1929年(昭和4年)10月「世界恐慌始まる」昭和恐慌前夜
●年表は昭和4年の政治・経済・事件を書き出した。昭和初期といっても、昔のことではない。現代の多くの企業のルーツがこの時代にあり、出版・放送・マスメディアの発達もこの時代からである。政治的にも2大政党(制度ではない)による政権交代や男子普通選挙の実施、陪審制の実施などもこの時代からである。だが一方で治安維持法や治安警察法による思想弾圧が始まったのもこの時代である。特筆できるのは、国家による共産党への徹底した弾圧があったことである。しかし労働争議や小作争議については、共産主義弾圧とはおもむきが異なり、調停を重視したことであろうか。
●この昭和初期の時代は、労働争議、男子普通選挙、政党政治、思想弾圧、世界恐慌、植民地支配、デフレ、財閥の成長、中国での軍部侵略の前兆などすべてが起こった時代といえるだろう。
(上写真)航空母艦加賀1928年(昭和3年)3月31日竣工。(写真・福井静夫)上空から見た加賀。加賀は八・八艦隊計画では戦艦だったが、ワシントン海軍軍縮条約で航空母艦に改造され、航空艦隊の主力として活躍する。これにより日本海軍は、前年3月竣工の赤城と共に2隻の巨大空母を保有することになった。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
昭和3年~昭和4年 | 主要項目 |
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★生糸・絹織物産業の衰退と電力業の発展 | 日本の産業の花形であった生糸・絹織物産業の衰退が始まり、農村も疲弊していく。一方で電力事業の発展は、電動機の普及をうみ、「動力革命」となっていく。 |
昭和4年(1929年) 田中内閣→濱口雄幸内閣 | ●田中義一内閣(政友会)、昭和4年(1929年)7月、張作霖爆殺事件(昭和3年6月)の陸軍に対する処分を徹底できず総辞職。 ●濱口雄幸内閣(民政党)、外交方針と経済政策を転換、「対支親善」「軍縮促進」「整理緊縮」「金解禁断行」などを施政方針とする。外務大臣に幣原喜重郎、大蔵大臣に井上準之助(前日銀総裁)を起用、徹底した緊縮財政を開始する。そして金解禁のために、国際競争力(輸出)強化の政策として、輸入削減のための節約と貯蓄を奨励し、産業合理化に取り組んだ。そして濱口雄幸内閣は昭和5年1/11、緊縮財政下において、金解禁を断行していく。 ●しかしながら、昭和4年(1929年)10月に起こったアメリカ・ニューヨークの株式の大暴落に始まる大恐慌は、日本の輸出産業に大打撃を与え、かつ国内の緊縮財政とデフレ政策とがさらに国内景気を縮小させ、日本は深刻な不況に陥った。労働争議、小作争議が頻発し、物価・所得は下落し失業者は増え不況は深まった。また政府は、財政圧縮と国際協調のためロンドン海軍軍縮条約(昭和5年4月)を締結したが、これが天皇の大権である「統帥権」を政府が「干犯」したという「統帥権干犯」問題となっていくのである。 |
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『昭和2万日の全記録』講談社、『昭和財政史』(戦前編)大蔵省(財務省)、「日本経済史」慶応義塾大学出版会発行(2011年)などから数値を引用した
*リンクします「昭和財政史(戦前編)」→財務省・財務総合政策研究所
●日本の電気事業は、1882年(明治15年)東京電灯によって開始された。明治・大正にかけて各地では中小の電力会社の設立が相次いだが、関東大震災を機に電力会社の統合が進んだ。この頃、東京電灯、日本電力、大同電力、宇治川電気、東邦電力の5大電力会社が激しい企業競争を続けていた。
●なかでも東邦電力(のちに電力の鬼と呼ばれた松永安左エ門社長)は、工業地帯である京浜地区への進出を狙い「東京電力」という子会社を作り、関東大地震で施設が壊滅した「東京電灯」へ殴り込みをかけたのである。この「東京電力」は、東邦電力が静岡県の大井川の水利権を持つ「早川電力」と横浜地区に電力供給権を持つ「群馬電力」を手に入れ合併させたもので1925年に創立された。しかしこの『電力戦争』とよばれた「東京電灯」と「東京電力」の戦いはすさまじく、「東京電力」の攻勢は、東京市電、京浜電車、東武鉄道、日本鋼管、日清紡などの大口客を「東京電灯」から奪った。国鉄(今のJR)だけは両者の話合いで協調して送電した。
●しかしこの過激な競争で両者の経営内容が悪化し、これをみかねた三井、三菱、安田など有力財閥銀行が斡旋にはいり、昭和3年(1928年)4/1「東京電灯」が「東京電力」を合併して争いは終結した。
