1929年(昭和4年)10月「世界恐慌始まる」昭和恐慌前夜

アジア・太平洋戦争

1929年(昭和4年)10月アメリカに端を発する世界恐慌の中、日本は金本位制に復帰したが、ついに日本は昭和恐慌をむかえてしまう。
 最初に日本貿易の中心的産業であった生糸・絹織物産業の衰退と電力業の発展を書く。この生糸・絹織物産業の衰退を決定づけたのは、アメリカの大恐慌とレーヨンの市場参入によることが大きかった。そして電力業の発展は「動力革命」といわれ、日本の製造業全体に大きな影響を与えた。
●年表は昭和4年の政治・経済・事件を書き出した。昭和初期といっても、昔のことではない。現代の多くの企業のルーツがこの時代にあり、出版・放送・マスメディアの発達もこの時代からである。政治的にも2大政党(制度ではない)による政権交代や男子普通選挙の実施、陪審制の実施などもこの時代からである。だが一方で治安維持法や治安警察法による思想弾圧が始まったのもこの時代である。特筆できるのは、国家による共産党への徹底した弾圧があったことである。しかし労働争議や小作争議については、共産主義弾圧とはおもむきが異なり、調停を重視したことであろうか。
●この昭和初期の時代は、労働争議、男子普通選挙、政党政治、思想弾圧、世界恐慌、植民地支配、デフレ、財閥の成長、中国での軍部侵略の前兆などすべてが起こった時代といえるだろう。

(上写真)航空母艦加賀1928年(昭和3年)3月31日竣工。(写真・福井静夫)上空から見た加賀。加賀は八・八艦隊計画では戦艦だったが、ワシントン海軍軍縮条約で航空母艦に改造され、航空艦隊の主力として活躍する。これにより日本海軍は、前年3月竣工の赤城と共に2隻の巨大空母を保有することになった。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

目次
昭和3年~昭和4年 主要項目
★生糸・絹織物産業の衰退と電力業の発展 日本の産業の花形であった生糸・絹織物産業の衰退が始まり、農村も疲弊していく。一方で電力事業の発展は、電動機の普及をうみ、「動力革命」となっていく。
昭和4年(1929年)
田中内閣→濱口雄幸内閣
●田中義一内閣(政友会)、昭和4年(1929年)7月、張作霖爆殺事件(昭和3年6月)の陸軍に対する処分を徹底できず総辞職。
●濱口雄幸内閣(民政党)、外交方針と経済政策を転換、「対支親善」「軍縮促進」「整理緊縮」「金解禁断行」などを施政方針とする。外務大臣に幣原喜重郎、大蔵大臣に井上準之助(前日銀総裁)を起用、徹底した緊縮財政を開始する。そして金解禁のために、国際競争力(輸出)強化の政策として、輸入削減のための節約と貯蓄を奨励し、産業合理化に取り組んだ。そして濱口雄幸内閣は昭和5年1/11、緊縮財政下において、金解禁を断行していく。
●しかしながら、昭和4年(1929年)10月に起こったアメリカ・ニューヨークの株式の大暴落に始まる大恐慌は、日本の輸出産業に大打撃を与え、かつ国内の緊縮財政とデフレ政策とがさらに国内景気を縮小させ、日本は深刻な不況に陥った。労働争議、小作争議が頻発し、物価・所得は下落し失業者は増え不況は深まった。また政府は、財政圧縮と国際協調のためロンドン海軍軍縮条約(昭和5年4月)を締結したが、これが天皇の大権である「統帥権」を政府が「干犯」したという「統帥権干犯」問題となっていくのである。

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★生糸・絹織物産業の衰退と電力業の発展
『昭和2万日の全記録』講談社、『昭和財政史』(戦前編)大蔵省(財務省)、「日本経済史」慶応義塾大学出版会発行(2011年)などから数値を引用した

生糸・絹織物産業の衰退
生糸・絹織物産業の衰退

●ここで日本の産業の花形であった生糸・絹織物産業の衰退について、昭和恐慌収束の1931年頃(昭和6年頃)までの数値を引用してみる。国内不況、物価下落、金解禁、世界恐慌、為替下落、レーヨンの市場参入など、衰退した原因は複雑である。左図は昭和初期のおける主要輸出品価額表であるが、全輸出品の筆頭は「生糸」であった。上位の生糸と綿織物の合計は、全輸出額の55%以上を占めた。下段にある繊維関係6品目をみると、昭和4年で66%となり、間違いなく日本の主力輸出産業は繊維工業であった。
(左図)(出典)「昭和財政史第13巻」(国際金融・貿易)財務省

