。
1931年
昭和6年
8月26日
●濱口雄幸前首相小石川の自宅で死亡。
1931年
昭和6年
9月18日
午後10時20分頃
満州事変勃発(柳条湖事件・9.18事件)・15年戦争の発端

●この柳条湖事件は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と作戦主任参謀石原莞爾中佐が中心となって計画した謀略事件であった。関東軍は、奉天(現瀋陽)駅東北約7.5km地点にある柳条湖付近の満鉄(満州鉄道)線路を爆破し、それを中国兵の仕業として交戦を開始し、北大営(張学良軍・中国東北軍の兵営)を攻撃、19日未明に占領した。こうして戦端は開かれ、9月21日関東軍は主力をもって吉林へ侵攻を開始した。同時に林銑十郎朝鮮軍司令官は、関東軍の要請により独断で朝鮮軍を越境させ奉天に派遣した。
●関東軍・石原莞爾の目的は「満蒙問題私見(石原が板垣の講演をまとめたもの)」に次のようにある。

「満蒙問題ノ解決策ハ満蒙ヲ我領土トスル以外絶対ニ途ナキコトヲ肝銘スルヲ要ス」と「先ツ国内ノ改造ヲ第一トスルハ一見極メテ合理的ナルカ如キモ・・政治的安定ハ相当年月ヲ要スル恐尠カラス ・・内部改造ヲ先ニスル必スシモ不可ト称スヘカラサルモ我国情ハ寧ロ速ニ国家ヲ駆リテ対外発展ニ突進セシメ途中状況ニヨリ国内ノ改造ヲ断行スルヲ適当トス・・」ということである。

つまり国内改造をまたず、先に対外発展(満州を自国領土とすること)をすべきだといっているのである。
●「先ツ国内ノ改造ヲ第一トスル」というのは、陸軍省軍事課長・永田鉄山大佐らが、まず国内改革(軍部内閣独裁の国家改造)を行ってから満州での武力行使をするという考え方。「桜会」の橋本欣五郎中佐らは、事件と同時にクーデターを決行する予定だった(10月事件・発覚して未遂)。
●結局陸軍内部では、満蒙問題の武力侵攻による解決は、既定の方針であったに違いない。そして関東軍の独走を黙認し、かつ期待したのである。

●一方日本政府は事件発生の翌日9/19午前10時に緊急会議を開いた。軍部首脳も午前7時に会議を開いて、関東軍の行動支援を提議することを決定していた。しかし閣議で幣原外相が、事件が関東軍の謀略らしいという外務省情報を披露したため、南陸相は関東軍増援提議をできなかった。閣議は事態の不拡大方針を決定した。左紙面にあるように、けふ緊急閣議の結果、陸相より関東軍司令官に訓令「事態を拡大するな!」とあるが、これは陸軍のポーズであろう。
(新聞)9/19(上)と9/20(下)東京朝日新聞市内版(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

「満蒙は日本の生命線」とその前史

●前年昭和5年の第59議会で、前満鉄副総裁で政友会代議士・松岡洋右は次のように指摘した。

「満蒙はわが国の生命線であって、その重大なることはいふまでもないところであるが、満蒙政策の危機を覚ゆる今日より甚だしきはない」

また更に、前満鉄社長で貴族院議員の・川村竹治も次のように発言し政府の無為を攻め立てた。

「我国の満蒙領有以来20余年、満蒙政策の不満足、不安定なる今日より甚だしきはない」

また同じ議会でも次のような発言があった。

「満蒙問題は極めて重大化し、満鉄は支那鉄道の圧迫によって、空前の大減収に陥ってゐる。・・」

(出典)「朝日政治経済叢書. 第11 (満蒙の諸問題)」 朝日新聞社政治経済部 編 昭和6年朝日新聞社刊

*リンクします 「満蒙の諸問題」→国立国会図書館デジタルコレクション

●下は満鉄を象徴する(港湾)「大連港埠頭1934年頃」と(鉄道・輸送)「弾丸列車あじあ号1934年11月」の写真である。この会社は、半分を日本政府が出資した植民地経営のためのマンモス国策会社であり、事業内容は鉄道、港湾の整備、船舶輸送、炭鉱の経営、鉄道付属地での都市建設と都市の管理、農地開発までも行った。具体例は下のようである。
●(鉄道)1911年に、安奉線の改修工事と、鴨緑江の鉄橋架設工事完成により、朝鮮鉄道と安奉線が接続され、翌年には釜山・安奉線・長春間に「アジア・ヨーロッパ列車」の直通運転が開始された。長春で東清鉄道・シベリア鉄道につながることができた。
●(撫順炭鉱)埋蔵量10億トンと推定され、東洋一の大炭鉱といわれた。1914年からは露天掘りによる採掘を始め、出炭量は2倍3倍へと増えていった。そして頁岩層から石油が採れることがわかり、年間約30万トンの石油を生産するようになった。
●(大連港の整備と拡充)1906年から防波堤の建設にとりかかり、1926年までに内港に、24トン級から1万トン級まで合計31隻の船舶を一時に係留できる埠頭を建設し、世界に有数の港湾を建設した。
●(都市の建設)鉄道付属地の経営として、1906年から1916年までに鉄道沿線に30の都市を建設した。そして都市行政(住民の管理、教育・衛生、上下水道の敷設)なども行った。

左写真「1934年頃大連港埠頭」(出典:「昭和2万日の記録3」講談社1989年刊)
右写真「弾丸列車あじあ号1934年11月」(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)


満蒙の小史(1894年~1915年頃まで)

●日本は日清戦争(1894-1895年)の結果、遼東半島の割譲を得た。しかしロシアは、シベリア鉄道を完成し満州に勢力を伸ばそうとする意図から、3国干渉(ロシア・フランス・ドイツの3国)を主導し、日本の遼東半島領有を認めず清国に返還させた。

下

1931年
昭和6年
9月20日
●「酒は涙か溜息か」古賀政男作曲・高橋掬太郎(きくたろう)作詞・藤山一郎歌、コロンビアレコードから発売され、大ヒットとなった。下でユーチューブにリンクしてみた。

*リンクします「酒は涙か溜息か」
動画・出典:youtube(Wo Yes氏)
1931年
昭和6年
9月21日
英国金本位制から離脱


●イギリスがポンドの兌換を停止し、金本位制から離脱、国際金本位制が崩壊する。国内の株式・商品相場暴落し立会停止となる。日本は満州事変の勃発(9/18金)と英国の金本位制停止(9/21月)とで、株式・商品相場が暴落した。東京・大阪など各地の株式市場は立会を停止した。左グラフが示すように、9/19(土)からの株式市場は暴落した。
(新聞)9/22東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊。(グラフ)(出典)「日本銀行百年史第3巻」日本銀行
●1931年5月、オーストリアの大銀行の破綻を契機に、国際的な金融危機が発生した。そしてドイツも資本逃避による金流出に直面し、7月に金本位制を停止した。するとポンドに対する信用不安が高まりイギリスからも金流出が発生し、9/21イギリスはポンドの兌換を停止し、金本位制から離脱した。これにより国際金本位制は事実上崩壊した。
●しかし井上準之助大蔵大臣は金本位制維持の姿勢を崩さなかった。

ついに日本はこの9月、政治・経済・軍事面において、歴史の転換点を迎えたのである。
1931年
昭和6年
9月~
ドル買いと為替差益と金流出

●「ドル買いの実情」を日本銀行百年史から抜粋すると以下のようである。
①横浜正金銀行による為替統制売りの規模はイギリスの金本位制停止前には1日ほぼ数10万ドル程度であったものが、21日以降は少ないときでも数100万ドル、多いときには数1000万ドルに達した。これは思惑的なドル買いであった。
②9月21日以降統制売りが事実上停止される11月4日まで1か月半の間に、横浜正金銀行が売却した米貨は1億7108万ドル(邦貨換算約3億4200万円)に達した。
③この統制売り(9月21日~11月3日)の売却先内訳(左図)をみると、最大の売却先はニューヨーク・ナショナル・シティー銀行であった。また統制売りの主要売却先のなかに、三井銀行がありまた同時に三井系企業である三井物産株式会社、東洋棉花株式会社、三井信託株式会社があった。これら4社を合計すると4352万ドルに達し、この期間中の横浜正金銀行による統制売り総額の25%を占めた。イギリスの金本位制停止を契機に急速に高まったドル買いのなかで、三井系の動きが目立ったのは当然であり、ここに財閥のドル買いとして世間の非難を浴びる背景があった。図(出典)「日本銀行百年史第3巻」日本銀行
●また金再禁止当日(12/13日)の朝日新聞には次のようにある。「有力財閥の重大打撃、再禁で忽ち蘇る」これは有力財閥が、9月21日のイギリスの金本位停止により、ポンドで持っていた巨額資金を、凍結とポンド為替暴落により巨額の損失を蒙ったが、その損失をカバーするために、日本の金本位制停止を目標に猛烈な円売りドル買いを行った、とある。しかしその思惑買いに対し政府の対応は、金本位制の断然たる擁護方針と金利の引き上げによる円資金調達防止により、円相場は逆に高騰することになった。有力銀行は決算を前に、ポンド資金の損失と円為替の暴騰により2重の打撃をうけるところが、突然の政変により、金本位停止とそれに伴う円貨暴落により、損失は一瞬にして解決され逆に巨額の利益計上となった、とある。