●下の「電力業の発展と動力革命」の数値であるが、これらの電力業の競争は、電力の供給の拡大と料金の低下を生み、日本の製造業に大きな影響を与えた。数値でも1934年(昭和9年)には電動機の比率は81.3%となって、原動力の変換「動力革命」が起きたのである。
●ちなみに現在でも日本の東西で交流周波数が異なる理由は、この時代に、東京電灯がドイツ製交流発電機(50Hz)、大阪電灯がアメリカ製交流発電機(60Hz)を使用して電力を供給したことが原因である。
(上の写真は、東京電灯千住火力発電所で、隅田川沿いに立地し、1926年《大正15年》から稼働し、1964年《昭和39年》に撤去された発電所だった。この火力発電所の4本の煙突《高さ80mあまり》は「お化け煙突=方向によって1本~4本に見えた」とよばれた。私事であるが、自分が小学校低学年の頃、千葉県の松戸から池袋方面に常磐線でくるとき、この煙突をたびたび見た記憶がある。だが常磐線ではせいぜいのところ3本程度にしかならなかった気がする。)
(上写真)大正15年(1926年)操業開始の東京電灯千住火力発電所。(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
(下表)「電力業の発展と動力革命」(出典)「日本経済史」慶応義塾大学出版会発行(2011年)
●超一流企業の草創期。松下幸之助は1917年に「二股ソケット」を考案し、独立し1918年に松下電気器具製作所を設立した。そして昭和2年(1927年)4月、過去の自転車店奉公時代の体験から生まれたアイデアをもとに「ナショナルランプ」を発売して大成功をおさめた。(写真)自転車用電池ランプの宣伝板-写真・松下電器歴史館(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
●松下電器産業(現パナソニック)草創期の精神は、「自分自身や大衆の生活の中にある身近なものを工夫改良し、より便利な、より経済的なものにしようとする意欲」から生まれた。そして松下幸之助は販売促進・市場流通の構造に斬新なアイデアを導入していったのである。一例としては、「ナショナルランプ」の拡販策で1万個を無料で販売店に提供し、1万個の電池を宣伝用に岡田電池商会に無料提供させ、代わりに年内に20万個仕入れるという交換条件をつけるという販売促進を行った。結果は大成功で、約束の2倍以上の47万個を岡田電池商会から仕入れることができたのだった。
●また松下幸之助の経営手腕は信頼されており、金融恐慌のなかでも住友銀行は、松下の新工場建設の計画に対して、無担保で融資を行ったのである。
年・月 | 1929年(昭和4年) |
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(昭和4年のポイント) ●田中義一内閣(政友会)は、7月、満州某重大事件(張作霖爆殺事件《昭和3年6月》)の陸軍に対する処分問題で天皇の叱責を受け総辞職。(9/29、田中義一狭心症のため死亡) ●代わりに組閣した濱口雄幸内閣(民政党)は外交方針と経済政策を転換、「対支親善」「軍縮促進」「整理緊縮」「金解禁断行」などを施政方針とした。特に金解禁のため徹底した緊縮財政を開始する。(11/21、翌昭和5年1月11日に金解禁を行う大蔵省令を公布) ●10月、アメリカ、ニューヨーク・ウォール街で株式が大暴落する。10/24(暗黒の木曜日)、10/29(悲劇の火曜日)といわれ、全世界を巻き込む世界大恐慌の幕が開けた。 | |
1929年 昭和4年 1月 | 1月の災害
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1929年 昭和4年 1月 | 中国・朝鮮情勢
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1929年 昭和4年 1月9日 | 岐阜県犀川(さいがわ)切り落とし反対運動暴動化
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1929年 昭和4年 1月19日 | ●新党俱楽部(床次竹二郎代表)、「南京政府を承認し速やかに山東撤兵を実行せよ」と声明する。 |