●なかでも、製糸工程の大規模化、機械化を進めていったのは、長野県諏訪6大製糸(片倉組、山十組、小沢組、岡谷組、小口組、林組)と京都府綾部地方の郡是(ぐんぜ)製糸が代表であった。
郡是(ぐんぜ)製糸は今のグンゼ株式会社である
●ところが昭和5・6年となると、左図(重要輸出品価額)にあるように、生糸、綿織物、絹織物の3大輸出品は、激減している。金額ベースで昭和6年の昭和4年対比では、順に54.5%、51.9%、44.9%の激減である。しかし数量ベースでみると、2年間を通じて生糸3.3%、綿織物21%の減退とあるので、これらの金額ベースでの輸出激減は、国内の物価下落による影響も大きいということである。特に生糸の価格下落は激しかった。
(図)(出典)「昭和財政史第13巻」(国際金融・貿易)財務省
●この物価については、左図の上の「貿易数量・金額指数比較表」(横浜正金銀行調査)を見ると、特に昭和6年の金額ベースは激減しているが、数量輸出指数では105.8となっている。これは単価の下落によるものであるから、特に昭和5.6年の貿易の委縮は、主として急激な物価下落によると考えられる。
(図)(出典)「昭和財政史第13巻」(国際金融・貿易)財務省
●また図の「日・英・米三国物価指数」をみると東京の物価指数の下落ぶりがわかる。昭和4年の171.9が昭和6年6月には119.8で約30%の下落である。だがそれでも東京の物価は他国より高かったので、濱口内閣の金解禁、産業の合理化による商品原価引き下げによる輸出増進はうまくいかなかった。
(図)(出典)「昭和財政史第9巻(通貨と物価)」財務省
●しかし、何といっても生糸の輸出価額の減少は、主要輸出先であるアメリカの不況による、価格下落の結果であった。左図の「横浜市場生糸平均相場」をみると昭和3、4年に対しても5~6割の価格下落となっている。またアメリカの生糸消費が減少したにもかかわらず、日本の生産が増進を続けたことも原因となった。そして中国の日貨排斥やインドの国内産業保護による関税引き上げも影響した。またレーヨンの市場参入にも大きな影響をうけた。
●この生糸の価格下落は、農家に甚大な影響を与えた。農村では繭価が最大60%の値下がりを記録し、生糸の暴落に輪をかけた。全国農家560万戸のうち222万戸が養蚕農家であり、この繭収入は農家の最大の現金収入だった。そして恐慌のなか、昭和5年は「豊作飢餓」、昭和6年は「凶作飢餓」となり、農村の疲弊は深刻化していく。
(図)(出典)「昭和財政史第13巻」(国際金融・貿易)財務省
●左は1936年(昭和11年)までの「主要輸出品価額の推移」であるが、ついに生糸は綿織物に抜かれてしまう。また人絹織物は昭和11年にはベスト3に入ってくるようになった。(図)(出典)「昭和財政史第13巻」(国際金融・貿易)財務省
●レーヨン(人造絹糸)は木材パルプを原料に化学的加工を経て作られるもので、1884年にフランスで製造に成功した。レーヨンはフランス語で「光る」を意味する。日本には20世紀に入ってから伝えられたが、工業化の試みは失敗した。本格的な生産を開始できたのは、1915年鈴木商店(あの戦争成金といわれた)の金子直吉による援助で、山形県米沢市に作られた人造絹糸製造所からだった。鈴木商店記念館サイトには「ビスコース(最新の製造法)の研究をしていた久村清太と久村の学友で米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)の講師でやはりビスコース人絹の研究をしていた秦逸三を資金援助し、東レザーの分工場・米沢人造絹糸製造所を実験工場として、工業化を成功させた。」とある。そして1918年(大正7年)には株式会社に改組、「帝国人造絹絲」に社名を変更した。現「帝人」である。
*リンクします「昭和財政史(戦前編)」→財務省・財務総合政策研究所

電力業の発展


●日本の電気事業は、1882年(明治15年)東京電灯によって開始された。明治・大正にかけて各地では中小の電力会社の設立が相次いだが、関東大震災を機に電力会社の統合が進んだ。この頃、東京電灯、日本電力、大同電力、宇治川電気、東邦電力の5大電力会社が激しい企業競争を続けていた。
●なかでも東邦電力(のちに電力の鬼と呼ばれた松永安左エ門社長)は、工業地帯である京浜地区への進出を狙い「東京電力」という子会社を作り、関東大地震で施設が壊滅した「東京電灯」へ殴り込みをかけたのである。この「東京電力」は、東邦電力が静岡県の大井川の水利権を持つ「早川電力」と横浜地区に電力供給権を持つ「群馬電力」を手に入れ合併させたもので1925年に創立された。しかしこの『電力戦争』とよばれた「東京電灯」と「東京電力」の戦いはすさまじく、「東京電力」の攻勢は、東京市電、京浜電車、東武鉄道、日本鋼管、日清紡などの大口客を「東京電灯」から奪った。国鉄(今のJR)だけは両者の話合いで協調して送電した。
●しかしこの過激な競争で両者の経営内容が悪化し、これをみかねた三井、三菱、安田など有力財閥銀行が斡旋にはいり、昭和3年(1928年)4/1「東京電灯」が「東京電力」を合併して争いは終結した。
●下の「電力業の発展と動力革命」の数値であるが、これらの電力業の競争は、電力の供給の拡大と料金の低下を生み、日本の製造業に大きな影響を与えた。数値でも1934年(昭和9年)には電動機の比率は81.3%となって、原動力の変換「動力革命」が起きたのである。
●ちなみに現在でも日本の東西で交流周波数が異なる理由は、この時代に、東京電灯がドイツ製交流発電機(50Hz)、大阪電灯がアメリカ製交流発電機(60Hz)を使用して電力を供給したことが原因である。
(上の写真は、東京電灯千住火力発電所で、隅田川沿いに立地し、1926年《大正15年》から稼働し、1964年《昭和39年》に撤去された発電所だった。この火力発電所の4本の煙突《高さ80mあまり》は「お化け煙突=方向によって1本~4本に見えた」とよばれた。私事であるが、自分が小学校低学年の頃、千葉県の松戸から池袋方面に常磐線でくるとき、この煙突をたびたび見た記憶がある。だが常磐線ではせいぜいのところ3本程度にしかならなかった気がする。)
(上写真)大正15年(1926年)操業開始の東京電灯千住火力発電所。(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
(下表)「電力業の発展と動力革命」(出典)「日本経済史」慶応義塾大学出版会発行(2011年)

「ナショナル」製品の登場。松下電気器具製作所・第1の飛躍

●超一流企業の草創期。松下幸之助は1917年に「二股ソケット」を考案し、独立し1918年に松下電気器具製作所を設立した。そして昭和2年(1927年)4月、過去の自転車店奉公時代の体験から生まれたアイデアをもとに「ナショナルランプ」を発売して大成功をおさめた。(写真)自転車用電池ランプの宣伝板-写真・松下電器歴史館(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
●松下電器産業(現パナソニック)草創期の精神は、「自分自身や大衆の生活の中にある身近なものを工夫改良し、より便利な、より経済的なものにしようとする意欲」から生まれた。そして松下幸之助は販売促進・市場流通の構造に斬新なアイデアを導入していったのである。一例としては、「ナショナルランプ」の拡販策で1万個を無料で販売店に提供し、1万個の電池を宣伝用に岡田電池商会に無料提供させ、代わりに年内に20万個仕入れるという交換条件をつけるという販売促進を行った。結果は大成功で、約束の2倍以上の47万個を岡田電池商会から仕入れることができたのだった。
●また松下幸之助の経営手腕は信頼されており、金融恐慌のなかでも住友銀行は、松下の新工場建設の計画に対して、無担保で融資を行ったのである。

