(戦後世界)1945年「ナチスドイツ、大日本帝国、イスラエル」
2023年4月12日戦後世界
上左写真は「朝鮮戦争」「国連軍に助けを求める難民 1950年9月16日 バート・ハーディ 韓国」
上右写真は「ベトナム戦争」「米軍の爆撃を逃れて川を渡る親子 1965年9月6日 沢田教一(UPI 南ベトナム・クイニョン)」この写真は『安全への逃避』と題されたもので、ハーグ第9回世界報道写真コンテスト大賞、アメリカ海外記者クラブ賞、ピューリッツァー賞を受賞したものである。沢田は1970年プノンペン(クメール・ルージュ・カンボジア)で殺害された。(享年34歳)(出典:「目撃者」朝日新聞社 1999年刊)
参考としてここでは、「世界の歴史8・9・10」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊、「世界の歴史29(冷戦と経済繁栄)」中央公論新社1999年刊、「世界の歴史16(現代)」中央公論社1963年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊、「エルサレムは誰のものか」平山健太郎著日本放送協会1992年刊、などを参考とし引用もおこなった。
*リンクします「カメラマン・サワダの戦争」NHKアーカイブス
ここでは、ドイツ・ヒトラーのナチズムヒトラー「わが闘争」、映画「シンドラーのリスト」、ダ―ウインの「種の起源」、ニーチェ「ツァラツストラはかく語りき」などを紹介する。
●自由主義諸国(アメリカやイギリスなど)と社会主義国(ソ連邦)が共同して戦ったのはヒトラーのナチズム(ファシズム)であった。ナチス・ドイツは、当時ヨーロッパ各国にいたユダヤ人900万人のうち、500万人から600万人を、強制収容所でその多くを大量虐殺した。1942年ナチス・ドイツは、最重要政策であるユダヤ人の排斥・迫害に関する「最終解決」を「ヴァンゼー会議」で決定した。これは具体的な実務レベルの最終決定であり、これによりナチス・ドイツは、組織的ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を決定し実行に移した。
(親衛隊≪SS≫のアイヒマンは、この「最終解決」であるホロコーストに関与し、ユダヤ人数百万人の強制収容所移送の中枢を担ったが、敗戦時逃亡に成功しアルゼンチンに潜伏した。しかしイスラエルの執念の追跡により、ついに1960年イスラエル諜報特務庁≪モサド≫により逮捕連行され1962年イスラエルで処刑された。)
日本はこのようなナチス・ドイツと同盟を結んだ。日本はヒトラーのナチズムの思想を知っていたのだろうか?日本は極東で孤立し、西洋にコンプレックスをもっていたとはいえ、ファシズムとヒトラーの狂気を容認したドイツと同盟を結んだということは、日本もまたアジアに対しては差別的民族意識を持つファシズムの国であったということである。明治維新以来、積極的に西洋文明を取り入れ独立を保った日本は、アジアにおいて優越意識と選民意識をもった国となってしまったのであろう。
「目撃者」朝日新聞(※これらは映画の1シーンではない) |
●ここで、
①アドルフ・ヒトラーの「わが闘争」から、「民族と人種」の中から「文化の創始者としてのアーリア人」の一部を引用してみる。このなかでは「日本人」についても書かれている。日本では、日独伊3国同盟に影響を与えるとして、この部分の和訳をカットしたとある。
「わが闘争」「文化の創始者としてのアーリア人」の一部
●ヒトラーは狂信的な反ユダヤ主義者でアーリア人至上主義者であった。だから下段の文章の後に続くユダヤ人に対するゆがんだヒトラーの憎悪を読むと、ホロコーストが最初から計画されたものだとわかる。ヒトラーは狂信的確信犯であり虐殺者であった。
(出典)「わが闘争」アドルフ・ヒトラー著 平野一郎・将積茂 訳 角川書店1973年発行 1995年29刷
どの人種あるいは諸人種が人間の文化の最初のにない手であったのか、したがってまた、われわれが人間性という言葉ですべて包括しているものの実際の創始者であったのか、という点について争うことはむだな企てである。現代において、この問いを立てるのはより簡単であり、この場合、答えもまた容易に出てくるし、また明白でもあるのだ。われわれが今日、人類文化について、つまり芸術、科学および技術の成果について目の前に見出すものは、ほとんど、もっぱらアーリア人種の創造的所産である。
だが外ならぬこの事実は、アーリア人種だけがそもそもより高度の人間性の創始者であり、それゆえ、われわれが「人間」という言葉で理解しているものの原型をつくり出したという、無根拠とはいえぬ帰納的推理を許すのである。アーリア人種は、その輝く額からは、いかなる時代にもつねに天才の神的なひらめきがとび出し、そしてまた認識として、沈黙する神秘の夜に灯をともし、人間にこの地上の他の生物の支配者となる道を登らせたところのあの火をつねに新たに燃え立たせた人類のプロメテウスである。人々がかれをしめ出したとしたら---そのときは、深いやみがおそらくもはや数千年とたたぬうちに再び地上に降りてくるだろう。そして、人間の文化も消えうせ、世界も荒廃するに違いない。
もし、人類を文化創造者、文化支持者、文化破壊者の三種類に分けるとすれば、第一のものの代表者として、おそらくアーリア人種だけが問題となるに違いなかろう。すべての人間の創造物の基礎や周壁はかれらによって作られており、ただ外面的な形や色だけが、個々の民族のその時々にもつ特徴によって、決定されているにすぎない。かれらはあらゆる人類の進歩に対して、すばらしい構成素材、および設計図を提供したので、ただ完成だけが、その時々の人種の存在様式に適合して遂行されたのだ。たとえば、数十年もへぬ中に、東部アジアの全部の国が、その基礎は結局、われわれの場合と同様なヘレニズム精神とゲルマンの技術であるような文化を自分たちの国に固有のものだと呼ぶようになるだろう。ただ、外面的形式---少なくとも部分的には---だけがアジア的存在様式の特徴を身につけるだろう。
今日以後、かりにヨーロッパとアメリカが滅亡したとして、すべてアーリア人の影響がそれ以上日本に及ぼされなくなったとしよう。その場合、短期間はなお今日の日本の科学と技術の上昇は続くことができるに違いない。しかしわずかな年月で、はやくも泉は水がかれてしまい、日本的特性は強まってゆくだろうが、現在の文化は硬直し、七十年前にアーリア文化の大波によって破られた眠りに再び落ちてゆくだろう。だから、今日の日本の発展がアーリア的源泉に生命を負っているとまったく同様、かつて遠い昔にもまた外国の影響と外国の精神が当時の日本文化の覚醒者であったのだ。その文化が後になって化石化したり、完全に硬直してしまったという事実は、そのことをもっともよく証明している。こうした硬直は、元来創造的な人種の本質が失われるか、あるいは、文化領域の最初の発展に動因と素材を与えた。外からの影響が後になって欠けてしまう場合にのみ、一民族に現われうる。ある民族が、文化を他人種から本質的な基礎材料として、うけとり、同化し、加工しても、それから先、外からの影響が絶えてしまうと、またしても硬化するということが確実であるとすれば、このような人種は、おそらく「文化支持的」と呼ばれうるが、けっして「文化創造的」と呼ばれることはできない。
この観点から個々の民族を検討するならば、存在するのはほとんど例外なしに、本来の文化創始的民族ではなく、ほとんどつねに文化支持的な民族ばかりであるという事実が明らかになる。
常に、民族発展の次のような概念が生る。
すなわち、アーリア種族は---しばしば、ほんとうに奇妙なくらいの少ない人数で---異民族を征服し、そして新しい領域の特殊な生活環境(肥沃さ、風土の状態等)によって刺激されつつ、そしてまた人種的に劣った人間を多量に補助手段として自由に利用することに恵まれつつ、かれらのうちに眠っていた精神的、創造的な能力を発展させる。かれらはしばしば数千年、いや数百年もたたぬ間に文化を創造する。それらの文化は。前にすでに触れておいた、大地の特殊な性質や、征服された人間に調和しながらも、自己の存在様式の内面的特徴を、初めから完全にもっているのだ。だがついに、征服が自分の血の純粋保存という、最初は守られていた原理を犯すようなことになれば、抑圧されている住民と混血し始め、それとともに自分の存在に終末をつける。というのは、楽園での人間の堕落には、相変らずそこからの追放がまっているに違いないからである。
千年以上もたった後、抑圧された人種に征服者の血液が残した白味がかった皮膚の色合いの中に、あるいは、支配者が本来の創造者として、かって創造したにもかかわらず現在は硬直してしまった文化の中に、かっての支配民族による最後の明白な痕跡がしばしば示されている。なぜなら、実際の精神的征服者が被征服者の血の中に消滅するやいなや、人類の文化的進歩のたいまつのための燃料もまた失われてしまったからである! 昔の支配者の血による色合いがこの支配者の記念として、かすかな輝きを保っているように、文化生活の夜もまた、かって光をもたらしたものたちの残した創造物によってやわらかに照らされている。これら創造物は、すべて昔に戻った野蛮を隅々まで照らしており、そして思盧のないせっかちな観察者にはほとんどの場合、かれがのぞいているのはただ過去の鏡であるにもかかわらず、現在の民族の姿を目の前に見ていると思い込ませるものである
したがってこのような民族は二度にわたり、いやもっとひんぱんにさえも自分の歴史を通じて、必ずしも前の遭遇を思い起すことなく、自己の過去の文化をもたらした人種と接触することが生じうる。無意識的に、かっての主人の血の余燼はこの新しく現われたものにひかれ、強制されてのみ初めは可能だったことが、今や自分の意志で成就されうることとなる。新しい文化の大波は到来し、そのにない手が再び他民族の血液によって滅亡するまでは、継続するのである。
こうした意味を探究し、今日われわれの歴史科学が残念ながらほとんどそうであるような、外面的事実の描出に圧倒されないということが、今後の文化史および世界史の課題であるだろう。
だが、「文化支持的」国民の発展についてのこのスケッチの中にすでに、この地上の真の文化創始者であるアーリア人種自身の生成と働き、および---消滅の姿が現われている。
日々の生活でも、いわゆる天才が世に出るためには特別な機会、いや、しばしば形式的な刺激を必要とするが、民族の生活での天才的人種も事情は同じである。日常の単調さの中では重要な人間もしばしば軽く見られ、周囲の人々の平均以上にそびえ出ることはないのがつねである。ところが、他の人々が絶望したり、困惑するような状況が現われてくるやいなや、目立たない普通の人間の中から天才的性質がはっきりと伸張してきて、その人間を今まで市民生活の平凡さの中で見ていたすべての人々がびっくりすることもまれではない。---だからこそ、予言者は故郷で重んじられることがまれなのである。このことを観察するためには戦時が一番よい機会なのである。見たところでは無邪気な子どもたちの中に、他のものが絶望する困難な時期には突如として決死の決意と氷のように冷静な思慮をもった英雄がぐんぐん成長する。この試練の時期がこなければ、だれもひげの生えていない少年の中に、若い英雄が隠れていることには少しも気がつかないに違いない。天才を登場させるためには、ほとんどの場合、なにかある刺激が必要であった。ある人間の意志をくじいてしまう運命の鉄鎚は、他の人間をにわかに鋼鉄に鍛え、そして、日常のおおいが破れると同時に今までに隠されていた核心が、驚いている世間の人々の眼前にあからさまに露出される。その際この人々はひどくびっくりして、かれらと見かけでは同じ種類の人間が突然別な存在になるなどと信じようと欲しない。この経過は、おそらくあらゆる卓越した人間に対してくり返されるものである。
たとえば、発明者は発明がなされた日に初めてかれの名声を確実にするとはいっても、だが独創力そのものもまた、そのときになって初めてその人間の中にはいり込んだなどと考えるのは誤りである。---独創力のひらめきは真に創造的な天分のある人間の頭脳に、生まれた時から存在している。真の独創力はつねに生まれつきであり、けっして教え込まれたり習得されたりするものではない。
だが、これはすでに強調されたように、個々の人間だけに妥当することではなく、人種についてもいえることである。創造的に活動している民族は、たとえ、表面的な観察者の目には認識されえないとしても、昔から、そして徹頭徹尾創造的な天分をもっているのだ。ここでもまた、外からの認知はつねに実行された行為の結果としてのみ可能である。というのは、その他の人々は独創力そのものを認識することができないで、ただ、この発明、発見、建築物、絵画等々の形態をとって目に見える現象を認識しうるだけだからである。しかし、この場合でもまた、その人々がこの認知に達するまでには、しばしばなお長い時間がかかるのである。個々の卓越した人間の
生活において、天才的であるかまたはとにかく非凡である素質も、特別な動機にかられて初めて実際的な実現に努めるのとまったく同様に、民族の生活においても、存在している創造的な能力や素質の実際の使用は、多くの場合、一定の前提条件がそれに課せられた時初めて行なわれうるのだ。
われわれはこのことを人類の文化発展のにない手だったし、今でもそうである唯一の人種---アーリア人種---によってもっとも明白に知るのである。運命がこの人種をさまざまな特別な状況の中に連れ込むやいなや、これらの状況はかれらに存在している素質を矢つぎ早に速度を早めて発展させ、明瞭な形に流し込み始める。かれらがそうした場合に創始する文化はほとんどつねに、存在している大地、現地の気候および-征服された人間によって決定的に限定を受ける。もちろん、この最後のものはおおよそ最大の決定的要素である。文化活動に対する技術的前提条件が素朴であればあるだけ、組織的に集中され、応用されることにより、機械の力を代用するような
人間の補助手段が存在することを必要とする。より劣等な人間のこのような利用の可能性がなければ、アーリア人種は、けっして、かれらの後代の文化に向かう第一歩を踏み出すことができなかったに違いない。そのことはアーリア人種が慣らすのを心得ていた個々の有用な動物の助けがなくては、今日、まさにこの動物を徐々に必要とさせなくなった技術にかれらが到達しえなかっただろうことときっちり同じである。「ムーア人は義務を果したら下がってよい」という言葉は、残念ながら十分すぎるくらいの深い意味をもっているのだ。幾世紀もの間、馬は人間に奉仕し、今や自動車によって馬そのものを余分なものにした発展の基礎を作るため、協力しなければならなかった。幾年もたたぬ間に馬はその活動を止めてしまうだろうが、しかし、馬の以前の協力がなければ、人間はおそらく今日の状態にまで達するのはまず困難だったに違いない。
だから、より高い文化の形成には、より劣った人間の存在が一つのもっとも本質的な前提条件であったが、それはただかれらだけが、それがなくてはより高度の発展がまったく考えられないような、技術的補助手段の不足を補充することができたからである。人類の最初の文化が、慣らされた動物よりも、むしろ、より劣った人間の利用に基づいていたのは確実である。