1929年 昭和4年 1月22日 | ![]() ●このナップというのは全日本無産者芸術団体協議会のことを言い、機関誌には「戦旗」があり、昭和4年6月号で小林多喜二に続き新しい文学の旗手が誕生した。それは「太陽のない街」を同誌に寄稿した徳永直(すなお)である。下にプロレタリア文化運動の作品を一覧にしてみた。 (ポスター)左翼劇場第14回公演『太陽のない街』、(一覧)ともに、(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1929年 昭和4年 1月31日 | ●衆議院,満州某重大事件追究,真相発表決議案を否決 |
1929年 昭和4年 2月 | 2月の災害
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1929年 昭和4年 2月1日 | ●若槻礼次郎,貴族院で田中内閣の諸政策を痛撃 |
1929年 昭和4年 2月3日 | ●「改造文庫」刊行はじまる。『社会主義の発展』(エンゲルス)、『エミール』(ルソー)など。 「改造」は総合雑誌。大正八年(1919)4月、改造社が創刊。急進的な編集方針によって当時の社会主義思想の高揚に貢献。また文芸欄も充実しており、近代文学の代表的作品を数多く掲載。新進作家の登龍門としても権威があった。昭和19年(1944)改造社の解散によって廃刊、同21年復刊したが、30年廃刊。(出典)日本国語大辞典精選版 |
1929年 昭和4年 2月17日 | ●山梨県下の大地主400人が小作争議に対抗して山梨土地株式会社を設立 |
1929年 昭和4年 2月23日 | (説教強盗妻木松吉を逮捕) ●翌日の朝日新聞(2/24)には『帝都を恐怖させた、説教強盗一世捕はる』とある。昭和3年から4年にかけては強盗事件が頻発し、第1次大戦後の不況と金融恐慌により犯罪が激増し「帝都不安の時代」と称された。強盗はこの説教強盗だけでなく、新渡戸稲造宅を襲ったピストル強盗、いつも刺身包丁を持ち赤靴をはいていた「赤靴強盗」、説教強盗の二世・三世、講談強盗、さらには軒並強盗と呼ばれるものまで現れた。 ●この説教強盗一世は、大正15年(1926年)8月から昭和4年(1929年)2月かけて、2年8カ月にわたって東京市民を震撼させ、62件の強盗、22件の窃盗などで、ついに逮捕されたのである。 |
1929年 昭和4年 3月4日 | 米大統領にフーバー就任 ●アメリカ資本は、第1次世界大戦後の荒廃したドイツ、ヨーロッパを復興させた。そしてドイツからの賠償金やヨーロッパ各国からの戦費返済がアメリカに還流し、当時のアメリカには全世界の金の約半分が集まったといわれた。1928年の大統領選では共和党は依然として有利であり、フーバーは選挙前の演説で次のように語ったという。 「今日われわれアメリカ人は、どの国の史上にもまだ見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利に近づいている。・・われわれは神の加護によって、貧困がこの国から絶滅する日を、やがてまのあたりに見るであろう・・・」 (出典)世界の歴史14 中央公論社1963年刊 ●「永遠に栄えよ」と豪語したアメリカが、まもなく歴史上未曾有の大恐慌となった。そして世界は、それが原因で第2次世界大戦へとむかった、ともいわれる。 |
1929年 昭和4年 3月5日 | 労農党代議士山本宜治,七生(しちせい)義団員黒田保久二に刺殺さる
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1929年 昭和4年 3月14日 | ●横浜船渠(ドック)従業員4900人スト,東京モス紡績,横浜市電でも争議罷業。横浜ドックの従業員は待遇改善を求めてストを行い3/24会社側の譲歩で妥結した。横浜市電のストは、料金値上げと15人の従業員解雇に反対して3/5午前8時半より2日間におよぶ全線ストに入った。3/7午前1時半に調停が成立し朝から平常運転に戻った。東京モスリンは東洋モスリンとは別の紡績会社で、3/25女子工員2400人が賃上げ・食事改善などを要求して争議に入ったものである。 |
1929年 昭和4年 3月16日 | ![]() (堺利彦)政治家。号は枯川。福岡県生まれ。幸徳秋水らと平民新聞を創刊。社会主義を信奉、非戦論を唱え入獄数回。売文社を設立。日本共産党初代委員長。のち労農派に転じ、日本大衆党・全国労農大衆党に参加。(1870-1933)(出典)広辞苑 (写真)中央が堺利彦、写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1929年 昭和4年 3月23日 | ![]() 小津安二郎監督・松竹映画「大学は出たけれど」は、この世相をうまく表現し昭和4年9月封切られ大ヒットした。 (新聞)3/24東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1929年 昭和4年 3月26日 | ●インド詩聖タゴール来日 (RabīndranāthTagoreラビンドラナース━)インドの詩人、思想家。インドの近代化を促すとともに、東西文化の融合につとめた。日本にも4回来訪。ベンガル語と英語で作品を発表。1913年、抒情詩集「ギーターンジャリ」でノーベル文学賞を受賞した。インド国歌「ジャナ・ガナ・マナ(インドの朝)」の作詞・作曲者。(1861-1941)(出典)日本国語大辞典精選版 |