年・月 1929年(昭和4年)
(昭和4年のポイント)
●田中義一内閣(政友会)は、7月、満州某重大事件(張作霖爆殺事件《昭和3年6月》)の陸軍に対する処分問題で天皇の叱責を受け総辞職。(9/29、田中義一狭心症のため死亡)
●代わりに組閣した濱口雄幸内閣(民政党)は外交方針と経済政策を転換、「対支親善」「軍縮促進」「整理緊縮」「金解禁断行」などを施政方針とした。特に金解禁のため徹底した緊縮財政を開始する。(11/21、翌昭和5年1月11日に金解禁を行う大蔵省令を公布)
●10月、アメリカ、ニューヨーク・ウォール街で株式が大暴落する。10/24(暗黒の木曜日)、10/29(悲劇の火曜日)といわれ、全世界を巻き込む世界大恐慌の幕が開けた。
1929年
昭和4年
1月
1月の災害

●1/1、佐世保港外で、石炭輸送中の汽船が低気圧に巻き込まれて沈没、乗員30人死亡する。
●1/2、吹雪の日本海沿岸に津波襲来、住宅約300戸が全壊。北陸本線も不通となる。
●1/2、山口県の離島大津島で大火。強風にあおられて80戸中52戸を焼失。
(新聞)1/3東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1929年
昭和4年
1月
中国・朝鮮情勢

●1/5、南京の反日会、日本商品を扱う商人をさらしものにする組織的排日運動を決定する。
●1/6、上海市党部指導委員会は、商人から押収した日本商品はすべて没収すると決定。
●1/7、前年末に発生した日本陸戦隊装甲車による中国人車夫轢殺事件を機に、漢口で排日激化、反日会がスト決行。
●1/9、漢口で排日激化、反日委員会、日本租界を経済封鎖。陸戦隊、危険区域の日本人に引き上げ準備を命令。
●1/9、東北政務委員会が奉天に成立。主席は張学良で、これにより張学良政権は地方軍閥ではなく、中国国民政府の1機関となったことを意味した。
●1/12、漢口での反日運動激化、日本租界外の日本人、租界内に避難する。
●1/13、国民政府、張学良に対し「日本との鉄道交渉を中止して、日本の要求を即刻拒絶せよ」と電命。
●1/14、朝鮮元山で、石油工場労働者300人が会社側の協定違反に反発してスト突入。22日以降、元山の労働者1万人以上が参加する大規模なゼネストに発展したが、4/6組合側の敗北に終わった。
(写真)朝鮮元山ゼネスト(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1929年
昭和4年
1月9日
岐阜県犀川(さいがわ)切り落とし反対運動暴動化

●岐阜県安八郡下7町村の町村民3500人は、耕地約350町歩をつぶす犀川切り落とし計画に反対し、1月7日知事に会見を求め県庁へデモを行った。そして1月9日には前夜深夜から村役場を襲撃し警官隊と乱闘となった。この暴動はさらに周辺の町村に波及し、軍隊も鎮圧に出動し、200余人の農民が検挙されたが、家族ぐるみの支援で、計画は廃案となった。(新聞)1/10東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1929年
昭和4年
1月19日
●新党俱楽部(床次竹二郎代表)、「南京政府を承認し速やかに山東撤兵を実行せよ」と声明する。
1929年
昭和4年
1月22日
●ナップ成立に伴い日本プロレタリア美術家同盟(AR)結成,続いて同映画同盟(プロキノ)同劇場同盟(プロツト)同作家同盟(ナルプ)同音楽家同盟(PM)それぞれ結成。
●このナップというのは全日本無産者芸術団体協議会のことを言い、機関誌には「戦旗」があり、昭和4年6月号で小林多喜二に続き新しい文学の旗手が誕生した。それは「太陽のない街」を同誌に寄稿した徳永直(すなお)である。下にプロレタリア文化運動の作品を一覧にしてみた。
(ポスター)左翼劇場第14回公演『太陽のない街』、(一覧)ともに、(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊


大正10年(1921年)
2月‥‥第1次『種蒔く人』秋田で創刊、6月‥‥山川均『レーニンと卜ロツキイ』、10月‥‥『種蒔く人』東京で再刊


大正11年(1922年)
6月‥‥平林初之輔『文芸運動と労働運動』、7月‥‥日本共産党結成、10月‥‥大杉栄『労働運動と労働文学』


下

1929年
昭和4年
1月31日
●衆議院,満州某重大事件追究,真相発表決議案を否決
1929年
昭和4年
2月
2月の災害

●2/1、信越本線黒井-直江津間の橋梁上で、青森発列車と除雪車が衝突。死者4人、負傷者19人。
●2/13、陸羽東線長沢-瀬見駅間で、吹雪のため小牛田行き列車が立ち往生。12時間後134人を救出。
●2/24、各地で強風が吹き荒れ火事が頻発。宮城県気仙沼で約1000戸、茨城県の土浦でも100数10戸焼失。
(写真)「気仙沼で大火」写真は浜見山から見た魚町、南町の焼け跡。-写真・佐藤由紀子(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1929年
昭和4年
2月1日
●若槻礼次郎,貴族院で田中内閣の諸政策を痛撃
1929年
昭和4年
2月3日
●「改造文庫」刊行はじまる。『社会主義の発展』(エンゲルス)、『エミール』(ルソー)など。
「改造」は総合雑誌。大正八年(1919)4月、改造社が創刊。急進的な編集方針によって当時の社会主義思想の高揚に貢献。また文芸欄も充実しており、近代文学の代表的作品を数多く掲載。新進作家の登龍門としても権威があった。昭和19年(1944)改造社の解散によって廃刊、同21年復刊したが、30年廃刊。(出典)日本国語大辞典精選版
1929年
昭和4年
2月17日
●山梨県下の大地主400人が小作争議に対抗して山梨土地株式会社を設立
1929年
昭和4年
2月23日
(説教強盗妻木松吉を逮捕)
●翌日の朝日新聞(2/24)には『帝都を恐怖させた、説教強盗一世捕はる』とある。昭和3年から4年にかけては強盗事件が頻発し、第1次大戦後の不況と金融恐慌により犯罪が激増し「帝都不安の時代」と称された。強盗はこの説教強盗だけでなく、新渡戸稲造宅を襲ったピストル強盗、いつも刺身包丁を持ち赤靴をはいていた「赤靴強盗」、説教強盗の二世・三世、講談強盗、さらには軒並強盗と呼ばれるものまで現れた。
●この説教強盗一世は、大正15年(1926年)8月から昭和4年(1929年)2月かけて、2年8カ月にわたって東京市民を震撼させ、62件の強盗、22件の窃盗などで、ついに逮捕されたのである。
1929年
昭和4年
3月4日
米大統領にフーバー就任

