(20世紀以降)中国近代史②(孫文と蔣介石そして毛沢東)
2022年6月5日日本・中国・朝鮮
●日本は、日本人としては残念なことに、中国という国家が民族主義による統一戦争と独立戦争のなかで建国に至る時、中国を抑圧し侵略する側であったことである。もし日本が、領土的野心を持たず、軍隊を統帥できる国家であったのなら、日本はこれほどの汚名をアジアに残さずにすんだことであろう。日本にも、孫文のいう西洋の覇道ではなく、古来からの東洋王道文化を選択する道は今なお残されているに違いない。
上写真(1959年第1回全国運動会)、写真前列左から、周恩来総理・朱徳副主席・毛沢東国家主席・劉少奇国家副主席(出典)「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊
1911年10月10日辛亥革命が始まる。袁世凱は清朝政府と革命軍とを天秤にかけ、革命軍には講和をもちかけ清朝政府には皇帝の退位をすすめた。そして1912年1月1日孫文が臨時大総統に就任し、南京に中華民国臨時政府を組織して、中華民国が誕生した。すると清朝の総理大臣でもあり清朝の軍事力を掌握している袁世凱はどちらにも組せず動こうとしなかった。
3国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と3国協商(イギリス・フランス・ロシア)との対立を背景として、人類初の世界的総力戦が起こる。同盟側にはトルコ、ブルガリアが参加し、協商側には、同盟側を脱退したイタリアのほかベルギー、日本、アメリカ、中国などが参加して世界大戦と発展していった。
●アメリカは1914年8月の時点では、ウイルソン大統領が中立を宣言し、建国以来の外交方針である「孤立主義」を堅持していた。(アメリカは1917年、「世界の民主主義を救え」と、ついに参戦した。)
●日本は1914年8月23日にドイツに宣戦布告を行って交戦国となった。この日本の参戦目的と中国をめぐる列強の影響は次のようである。
日本は、袁世凱中華民国大総統に「21か条要求」を突きつけた。この日本の要求は、世界の外交史にも例の無いほど中国を侮辱するもので国際問題化した。だが中華民国政府がこの日本の要求をのんだことで、中国国民はこの日(5月9日)を「国恥記念日」とし、以後反日・排日運動を本格化させていった。
中国「国恥記念日5/9」と中国新文化運動「新青年」 |
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1915年1月18日北京「対華21か条要求」と「国恥記念日5/9」 ●日本の加藤外相(大隈内閣)は、日置中華公使に指令し第1号~5号全21項目の要求(日本の権益拡大)を、袁世凱中華民国大総統に手交(提出)させた。この日本の要求は、世界の外交史にも例の無いもので国際問題化し、特にアメリカは痛烈な抗議を日本に対して行った。そこで日本は最後通牒を発し、第5号の大部分を除いて、1914年5月9日に要求を袁世凱に認めさせた。中華国民はこの屈辱により5月9日を「国恥記念日」として、以後反日・排日運動を本格化させていく。要求の簡単な概要は以下の通りであった。 ●第1号は「日本が山東省の旧ドイツ利権を受け継ぐことを認めよ」という要求。 ●第2号は「『南満州および東部内蒙古における日本国の優越なる地位を承認する』条約を結べ」という要求。この中には、旅順・大連の租借期限と満鉄・安奉両線の期限を、それぞれさらに99年ヵ年づつ延長する要求が含まれており、南満と東蒙を完全に日本の事実上の植民地にする要求であった。 ●第3号は「漢陽の製鉄所や鉄山・炭鉱を経営する公司を日中の合弁とする」要求。 ●第4号は「中国の沿岸の港および島を、他国に割譲または貸与しない」ことの要求。 ●第5号は、問題になった内容で、要求ではなく希望としたが、まるで戦争で圧倒的に勝った国が、敗戦国に押しつけるようなものだった。その簡略した概要は次のようである。「政府に日本人の財政および軍事顧問を置くこと」「日本の病院・寺院・学校にその土地の所有権を認めること」「中国の警察を日中合弁とし、日本人の警察官を多数雇用すること」「中国政府の兵器の半数以上を日本が供給するか、日中合弁の兵器廠を設立する」「各地の鉄道の敷設権の要求」「港湾設備の外国資本の締め出し」「中国での日本人が布教する権利を認めること」などであった。
「・・袁は頗(すこぶ)る憤慨したる語気を以て日本国は平等の友邦として支那を遇すべき筈なるに何故に常に豚狗の如く奴隷の如く取扱はんとするか・・」
●日・支條約の内容 右の日・支條約の草案が21箇條であったので、俗に之を21箇条の條約といふ。しかし、実際に結ばれた條約は13箇条で、内容も余程草案と異ってゐる。そして右に記した(3)即ち山東省問題の解決した今日では、(1)=《99ヵ年延長要求》及び(2)=《南満州・東蒙古の日本の特別権益を認める》に関する規定が残存するに過ぎない。しかもそれがいづれも当然の規定のみである。然るに支那の無智の学生や職業的扇動家等が、この條約の結ばれた5月7日を国恥日と称して、毎年さわいでゐるのは、実に不当といはねばならぬ。 ●この「対華21か条要求」については、下記「外務省 日本外交文書デジタルアーカイブ」のリンク先から確認することができる。○「大正3年(1914年) 第3冊」「7 対中国諸問題解決ノ為ノ交渉一件」の中の、12/3「中国に対する要求提案に関し訓令の件」の附属書の中に条約案が記載されている。そして○「大正4年(1915年) 第3冊上巻」「4 対中国諸問題解決ノ為ノ交渉一件」「 1 中国トノ交渉」の「1月18日袁大総統に我提案を手交済の件」で報告されている。 *リンクします「大正3年(1914年) 第3冊」「大正4年(1915年) 第3冊上巻」 |
1915年9月陳独秀らが「青年雑誌」(=のちに「新青年」と改称)を創刊する。
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陳独秀、写真の取り違い。 ●「革命いまだ成らず」(下)譚璐美 著 によれば、本当は陳独秀は2人写真の左の人物で、右の人物と取り違えられたとあります。1人で写っている中央公論社1963年刊の「陳独秀」の写真は間違っているということである。 |
1918年魯迅「新青年」誌上に「狂人日記」を発表する
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*リンクします「魯迅全集」井上紅梅 訳 改造社1932年刊 より「阿Q正伝」コマ番号51
国立国会図書館デジタルコレクション
●この頃毛沢東は、李大釗のもとで北京大学の図書館に勤めていたという。毛沢東が、「中国の赤い星」の著者エドガー・スノウに、当時を語ったところを一部抜粋してみる。毛沢東は李大釗によって北京大学の図書館に勤めることができた、といっている。(出典:「中国の赤い星」p106~p111筑摩書房1952年初版・1957年10版発行より)
「北平はひどく金がかかるように思われました。私は友人から金を借りてこの古都へ到着したので、着くとすぐ職を見つけなければなりませんでした。私の師範学校時代の倫理の教師だった楊昌済が国立北京大学の教授になっていました。私が仕事の口を見つけてくれるように頼んだところかれは同大学の図書館主任に紹介してくれました。それが李大釗でした。この男はのちに中国共産党の創立者になりそのご張作霖に殺害されました。李大釗は私に図書館の助理員の仕事をくれ、私はそれで月8元の十分な俸給をもらっていました。
「私の地位が高級なものではなかったので、ひとびとは私に近よりませんでした。私の仕事のひとつは新聞を読みにくる人の名前を記録することでしたが、大多数の人は私を人間なみにはあつかいませんでした。読みにくる人たちの中に私は傅斯年、羅家倫、その他の文芸復興運動の著名な指導者たちの名前があることを知って、ひどく興味をひかれました。私はそれらの人たちと、政治や文化の問題について話をしようと試みましたが、かれらはじつに忙しい人たちでした。かれらは南方の方言をしゃべる図書館助理員に耳をかす余裕などは持っていませんでした。」
「しかし私は失望しませんでした。私は大学の講義に出席できるようになろうとして哲学会や新聞学会などに入会しました。新聞学会で私は同じような傍聴生として現在南京政府の要人になっている陳公博だとか、のちに共産主義者になってその後いわゆる『第三党』に入った譚平山、邵飄萍などに会いました。なかでも邵は私を援助してくれました。かれは新聞学会の講師でしたが、また自由主義者で、熱烈な理想主義と立派な人格の持主でした。かれは1926年に張作霖に殺されました。」