1929年 昭和4年 3月28日 | ●外務省、済南事件協定に関する交換公文発表。鈴木参謀総長、山東撤兵の命令を発令、文書の交換調印後2カ月間で撤兵とあるので、全部の撤兵完了は5月下旬の予定と新聞報道。南京・漢口両事件解決の協定調印は5月2日南京で行われた。 |
1929年 昭和4年 4月1日 | ●初の国産ウイスキー発売。すでに「赤玉ポートワイン」で実績を積んでいた寿屋(現サントリー)が、「サントリー白札」を発売、ウイスキー大衆化への先駆けとなった。 |
1929年 昭和4年 4月1日 | ![]() (写真)上野松坂屋本館(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1929年 昭和4年 4月5日 | ●東京実業組合連合会・東京商工会議所,商業労働者の週48時間労働に反対 |
1929年 昭和4年 4月15日 | ![]() (写真)阪急百貨店開店時の夜景。小林の創設した「宝塚少女歌劇」の電飾もみえる。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1929年 昭和4年 4月16日 | 日本共産党員全国的大検挙(4・16事件) 新聞報道はこの年の11/5に解禁となった。下の紙面は11/6のものである。(新聞)11/6東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1929年 昭和4年 4月26日 | 鉄鋼6社が鋼材連合会(業界カルテル)を設立 ●棒鋼を生産する日本鋼管、神戸製鋼、釜石鉱山、富士製鋼、大阪製鉄、浅野小倉製鋼6社が加盟し、鋼材の生産と価格の調節を目的として各社の生産割合を決定した。これは不況による大量の在庫を抱え、価格の暴落に苦しむ鋼材企業が、不況克服のため結成したものである。1931年には「重要産業統制法」が制定され、国策として主要産業のカルテルを公認し、これに従わない企業を強制的にカルテルに参加させた。 |
1929年 昭和4年 5月1日 | ![]() (新聞)5/2東京朝日新聞紙面(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1929年 昭和4年 5月1日 | ●日本ビクターが『東京行進曲』を発売、空前のヒットとなる。東京行進曲の前にはニットーの『道頓堀行進曲』がヒットしていた。「行進曲」とつければヒットするとばかり、多くの映画やレコードが誕生した。下に一覧を引用した。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊。
●『行進曲』映画一覧、題名・制作会社 青春行進曲…河合映画、混戦行進曲…東亜京都、日活行進曲…日活太秦、マキノ大行進曲…マキノ御室、大名古屋行進曲…東亜京都、 大九州行進曲…東亜京都、忍術行進曲…東亜京都、海の行進曲…松竹蒲田、新東京行進曲…日活太秦、神戸行進曲…帝キネ、 恋愛行進曲…松竹蒲田、大学行進曲…米パラマウント、結婚行進曲…米パラマウント ●『行進曲』レコード一覧、曲名・制作会社 道頓堀行進曲…ニットー、浅草行進曲…ニットー、巴里行進曲……ニットー、銀座行進曲…ニットー、モガモボ行進曲…オリエント、 観楽行進曲…ビクター、新銀座行進曲…ビクター、千日前行進曲…ニットー、横浜行進曲…ニットー、名古屋行進曲…ニットー、 京都行進曲……ニットー、大阪行進曲……ニットー、神戸行進曲……ニットー などである。 *リンクします 「東京行進曲 佐藤千夜子」→YouTubeからWo Yes氏*リンクします「道頓堀行進曲 内海一郎」→YouTubeからSuperTokuyama氏 |
1929年 昭和4年 5月5日 | ●国民政府軍の憲兵隊が済南城に入城し、城内の警備を引き継ぐ。日本軍が撤退し引き渡しが完了した。 |
1929年 昭和4年 5月18日 | ●神宮球場で始まった早慶戦が超満員となる。場内に負傷者続出し、あふれた観客が警備の警官隊と乱闘になる。 |