●アメリカ資本は、第1次世界大戦後の荒廃したドイツ、ヨーロッパを復興させた。そしてドイツからの賠償金やヨーロッパ各国からの戦費返済がアメリカに還流し、当時のアメリカには全世界の金の約半分が集まったといわれた。1928年の大統領選では共和党は依然として有利であり、フーバーは選挙前の演説で次のように語ったという。

「今日われわれアメリカ人は、どの国の史上にもまだ見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利に近づいている。・・われわれは神の加護によって、貧困がこの国から絶滅する日を、やがてまのあたりに見るであろう・・・」
(出典)世界の歴史14 中央公論社1963年刊

●「永遠に栄えよ」と豪語したアメリカが、まもなく歴史上未曾有の大恐慌となった。そして世界は、それが原因で第2次世界大戦へとむかった、ともいわれる。

1929年
昭和4年
3月5日
労農党代議士山本宜治,七生(しちせい)義団員黒田保久二に刺殺さる

●労農党代議士山本宜治が誕生したのは、前年2月に行われた初の普通選挙で当選したからである。この時無産政党から8人が当選したが、山本宜治は最左翼である労働農民党(労農党)の推薦を受け、京都帝大教授河上肇らの応援を得て当選した1人だった。
●しかし田中内閣の無産政党に対する弾圧は厳しく、昭和3年3/15に共産党の弾圧を行い、4/10には労農党と他の2団体に対して治安警察法を適用し解散命令を下した。山本宜治代議士は合法的政党基盤を失い孤立しながらも、昭和4年の五六議会では田中内閣批判を展開し、政友会系議員によるヤジと怒号の中で孤軍奮闘を続けた。そういう山本宜治代議士に対して右翼が暗殺の暴挙にでたのであった。(新聞)3/6東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1929年
昭和4年
3月14日
●横浜船渠(ドック)従業員4900人スト,東京モス紡績,横浜市電でも争議罷業。横浜ドックの従業員は待遇改善を求めてストを行い3/24会社側の譲歩で妥結した。横浜市電のストは、料金値上げと15人の従業員解雇に反対して3/5午前8時半より2日間におよぶ全線ストに入った。3/7午前1時半に調停が成立し朝から平常運転に戻った。東京モスリンは東洋モスリンとは別の紡績会社で、3/25女子工員2400人が賃上げ・食事改善などを要求して争議に入ったものである。
1929年
昭和4年
3月16日
●普通選挙による初の東京市会議員選挙実施。この選挙で無産党の堺利彦がトップ当選した。
(堺利彦)政治家。号は枯川。福岡県生まれ。幸徳秋水らと平民新聞を創刊。社会主義を信奉、非戦論を唱え入獄数回。売文社を設立。日本共産党初代委員長。のち労農派に転じ、日本大衆党・全国労農大衆党に参加。(1870-1933)(出典)広辞苑
(写真)中央が堺利彦、写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
3月23日
●東京の大学・専門学校の卒業生約2万人のうち、4割強は就職できず、社会の1大不安要因との新聞報道。朝日では「空前の就職難時代を如何に解決すべきか、10万の求職青年をひかへて」とある。
小津安二郎監督・松竹映画「大学は出たけれど」は、この世相をうまく表現し昭和4年9月封切られ大ヒットした。
(新聞)3/24東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
3月26日
●インド詩聖タゴール来日
(RabīndranāthTagoreラビンドラナース━)インドの詩人、思想家。インドの近代化を促すとともに、東西文化の融合につとめた。日本にも4回来訪。ベンガル語と英語で作品を発表。1913年、抒情詩集「ギーターンジャリ」でノーベル文学賞を受賞した。インド国歌「ジャナ・ガナ・マナ(インドの朝)」の作詞・作曲者。(1861-1941)(出典)日本国語大辞典精選版
1929年
昭和4年
3月28日
●外務省、済南事件協定に関する交換公文発表。鈴木参謀総長、山東撤兵の命令を発令、文書の交換調印後2カ月間で撤兵とあるので、全部の撤兵完了は5月下旬の予定と新聞報道。南京・漢口両事件解決の協定調印は5月2日南京で行われた。
1929年
昭和4年
4月1日
●初の国産ウイスキー発売。すでに「赤玉ポートワイン」で実績を積んでいた寿屋(現サントリー)が、「サントリー白札」を発売、ウイスキー大衆化への先駆けとなった。
1929年
昭和4年
4月1日
●東京上野松坂屋本館が開店した。地上8階地下1階のルネサンス様式の建物で、売り場のほかに、演芸大ホール、美容室、鉄道案内所、大小展覧会場、動物園などが備えられ、開店日には12万~13万人が来店した。
(写真)上野松坂屋本館(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
4月5日
●東京実業組合連合会・東京商工会議所,商業労働者の週48時間労働に反対
1929年
昭和4年
4月15日
●大阪・梅田に初の本格的ターミナル・デパート阪急百貨店開店。これは阪急電鉄直営のデパートである。地上8階会地下2階のビルで、1階には阪急電車の乗り場・切符売り場があり、2階から6階までが商品売り場、そして7階が大食堂になっていた。これは電車のプラットホームの上にデパートを建てたもので、日本初の、そして世界でも例のないターミナル・デパートの登場だった。ターミナル駅を通るサラリーマンと沿線の客を目当てとしたデパートという発想は、阪急電鉄社長小林一三(いちぞう)によるものだった。小林一三は戦前の第2次近衛内閣で商工相、戦後幣原内閣で国務相にもなった大実業家である。
(写真)阪急百貨店開店時の夜景。小林の創設した「宝塚少女歌劇」の電飾もみえる。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
4月16日
日本共産党員全国的大検挙(4・16事件)