・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・
「北京での自分の生活状態はひどくみじめなものでしたが古都の美しさは生き生きとして、活気のつぐないをしてくれました。私は『三眼井』と呼ばれる場所で。小さな部屋に七人の人たちと同宿していました。みんなで『炕』の上に寄り合っていると、ほとんど誰もが呼吸をする間隙さえないほどでした。寝がえりをうちたい時にはいつも両側の人たちに警告を発しなければならないのです。しかし公園や故宮の庭には北地の早春がうかがわれ、北海が一面にまだ氷に閉されているのに、白い梅の花の咲いているのが見られました。私は北海の上につららのさがった楊柳の垂れるのを見ながら『千樹万樹梨花開』という、冬の宝石を散りばめた北海の樹々を歌った唐の詩人岑参の描写を想い出しました。北京の無数の樹木は私の驚異と讃美を呼び起しました。」
・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・
「長沙に帰ると私は政治において、今までより以上に直接的な役割を受持ちました。5・4(五四)運動以後、私は自分の時間の大部分を学生政治運動に向けました。そして、湖南の学生新聞『湘江評論』の編集人をやっていました。この新聞は華南の学生運動に大きな影響を与えました。私は長沙で文化書会という近代的な文化および政治方面の研究機関関の設立を援助しました。この会および特に新民学会は、当時の湖南督軍で悪者の張敬堯にたいして猛烈な反対運動をやりました。私たちは張の免職を要求する学生のゼネストを指導し、またそのころ孫逸仙が活動していた西南地方や北平に代表を送って、反張宣伝を行いました。学生の反対にたいする復讐として、張敬堯は『湘江評論』に弾圧を加えました。」
「その後、私は反軍閥運動を組織するために新民学会を代表して北京に行きました。新民学会は張敬堯反対の闘争をさらに一般的な軍閥反対運動に拡大し、私はこの工作を進 めるために新聞通訊社の社長になりました。湖南においてこの運動は若干の成功をかちえました。張敬堯は譚延闓によって打倒され、新しい政権が長沙に樹立されました。ほぼこのころに新民学会は右翼と左翼のふたつのグループに分裂し、左翼は徹底的な社会的・経済的・政治的変革の綱領を主張しました。」
「私は1919年に2度目に上海に行きました。そこで私はふたたび陳独秀(註)に会いました。最初は北平で私が国立北京大学にいた時にかれに会ったのですが、かれはおそらくほかの誰よりも私に大きな影響を与えました。当時私はまた湖南の学生運動に援助を求めようとして胡適を訪問してかれにも会いました。上海では湖南改造連盟の計画について陳独秀と論じあいました。それから私は長沙に帰って、その組織にとりかかりました。私は新民学会での活動をつづける一方、長沙で教員の地位を獲得しました。この学会は当時湖南の『独立』、じっさいは自治をもとめる綱領をもっていました。北方政府にあいそをつかしてしまった私たちのグループは、北京との関係を断てば湖南省はもっと急速に近代化すると信じて、その分離を要求して運動しました。当時の私はアメリカのモンロー主義と門戸開放の熱心な支持者でありました。」
・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・
「1920年の冬に私ははじめて政治的に労働者を組織しこの運動において、マルクス主義理論とロシア革命史の影響によって導かれるようになりました。2度目に北平に行った時には私はロシアの諸事件についてたくさんの本を読み、また当時ごくわずかしか華文では手に入らなかった共産主義文献を熱心にさがし求めました。とくに3冊の本が私の心に深くやきつき、マルクス主義にたいする私の信念をかためました。歴史の正しい解釈としてマルクス主義を採り入れて以来、私はその後それについて逡巡したことはありませんでした。3冊の本というのは、華文で出た最初のマルクス主義文献たる陳望道翻訳の『共産党宣言』カウッキイの『階級闘争』およびカーカップの『社会主義史』であります。1920年の夏には私は理論的にもまた、あるていど実践的にもマルクス主義者になり、この時いらい私は自分をマルクス主義者だと考えてきました。おなじ年に私は楊開輝(註)と結婚しました」
4 国民革命時代
こうして毛沢東はマルクス主義者になったが、まだ共産党員ではなかった。というのはただほかでもない、当時は中国にはまだ共産党という組織ができていなかったからである。1919年に陳独秀がコミンテルンと連絡をつけた。1920年に第3インターナショナル━中国人の呼び方によれば第3国際━の精力的にして説得力をもつ代表マーリンが上海にやってきて、中国の党とのあいだに結ばるべき連絡を協定した。その後まもなく陳独秀は上海に会議を召集したが、それとほとんど同時に中国の留学生の一団がパリに集まり、そこで共産主義者の組織をつくる提案が出された。中国共産党がその創立いらいまだ16年の若さであるのを思えば、そのやったしごとが軽視できないものであることがわかる。それはロシアをのぞけば世界でもっとも強力な共産党であり、またロシアをのぞいて自己の強大な軍隊を誇りうるただ一つの共産党である。さてべつのある夜のこと、毛沢東はかれの物語りをつづけた。
「1921年の5月に、私は共産党の創立大会に出席しようとして上海に行きました。この組織で指導的な役割を演じた者は陳独秀と李大釗で、ふたりとも中国のもっともかがやかしい知的指導者でありました。私は国立北京大学附属図書館の助理員時代に李大釗の下に急速にマルクス主義の方向に成長し、陳独秀もまた私の関心を同じ方向に向けるのにあずかって力がありました。2度目に上海に行ったおりに、私は自分の読んだマルクス主義の書物について陳と討論しましたが、みずからの信念に関する陳の主張は、おそらく私の生涯においてもっとも決定的な時期にあたって私にふかい印象をあたえました。」
・・・・・・・・・・(後略)・・・・・・・・・
袁世凱の死後、中央政府の実権を掌握したのは、安徽派軍閥の巨頭・段祺瑞であった。満州では、東北3省(奉天・吉林・黒竜江)の実権を握っていた軍閥の張作霖が台頭してくる。一方政界から離れていた孫文は、広東軍政府の樹立を宣言した。こうして軍閥が割拠するなか段祺瑞が北京政府を握り、満州(中国東北部)では張作霖が台頭し、孫文が広東軍政府を樹立する。
北京政府(段祺瑞)、満州(張作霖)、広東軍政府(孫文) |
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1917年~段祺瑞、実権を掌握。張作霖の台頭。 ●軍閥が割拠し段祺瑞が北京政府を握り、満州(中国東北部)では張作霖が台頭し、広東軍政府(孫文)が樹立された。 1917年9月広東軍政府の樹立 ●一方政界から離れていた孫文は、広東軍政府の樹立を宣言した。これは北京政府の実権を握る段祺瑞に対抗するもので、国民党系議員や西南軍閥との連合政権であった。 |
1919年「中華革命党」を「中国国民党」へ改組 ●孫文は、1914年に結成した「中華革命党」を上海の租界に本部置く「中国国民党」に改組した。 |
1919年1月~6月パリ講和会議、ヴェルサイユ条約、「5.4運動」 ●第1次世界大戦の戦後処理問題を討議する会議がフランスのパリで開かれた。中国は、日本の 山東占領と 21か条問題があったため、会議に対して大きな期待を寄せていた。それは、ロシアのソヴィエト革命政権による「無併合」「無賠償」「帝国主義の否定」やアメリカのウイルソン大統領の 14か条の宣言が、中国の追い風となることを期待したためであった。そのため中国は、北京政府と広東政府合同の代表団を結成して、パリ講和会議に臨んだ。しかし1919年4月、会議は中国とアメリカによる山東返還要求を拒絶する決定を下した。これは1917年にイギリスとフランスが、日本に秘密条約で山東と旧ドイツの南洋諸島(赤道以北)の利権を保証していたからであった。アメリカの理想主義は、イギリスとフランスにより譲歩させられたわけである。(中東のアラブの独立問題も同様であった) この「5.4運動」は、北京から天津、上海、広東、漢口などの大都市から全国規模に広がっていった。この学生たちの思想運動から始まった革新運動は、この5月4日の事件で排日運動、反政府運動(反軍閥)、反帝国主義として発展し、大きな中国民衆のナショナリズム(民族主義)の高揚となっていった。そしてこの5.4運動の高まりと抗議運動は、時の政権を動かし、ヴェルサイユ条約の調印を拒否させるほどのものとなった。 ●この5.4運動は多くの影響を与え、毛沢東(長沙で活動)や周恩来(天津で活動)そして孫文にまでにも、中国の革命には民衆の団結が必要であることを教えた。 (朝鮮では、日本に対する独立運動が1919年3月1日から始まった。「3.1独立運動」) |