1929年 昭和4年 5月19日 | ●石原莞爾、永田鉄山らの中堅将校が「一夕(ゆう)会」を結成した。陸軍人事の刷新、「満蒙問題」の解決などを申し合わせる。 |
1929年 昭和4年 5月22日 | ●海軍飛行艇,横須賀・南洋(サイパン)間の飛行に成功 |
1929年 昭和4年 5月25日 | ●農林省の調査で、前年の小作争議は総件数1744件、参加小作人数、7万1301人と新聞報道。(小作調停法が1924年に施行され、小作争議が起きた場合、当事者の申し立てで裁判所が調停を行った。各府県に小作官がおかれ争議解決にあたった。昭和4年5/29、小作調停法を宮城・岩手・青森3県に施行する旨公布。) |
1929年 昭和4年 5月30日 | ![]() (新聞)5/21東京朝日新聞紙面(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1929年 昭和4年 5月30日 | 樺太未曾有の大惨状、猛火に包まれて7日
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1929年 昭和4年 6月1日 | ●中華民国南京で孫文慰霊祭執行、犬養毅、頭山満が国賓待遇で参列。 |
1929年 昭和4年 6月3日 | 政府,中華民国国民政府を正式承認 ●6/4の朝日新聞には、「芳澤公使の国書捧呈式、けふ盛大に挙行される。国民政府正式に承認され日支の国交常軌に復す」とあり南京の国民政府大礼堂にて厳粛に行われた、とある。 |
1929年 昭和4年 6月10日 | ![]() (写真)庁舎となる中央会議所に掛けられる看板。写真-アサヒグラフ(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1929年 昭和4年 6月10日 | ●佐野学,上海で逮捕 社会運動家、歴史学者。大分県出身。日本共産党の創立に参加。四・一六事件により入獄中、鍋山貞親とともに転向声明を発表。第二次大戦後、日本政治経済研究所を創設。著書「ロシア経済史」「唯物史観批判」など。明治25~昭和28年(1892-1953)(出典)日本国語大辞典精選版 |
1929年 昭和4年 6月13日 | ![]() (写真)三井本館落成(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 ●8/30朝日新聞に昭和4年度全国長者番付が発表された。「三井本家が第1位、不景気しらずの大富豪」とあり、ベスト10の氏名は以下の通りである。①三井八郎右衛門、②岩崎久弥、③三井高修、④三井源右衛門、⑤三井元之助、⑥大倉喜七郎、⑦三井高精、⑧岩崎小弥太、⑨三井寿太郎、⑩住友吉左衛門。 |
1929年 昭和4年 6月26日 | ![]() (新聞)6/27東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1929年 昭和4年 6月28日 | 田中首相総辞職を表明
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1929年 昭和4年 7月2日 | 濱口雄幸(はまぐち-おさち)内閣成立(民政党) (濱口雄幸)政治家。高知県出身。第1、2次加藤内閣の蔵相、第1次若槻内閣の内相を経て、立憲民政党総裁。昭和4年(1929年)首相就任。産業合理化・国際協調外交を唱え、ロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。右翼青年に狙撃されたのがもとで没。(金解禁、緊縮財政)(出典)「日本国語大辞典精選版」
1.「政治の公明」政治の公明は立憲政治の根本要件たり。 2.「民心の作興」政府は益々国体観念のかん養に留意して国民精神の作興に力(つと)め・・ 3.「綱紀革正」厳に綱紀をしゅく正するにあらずむば、民風のたい廃遂に済(すく)ふべからざるに到らむとす・・ 4.「対支親善」軽々しく兵を動かすは固より国威を発揚する所以に非ず、政府の求める所は共存共栄にあり・・ 5.「軍縮促進」列国と共に断然たる決意をもって国際協定の成立を促進せざるべからず・・ 6.「整理緊縮」中央地方の財政に対し一大整理緊縮を断行し、陸海軍の経費に関しても国防に支障来さざる範囲において大に整理節約の途を講ずる・・ 7.「非募債と減債」国債の総額は昭和4年度末現在額より増加せざること・・ 8.「金解禁断行」諸般の準備を整へ近き将来において金解禁をせむことを期す・・ 9.「社会政策確立」社会政策確立・国際貸借の改善・関税の改正は委員会を設けてその調査審議を託す・・ 10.「教育の更新」義務教育費の増額、農漁山村経済の改善、殊に中小農工商に対する金融機能の整備等・・ (7/10東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行) |