征服された人種の奴れい化の後に、やっと同じ運命が動物にも襲い始めたのであり、多くの人人がおそらく信じたがっているようにその逆ではなかった。なぜならまず敗者が鋤を引っぱった。
---そしてかれの後に、初めて馬が引くようになった。けれども、ただ平和主義の馬鹿者だけが、これを、あらためて人類のいまわしさの特徴だと見なしうるにすぎない。かれらはまさしくこの発展が、結局のところ、その立場に立ってこそこの使徒連中が今日自分たちのいかさま治療を世界にもたらすことができるような、そういった立場に到達するために行なわれなければならなかったことをはっきり意識していない。
人類の進歩は、終りのないはしごを登るのに似ている。まず下の段を踏まねば、上の段に達することはまったくできない。したがって、アーリア人種は現実が示した道をば歩くべきであって、現代の平和主義者の空想が夢見る道を歩んではならなかった。だが現実の道は困難であり、辛いものであるが、ただその道だけが、他の道が人類を好んで夢想させはしても、実際には残念ながら近づけるよりはむしろ引き離してしまう、そのような方向へ導いてくれる。
だから、アーリア人種がより劣った民族と遭遇してかれらを征服し、自分の意志に服従させた場所に、最初の文化が生じたのは少しも偶然なことではない。その場合これらの民族は生成しつつあった文化に奉仕する最初の技術的な道具であったのだ。
「混血の結果」・・(中略)・・そして、「アーリア人種とユダヤ人」「ユダヤ的エゴイズムの結果」「ユダヤ人の見せかけの文化」「ユダヤ人は遊牧民でない」「ユダヤ人は寄生虫」・・と続いていく。
②左は映画「シンドラーのリスト」のなかの、ポーランドのゲットーに隔離されていたユダヤ人達(ダビデの星の腕章)が強制収容所に強制移送させられていく時の1ショットである。この映画は、一度は見なければならない作品である。
●YouTubeにも数多くの強制収容所の記録がアップされている。なぜそうかといえば、事実を公開しなければ、必ず誰かが隠蔽し、あるいはねつ造だと言い張るからである。真実を公開することは、生きている人間のためではなく、無残にも死んでいった死者のためにあるからである。
(出典:「種の起源(下)」ダ―ウイン著 渡辺政隆訳 光文社2009年 発刊 )
「種の起源」から「要約と結論」の「結論」の部分
結論
種の起源に関して本書で述べた見解もしくはそれに類似した見解が一般に受け入れられれば、自然史学に相当規模の革命が起きるだろうとおぼろげながら予測できる。分類学者の仕事の進め方が現在と変わることはない。ただ、この種類やあの種類はほんとうは種なのかどうかという漠とした疑念に始終さいなまれずにすむようになる。私の経験から言って、これは間違いなく大きな救いとなる。
イギリス産の50種あまりのキイチゴは、それぞれほんとうの種なのかどうかという果てしない論争に終止符が打たれることだろう。そうなれば分類学者は、その種類は定義が可能なほど十分に安定していて他の種類と異なっているかどうかを決定するだけでよくなる(それだけでもやさしいことではないが)。そしてもし定義可能ならば、その違いは種名を授けるに値するほど重要かどうかを決定するだけでよい。後者の決定は、現在よりもはるかに本質的な考察となる。なぜならある二つの種類の違いがいかにわずかであろうと、細かい中間段階によって混ぜ合わされていないのであれば、両者とも種として位置づけるに値すると、たいていのナチュラリストは見なすからだ。
今後は、種と明確な変種とのあいだの区別はただ一つですむようになる。変種の場合は、現時点で細かい中間段階によって結ばれていることが判明しているか、結ばれていると考えてよければ、変種と見なしてよい。それに対し、過去においてそのように結ばれていたのが種である。したがって、ある二つの種類間には現時点で細かい中間段階が存在するかどうかの考察を頭から否定せずに、両者間に実際に存在する違いの量をもっと注意深く評価し、これまでよりも重視することになる。一般には変種にすぎないと見なされている種類が、じつは種に値する存在であるといずれ考えられるようになる可能性も大いにある。たとえばサクラソウとキバナノクリンザクラの例がそうだ。この例では、これまでは俗名だけで区別されていたものが、学名でも区別されることになるだろう。ようするに、属とは種を便宜的に組み合わせた人為的なグループにすぎないと考えるナチュラリストが属を扱うように、種を扱わねばならなくなるのだ。これは喜ばしい予想ではないかもしれない。しかし少なくとも、種とは何かという、発見されていない上に発見可能でもない種の本質を空しく探し求めることからは解放されるはずだ。
自然史学のもっと一般的な別の分野への関心も大いに高まることになるだろう。ナチュラリストが用いる類縁、近縁関係、タイプの共有、父性、形態学、適応形質、痕跡的で発育不全の器官などといった用語は比喩的なものではなくなり、明白な意味をもつようになる。これまでわれわれは、未開人が自分たちの理解を完全に超える存在として船を見るように生物を見てきた。そんな見方は終わりを告げ、自然界のすべての産物には歴史があるという見方をするようになるだろう。技術の偉大な発明品は、たくさんの職人の汗と経験と理性と失敗までもが積み上げられた成果である。それと同じで、生物のすべての複雑な構造や本能も、さまざまな工夫の積み上げと見なされるようになるだろう。個々の生物に関してそのような見方がされるようになれば、私の経験から言って、自然史学の研究は今よりもはるかに興味深いものとなるはずだ。
変異の原因と法則、成長の相関関係。用不用の作用、外的条件の直接作用など、ほとんど未開拓の壮大な探求分野が開けることだろう。たとえば飼育栽培生物を研究する価値がぐんと高まるはずだ。人間が作り出した新しい変種は、すでに記載されている無数の種に追加された一種よりもはるかに重要で興味深い研究対象となることだろう。分類は、できる範囲内でのことではあるが、系図的なものとなる。そして、創造の意図と呼ばれてよいものをほんとうに提供してくれることになる。明確な目標が視
野に捉えられていれば、分類の規則は間違いなくより単純なものとなる。系図や紋章などはない。自然界の系譜の中で分岐したたくさんの系統を発見し追跡する上で頼るべきは、長期にわたって遺伝されてきたあらゆる種類の形質である。痕跡器官は、失われて久しい構造の性質について、必ずや語ってくれるだろう。異常型と呼ばれたり、生きた化石という幻想的な呼び名の種や種のグループは、古代の生物の実像を復元する上で大いに役に立つ。胚発生は、個々の大きな綱の原型の形態を、おぼろげにでは
あるが明かしてくれるだろう。
同種のすべての個体、大半の属のきわめて近縁な種のすべては、それほど遠くない昔に一種類の祖先に由来し、どこか一ヵ所の生誕地から移住したと確信できるようになるとしよう。また、さまざまな移住手段について理解が進んだとしよう。そうなれば、過去の気候変化や土地の高低の変化に関して地質学が解明しつつあることや、やがて解明するであろうことを基に、世界中の生物が過去に行なった移住をみごとに追跡できるようになるのは間違いない。現時点においてさえ、一つの大陸の両側の海にすむ生物の違いや、その大陸にすむさまざまな生物の性質を、それらが利用できそうな移住の手段に照らして比較することで、太古の地理に関していくらかの光明がもたらされるくらいなのだ。
高貴な科学である地質学は、その記録がきわめて不完全なことから栄光を失っている。化石を含む地殻は標本が完備した博物館などではなく、偶然に稀な間隔で集められた貧弱なコレクションと見なされるべきだ。そうすれば個々の大規模な化石層の累積は、さまざまな条件の異例な組み合わせによって生じたもので、連続した地層間には膨大な期間に相当する空隙があると見なされることになる。しかしそうした空隙の期間は、そのすぐ前に出現している生物とすぐ後に出現している生物を比較することで、ある程度まで正確に見積もることができる。同一の種をほとんど含んでいない二つの累層を、生物相の一般的な変遷を対比することによってまさに同時代の累層であると断定しようとするにあたっては、慎重であらねばならない。
種の誕生と絶滅は、ゆっくりと作用し、今もなお存在している原因によるものであって、創造という奇跡と激変が原因ではない。また、生物を変化させる原因のなかで最も重要なのは、物理的条件の変化、それもおそらくは物理的条件の突然の変化とはほぼ無関係である。生物どうしの相互作用、すなわちある生物が改良されると別の生物も改良させられたり絶滅させられたりするという関係が最も重要である。したがって、連続した累層に含まれる生物化石に見られる変化の量が、おそらく実際に経過した時間の正確な目安になるだろう。しかし、多数の種全体が長期にわたって変化していない一方で、それと同じ時期にそれらの種のうちの何種かは、新しい土地に移住して移住先の見なれぬ生物と競争関係になることで変化した可能性もある。そういうわけで、生物の変化を経過時間の正確な目安として過大視すべきではない。
地球の歴史の初期、まだ生物の種類も少なく構造も単純だったと思われる頃の変化の速度はおそらく遅かった。きわめて単純な生物がごく少数しかいなかった黎明期には、変化の速度は極端に遅かったかもしれない。世界の歴史は、現時点でわかっているだけでも、その長さはわれわれの理解をはるかに超えている。しかしその長さでさえ、無数の絶滅種と現生種の祖先にあたる最初の生物が創造されて以後に経過した年数に比べれば、ほんの一部にすぎないと見なされることになるだろう。
遠い将来を見通すと、さらにはるかに重要な研究分野が開けているのが見える。心理学は新たな基盤の上に築かれることになるだろう。それは、個々の心理的能力や可能性は少しずつ必然的に獲得されたとされる基盤である。やがて人間の起源とその歴史についても光が当てられることだろう。
きわめて著名な著者たちは、個々の種は個別に創造されたとする見解にすっかり満足しているようだ。私の意見では、地球上の過去と現在の生物の誕生と絶滅は、個体の誕生と死を決めているのと同じ二次的な原因であると考えるほうが、造物主が物質に課した法則に関するわれわれの知識とうまく一致する。すべての生物は特別に創造されたものではなく、シルル紀最古の地層が堆積するはるか前に生きていた少数の生物の直系の子孫であると考えるほうが、生物がより高貴な存在に思えてくるような気がするのだ。
過去を振り返ってみる限り、今の姿をそのまま変えずに遠い未来まで子孫を残す現生種は一つもいないと推論してもよいだろう。現生種のうちで、何らかの種類の子孫をはるか遠い未来まで残せるのはごく少数だろう。なぜなら、すべての生物の分けられ方を見ると、個々の属のうちの大多数の種と、多くの属のすべての種は、予孫を残していないか完全に絶滅しているからだ。未来を予見して言えることがあるとすれば、最終的に繁栄して新しい優勢な種を生み出せるのは、大きくて優勢なグループに属し、個体数が多く分布も広い種だろう。
すべての生物はシルル紀よりもはるか前に生きていた生物の直系の子孫である。したがって通常の世代交代は一度として途切れたことはなく、激変によって世界中が根絶やしにされたこともないと確信してよいだろう。このことから、やはり想像を絶するほど遠い先の未来も安泰だと、いくらかの確信をもてるかもしれない。そして個々の生物の利益によってのみ、またその利益のためにのみ自然淘汰は作用することから、身体と精神のすべての資質はこれからも完成に向けて前進していくことだろう。
さまざまな種類の植物に覆われ、灌木では小鳥が囀り、さまざまな虫が飛び回り、湿った土中ではミミズが這い回っているような土手を観察し、互いにこれほどまでに異なり、互いに複雑なかたちで依存し合っている精妙な生きものたちのすべては、われわれの周囲で作用している法則によって造られたものであることを考えると、不思議な感慨を覚える。それらの法則とは、大まかな言い方をすれば、「成長」して「繁殖」すること、繁殖とさして違わない意味での「遺伝」、生物を取り巻く条件の間接的および直接的な作用と用不用による「変異性」、「生存闘争」を引き起こし、その結果として「自然淘汰」を作用させ、「形質の分岐」と改良面で劣る種類の「絶滅」を強いる高い「増加率」などである。つまり、自然の闘争から、飢餓と死から、われわれにとってはもっとも高貴な目的と思える高等動物の誕生が直接の結果としてもたらされるのだ。この生命観には荘厳さがある。生命は、もろもろの力と共に数種類あるいは一種類に吹き込まれたことに端を発し、重力の不変の法則にしたがって地球が循環する間に、じつに単純なものからきわめて美しくきわめてすばらしい生物種が際限なく発展し、なおも発展しつつあるのだ。
「ツァラトゥストラかく語りき」から一部引用
ツァラトゥストラは群集を見、訝り、つぎのように語った。―――――人間は、獣と超人との間に張りわたされた一條の綱である。―――――一つの深淵を越ゆる一條の綱である。
渡りゆくも危く、途上にあるも危く、後(しりえ)を見るも危く、戦慄するもはた佇立(ちょりつ=たたずむ)するも危い。
人間が偉大なる所以(ゆえん)は、彼が目的にあらずして、橋梁たるにある。人間にして愛されうべき所以は、彼が一つの過渡たり、没落たるにある。
われは愛する、―――――没落しゆく者としてにあらずんば、生くることを知らざる人を。いかんとなれば、かかる人こそは過渡し行く者であるからだ。
われは愛する、―――――大いなる侮蔑者を。かかる人こそは大いなる崇拝者であるからだ。かくて、彼方の断崖へとむかう憧憬の矢であるからだ。
われは愛する、―――――没落して犠牲となる者を。しかも、その理由をば星の背後に求むることをなさず、むしろ、いつの日か大地が超人のものとならんそのために、自らを大地に犠ぐる者を。
われは愛する、―――――認識せんがために生くる者を。しかして、いつの日か超人が生れいでんそのために、認識せんと欲する者を。かかる人はみずからの没落を冀(こいねが)う。
われは愛する、―――――労働し発明する者を。この人は超人のために家を造り、超人のために大地と獣と植物とを備えんとて、しかく為す。故に、この人はみずからの没落を冀う。
われは愛する、―――――みずからの道徳を愛する者を。道徳とは没落への意志である故に。また一條の憧憬の矢である故に。
われは愛する、―――――みずからの為には一滴の精神をも惜しむことなく、全身自己の道徳の精神と化さんとする者を。かくするとき、この者は精神として橋梁を越えゆく。
われは愛する、―――――自己の道徳よりして、みずからの傾向と宿命とを創りいだす者を。かくするとき、この者は自己の道徳の故に生き、死す。
われは愛する、―――――あまりに数多くの徳性を持つを願わざる者を。一つの徳性は二つの徳性に優る。いかんとなれば、ここにこそ、宿命が懸るより多くの結目(むすびめ)があるからだ。
われは愛する、―――――骰子(サイコロ)によって幸福を克ち獲たとき、心慙(は)ずる者を。またこの際に、われはそもかかる不正の賭博者であるのか、と自らに問うものを。―――――他なし、かかる人は亡び行くを欲する人である故に。
われは愛する、―――――行為に先立って黄金の言葉を投じ、しかも約せる以上に之を果す者を。他なし、かかる人は没落を願う人である故に。
われは愛する、―――――未来に意義を附し、過去を救済する者を。すなわち、この人は現在によって亡びんとする人ではないか!