重要語(世界の動き1910年代) ●1914年7月、第1次世界大戦勃発。 ●1914年8月、パナマ運河開通(着工から34年)。 ●1915年5月、ドイツ潜水艦Uボートが、イギリス豪華客船ルシタニア号を撃沈(1198人犠牲)。アメリカはドイツへの反発を強める。 ●ドイツ毒ガス兵器を使用。これ以後、戦闘に毒ガス攻撃はつきものになる。 ●1917年4月、アメリカがついにドイツに参戦する。 ●1917年10月、ロシア10月革命が起こる。ソヴィエト政権樹立。 ●1918年8月シベリア出兵。シベリア方面は、アメリカ、日本(7万5000人)、イギリス、フランスが出兵し、バイカル湖以東のシベリア要地を占領した。 ●1918年3月、ソヴィエト政府ドイツと単独講和(ブレスト・リトフスク条約) ●1918年10月日本でスペイン風邪38万人死亡。全世界で2000万人以上が死亡した。 ●1918年11月、ドイツで革命がおき、皇帝ヴィルヘルム2世が退位する。ドイツ休戦協定に調印、第1次世界大戦が終結する。 |
中国共産党の成立(1920年8月)・中国共産党第1回全国代表大会(1921年7月) ●陳独秀らは上海で共産党の前身である中国社会主義青年団を結成した。そして1921年7月には、中国共産党第1回全国代表大会の開会式を行い(中国共産党の成立)、初代総書記に陳独秀を選出した。コミンテルンは、1920年から李大釗や陳独秀と接触し、共産党の結成を働きかけていた。第1回全国代表大会では、毛沢東はまだ末席の記録係だった。 |
1921年11月~1922年2月、ワシントン会議、中国の主権・独立・領土保全を9か国が保障 ●この会議の参加国は9か国で、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、中国、オランダ、ポルトガル、ベルギーであった。 |
●ここで、孫文が日本の神戸で行った「大亜細亜(=アジア)主義」と題した演説を引用する。これは孫文が、1924年11月28日に神戸商業会議所など 5団体の招きに応じて、旧制神戸高等女学校講堂で演説したものである。100年後の現代においても、東アジアの政治・文化の方向性を指し示しているのではなかろうか。
と講演を結んでいる。
(注)漢字国名はカタカナを補い、旧漢字は新漢字にした。またこの原典を引用した「国立国会図書館デジタルコレクション」にはページの入れ違いがあったので、読み替えた。文章の最後の露国は、社会主義国ソ連のことであろう。(出典)「大亜細亜主義」 孫文全集. 第3巻コマ番号112から120まで
外務省調査部 訳編 第一公論社 1939-1940刊。
(民国13年11月28日神戸高等女学校に於て神戸商業会議所他5団体に対してなしたる講演)
諸君、私は本日諸君より斯くの如き歓迎を受けまして実に感激に堪えません。本日は皆様より亜細亜(=アジア)主議と云ふことに付(つい)て、私に講演しろと云ふ御話でありました。所で此の問題に付て講演するには、我(わが)亜細亜(=アジア)とは一体どんな所あるかを先づはっきりさせて置かなければなりません。
我亜細亜(=アジア)は最も古い文化の発祥地であります。即ち数千年以前に於て既に我亜細亜(=アジア)人は非常に高い文化を持って居たのでありまして、欧州最古の国家例へば希臘(=ギリシャ)、羅馬(=ローマ)等の如き古い国の文化は、何れも我亜細亜(=アジア)より伝ったものであります。又我亜細亜(=アジア)は昔より哲学の文化、宗教の文化、倫理の文化及び工業の文化を持って居ました。之等の文化は何れも古より世界で非常に有名であつたのでありまして、現在世界の最も新しい文化は何れも我々の此古い文化より発生したのであります。
然るに最近数百年来我亜細亜(=アジア)の民族は漸次萎縮し、国家は次第に衰微して来ました。一方欧州の民族は漸次発展し、国家は次第に強大となって来たのであります。欧州の民族が発展し国家が強大となるに伴れ、彼等の勢力は次條々々に東洋に侵入し、我亜細亜(=アジア)の民族及国家を漸次滅亡せしむるに非ずんば圧制せんとする勢となったのであります。此の勢がずっと続いた為、30年以前迄は我亜細亜(=アジア)には一国として完全なる独立国家は無かったのであります。此の勢が更に続いたならば国際関係は益々面倒となったでありませう。
然し乍ら否塞(ひそく)の運命も極点達すれば泰平となり、物極まれば必ず通ずるのでありまして、亜細亜(=アジア)の衰徴が斯くの如く極点に達しました時、そこに一個の転換機が発生しました。其の転換機こそ即ち亜細亜(=アジア)復興の起点をなすものでありました。亜細亜(=アジア)は一度は衰微しましたが、30年前は再び復興し来ったのであります。然らばこの復興の起点は一体何処に在るりましたかと云ふに、夫(そ)れは即ち、日本が30年前に、外国と締結しました一切の不平等條約を撤廃しましたことであります。日本の不平等条約撤廃の其の日こそ、我亜細亜(=アジア)全民族復興の日であったのであります。
日本は不平等條約を撤廃しましたので、遂に亜細亜(=アジア)に於ける最初の独立国家となったのでありますが、当時其の他の国家、即ち中国、「印度(=インド)」、「波斯(=ペルシャ)」、「アフガニスタン」、「アラビヤ」及「土耳古(=トルコ)」等は何れも未だ独立の国家ではなく、欧州より勝手に領土を割かれ、欧州の植民地となって居たのであります。30年前に於ては日本も亦欧州の植民地と目されて居たのでありますが、日本の国民は先見の明があり、民族と国家との栄枯盛衰の関係を知って居ましたので、大いに発奮して欧州人と闘ひ、凡(あら)ゆる不平等條約を廃除し、遂に独立国と為ったのであります。日本が東亞に於ける独立国となりましてからは、亜細亜(=アジア)全体の国家及び民族は独立に対し大なる希望を抱いて来たのであります。即ち、日本でさへ不平等條約を廃棄して独立したのであるから、吾々も當然日本に倣はねばならないと云ふ考を持つやうになりました。之れより勇気を出して種々の独立運動を起し、欧州人の束縛より離脱せんとし、欧州の植民地たるを欲せず、亜細亜(=アジア)の主人公とならうと云ふ思想が生れたのであります。之は最近30年来の考で、極めて楽観的の思想でありました。
30年以前に於きましては、我亜細亜(=アジア)全体の民族は、欧州は非常に進歩した文化を有し、科学も非常に進歩し、工業も非常に発逹して居り、武器は精巧であり、兵力は強大である。然るに我亜細亜(=アジア)は欧州に長じて居るものは一つも無い、亜細亜(=アジア)は欧州に到底抵抗出来ない、欧州の圧迫より脱出することも到底出来ない、永久に欧州の奴隷とならなければならないだらう、と云ふ風に考へて居たのであります。即ち非常に悲観的の思想であったのであります。然るに30年前日本は不平等條約を廃除して独立国となりました。然し夫(そ)れは日本と非常に接近して居る民族、国家には大なる影響を与へましたものの、當時は未だ尚亜細亜(=アジア)全体には充分の反響は無かったのであります。即ち亜細亜(=アジア)民族は全体的には夫(そ)れ程大なる感動を受けなかったのであります。
然し乍ら夫(そ)れより10年を過ぎて日露戦争が起り其の結果日本が露国(=ロシア)に勝ち日本人がロシア人に勝った。之は最近数百年間に於ける亜細亜(=アジア)民族の欧州人に対する最初の勝利であったのであります。此の日本の勝利は全亜細亜(=アジア)に影響を及ぼし、亜細亜(=アジア)全体の民族は非常に歓喜し、そして極めて大なる希望を抱くに至ったのであります。
