1929年(昭和4年)10月「世界恐慌始まる」昭和恐慌前夜
2023年4月15日アジア・太平洋戦争
日本の産業の花形であった生糸・絹織物産業が衰退した原因は複雑である。国内不況、物価下落、金解禁、世界恐慌、為替下落、レーヨンの市場参入などが衰退を招いた要因であろう。ここでは『昭和2万日の全記録』講談社、『昭和財政史』(戦前編)大蔵省(財務省)、「日本経済史」慶応義塾大学出版会発行(2011年)などから数値を引用した。
*リンクします「昭和財政史(戦前編)」→財務省・財務総合政策研究所
●日本の電気事業は、1882年(明治15年)東京電灯によって開始された。明治・大正にかけて各地では中小の電力会社の設立が相次いだが、関東大震災を機に電力会社の統合が進んだ。この頃、東京電灯、日本電力、大同電力、宇治川電気、東邦電力の5大電力会社が激しい企業競争を続けていた。
●なかでも東邦電力(のちに電力の鬼と呼ばれた松永安左エ門社長)は、工業地帯である京浜地区への進出を狙い「東京電力」という子会社を作り、関東大地震で施設が壊滅した「東京電灯」へ殴り込みをかけたのである。この「東京電力」は、東邦電力が静岡県の大井川の水利権を持つ「早川電力」と横浜地区に電力供給権を持つ「群馬電力」を手に入れ合併させたもので1925年に創立された。しかしこの『電力戦争』とよばれた「東京電灯」と「東京電力」の戦いはすさまじく、「東京電力」の攻勢は、東京市電、京浜電車、東武鉄道、日本鋼管、日清紡などの大口客を「東京電灯」から奪った。国鉄(今のJR)だけは両者の話合いで協調して送電した。
●しかしこの過激な競争で両者の経営内容が悪化し、これをみかねた三井、三菱、安田など有力財閥銀行が斡旋にはいり、昭和3年(1928年)4/1「東京電灯」が「東京電力」を合併して争いは終結した。
●下の「電力業の発展と動力革命」の数値であるが、これらの電力業の競争は、電力の供給の拡大と料金の低下を生み、日本の製造業に大きな影響を与えた。数値でも1934年(昭和9年)には電動機の比率は81.3%となって、原動力の変換「動力革命」が起きたのである。
●ちなみに現在でも日本の東西で交流周波数が異なる理由は、この時代に、東京電灯がドイツ製交流発電機(50Hz)、大阪電灯がアメリカ製交流発電機(60Hz)を使用して電力を供給したことが原因である。
(上の写真は、東京電灯千住火力発電所で、隅田川沿いに立地し、1926年《大正15年》から稼働し、1964年《昭和39年》に撤去された発電所だった。この火力発電所の4本の煙突《高さ80mあまり》は「お化け煙突=方向によって1本~4本に見えた」とよばれた。私事であるが、自分が小学校低学年の頃、千葉県の松戸から池袋方面に常磐線でくるとき、この煙突をたびたび見た記憶がある。だが常磐線ではせいぜいのところ3本程度にしかならなかった気がする。)
(上写真)大正15年(1926年)操業開始の東京電灯千住火力発電所。(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
(下表)「電力業の発展と動力革命」(出典)「日本経済史」慶応義塾大学出版会発行(2011年)
●超一流企業の草創期。松下幸之助は1917年に「二股ソケット」を考案し、独立し1918年に松下電気器具製作所を設立した。そして昭和2年(1927年)4月、過去の自転車店奉公時代の体験から生まれたアイデアをもとに「ナショナルランプ」を発売して大成功をおさめた。(写真)自転車用電池ランプの宣伝板-写真・松下電器歴史館(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
●松下電器産業(現パナソニック)草創期の精神は、「自分自身や大衆の生活の中にある身近なものを工夫改良し、より便利な、より経済的なものにしようとする意欲」から生まれた。そして松下幸之助は販売促進・市場流通の構造に斬新なアイデアを導入していったのである。一例としては、「ナショナルランプ」の拡販策で1万個を無料で販売店に提供し、1万個の電池を宣伝用に岡田電池商会に無料提供させ、代わりに年内に20万個仕入れるという交換条件をつけるという販売促進を行った。結果は大成功で、約束の2倍以上の47万個を岡田電池商会から仕入れることができたのだった。
●また松下幸之助の経営手腕は信頼されており、金融恐慌のなかでも住友銀行は、松下の新工場建設の計画に対して、無担保で融資を行ったのである。
3-2
田中義一内閣(政友会)は、7月、満州某重大事件(張作霖爆殺事件《昭和3年6月》)の陸軍に対する処分問題で天皇の叱責を受け総辞職。(9/29、田中義一狭心症のため死亡)