1931年
昭和6年
9月~
●9/21朝鮮軍司令官林 銑十郎、奉直命令なしに軍隊を越境させる。
●9/21中国蒋介石、正式に国際連盟に柳条湖事件解決を提訴。
●9/24政府は満州事変に関し、事態の不拡大と領土的野心のないことを声明(第1次)
●9/26上海で抗日全市総罷業、各地で排日運動激化。
●10/1中国、南京政府(蒋介石)と広東政府(汪兆銘)抗日で基本的に一致。
1931年
昭和6年
10月8日
●対満州方針決定。
●陸軍3長官会議で「時局処理方案」を決定、満州での独立国建設という関東軍の方針を追認する。(新聞)10/9東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1931年
昭和6年
10月17日
10月事件《錦旗革命》発覚

●橋本欣五郎中佐以下首謀者13名、憲兵隊に保護拘束される(逮捕ではない)。これにより10/24に計画されていたクーデター計画が発覚し計画は未遂に終わった。この計画の規模は後の2.26事件よりはるかに大きかったといわれる。
●計画では、重臣、閣僚、各政党の首領、財閥の巨頭などを襲撃殺害し、各新聞社、電信電話局、NHKなどを占拠したのち、東郷平八郎元帥に参内を要請し、新しい内閣に大命降下するように奏上させる予定だった。この新しい内閣のポストは列記すると次のようであった。
●総理大臣(荒木貞夫中将)、内務大臣(橋本欣五郎中佐)、外務大臣兼陸軍大臣(建川美次少将=参謀本部作戦部長、陸相は荒木首相兼任との説もあり)、柘植大臣(藤田勇=政商。資金提供者)、大蔵大臣(大川周明)、海軍大臣(小林省三郎海軍少将)などである。また警視総監に長勇少佐、参謀総長に石原莞爾中佐などをあてる予定だったという。
●拘束された橋本中佐の処分が重謹慎20日ということからも、陸軍は最初から処罰する意思はなかったのである。

1931年
昭和6年
10月24日
際連盟理事会、11月16日を期限とする日本軍の満州撤退勧告案を13対1で可決する

●これに対し関東軍司令部は、「・・かかる状態では撤兵など思いもよらぬことで、連盟理事会が何というとも絶対に撤兵せず」と断言した。
●外務当局は、ジュネーブにおいて日本が明言しなかった「基本原則」を次のように説明した。1,支那の排日、排日貨運動の永久停止。2,既存一切の條約の尊重の2原則主眼とし、(イ)領土保全の確認(ロ)排日教育の厳禁(ハ)満州における日本人の居住権、旅行権、営業権、土地利用権の確認、等を示すと。
(記事内容)10/25東京朝日新聞の紙面から(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1931年
昭和6年
10月26日
●政府、満州事変に関する第2次声明を発表(撤兵するための前提条件)「国民的生存の権益は絶対変改を許さず」。
1931年
昭和6年
10月27日
●教員の給与未払は687町村と内務省発表。
1931年
昭和6年
10月31日
北海道・東北の農村、冷害・凶作飢饉

●全農作物平均7割減で、要保護の窮民は35万人、と新聞報道される。この年の東北地方は、4月から7月にかけて異常低温で、7月の平均気温は盛岡で18.4度という低さだった。加えて6月は多雨日照不足、稲の苗代での発育不良、移植期の遅れ、田植え後の活着障害、生育障害という状態に陥った。最もひどかった青森県では、5年の130万石(豊作貧乏といわれた)に対して6年は半分以下の60万8000石だった。北海道も稲作は平年の36%強、畑作61%強という大減収だった。作家の下村千秋は、餓死線上の農民は、岩手県下に3万人、青森県下に15万人、秋田県下に1万5000人、北海道全道で25万人と書いた(中央公論昭和7年2月号)。また全国の欠食児童は20万人を越え、東北北海道では人身売買や若い女性の「身売り」が数多く起きた。

1931年
昭和6年
11月2日
●社会青年同盟員100余人「ドル買い狂奔の三井財閥を粉砕せよ」と東京日本橋の三井銀行へデモ。26人検挙される。
1931年
昭和6年
11月3日
●宮沢賢治、9月上京後高熱を発し岩手県花巻町に帰省、病床にて11月3日付けの手帳に「雨ニモマケズ」の詩を記した。下はその最初の部分。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
・・・(後略)
1931年
昭和6年
11月4日
●民政党、円売りドル思惑買いが正貨流失の原因と糾弾を決議。
1931年
昭和6年
11月
関東軍、満州国樹立へ軍を進める

●11/8天津で日中両軍衝突。
●11/10清国最後の廃帝溥儀(ふぎ)、日本軍の工作により天津を脱出。
●11/19関東軍馬占山軍を破りチチハル占領。
●11/19幣原外相、国際連盟調査員満州派遣を承諾。
●11/24幣原外相、アメリカ国務長官の警告に対して、日本軍の錦州進撃の意図はないと回答。
(新聞)11/19東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1931年
昭和6年
11月29日
●日本放送協会、全国各放送局を動員して「在満同胞慰安の夕」を編成、満州へ向け放送を開始。
1931年
昭和6年
12月5日
●商工省、綿糸紡績業など19産業を、重要産業統制法による重要産業に初めて指定・告示。
マスコミの戦争熱強まる

●満州事変後新聞紙各社はこの事件を拡販競争に利用し、大量の記者を派遣し連日センセーショナルな報道を続け、国民の排外熱を煽った。マスコミ各社の論調の基は次のような考えであった。

●(大阪朝日新聞社重役会議決定)
「国家重大事ニ処シ日本国民トシテ軍部ヲ支持シ国論ノ統一ヲ図ルハ当然ノ事ニシテ現在ノ軍部及軍事行動ニ対シテハ絶対批難批判ヲ下サス極力之ヲ支持スヘキコト」「憲兵情報秘第658号」
●(東京日日新聞社)
「満蒙における我が権益に対する支那側の侵犯行為に対して国民は極度に憤慨してゐる。従ってこれに関し、支那を責め、日本自らを鞭撻することは、国民悉く異議がないのである。」「東日70年史」
●(日本放送協会の方針)
「ラヂオの全機能を動員して、生命線満蒙の認識を徹底させ、外には正義に立つ日本の国策を明示し、内には国民の覚悟と奮起を促して、世論の方向を指示するに努める」日本放送協会編「放送50年史」

(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋

笑いの慰問団

●12/1、大阪の吉本興業部に所属する講談、漫談、漫才(横山エンタツ・花菱アチャコ)の芸人らが、「笑いの慰問団」として満州へ出発し、奉天(瀋陽)・遼陽・吉林・長春・公主嶺・四平街・鉄嶺など各地で兵士の熱狂的歓迎を受け、12/24帰阪した。9月の満州事変以降戦闘を続ける日本軍を励まそうと本土からの「慰問使」が相次いでいた。吉本正之助社長のねらいは、連日センセーショナルな報道を続ける新聞がこの慰問団のことを書き立ててくれるに違いないと計算していたようである。
(写真)12/24、横山エンタツ(中央)と花菱アチャコ(その左隣)ら大阪吉本興業部の満州慰問使一行が帰阪、大歓迎を受けた-写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1931年
昭和6年
12月11日
若槻民政党内閣瓦解する


●内閣の柳条湖事件の不拡大方針は軍部によって無視され、関東軍は9/19奉天城占領、9/21吉林進出、10/8関東軍飛行隊による錦州爆撃と続き、11/8には天津で両軍が激突し第1次天津事件を引き起こし、11/19日にはチチハルを占領した。
●こうして若槻内閣の不拡大方針は反故にされ、国際的信用は悪化した。また国内では恐慌の中、イギリスの金本位離脱に伴う財閥による「ドル買い」の狂奔がおき、国民の反発を買った。こうしたなか政府内部に造反が起き、若槻内閣は瓦解した。これは安達謙蔵内相が政友・民政両党協力内閣を主張したことにより、閣内不統一を生んだことが原因だった。。
(図)「満州事件の勃発」(出典)「図解」「知っているようで知らない昭和史」河合敦著 PHP研究所2007年第4刷刊。