新聞報道はこの年の11/5に解禁となった。下の紙面は11/6のものである。(新聞)11/6東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より引用すると、以下のようにある。
『4/16内務省警保局は、治安維持法違反などで全国の特高警察網を使い、1道3府 24県にわたる、日本共産党員とそのシンパの一斉検挙を行った。この日の検挙者は約400人に上った。共産党は前年の 3.15大検挙で組織に大打撃を受けたが、常任中央委員の渡辺政之輔・鍋山貞親・佐野学・市川正一らは検挙を逃れていた。警察側の追及は厳しく、3年8月に中央事務局員の宮原省久・岩田義道・野坂参三らが、さらに10月3日には国領伍一郎が検挙された。また、委員長渡辺政之輔は10月6日、台湾の基隆で警官隊に追い詰められてピストル自殺をした。しかし、彼らは組織の再建に奔走した。党再建の任務を帯びた市川がモスクワから帰国し、4年3月、鍋山、三田村四郎とともに新たに中央指導部を設立した。3.15大検挙とそれ以降の検挙にもかかわらず、党員は400人を超えていたといわれる。党の影響下に1万2000余人を結集して日本労働組合全国協議会がつくられ(3年12月)、日本共産青年同盟も再建された(4年1月)。共産党の組織は着実に拡大し、「天皇制打倒・無産階級の解放」などを主張して、労働運動や社会運動に大きな影響を与えていた。こうした中で、暗号で書かれた党員名簿がアジトで発見されたのをきっかけに、4.16大検挙になったのである。この大検挙を逃れた市川正一、鍋山貞親、三田村四郎、佐野学ら党の最高幹部も、4月から6月にかけ次々と逮捕され、共産党は再び打撃を受けた。この年の6月には、早くも田中清玄らによって再建が図られたが、以後、弾圧の中過酷な闘争を余儀なくされ、10年ついに壊滅した。』

1929年
昭和4年
4月26日
鉄鋼6社が鋼材連合会(業界カルテル)を設立

●棒鋼を生産する日本鋼管、神戸製鋼、釜石鉱山、富士製鋼、大阪製鉄、浅野小倉製鋼6社が加盟し、鋼材の生産と価格の調節を目的として各社の生産割合を決定した。これは不況による大量の在庫を抱え、価格の暴落に苦しむ鋼材企業が、不況克服のため結成したものである。1931年には「重要産業統制法」が制定され、国策として主要産業のカルテルを公認し、これに従わない企業を強制的にカルテルに参加させた。
(注)現在では 独占禁止法があり、正式名称である「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」の、「公正取引の確保」により不正取引として、カルテルや談合が禁止されている。しかし逆に国家が国策としてカルテルを強制した時代もあったのである。

1929年
昭和4年
5月1日
●第10回メーデー、全国で開催され約2万3000人が参加した。東京では芝公園の集会後、デモに移った約1万人の労働者が、警官隊と衝突を繰り返し、検挙者を多数出した。
(新聞)5/2東京朝日新聞紙面(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
5月1日
●日本ビクターが『東京行進曲』を発売、空前のヒットとなる。東京行進曲の前にはニットーの『道頓堀行進曲』がヒットしていた。「行進曲」とつければヒットするとばかり、多くの映画やレコードが誕生した。下に一覧を引用した。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊。

●『行進曲』映画一覧、題名・制作会社
青春行進曲…河合映画、混戦行進曲…東亜京都、日活行進曲…日活太秦、マキノ大行進曲…マキノ御室、大名古屋行進曲…東亜京都、
大九州行進曲…東亜京都、忍術行進曲…東亜京都、海の行進曲…松竹蒲田、新東京行進曲…日活太秦、神戸行進曲…帝キネ、
恋愛行進曲…松竹蒲田、大学行進曲…米パラマウント、結婚行進曲…米パラマウント
●『行進曲』レコード一覧、曲名・制作会社
道頓堀行進曲…ニットー、浅草行進曲…ニットー、巴里行進曲……ニットー、銀座行進曲…ニットー、モガモボ行進曲…オリエント、
観楽行進曲…ビクター、新銀座行進曲…ビクター、千日前行進曲…ニットー、横浜行進曲…ニットー、名古屋行進曲…ニットー、
京都行進曲……ニットー、大阪行進曲……ニットー、神戸行進曲……ニットー

などである。
下で「東京行進曲 佐藤千夜子」と「道頓堀行進曲 内海一郎」のYouTubeにリンクしてみた。自動再生なので、ボリュームを絞ってから、リンクをクリックしてください。

*リンクします 「東京行進曲 佐藤千夜子」→YouTubeからWo Yes氏
*リンクします「道頓堀行進曲 内海一郎」→YouTubeからSuperTokuyama氏
1929年
昭和4年
5月5日
●国民政府軍の憲兵隊が済南城に入城し、城内の警備を引き継ぐ。日本軍が撤退し引き渡しが完了した。
1929年
昭和4年
5月18日
●神宮球場で始まった早慶戦が超満員となる。場内に負傷者続出し、あふれた観客が警備の警官隊と乱闘になる。
1929年
昭和4年
5月19日
●石原莞爾、永田鉄山らの中堅将校が「一夕(ゆう)会」を結成した。陸軍人事の刷新、「満蒙問題」の解決などを申し合わせる。
1929年
昭和4年
5月22日
●海軍飛行艇,横須賀・南洋(サイパン)間の飛行に成功
1929年
昭和4年
5月25日
●農林省の調査で、前年の小作争議は総件数1744件、参加小作人数、7万1301人と新聞報道。(小作調停法が1924年に施行され、小作争議が起きた場合、当事者の申し立てで裁判所が調停を行った。各府県に小作官がおかれ争議解決にあたった。昭和4年5/29、小作調停法を宮城・岩手・青森3県に施行する旨公布。)
1929年
昭和4年
5月30日
●三土(みつち)忠造蔵相、官邸で日本経済連盟代表と会見、「金解禁は実行せず」と言明する。5月21日の朝日新聞に「金解禁におびゆる財界。期限を付して解禁を断行せよ」との記事。
(新聞)5/21東京朝日新聞紙面(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
5月30日
樺太未曾有の大惨状、猛火に包まれて7日