われは愛する、―――――みずからの神を愛すればこそ、みずからの神を責むる者を。すなわち、この人はみずからの神の忿(いか)りによって亡びねばならぬではないか!
われは愛する、―――――傷ついてなお霊魂ふかき者を、また小さき体験によって亡びうる者を。この人はよろこんで橋梁の上を行く人である。
われは愛する、―――――霊魂の充ち溢れたる者を。このためには自己をも忘却し、一切を己が内に蔵する者を。かくして、一切の事物は彼の没落となり得。
われは愛する、―――――自由な精神と自由な心情との人を。かかる人にあっては、頭脳はただその心情の内蔵である。しかも、この心情は、彼を没落へと駆りゆく。
われは愛する、―――――人類の上にひろごる黒雲より点々と落ち来たる、重き滴(しずく)のごとくなる人々を。かれらはやがて紫電(しでん=紫色のいなずま)来たるべきを告げる。かくして、告知者として亡びゆく。
みよ、われこそはこの紫電の告知者である。密雲より落ち来たる重き滴である。しかして、この紫電こそ―――――超人である―――――
(出典:YouTube「ジュゼッペ・シノーポリ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」)
(サイズ1.99MB)
日本軍の戦争犯罪「極東国際軍事裁判」判決文 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪(一部引用)
日本のアジア各国への侵略と殺りくに、正義はあったのだろうか。日本は降伏前に全土を爆撃され、最後に人類初の原子爆弾まで落とされ、全土は焦土となった。だからといってそのことが免罪符になるわけではないし、まして過去を帳消しにできるわけではない。
動画・出典:「昭和ニッポン」2005年発行(第1巻)一部紹介
●広島・長崎、原爆投下。(アメリカ軍が上空から撮影した有名な動画。広島の最初の画像のブレは、原爆の衝撃波によるといわれる。そのため長崎ではもっと高空から撮影したといわれる。)
※(YouTube動画、サイズ1.66MB、36秒)
年・月 | 1945/6/26~ |
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1945年8/8 | ソ連、日本に宣戦布告し満州などに極東軍が侵攻を開始する。 |
1945年8/14 | モスクワにて、ソ連と中国国民政府が、中ソ友好条約を締結する。 |
1945年8/15 |
日本、降伏を受諾
8/14日本は連合国にポツダム宣言受諾を通知し、8/15天皇が受諾したことを国民に放送。 |
1945年8/17 | (インドネシア)ジャカルタでスカルノ(大統領)がインドネシア独立を宣言。しかし旧宗主国オランダはこの宣言を認めず、以後4年間の独立戦争となる。 |
1945年8/24 | (朝鮮半島)ソ連軍8/8侵攻以来各地を転戦後、ついに平壌に進駐し市民の歓迎を受ける。 |
1945年9/2 |
日本、降伏文書に調印
日本、東京湾アメリカ戦艦ミズリー号上で、降伏文書に調印する。日本政府代表は重光葵外相(58歳)と軍部代表梅津美治郎参謀総長(63歳)が署名し、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサー元帥(65歳)が連合国を代表して署名した。以下、アメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順に署名した。ここにアジア・太平洋戦争が正式に終結した。 |
●ドイツのナチズムだけを述べているのは不公正だろう。日本のアジア各国への侵略と殺りくに、正義はあったのだろうか。日本は降伏前に全土を爆撃され、最後に人類初の原子爆弾まで落とされ、全土は焦土となった。だからといってそのことが免罪符になるわけではないし、まして過去を帳消しにできるわけではない。下の写真は中国の南京と平頂山の写真の一部である。
●南京大虐殺「揚子江岸に打ち上げられた死体」(岩波書店)と「平頂山受難同胞記念碑」 |
「東京裁判」が勝者による裁判であったことは事実であろう。しかし日本人が直視しなければならないのは、「戦争をしたことに対する平和の罪」の問題ではなく、「戦争法規」すら眼中になかった日本軍の実態が証言されているこの部分である。ここは読んでおかねばならない。日本人は初めて「東京裁判」で「皇軍」の真実を知った。下に「東京裁判・判決文」から一部を引用してみる。「平頂山事件」「秋田花岡事件」と「南京虐殺」が述べられている。(なるべく旧漢字は新漢字にし、振り仮名と意味も記入した)
極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪(一部引用)
通 例 の 戦争 犯 罪
●(残虐行為)
すべての証拠を慎重に検討し。考量した後、われわれは、提出された多量の口頭と書面による証拠をこのような判決の中で詳細に述べることは、実際的でないと認定する。残虐行為の規模と性質の完全な記述については、裁判記録を参照しなければならない。
本裁判所に提出された残虐行為及びその他の通例の戦争犯罪に関する証拠は、中国における戦争開始から1945年8月の日本の降伏まで、拷問、殺人、強姦及びその他の最も非人道的な野蛮な性質の残忍行為が、日本の陸海軍によって思うままに行われたことを立証している。数ヵ月の期間にわたって、本裁判所は証人から口頭や宣誓口述書による証言を聴いた。これらの証人は、すべての戦争地域で行われた残虐行為について、詳細に証言した。それは非常に大きな規模で行われたが、すべての戦争地域でまったく共通の方法で行われたから、結論はただ一つしかあり得ない。すなわち、残虐行為は、日本政府またはその個々の官吏及び軍隊の指導者によって、秘密に命令されたか、故意に許されたかということである。
残虐行為に対する責任の問題に関して、被告の情状と行為を論ずる前に、訴追されている事柄を検討することが必要である。この検討をするにあたって、被告と論議されている出来事との間に関係があったならば、場合によって、われわれは便宜上この関係に言及することにする。他の場合には、そして一般的には、差支えない限り、責任問題に関連性のある事情は、後に取扱うことにする。
1941年12月の太平洋戦争開始当時、日本政府が、戦時捕虜と一般人抑留者を取扱う制度と組織を設けたことは事実である。表面的には、この制度は適切なものと見受けられるかもしれない。しかし、非人道的行為を阻止することを目的とした慣習上と条約上の戦時法規は、初めから終りまで、甚だしく無視された。
残虐行為の程度と食糧及び医療品の不足の結果とは、ヨーロッパ戦場における捕虜の死亡数と、太平洋戦場における死亡数との比較によって、例証される。合衆国と連合王国の軍隊のうちで、23万5473名がドイツ軍とイタリア軍によって捕虜とされた。そのうちで、9348人、すなわち4分が収容中に死亡した。太平洋戦場では、合衆国と連合王国だけから、13万2134名が日本によって捕虜とされ、そのうちで、3万5756人、すなわち2割7分が収容中に死亡したのである。
●戦争法規は中国における戦争の遂行には適用されないという主張
(注:戦争法規=戦争状態においてもあらゆる軍事組織が遵守するべき義務を明文化した戦時国際法)
この戦争は膺懲(ようちょう=征伐して懲らしめること)戦であり、中国の人民が日本民族の優越性と指導的地位を認めること、日本と協力することを拒否したから、これを懲らしめるために戦われているものであると日本の軍首脳者は考えた。
この戦争から起るすべての結果を甚だしく残酷で野蛮なものにして、中国の人民の抵抗の志を挫(くじ)こうとこれらの軍指導者は意図したのである。
蔣介石大元帥に対する援助を遮断するために、南方の軍事行動が進んでいたとき、中支那派遣軍参謀長は、1939年7月24日に、陸軍大臣板垣(板垣征四郎・A級戦犯として絞首刑)に送った情勢判断の中で、『陸軍航空部隊は奥地要地に攻撃を敢行し、敵軍及び民衆を震駭(しんがい=おそれてふるえおどろくこと)し、厭戦和平の機運を醞醸(うんじょう=かもし出すこと)す。奥地進攻作戦の効果に期待するところのものは、直接敵軍隊又は軍事施設に与ふる物質的損害よりも、敵軍隊又一般民衆に対する精神的脅威なりとす。彼等が恐怖の余り遂に神経衰弱となり、狂乱的に反蒋和平運動を激発せしむるに至るべきを待望するものなり』と述べている。
政府と軍の代弁者は、同じように、戦争の目的は中国人にその行いの誤りを『猛省』させるにあるとときどき主張した。これは結局において日本の支配を受け入れることを意味したものである。
1938年2月に、廣田(廣田弘毅=外相・A級戦犯として絞首刑)は貴族院における演説で、『日本は武力に依って中国側国民政府の誤った思想を膺懲(ようちょう=征伐してこらしめる)して行く外、一面に於(おい)ては、出来ることならば反省をさせたいと云うことに努力して参ったのであります』と述べた。『彼等は非常な頑強な排日思想を持って日本に当たっているから、是はどうしても膺懲せなければならぬと云う方針を決めました』とかれは同じ演説の中で述べた。
平沼は、1939年1月21日に議会における演説によって、かれのいわゆる『国民の精神の昂揚』を始めたが、その中で、
● 軍 の 方 針 の 樹 立
日本の軍隊によって犯された残虐行為の性質と程度を論ずる前に、このような行為を取締ることになっていた制度をきわめて簡単に述べておきたい。
軍の方針を樹立する権限をもっていた者は、陸海軍両大臣、参謀総長、軍令部総長、教育総監、元帥府及び軍事参議院であって、陸海軍大臣は行政を担当し、教育総監は訓練を監督し、参謀総長と軍令部総長は軍の作戦を指導した。元帥府と軍事参議院の両者は諮問機関であった。陸軍は特権を与えられていた。その一つは、陸軍大臣の後継者を指名する独占的な権利である。陸軍はこの権能を行使することによって、その唱道(しょうどう=自ら先に立ってとなえる)する政策を絶えず固守させることができた。
陸軍省では、政策の発案機関は軍務局であった。この局は、参謀本部、陸軍省の他の局及び他の各省と協議した上、陸軍大臣の署名のもとに発せられた法規の形式で、日本軍部の方針を公表した。一般に戦争の指導に関して、特に一般人抑留者及び捕虜の待遇に関して方針を立て、これに関する規則を発したのは、この軍務局であった。中国における戦争の間の捕虜の管理は、この局によって行われた。 一般人抑留者と捕虜の管理は、太平洋戦争の敵対行為が始まって、特別な部がその任に当たるために創設されるまで、同局によって行われていた。被告のうちの3名が、この強力な軍務局に局長として在職した。それは小磯(小磯国昭=陸軍大将・首相・A級戦犯終身禁固刑)、武藤(武藤章=陸軍中将・A級戦犯絞首刑)及び佐藤(佐藤賢了=陸軍中将・A級戦犯終身禁固刑)である。
小磯は中国における戦争の初期、1930年1月8日から1932年2月29日までの間在職した。武藤は太平洋戦争の開始の前から後にかけて在職した。かれは1939年9月30日に同局の局長となり、1942年4月20日まで在任したのである。佐藤は1938年7月15日に任命されて、太平洋戦争の開始の前に軍務局に勤務し、武藤がスマトラの軍隊を指揮するために転任したときに、同局の局長となり、1942年4月20日から1944年12月14日まで、局長として勤務していた。
海軍省で右の局に相当するのは、海軍軍務局であった。海軍軍務局は、海軍のために法規を制定し、公布し、海上、占領した島及びその他の海軍の管轄下にあった領土における海軍の戦争巡行の方針を規定し、その権内にはいった捕虜と一般人抑留者を管理した。被告岡は、太平洋戦争の前とこの戦争中の1940年10月15日から1944年7月31日までの間、右の局の局長として勤務した。
陸軍省では、陸軍次官が省内の事務を統轄し、陸軍省のもとにあった各局や他の機関を統合する責任をもっていた。陸軍次官は戦場における指揮官から報告や申出を受け、陸軍省の管理に属する事務について陸軍大臣に進言し、しばしば命令や指令を発した。被告のうちで、3名が太平洋戦争の前に陸軍次官として勤務した。小磯は1932年2月29日から1932年8月8日まで在職した。梅津(梅津美治郎=陸軍大将・A級戦犯終身禁固刑)は1936年3月23日から1938年5月30日までの間、この地位を占めていた。東條(東条英機=陸軍大将・首相・A級戦犯絞首刑)は1938年5月30日に陸軍次官となり、1938年12月10日まで在職した。木村(木村兵太郎=陸軍大将・A級戦犯絞首刑)は太平洋戦争の前から後にかけて陸軍次官であった。かれは1941年4月10日に任命され、1943年3月11日まで在職したのである。
最後に、もちろんのことであるが、戦場における司令官は、その指揮下の軍隊が軍紀を維持し、戦争に関する法規と慣例を遵守することに対して、責任を負っていた。
●中国戦争で捕虜となった者は匪賊(ひぞく=徒党を組んで殺人・略奪を行う盗賊)として取扱われた
中国軍の主要部隊は、1931年の末に長城内に撤退したが、日本軍に対する抵抗は、広く分散した中国義勇軍の部隊によって絶えず続けられた。関東軍の特務部は、1932年に義勇軍の小区分として編成されたところの、いわゆる中国の路軍の名を多数挙げていた。これらの義勇軍は、奉天、海城及び営口附近の地帶で活躍した。1932年8月に、奉天のすぐ近くで戦闘が起った。この奉天の戦闘が最高潮あった1932年8月8日に、陸軍次官小磯が関東軍参謀長兼関東軍特務部長に任命された。かれは1934年5月5日までこの職にあった。
それから間もなく、小磯は陸軍次官に対して『満州国指導要綱』を送り、その中で、『日支両国間の民族闘争は亦之を予期せざるべからず。之が為其の止むなきに方(あた)りては武力の発動固(もと)より之を辞せず』と述べた。中国軍に実際に援助を与えたり、または与えたと想像されると、その報復として、右の趣旨で、都市や村落の住民を虐殺する慣行、すなわち、日本側のいわゆる『膺懲(ようちょう=征伐してこらしめる)』する慣行が用いられた。この慣行は、中日戦争を通じて続けられた。その最も悪どい例は、1937年12月における南京の住民の虐殺である。
捕えられた中国人の多数は、拷問され、虐殺され、日本軍のために働く労働隊に編入され、または日本によって中国の征服地域に樹立された傀儡(かいらい)政府のために働く軍隊に編制された。これらの軍隊に勤めることを拒んだ捕虜のある者は、日本の軍需産業の労働力不足を緩和するために、日本に送られた。本州の西北海岸にある秋田の収容所では、このようにして輸送された中国人の一団981名のうち。418名が飢餓、拷問または注意の不行届のために死亡した。
●盧溝橋事件の後も方針は変らなかった
国際連盟と九国条約調印国のブラッセルにおける会議とは、ともに、1937年に盧溝橋で敵対行為が起ってから、中国に対して日本の行っていたこの『膺懲』戦を阻止することができなかった。中日戦争『事変』として取扱う日本のこの方針は、そのまま変らずに続けられた。大本営が設置された後でさえも、中国における敵対行為の遂行に戦争法規を励行するために、いかなる努力も払われなかった。その大本営は、1937年11月19日に開かれた閣議で陸軍大臣がいい出したように、宣戦布告を必要とするほどの規模の『事変』の場合に、初めてこれを設置することが適当であると考えられていたものである。政府と陸海軍は完全な戦時態勢を整えていたが、中日戦争は依然として『事変』として取扱われ、従って戦争の法規は無視された。
●南京暴虐事件