1931年
昭和6年
12月13日
犬養毅(いぬかい-つよし)内閣成立

政治家。号は木堂。備中(岡山県)の人。初め新聞記者。明治23年(1890年)第1回選挙から衆議院議員連続当選17回。国民党、さらに革新倶楽部を結成。のち、政友会総裁。その間、文相、逓相を歴任。昭和6年(1931)首相となったが、翌年五・一五事件で暗殺された。(出典)「日本国語大辞典精選版」
●犬養は政友会の長老でもある高橋是清を蔵相に起用した。新内閣は、金輸出再禁止を初閣議で決定し、大蔵省令を公布・施行した。民政党の金解禁政策の行き詰まりと不況の打開を、金本位制の停止・管理通貨制度への移行に求めたのである。また犬養は陸軍大臣に皇道派の荒木貞夫中将、内閣書記官長に大陸積極論者の森恪を登用した。軍部をコントロールしようとする犬養の意図は、逆に彼らによって軍部の発言力を強める結果となった。
(号外)12/13東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1931年
昭和6年
12月13日
●政府、13日金輸出再禁止、14日対米為替暴落、17日金兌換停止の緊急勅令公布、諸株暴騰、全国株式市場大混乱となる。
●金輸出再禁止により、株式、商品相場は買いが殺到して暴騰する。これは犬養内閣がこれまでの緊縮政策の転換を図ることが予想されたからであるが、直接的には正貨維持(正貨流出防止)のためにとられた処置であった。だが新内閣としては金輸出再禁止を行ったので、緊縮政策を継承する理由はもうなくなったことと、大蔵大臣が高橋是清(積極的経済政策論者)であったから、当然緊縮政策の転換が予想されたのである。
グラフ(出典)「日本銀行百年史第3巻」日本銀行
1931年
昭和6年
12月25日
●社会民衆党の書記長以下約100名のデモ隊が、東京市麻布区今井町の三井総本家に押しかけ、ドル買い糾弾のビラをまいた。デモ隊の代表が三井合名の高井理事と会見し「東北地方の餓死を救へ失業者百万の絶望生活を保障しろ」と要求した。この抗議行動は同時に岩崎家(三菱)、住友家に対しても行われた。
1931年
昭和6年
12月27日
●関東軍、遼西作戦を開始、満州軍増兵を閣議決定する。陸軍省は朝鮮軍司令官に、師団司令部および1旅団の関東軍への増派を指令した。
1931年
昭和6年
12月28日
●関東軍、錦州に進撃を開始する。張学良、「我軍は死を誓って抵抗せん」と南京に打電する。
1931年(昭和6年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
●1/1 中華民国,新関税率実施
●1/12 日本共産党,新中央部を再建
●1/22 首相代理の長期化問題で議会紛糾

下

年・月 1932年(昭和7年)
(昭和7年のポイント①)
(天皇、関東軍の行動を追認)
●1/8天皇は関東軍に勅語を下賜した。前年の満州事変において、独断で開戦し勝手に朝鮮軍を越境させた関東軍の行動を追認したのである。陸軍の暴走は、少なくとも政府では止めることのできない段階となったのである。下にその勅語を引用した。「時局関係十大御詔勅謹解」 御詔勅衍義謹纂会 纂 明治天皇聖徳奉讃会支部 昭和14刊 コマ番号51~53から引用。

「今上天皇陛下 満洲事變二際シ開東軍ニ賜リシ勅語」
昭和七年一月八日
曩(さき)二満洲二於テ事變ノ勃発スルヤ、自衛ノ必要上、関東軍ノ将兵ハ、果断神速、寡(か)克(よ)ク衆ヲ制シ、速(すみやか)二之ヲ芟討(せんとう)セリ。爾来(じらい)艱苦(かんく)ヲ凌(しの)キ、祁寒(きかん=きびしい寒さ)二堪へ、各地二蜂起セル匪賊(ひぞく)ヲ掃蕩(そうとう)シ、克ク警備ノ任ヲ完(まっと)ウシ、或ハ嫩江(のんこう)・齊々哈爾(ちちはる)地方二、或ハ遼西・錦州地方二、氷雪ヲ衝(つ)キ、勇戦力闘、以テ其ノ禍根ヲ拔キテ、皇軍ノ威武ヲ中外二宣揚セリ。朕深ク其ノ忠烈ヲ嘉(よみ=よいと認めて、ほめる)ス。汝将兵、益々堅忍自重(じちょう)、以テ東洋平和ノ基礎ヲ確立シ、朕カ信倚(しんい=信じてたよること)ニ對(こた)ヘムコトヲ期セヨ。

(注)本文の語釋(=釈)では●芟討(せんとう)は、草を刈りとるようにすっかり敵を討ち平げること、とある。また●祁寒(きかん)は、非常な寒さの意。北満の地では零下2・30度に及ぶことはしばしばである、とある。●匪賊(ひぞく)は、わる者。支那満州にあって人民を襲い、わが皇軍に反抗する賊徒とある。

*リンクします 「今上天皇陛下満州事變ニ際シ関東軍ニ賜リシ勅語」→国立国会図書館デジタルコレクション
(昭和7年のポイント②)
「高橋財政」(高橋是清大蔵大臣による、不況からの脱出と増大する軍事費に対応する財政政策)の始まり。そして日本の景気回復。
●高橋是清は犬養毅内閣、斎藤実内閣、岡田啓介内閣3代にあって大蔵大臣を務めた。その経済政策は「高橋財政」とよばれ、特色として①金本位制からの離脱、低為替政策。②積極的な財政支出。③低金利政策などであった。
●特に財政の拡大政策は、一般歳出を1931年度(昭和6年)の約16億円から、1932年度(昭和7年)19億5000万円、1933年度(昭和8年)22億4000万円と増加させた。そしてその財源を赤字国債(歳入補填公債)にもとめ、その方法を「日銀引受発行」としたのである。大雑把に言えば、これは国債を市場で販売せずに、日銀が「引受ける」つまり通貨発行権をもつ日銀がその同額の金額の通貨を発行する、という意味である。これにより通貨供給は潤沢となり低金利に誘導することができ、また買い取った国債をのちに市場で売却すれば、放出した資金を回収することで物価調整もできるというものであった。この大きな目的のひとつは、増大する軍事費に対応するためだった。
●また農村の救済を目的とした「時局匡救(きょうきゅう)事業」があり、農村の債務整理のための低利貸付と、失業対策や所得確保を目的とする公共事業があった。

1932年
昭和7年
1月1日
●蒋介石、汪兆銘ら広東派と合体し南京に新国民政府樹立(5日広東国民政府解消)
1932年
昭和7年
1月3日
●関東軍錦州占領。
1932年
昭和7年
1月6日
(相撲界で春秋園事件起こる)
●この事件は、関脇天竜を中心に、出羽ノ海部屋の西方力士32人が、大井町の料亭「春秋園」にたてこもり、大相撲協会に対して相撲界の改革を目的に要求書を突き付けた事件である。相撲協会は明治以来の旧態依然とした経営を続け、負債も抱え興行の利益は親方衆が独占し、力士の給金すら支払われないこともあった。そこで天竜らは、ひいき筋の祝儀や親方からの借金で生計を立てていた力士たちの現状を改革しようとしたのである。
●この結果、天竜等らは32人連名の脱門状を提出し、新興力士団結成、また東方力士の鏡岩、朝潮(のちの男女ノ川)ら17名も角界の改革を掲げて協会を脱退し、革新力士団を結成した。
(注)分立していた東京相撲(角力)協会と大阪相撲(角力)協会とが、人気の衰退を挽回するために「日本大相撲(角力)協会」を設立したのは1927年(昭和2年)1/5のことである。
1932年
昭和7年
1月7日
(アメリカ、満州事変を条約違反と声明)
●アメリカ国務長官スティムソン、満州事変はパリ不戦条約違反であり、認められないと声明。
(新聞)1/9東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊。
(パリ不戦条約とは)
●このパリ不戦条約は1928年(昭和3年)8/27に、会議出席国15ヵ国で調印され、調印後ソ連、中国を含む各国に参加を求め、63カ国が調印した条約である。内容は「国家間の紛争は平和的手段のみで解決を図る」というもので「戦争放棄に関する条約」ともいわれる。
●朝日新聞(昭和3年8月27日)の紙面には、この「パリ不戦条約の主文」として以下のように掲載されている。

(本日調印さるる不戦條約の主文は左の通りである)
第1條・・締約国は各自その国民を代表し国際間の争議解決のため戦争に訴ふるを非とし締約国相互間の国策の具としての戦争を廃棄することをここに厳しゅくに宣言す
第2條・・締約国は各締盟国間に発生する事あるべき争議又は紛争は総てその性質又は原因の何たるを問はず平和的手段以外のものに訴へざるべき事を約す
第3條・・本條約は前文に記載の締約国により各自その憲法上の規定に従い批准せらるべく然して本條約は各国の批准書が全部寄託済となりたる時より効力を発生す
1932年
昭和7年
1月8日
東京桜田門事件発生。天皇暗殺を狙ったテロ事件