●新聞では、発火地域は20余ヵ所とあり、恵須取町は全滅に近いとある。「昭和2万日の全記録」講談社でも、恵須取町に延焼し同町を全焼、罹災者4000人とある。
(新聞)5/30東京朝日新聞紙面(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1929年
昭和4年
6月1日
●中華民国南京で孫文慰霊祭執行、犬養毅、頭山満が国賓待遇で参列。
1929年
昭和4年
6月3日
政府,中華民国国民政府を正式承認

●6/4の朝日新聞には、「芳澤公使の国書捧呈式、けふ盛大に挙行される。国民政府正式に承認され日支の国交常軌に復す」とあり南京の国民政府大礼堂にて厳粛に行われた、とある。

1929年
昭和4年
6月10日
●拓務省設置,田中首相が拓相兼任。この日拓務省設置の官制が公布、施行された。朝鮮、台湾、関東州、樺太、南洋群島の統治、殖産に関する事務や、移植民の保護指導、満鉄、東洋拓殖の業務の監督を主業務とした。
(写真)庁舎となる中央会議所に掛けられる看板。写真-アサヒグラフ(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
6月10日
●佐野学,上海で逮捕
社会運動家、歴史学者。大分県出身。日本共産党の創立に参加。四・一六事件により入獄中、鍋山貞親とともに転向声明を発表。第二次大戦後、日本政治経済研究所を創設。著書「ロシア経済史」「唯物史観批判」など。明治25~昭和28年(1892-1953)(出典)日本国語大辞典精選版
1929年
昭和4年
6月13日
●東京日本橋の三井本館完工。三井財閥の本拠にふさわしく、敷地1700坪、鉄筋コンクリート5階建て、総工費2000万円で、三井合名、三井銀行、三井信託など三井関連各社が入居した。ここは昭和7年(1932年)血盟団事件で三井財閥最高指導者・団琢磨が暗殺された場所である。
(写真)三井本館落成(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●8/30朝日新聞に昭和4年度全国長者番付が発表された。「三井本家が第1位、不景気しらずの大富豪」とあり、ベスト10の氏名は以下の通りである。①三井八郎右衛門、②岩崎久弥、③三井高修、④三井源右衛門、⑤三井元之助、⑥大倉喜七郎、⑦三井高精、⑧岩崎小弥太、⑨三井寿太郎、⑩住友吉左衛門。
1929年
昭和4年
6月26日
●枢密院御前会議,不戦条約を留保宣言つきで可決。これが前年昭和3年(1928年)8/27にパリで調印した「不戦条約」の批准承認であった。枢密院は「人民の名において・・」を、国体の名誉のために留保(日本は適用されないと)したのである。そして7月24日に国際不戦条約が発効し,ワシントンで批准46カ国が参加して宣布式が行われた。日本は「人民の名において」は日本に不適用と宣言したのである。
(新聞)6/27東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
6月28日
田中首相総辞職を表明

●田中首相は満州某重大事件(張作霖爆殺事件・昭和3年6/4)の処理問題で、天皇より叱責を受け辞職を決意、内閣は7/2総辞職した。7/1には、満州某重大事件の責任者の処分も発表した。(新聞)7/2東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●事件発生以来、陸軍は「張作霖爆殺の犯人は中国革命軍」と言明しつづけ、政府も国内では「満州某重大事件」として真相はあいまいにしていた。ところが外交ルートから「事件は関東軍将校の謀殺」という真相が漏れるにつれ、田中首相は天皇に昭和3年12月「鋭意調査中なるも、もし帝国軍人が関与しているなら厳然たる処断する」と上奏した。
●民政党は政府に対し、昭和4年に開かれた第56議会において、「満州某重大事件」の真相究明を迫ったが、田中内閣は目下調査中と逃げに終始して追及をかわした。
●田中首相は陸軍の圧力や閣内の強硬意見に負けて、処分内容を次のように決定した。それは「犯人は陸軍には存在しないが、警備上に若干の手落ちがあるとして、関東軍司令官村岡長太郎中将を予備役編入、関東軍高級参謀河本大作大佐を停職」とするものだった。
●6月28日、田中首相は関係者の処分内容を上奏するために参内した。しかし田中は、天皇に「お前の最初に言ったことと違ふぢゃないか」と叱責された。人一倍尊皇心の厚い田中首相は恐懼し涙を流し即座に辞意を表明したという。

1929年
昭和4年
7月2日
濱口雄幸(はまぐち-おさち)内閣成立(民政党)

(濱口雄幸)政治家。高知県出身。第1、2次加藤内閣の蔵相、第1次若槻内閣の内相を経て、立憲民政党総裁。昭和4年(1929年)首相就任。産業合理化・国際協調外交を唱え、ロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。右翼青年に狙撃されたのがもとで没。(金解禁、緊縮財政)(出典)「日本国語大辞典精選版」
●田中内閣は張作霖謀殺問題で総辞職,民政党濱口雄幸内閣成立,外務大臣・幣原喜重郎(幣原外交復活)、大蔵大臣・井上準之助、陸軍大臣・宇垣一成、海軍大臣・財部彪(たからべ-たけし)、逓信大臣・小泉又次郎など。
(新聞)7/3東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行。ちなみには、小泉又次郎は自民党第87・88・89代内閣総理大臣小泉純一郎の祖父である。
●7/9に発表された濱口新内閣の10大政綱の要点は次の10項目であった。