1937年12月の初めに、松井(松井岩根=陸軍大将・南京大虐殺責任者・A級戦犯絞首刑)の指揮する中支那派遣軍が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。中国軍は、この市を防衛するために、約5万の兵を残して撤退した。1937年12月12日の夜に、日本軍が南門に殺倒するに至って、残留軍5万の大部分は、市の北門と西門から退却した。中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので、1937年12月13日の朝、日本軍が市にはいったときには、抵抗は一切なくなっていた。日本兵は市内に群がってさまざま残虐行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒し汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。目撃者逹によって、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、同市は単に組織的な戦闘で占領されただけではなかったこと、戦いに勝った日本軍は、その獲物に飛びかかって、際限のない暴行を犯したことが語られた。
多くの強姦事件があった。犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しで反抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまった。幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。そして、これらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数詼あった。多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の最初の1ヵ月の間に、約2万の強姦事件が市内に発生した。
日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪った。兵が道路で武器をもたない一般人を呼び止め、体を調べ、価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。掠奪された物資はトラックで運び去られた。日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一劃一劃と相ついで焼き払われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は焼き払った。このような放火は、数日後になると、一貫した計画に従っているように思われ、6週間も続いた。こうして、全市の約3分の1が破壊された。
ドイツ政府は、その代表者から、『個人でなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行爲』について報告を受けた。この報告の後の方で、『日本軍』のことを『畜生のような集団』と形容している。
城外の人々は、城内のものよりもややましであった。南京から2百中国里 (約六十六マイル)以内のすべての部落は、大体同じよう状態にあった。住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で、かれらは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。南京から避難していた一般人のうちで、5万7千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。
このようにして、右のような捕虜3万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。
後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている。これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。
日本の大使館員は、陸軍の先頭部隊とともに、南京へ入城した。12月14日に、一大使館員は、『陸軍は南京を手痛く攻撃する決心をなし居れるが、大使館員は其の行動を緩和せしめんとしつつあり』と南京国際安全地帯委員会に通告した。大使館員はまた委員に対して、同市を占領Lた当時、市内の秩序を維持するために、陸軍の指揮官によって配置された憲兵の数は、17名にすぎなかったことを知らせた。軍当局への抗議が少しも効果のないことがわかったときに、これらの大使館員は、外国の宣教師たちに対して、宣教師たちの方で日本内地に実情を知れわたらせるように試み、それによって、日本政府が世論によって陸軍を抑制しないわけには行かなくなるようにしてはどうかといった。
ベーツ博士の証言によると、同市の陷落後、2週間半から3週間にわたって恐怖はきわめて激しく、6週間から7週間にわたっては深刻であった。国際安全地帯委員会幹事スマイス氏は、最初の六週間は毎日二通の抗議を提出Lた。
松井は12月17日まで後方地区にいたが、この日に入城式を行い、12月18日に戦没者の慰霊祭を催し、その後に声明を発し、その中で次のように述べた。
当時大佐であった武藤は、1937年11月10日に、松井の幕僚に加わり、南京進撃の期間中松井とともにおり、この市の入城式と占領に参加した。南京の陥落後、後方地区の司令部にあったときに、南京で行われている残虐行為を聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗議を申込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。この事態を改善するような効果的な方策は、なんら講ぜられなかった。松井が南京にいたとき、12月19日に市の商業区域は燃え上っていたという証拠が、1人の目撃者によって、本法廷に提出された。この証人は、その日に、主要商業街だけで、14件の火事を目撃した。松井と武藤が入城してからも、事態は幾週間も改められなかった。
南京における外交団の人々、新聞記者及び日本大使館員は、南京とその附近で行われていた残虐行為の詳細を報告した。中国へ派遣された日本の無任所公使伊藤述史は、1937年9月から1938年2月まで上海にいた。日本軍の行為について、かれは南京の日本大使館、外交団の人々及び新聞記者から報告を受け、日本の外務大臣廣田に、その報告の大要を送った。南京で犯されていた残虐行為に関して情報を提供するところの、これらの報告やその他の多くの報告は、中国にいた日本の外交官から送られ、廣田はそれらを陸軍省に送った。その陸軍省では、梅津が次官であった。これらは連絡会談で討議された。その会議には、総理大臣、陸海軍大臣、外務大臣廣田、大蔵大臣賀屋、参謀総長及び軍令部総長が出席するのが通例であった。
残虐行為についての新聞報道は各地にひろまった。当時朝鮮総督として勤務していた南は、このような報道を新聞紙上で読んだことを認めている。このような不利な報道や、全世界の諸国で巻き起された世論の圧迫の結果として、日本政府は松井とその部下の将校約80名を召還したが、かれらを処罰する措置は何もとらなかった。1938年3月5日に日本に帰ってから、松井は内閣参議に任命され、1940年4月29日に、日本政府から中日戦争における『功労』によって叙勲(じょくん)された。松井はその召還を説明して、かれが畑と交代したのは、南京で自分の軍隊が残虐行為を犯したためでなく、自分の仕事が南京で終了したと考え、軍から隠退したいと思ったからであると述べている。かれは遂に処罰されなかった。
1938年2月5日に、新任の守備隊司令官天谷少将は、南京の日本大使官で外国の外交団に対して、南京おける日本人の残虐について報告を諸外国に送っていた外国人の態度をとがめ、またこれらの外国人が中国人に反日感情を扇動していると非難する声明を行った。この天谷の声明は、中国の人民に対して何物にも拘束されない膺懲戦を行うという日本の方針に敵意をもっていたところの、中国在住の外国人に対する日本軍部の態度を反映したものである。
極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪 極東国際軍事裁判所 編 1948年刊

「東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文」極東国際軍事裁判所 編 毎日新聞社1949年刊

ここでは最初に、第2次世界大戦の犠牲者推計(飢饉や病気の被害者含む)書いておく。次にR.ヴァイツゼッカードイツ連邦議会演説と日本国憲法前文を引用する。
特に日本国憲法制定については、当時の日本の政府、与野党、憲法学者のすべてが、「民主主義」の理念や本質を理解していなかったことが背景にはあったことは間違いない。民衆が国家を代表するような概念は、当時の日本にはまったくなかったのである。
●推計であっても、次のポイントは知っておかねばならないと思う。
①人口の比率から見ると「ポーランド」が最も多くの犠牲者を出した。560万人~580万人(全人口の15%以上)がドイツ軍に殺され、そのうちの1/3以上はユダヤ人だといわれる。
②ソ連邦が最大の犠牲者を出したといわれる。2660万人で全連邦人口の13%以上。
③ユダヤ人の犠牲者は、当時ヨーロッパ各国にいた900万人のユダヤ人のうち、500万人から600万人が犠牲となり、ナチスによる強制収容所でその多くが虐殺された。そして強制収容所ではロマ(ジプシー)、身体障害者・精神障害者、ソ連兵捕虜、スラブ人らも虐殺された。
④中国の日中戦争犠牲者(1937年-1945年)は、1985年の共産党政権発表(抗日勝利40周年)によれば軍民死亡者2100万人。1995年発表では、軍民死傷者数を3500万人とした。(飢餓・病気・餓死による死傷者も含まれるのであろう)
R.ヴァイツゼッカー1985/5/8ドイツ連邦議会演説(一部引用)
(前略)・・・暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。
歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪---これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜(ぼうとく)があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。
目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。
ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。何百万人もの死を心に刻むことは世界のユダヤ人一人一人の内面の一部なのでありますが、これはあのような恐怖を人びとが忘れることはできない、というだけの理由からではありません。心に刻むというのはユダヤの信仰の本質だからでもあるのです。
これはよく引用されるユダヤ人の金言でありますが、神への信仰とは歴史における神のみ業への信仰である、といおうとしているのでありましょう。心に刻むというのは、歴史における神のみ業を目のあたりに経験することであります。これこそが救いの信仰の源であります。この経験こそ希望を生み、救いの信仰、断ち裂かれたものが再び一体となることへの信仰、和解への信仰を生みだすのであります。神のみ業の経験を忘れる者は信仰を失います。もしわれわれの側が、かつて起こったことを心に刻む代りに忘れ去ろうとするようなことがあるなら、これは単に非人道的だというにとどまりません。生き延びたユダヤ人たちの信仰を傷つけ、和解の芽を摘みとってしまうことになるでありましょう。われわれ自身の内面に、智と情の記念碑が必要であります。
・・(中略)・・・(そして最後の部分)・・・われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は卒直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。人間は何をしかねないのか---これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。道徳に究極の完成はありえません!いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
ロシア人やアメリカ人、ユダヤ人やトルコ人、オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、黒人や白人
これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。
民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。
自由を尊重しよう。
平和のために尽力しよう。
公正をよりどころにしよう。
正義については内面の規範に従おう。
今日5月8日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。
●一方の日本では、GHQ(連合軍総司令部)の強力な指導により、民主主義憲法である「日本国憲法」を公布(1946年11/3)することができた。今なお押しつけ憲法であるとの論議が起こるのは、当時の日本の政府、与野党、憲法学者のすべてが、「民主主義」の理念や本質を理解していなかったことが背景にはあった。しかし日本国民は恒久の平和を念願し、この平和憲法を選んだ。そして日本国民はこの憲法前文のなかで、決意を込めて誓っている。その前文を下記に引用する。(出典)「世界は『憲法前文』をどう作っているか」中山太郎編 ティビーエス・ブリタニカ2001年刊
「日本国憲法前文」
日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
ドイツに対する「ニュルンベルク裁判」、日本に対する「極東国際軍事裁判(東京裁判)」が行われるなか、ベトナムでは「第1次インドシナ戦争」が、中国では「国共内戦」、インドではヒンドゥー勢力とムスリム連盟(イスラム教徒)との対立が激化、宗教戦争となる。
チャーチルの対ソ警戒演説、ソ連を「鉄のカーテン」と非難。スターリンの反論。「東西冷戦」の始まり。この大きな要因となったのはアメリカ・ルーズベルト大統領の急死であった。ここでは「ソヴェト社会主義共和国同盟憲法」、「ロシア憲法前文等」と「中華人民共和国の憲法前文」の一部を引用しておく。最後に「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(1972年)も引用した。
●第2次世界大戦終結後すぐにヨーロッパでは共産党が躍進し、特に東ヨーロッパ諸国では王政の廃止と共和国宣言が続いた。1946年3月にイギリス前首相チャーチルが、このソ連の東ヨーロッパの支配を憂慮し「鉄のカーテン」と非難して対ソ警戒を喚起した。内容は下記のようである。
と主張しアングロ・サクソンの団結を呼びかけた。
●これに対してソ連のスターリンは、次のように述べた。
と非難した。
●このような連合国内の対立が表面化した大きな理由は、アメリカ・ルーズベルト大統領が急死し、対ソ連協力路線が変更されたことが大きな要因とされる。ルーズベルト大統領は、アメリカ・イギリス・ソ連の密接な協力のみが、平和秩序の土台となると考えていたからである。チャーチルの後を継いだ労働党のアトリー内閣は、当初は労働党であるが故に、共産党のソ連との関係を楽観視していたが、まもなくソ連に対して猜疑心を抱くようになり、アメリカに同調するようになった。