●代わった濱口雄幸内閣(民政党)は、外交方針と経済政策を転換、「対支親善」「軍縮促進」「整理緊縮」「金解禁断行」などを施政方針とする。外務大臣に幣原喜重郎、大蔵大臣に井上準之助(前日銀総裁)を起用、徹底した緊縮財政を開始する。そして金解禁のために、国際競争力(輸出)強化の政策として、輸入削減のための節約と貯蓄を奨励し、産業合理化に取り組んだ。そして濱口雄幸内閣は昭和5年1/11、緊縮財政下において、金解禁を断行していく。(11/21、翌昭和5年1月11日に金解禁を行う大蔵省令を公布)
年・月 | 1929年(昭和4年)6月頃まで |
---|---|
1929年昭和4年1月 |
1月の災害
|
1929年昭和4年1月 |
中国・朝鮮情勢
|
1929年昭和4年1月9日 |
岐阜県犀川(さいがわ)切り落とし反対運動暴動化
|
1929年昭和4年1月19日 | ●新党俱楽部(床次竹二郎代表)、「南京政府を承認し速やかに山東撤兵を実行せよ」と声明する。 |
1929年昭和4年1月22日 |
![]() ●このナップというのは全日本無産者芸術団体協議会のことを言い、機関誌には「戦旗」があり、昭和4年6月号で小林多喜二に続き新しい文学の旗手が誕生した。それは「太陽のない街」を同誌に寄稿した徳永直(すなお)である。下にプロレタリア文化運動の作品を一覧にしてみた。 (ポスター)左翼劇場第14回公演『太陽のない街』、(一覧)ともに、(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
大正10年(1921年) 2月‥‥第1次『種蒔く人』秋田で創刊、6月‥‥山川均『レーニンと卜ロツキイ』、10月‥‥『種蒔く人』東京で再刊 大正11年(1922年) 大正12年(1923年) 大正13年(1924年) 大正14年(1925年) 大正15年(1926年) 昭和2年(1927年) 昭和3年(1928年) 昭和4年(1929年) 昭和6年(1931年) 昭和7年(1932年) 昭和8年(1933年) 昭和9年(1934年) |
|
1929年昭和4年1月31日 | ●衆議院,満州某重大事件追究,真相発表決議案を否決 |
1929年昭和4年2月 |
2月の災害
|
1929年昭和4年2月1日 | ●若槻礼次郎,貴族院で田中内閣の諸政策を痛撃 |
1929年昭和4年2月3日 | ●「改造文庫」刊行はじまる。『社会主義の発展』(エンゲルス)、『エミール』(ルソー)など。 「改造」は総合雑誌。大正八年(1919)4月、改造社が創刊。急進的な編集方針によって当時の社会主義思想の高揚に貢献。また文芸欄も充実しており、近代文学の代表的作品を数多く掲載。新進作家の登龍門としても権威があった。昭和19年(1944)改造社の解散によって廃刊、同21年復刊したが、30年廃刊。(出典)日本国語大辞典精選版 |
1929年昭和4年2月17日 | ●山梨県下の大地主400人が小作争議に対抗して山梨土地株式会社を設立 |
1929年昭和4年2月23日 | (説教強盗妻木松吉を逮捕) ●翌日の朝日新聞(2/24)には『帝都を恐怖させた、説教強盗一世捕はる』とある。昭和3年から4年にかけては強盗事件が頻発し、第1次大戦後の不況と金融恐慌により犯罪が激増し「帝都不安の時代」と称された。強盗はこの説教強盗だけでなく、新渡戸稲造宅を襲ったピストル強盗、いつも刺身包丁を持ち赤靴をはいていた「赤靴強盗」、説教強盗の二世・三世、講談強盗、さらには軒並強盗と呼ばれるものまで現れた。 ●この説教強盗一世は、大正15年(1926年)8月から昭和4年(1929年)2月かけて、2年8カ月にわたって東京市民を震撼させ、62件の強盗、22件の窃盗などで、ついに逮捕されたのである。 |
1929年昭和4年3月4日 |
米大統領にフーバー就任
●アメリカ資本は、第1次世界大戦後の荒廃したドイツ、ヨーロッパを復興させた。そしてドイツからの賠償金やヨーロッパ各国からの戦費返済がアメリカに還流し、当時のアメリカには全世界の金の約半分が集まったといわれた。1928年の大統領選では共和党は依然として有利であり、フーバーは選挙前の演説で次のように語ったという。 「今日われわれアメリカ人は、どの国の史上にもまだ見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利に近づいている。・・われわれは神の加護によって、貧困がこの国から絶滅する日を、やがてまのあたりに見るであろう・・・」
(出典)世界の歴史14 中央公論社1963年刊 ●「永遠に栄えよ」と豪語したアメリカが、まもなく歴史上未曾有の大恐慌となった。そして世界は、それが原因で第2次世界大戦へとむかった、ともいわれる。 |
1929年昭和4年3月5日 |