●この事件は、朝鮮人李奉昌が東京桜田門の警視庁前で、天皇の行列(代々木練兵場での観兵式帰路)に手榴弾を投げ爆発させた事件である(天皇は無事)。
(新聞)1/9東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊。(写真)上海出発前爆弾を手にする李奉昌と自筆の天皇爆殺宣誓文。(出典)「写真記録 日中戦争」ほるぷ出版1995年発行
●これは天皇暗殺によって朝鮮独立運動の高揚をはかる目的のテロであった。犯人である李奉昌は1901年漢城(ソウル)生まれ、1925年から大阪で労働者として働き、1930年(昭和5年)職を求めて上海へ渡った。そこで大韓民国臨時政府(1919年李承晩を国務総理として上海で樹立、のちに金九が率いた)の金九を訪ねて独立運動に参加した。そして天皇暗殺用の手榴弾と活動資金を受け取り、昭和6年12月帰国し、このテロを実行したのである。実行後李奉昌は太極旗を振り「独立万歳」を叫んでその場で逮捕された。李奉昌は「大逆罪」で裁かれ9月に死刑の判決が下り、10月10日市ヶ谷刑務所で刑が執行された(李は33歳だった)。
●犬養首相は事件発生の報を受け、緊急閣議を開き「虎ノ門事件」(1923年12月27日皇太子・摂政宮裕仁親王《後の昭和天皇》狙撃事件)の前例にならい総辞職を決定した。そして同日午後5時犬養首相は宮中を訪れ辞表を提出したが、天皇は「その儀に及ばず」と慰留し、犬養内閣の存続が決まった。

高まる飛行機献納運動

●昭和7年1月10日、東京代々木練兵場で「国防献金」による陸軍機2機の命名式(愛国第1号、愛国第2号)が行われ、関係者1000人が主席し、10万余の民衆が集まった。このような献納機に軍が命名と命名式を行う方式は、国民の反響を呼んで、各地で献納を競い合うようになっていった。
●下の一覧は、陸軍省が1933年(昭和8年8月)に発行した、満州事変「国防献品記念録」のうち「主要献納兵器一覧表(其一)(飛行機ノ部)」である。昭和7年1/10から昭和8年8/8(予定)までの一覧で、下の飛行機の写真は、リストに赤丸で示した。また一覧には個人献納者もいるが、愛国名称・第三(小布施)・第四(同)・第五(同)・第三十七(同)の献納者小布施新三郎とあるのは、ネットでは明治-大正時代の長野県出身の実業家(投機家・相場師)で、莫大な財産を得た人物とある。
(下図はマウスホールで拡大・縮小・移動ができる)

●「主要献納兵器一覧表(其一)(飛行機ノ部)」
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(写真) 飛行機命名式(昭和8年5月於東京代々木)(出典)満州事変「国防献品記念録」陸軍省 昭和8年8月刊(非売品)

(写真)八八式軽爆撃機「愛国第三十一(児童)号」全国小学生、幼稚園児 中央は荒木貞夫陸相(昭和7年6月19日 埼玉県所沢)(出典)満州事変「国防献品記念録」陸軍省 昭和8年8月刊(非売品)

●(左)八八式軽爆撃機「愛国第二十三(中学生)号」全国中学生。
●(右)八八式偵察機「愛国第三十(女学生)号」(全国女学生)。(出典)満州事変「国防献品記念録」陸軍省 昭和8年8月刊(非売品)

年・月 1932年(昭和7年)
1932年
昭和7年
1月18日
第1次上海事変、関東軍の謀略

(これは関東軍が、満州への列国の注意をそらせ、そのすきに満州国を独立させるための陽動作戦だった。しかし日中両軍は全面衝突する)
●上海で日本人僧侶の集団が中国人グループに襲撃され、1人死亡、2人が重傷を負った。これに対して村井上海総領事は、犯人の処罰などを要求し呉鉄城上海市長に抗議した。そして1/28には中国側より日本の要求は全て承認すると回答を得た。しかし日本政府は居留民保護のため兵力増強を決定し、1/28までに巡洋艦、特務艦、駆逐艦12隻と海軍陸戦隊925人とを上海に増派した。中国側も上海周辺に配置していた第19路軍約3万3000人が臨戦態勢をとった。こうして1/28深更、日本海軍陸戦隊と中国第19路軍とが閘北(ざほく)で衝突し大規模な戦闘となった。(第1次上海事変)。(新聞)2/26大阪朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●初め海軍は約2000人の陸戦隊で短期決着をつける考えであった。しかし中国第19路軍は「鉄軍」といわれた精鋭部隊であったため、海軍は陸軍に派兵をもとめることになった。そして第9師団(金沢)と混成第24旅団(久留米)を2/16日までに派遣し2/20日から江湾鎮総攻撃を行った。そして2/25、3/1と第2次・第3次総攻撃を行って、やっと中国軍を押し返した。さらに日本は第11師団(善通寺)《3/1上陸》・第14師団(宇都宮)《3/6上陸》、などからなる上海派遣軍(司令官白川義則大将)を急派し、3/3一方的に戦闘中止を声明し、そして5/5に停戦協定を結んだ。

(左写真)3/1午後0時30分、呉淞(ウースン)の鉄道桟橋に上陸した上海派遣軍司令官白川義則大将。(中写真)北四川路付近を急ぐ避難民たち。(右写真)北四川路西側の閘北を守る中国第19路軍。「鉄軍」と呼ばれた精鋭部隊。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊


●この2/20からの総攻撃の時、2/21夜上海市郊外の廟巷(行)鎮攻撃の時、英雄「肉弾三勇士」(決死の工兵隊による敵鉄条網爆破・爆死)が生まれ「軍国美談」となった。このとき新聞各社は「爆弾三勇士の歌」を読者から募集し、与謝野寛(鉄幹)の作詞が当選した。そしてこの美談は新聞各社・ラジオ・映画・演劇・絵画・彫刻とあらゆる分野でとりあげられ17年には、「初等科国語」「初等科音楽」の教科書にも登場した。また同じ2/20の江湾鎮総攻撃の際、第9師団(金沢)の歩兵第9連隊大隊長が、重傷を負い中国軍の捕虜となったが、3/28日本軍に送還された後ピストル自殺をとげた。これも荒木陸相は「最高の軍人精神」と位置づけ、あるいは新聞もまた「捕はれて生き残ったのを深く恥とし」と報道し、のちの戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」の軍人精神につながっていくのである(7社が軍国美談の主人公として映画化)。

*リンクします「爆弾三勇士の歌 (歌詞改訂前)」
動画・出典:youtube(NV10000氏)
1932年
昭和7年
2月2日
国際連盟主催・第1回世界軍縮会議開催

●第1回は1932年2月から7月まで開催。米ソなど61カ国が参加しジュネーブで開催される。日本の首席全権は松平恆雄駐英大使(元会津藩主・京都守護職の松平容保の六男で、長女・節子(成婚後「勢津子」と改名)は秩父宮雍仁親王の妃)。

1932年
昭和7年
2月4日
●第3回冬季オリンピック、アメリカのレークプラシッドで開催。日本はスキーおよびスケート選手20人が参加する。
1932年
昭和7年
2月5日
●関東軍、錦州占領後日本人居留民保護を名目にハルビン方面の反吉林軍を攻撃、2/5ハルビンを占領した。
1932年
昭和7年
2月9日
血盟団・小沼正が前蔵相・井上準之助を射殺する

●この事件は、衆議院選挙前、民政党から出馬した駒井重治の演説会の応援に来た井上準之助を、小沼正が背後から銃弾で暗殺した事件であった。井上準之助は、濱口内閣と第2次若槻内閣の蔵相として、金解禁、緊縮財政を続けて不況の追い打ちをかけたと思われていた。この犯人は小沼正という男だったが、逮捕当時背後関係を一切語ろうとせず、警察は事件の詳細を解明できなかった。
(号外)2/10大阪朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1932年
昭和7年
2月11日
●大川周明を中心として国家主義団体「神武会」を結成する。「既成政党の糾弾、財閥打倒、満蒙権益の国民化」などをスローガンに掲げた。昭和10年に解散した。
1932年
昭和7年
2月20日
●第18回総選挙、政友会が圧勝する。政友304、民政147、社会民衆3、労農大衆2。民政党は解散時の247議席から一挙に147議席と大敗した。
1932年
昭和7年
2月21日
●中国国民政府外交部、満州新国家否認の声明を発表。東北3省は中国領土の一部と声明。
1932年
昭和7年
2月24日
(アメリカ、上海事件条約違反と非難)
●アメリカ国務長官スティムソン、日本の上海における軍事行動は9ヵ国条約違反と非難する。
(新聞)2/26東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1932年
昭和7年
2月29日
リットン調査団一行来日

●国際連盟のリットン調査団一行13人、満州事変に関する現地調査の途上来日する。2/29横浜港に到着し、3/2には明治神宮と靖国神社に寄り、滞在中は日本政府首脳らと会見した。
(新聞)3/1東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1932年
昭和7年
3月1日
満州国建国宣言・首都は新京(長春)・元号は大同