●そして西側諸国のソ連に対する不安と脅威は、戦後1年をへずしてはっきりとソ連に対する対立となり、世界はアメリカ・イギリス対ソ連という構図で「東西冷戦」の時代を迎えていった。
●ここで、社会主義、共産主義国の政治理念に触れてみたい。まず下記にソ連邦と中華人民共和国憲法の前文を引用する。社会主義政治体制について少し理解を深めたい。ソ連邦が国家として消滅したということは、政治体制と経済体制が問題であったことはまちがいないだろう。しかし社会主義・共産主義の考えとはどうであったのであろうか。その理念の一端を知ることは重要なことである。現代風に簡単に言い変えれば、社会は労働者階級(雇用される者)と経営者階級(雇用する者)との対立(階級闘争)である。経営者は常に労働者を搾取し、生み出された付加価値は、常に経営者階級のものとなる。そのような不平等な格差を是正するために、全世界の労働者(プロレタリアート)は国家の枠を越えて団結して経営者階級(ブルジョワジー)に対峙していかねばならない、というもの。そしてそのための組織を、「インターナショナル」といった。第2次世界大戦後は「コミンフォルム」を結成し(大戦中は「コミンテルン」)、世界各国の共産党に対して指導的な役割を果たした。その最終目的は「共産主義革命」であり「世界革命」であった。
「ソヴェト社会主義共和国同盟憲法」1936年(出典)「人権宣言集」岩波書店1957年刊
第一条 ソヴェト社会主義共和国同盟は、労働者および農民の社会主義国家である。
第二条 ソ同盟の政治的基礎をなすものは、地主および資本家の権力を打倒し、プロレタリアート独裁を戦いとった結果として、成長しかつ堅固になった勤労者代議員ソヴェトである。
第三条 ソ同盟における全権力は、勤労者代議員ソヴェトによって代表される都市および農村の勤労者に属する。
第四条 ソ同盟の経済的基礎をなすものは、資本主義的経済制度の清算、生産用具および生産手段の私的所有の廃止、ならびに人による人の搾取の絶滅の結果確立した社会主義的経済制度ならびに生産用具および生産手段の社会主義的所有である。
第五条 ソ同盟における社会主義的所有は、国有の形態(全人民の財産)か、もしくは協同組合的=コルホーズ的所有の形態(個々のコルホーズ、協同組合の所有)をとる。
第六条 土地、地中の鉱物、水利、森林、工場、製造所、鉱坑、鉱山、鉄道、水上および空中輸送、銀行、通信手段、国営の大規模な農業企業(国営農場、機械トラクター・ステーションならびに都市および工業地における公営企業および主要な住宅施設は、すべて国有、すなわち全人民の財産である。
第七条 コルホーズおよび協同組合における共同企業とこれに付属する家畜と農具、コルホーズおよび協同組合によりて生産される生産物、ならびにこれらの共同の建物は、コルホーズおよび協同組合の公共的、社会主義的財産をなす。コルホーズの各農家は、農業アルテリ定款により、コルホーズ共同経営から基本的収入を得るほか、小区劃の農家付属地を個人的に使用し、かつその区劃内での副業経営、住宅、生産的家畜、家禽、小農具を、その個人所有とすることができる。
第八条 コルホーズの占用する土地は、無償かつ無期限の使用のため、すなわち永世的に、コルホーズに保障される。
第九条 ソ同盟における支配的経済形態である社会主義的経済制度とならんで、自分の労働にもとづき、かつ他人の労働の搾取を排除する個人経営の農民および手工業者の小規模の私的経営は、法の上で許される。
「ロシア憲法前文1993年」「ソビエト社会主義共和国連邦憲法前文」1977年
ソビエト連邦が消滅した後のロシア憲法前文(1993年)とソビエト社会主義共和国連邦憲法前文(1977年)をのせる。
(出典)「世界は『憲法前文』をどう作っているか」中山太郎編 ティビーエス・ブリタニカ2001年刊、「世界憲法集」岩波書店1983年刊
われわれ、ロシア連邦の多民族からなる国民は、自らの大地において共通の運命によって結びつけられ、人の権利および自由、普遍的平和および調和を尊重し、歴史的に形成された国家の統一を保持し、普遍的に認められている諸民族の同権と民族自決権を基礎にし、祖国への愛と尊重、善と公正への信頼をわれわれにつたえた祖先の栄光を追悼し、ロシアの主権国家を再興し、その民主的基礎を確固たるものとし、ロシアの安寧と繁栄のために努め、現在と未来の世代に対し、われわれが祖国に負うべき責任に基づき、世界共同体の構成員であることを自覚し、ロシア連邦憲法を制定する。
(参考)
ソビエト社会主義共和国連邦憲法(1977年)
ヴエ・イ・レーニンを先頭とする共産党の指導のもとにロシアの労働者と農民によって成し遂げられた大10月社会主義大革命は、資本家と地主の権力を打倒し、抑圧の鉄鎖を打ち砕き、プロレタリアートの独裁を樹立し、ソビエト国家、すなわち、革命の獲得物の防衛、社会主義と共産主義の建設の基本的道具である新しい型の国家、を創りだした。資本主義から社会主義への人類の世界史的転換がはじまった。
ソビエト権力は、国内戦で勝利をおさめ、帝国主義的干渉を撃退して、最も徹底的な社会的=経済的改造を実現し、人間による人間の搾取、階級対立と民族的軋轢に永久に終止符をうった。ソビエト諸共和国のソビエト連邦への結合は、社会主義建設における国の諸民族の力と可能性を増大した。生産手段の社会的所有、勤労大衆のための真の民主主義が確立された。人類史上はじめて、社会主義社会が創りだされた。
大祖国戦争で歴史的勝利をおさめたソビエト人民とその軍隊の不滅の偉業は、社会主義の力の鮮やかな顕現であった。この勝利は、ソ連邦の権威と国際的地位を強化し、全世界における社会主義、民族解放、民主主義および平和の勢力の成長にとって新しい、有利な可能性を切り拓いた。
ソビエト連邦の勤労者は、引き続きその創造的活動を展開することによって、国の急速で全面的な発展、社会主義体制のいっそうの完成化を保障した。労働者階級、コルホーズ農民および人民的インテリゲンチャの同盟、ソ連邦の諸民族および民族的諸集団の友好は強固になった。労働者階級がその主導力となっているソビエト社会の社会的、政治的ならびに思想的な統一が形成された。ソビエト国家は、プロレタリアートの独裁の諸課題を遂行しおえることによって、全人民国家となった。全人民の前衛としての共産党の指導的役割が高まった。
ソ連邦においては、すでに発達した社会主義社会が建設されている。社会主義がその固有の基礎の上に発展しつつあるこの段階では、新しい体制の創造力と社会主義的生活様式の優越性がますます全面的に明らかになり、勤労者は偉大な革命的獲得物の果実をますます広範に享受している。
それは、強力な生産諸力、先進的な科学と文化が創りだされている社会であり、人民の福祉がたえず増進し、人格の全面的な発達にとってますます有利な条件が形成されつつある社会である。
それは、すべての階級および社会的階層の接近、すべての民族および民族的集団の法律上および事実上の平等ならびに彼らの兄弟的協力にもとづいて、人びとの新しい歴史的共同体、すなわちソビエト人民が形成されるにいたっているところの、成熟した社会主義的社会関係の社会である。
それは、勤労者が高度の組織性、思想性、自覚をもち、愛国者でありまた国際主義者であるような社会である。
それは、一人ひとりの福祉について万人が配慮し、一人ひとりは万人の福祉について配慮することが生活のおきてとなっている社会である。
それは、真の民主主義の社会であって、この社会の政治制度は、すべての社会的な事項の効果的管理、国家生活への勤労者のますます積極的な参加、市民の現実的な権利および自由と彼らの社会に対する義務および責任との結合、を保障している。
発達した社会主義社会は、共産主義への道における合法則的な一段階である。
ソビエト国家の最高の目的は、共産主義的な社会的自治が発展をとげる無階級共産主義社会の建設である。社会主義的全人民国家の主要な課題は、共産主義の物質的・技術的土台を創りだすこと、社会主義的社会関係をより完全なものにし、これを共産主義的社会関係に造りかえること、共産主義社会の人間を育成すること、勤労者の物質的および文化的生活水準を高めること、国の安全を保障すること、平和の強化と国際協力の発展を促進すること、である。
ソビエト人民は、科学的共産主義の理念に導かれ、自らの革命的伝統を忠実に守り、社会主義の偉大な社会的=経済的および政治的獲得物に依拠し、 社会主義的民主主義のいっそうの発展につとめ、
社会主義の世界体系の構成部分としてのソ連邦の国際的地位を考慮し、自らの国際主義的責任を自覚しながら、1918年の最初のソビエト憲法、1924年のソ連邦憲法および1936年のソ連邦憲法の理念と原則を継承して、
ここに、ソ連邦の社会体制および政治の基本原則を認証し、市民の権利、自由および義務ならびに社会主義的全人民国家の組織原則および目的を確定し、本憲法においてこれを宣言する。
「中華人民共和国の憲法前文」
※中華人民共和国憲法(1982年制定。1988年、1993年、1999年改正)
「中華人民共和国の憲法」の前文にある、「孫中山先生」は「孫文」のことで辛亥革命をおこした中国革命の父であり、国父であり、近代革命の先人である。
(出典)「世界は『憲法前文』をどう作っているか」中山太郎編 ティビーエス・ブリタニカ2001年刊
中華人民共和国憲法(1982年制定。1988年、1993年、1999年改正)
中国は、世界でも最もふるい歴史をもつ国家の一つである。中国の各民族人民は、輝かしい文化を共同でつくりあげており、栄えある革命的伝統をもっている。
1840年以来、封建的な中国は、しだいに半植民地・半封建の国家に変わった。中国人民は、国家の独立、民族の解放、民主と自由のために、つぎつぎと先人の屍を乗りこえて、英雄的な奮闘を続けてきた。
20世紀に入って、中国には、天地を覆すような偉大な歴史的変革が起こった。
1911年、孫中山先生の指導する辛亥革命は、封建帝制を廃止し、中華民国を創立した。しかし、中国人民の帝国主義と封建主義に反対する歴史的任務は、まだ達成されなかった。
1949年、毛沢東主席を領袖とする中国共産党の指導のもとに、中国の各民族人民は、長期にわたる困難で曲折にとむ武装闘争とその他の形態の闘争を経て、ついに帝国主義、封建主義および官僚資本主義の支配を覆して、新民主主義革命の偉大な勝利を収め、中華人民共和国を樹立した。それ以来、中国人民は国家の権力を掌握し、国家の主人公になった。
中華人民共和国の成立以後、わが国の社会は、新民主主義から社会主義への移行を逐次実現してきた。生産手段私有制の社会主義改造は達成され、人が人を搾取する制度は消滅して、社会主義制度が確立した。労働者階級の指導する、労農同盟を基礎とした人民民主主義独裁、すなわち実質上のプロレタリアート独裁は、強固になり、発展した。中国人民と中国人民解放軍は、帝国主義、覇権主義の侵略、破壊と武力挑発に打ち勝ち、国家の独立と安全を守り、国防を強化した。経済建設では、大きな成果を収め、独立した、比較的整った社会主義の工業体系が基本的に形成され、農業生産も著しく高められた。教育、科学、文化などの事業は、大きな発展をとげ、社会主義の思想教育は、顕著な成果を収めた。広範な人民の生活は、かなり改善された。
中国における新民主主義革命の勝利と社会主義事業の成果は、すべて中国の各民族人民が中国共産党の指導のもとに、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想に導かれて、真理を堅持し、誤りを是正し、多くの困難と障害に打ち勝って獲得したものである。わが国は長期にわたり社会主義の初級段階に置かれるであろう。国家の根本的任務は、中国の特色ある社会主義を建設する道に沿って、全力をあげて社会主義現代化建設を進めることである。中国の各民族人民は引き続き中国共産党の指導のもとに、マルクスーレーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論に導かれて、人民民主主義独裁を堅持し、社会主義の道を堅持し、改革、開放を堅持し、社会主義の諸制度を絶えず改善し、社会主義市場経済を発展させ、社会主義の民主を発展させ、社会主義の法秩序を健全化し、自力更生、刻苦奮闘に努めて、工業、農業、国防および科学技術の現代化を逐次実現し、わが国を富強、民主、文明をそなえた社会主義国家に築き上げていくであろう。
わが国では、搾取階級は、階級としてはすでに消滅したが、階級闘争はまだ一定の範囲内で長期にわたり存在する。中国人民は、わが国の社会主義制度を敵視し破壊する国内外の敵対勢力および敵対分子と闘争しなければならない。
台湾は、中華人民共和国の神聖な領土の一部である。祖国統一の大業を成し遂げることは、台湾の同胞を含む全中国人民の神聖な責務である。
社会主義の建設事業は、労働者、農民および知識分子に依拠し、結集できるすべての力を結集しなければならない。長期にわたる革命と建設の過程で、中国共産党が指導し、各民主党派と各人民団体の参加する、社会主義的勤労者、社会主義を支持する愛国者、祖国の統一を支持する愛国者のすべてを含む広範な愛国統一戦線が、すでに結成されている。この統一戦線は、引き続き強固となり、発展するであろう。中国人民政治協商会議は、広範な代表性をもつ統一戦線の組織であり、これまで重要な歴史的役割を果たしてきたが、今後、国家の政治生活、社会生活および対外友好活動において、また社会主義的現代化の建設を進め、国家の統一と団結を守る闘いの過程において、さらに重要な役割を果たすであろう。
中国共産党の指導する多党協力および政治協商制度は長期にわたって存在し、発展するであろう。
中華人民共和国は、全国の各民族人民が共同でつくりあげた統一した多民族国家である。
平等、団結、相互援助の社会主義的民族関係はすでに確立しており、引き続き強化されるであろう。民族の団結を守る闘争のなかでは、大民族主義、とりわけ大漢族主義に反対し、また地方民族主義にも反対しなければならない。国家は全力をあげて、全国各民族の共同の繁栄を促進する。
中国の革命と建設の成果は、世界人民の支持と切り離すことができない。中国の前途は、世界の前途と緊密につながっている。中国は、独立自主の対外政策を堅持し、主権と領土保全の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存という五原則を堅持して、各国との外交関係と経済・文化交流を発展させる。反帝国主義、反覇権主義および反植民地主義を堅持し、世界各国人民との団結を強化し、被抑圧民族および発展途上国の民族独立の獲得と確保、民族経済発展のための正義の闘争を支持して、世界平和の擁護と人類の進歩的事業の促進のために努力する。
この憲法は、中国各民族人民の奮闘の成果を法の形式で確認し、国家の根本制度と根本任務を定めたものであり、国家の根本法であり、最高の法的効力をもつ。全国の各民族人民、すべての国家機関と武装力、各政党と各社会団体、各企業・事業体は、いずれも憲法を活動の根本準則とし、かつ憲法の尊厳を守り、憲法の実施を保証する責務を負わなければならない。