労農党代議士山本宜治,七生(しちせい)義団員黒田保久二に刺殺さる
|
1929年昭和4年3月14日 | ●横浜船渠(ドック)従業員4900人スト,東京モス紡績,横浜市電でも争議罷業。横浜ドックの従業員は待遇改善を求めてストを行い3/24会社側の譲歩で妥結した。横浜市電のストは、料金値上げと15人の従業員解雇に反対して3/5午前8時半より2日間におよぶ全線ストに入った。3/7午前1時半に調停が成立し朝から平常運転に戻った。東京モスリンは東洋モスリンとは別の紡績会社で、3/25女子工員2400人が賃上げ・食事改善などを要求して争議に入ったものである。 |
1929年昭和4年3月16日 |
![]() (堺利彦)政治家。号は枯川。福岡県生まれ。幸徳秋水らと平民新聞を創刊。社会主義を信奉、非戦論を唱え入獄数回。売文社を設立。日本共産党初代委員長。のち労農派に転じ、日本大衆党・全国労農大衆党に参加。(1870-1933)(出典)広辞苑 (写真)中央が堺利彦、写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1929年昭和4年3月23日 |
![]() 小津安二郎監督・松竹映画「大学は出たけれど」は、この世相をうまく表現し昭和4年9月封切られ大ヒットした。 (新聞)3/24東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1929年昭和4年3月26日 | ●インド詩聖タゴール来日 (RabīndranāthTagoreラビンドラナース━)インドの詩人、思想家。インドの近代化を促すとともに、東西文化の融合につとめた。日本にも4回来訪。ベンガル語と英語で作品を発表。1913年、抒情詩集「ギーターンジャリ」でノーベル文学賞を受賞した。インド国歌「ジャナ・ガナ・マナ(インドの朝)」の作詞・作曲者。(1861-1941)(出典)日本国語大辞典精選版 |
1929年昭和4年3月28日 | ●外務省、済南事件協定に関する交換公文発表。鈴木参謀総長、山東撤兵の命令を発令、文書の交換調印後2カ月間で撤兵とあるので、全部の撤兵完了は5月下旬の予定と新聞報道。南京・漢口両事件解決の協定調印は5月2日南京で行われた。 |
1929年昭和4年4月1日 | ●初の国産ウイスキー発売。すでに「赤玉ポートワイン」で実績を積んでいた寿屋(現サントリー)が、「サントリー白札」を発売、ウイスキー大衆化への先駆けとなった。 |
1929年昭和4年4月1日 |
![]() (写真)上野松坂屋本館(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1929年昭和4年4月5日 | ●東京実業組合連合会・東京商工会議所,商業労働者の週48時間労働に反対 |
1929年昭和4年4月15日 |
![]() (写真)阪急百貨店開店時の夜景。小林の創設した「宝塚少女歌劇」の電飾もみえる。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1929年昭和4年4月16日 |
日本共産党員全国的大検挙(4・16事件)
新聞報道はこの年の11/5に解禁となった。下の紙面は11/6のものである。(新聞)11/6東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1929年昭和4年4月26日 |
鉄鋼6社が鋼材連合会(業界カルテル)を設立
●棒鋼を生産する日本鋼管、神戸製鋼、釜石鉱山、富士製鋼、大阪製鉄、浅野小倉製鋼6社が加盟し、鋼材の生産と価格の調節を目的として各社の生産割合を決定した。これは不況による大量の在庫を抱え、価格の暴落に苦しむ鋼材企業が、不況克服のため結成したものである。1931年には「重要産業統制法」が制定され、国策として主要産業のカルテルを公認し、これに従わない企業を強制的にカルテルに参加させた。 |
1929年昭和4年5月1日 |
![]() (新聞)5/2東京朝日新聞紙面(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1929年昭和4年5月1日 | ●日本ビクターが『東京行進曲』を発売、空前のヒットとなる。東京行進曲の前にはニットーの『道頓堀行進曲』がヒットしていた。「行進曲」とつければヒットするとばかり、多くの映画やレコードが誕生した。下に一覧を引用した。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊。
●『行進曲』映画一覧、題名・制作会社