●当初、関東軍の板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らは、満州の日本領有化案を持っていたが、軍中央の反対により関東軍は、傀儡政権樹立(満州国建国)に方針を変更したのであった。1931年11月に関東軍奉天特務機関長・土肥原賢二らは、天津に隠棲していた清朝最後の皇帝だった溥儀(ふぎ)を、市内で暴動事件を引き起こし混乱に乗じて旅順に移した。そして溥儀を執政として建国し、1934年溥儀は皇帝として即位した。しかし実際は、軍事、外交、行政の実権は関東軍司令官が握る傀儡国家であった。国民政府はこれを「偽満州」とよび強く反対した。
●3/9溥儀、満州国執政に就任。3/10首都を長春に決定、3/16新京と改称した。
(新聞)3/2東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1932年
昭和7年
3月5日
血盟団・菱沼五郎が三井財閥総帥・團琢磨を射殺する

●この事件は、三井合名会社理事長・團琢磨が日本橋の同社に出勤する所を、菱沼五郎という男に拳銃で射殺された事件である。菱沼五郎は、井上前蔵相を射殺した犯人小沼正と同郷(茨木県那珂郡の農村)であり、犯行に使われた拳銃も同型のブローニング6連発銃であったことから関連を強く疑われ、ついに日蓮宗の僧侶、井上日召(本名・井上昭)を首謀者とする「血盟、暗殺団」の犯行であることが判明した。
(新聞)3/6東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


●(血盟団)首謀者の井上日召は、頭山満の邸宅に潜伏していたが3/11自首し事件は解決した。血盟団は、東京帝大、京都帝大の学生らと結びつき、また海軍の青年将校や陸軍の青年将校らとも関係をもった。しかし10月事件のあと消極的になった陸軍将校からはなれ、海軍将校と民間側だけで事を起こすことを決め、決起第1弾を民間側のみで決行した。これは「1人1殺」で政財界の要人を暗殺するもので、2人のみ実行できた。裁判では大衆の同情を受け、30万通もの減刑嘆願書もあり、無期懲役の判決を受けた井上日召は5年で仮釈放、小沼正と菱沼五郎も昭和18年には恩赦・特赦で出獄した。(標的は列記すると次のようであった。西園寺公望、徳川家達、牧野伸顕、伊東巳代治、犬養毅、井上準之助、幣原喜重郎、若槻礼次郎、床次竹二郎、鈴木喜三郎、池田成彬《三井財閥No2》、團琢磨《三井財閥総帥》)

1932年
昭和7年
3月18日
(大阪で国防婦人会発会・会長三谷英子、副会長安田せい)
●最初は地域の婦人会の仲間で会員40人程度が、「白いかっぽう着」姿で大阪港・大阪駅を通過する軍隊を接待した。この頃の大阪港は、上海事変の増援部隊が送り出されており、在郷軍人会、愛国婦人会など送迎を行っていたが、安田らは「暖かい見送りしようと考え」湯茶の接待を始めたのである。その後「白いかっぽう着」を制服とした国防婦人会は陸軍省の支持も受け、「大日本国防婦人会」に改められた。そして街頭活動を中心とする団体から、「日本婦徳」を掲げる修養団体へと方向を転換し、「1家に1人」をスローガンにし、昭和17年に「大日本婦人会」へ統合されたときは、公称会員数1000万人といわれた。
●昭和17年2/2、愛国婦人会、国防婦人会、大日本連合婦人会は「大日本婦人会」へ統合された。満20歳未満の未婚者を除く女性は同会の加入を義務づけられた。会員数1900万余の婦人組織の誕生だった。
1932年
昭和7年
3月24日
●貴族院本会議、婦人公民権案を否決。賛成62票、反対184票
1932年
昭和7年
4月26日
●瑞金の中華ソビエト共和国(中国共産党)臨時政府、対日宣戦を布告する。
1932年
昭和7年
4月29日
(上海の天長節《=天皇誕生日》祝賀会場で爆弾テロ事件発生)
●韓人愛国団員尹奉吉が祝賀会場に爆弾を投げ込み、上海派遣軍司令官白川義則は1ヶ月後に死亡、第3艦隊司令長官野村吉三郎は片眼を失い、特命全権公使重光葵は片脚を失った。(1945年9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリで行われた降伏調印の時、杖をついてシルクハットの人物が日本政府の代表の重光葵外相である。片脚はこの時の事件で失ったのである)
●尹奉吉は忠清南道礼山郡出身の独立運動家で、1931年上海に渡った。そして1月の「桜田門事件」が起こると金九を訪ねて朝鮮独立運動に加わったのである。逮捕された尹は5月に上海派遣軍の軍法会議で死刑判決を受け、その後日本に移送され12月19日金沢市で銃殺された。(尹は25歳だった)
(新聞)4/30東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1932年
昭和7年
5月1日
●第13回メーデー開催。東京では75団体が参加し市内を行進したが、1200人超が検挙された。新聞には「当局徹底的の弾圧」「4500名の大警戒、警官のメーデー」とある。
1932年
昭和7年
5月15日
5.15事件起こる・犬養毅首相暗殺される

●5/15の夕方5時ごろ、三上卓中尉ら海軍将校4名と後藤映範ら陸軍士官候補生5名からなる一団は、2台の自動車に分乗して首相官邸を襲った。犬養首相は頭部に2発の銃弾を受け死亡し、官邸警備の巡査2名も撃たれ、1人が死亡し1人は重傷を負った。第1組(計9名)。

●第2組(計5名)、古賀清志海軍中尉(リーダー)と陸軍士官候補生4名(元士官候補生1名)は、内大臣官邸(牧野伸顕)を襲い、手榴弾を炸裂させ立番の巡査1人を拳銃で撃ち重傷を負わせた。
●第3組(計4名)、中村義雄海軍中尉と陸軍士官候補生3名は政友会本部を襲い、正面玄関付近で手榴弾を炸裂させた。
●ついで上記の三つの組は合流して警視庁にむかい手榴弾を炸裂させた。そして居合わせた警視庁書記と読売新聞社記者にピストルで狙撃し重傷を負わせた。さらに第1組中の4名は、日本銀行へ赴き手榴弾1個を建物にめがけて投げ炸裂させた。
●第4組(1名)、奥田秀夫(血盟団)は単独で三菱銀行を襲い、手榴弾1個を炸裂させ、外壁を少し損傷させた。
●他の組(橘孝三郎の愛郷塾7名)は、東京(5)埼玉(1)の変電所を手榴弾で襲撃した。これは帝都東京を暗黒化する(まっくらにする)企てだった。
●他の組(1名)、川崎長光(血盟団)は橘孝三郎(愛郷塾)より暗殺の役割を与えられ、西田税(後の2.26事件では北一輝と共に死刑)を訪問し、対談中に拳銃で襲い重傷を負わせた。陸軍の青年将校たちが参加しなかったのは西田税のせいであると考えたからであった。
●そして襲撃を終えた陸海軍軍人はすべて東京憲兵隊に自首した。また民間グループは5/24までに逮捕され、事件直前に満州に渡って潜伏していた橘孝三郎(愛郷塾)も、7/24ハルビン憲兵隊に自首した。
(新聞は事件発生時(5/15)の号外)(号外)5/15東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


5.15事件、事件後の動き

●この事件の社会に与えた衝撃は大きく、当初は新聞にも軍部批判の論調が見られたが、軍部の圧迫などによりしだいに沈黙させられていった。
軍部は事件に好意的でさえあり、現役の軍人が一国の首相を暗殺しても責任を取ることもしなかった。逆に軍部は政党内閣に強く反対し、斎藤実(海軍大将)挙国一致内閣の成立を支持したのである。ここに政党内閣は終わった。
そして青年将校たちも自分達の行動は正義であり、軍の指導部もそれを支持していると信じるに至ったのである
●5/17荒木陸相は次のように言った。(出典)「日本の歴史12巻」読売新聞社1963年第12刷

「これら純真な青年が、かくのごとき行動に出たその心情について考えれば、涙なきをえない。名誉のためとか、または売名的行為ではない。真に皇国のためになると信じてやったことである・・」

また大角海相も次のように語った。(出典)「日本の歴史12巻」読売新聞社1963年第12刷

「なにが、かれら純情の青年にこの誤りをさせるようになったかを考えるとき、つつしんで三思(=熟慮)すべきものがある・・」

●事件後70余の新聞が一時的に発禁処分を受け、軍部を批判できなくなった。しかしそんな中でも「福岡日日新聞(現西日本新聞)」は、5/15の夕刊から菊竹六鼓(ろっこ)の社説「敢えて国民の覚悟を促す」を掲載し軍部を批判した。その書き出しは次のように始まる。

頻々(ひんぴん=同じような事が引き続いて起こるさま)たる暗殺の連続として、犬養首相がついに陸海軍人の一団のために兇手に斃れたことは、われわれが国民とともに悲憤痛恨に堪えざるところである。・・・