●次に田中角栄首相の時代に初めて中国と国交を結んだ際の共同声明を紹介する。自由主義・社会主義・共産主義とかいう体制の違いを超越したものである。1972年9月29日に日本の田中角栄内閣総理大臣と中華人民共和国の周恩来国務院総理は共同声明を行い、日本は中華人民共和国建国(1949年)以来初めて国交を結んだ。この中で注目すべき一つは、第5条『中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。』である。一方的に侵略され大きな民族犠牲を払ったにもかかわらず、中国の日本に対する態度は、悠久の歴史を持ち「ファシズム」に勝ち抜いた中国の誇りと正義と品格を感じさせるものである。
日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(出典:外務省)
日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、千九百七十二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。
毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。
田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終始、友好的な雰囲気のなかで真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。
日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう。
日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。
日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。
一・日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。
二・日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
三・中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。
四・日本国政府及び中華人民共和国政府は、千九百七十二年九月二十九日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。
五・中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
六・日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。
両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
七・日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。
八・日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
九・日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業等の事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
千九百七十二年九月二十九日に北京で
日本国内閣総理大臣 田中角栄(署名)
日本国外務大臣 大平正芳(署名)
中華人民共和国国務院総理 周恩来(署名)
中華人民共和国 外交部長 姫鵬飛(署名)
●第2次世界大戦が終わったからといって戦争がなくなったわけではなかった。超大国(ソ連とアメリカ)の「東西冷戦」の時代をむかえる。アジアにおいても「朝鮮戦争」「インドシナ戦争・ベトナム戦争」で国土は壊滅、荒廃させられ無数の市民が殺された。
(西)経済協力機構(OEEC)対(東)経済相互援助会議COMECON(コメコン)。1947年8/15インド・パキスタンが分離独立した。
年・月 | 1947/1/1~ | |
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1947年1/1 | (イギリス)アトリ―労働党内閣が、社会主義化5か年計画に基づき、炭鉱と通信の国有化が実施される。 | |
1947年1/16 | (フランス)第4共和政、初の大統領に社会主義者のヴァンサン・オリオール(63)が就任した。1/28日には社会・共産・人民共和派連立ラマンディエ内閣が成立する。 | |
1947年1/22 | (インド)インド制憲議会が、独立宣言の決議案を可決する。しかしムスリム(イスラム教徒)連盟が承認せず、国民会議派と衝突が起きる。 | |
1947年1/24 | (ギリシャ)立憲君主制のデメトリオス・マクシモス内閣が成立する。 | |
1947年1/28 | (ロンドン)イギリスとビルマ(現ミャンマー)がビルマ独立協定を結ぶ。アトリー・アウンサン協定。(アウンサン=独立運動家・ビルマ建国の父、アウンサンスーチー氏は長女) | |
1947年2/10 | (パリ)第2次世界大戦の講和条約が、戦勝国21カ国とイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドの5カ国が調印した。(ドイツ、オーストリア、日本との講和条約は先送りされた。)この5カ国は、賠償金の支払い、軍備の制限を受け、イタリアはアフリカ植民地の放棄と領土の割譲を受けた。 | |
1947年3/10 | (モスクワ)アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の外相が、対ドイツ・オーストリア講和問題をめぐる会議を行う。 | |
1947年3/12 | (アメリカ)トルーマン大統領、ギリシャ・トルコの共産化防止のため両国への経済・軍事支援を提案する。「トルーマン・ドクトリン」 | |
「トルーマン・ドクトリン」1947年3月
●このきっかけとなったのは、イギリスがアメリカに対して、自国の財政危機を理由にギリシャとトルコに対する軍事援助の肩代わりを求めたことによる。イギリスは第2次世界大戦で大きな打撃を受けており、これ以上の援助は不可能になっていた。アメリカは、イギリス軍の撤退後、ギリシャとトルコがソ連の勢力下なることを恐れ、すぐに要請を受けた。ここにアメリカの外交政策は、ヨーロッパと距離を置く伝統的な「孤立主義」への回帰(1945年の時点)から大きく変換することになった。トルーマンは次のように宣言した。 「内外からの全体主義の圧迫に対抗して、その独立、民主的制度、人間の自由を保持しようとしている自由な諸国民は、だれよりも優先的にアメリカの援助を受けることになろう」
これが「トルーマン・ドクトリン」であり「自由主義世界」と「共産主義世界」との対立の始まりである。具体的には6/5、経済復興のための「マーシャル・プラン」が発表された。 |
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「マーシャル・プラン」1947年6月
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年・月 | 1947/1/1~ | |
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「黄金のエルサレム」
●最初に1967年イスラエルの歌謡コンクールで優勝した「黄金のエルサレム(ナオミ・シュメル作詞・作曲)」(最初の部分)を紹介する。イスラエルのユダヤ人がエルサレム旧市街への熱い思いを歌った曲である。逆にアラブ人からすればどのように感じるのであろうか。下段でyoutubeにリンクした。 「黄金のエルサレム」
(Jerusalem of Gold – Yerushalayim shel Zahav -Ofra Haza- with English Lyrics)
*リンクします「黄金のエルサレム」(YouTube Yael Lavieより) |
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![]() (地図)「世界のシーア派」(出典:『地図で読む世界情勢第2部』河出書房新社2009年刊) |
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紀元前2000年代 |
エルサレム
●エルサレムには、カナーン人と総称されるセム系の人々の小さな都市国家ができていたらしい。その族長の1人「シャレム」の名から「シャレムの町」(イェルシャライム)の名が生まれたという説や、ユダヤ人の言語のヘブライ語で「シャロム」が「平和」を意味するところから、「平和の町」と命名されたという説もある。また同じセム系の言語であるアラビア語でも「エル・サレム」は「平和」という意味であるという。 |
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紀元前1000年頃 | ●ユダヤ人の武将であったダビデは、非セム系の海洋民族であるペリシテ人との戦いに勝ち、エルサレムを征服して都を移した(ダビデの都ともいわれる)。旧約聖書によれば、この時代よりはるかな昔、アブラハムはメソポタミア(イラク)のウルから、一族を従えてカナーン(パレスティナ)に移り来て、唯一神よりこの地を約束されたとされる。 ●ダビデは、アブラハムがモリア山に設けた神への祭壇が、このエルサレムであるとし、仮の祭壇をこの地に設けた。そしてダビデの末子のソロモンは、王位を継ぐと本格的な神殿を建築した。イスラエルは「ソロモンの栄華」といわれるほど繁栄した。しかしソロモンの死後、イスラエル(北部)とユダ(南部)に分裂し、エルサレムはユダ王国の都となった。 |
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紀元前6世紀 | ●前586年ユダ王国は、新バビロニア王国(イラク)のネブカドネザルに征服され、エルサレムの神殿(ソロモン王の神殿=第1神殿)は破壊され多くのユダヤ人が捕虜としてバビロンに連れ去られ、ユダ王国は滅亡した(バビロン捕囚=前586年~前538年)。 ●しかしその新バビロニア王国もペルシャ帝国(イラン)のクロス(キロス)に前538年に滅ばされた。ペルシャはオリエントを統一し、バビロンの捕囚の全ての民を故国へ返した。ユダヤ人達も帰ることができたが、荒廃した故国再生とユダヤ民族再生のために、その中心である神殿(第2神殿)を22年の歳月をかけて再建した。 |
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紀元前1世紀頃 | ●ローマ帝国の時代、ヘロデ王はローマの支配を受けながら(属領地)、ローマとの協調関係を築き、ユダヤの王(紀元前40年)となった。ヘロデ王は残忍な独裁者であったという評価もあり複雑ではあるが、一方では10年の歳月をかけて荒廃した第2神殿の大規模改築なども行っている。そしてこの時代にイエス・キリストは生まれた。 | |
紀元1世紀頃 |
イエス・キリスト
●ヘロデ王の死後(紀元前4年)、ユダヤ人たちのローマ帝国に対する反乱(独立運動)が起こってきた。イエス・キリストの教えと数々の奇跡は、ユダヤとローマの対立する構図の中で行われ、イエス・キリストはユダヤの法廷では反逆者とされ、ローマ総督ピラトの法廷では危険分子とされ、十字架にかけられ処刑された。紀元30年頃とされる。 |
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紀元66年 |
嘆きの壁
●ついに第1次ユダヤ反乱(対ローマ)が起こった。抗戦は4年に及んだが、紀元70年についにエルサレムは陥落し、第2神殿は徹底して破壊された。今も残る「嘆きの壁」は、ヘロデ王が第2神殿大規模改築の際に作られた、西側の土台の石垣である。山本七平「日本人とユダヤ人」には次のようにある。 「・・そしてこの壁に来たときわれわれは、もっとひどい苦難の中にこの神殿を再建した祖先の不屈の精神を思い起こすのである。そして、民が心を一つにして再建にかかった時、それが立派にできあがったことに思いを致し、いつの日か、ここに再び祖国を築き上げることを、常に心に誓いつづけて来た壁なのである。・・」
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2世紀 | ●そして136年、第2次ユダヤ反乱が起こった。ユダヤはこれも圧倒的なローマ軍により、徹底的に制圧された。そしてこの結果パレスティナはアエリナ・カピトリナと改名され、海外居住のユダヤ人の帰国は禁止された。そしてローマ帝国によるユダヤ教徒とキリスト教徒への過酷な迫害が始まった。 | |
4世紀 |
ビザンティウム・コンスタンティノープル
●ディオクレティアヌス皇帝(3世紀末)は、専制的な支配体制によって国家の安定を図るため、4人の皇帝を置く分割統治体制をしいた。つづくコンスタンティヌス1世は、キリスト教に改宗し、宗教的基盤強化のためキリスト教を公認した。そして首都をビザンティウム(=コンスタンティノープル=イスタンブ-ル)に移した。これが東ローマ帝国でありローマ帝国の繁栄は東に移っていった。 |
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7世紀 イスラム興る |
ムハンマド、アッラーの啓示を受け、イスラム教を創始
●アラビアのメッカで生まれたムハンマドは、アッラーの啓示を受け予言者として、「唯一神の信仰」「偶像崇拝の排斥」「人間の平等」のイスラム教を創始した。630年にメッカを征服し、メッカをイスラム教の第1の聖地と定めた。第2の聖地はメディナで、迫害を逃れた場所である。そして第3の聖地がエルサレムである。 |
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7世紀~8世紀 | ●ユダヤ教徒たちは、キリスト教徒による迫害をうらみ、617年のササン朝ペルシャのエルサレム侵攻にも歓迎して協力した。そして正統カリフ時代のイスラムの侵攻(638年)にも協力して従軍した。こうしてエルサレムはイスラム帝国に支配されていった。ウマイヤ朝は都をダマスカスに置いたため、エルサレムは都市として発展しイスラム教徒の巡礼が盛んに訪れた。 | |
750年 アッバス朝ウマイヤ朝を倒す。 |
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11世紀 ファーティマ朝 |
●11世紀の初め、エジプトのカイロを都にしていたファーティマ朝(シーア派)が、エルサレムを支配下に納めると、異教徒への迫害を始めた。エルサレムの聖墳墓教会(キリスト教)をはじめユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)が破壊された。このキリスト教徒の迫害が十字軍遠征につながり、またキリスト教徒迫害をユダヤ人がそそのかしたとの風評が広がり、ヨーロッパでのユダヤ人迫害を起こした。 | |
11世紀 セルジューク朝 |
セルジューク朝建国
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11世紀 十字軍 |
第1回十字軍
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12世紀 アイユーブ朝 |
アイユーブ朝を創始
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13世紀 第4回十字軍 |