此の事に付て私が親しく見ました事を御話し申上げませう。日露戦争の開始されました年、私は丁度欧州に居りましたが、或る日東郷大将が露国(=ロシア)の海軍を敗った、ロシアが新に欧州より「ウラジオストク」に派遣した艦隊は、日本海に於て全滅されたと云ふことを聞きました。此の報道が欧州に伝はるや、全欧州の人民は恰(あたか)も父母を失った如くに悲み憂へたのであります。英国は日本と同盟国でありましたが、此の消息を知った英国の大多数は何れも眉を顰(ひそ)め日本が斯くの如き大勝利を博したことは決して白人種の幸福を意味するものではないと思ったのであります。之は正に英語でBlood is thicker than water(血は水よりも濃い) と云ふ観念であります。暫(しばら)くして私は船で亜細亜(=アジア)に帰ることになり、「スエズ」運河を通ります時に、沢山の土人が、其の土人は「アラビヤ」人でありましたが、私が黄色人種でありますのを見て、非常に喜び勇んだ様子で私に「お前は日本人か」と問ひかけました。私は「そうではない、私は中国人だ。何か有ったのか、どうしてそんなに喜んで居るのか」と問ひました所が、彼等の答は「俺逹は今度非常に喜ばしい「ニュース」を得た。何でも日本はロシアが新に欧州より派遣した海軍を全滅させたと云ふことを聞いた。此の話は本当か、俺逹は此の運河の両側に居て、ロシアの負傷兵が船毎に欧州に送還されて行くのを見た。之は必定、ロシアの大敗した証拠だと思ふ。以前は吾々東亞の有色人種は何れも西方民族の圧迫を受け苦痛を嘗めて居て、全く浮ぶ瀬が無かった。だが、此の度日本がロシアに勝ったと云ふことは東方民族が西方民族を打敗(うちやぶる《うちまかすの意》)ったことになる。日本人は戦争に勝った。吾々も同様に勝たなければならない。之れこそ歓喜しなければならないことではないか。だから吾々はこんなに喜んで居るのだ」と云ふことであった。之を見ましても日本が露国(=ロシア)を打敗ったことは、亜細亜(=アジア)民族全体に如何に大なる影響を与へたかと云ふことが解る。日本がロシアを敗ったと云ふことは、東方に居た亜細亜(=アジア)人は、或は余り重要視したかったかも知れないし、又余り感興(かんきょう=興味を感ずること)を引かなかったかも知れないが、西方に居た亜細亜(=アジア)人及欧州に近接して居た亜細亜(=アジア)人は、常に欧州人から圧迫を受けて終日苦痛を嘗め、而も彼等の受ける圧迫は、東方に居た亜細亜(=アジア)人よりも更に大であり、其の苦痛は更に深刻であった為に、彼等が此の戦勝の報道を聞いて喜んだことは、我々東方人よりも一層大きかったのであります。
日本がロシアに勝ってからは、亜細亜(=アジア)全体の民族は、欧州を打破らうと考へ、盛に独立運動を起しました。即ち「埃及(=エジプト)」、「波斯(=ペルシャ)」、「土耳古(=トルコ)」「アフガニスタン」、「アラビヤ」等が相継いて独立運動を起し、軈(やが)て「印度(=インド)」も独立運動を起す様になりました。即ち日本が露国(=ロシア)に勝った結果、亜細亜(=アジア)民族が独立に対する大なる希望を抱くに至ったのであります。此の希望が生れてから今日迄20年に過ぎませんが、「埃及(=エジプト)」、「土耳古(=トルコ)」、「波斯(=ペルシャ)」、「アフガニスタン」及「アラビヤ」等の独立が相継いで実現した許(ばか)りでなく。「印度(=インド)」の独立運動も亦漸次発展して参りました。之等の独立の事実は、亜細亜(=アジア)の民族思想が最近進歩して来たことを示すものであります。此の思想の進歩が極点に達した時、亜細亜(=アジア)全民族は容易に連合して起つことが出来、共の時こそ亜細亜(=アジア)全民族の独立運動は成功するのであります。亜細亜(=アジア)の西部に居る各民族は、近来相互に非常に親密な交際を続け、又非常に真面目な感情を持つ樣になって来ましたから、彼等は容易に連合出来るのであります。亜細亜(=アジア)東部の最大の民族は中国と日本とであります。中国と日本とは、斯(かか)る運動の原動力をなすものでありますが、此の頃では両国とも互に我不関焉(われかんせず)の熊度を採って居る為、今尚十分なる連絡が取れて居ないのであります。然し乍ら将来我々亜細亜(=アジア)の東部に居ります各民族にも、必ず連絡しようとする気運が動いて参りませう。此の東西両部の民族が、相互に提携しようとする趨勢を作らんとする所以は、実に亜細亜(=アジア)民族の独立を実現せんが為であり、吾々亜細亜(=アジア)が従来持って居た地位を回復せんが為であります。
欧米人は斯(かか)る趨勢を十分に知って居ります。だから米国の或る学者の如きは曾(かっ)て一冊の本を著はして有色人種の興起を論じたことがあります。其の本の内容は日本が露国(=ロシア)に勝ったことは、黄色人種が白色人種を打敗った事である。将来此の現象が拡大されたならば、有色人種は何れも連合して白色人種に刃向ひ来り、之が為に酷い目に遭はされるであらうから、白人は予め注意しなければならないと云ふ意味のものであります。彼は後に更に一冊の本を著し、一切の民族解放運動は、凡べて文化に背反する運動であると言って居ります。彼の主張に依れば、欧州に於ける民族解放運動は固より、亜細亜(=アジア)の民族解放運動も亦文化に背反して居ると云はねばなりません。斯る思想は欧州に於ける一切の特殊階級の人々が、何れも同じく抱いて居る所のもので、彼等は少数の人を以て欧州及び自国内の多数の人々を圧制して居り、更に其の毒牙を亜細亜(=アジア)に迄拡張子し、我9億の民族を圧迫して、彼等少数人の奴隷となさんとして居るのであります。之れ実に惨酷極まるものであり憎んでも尚余り有るものであります。而して此の米国の学者が、亜細亜(=アジア)民族の覚醒を世界の文化にに対する背反であると言ってゐる所から見ますれば、欧州人は自ら文化伝授の正統派と為し、自ら文化の主人公を気取って居り。従って欧州以外に文化が発生し、独立思想が起ることを文化の背反と為して居るのであります。故に彼等は欧州の文化は正義人道に合致するものであり、亜細亜(=アジア)の文化は正義人道に合致しないものであると考へて居るのであります。最近数百年の文化の状態に付て観ますれば、欧州の物質文明は極度に発達して居り、我東洋の文明は何等大なる進歩を示して居りません。従って之を単に表面的に比較致しますれば欧州は東洋に優って居ります。然し根本的に之を解剖しますれば、欧州に於ける最近百年来の文化は如何なるものでありませうか。彼等の文明は科学の文化であり、功利主義の文化であるのであります、此の文化を人類社会に用ひたものが即ち物質文明であります。物質文明は飛行機爆弾であり、小銃大砲であって、一種の武力文化であります。欧州人が最近専ら此の武力の文化を以て我亜細亜(=アジア)を圧迫して居る為、我亜細亜(=アジア)は進歩出来ないのであります。欧州の文化は武力を以て人を圧迫する所の文化でありまして、此の武力を以て人を圧迫することを中国の古語では覇道を行ふと言ひます。故に欧州の文化は覇道の文化であります。然るに我東洋に於きましては従来覇道文化を軽蔑し、他に覇道文化に優った所の一種の文化が存在して居るのであります。此の文化の本質は仁義道徳であります。此の仁義道徳の文化は、人を感化するものであって、人を圧迫するものではありません、又人に徳を抱かせるものであって、人に畏れを抱かせるものではありません。斯る人に徳を抱かせる文化は我中国の古語では之を王道と云って居ります。故に亜細亜(=アジア)の文化は王道の文化であるのであります。欧州に於て物質文化が発達し、覇道が盛に行はれましてからは、世界各国の道徳は日々退歩し、のみならず亜細亜(=アジア)に於ても亦、道徳の非常に退歩して来た国が可成り出来て来ました。然し近来欧米の学者の中で、東洋文化に多少なりとも注意して居る者は、東洋の物質文明は、西洋の物質文明には及ばないが、東洋の道徳は、西洋の道徳より遙かに高いと云ふ事を漸次諒解する樣になって来ました。
覇道の文化と王道の文化とは結局何れが正義人道に有益であるか、何れが民族及び国家に有益であるかと云ふことは、諸君自ら諒解されたことでありませうが、之に付て私は此処に一つの例を挙げて説明申上げませう。今より500年以前より2000年前迄1000年余りの期間がありますが、此の間中国は世界に於ける最強の国家でありまして、丁度現在の英国及米国と同様の地位に在りました。英国も米国も現在の強盛は列強でありますが、中国の昔の強盛は独強であったのであります。然し乍ら独強時代の中国は、弱小民族及弱小国家に対し如何なる態度を執ったでありませうか。又当時の弱小民族弱小國家は、中国に対し如何なる態度を執りましたでせうか。当時の弱小民族及国家は、何れも中国を宗主国となし、中国に朝貢せんとするものは中国の属藩たらんことを欲し、中国に朝貢することを以て光栄とし、朝貢出来ないことを恥辱として居た有様であったのであります当時中国に朝貢して居た国は、亜細亜(=アジア)各国のみならず、欧州西方の各国迄、遠路を厭はず朝貢して居たのであります。当時の中国は之等多数の国家、遠方の民族の朝貢に対し如何なる方法を用ひたでありませうか。陸海軍の覇道を用ひて彼等の朝貢を強制したでせうか。否!