●これに対して陸軍の反応はすさまじく、福岡連隊区司令部は「軍隊に対する侮辱である」との手紙を送りつけ、社屋の上空を大刀洗航空隊(福岡)の軽爆撃機を旋回させ攻撃の脅しすらかけたのである。


●左は昭和8年9月19日、陸軍側の判決。(新聞)昭和8年9/20東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●見出しに、「動機は諒とするも、軍紀紊乱重し」とあり、判決理由の内容に、動機として次のようにある。
「・・皇国日本を確立するため国家革新の必要を痛感し・・被告人当時の境遇上到底合法手段を以てしてはこれが革正を期し難しとし、遂に自ら国家革新のための捨石となり、直接行動によりこれ等支配階級の一角を打倒し、支配階級及び一般国民の覚せいを促し、以て国家革新の機運を醸成せんことを欲し・・・」


●左は昭和8年11月9日、海軍側の判決を報じる号外。(第2・号外)昭和8年11/9東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●見出しに、「行為は罪重大だが、憂国の情を認む」とあり、判決理由の内容に、動機として次のようにある。
「・・被告人一同相結束して国家革新運動に従事することとなれり、然して右被告人等は外国現下の情勢を目し国民精神廃たいし建国の本義、日にうとんぜられ、いはゆる支配階級たる政党財閥特権階級は腐敗堕落し国家観念に乏しく、相結託し私利私欲に走り国政を紊り国防を軽視し外交の不振、農村の疲弊、思想の悪化をまねく等、事態憂慮に堪へざるものあるのみならず、満州事変に伴ふ国際情勢の変化及びロンドン海軍条約の結果対外関係の危機又切迫し、帝国は1936年の交において未曾有の難局に逢着すべく、今にも国民の覚せいをうながし挙国一致時弊の刷新を計り、建国の精神に基いて皇道を宣揚し皇国日本の真姿を顕彰するにあらずんば、邦家の前途真に憂ふべきものあり、然も事態急迫を告げ合法的手段をもってしては到底焦眉の急に応ずる暇なきものと認め、遂に一切を超越して直接行動に訴ふるのやむなきを決意し、自ら国家革新のための捨石となって、まづこれ等支配階級に一撃を加へその反省を促すと共に、一般国民を覚せい奮起せしめ、もって国家革新の気運を醸成せん事を期するに至れり・・」


●左は昭和9年2月3日、民間側の判決を報じる号外。(第2・号外)昭和9年2/3東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●見出しに、「橘に共鳴して、遂に非常手段へ」とあり、判決理由の内容に、動機として次のようにある。
「・・被告人橘孝三郎はつとに国家の革正を志し、その抱懐する国民共同体王道国家の理想を以て我が国現下の国情を眺め、経済界の不況思想界の動揺いづれもその極に達し、疑獄事件はきびすを接して起り、国民精神、日にたい廃し殊に農村の疲弊甚だしく農民の窮乏言語に絶する所以のものは、ひっきょう国民が徒に西洋唯物文明の成熟に酔ひ、全く愛国同胞精神を喪ひ支配階級たる政党財閥並に特権階級特は互に相結託して私利私欲をたくましうし国政を弄び、何等の経綸なくしてその地位に拠るがために外ならず、このまま放置せむか国家は遂に滅亡の淵に瀕するに至るべしと観念し、従来のいはゆる愛郷主義の如き平和的手段を以てしては到底この農村の不況を打開し農民の窮乏を救ひ国家を累卵の危機より脱せしむるに由なきものと思ゐし、遂に非常手段により右支配階級級たる政党財閥並特権階級等に打撃を与へ以て国家革正のほう火を揚げむとするの思想を抱懐し、・・・」

1932年
昭和7年
5月26日
斎藤実(さいとう-まこと)内閣成立

海軍大将、政治家。子爵。陸奥水沢藩(岩手県)出身。海軍大臣、朝鮮総督、枢密顧問官を歴任。五・一五事件の後、首相となり、挙国一致内閣を組織したが帝人事件で辞任。のち内相。二・二六事件で暗殺された。(出典)「日本国語大辞典精選版」
●内閣には政友会4人、民政党2人が入閣した。陸相荒木貞夫は留任し外相は総理が兼ねた。この組閣では政党、陸軍、元老の意見が対立し、5.15事件後の犬養内閣崩壊から10日間にわたって政権の空白が続いたことは政治史上異例だった。
●政友会は後継首相を自党から出すつもりでいたが、陸軍が反対した。陸軍参謀本部第二部長永田鉄山少将は「・・もし政党による単独内閣が組織されるようなことがあったら、陸軍大臣に誰も就任しない・・」と強く反対したのである。陸軍が首相候補に考えていたのは、国家主義団体「国本社」の主催者で、枢密院副議長の平沼騏一郎だった。
●一方元老の西園寺公望や内大臣牧野伸顕、貴族院副議長近衛文麿、木戸幸一ら宮中周辺の政治家は、政党内閣を希望していたが、軍部の反発を恐れ、穏健派で陸軍にも受け入れられる、海軍大将斎藤実の起用を決定した。またこの内閣は、内務官僚の起用が特徴的で、特に後藤文夫農相は親軍的な官僚である「新官僚」が政界に進出した最初の例となった。

1932年
昭和7年
6月3日
(全国初の煤煙防止規則制定)
●大阪府は全国に先がけて煤煙防止規則を制定し、10月1日から施行した(大阪、堺、岸和田の3市に適用)。大阪は視界の悪さでは「霧の都」ロンドンをしのぐといわれ、「煙の都」大阪といわれた。原因は工場に使われる石炭の質の悪さと、煤煙防止装置の未設置によるものだった。大阪の工業は、明治中期からの紡績業の発展、大正期の染色業、金属工業の発展、そして軍需関連産業や輸出関連産業が活況となるなかで工場が続々と増設されていったのである。昭和7年頃の大阪には、約1万本の煙突が立っていたとされる。
1932年
昭和7年
6月8日
(ブラジル移民船ラプラタ丸、762人を乗せ神戸港出港)
●この年のブラジル移民は1万5072人となりピークを迎えていく。政府は9月、農村救済策として、ブラジル移民に対する船賃全額補助(1923年より実施)に加え、支度金補助を決定した。こうして翌8年ブラジル移民は2万3389人と戦前のピークを迎えた。これは8年の海外移民総数の85%にあたった。
●しかしブラジルは昭和9年(1934年)7月、新憲法を交付し移民を大幅に制限した。ブラジル国内の失業者対策、人種対策などが主な理由だった。その後日本は満州への移民政策を重視したため、ブラジル移民は急速に減っていった。
●昭和7年における海外在留邦人数を列挙すると以下の通りである。ブラジル(13万2699)、中国(5万3374)、満州国・関東州(26万332)、アメリカ合衆国(24万9659)、カナダ(1万9625)、計(その他の国含む)(82万5100)。
「我国民の海外発展」日本統計年鑑より(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1932年
昭和7年
6月14日
●満州新国家承認決議案を、衆議院本会議、満場一致で可決。
1932年
昭和7年
6月23日
(三島徳七、MK磁石鋼の特許を取得)
●東大教授三島徳七が発明した(昭和6年7月)強力な磁石鋼が、世界最高の評価を受け日本および欧米8カ国で特許を得た。1917年に発明された(本多・高木による)KS鋼の保磁力を倍増させたものだった。
1932年
昭和7年
7月30日
(第10回オリンピック、ロサンゼルスで開幕)

(新聞号外など)昭和7年8/13、8/14、8/16東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


●この大会で日本は金メダルを7個を獲得した。アメリカ(44)、イタリア(12)、フランス(11)、スウェーデン(10)に次いで5位だった。特に水泳の男子競泳が6種目のうち5種目で優勝した。また三段跳びで南部忠平が優勝し、最終競技の馬術大障害で騎兵中尉の西竹一が優勝した(後に戦車兵に転科し戦車第26連隊の連隊長として硫黄島の戦いで戦死した)。また前畑秀子は女子200m平泳ぎで銀を獲得した(金を獲得するのは次のオリンピック・ベルリン大会)。

1932年
昭和7年
7月31日
ドイツ・ナチ党230議席を獲得、第一党となる

●深刻な経済恐慌と560万人の失業者であふれるドイツで総選挙が行われ、ナチ党(=ナチス、ナチス党、国民社会主義ドイツ労働者党)は、37.4%の得票率で230議席を獲得、第一党となる。これまでワイマール共和国(ドイツ共和国)を擁護し、常に第一党だった社会民主党は133議席に後退した。共産は89議席。ヒトラーの政権担当を期待する広範な国民の声が広がっていく。

1932年
昭和7年
8月14日
(麻生鉱業争議おこる)
●福岡の麻生鉱業の朝鮮人労働者約80名が、酷使廃絶、賃上げなどを要求してストに突入した。争議団はハングル文字で「差別しないで互いに手をつなぎ、早く組合に覚悟をもって結集しよう」とビラを作って呼びかけた。それに応えて425人が参加したが263人が解雇された。日本人労働者は参加しなかった。ビラの最後には漢字で「打倒 暴力搾取之巨傀 麻生財閥 民族的差別待遇 絶対反対」とある。(1872年、石炭採掘事業に着手した麻生太吉は、第92代内閣総理大臣・麻生太郎の曾祖父である)
1932年
昭和7年
8月22日
時局匡救(きょうきゅう)議会招集