1929年 昭和4年 7月1日 | ![]() 改正工場法の即時実施と賃金引き下げ反対で、6/26天満紡績はストに突入した。7/1に解決。(写真)「天満紡労働争議で立ち上がる女工たち」-1929年朝日新聞社大阪(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1929年 昭和4年 7月8日 | ●金解禁ふくみで各市場一斉暴落 |
1929年 昭和4年 7月11日・7月14日 | ●7/11中華民国,東支鉄道を回収。7/14ソ連、支国境封鎖(17日ソ連,対華国交断絶を宜言)、7/25日・英・米・仏・伊・独の6カ国,東支鉄道のソ華共同管理を勧告,27日中国は承認(12月22日ハバロフスク休戦協定で回収失敗に終わる) ●これは前年昭和3年12月、張学良が国民政府に合流したことにより、国民政府の国権回復運動であった。昭和4年5月にはハルビンその他のソ連領事館および北満鉄道各機関を包囲捜索し、7月には東支鉄道(東清鉄道・北満鉄道のこと)を実力によって回収を行った。しかしこれに対してソ連は強硬姿勢をしめし、ソ連軍は満州に侵入し張学良軍と武力衝突を起こした。結局張学良軍は敗退し、ハバロフスク休戦協定で東支鉄道回収は失敗したのである。 |
1929年 昭和4年 7月15日 | ![]() (写真)東京の立川飛行場を出発する旅客輸送一番機、フォッカー・スーパーユニバーサル機。アメリカ・アトランチック社製。写真-野沢正(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1929年 昭和4年 7月19日 | ●国際決済銀行設立に参加を決定。しかしこの設立協議では、日本が通貨安定を達成していないことから、日本の原加盟国への参加に疑問が呈されたという。 |
1929年 昭和4年 7月29日 | ●濱口内閣,5%削減の緊縮実行予算を発表。閣議で昭和4年後実行予算を決定し、当初予算の5%にあたる9100万円を削減した。 |
1929年 昭和4年 8月2日 | ●文部省の節約教化運動、男女青年団・宗教団体のほか全国各学校も動員されることが決定。 |
1929年 昭和4年 8月4日 | ●青島(チンタオ)で反日怠業が激化、日系紡績会社すべて休業。(この日から3社を加え6社すべてが休業した。) |
1929年 昭和4年 8月6日 | ●ドイツ賠償ヤング案に対しハ-グ会議開催(31日閉会)。これは第1次世界大戦のドイツ賠償金を1924年から実施されたドーズ案に続いて、さらに賠償金を減額し、返済期間を緩和したヤング案を決めたものである。しかしのちに起こる世界恐慌で、ドイツはこのヤング案による賠償金支払いも不能となっていった。 |
1929年 昭和4年 8月19日 | ![]() (新聞)8/20東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1929年 昭和4年 8月27日 | ●東京中央放送局,求人求職放送を開始。これは週2回、夜7時のニュースのあとに求人求職を伝える「職業ニュース」の放送を開始した。 |
1929年 昭和4年 8月28日 | ●濱口首相,緊縮政策を全国に放送。また内閣の金輸出解禁については、大蔵大臣井上準之助が「金解禁━全日本に叫ぶ」を9/18に出版し、ベストセラーになった。これは国民に金解禁の必要性を分かりやすく説いたもので、政府は金解禁への協力を、新聞ラジオなどメディアを積極的に使って宣伝した。現代においても通貨・為替は投機の対象となり、この不安定な為替問題は現代においても大きな問題である。*リンクします 「金解禁:全日本に叫ぶ」井上準之助 著 先進社 昭和4年刊→ |
疑獄事件頻発