中国は完全に王道を用ひて彼等を感化したのであります。彼等は中国に対して徳を感じ、甘んじて其の朝貢を希ったのであります。彼等は一度中国の王道の感化を受くるや、一代中国に朝貢したのみならす、子々孫々迄中国に朝貢せんとしたのであります。之等の事実は最近に至っても尚証拠が有るのであります。例へば印度(=インド)の北方に二つの小国が有ります。一つは「ブータン」であり、他は「ネパール」であります。此の二つの国は小国ではありますが、其の民族は非常に強く、又非常に精悍で勇敢に戦ひます、中でも「ネパール」の民族は殊に勇敢でありまして、現に英国は印度(=インド)を治めるに当たり、常に「ネパール」民族を兵士に採用して、印度(=インド)を服従せしめて居る位であります。又英国は印度(=インド)を滅して之を植民地とした程の力が有り乍ら「ネパール」に対しては容易に斯る態度を執り得ず、毎年多額の補助金を送り、只政治監察の官吏を駐在せしめて居るに過ぎないのであります。英国の如き現在世界に於ける最強の国家が、尚且「ネパール」に対して斯くの如く慇懃な態度を執って居るのであります。故に「ネパール」も亦亜細亜(=アジア)に於ける一の強国であると言へませう。然るに此の「ネパール」が現在英国に対して如何なる態度を執って居るか、英国に朝貢して居ない許(ばか)りでなく、却て英国から補助を取つて居るのであります。然るに「ネパール」は中国に対しては如何なる態度を執って居るか。中国の国際的地位は、現在一落千丈(いちらくせんじょう=地位や権威、価値などが一気に落ちること。)して尚英国の植民地にも及ばない有樣であり、而も「ネパール」から極めて遠く且両国の間には非常に大なる西蔵(せいぞう=チベット)を挟んで居り乍ら、「ネパール」は今以て中国を宗主国として居るのであります。即ち民国元年(=1912年)には西蔵を経由して朝貢して居ります。其の後四川の辺界(へんかい=国境)が交通不便となった為、遂に朝貢を見なくなりました。斯くの如く中国及英国に対する「ネパール」の態度は異って居ります。諸君は之を不思議に思ひませんか。単に「ネパール」の中国及英国に対する態度を以てしても、中国の東方文明と英国の西方文明とを比較することが出来ませう。中国は数百年来衰微しては居りますが、然し乍ら文化は尚存在して居るのであります。夫(そ)れ故に「ネパール」は今以て中国を宗主国として崇拝して居るのであります。然るに、英国は今非常に強大となり、且立派な物質文明を持って居るに拘らず、「ネパール」は之に対し一向頓着しないのであります。之に依りますと「ネパール」は真に中国の感化を受けたものであって、中国の文化が真の文化であり、英国の物質文明は文化ではなくて覇道であると視て居ると云ふことが解ります。
今私が大亜細亜(=アジア)主義を講演しますに当って述べました以上の話は、如何なる問題であるかと申しますに、簡単に言ひますれば、それは文化の問題であります。東方の文化と西方の文化との比較と衝突の問題であります。東方の文化は王道であり、西方の文化は覇道であります。王道は仁義道徳を主張するものであり、覇道は功利強権を主張するものであります。仁義道徳は正義公理に依って人を感化するものであり、功利強権は洋銃大砲を以て人を圧迫するものであります。感化を受けた国は、仮令(たとえ)宗主国が衰微しても、数百年の後に至る迄、尚其の徳を忘れるものではないと云ふことは、「ネパール」が今日に於ても尚且中国の感化を庶幾(こいねが)ひ、中国を宗主国として崇拝せんとして居る事実に依って明かであります。之に反して圧迫を受くれば、仮令圧迫した国が現在非常に強盛であらうとも、常に其の国家より離脱せんとするものであることは、英国に対する埃及(=エジプト)及印度(=インド)の関係が之を示して居ります。即ち英国は埃及(=エジプト)を征服し、印度(=インド)を滅し、現在非常に強盛となって居りますが、埃及(=エジプト)及印度(=インド)は常に英国より離脱しようとして居ります。之が為彼等は盛に独立運動を起して居ります。然し彼等の独立運動は、英国から大なる武力の圧制を受けて居りますから、急には成功致しますまい。然し乍ら若しも英国が一度衰微しましたなら、埃及(=エジプト)及印度(=インド)は5年も経たない中に、直に英国の勢力を駆逐して独立の地位を回復するでありませう。こう申上げれば諸君は東西文化の優劣がお解りになりませう。吾々は今こういふ世界に立って居るのでありますから、我大亜細亜(=アジア)主義を実現するには、吾々は何を以て基礎としなければならないかと云ひますと、夫(そ)れは我固有の文化を基礎としなければならないのであります。固有の文化とは即ち道徳であり、仁義であります。仁義道徳こそは我大亜細亜(=アジア)主義の好個(こうこ=ちょうどよいこと)の基礎であります。斯くの如き好個の基礎を持って居る吾々が、尚欧州の科学を学ばんとする所以は以て工業を発達せしめ、武器を改良せんと欲するが為に外なりません。欧州を学ぶのは決して他国を滅したり、他の民族を圧迫したりすることのみを学ぶのではないのであります。只吾々は学んで以て自衛を講ぜんとするのであります。
近来亜細亜(=アジア)の国家で、欧州の武力文化を学んで、之を完全にこなして居るのは日本だけであります。日本は軍艦の建造操縦に至るまで、今では必ずしも欧州人に頼るを要せず、陸軍の編制運用も亦自主的に之を行ふことが出来るのであります。それ故に日本は極東に於ける一個の完全なる独立国家であります。我亜細亜(=アジア)には欧州大戦当時同盟国の一方に加入し、敗戦するや忽ち分割され、戦後酷い目に遭ひ乍ら、現在では一個の完全なる独立国家となった国があります。此の国が即ち土耳古(=トルコ)であります。現在亜細亜(=アジア)には独立国は僅か二つしかありません。一は東の日本であり、二は西の土耳古(=トルコ)であります。日本と土耳古(=トルコ)とは亜細亜(=アジア)に於ける東西の二個の大なる障壁であるのであります。更に現在では波斯(=ペルシャ)、「アフガニスタン」、「アラビヤ」等も、欧州に学んで立派な武力を備へて居り、欧州人も敢えて之等民族を軽蔑しないのであります、「ネパール」に至っては、英国人も尚且軽視致しません。彼等は今や立涙な武力を具へて居ります。中国は只今非常に多くの軍隊を持って居りますから、一度統一さるれば非常な勢力となりませう。吾々が大亜細亜(=アジア)主義を説き、亜細亜(=アジア)民族の地位を回復しやうとするには、仁義道徳を基礎として各地の民族を連合し、亜細亜(=アジア)全体の民族が非常なる勢力を有する様にしなければならないのであります。
只欧州人に対しては、単に仁義のみを以て彼等の感化を謀ったり、亜細亜(=アジア)在住の欧州人に対して平和裡に権利の返還を求めたりすることは、恰(あたか)も虎に食物を与へて共の皮を取らうとする様なもので、到底出来ない相談であります。故に吾々が我々の権利を完全に回収しやうとするには之を武力に訴へなければならないのであります。さて武力と云へば、日本は早くより非常に完全なる武力を有して居り、土耳古(=トルコ)も最近は立派な武力を持って来ました。又波斯(=ペルシャ)、「アフガニスタン」、「アラビヤ」等の各民族は従来から何れも戦争に強い民族であります。中国4億の民族は平和を愛する民族ではありますが、生死の堺に立っては当然奮闘して大なる武力を発揮するのであります。若し全亜細亜(=アジア)民族が連合し、固有の武力を以て欧州人と戦ったならば、必ず勝ち決して敗けることは無いのであります。更に欧州と亜細亜(=アジア)との人口を比較しますれば、中国は4億、印度(=インド)は3億5000万、緬甸(=ビルマ)、安南(=ベトナム)等は合計数千万、日本は一国で数千万あり、其他各弱少民族も数千万ありますから、我亜細亜(=アジア)の人口は、全世界の人口の二分の一以上を占めて居るのでありまして、欧州の人口は僅に4億に過ぎないのに、我亜細亜(=アジア)全体の人口は実に9億であります。四億の人間が9億の人間を圧迫すると云ふことは、正義人道と相容れない所でありまして、正義人道に反したる行為は結局失敗するものであります。而も彼等4億の人間中には、最近に至って吾々に感化された者すら有るのであります。現在世界文化の趨勢を見ますと、英国、米国辺には少数ではありますが、仁義道徳を提唱する者が出て参りました。共他の野蛮国に於ても亦こうした主張をなすものがあります。之は即ち西洋の功利強権の文化が、東洋の仁義道徳の文化に服従せんとして居ることを物語るものであり、覇道が王道に服従せんとして居ることの証拠でありまして、即ち世界文化が日日光明に趨(おもむ)く所以のものであります。