ラテン王国樹立
●第4回十字軍(1204年)は、調達金不足のため、ヴェネティア(ヴェニス)商人に、敵対的なザマを攻撃することを要求され実行。怒ったローマ教皇インノセントは十字軍を破門した。破門された十字軍はエジプトに向かわず、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻撃、陥落させ、ラテン王国を樹立した。 |
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13世紀 モンゴル大遠征 |
モンゴル大遠征開始
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13世紀 第6回十字軍 |
●1229年無血十字軍がエルサレムを支配する。神聖ローマ皇帝とアイユーブ朝が協定を結んで和解する。 | |
13世紀 ホラズム傭兵隊 |
●1244年アイユーブ朝の支援を受けたホラズム傭兵隊が、エルサレムを陥落させる。ここにキリスト教の支配が最終的に終わる。 | |
13世紀 マムルーク朝 |
マムルーク朝成立
●1250年エジプト、マムルーク軍のクーデターによりアイユーブ朝のスルタンが殺害され、マムルーク朝が成立する。シリアに残ったアイユーブ朝とエジプト・マムルーク朝の政情不安は10年間続いた。しかしマムルーク朝は支配をシリアまで広げ、エルサレムはマムルーク朝に支配される。 |
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13世紀 モンゴル・フラグ |
フラグ、アッバス朝を滅ぼす
●チンギス・ハーンの孫のフラグは、イランに留まり、勢力を拡大していた。そして1258年バクダードに侵入してアッバス朝を滅ぼした。この時80万人~200万人が虐殺されたといわれる。この時カリフを失ったアッバス朝の血縁者たちは、エジプト・シリアを支配するマムルーク朝に亡命した。そしてフラグはこの後、アジェルバイジャンのタブリズを首都を定め、イル・ハン国を建てた。フラグは1265年に死んだが、1335年フラグの血統が絶えると後継者争いが起き国家としての実態を失っていく。そしてイル・ハン国とマムルーク朝は、シリアをめぐる覇権争いを14世紀後半まで続けた。 |
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13世紀 アッカー陥落 |
十字軍拠点アッカー陥落
●マムルーク朝、十字軍の最後の拠点アッカー(アッコン)を奪還する。アッカーは1187年以来ラテン王国の首都だった。アッカーの陥落により十字軍側は総崩れになり、残る十字軍の拠点であるスール、サイダー、ベイルート、ハイファーも陥落した。こうして200年近く存在した十字軍国家は、シリア地域から消滅した。 |
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13世紀 オスマン朝創設 |
オスマン朝創設
●西北アナトリアの君侯(ベイ)オスマンが、オスマン朝を創設した。オスマン家はオスマンの祖父の代に、ルーム・セルジューク朝の支配下のアナトリアに進出したといわれる。父のエルトゥグルルは、ガージー(イスラム聖戦戦士)として、ビザンティン帝国のキリスト教徒領主たちと戦い領地を広げていた。息子のオスマンは、モンゴルの侵入により衰退してきたルーム・セルジューク朝黙認のもとに、オスマン朝を創設した。 |
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14世紀 |
モンゴル帝国4つに分裂
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15世紀 アンカラの戦い |
ティムール、オスマン朝軍を破る
●ティムールは、シリア、小アジアに侵攻し、オスマン朝軍と衝突した。そしてアンカラの戦い(1402年)で大勝し、オスマン朝スルタン・バヤズイット1世を捕虜(ティムール軍中央アジアに帰還途上に死亡)とした。これによりオスマン朝は帝国の分裂と危機に陥り、スルタン・メフメト1世が再統合を開始するまで、10年間の空位時代となる。しかし1405年ティムールが急死したため、オスマン朝を含め西アジアの各王朝は立ち直っていった。 |
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15世紀 コンスタンティノープル陥落 |
ビザンティン帝国滅亡
●1453年ビザンティン帝国1000年の歴史が終わる。オスマン朝スルタン・メフメト2世は、約2ヶ月間の包囲戦の末コンスタンティノープルを落とし、帝国皇帝コンスタンティノス11世は討ち死にした。そしてオスマン朝の首都をコンスタンティノープルに移し、イスタンブルと改名した。 |
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16世紀 マムルーク朝に勝利 |
オスマン朝、地中海世界を支配する
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19世紀 | (セルビア人蜂起、ギリシャ独立、エジプトトルコ戦争、スエズ運河) ●19世紀になるとオスマン帝国は、列強諸国からの侵略と帝国内での各民族による独立運動により衰退してきた。1804年セルビア人の第1次蜂起がおこり、エジプトでは、1805年ムハンマド・アリーが総督についたことで、エジプトはヨーロッパ文明の導入と近代化を進め始めた。 ●また1821年にはギリシャ独立戦争が起こった。この戦争では、ロシアがギリシャを援助したことにより、これを危惧したイギリスとフランスが介入し、オスマン帝国はギリシャの自治国化を認めた。しかし1830年最終的にイギリスは、ギリシャを3国の保護下に置いての独立をオスマン帝国に認めさせた。 ●1831年エジプトのムハンマド・アリーは、オスマン帝国に対して第1次エジプト・トルコ戦争を起こした。エジプト軍はシリアに侵攻しダマスクスも占領し、さらにアナトリア地方に進軍しオスマン・トルコ軍を撃破した。エルサレムは1831年から9年間エジプトに支配された。しかしオスマントルコは列強の支援を受け、第2次エジプト・トルコ戦争でエジプトがイギリスに大敗したため、ロンドン会議(1840年)でシリアなどの返還を受け、再度エルサレムを支配することとなった。ムハンマド・アリーはオスマン帝国の宗主権の下でのエジプトの世襲的藩王(副王)の地位を得た。 ●その後エジプトでは1869年、フランス人レセップスがスエズ運河を7年の歳月をかけて開通させた。これによりヨーロッパとアジアの航路は50%近く短縮された。レセップスはエジプトの藩王(ムハンマド・アリーの孫)より特許状を受け「国際スエズ運河株式会社」を創設し、50%以上の株式をフランス人が持ち、44%を藩王が所有した。しかしイギリスはフランスに脅威をおぼえ、その藩王の持つ株式を買い取り、結果スエズ運河はフランスとイギリスの物となってしまう。さらにその後エジプトが財政破綻すると、イギリスはそれに乗じて「エジプト債務管理委員会」を主宰し、エジプトの財政と経済を支配した。そうしたなかエジプトに民族主義的排外運動が起きると、イギリスはフランスを出し抜いて武力鎮圧を行い、スエズ運河地帯を占領し、第1次大戦中にエジプトを保護国とした。 |
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19世紀 露土戦争 |
オスマン帝国ロシアに敗れる
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19世紀 シオニズム |
シオニズム
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20世紀 第1次世界大戦前後 |
青年トルコ
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第1次・第2次バルカン戦争 |
バルカン戦争
●1912年、ブルガニア・セルビア・ギリシャ・モンテネグロが、ロシアの支持のもとバルカン同盟を結び、オスマン帝国に対して戦争を起こした。そしてロンドン条約の結果、オスマン帝国はバルカン半島の大部分の領土を失った。 |
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第1次世界大戦 1914年7月~1918年11月。1919年ヴェルサイユ条約で講和成立。 |
第1次世界大戦
●1914年三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)との対立を背景に、サラエヴォ事件を導火線として、7月オーストリアがセルビアに宣戦して世界大戦が勃発し、トルコは8月ドイツと同盟を結んだ。当初イギリス、フランス、ロシアはトルコに中立を要求して、報償として独立・領土保全などを保証したが、エンヴェルは動かなかった。イギリスは、インド兵のヨーロッパ移送の際のスエズ運河通過の問題、ロシアはトルコ方面への兵力の分散などに問題があったためである。 |
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1915年ガリポリ(ゲリボル)上陸作戦失敗。 | ●英仏連合軍が、ダーダネルス海峡突破作戦で、ガリポリ半島上陸作戦に失敗し、イギリス連邦に属する兵士の死傷者だけで21万4千人にのぼった。この責任をとりイギリスの海軍大臣ウィンストン・チャーチルは辞任した。このときのオスマン軍司令官ムスタファ・ケマルは、この勝利に決定的な役割を果たし、「首都の救い主」とたたえられた。しかしエンヴェルは彼をねたみ、1816年もっと困難なカフカス(コーカサス)戦線へ彼をまわした。 | |
1915~16年フサイン・マクマホン協定 |
フサイン・マクマホン協定
●イギリスはオスマン帝国打倒のため、ヒジャーズ(サウジアラビア西部で、聖地メッカや聖地メディナを含む)の名家(予言者ムハンマドの血を引くとされる)ハーシム家のフサインを利用しようと考えた。オスマン帝国は「青年トルコ」革命以後、中央集権とトルコ民族主義に傾いていたため、帝国内の非トルコ人、特にアラブ人は、反オスマンとしてフサインを中心に結束していた。 |
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アラビアのロレンス |
アラビアのロレンス
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『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia)1962年
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1916年サイクス・ピコ協定 「3つの分割秘密協定」による西アジア |
サイクス・ピコ協定
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アラブの反乱 |
アラブの反乱
●反乱は、1916年6月にメディナのオスマン軍の守備隊への攻撃から始まり、10月までにジッダ、メッカ、ターイフなどの都市を制圧した。そして10月29日フサインはメッカで、「アラブ民族の王」として即位を宣言して、ヒジャーズ王国を建てた。イギリス、フランス、ロシアもこの国を承認した。そして翌1917年7月に、フサインの子ファイサル率いるアラブ軍は、要衝アカバを攻略した。そしてイギリス軍と協力してシリアへ進軍し、1918年10月ダマスクスを攻略して、オスマン帝国からアラブ民族を解放した。エルサレムは、イギリスのエジプト遠征軍司令官エドムンド・アレンビーがオスマン軍と戦い1917年占領した。アレンビーがエルサレムに入ったとき、ユダヤ人社会から熱烈に迎えられたという。 |
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アメリカの参戦と「バルフォア宣言」 |
バルフォア宣言
●1917年4月、これまで中立を保持してきたアメリカは、ドイツ潜水艦(Uボート)による無差別攻撃を受け、ウイルソン大統領が「世界の民主主義を救え!」と下院で訴えて承認され、ついに参戦した。ウイルソン大統領の参戦の基本方針のひとつに、オスマン帝国内に住む非トルコ人の「発展の機会が決して阻害されないこと」を望むとの表明があった。 |
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1917年~1918年第1次世界大戦終結まで | ●1917年3月、ロシア2月革命、ロマノフ王朝300年の歴史に幕。皇帝ニコライ2世退位。 ●1917年11月、ロシア10月革命、ソヴィエト政権樹立を宣言。ソビエト会議は、平和に関する布告で「民主的平和の原則と交戦国と即時無併合無賠償の講和締結」を提唱した。 ●1918年1月アメリカ・ウイルソン大統領、平和の回復のための戦後の講和条件「14か条」を議会で発表。「敗戦国に対する寛大な戦後処理、秘密外交の排除、公海の自由、通商障壁の撤廃、軍縮、民族自決、国際連盟結成」などを提唱した。 ●1918年1月、全ロシア・ソヴィエト大会が、「ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国」成立を宣言。 ●1918年3月、ソヴィエト政府が、ドイツ側4か国(ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国)と単独講和を行う。屈辱的な講和にもかかわらず、ソヴィエトは第1次世界大戦から離脱した。ソヴィエト社会主義共和国は、民族自決の原則により、帝国主義戦争そのものを否認した。だから帝国主義による秘密条約「サイクス・ピコ協定」も公表したわけである。民族自決は社会主義運動の重要なスローガンだった。 ●1918年6月、ソヴィエト政権は、徴兵制をしき赤軍を強化する。国内の反革命勢力との内戦と、英仏を中心による武力干渉によるものであった。 ●1918年8月、ロシア革命阻止のため、日本軍「シベリア出兵(軍事干渉)」を開始する。アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・カナダ・中国の部隊が続いた。日本は協定の12000人をはるかに超す73000人を送った。 ●1918年11月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、革命により退位した。オーストリア=ハンガリー皇帝カール1世も、すべての権力を放棄し、ここにハプスブルク家帝国が崩壊した。 ●1918年11月、ドイツ、連合国と屈辱の休戦協定を結ぶ。ここに第1次世界大戦は終結した。そして1919年6月ヴェルサイユ講和条約が調印された。 |
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1919年 |
ファイサル、パリ講和会議