青春行進曲…河合映画、混戦行進曲…東亜京都、日活行進曲…日活太秦、マキノ大行進曲…マキノ御室、大名古屋行進曲…東亜京都、 大九州行進曲…東亜京都、忍術行進曲…東亜京都、海の行進曲…松竹蒲田、新東京行進曲…日活太秦、神戸行進曲…帝キネ、 恋愛行進曲…松竹蒲田、大学行進曲…米パラマウント、結婚行進曲…米パラマウント ●『行進曲』レコード一覧、曲名・制作会社 道頓堀行進曲…ニットー、浅草行進曲…ニットー、巴里行進曲……ニットー、銀座行進曲…ニットー、モガモボ行進曲…オリエント、 観楽行進曲…ビクター、新銀座行進曲…ビクター、千日前行進曲…ニットー、横浜行進曲…ニットー、名古屋行進曲…ニットー、 京都行進曲……ニットー、大阪行進曲……ニットー、神戸行進曲……ニットー などである。 *リンクします 「東京行進曲 佐藤千夜子」→YouTubeからWo Yes氏*リンクします「道頓堀行進曲 内海一郎」→YouTubeからSuperTokuyama氏 |
1929年昭和4年5月5日 | ●国民政府軍の憲兵隊が済南城に入城し、城内の警備を引き継ぐ。日本軍が撤退し引き渡しが完了した。 |
1929年昭和4年5月18日 | ●神宮球場で始まった早慶戦が超満員となる。場内に負傷者続出し、あふれた観客が警備の警官隊と乱闘になる。 |
1929年昭和4年5月19日 | ●石原莞爾、永田鉄山らの中堅将校が「一夕(ゆう)会」を結成した。陸軍人事の刷新、「満蒙問題」の解決などを申し合わせる。 |
1929年昭和4年5月22日 | ●海軍飛行艇,横須賀・南洋(サイパン)間の飛行に成功 |
1929年昭和4年5月25日 | ●農林省の調査で、前年の小作争議は総件数1744件、参加小作人数、7万1301人と新聞報道。(小作調停法が1924年に施行され、小作争議が起きた場合、当事者の申し立てで裁判所が調停を行った。各府県に小作官がおかれ争議解決にあたった。昭和4年5/29、小作調停法を宮城・岩手・青森3県に施行する旨公布。) |
1929年昭和4年5月30日 |
![]() (新聞)5/21東京朝日新聞紙面(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1929年昭和4年5月30日 |
樺太未曾有の大惨状、猛火に包まれて7日
|
1929年昭和4年6月1日 | ●中華民国南京で孫文慰霊祭執行、犬養毅、頭山満が国賓待遇で参列。 |
1929年昭和4年6月3日 |
政府,中華民国国民政府を正式承認
●6/4の朝日新聞には、「芳澤公使の国書捧呈式、けふ盛大に挙行される。国民政府正式に承認され日支の国交常軌に復す」とあり南京の国民政府大礼堂にて厳粛に行われた、とある。 |
1929年昭和4年6月10日 |
![]() (写真)庁舎となる中央会議所に掛けられる看板。写真-アサヒグラフ(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1929年昭和4年6月10日 | ●佐野学,上海で逮捕 社会運動家、歴史学者。大分県出身。日本共産党の創立に参加。四・一六事件により入獄中、鍋山貞親とともに転向声明を発表。第二次大戦後、日本政治経済研究所を創設。著書「ロシア経済史」「唯物史観批判」など。明治25~昭和28年(1892-1953)(出典)日本国語大辞典精選版 |
1929年昭和4年6月13日 |
![]() (写真)三井本館落成(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 ●8/30朝日新聞に昭和4年度全国長者番付が発表された。「三井本家が第1位、不景気しらずの大富豪」とあり、ベスト10の氏名は以下の通りである。①三井八郎右衛門、②岩崎久弥、③三井高修、④三井源右衛門、⑤三井元之助、⑥大倉喜七郎、⑦三井高精、⑧岩崎小弥太、⑨三井寿太郎、⑩住友吉左衛門。 |
1929年昭和4年6月26日 |
![]() (新聞)6/27東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1929年昭和4年6月28日 |
田中首相総辞職を表明
|
10月、アメリカ、ニューヨーク・ウォール街で株式が大暴落する。10/24は(暗黒の木曜日)、10/29は(悲劇の火曜日)といわれ、全世界を巻き込む世界大恐慌の幕が開けた。この大恐慌は、日本の輸出産業に大打撃を与え、濱口内閣の緊縮財政とデフレ政策がさらに国内景気を縮小させ、日本は深刻な不況に陥った。労働争議、小作争議が頻発し、物価・所得は下落し失業者は増え不況は深まった。また政府は、財政圧縮と国際協調のためロンドン海軍軍縮条約(昭和5年4月)を締結したが、これが天皇の大権である「統帥権」を政府が「干犯」したという「統帥権干犯」問題となっていくのである。