1.「政治の公明」政治の公明は立憲政治の根本要件たり。
2.「民心の作興」政府は益々国体観念のかん養に留意して国民精神の作興に力(つと)め・・
3.「綱紀革正」厳に綱紀をしゅく正するにあらずむば、民風のたい廃遂に済(すく)ふべからざるに到らむとす・・
4.「対支親善」軽々しく兵を動かすは固より国威を発揚する所以に非ず、政府の求める所は共存共栄にあり・・
5.「軍縮促進」列国と共に断然たる決意をもって国際協定の成立を促進せざるべからず・・
6.「整理緊縮」中央地方の財政に対し一大整理緊縮を断行し、陸海軍の経費に関しても国防に支障来さざる範囲において大に整理節約の途を講ずる・・
7.「非募債と減債」国債の総額は昭和4年度末現在額より増加せざること・・
8.「金解禁断行」諸般の準備を整へ近き将来において金解禁をせむことを期す・・
9.「社会政策確立」社会政策確立・国際貸借の改善・関税の改正は委員会を設けてその調査審議を託す・・
10.「教育の更新」義務教育費の増額、農漁山村経済の改善、殊に中小農工商に対する金融機能の整備等・・
7/10東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
7月1日
●婦人および年少者の深夜業禁止。これは大正12年(1923年)に改正された新工場法の一部適用除外規定がこの日からなくなった(改正工場法の施行が関東大地震のため、この日まで延期されていた)。それが女子および16歳未満の年少工員の深夜業禁止であった。しかしこれは工場法適用工場(常時10人以上の職工を使用する)のみであったので、当時の労働者の大多数を占める中小零細工場の従業員は適用外となったのである。
改正工場法の即時実施と賃金引き下げ反対で、6/26天満紡績はストに突入した。7/1に解決。(写真)「天満紡労働争議で立ち上がる女工たち」-1929年朝日新聞社大阪(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
7月8日
●金解禁ふくみで各市場一斉暴落
1929年
昭和4年
7月11日・7月14日
●7/11中華民国,東支鉄道を回収。7/14ソ連、支国境封鎖(17日ソ連,対華国交断絶を宜言)、7/25日・英・米・仏・伊・独の6カ国,東支鉄道のソ華共同管理を勧告,27日中国は承認(12月22日ハバロフスク休戦協定で回収失敗に終わる)
●これは前年昭和3年12月、張学良が国民政府に合流したことにより、国民政府の国権回復運動であった。昭和4年5月にはハルビンその他のソ連領事館および北満鉄道各機関を包囲捜索し、7月には東支鉄道(東清鉄道・北満鉄道のこと)を実力によって回収を行った。しかしこれに対してソ連は強硬姿勢をしめし、ソ連軍は満州に侵入し張学良軍と武力衝突を起こした。結局張学良軍は敗退し、ハバロフスク休戦協定で東支鉄道回収は失敗したのである。
1929年
昭和4年
7月15日
●日本航空輸送会社,東京・大阪・福岡間定期旅客輸送を開始。東京(立川飛行場)から大阪(木津川)-福岡(太刀洗)向けの一番機が出発した。乗客6名(乗員2名)であった。9/10からは福岡-蔚山(ウルサン)-京城(ソウル)-平壌(ピョンヤン)-大連間(週3往復)で朝鮮・満州線も営業を開始した。
(写真)東京の立川飛行場を出発する旅客輸送一番機、フォッカー・スーパーユニバーサル機。アメリカ・アトランチック社製。写真-野沢正(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
7月19日
●国際決済銀行設立に参加を決定。しかしこの設立協議では、日本が通貨安定を達成していないことから、日本の原加盟国への参加に疑問が呈されたという。
1929年
昭和4年
7月29日
●濱口内閣,5%削減の緊縮実行予算を発表。閣議で昭和4年後実行予算を決定し、当初予算の5%にあたる9100万円を削減した。
1929年
昭和4年
8月2日
●文部省の節約教化運動、男女青年団・宗教団体のほか全国各学校も動員されることが決定。
1929年
昭和4年
8月4日
●青島(チンタオ)で反日怠業が激化、日系紡績会社すべて休業。(この日から3社を加え6社すべてが休業した。)
1929年
昭和4年
8月6日
●ドイツ賠償ヤング案に対しハ-グ会議開催(31日閉会)。これは第1次世界大戦のドイツ賠償金を1924年から実施されたドーズ案に続いて、さらに賠償金を減額し、返済期間を緩和したヤング案を決めたものである。しかしのちに起こる世界恐慌で、ドイツはこのヤング案による賠償金支払いも不能となっていった。
1929年
昭和4年
8月19日
●ドイツの世界1周飛行船ツェッペリン伯号霞ヶ浦に着く。8/26、ツェッペリン伯号,太平洋横断に成功,ロサンゼルスに到着。この霞ヶ浦飛行場には、見物客が徹夜組も含めて正午までに約8万人が殺到した。
(新聞)8/20東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
8月27日
●東京中央放送局,求人求職放送を開始。これは週2回、夜7時のニュースのあとに求人求職を伝える「職業ニュース」の放送を開始した。
1929年
昭和4年
8月28日
●濱口首相,緊縮政策を全国に放送。また内閣の金輸出解禁については、大蔵大臣井上準之助が「金解禁━全日本に叫ぶ」を9/18に出版し、ベストセラーになった。これは国民に金解禁の必要性を分かりやすく説いたもので、政府は金解禁への協力を、新聞ラジオなどメディアを積極的に使って宣伝した。現代においても通貨・為替は投機の対象となり、この不安定な為替問題は現代においても大きな問題である。

*リンクします 「金解禁:全日本に叫ぶ」井上準之助 著 先進社 昭和4年刊→ 国立国会図書館デジタルコレクション
疑獄事件頻発

●事件を列挙すると以下のようである。これらの疑獄事件は政党に対する国民の信頼を著しく失わせた。ただしこの疑獄事件は、政友会・田中義一内閣時代のもので、民政党の政友会に対する政略とみるむきも多かったといわれる。新聞は11月30日小橋文相が辞任した時の報道。
(新聞)11/30東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

