(世界史)「ナチスドイツ、大日本帝国、イスラエル」
上左写真は「朝鮮戦争」「国連軍に助けを求める難民 1950年9月16日 バート・ハーディ 韓国」
上右写真は「ベトナム戦争」「米軍の爆撃を逃れて川を渡る親子 1965年9月6日 沢田教一(UPI 南ベトナム・クイニョン)」この写真は『安全への逃避』と題されたもので、ハーグ第9回世界報道写真コンテスト大賞、アメリカ海外記者クラブ賞、ピューリッツァー賞を受賞したものである。沢田は1970年プノンペン(クメール・ルージュ・カンボジア)で殺害された。(享年34歳)(出典:「目撃者」朝日新聞社 1999年刊)
*リンクします「カメラマン・サワダの戦争」NHKアーカイブス
ファシズム・共産主義など | 主要項目 |
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ドイツ・ヒトラーのナチズム | ヒトラー「わが闘争」、映画「シンドラーのリスト」、ダ―ウインの「種の起源」、ニーチェ「ツァラツストラはかく語りき」 |
日本のファシズム。アジア・太平洋侵略 | 日本軍の戦争犯罪「極東国際軍事裁判」判決文 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪(一部引用) |
ドイツ、日本の平和への誓い | R.ヴァイツゼッカードイツ連邦議会演説、日本国憲法前文 |
「鉄のカーテン」「東西冷戦」 | チャーチルの対ソ警戒。スターリンの反論。 |
共産主義国の憲法と前文 | 「ソヴェト社会主義共和国同盟憲法」と「ロシア憲法前文等」「中華人民共和国の憲法前文」 |
日本と中国の国交回復 | 日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明 |
「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」 | (西)経済協力機構(OEEC)対(東)経済相互援助会議COMECON(コメコン) |
「パレスティナ分割とイスラエル建国」 | イスラエル建国(1948/5/14)までの「エルサレム」の歴史と中東の歴史(概略) |
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(上左写真)パリ解放後シャンゼリゼ通りを行進するアメリカ兵士たち。1944年08月29日 AP/WWP パリ
(上右写真)ニューヨークのタイムズスクエアでドイツの無条件降伏を祝う米市民たち。1945年05月07日AP/WWPニューヨーク(出典は共に:「目撃者」朝日新聞社1999年刊)
(親衛隊≪SS≫のアイヒマンは、この「最終解決」であるホロコーストに関与し、ユダヤ人数百万人の強制収容所移送の中枢を担ったが、敗戦時逃亡に成功しアルゼンチンに潜伏した。しかしイスラエルの執念の追跡により、ついに1960年イスラエル諜報特務庁≪モサド≫により逮捕連行され1962年イスラエルで処刑された。)
日本はこのようなナチス・ドイツと同盟を結んだ。日本はヒトラーのナチズムの思想を知っていたのだろうか?日本は極東で孤立し、西洋にコンプレックスをもっていたとはいえ、ファシズムとヒトラーの狂気を容認したドイツと同盟を結んだということは、日本もまたアジアに対しては差別的民族意識を持つファシズムの国であったということである。明治維新以来、積極的に西洋文明を取り入れ独立を保った日本は、アジアにおいて優越意識と選民意識をもった国となってしまったのであろう。
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(上左写真)ナチス・ドイツの国章の間を上る独裁者アドルフ・ヒトラー 1934年10月 撮影者不明 ドイツ・バッケンベルク
(上右写真)ワルシャワ(ワルシャワ・ゲットーでは、5万6000人のユダヤ人が殺された)1943年4月 撮影者不明 ポーランド・ワルシャワ。(出典:「目撃者」朝日新聞社1999年刊)
①アドルフ・ヒトラーの「わが闘争」から、「民族と人種」の中から「文化の創始者としてのアーリア人」の一部を引用してみる。このなかでは「日本人」についても書かれている。日本では、日独伊3国同盟に影響を与えるとして、この部分の和訳をカットしたとある。
「わが闘争」「文化の創始者としてのアーリア人」の一部
(出典:「種の起源(下)」ダ―ウイン著 渡辺政隆訳 光文社2009年 発刊 )
「ツァラトゥストラかく語りき」から一部引用
(出典:YouTube「ジュゼッペ・シノーポリ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」)
(Google Chromeでも音声ボタンで音量が調整できるようになりました《2018.12》。)
動画・出典:「昭和ニッポン」2005年発行(第1巻)一部紹介
●広島・長崎、原爆投下。(アメリカ軍が上空から撮影した有名な動画。広島の最初の画像のブレは、原爆の衝撃波によるといわれる。そのため長崎ではもっと高空から撮影したといわれる。)
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ3MB、36秒)
年・月 | 1945/6/26~ |
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1945年8/8 | ソ連、日本に宣戦布告し満州などに極東軍が侵攻を開始する。 |
1945年8/14 | モスクワにて、ソ連と中国国民政府が、中ソ友好条約を締結する。 |
1945年8/15 |
日本、降伏を受諾
8/14日本は連合国にポツダム宣言受諾を通知し、8/15天皇が受諾したことを国民に放送。 |
1945年8/17 | (インドネシア)ジャカルタでスカルノ(大統領)がインドネシア独立を宣言。しかし旧宗主国オランダはこの宣言を認めず、以後4年間の独立戦争となる。 |
1945年8/24 | (朝鮮半島)ソ連軍8/8侵攻以来各地を転戦後、ついに平壌に進駐し市民の歓迎を受ける。 |
1945年9/2 |
日本、降伏文書に調印