現在欧州には、欧州全部の白人から排斥され、毒蛇猛獣であって人類ではない様に思はれ、少しも接近されない国があります。我亜細亜(=アジア)にも同様の考へを以て居るものが可成り有ります。然らば其の国は何処であるかと云ひますと、夫(そ)れは露国(=ロシア)であります。露西亜(=ロシア)は只今では欧州白人の分家たらんとして居るのであります。露国(=ロシア)が何故にそう謂ふ状態に在るか。夫(そ)れは彼が王道を主張して覇道を主張せず、仁義道徳を説いて功利強権を説かうとせず、極力公道を主持し、少数を以て多数を圧迫することに賛成しないからであります。露国(=ロシア)の新文化は我東洋古来の文化に合致するものであって、彼等は東洋と手を握り、西洋より分家しやうとして居るのであります。欧州人は露国(=ロシア)の新しい主義が、彼等の主張と合致せず、且露国(=ロシア)の主張が成功するときは、彼等の覇道が打破せられるだらうことを恐れ、露国(=ロシア)が仁義正道を説く国であることには目もくれず、却(かえっ)て露国(=ロシア)は世界の反逆者であると誣(しゆる=事実を曲げて言う)ゆるのであります。
さて最後に、然らば吾々は結局如何なる問題を解決しやうとして居るのかと言ひますのに、圧迫を受けて居る我亜細亜(=アジア)の民族が、如何にせば欧州の強盛民族に対抗し得られるかと言ふことでありまして、簡単に言へば、被圧迫民族の為に其の不平等を撤廃しようとして居るのであります。被圧迫民族は亜細亜(=アジア)に有る許(ば)かりでなく、欧州にも居るのであります。覇道を行ふ国は只に他州と外国との民族を圧迫するのみならず、自州及自国内の民族をも、同様に圧迫して居るのであります。私大亜細亜(=アジア)主義は王道を基礎としなければならないと申上げたのは、之等の不平等を撤廃せんが為であります。米国の学者は、民衆解放に関する一切の運動を、文化に反逆するものであると言って居りますから、吾々の主張する不平等廃除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解放とを求むる文化であると言ひ得るのであります。日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面亜細亜(=アジア)の王道文化の本質を持って居るのであります。今後日本が世界の文化に対し、西洋覇道の犬となるか、或は東洋王道の干城(かんじょう=国家を守る武士・軍人)となるか、夫(そ)れは日本国民の慎重に考慮すべきことであります。
*リンクします「大亜細亜主義」 孫文全集. 第3巻コマ番号112から120まで
外務省調査部 訳編 第一公論社 1939-1940刊
*リンクします「第7編 大亜細亜主義」コマ番号603から611まで
孫文主義. 上巻 孫文 著[他] [外務省調査部] 1935-1936刊
この宣言はソヴィエト政府が、旧ロシアが中国に対して持っていた権益を否定したもので、中国との不平等条約の無効、義和団事件の賠償金の停止など権益の返還を宣言したものであった。このことは中国全体に大きな波紋をよびおこした。そしてこのことが、コミンテルンと中国国民党、中国共産党を結びつける1924年1月の国共合作成立につながる。
●そして孫文は、悲願であった真の革命軍養成のために、蔣介石を校長に「黄埔軍官学校(広州の郊外)」を設立した。そして同校には共産党を代表して周恩来が派遣され、やがて農民運動の指導者を養成するために設立された農民運動講習所の所長には毛沢東がなった。
●だが1925年3月12日、孫文は北京で死んだ(59歳)。『現在、革命なお未だ成功するに至らず・・』と国民党員へ遺囑した。
1926年7月、蔣介石を総司令とする国民革命軍(国民政府)北伐を開始する。だが国家統一の戦乱の中で、国民政府と共産党は対立していく。そして1927年4月12日、蔣介石が反共クーデターを起こす。第1次国共合作は崩壊した。この時上海では共産系の指導者のほとんどが逮捕処刑され、その犠牲者は数千人とされる。そして1928年10月、蔣介石が南京の国民政府主席に就任し、12月には張作霖の後を継いだ長男の張学良が、国民政府に忠誠を誓い、国民政府はここに全国統一を実現した。だが国共内戦が始まったのである。
関東軍は、満州全体(中国東北部)の軍事的制圧のきっかけを狙って、この柳条湖満鉄爆破(謀略事件)を起こした。日本政府は当初、不拡大方針を決定するが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、わずか5ヶ月で満州全域を占領した。日本の満州侵略は、日清戦争(1894~1895年)での遼東半島を3国干渉によって失ったことに始まり、日露戦争(1904~1905年)で「日本軍10万の将兵を失って獲得した遼東半島(先端部は関東州)は、絶対に手放すことはできない」という関東軍と陸軍の強い意志が背景にあった。
中国東北部の日本の軍事介入、国民政府軍と共産党軍の戦い。 |
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1930年5月30日間島事件 ●満州の間島(延吉)で朝鮮の共産主義勢力を中心にした、地主打倒・反日の蜂起がおこる。 日本官憲は根こそぎ検挙でこれに対抗するが、蜂起は断続的に 1年余り続く。 |
1930年7月29日長沙ソヴィエト政府を樹立 ●中国共産党の紅軍第3軍が長沙ソヴィエト政府を樹立する。翌月5日、国民政府軍の反撃を受けて撤退する。 |
1930年9月 1日反蔣介石北方政府(中華民国臨時政府)を樹立 ●汪兆銘、閻錫山、馮玉祥らが北平(北京)に反蔣介石北方政府(中華民国臨時政府)を樹立し、主席には閻錫山が就任する。 |
1930年12月27日蔣介石が包囲掃討作戦を開始 ●蔣介石が広西省南部の中国共産党根拠地に対し、本格的な包囲掃討作戦を開始する(第一次掃共戦)。しかし翌年1月、毛沢東率いる紅軍に撃退される。 |
1931年6月中村大尉射殺事件、東北地方で日本軍の将校が中国人に射殺される。 ●6月下旬参謀本部員中村大尉らが、満州の状況を調査していたところ、東北軍に逮捕された。これは関東軍が北部満洲で、軍事作戦を展開するのに備える行動であったと思われる。中村大尉らは中国人になりすまして偵察行動(スパイ活動)をしていたが、発覚を恐れて逃亡して射殺された事件である。 |
1931年7月2日万宝山事件 ●長春郊外の万宝山で日本政府が移住させた朝鮮人と、中国人農民が水利をめぐって衝突する。日本の軍部は「満蒙問題武力解決」を唱えて介入を図り、満州事変の一因となる(万宝山事件)。 |
1931年9月18日日本軍柳条湖満鉄爆破。満州事変勃発、日本の中国侵略の始まり。
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![]() 下写真は盧溝橋事件(1937年)頃の「石原莞爾」(出典:「世界の歴史15」中央公論1962年刊) ●日本の満州侵略は、日清戦争(1894~1895年)での遼東半島を3国干渉によって失ったことに始まり、日露戦争(1904~1905年)で「日本軍10万の将兵を失って獲得した遼東半島(先端部は関東州)は、絶対に手放すことはできない」という関東軍と陸軍の強い意志が背景にあった。また軍部の暴走とはいうが、国民の支持があったから実行できたともいえる。そして根底において日本は、大日本帝国憲法で「統帥権(=軍隊の最高指揮権)」は天皇の「侵(おか)すべからざる」大権と定められている国家である。日本帝国政府の上部に軍部が位置するわけだから、軍部の暴走が起きる危険性は充分にあったし、必然だったかもしれない。 |
●天皇の統帥権(大日本帝国憲法の一部) 第3条天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス 第4条天皇ハ国ノ元首(げんしゅ)ニシテ統治権(とうちけん=国家を統治する大権。国土・人民を支配する権利。主権)ヲ総攬(そうらん=政事・人心などを、一手に掌握すること)シ此ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依リ之ヲ行フ 第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス 第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(じょうびへいがく)ヲ定ム 第13条天皇ハ戦(たたかい)ヲ宣(せん)シ和ヲ講(こう)シ及諸般ノ条約ヲ締結ス |
1931年11月7日中国共産党、ソヴィエト政府を瑞金にて樹立
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1932年 1月28日第1次上海事変 ●上海で日本人僧侶が中国人に殺されたのをきっかけに、この日、日本軍と中国軍が衝突する。5月5日に停戦協定を結ぶ。(この事件も国際世論の目を、満州からそれせるために日本軍により仕組まれた謀略事件であったといわれる。) |
1932年3月1日満州国の建国宣言
(重要事項) ●1932年5月15日、(日本)5・15事件起こる。海軍青年将校ら犬養首相を射殺。政党内閣終わる。 ●1932年7月、(ドイツ)ヒトラーのナチ党が、総選挙で230議席を獲得し第1党となる。共和国が終焉を迎えていく。 ●1932年11月(アメリカ)、フランクリン・ローズベルト(民主党)、大統領に当選。 ●1932年10月(ソ連)、スターリン政敵を排除、独裁体制を強める。 |