●農産物価格指数は、昭和元年(1926年)を100とすると、昭和6年(1931年)は54.5まで下落し、農家の負債総額は、昭和4年40億円から昭和6年60億円と膨れあがった。1戸あたりの借金額は1000円となり平均年収を超えた。
●このため、農村救済を主な目的に第63臨時議会が開かれたのである。斎藤実首相は、その施政方針演説で次のように言明した。

農村漁村及中小商工業の窮状に対し、之が匡救策を講ずることは、今期議会の使命であります

●この臨時議会が開かれるに至った理由は、7年4月から始まった長野朗元陸軍大尉による農村救済請願運動による署名運動と橘孝三郎の5.15事件の影響が大きかった。請願運動は、地主を中心とした帝国農会、全国町村長会、中小商工業者、社会大衆党が加わり、署名総数は4万2505に達した。こうして政友会、民政党から臨時議会開催の提案が行われ、政府は時局匡救議会開会を決定したのである。対策は以下のようであった。(左写真)8/31農村匡救費を含む予算案が、第63臨時議会の衆議院予算総会で可決された瞬間。


(匡救対策)
●米価対策・・米穀法の改正による米穀統制法の成立(昭和7年末64議会)。
この米穀統制法は公布(昭和8年3/29)、施行(昭和8年11/1)されたもので、内容は米価の最低・最高価格を公定し、それを維持するために政府が最低価格で米を買い入れ、最高価格で売り渡しを行うもので、申し込みがある限り無制限で政府が買い入れる義務を負うものだった。しかし輸入米(内地米より2,3割安い)の流入を制限しなかったために、米価は下落する傾向にあり、買い上げ予算の破綻も予測され始めたのである。
●負債整理対策・・農村負債整理組合法を昭和8年3/29に公布し、各町村に負債整理組合を設置した。これは国の仲介による、負債条件の緩和、利子の減免などを図ろうとしたものだったが、対象を中農以上としたため実効をあげることができなかった。
●時局匡救予算・・この予算は昭和7年度から9年度かけて、約8億6000万円が認められた。
この多くが河川改修、道路工事などの土木事業費で、農民に現金収入の機会を作ることを目的にした。しかし昭和10年度からは、軍事費の増大によって打ち切られた。(左写真)長野県の上高地登山道のひとつである薮原高山県道の工事。地元の小木曾の住民300人が工事に従事した。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●農村経済更生運動・・これは政府が最も力を入れたもので、農民自身による「自力更生」を目的としたもので、これは土地利用・生産の合理化、販売統制、生活改善と農村生活の全てに及んだ。また農林省経済更生部は農民に産業組合(農協の母体)への加入を指導した。この産業組合は、農村を対象に金融、購買、販売などの事業を行う協同組合で、この頃最も規模の大きい農民組織だった。
1932年
昭和7年
9月15日
日本政府、満州国を正式承認

●日本政府は、国際連盟によるリットン報告書が発表される前に、満州国承認を強行したのである。そのため政府は、前月8/8に在満機関統一のため、陸軍大将武藤信義を「関東軍司令官・特命全権大使・関東庁長官」に任命した。
●こうして9/15新京(長春)において、特命全権大使・武藤信義と満州国国務総理・鄭孝胥との間で、「日満議定書」が調印され、日本は満州国を正式に承認した。その内容は2項目しかなく、ポイントは「日本の権益の尊重と共同の国家防衛のために日本軍が満州国内に駐屯する」というものであった。以下にその「議定書」を引用した。
(新聞)9/16東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

條約第九號 議定書
 日本國ハ満洲國が其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ獨立ノ一國家ヲ成スニ至リタル事實ヲ確認シタルニ因リ
 満洲國ハ中華民國ノ有スル國際約定ハ満洲國ニ適用シ得ベキ限り之ヲ尊重スベキコトヲ宣言セルニ因リ
 日本國政府及満洲國政府ハ日満兩國間ノ善隣ノ關係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土權ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センガ爲左ノ如ク協定セリ

下

*リンクします 「日満議定書」→国立公文書館アジア歴史資料センター
平頂山事件

●日満議定書が調印された昭和7年(1932年)9/15の夜から9/16にかけて撫順炭鉱(遼寧省)4km南の平頂山部落で、日本軍による虐殺事件「平頂山事件」が起きた。
「昭和2万日の全記録3」より引用してみる。『・・・日満議定書は9月15日に調印された。しかし、この日の夜、撫順炭鉱(遼寧省)の事務所4カ所が抗日ゲリラに襲撃され、日本人が殺されるという事件が起こった。撫順炭鉱は、満鉄の経営する炭鉱で、独立守備歩兵第2大隊第2中隊が警備していた。同隊は、翌16日早朝、撫順炭鉱から4キロ南に離れた平頂山の部落を包囲した。この部落には約3000人が住んでおり、その多くは炭鉱労働者と貧農であった。しかし、同隊は住民がゲリラと通じているとみなして(「匪賊=ひぞく」と通じているという意味で「通匪」とよばれた)、一人残らず家から追い立て、住居を焼き払った。
住民は平頂山南の崖下に追い詰められ、四方に据え付けた機関銃の掃射を受けた。生き残った者もいたが、同隊は、銃剣・日本刀で、赤ん坊まで刺し殺していった。皆殺しであった。そのうえ、死体を石油で焼き、数日後に崖をダイナマイトで爆破して埋めたのである。住民の中で逃げのびることができたのは、10人程度だったという。日中戦争開始後、中国共産党八路軍の反撃を受けた日本軍は、部落ごと焼き払うなど徹底した弾圧を加えた。これを中国側は、殺しつくし・奪いつくし・焼きつくす意味の「三光作戦」と呼んだ。平頂山での虐殺はこの三光作戦の原形であった。』


(注)三光作戦(「光」は…しつくすの意) 殺しつくし(殺光)、焼きつくし(焼光)、奪いつくす(略光)の意で、第二次世界大戦中に中国を占領した日本軍の行動を中国人が告発していったことば。(出典)「日本国語大辞典精選版」
(写真)中国「平頂山受難同胞記念碑」(出典:「写真記録日中戦争・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊)


極東国際軍事裁判所判決から「匪賊」

●この事件については、極東国際軍事裁判所判決から「匪賊」の部分を引用してみる。日本軍は、満州における日本の支配に抵抗する反日反満武装勢力に対し「匪賊(ひぞく)」《盗匪(=盗賊・匪賊)など》として取扱ったことが記されている。

 
●中国戦争で捕虜となった者は匪賊(ひぞく=徒党を組んで殺人・略奪を行う盗賊)として取扱われた
 国際連盟は1931年12月10日の決議でリットン委員会を設け、事実上の停戦を命じたが、この決議を受諾するにあたって、ジュネーヴの日本代表は、日本軍が満州で『匪賊』に対して必要な行動をとることを、この決議は妨げるものでないという了解のもとに、これを受諾すると言明した。

下

極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪 極東国際軍事裁判所 編 1948年刊国立国会図書館デジタルコレクション

満州国の法律「暫行懲治盜匪法」の意味すること

●ここで満州国の法律「暫行懲治盜匪法」を下段に引用してみる。満州国政府(日本)は、満州における日本の支配に抵抗する反日反満武装勢力を「匪賊(ひぞく)」「盗匪=盗賊・匪賊」とした。そしてその匪賊を掃討粛清するときは、「臨陣格殺」ができるほかに、その軍隊の司令官とその警察の高級警察官は、裁判を経ずに、その裁量で死刑の措置をすることができるとしたのである(7条と8条)。この「臨陣格殺」とは、正しい意味はよくわからないが、「陣を組んで殴り殺す」ような意味であろうか(私見)。
「満州国六法全書 : 満日対訳」(コマ番号696~701)帝国地方行政学会 編纂 帝国地方行政学会 1934.6刊からを引用

「暫行懲治盜匪法」
大同元年九月十日教令第八十一號
茲ニ参議府ノ諮詢ヲ経テ暫行懲治盜匪法ヲ制定シ之ヲ公布セシム
暫行懲治盜匪法
第一條 強暴又ハ脅迫ノ手段ニ依り他人ノ財物ヲ強取スル目的ヲ以テ聚衆(しゅうしゅう=たくさんの人を集める)又ハ結夥(jié huǒ=徒党を組む)シタル者ハ之ヲ盜匪トス

下

*リンクします 「暫行懲治盜匪法・満州国六法全書 : 満日対訳」→国立国会図書館デジタルコレクション
1932年
昭和7年
9月25日
(右派・中間派労働組合の大合同)
●日本労働史上例のなかった大規模な連合組織である「日本労働組合会議」が結成された。全組織労働者の75%にあたる28万人を擁することになった。「皇道日本の興隆」を掲げた組合の誕生だった。
1932年
昭和7年
10月1日
東京市、世界第2位の都市となる