●8/25、北海道鉄道の社長ら4人、背任横領の疑いで取り調べ。私鉄疑獄事件に発展する。
これは次の5件で、①北海道鉄道会社一部路線の国家買収に関する汚職事件。②伊勢電鉄の鉄道敷設免許に関する贈賄。③東大阪電鉄の鉄道敷設免許に関する贈賄。④博多湾鉄道の一部路線の国家買収に関する贈賄。⑤奈良電鉄延長線の早期免許取得で贈賄、だった。そしてこれは田中義一内閣の鉄相小川平吉と元政友会代議士春日俊文と共謀して行った贈賄事件とされたのである。
●9/11、売勲事件で天岡直嘉前賞勲局総裁ら起訴。これは叙勲を扱う賞勲局の総裁天岡直嘉が、昭和3年11月の天皇即位大礼を期して行われた大幅な叙勲の際、贈賄を受けた事件である。天岡は叙勲を望む財界人からの収賄を計画したのだった。天岡は昭和10年の控訴審で懲役2年と追徴金の判決となった。
●9/26、私鉄大疑獄事件の中心人物、前鉄相小川平吉を起訴収容。昭和8年の一審では、小川と春日の共謀は認められず、私鉄関係の被告15人全員が無罪となった。しかし検事側控訴により、翌昭和9年の東京控訴院では、小川と春日は共に②③④事件で有罪となり、懲役2年および追徴金の判決を受けた。
●11/29、越後鉄道買収疑獄で疑惑を受けた小橋文相が辞任(昭和5年12月有罪判決)
この事件は、昭和2年10月、越後鉄道国有買収にからみ小橋が収賄したとされた事件で、政友会の小川平吉らの5私鉄疑獄の取り調べの過程で明るみに出た事件だった。
●12/18、朝鮮総督府疑獄事件、前朝鮮総督・山梨半造、涜職(とくしょく=汚職の古い言い方)罪で起訴。これは釜山に朝鮮米の取引所を開設しようとした東京深川の米穀商川崎徳之助らが、朝鮮総督・山梨半造(予備役陸軍大将)に5万円を贈賄したとされる事件。裁判の結果、山梨は一審、二審で無罪となった。理由は、贈賄側が金を贈賄であると明確に言わなかったからというものだった。宇垣陸相は陸軍大将の不祥事であるので山梨に退官を求めたが、山梨はこれを拒否した。この事件は軍上層部の腐敗を指弾する若手将校の憤激を買った。
1929年
昭和4年
10月11日
●「浅間丸」がサンフランシスコ航路に就航。この浅間丸は日本郵船会社所有のもので、昭和5年4月「秩父丸(のち鎌倉丸と改名)」と「竜田丸」が同航路に就航し、世界の注目を集めた。豪華客船時代の幕が開けたのである。この船は太平洋横断の新記録を作り、ロサンゼルスで2日間一般公開を行い、1日1万500人余の観客が押しかけるほどの盛況だった。
(写真)大勢の見送りを受け、サンフランシスコに向けて横浜港を出港する浅間丸。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
10月12日
●犬養毅,政友会総裁となる。新聞は10/8のもので、臨時顧問会は、政友会総裁に犬養翁推戴(すいたい)に決定とある。10/12政友会は臨時党大会を開き、急死した田中義一に代わり犬養毅を第6代総裁に指名した。
(新聞)10/8東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
10月15日
●全国官吏の1割減俸発表,22日判検事などの反対運動で政府撤回。
●内閣は緊縮財政の一環として官吏減俸を閣議決定し、昭和5年1月からの実施を予定した。しかし「減俸は不景気になる」などと判事、検事、各省官吏が猛反対し、結局政府は撤回した。
(新聞)10/16東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
10月24日
ニューヨーク株式大暴落

●世界恐慌はじまる,ニューヨーク株式暴落で糸価暴落(29日ニューヨーク株式再び致命的暴落)
●仲買人は「いくらでもいい、成り行きで売ってくれ」と叫んで取引所に殺到した。11件の自殺も伝えられた。「暗黒の木曜日」は長い悪夢の始まりだった。とある。(写真)と文「株式市場が崩壊したウォール街」(出典)「クロニック世界全史」1994年講談社刊

1929年
昭和4年
11月1日
●内務省,失業者数30万0195人と発表
1929年
昭和4年
11月1日
●労農党結党大会開催,中央執行委員長に大山郁夫
1929年
昭和4年
11月3日
反日・光州学生事件

●朝鮮光州の学生が植民地的差別教育反対・日本打倒で決起,5万4000人参加。この事件は、朝鮮全羅南道の光州で、日本人の中学生10人と朝鮮人の高等普通学校(朝鮮人中学校で4年制)生12人が衝突した。これは4日前通学列車内で、日本人中学生が朝鮮人女子高校生に侮辱的言動をとったことが発端だった。そしてこれが光州地方に広がり、最後にそれが「反日帝・朝鮮独立」となり全土に波及したのであった。

1929年
昭和4年
11月16日
●英米財団と1億円借入クレジット設定の交渉成立(金輸出解禁実施直前の準備)。
1929年
昭和4年
11月19日
●蚕糸中央会は12月15日から31日まで全休,2月以降4ヵ月全国的操短と共同保管量拡張を決定。
1929年
昭和4年
11月19日
●産業合理化審議会設置。
1929年
昭和4年
11月21日
金輸出解禁断行を発表

●政府,昭和5年1月11日を期し金輸出解禁断行を発表。
(新聞)11/21東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1929年
昭和4年
11月29日
●中華民国駐在公使佐分利貞男,箱根で怪死。
1929年
昭和4年
12月15日
●日本人絹連合会,第1次操短を決議。
1929年
昭和4年
12月24日
●大阪造幣局、金解禁に備え「昭和」の年号を刻印した最初の「金貨鋳造」を開始した。
1929年
昭和4年
12月25日
●日本大衆党分裂,反対同盟の堺利彦ら東京無産党を結成。
1929年
昭和4年
12月29日
上越線清水トンネル貫通

(導坑最後の障壁が破られトンネルが貫通した日である)
●大正8年(1919年)測量開始、大正11年(1922年)8月、土合(どあい)口で導坑掘進開始、翌12年12月、土樽(つちたる)口も着工した。鉄道省はこの工事では従来の請負方式をやめ、初めて直轄方式を取り入れ、宿舎の手配、食料調達から労務管理一切まで鉄道省が行った。このことは日本のトンネル工事で画期的なことであった。
●また設計上でも、トンネルの長さを短縮(半分の約9.7km)するために、勾配を変更し、そのためのループ線をトンネルの前後につけることで解決したり、土合-石打間を電化して、スピードアップと輸送力の増強も図った。しかし工事は困難をきわめ、導坑掘削から9年、総工費1172万5000余円、延べ360万8000人を動員、犠牲者47人、2500余人が重軽傷を負い、昭和6年(1931年)9月1日に開通したのである。この時清水トンネル(上越線)通過の1番列車は、前日8/31午後10時5分上野発-秋田行き、であった。
(図)清水トンネル(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1929年(昭和4年)その他の事件・災害・文化など

「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行と「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋
●1/9、久原鉱業,日本産業と改称
●1/17、労農大衆党,京都で結党
●1/19、日華関税条約成立(2月1日実施)
●2/15、染料関税を撤廃

下

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