(20世紀以降)中国近代史②(孫文と蔣介石そして毛沢東)

2023年4月12日日本・中国・朝鮮

中国共産党による巨大国家・中華人民共和国が誕生する。
中国の近代史をみると、まるで凝縮した世界史をみるかのようである。そして1949年の中華人民共和国建国は、単純なマルクス・レーニン主義(共産主義)による革命ではない。毛沢東は、その国家形成の中でマルクス・レーニン主義を毛沢東思想として再構築し、ソ連とも資本主義国とも異なるあたらしい社会主義国家を建設していったといわれる。毛沢東は、世界史的にみても最大の革命家の一人であり、また一方で中国の文化的伝統のもっとも忠実な後継者であるともいわれる。
●日本は、日本人としては残念なことに、中国という国家が民族主義による統一戦争と独立戦争のなかで建国に至る時、中国を抑圧し侵略する側であったことである。もし日本が、領土的野心を持たず、軍隊を統帥できる国家であったのなら、日本はこれほどの汚名をアジアに残さずにすんだことであろう。日本にも、孫文のいう西洋の覇道ではなく、古来からの東洋王道文化を選択する道は今なお残されているに違いない。
上写真(1959年第1回全国運動会)、写真前列左から、周恩来総理・朱徳副主席・毛沢東国家主席・劉少奇国家副主席(出典)「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊

1911年10月10日辛亥革命始まる。中華民国誕生(孫文と袁世凱)10-1

1911年10月10日辛亥革命が始まる。袁世凱は清朝政府と革命軍とを天秤にかけ、革命軍には講和をもちかけ清朝政府には皇帝の退位をすすめた。そして1912年1月1日孫文が臨時大総統に就任し、南京に中華民国臨時政府を組織して、中華民国が誕生した。すると清朝の総理大臣でもあり清朝の軍事力を掌握している袁世凱はどちらにも組せず動こうとしなかった。

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1914年7月28日第1次世界大戦勃発。オーストリア、セルビアに宣戦布告 10-2

3国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と3国協商(イギリス・フランス・ロシア)との対立を背景として、人類初の世界的総力戦が起こる。同盟側にはトルコ、ブルガリアが参加し、協商側には、同盟側を脱退したイタリアのほかベルギー、日本、アメリカ、中国などが参加して世界大戦と発展していった。

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1915年1月18日、日本「対華21か条要求」を行う。陳独秀、魯迅、李大釗そして毛沢東 10-3

日本は、袁世凱中華民国大総統に「21か条要求」を突きつけた。この日本の要求は、世界の外交史にも例の無いほど中国を侮辱するもので国際問題化した。だが中華民国政府がこの日本の要求をのんだことで、中国国民はこの日(5月9日)を「国恥記念日」とし、以後反日・排日運動を本格化させていった。

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1917年、北京政府(段祺瑞)、満州(張作霖)、広東軍政府(孫文)、1919年5月4日「5.4運動」 10-4

袁世凱の死後、中央政府の実権を掌握したのは、安徽派軍閥の巨頭・段祺瑞であった。満州では、東北3省(奉天・吉林・黒竜江)の実権を握っていた軍閥の張作霖が台頭してくる。一方政界から離れていた孫文は、広東軍政府の樹立を宣言した。こうして軍閥が割拠するなか段祺瑞が北京政府を握り、満州(中国東北部)では張作霖が台頭し、孫文が広東軍政府を樹立する。

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1919年と1920年、ソヴィエト政府がカラハン宣言を行う 10-5

この宣言はソヴィエト政府が、旧ロシアが中国に対して持っていた権益を否定したもので、中国との不平等条約の無効、義和団事件の賠償金の停止など権益の返還を宣言したものであった。このことは中国全体に大きな波紋をよびおこした。そしてこのことが、コミンテルンと中国国民党、中国共産党を結びつける1924年1月の国共合作成立につながる。
●そして孫文は、悲願であった真の革命軍養成のために、蔣介石を校長に「黄埔軍官学校(広州の郊外)」を設立した。そして同校には共産党を代表して周恩来が派遣され、やがて農民運動の指導者を養成するために設立された農民運動講習所の所長には毛沢東がなった。
●だが1925年3月12日、孫文は北京で死んだ(59歳)。『現在、革命なお未だ成功するに至らず・・』と国民党員へ遺囑した。

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1925年~中華民国・国民政府(広東政府)、共産党、軍閥政府、日本軍軍事介入。10-6

1926年7月、蔣介石を総司令とする国民革命軍(国民政府)北伐を開始する。だが国家統一の戦乱の中で、国民政府と共産党は対立していく。そして1927年4月12日、蔣介石が反共クーデターを起こす。第1次国共合作は崩壊した。この時上海では共産系の指導者のほとんどが逮捕処刑され、その犠牲者は数千人とされる。そして1928年10月、蔣介石が南京の国民政府主席に就任し、12月には張作霖の後を継いだ長男の張学良が、国民政府に忠誠を誓い、国民政府はここに全国統一を実現した。だが国共内戦が始まったのである。

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1931年9月18日、日本、満州事変を起こす。謀略による中国侵略の開始。10-7

関東軍は、満州全体(中国東北部)の軍事的制圧のきっかけを狙って、この柳条湖満鉄爆破(謀略事件)を起こした。日本政府は当初、不拡大方針を決定するが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、わずか5ヶ月で満州全域を占領した。日本の満州侵略は、日清戦争(1894~1895年)での遼東半島を3国干渉によって失ったことに始まり、日露戦争(1904~1905年)で「日本軍10万の将兵を失って獲得した遼東半島(先端部は関東州)は、絶対に手放すことはできない」という関東軍と陸軍の強い意志が背景にあった。

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1934年10月15日中国共産党、革命への長い旅「長征」を開始する 10-8

中国共産党の紅軍が、蔣介石率いる国民政府軍の攻撃により、瑞金を出発し西方への脱出を開始した。これが「長征」の始まりである。
●1936年12月12日西安事件が起こった。これは張学良らが内戦停止・一致抗日を求めて、西安で蔣介石を監禁した事件である。この時毛沢東は即座に周恩来を西安に派遣した。周恩来は身を挺して、両軍内強硬派《すぐに蔣介石を処刑》の説得にあたった。そして周恩来は、民族の危機を打開するために党派を越えた一致抗日を説き、国共合作を成立させたのである。

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1937年7月7日、盧溝橋事件勃発。日中全面戦争開始 10-9

日本軍は北京市内盧溝橋にて中国軍に攻撃を仕掛ける。日本軍は中国と全面戦争を開始する。近衛内閣は当初事件の不拡大を求めたが、陸軍は戦闘拡大に向かった。その近衛内閣はすぐに戦闘拡大を追認し強硬姿勢に転じた。
1937年 9月23日第2次国共合作が成立。中国は徹底抗戦を表明する。
●1939年9月1日、第2次世界大戦勃発。ドイツ軍ポーランドに武力侵攻し、全土を席巻する。

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1949年 10月1日中華人民共和国の成立 10-10

1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を表明し連合国に降伏した。アメリカ政府は、国民政府下の安定した統一中国を期待し、懸命な調停を続けたが、1946年7月12日国民党と共産党は内戦に突入した。アメリカはこれ以上中国の内戦に関わることをやめたのだろう。

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