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●8/25、北海道鉄道の社長ら4人、背任横領の疑いで取り調べ。私鉄疑獄事件に発展する。 これは次の5件で、①北海道鉄道会社一部路線の国家買収に関する汚職事件。②伊勢電鉄の鉄道敷設免許に関する贈賄。③東大阪電鉄の鉄道敷設免許に関する贈賄。④博多湾鉄道の一部路線の国家買収に関する贈賄。⑤奈良電鉄延長線の早期免許取得で贈賄、だった。そしてこれは田中義一内閣の鉄相小川平吉と元政友会代議士春日俊文と共謀して行った贈賄事件とされたのである。 ●9/11、売勲事件で天岡直嘉前賞勲局総裁ら起訴。これは叙勲を扱う賞勲局の総裁天岡直嘉が、昭和3年11月の天皇即位大礼を期して行われた大幅な叙勲の際、贈賄を受けた事件である。天岡は叙勲を望む財界人からの収賄を計画したのだった。天岡は昭和10年の控訴審で懲役2年と追徴金の判決となった。 ●9/26、私鉄大疑獄事件の中心人物、前鉄相小川平吉を起訴収容。昭和8年の一審では、小川と春日の共謀は認められず、私鉄関係の被告15人全員が無罪となった。しかし検事側控訴により、翌昭和9年の東京控訴院では、小川と春日は共に②③④事件で有罪となり、懲役2年および追徴金の判決を受けた。 ●11/29、越後鉄道買収疑獄で疑惑を受けた小橋文相が辞任(昭和5年12月有罪判決) この事件は、昭和2年10月、越後鉄道国有買収にからみ小橋が収賄したとされた事件で、政友会の小川平吉らの5私鉄疑獄の取り調べの過程で明るみに出た事件だった。 ●12/18、朝鮮総督府疑獄事件、前朝鮮総督・山梨半造、涜職(とくしょく=汚職の古い言い方)罪で起訴。これは釜山に朝鮮米の取引所を開設しようとした東京深川の米穀商川崎徳之助らが、朝鮮総督・山梨半造(予備役陸軍大将)に5万円を贈賄したとされる事件。裁判の結果、山梨は一審、二審で無罪となった。理由は、贈賄側が金を贈賄であると明確に言わなかったからというものだった。宇垣陸相は陸軍大将の不祥事であるので山梨に退官を求めたが、山梨はこれを拒否した。この事件は軍上層部の腐敗を指弾する若手将校の憤激を買った。 | |
1929年 昭和4年 10月11日 | ![]() (写真)大勢の見送りを受け、サンフランシスコに向けて横浜港を出港する浅間丸。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1929年 昭和4年 10月12日 | ![]() (新聞)10/8東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1929年 昭和4年 10月15日 | ![]() ●内閣は緊縮財政の一環として官吏減俸を閣議決定し、昭和5年1月からの実施を予定した。しかし「減俸は不景気になる」などと判事、検事、各省官吏が猛反対し、結局政府は撤回した。 (新聞)10/16東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1929年 昭和4年 10月24日 | ニューヨーク株式大暴落
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1929年 昭和4年 11月1日 | ●内務省,失業者数30万0195人と発表 |
1929年 昭和4年 11月1日 | ●労農党結党大会開催,中央執行委員長に大山郁夫 |
1929年 昭和4年 11月3日 | 反日・光州学生事件 ●朝鮮光州の学生が植民地的差別教育反対・日本打倒で決起,5万4000人参加。この事件は、朝鮮全羅南道の光州で、日本人の中学生10人と朝鮮人の高等普通学校(朝鮮人中学校で4年制)生12人が衝突した。これは4日前通学列車内で、日本人中学生が朝鮮人女子高校生に侮辱的言動をとったことが発端だった。そしてこれが光州地方に広がり、最後にそれが「反日帝・朝鮮独立」となり全土に波及したのであった。 |
1929年 昭和4年 11月16日 | ●英米財団と1億円借入クレジット設定の交渉成立(金輸出解禁実施直前の準備)。 |
1929年 昭和4年 11月19日 | ●蚕糸中央会は12月15日から31日まで全休,2月以降4ヵ月全国的操短と共同保管量拡張を決定。 |
1929年 昭和4年 11月19日 | ●産業合理化審議会設置。 |
1929年 昭和4年 11月21日 | 金輸出解禁断行を発表
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1929年 昭和4年 11月29日 | ●中華民国駐在公使佐分利貞男,箱根で怪死。 |
1929年 昭和4年 12月15日 | ●日本人絹連合会,第1次操短を決議。 |
1929年 昭和4年 12月24日 | ●大阪造幣局、金解禁に備え「昭和」の年号を刻印した最初の「金貨鋳造」を開始した。 |
1929年 昭和4年 12月25日 | ●日本大衆党分裂,反対同盟の堺利彦ら東京無産党を結成。 |
1929年 昭和4年 12月29日 | 上越線清水トンネル貫通 (導坑最後の障壁が破られトンネルが貫通した日である) |