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1918年7月 | ●オスマン帝国の第35代スルタン・メフメト5世が病没し、メフメト6世がスルタンを継承し、青年トルコのエンヴェル・パシャを罷免した。そして10月、オスマン帝国は連合国と休戦協定(ムドロス休戦協定)を結んだ。オスマン帝国は武装解除され、連合国の進駐始まる。 ●1919年5月には、ギリシャ軍がパリ講和会議決定事項履行を口実に、オスマン帝国のイズミル(スミルナ)に上陸し占領する。 ●そして1920年8月のセーブル条約で、オスマン帝国は連合国(イギリス・フランス・イタリア)へ領土を割譲し、治外法権を認めた。これによりオスマン帝国は、植民地に等しい状態となった。 |
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1920年4月トルコ | ●トルコ大国民議会がムスタファ・ケマルを議長に選出し、革命政権の樹立を宣言する (アンカラ政府の樹立 )。 | |
1920年7月シリア |
フランス、シリアとレバノンを委任統治する
●フランス軍がダマスクスを占領する。3日後、シリア王国のファイサル国王を追放して委任統治を開始する。 |
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1921年 2月21日イラン |
イラン、レザー・ハーン無血クーデター
●陸軍大佐レザー・ハーンがコサック隊をひきいてテヘランに進軍、無血クーデターに成功する。このクーデターは、革命ソビエトの封じ込めのため、イギリスが後押しをしたものだった。しかし革命政権は、イギリスの思惑を裏切り、ソビエト政権と友好条約を締結してしまった。そこで保守的な政治家たちは反撃を開始し、革命政権の宰相は地位を追われてしまう。その後レザー・ハーンはさらに権力を集め、改革を進めて独占的権力を握り、シャー(国王)となっていった。 |
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1921年 3月30日エルサレム |
アラブ地域の戦後処理確定
●第1次大戦に敗れたオスマン帝国の支配下にあったアラブ地域の戦後処理が確定する。 |
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1922年2月エジプト |
エジプト独立宣言
●イギリスが保護権を放棄し、エジプトが独立を宣言、エジプト王国が成立する。 |
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1922年9月トルコ |
オスマン帝国滅亡
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ムスタファ・ケマル |
ムスタファ・ケマル
(写真と文引用) |
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1923年5月ヨルダン |
トランス・ヨルダン首長国成立
●イギリスの委任統治領トランス・ヨルダン首長国(ハーシム家アブド・アッラー首長)が成立する。この地は、もともとパレスティナの地で、歴史上、国家として成立したことがない地域だった。しかも住民の半分が遊牧民という、第1次大戦後に成立した中でも、最も「不自然な国家」の誕生となった。主要な産業がないこの国は、財政的にイギリスの援助を受け、軍事、外交もその管理下に置かれる。その後、憲法の制定、軍隊政府などが進み、1946年には独立をかちとるが、のちにパレスティナ問題で深刻な影響をこうむることになる。 |
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1923年10月 29日トルコ |
トルコ共和国成立
●トルコ共和国が成立し、ムスタファ・ケマルが初代大統領に選出される。 |
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1924年10月サウジアラビア |
サウジアラビア王国建国
●サウード家のアブド・アル・アジーズ率いる軍隊が、ヒジャーズ王国支配下の聖地メッカを占領した。第1次大戦後、アラビア半島では、その領有をめぐってヒジャーズ王国のフサインとサウード家が、激しく対立してきた。だがハーシム家のフサインが預言者ムハンマドの子孫で、聖地メッカ、メディナを支配していることから、アブド・アル・アジーズは攻撃の機会を待っていた。 |
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1929年4月エジプト |
エジプト、ムスリム同胞団結成
●ハサン・アル・バンナーが秘密組織「ムスリム同胞団」を結成、イスラムの徹底化を主張する。彼は、丘の上の広壮な外国人邸宅と下に広がるエジプト人労働者の家を見て、この組織の結成を思い立ったという。エジプトは7年前、イギリスからの独立を宣言。国王ファード1世は、以来 3回にわたって憲法を停止するなど反動的な統治を続けており、国民の反発は高まっていた。当初「ムスリム同胞団」一種の主教団体だったが、間もなく大衆の支持を得て、コーランを憲法としてイスラム国家建設を目指す社会運動団体に発展する。特に1930年から40年代にかけて、都市の労働者、商人、学生に広まり、一大勢力となる。 |
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1929年8月エルサレム | ●正午過ぎ、エルサレムの旧市街で棒などで武装したアラブ人群衆とユダヤ人が衝突、流血の騒ぎが起こった。1920年にイギリスがパレスティナを委任統治下において以降、ユダヤ人移住が進められアラブ人は圧迫感を募らせていた。さらにイスラム教徒とユダヤ教徒が、共通の聖地エルサレムでの礼拝を巡り対立。8日前にはユダヤ人の大群衆が、嘆きの壁でシオニズム推進を叫び関係は緊迫化、この衝突となった。この事件はすぐにパレスティナ全土に拡大し、イギリス委任統治政府は官憲を動員して動乱を鎮める。だが10日間におよぶ衝突で、アラブ側は死者87人と負傷者181人、ユダヤ側は死者133人と負傷者339人を出し、対立はいっそう深まる。 | |
1930年4月パレスティナ |
アラブ人ユダヤ人移民問題でゼネスト
●パレスティナ・アラブがゼネストを宣言。ユダヤ人移民問題が火種となる。この日結成されたアラブ高等委員会は、イギリス委任統治政府に、ユダヤ人への土地売却禁止、アラブ民主政府の設立などを要求。パレスティナ全土(現在のイスラエルを中心とする地域)に、ゼネストをよびかけた。パレスティナにはここ数年ドイツや東欧からのユダヤ人移民が増え、地元のアラブ人農民は、土地をうばわれ生活を侵害されることに不満をいだいていた。こうしてパレスティナは 1939年までアラブ人の抵抗運動の嵐が吹き荒れた。 |
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1930年10月ジュネーブ |
イラク王国独立
●イラク王国が独立し国際連盟に加入する。1921年イギリスは、ハーシム家のフサインを国王として、委任統治のもとにイラク王国を成立させた。その後イラクは、軍事、財政、司法、外交をイギリスに管理されながらも、1925年には憲法を制定、統治の核となる軍隊を編成して近代国家としての下地を整備してきた。そして独立となった。しかしクルド人やスンニ派アラビア人、シーア派アラビア人など多様な国民を抱える国家であった。 |
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1934年12月トルコ |
トルコ、女性参政権を実現。
●大統領ケマル・アタチュルクの提案で、国民議会は、この日、国会議員の選挙権・被選挙権を女性にも認め、法的には男女平等が達成された。ケマルは、1923年のトルコ共和国の誕生以来、種々の改革を断行してきた。1920年にはイスラム法によるシャリーア法廷の閉鎖、1925年には義務化されていたトルコ帽の着用を廃止し、またイスラム神秘主義教団の活動を停止した。さらに1926年、一夫多妻制を廃止する新市民法を制定し、1928年には憲法からイスラムを国教とする条項を削除。今年6月には、姓氏制を採用するなど、イスラムにかわって西洋的な近代化政策を推し進めてきた。この日の女性参政権の確立もその一環である。前月、ケマルはこうした功により、議会からアタチュルク(トルコの父)の姓を贈られた。 |
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1939年7月イギリス |
パレスティナ、ユダヤ人移民を制限
●イギリスの植民地相マルコム・マクドナルドが、パレスティナへのユダヤ人の移民を 6か月間禁止すると発表した。イギリスの委任統治領であるパレスティナでは、ユダヤ人とアラブ人がそれぞれ居住権を主張して対立。特にここ数年は、ナチスドイツによるユダヤ人迫害の影響で移民が激増しアラブ側は3年前から移民の停止、民族的政府の樹立を求めて反乱を続けていた。イギリス政府は居住地分割案を提出するが拒否され、その後もユダヤ人に同情を示す一方で石油を押さえるアラブ人にも配慮を示し、2カ月前にもユダヤ人移民を制限する「白書」を発表していた。5月に続く今回の措置にユダヤ人が反発、対立は一層激化する。イギリス国内でも意見は分裂し、イギリス政府はついに1948年、パレスティナの委任統治権を放棄する。 |
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1941年8月イラン |
イラン占領。国王退位。
●イギリスソ連両軍がイランを占領。国王レザー・シャー退位に追い込まれる。イラン南部からイギリス軍が、北部からソ連軍が進駐を開始。両国は圧倒的な軍事力でイラン軍に有効な反撃の場を与えることなく、軍事占領を完了した。1930年代を通じてイランは、ナチスドイツとの接近を強めていた。これを危惧したイギリス・ソ連両軍は、さる6月のドイツ軍のソ連侵入後、国王レザー・シャーに圧力をかけてきた。だが心情的にドイツ側に肩入れするレザー・シャーは、中立を盾にイラン国内に多数いたドイツ人の追放と、完成まもないイラン縦貫鉄道のソ連軍による使用を拒否してきた。再三にわたるイラン政府への要請をけられたイギリス・ソ連両軍は、ついにこの日、占領に踏み切った。これにより3国間で協定を締結したイランは分割占領され、主権行使の制約を受けることになる。 |
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1945年3月カイロ | ●エジプト王国、トランス・ヨルダン王国、シリア王国、レバノン共和国、サウジアラビア王国、イラク王国、イエメン王国の7カ国が、カイロで会議を開き、アラブの連帯をめざすアラブ連盟の設立に最終的に合意した。5月の正式発足後、加盟国は 21か国 (PLOも含む)にまで増加する。だが、強い権限をもたない連盟は、アラブ諸国間の紛争調停に大きな役割を果たすことができず、しだいにその弱点をさらけ出すことになる。 | |
パレスティナ問題
この問題について、J.M.ロバーツから引用してみる。イギリスは帝国主義の時代から、この地域を支配してきた。そして現代にまで及ぶ混乱を招いて撤退したのは、かっての大英帝国イギリスであった。(出典:「世界の歴史9」第2次世界大戦と戦後の世界・J.M.ロバーツ著・創元社2003年刊) 一方、パレスティナは、アラビア半島よりもさらに複雑な情勢にありました。1921年にアラブ人が反ユダヤ暴動を起こし、ユダヤ人入植者たちに対する戦いを開始して以来、この不幸な土地に長く平和が訪れることはなかったのです。問題は単に、宗教と民族感情だけではありませんでした。ユダヤ人の入植は、近代化した西洋式の軍隊が増殖することを意味していたからです。事実、この近代的な軍隊が、パレスティナにおける経済関係を変化させ、アラブ人の伝統的な社会に対してそれまでなかった要求に押しつけることになったのです。
その結果、委任統治国であるイギリスは、アラブ人とユダヤ人の板挟みになってしまいました。ユダヤ人の入植を制限しなければアラブ側からの激しい攻撃を受け、入植を制限すればユダヤ側から激しい抗議を受けることになったからです。しかし当時の政治状況においては、イギリスはアラブ側を重視せざるをえませんでした。経済的にも戦略的にも、イギリスの安全保障の上で非常に重要な地域をアラブ側が押さえていたからです。 しかしその一方で、国際世論も高まりつつありました。特に1933 年にドイツでナチ党政権が誕生し、ユダヤ人への迫害を開始した結果、パレスティナ問題がこれまでになく人々の感情を刺激するようになりました。そうした状況の中、1937年までにはパレスティナのユダヤ人とアラブ人の間で激しい戦いがおこるようになり、まもなくイギリス軍はアラブ人の暴動の鎮圧に乗り出すことになります。 |
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1947年11月ニューヨーク |
国連総会、パレスティナ分割案を可決
●パレスティナを委任統治してきたイギリスは、アラブ人とユダヤ人の対立抗争と欧米諸国の非難によって、問題の解決を国連(パレスティナ特別委員会)に一任していて、ついに国連の決定をみた。イギリスは、ユダヤ人のパレスティナ移住を拒否したことで、国際的な非難をあび、分割案うみだす素地を作った。 |
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1948年5月14日イスラエル |
イスラエル建国宣言
●5/14午後4時、指導者ベングリオン(初代首相)は、イスラエル国の独立を宣言した。翌5/15はイギリスの委任統治終了の日であった。パレスティナでは、前年の国連での分割案可決から、ユダヤ人とアラブ人の激しい戦闘が続いていた。そしてこの独立宣言の翌15日、アラブ連合軍(シリア、レバノン、トランス・ヨルダン、エジプト、イラク)とイスラエルとの第1次中東戦争が勃発した。 |
1917年当時、パレスチナには60万人のアラブ人に対して、8万人のユダヤ人が住んでいたが、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害が始まると、パレスティナへのユダヤ人の入植者は急増した。イギリスはユダヤ人の入植者を制限しようとしたがだめで、パレスティナ分割の方もアラブ人からはっきり拒絶された。
戦争が終結すると、世界シオニスト会議は 100万人のユダヤ人のパレスチナへの即時入植を要求した。そしてイスラエル建国宣言となった。
●イスラエルは、建国と同時に起きた第一次中東戦争(1948年~1949年)に勝ち、入植地を建設し占領地を大きく拡大していった。翌年結ばれた休戦協定では、イスラエルは分割案より領土を25%も拡大し、94万人のアラブ人が難民となった。
1949年に戦争がおわると、戦前はアラブ系住民が人口の大半を占めていたパレスチナのイスラエル占領地域には、16万人程度のアラブ人しか残っていなかった。パレスチナの分割に伴い、国連によってパレスチナ人に認められていた土地も消滅した。いずれもイスラエルに併合されたり(ネゲヴ砂漠地帯がその代表的な例)、アラブ諸国に占領された。またガザ地区はエジプトに、ヨルダン川西岸地区(サマリアとユダヤ)はヨルダンに併合された。離散したパレスチナ人のうち、ユダヤやサマリア、ガザに家族がいる人々はそこへ移住し、それ以外の人々は急ごしらえの難民キャンプに身を寄せることになった。キャンプの生活条件はあまりにも厳しく、国連は難民キャンプで暮らすパレスチナ人のための組織(国連パレスチナ難民救済事業機関)を設立した。