●東京市は隣接する5郡82町村を合併し人口551万3482人となり、ニューヨークに次ぐ世界第2の大都市となった。国内ではそれまで1位だった「大大阪市」の240万人を超え「大東京市」が誕生した。それまでの東京市の区部15区に、東京府の5郡部から20区を新設し、合わせて35区としたのである。この15区のうち、麹町区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区を「山手(やまのて)」と呼んだようである。参考に下に区分けを書いておく。

●東京市15区
麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区。
●新設20区
①(南葛飾郡)・・江戸川区、葛飾区、城東区、向島区。
②(南足立郡)・・足立区。
③(北豊島郡)・・荒川区、滝野川区、王子区、豊島区、板橋区。
④(豊多摩郡=南豊島郡+東多摩郡)・・淀橋区、中野区、杉並区、渋谷区。
⑤(荏原郡《えばらぐん》)・・世田谷区、目黒区、荏原区、大森区、鎌田区、品川区。
1932年
昭和7年
10月1日
リットン調査団、報告書を日本政府に通達

●2/29、イギリスのリットンを団長に米仏伊独各国委員からなる連盟調査団は来日した。その後リットン調査団は・上海・南京・北平(ペイピン=北京)を経て満州を調査した。そして7/20以降、北平で報告書を起草、10/1、日中両国と連盟に送達した。
●報告書の内容は以下のようである。①日本軍の昭和6年(1931年9/18)の柳条湖事件の行動は、正当な自衛手段とは認めない。②満州国成立は、自発的な独立運動によるものではない。③中国の主権を認め、その下に地方自治政府を設け、日本を中心とする列強の管理下に置く、という内容だった。これはある意味、日本に対して融和的な妥協案を提示したものだったが、日本は拒否したのである。
(新聞)外務省は10/2に公表した。10/3東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

(写真左)溥儀を訪問した調査団一行。写真中央が溥儀、リットンは左。
(写真右)9/30、イギリス大使館1等書記官グリーン(右人物)が外務省を訪れ、赤革のスーツケースに収められたリットン報告書を有田次官(左人物)に手渡した。報告書は400ページに及ぶ膨大なもので、同省アジア局が翻訳を行った。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1932年
昭和7年
10月3日
第1回満州武装移民団、東京駅を出発

●市川益平予備役陸軍中佐を団長とする「拓務省第1次武装移民団」423人が東京駅を出発、10/5神戸港から満州に向かった。入植予定地は、ソ連との国境に近い吉林省樺川県永豊鎮だった。一行は約4カ月間永豊鎮近くのチャムスで警備活動に従事した後、先遣隊に続き翌1933年4/1に全員の入植を完了した。一方でこの地にいた約500人の農民は、1人5円の移転料で土地を追われた。
●この武装移民団による入植構想は、満州における反満抗日ゲリラ対策と、対ソ戦に備えた兵力養成の2点から考えられたのである。そして移民団員は、満州に似た気候をもつといわれた青森、岩手、秋田、山形、福島、宮城、新潟、長野、群馬、栃木、茨城の11県で構成された。そして応募条件は「農村出身者、在郷軍人、身体強壮で家庭上繋累少き者、30歳以下の者」等とされた。入植者達は入植と同時に始まった反満抗日ゲリラとの戦いなど厳しい環境と閉鎖社会の中で、家族や花嫁を迎えるまでは、「屯墾病」といわれたノイローゼにかかるものが相次いだといわれる。
(写真)翌1933年10/13、第1次武装移民団の家族30人が新京(長春)に到着した時の写真(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1932年
昭和7年
10月6日
新生共産党大検挙


●10/6、共産党員3人が、ピストルをもって川崎第百銀行大森支店に侵入し、現金3万円を強奪した事件が発生した。その後10日までに3人は逮捕されたが、この事件を端緒に全国で共産党の大検挙が行われ、検挙総数1500名と新聞にある。下の新聞記事が解禁となったのは翌年1/18日である。
(新聞)10/11東京朝日新聞と翌1933年1/18に記事が解禁となった東京朝日新聞の号外(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●昭和6年(1931年)1月から昭和7年(1932年)7月までの約2年間は、共産党の活動が最も盛んな時期で、「赤旗(せっき)」の発行部数は7000部、シンパ(共鳴者・支持者)を含めた活動家の数は約4万人といわれた。そしてこの頃の共産党は、活動資金の大半を上海のコミンテルン極東本部から得ていたが、上海の駐在員が逮捕され昭和6年ごろから連絡が途絶えてしまった。そこで共産党はシンパを組織し、定期的なカンパによって活動を維持していたが、昭和7年3月から6月にかけてのプロレタリア文化連盟(コップ)活動家の一斉検挙でこの組織は解体されてしまった。
●こうしたなか、共産党にとって全国代表者会議(10月に熱海で開催予定)のための資金調達は緊急の課題となっていた。そこで共産党は10/6の銀行襲撃を計画したのである。だが、全国代表者会議は予定通り熱海での開催されたのだが、内部のスパイにより、10/30早朝から全国で一斉検挙が開始され1500人以上が逮捕されたのであった。スパイは、この襲撃を計画した中央委員会の財務部長だった、といわれる。

1932年
昭和7年
11月8日
アメリカ大統領選で民主党ルーズベルトが勝利する

●民主党のルーズベルトが、共和党現職のフーバーに圧勝し、第32代大統領となる。共和党の不況対策は、依然として金本位制の堅持と高率の保護関税維持を唱えていたのである。一方民主党のルーズベルトは「ニュー・ディール」を約束すると演説したのである。
(新聞)11/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1932年
昭和7年
11月
(日本始まって以来の大予算案)
●11/20の新聞に、「未曾有の公債増発、歳出予算の4割は赤字国債で賄ふ」との記事。そのなかに次のようなものもある。「為替下落して物価は暴騰する。・・1ヶ年に10億円の公債(交付公債を除き)をだすのであるが、その引受は大部分が日銀であるから兌換券の増発となりインフレーションをあふることは必然である。公債発行額だけ通貨膨張となるものではないが非常なインフレーションを結果することは免れない、・・・通貨膨張の結果は必然不可避的に為替の下落を誘致し物価騰貴にさらに拍車をを加える。・・・・」
(新聞)11/20東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1932年
昭和7年
11月21日
(国際連盟理事会、連盟本部で開催)
●松岡洋右全権が満州問題で演説。続いて中国代表、日本批判の演説を行う。
(新聞)11/22東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●12/6国際連盟は、日中紛争に関する討議のために臨時総会をジュネーブで開催する。
1932年
昭和7年
12月16日
日本橋白木屋百貨店で初の高層ビル火災が起こる

●東京日本橋の白木屋百貨店は、関東大震災で焼失したがその後新増築を重ね、昭和6年9月に全館が完成した。地上7階(一部8階)地下2階の本格的な高層建築だった。
ところが12/16日、4階おもちゃ売り場から出火し、火は階上へ燃え広がり、死者14人、重軽傷者約130人という大惨事になった。死者のうち13人は避難の際の墜落死で残りの1人は窒息死だった。
●火事の原因は、クリスマスツリーに飾られていた豆電球を店員が修理しようとしたところスパークし、火はツリーにかけられていた金モールを伝わって近くのセルロイド製おもちゃに引火し、猛烈な煙と大量のガスが噴き出し、火はたちまち5階に及び燃え広がったという。
(新聞)11/27東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●死者は白木屋の店員12人と、派遣店員1人の計13人が飛び降りたり、つなぎあわせたロープで降下中に墜落死したものだった。
●この白木屋の火災は、高層ビルの消火・防火体制の遅れを浮かび上がらせた。そして大規模百貨店に対して、建物は2方面で道路に接することや、防火区画の設置、スプリンクラーの設置などの規制が設けられた。
●また別な問題も浮き上がらせた、それは女性のズロース(ショーツより股下が長く、ゆったりしたもの)着用の問題だった。ズロース着用は関東大震災後から説かれていたが、「女らしくなくなる」との意見が根強かった。ズロース着用が普及したのはモンペを着用するようになってからだといわれている。「裾の乱れを気にしてむざむざ死んだ女店員」と別の日の新聞にはある。

(左写真)「周辺の警備にあたる近衛歩兵第1連隊、東京憲兵隊」-朝日新聞。(右写真)「降下の際、和服のスソの乱れを気にして墜死した女性もいた」-毎日新聞。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1932年(昭和7年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
●1/1 労働者災害扶助法実施
●1/3 日本軍,錦州を占領,山海関へ進撃
●1/4 インド国民会議派非介法化,ガンジー逮捕される
●1/6 天竜・大ノ里ら相撲界改革の要求書を提出(9日脱退,大日本新興力士団を結成)

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