1932年4月29日対日戦争宣言 ●毛沢東主席(39)とする瑞金の中華ソヴィエト政府が、対日戦争宣言を発表する。 |
1932年4月29日上海テロ事件 ●上海での天長節祝賀式典に、朝鮮人独立運動家の尹奉吉が爆弾を投げ、上海派遣軍司令官白川義則、重光葵らが負傷する。白川はのちに死亡する。(1945年ミズリー号上の日本降伏文書の調印式で、ステッキをもち足を引きずっていたのが日本政府代表 重光葵外務大臣である。この時の事件で重傷を負い足を切断したためである) |
1932年 9月15日日満議定書を調印 ●日本が満洲国との間に 日満議定書を調印し、正式に満洲国を承認する。 |
1932年 9月16日平頂山事件
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1932年10月1日リットン報告書、日中両国に交付 ●満州での日本の軍事行動を侵略とみなした、国際連盟調査委員会のリットン報告書が日中両国に交付される。 |
1933年1月1日山海関謀略事件 ●満州国と中国の境界地区、山海関で日本軍敷地内に手榴弾が投げ込まれる。これも日本軍の謀略によるものだが、日中両軍が衝突、3日に日本軍は山海関を占領する。 |
1933年2月24日、ジュネーブ国際連盟臨時総会がリットン報告を承認。満州国不承認を可決
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●日本代表松岡洋右が反対演説をして退場するNHKニュース映像。*リンクします「国際連盟脱退へ」NHKアーカイブス |
1933年2月日本軍が熱河省侵攻を開始する。 ●満州国樹立の際、関東軍は、奉天省・吉林省・黒竜江省の東3省だけでなく、熱河省もその領土に含めると宣言した。熱河省は、関東軍にとって満州の安定支配に欠かせない地域であり、また特産品のアヘンは財源上の大きな魅力だった。 (重要事項) ●1933年1月、(ドイツ)ヒトラー政権誕生。 ●1933年10月(ドイツ)、ドイツが国際連盟を脱退。ヒトラー再軍備を主張。 |
1933年5月31日塘沽停戦協定 ●国民政府と日本との間で塘沽停戦協定が結ばれる。実際上、国民政府が満州国を黙認する形となる。これにより関東軍は、河北省東部を非武装化し、満州支配を安定させ、関内侵攻の足場を築いた。 |
1934年3月1日満州帝国皇帝溥儀 ●満州国に帝政がしかれ、国号が満州帝国となる。執政溥儀が皇帝に即位する。 |
中国共産党の紅軍が、蔣介石率いる国民政府軍の攻撃により、瑞金を出発し西方への脱出を開始した。これが「長征」の始まりである。
●1936年12月12日西安事件が起こった。これは張学良らが内戦停止・一致抗日を求めて、西安で蔣介石を監禁した事件である。この時毛沢東は即座に周恩来を西安に派遣した。周恩来は身を挺して、両軍内強硬派《すぐに蔣介石を処刑》の説得にあたった。そして周恩来は、民族の危機を打開するために党派を越えた一致抗日を説き、国共合作を成立させたのである。
革命への長い旅「長征」 |
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1934年10月15日中国共産党、革命への長い旅「長征」を開始する
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●毛沢東は「長征」について次のように述べたという。 「・・長征は宣言書であり、宣伝隊であり、種まき機であった。・・・11の省にたくさんの種をまいた。やがて芽を出し、葉を伸ばし、花を咲かせ、実を結び、将来かならず収穫されるだろう」 長征は共産党の基盤拡大に大きな役割を果たした。 |
1935年1月13日共産党軍、貴州省の遵義を占領 ●長征途上の共産党軍が、貴州省の遵義を占領する。同地で共産党政治局拡大会議を開き、毛沢東の主導権が確立する。 |
1935年8月1日中国共産党8・1宣言を発表。抗日救国 ●中国共産党が8・1宣言を発表して、内戦の停止と、抗日への一致団結を呼びかける。 |
1935年10月20日長征の終結 ●毛沢東らの紅軍第1方面軍が、陝西省 呉起鎮で第15軍団と合流する。(長征の終結)(1935年8月党創設者の1人張国燾が四川省西部をめざし紅軍は軍を二分し、毛沢東軍は陝西省をめざし合流した。張国燾軍は四川省に根拠地を築けず、1936年10月に毛沢東軍に合流した。) | 毛沢東、周恩来、朱徳(1935年頃の写真) 下は「目撃者」朝日新聞1999年刊の「若き日の毛沢東(中央)と周恩来(左)」1935年3月撮影 撮影者不明 中国、とある写真だが、上の写真の2枚と背景が同じである。これは同じ時期に同じ場所で撮られたものだろう。ただ、上の左の写真の「ソヴィエト中国の4巨頭」とあるが、一番左の人物は、下の右の人物と同一である。誰なのだろうか。上のその右に並ぶ3人は、周恩来・朱徳・毛沢東であろう。 |
1935年12月9日「12・9運動」 ●日本軍による華北分離工作に危機感を持った北京の学生 5000人が華北自治反対を叫んでデモ行進を行う。(12・9運動) 1935年11月に国民政府が、イギリスの財政支援のもとに貨幣制度の改革に踏み切り、財政と金融を立て直し、経済を発展させようとしたことから始まる。日本はこの政策を失敗させるために妨害工作を行っていく。①華北分離工作は、綏遠省(現内モンゴル自治区の中部)、察哈尓省、河北省、山西省、山東省の5省を、国民政府の統治から分離させようというものである。そして華北諸省の自治を認めさせようとし、非武装地帯(塘沽停戦協定1933年)として指定された河北省東部に、殷汝耕を委員長とする傀儡政権である冀東防共自治委員会を成立させ、国民政府からの独立を宣言させた。満州国に続く第2の傀儡政権であった。これに対して国民政府は日本軍の圧力をかわすため、12月に日本軍の支持する宋哲元を委員長とする、河北省・察哈尓省の両省と北京・天津両市の行政を管轄する冀察政務委員会を設置した。このような国民政府の日本に対する妥協行動は、自国政府である国民政府への抗議行動を生み出していった。 |
重要語(世界の動き1930年代前期) ●1934年アメリカ、ディーゼル機関車が誕生。時速160kmを記録する。これにより鉄道は、蒸気機関車からディーゼル機関車に代わっていく。 ●1934年11月1日満州鉄道、大連-新京間で、特急列車「あじあ号」が運転を開始する。 ●1934年12月29日、日本はワシントン海軍軍縮条約の破棄を、アメリカに通告する。 ●1935年8月3日日本、岡田啓介内閣が、「天皇機関説」を否認する声明を出す(第一次国体明徴宣言)。9月18日、美濃部達吉は貴族院議員を辞職する。 ●1935年 8月12日日本、陸軍統制派の中心人物、永田鉄山軍務局長が、対立する皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される。 ●1935年9月ドイツ、ニュルンベルク法を制定する。「純血保護法」と「ドイツ国公民法」を公布した。これにより、ナチスドイツは法律によってユダヤ人を「劣等人種」として迫害を始めた。 ●1935年10月アメリカ、ギャラップの世論研究所が調査結果を公表する。世論調査の有効性と無作為抽出による調査法を開発した。 ●1935年10月、イタリアがエチオピア侵略を開始する。 ●1935年11月フィリピン、フィリピン独立に向けコモンウエルス政府が発足する。しかし日本の侵略によって挫折する。 |
1936年 12月12日西安事件 ●張学良らが内戦停止・一致抗日を求めて、西安で蔣介石を監禁する。 ●この時毛沢東は即座に、張学良が信頼している周恩来を西安に派遣した。周恩来は身を挺して、血気にはやる両軍内強硬派《すぐに蔣介石を処刑》の説得にあたった。10年近く国民党軍との戦争を行ってきた中国共産党が、恨み骨髄の蔣介石を処刑しようとはせず、民族の危機を打開するため抗日の重要性を訴え、蔣介石の生命の保障を説く周恩来の姿勢は、両軍強硬派に大きな影響を与えた。そしてこの結果、国共合作がなり党派を越えた一致抗日がここに成立した。 ●この時の張学良の東北軍の心情を歌った歌が「松花江上」である。東北軍は満州事変で日本軍に故郷を奪われ、紅軍と戦うよりむしろ日本軍と戦うことを望み、また蔣介石の南京中央政府に対する反感も鬱積していた。この歌は、まず東北軍のなかで愛唱され、やがて盛り上がる抗日風潮のなかで全中国の知識人のなかにひろまり、一世を風靡したとある。 「松花江上」の大意。『我が家は満州松花江のほとり、森あり林あり炭鉱あり。大豆、高粱も山野見渡すかぎり。我が家は満州松花江のほとり、わが故郷はそこにあり。老いたる父母もそこにいます。9・18、9・18、(満州事変勃発の日)かの惨めたる時より、9・18、9・18、かの惨めたる時より、我が故郷をのがれ出でたり。愛する父母を見捨てたり。・・流浪・流浪・・いつの日か故郷に帰らん、父よ母よ、いつの日かともに集わん・・』 ●YouTubeに「《松花江上》王宏偉, 抗戰歌曲」yliang1688氏の投稿があった。リンクしてみた。 *リンクします「《松花江上》王宏偉, 抗戰歌曲」YouTube 「yliang1688氏」の投稿 |
1937年1月9日15万人の抗日デモ ●西安で共産党主導の抗日デモが行われる。15万人が参加して抗日軍事運動の開始を決定する。 |
1930年代の中国の財政の安定と経済発展
●蔣介石の国民政府は、関税の引き上げや統一地方税を創設して、中華民国始まって以来の最も豊かな中央政府税収を獲得し、権力基盤の確立に成功した。そして主力産業であった軽工業も発展し、また鉄道道路などの産業基盤整備も進んだ。そしてアメリカからの資金援助やイギリスからの援助、そして国際連盟からの技術援助なども実施された。また財政経済政策の一つの柱として通貨政策があった。1935年11月、イギリス・アメリカの支援も受けながら全般的な幣制改革を実施した。この結果、中国の通貨は政府系銀行の発行する「法幣」に統一され、外国為替レートも安定化した。これにより銀貨流出にともなう金融難で深刻な恐慌に苦しんでいた中国経済は、この幣制改革以降急速に景気が回復した。 ●この経済の発展は沿海の大都市を膨張させ、そこに近代的な都市文化を生み出した。特に上海の人口は、1910年に129万人、1930年に314万人、1937年には385万人に達した。そして新聞雑誌、ラジオなどのマスメディアが発達し、上海の2大紙「申報」「新聞報」などが上海の地方紙から、華中一帯を地盤とするほどの全国紙に発展した。またラジオ放送も1934年には30局以上が放送を行い、ニュース・音楽・演劇等を終日放送していた。また映画館も数多く設立され、その頃の流行歌「何日君再來」も当時の上海映画界のスターの周璇が歌ったものであった。また中華人民共和国の国歌に採用された「義勇軍行進曲」(聶耳作曲)も、30年代の上海映画の挿入歌であった。 下に、YouTubeに数多くある内の一つにリンクしてみた。抗日救国、民族解放の象徴的な歌で、敵は侵略してきた日本である(現代の日本人は知らないかもしれないが)。 *リンクします「中華人民共和国 国歌(義勇軍進行曲)」 |
日本軍は北京市内盧溝橋にて中国軍に攻撃を仕掛ける。日本軍は中国と全面戦争を開始する。近衛内閣は当初事件の不拡大を求めたが、陸軍は戦闘拡大に向かった。その近衛内閣はすぐに戦闘拡大を追認し強硬姿勢に転じた。
1937年 9月23日第2次国共合作が成立。中国は徹底抗戦を表明する。
●1939年9月1日、第2次世界大戦勃発。ドイツ軍ポーランドに武力侵攻し、全土を席巻する。
1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を表明し連合国に降伏した。アメリカ政府は、国民政府下の安定した統一中国を期待し、懸命な調停を続けたが、1946年7月12日国民党と共産党は内戦に突入した。アメリカはこれ以上中国の内戦に関わることをやめたのだろう。
中華人民共和国成立 |
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1945年10月10日「双十協定」を発表
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1946年1月10日国共内戦停止 ●アメリカのマーシャル特使の斡旋で、国民党と共産党は内戦停止に合意した。しかし3月に東北で戦闘が始まる。 |
1946年7月12日全面内戦に突入 ●国民党軍(50万人)が、共産党の支配する蘇晥(江蘇省と安徽省)解放区へむけて本格的な攻撃を開始し、国共両党は全面的な内戦に突入した。クロニック世界全史には次のようにある。 一致抗日を掲げてきた国共両軍だったが、日本の降伏直後から各地で衝突が発生。今年1月に停戦協定が結ばれたものの、国民党は共産党勢力の強い東北地区に大軍を送り込むなど対決姿勢を示し、両軍の衝突は時間の問題となっていた。 国民党軍約430万人に対し共産党軍約120万人、装備の上からも圧倒的優位にあった国民党軍は、共産党側の拠点を次々に攻略、翌年3月には本拠地延安も占領する。 しかし、共産党軍は5月に東北で反攻を開始、9月には「総反攻宣言」を発表し、1948年4月に延安を奪回。次々と主要地域を開放して国民党軍を追い詰めていく。 |
中国周辺部と共産党 ①チベットのラサ政権は1949年、中国国民党が崩壊した直後から、独立への道を歩もうとした。しかし中国人民共和国の対応は早く、1950年にラサに進駐し、独立の動きを封じた。 |
1947年1月1日新憲法公布 ●国民政府が中華民国の新憲法を公布し、12月からの実施を決定する |
1947年 2月28日台湾で反国民政府暴動が発生 ●台湾では反国民政府暴動が起き、5000人が死亡する。(2・28事件) |
1948年11月7日国民政府軍が徐州南部で人民解放軍に敗れる ●国民政府軍が、南京防衛の拠点である徐州南部で人民解放軍に敗れる。翌月1日には人民解放軍が徐州を占領し、国民政府は南京追われて広東へ移る。 |
1949年 1月14日和平8条件を提示 ●蔣介石の1月1日の和平提案を受けて、共産党の毛沢東主席が和平8条件を提示する。 |
1949年 1月21日国民政府総統を引退 ●蔣介石が国民政府総統を引退し、総統代理に李宗仁が就任する。 |
1949年 4月21日国共和平会議が決裂 ●国共和平会議が決裂し、この日、人民解放軍全軍が進撃を開始する。 |
1949年 10月1日中華人民共和国の成立
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「中華人民共和国・建国宣言」毛沢東 1949年 10月1日中国、毛沢東、天安門広場で建国宣言を行う。ユーチューブの「Mao declares the Peoples’ Republic of China」から最初の部分を紹介する。(下段でリンク)(自分のような一般の日本人からみると、動画の中でわかるのは、毛沢東、横を歩く朱徳、劉少奇、宋 慶齢《孫文の未亡人》、周恩来ぐらいか。調べると、李 済深《国民党革命委員会主席》、張瀾《民主同盟主席》、高 崗《東北人民政府主席》も壇上並ぶとある。) *リンクしますYouTubeから「Mao declares the Peoples’ Republic of China」 |
1949年12月 7日国民政府台湾へ ●中国国民政府が首都を台湾の台北に移す。 |
共産党は何故権力を掌握できたのか ●ここで最後に、「新版世界各国史3 中国史」山川出版社2008年1版6刷刊より、「共産党は何故権力を掌握できたのか」の部分を抜粋してみる。
49年革命でなぜ共産党は権力を掌握できたのか。その疑問にたいするひとつの回答は、国民政府の統治が崩壊したため、ということであり、もうひとつの回答は共産党が権力を掌握する力を獲得したつぎのような事情に求められねばならない。 まず第一に、農村で土地革命を推進したことである。日本軍に協力していた大地主の土地を没収し貧農層に配分する政策は、土地をえた農民の共産党にたいする支持を強め、兵士の確保を容易にした。ただし中小地主の土地まで没収するなどの急進的な改革で農民の支持を失った時期もあり、農業生産を増加させるためのきめ細かな政策が展開されていたわけでもない。この時期の土地革命の意義をあまり過大に評価することはできない。 第二に、戦後の早い時期から東北地区で軍事的優位を獲得することに的をしぼり、ソ連側のさまざまな援助も受けながら、強大な正規軍部隊を編成したことである。その結果、従来のような貧弱な装備でゲリラ戦中心に闘うだけでは歯が立たなかった国民政府軍とのあいだでも、正面から陣地戦を挑み勝利することが可能になった。 そして第三のもっとも重要な要因は、「連合政府」の呼びかけが端的に示すとおり、共産党単独で社会主義政権樹立をめざす道を避け、国民政府への批判を強めていたさまざまな政治勢力を総結集するのに成功したことである。共産党が提起した内戦反対の運動、米軍兵士の女子学生暴行事件を契機とした反米運動、「反飢餓運動」と呼ばれた生活難打開のための運動などには、都市の多くの学生・知識人たちが呼応した。国民政府の経済運営に失望した商工業者のなかにも、当分のあいだは資本主義の枠内での経済復興をめざすという共産党が掲げる政策に期待をよせる人々がふえていた。国民党でも共産党でもない良識派を結集していた政治団体、中国民主同盟のなかでも共産党に共感をいだく部分が増大しつつあった。こうした政治情勢の展開を受け、国民政府軍のなかには共産党側に内応する動きが広がった。 49年革命によって権力の座に就いた共産党は、朝鮮戦争の勃発と冷戦の激化という厳しい客観情勢に直面しながら、以上に述べたような都市と農村の民衆のさまざまな期待に応えなければならなかった。それがどの程度まではたされたのかが、今、改めて問われ始めている。 |