日本、東京湾アメリカ戦艦ミズリー号上で、降伏文書に調印する。日本政府代表は重光葵外相(58歳)と軍部代表梅津美治郎参謀総長(63歳)が署名し、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサー元帥(65歳)が連合国を代表して署名した。以下、アメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順に署名した。ここにアジア・太平洋戦争が正式に終結した。 |
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(上左写真)南京大虐殺「揚子江岸に打ち上げられた死体」(岩波書店)(出典:「昭和2万日の全記録第4巻」講談社1989年刊)
(クロニック世界全史(講談社1994年刊)では「揚子江の岸辺に打ち上げられた死体。敗残兵掃討を名目に無差別に殺害するという日本軍の蛮行は、日本史上、消しがたい汚点となる。」と書かれている)
(右写真)中国「平頂山受難同胞記念碑」(出典:写真記録 日中戦争ほるぷ出版1995年発行)
「東京裁判」が勝者による裁判であったことは事実であろう。しかし日本人が直視しなければならないのは、「戦争をしたことに対する平和の罪」の問題ではなく、「戦争法規」すら眼中になかった日本軍の実態が証言されているこの部分である。ここは読んでおかねばならない。日本人は初めて「東京裁判」で「皇軍」の真実を知った。下に「東京裁判・判決文」から一部を引用してみる。「平頂山事件」「秋田花岡事件」と「南京虐殺」が述べられている。(なるべく旧漢字は新漢字にし、振り仮名と意味も記入した)
極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪(一部引用)
通 例 の 戦争 犯 罪
●(残虐行為)
すべての証拠を慎重に検討し。考量した後、われわれは、提出された多量の口頭と書面による証拠をこのような判決の中で詳細に述べることは、実際的でないと認定する。残虐行為の規模と性質の完全な記述については、裁判記録を参照しなければならない。
本裁判所に提出された残虐行為及びその他の通例の戦争犯罪に関する証拠は、中国における戦争開始から1945年8月の日本の降伏まで、拷問、殺人、強姦及びその他の最も非人道的な野蛮な性質の残忍行為が、日本の陸海軍によって思うままに行われたことを立証している。数ヵ月の期間にわたって、本裁判所は証人から口頭や宣誓口述書による証言を聴いた。これらの証人は、すべての戦争地域で行われた残虐行為について、詳細に証言した。それは非常に大きな規模で行われたが、すべての戦争地域でまったく共通の方法で行われたから、結論はただ一つしかあり得ない。すなわち、残虐行為は、日本政府またはその個々の官吏及び軍隊の指導者によって、秘密に命令されたか、故意に許されたかということである。
極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪 極東国際軍事裁判所 編 1948年刊

「東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文」極東国際軍事裁判所 編 毎日新聞社1949年刊

●推計であっても、次のポイントは知っておかねばならないと思う。
①人口の比率から見ると「ポーランド」が最も多くの犠牲者を出した。560万人~580万人(全人口の15%以上)がドイツ軍に殺され、そのうちの1/3以上はユダヤ人だといわれる。
②ソ連邦が最大の犠牲者を出したといわれる。2660万人で全連邦人口の13%以上。
③ユダヤ人の犠牲者は、当時ヨーロッパ各国にいた900万人のユダヤ人のうち、500万人から600万人が犠牲となり、ナチスによる強制収容所でその多くが虐殺された。そして強制収容所ではロマ(ジプシー)、身体障害者・精神障害者、ソ連兵捕虜、スラブ人らも虐殺された。
④中国の日中戦争犠牲者(1937年-1945年)は、1985年の共産党政権発表(抗日勝利40周年)によれば軍民死亡者2100万人。1995年発表では、軍民死傷者数を3500万人とした。(飢餓・病気・餓死による死傷者も含まれるのであろう)
R.ヴァイツゼッカー1985/5/8ドイツ連邦議会演説(一部引用)
(前略)・・・暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。
歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪---これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜(ぼうとく)があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。
●一方の日本では、GHQ(連合軍総司令部)の強力な指導により、民主主義憲法である「日本国憲法」を公布(1946年11/3)することができた。今なお押しつけ憲法であるとの論議が起こるのは、当時の日本の政府、与野党、憲法学者のすべてが、「民主主義」の理念や本質を理解していなかったことが背景にはあった。しかし日本国民は恒久の平和を念願し、この平和憲法を選んだ。そして日本国民はこの憲法前文のなかで、決意を込めて誓っている。その前文を下記に引用する。(出典)「世界は『憲法前文』をどう作っているか」中山太郎編 ティビーエス・ブリタニカ2001年刊
「日本国憲法前文」
日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
●第2次世界大戦終結後すぐにヨーロッパでは共産党が躍進し、特に東ヨーロッパ諸国では王政の廃止と共和国宣言が続いた。1946年3月にイギリス前首相チャーチルが、このソ連の東ヨーロッパの支配を憂慮し「鉄のカーテン」と非難して対ソ警戒を喚起した。内容は下記のようである。
と主張しアングロ・サクソンの団結を呼びかけた。
●これに対してソ連のスターリンは、次のように述べた。
と非難した。
●このような連合国内の対立が表面化した大きな理由は、アメリカ・ルーズベルト大統領が急死し、対ソ連協力路線が変更されたことが大きな要因とされる。ルーズベルト大統領は、アメリカ・イギリス・ソ連の密接な協力のみが、平和秩序の土台となると考えていたからである。チャーチルの後を継いだ労働党のアトリー内閣は、当初は労働党であるが故に、共産党のソ連との関係を楽観視していたが、まもなくソ連に対して猜疑心を抱くようになり、アメリカに同調するようになった。
●そして西側諸国のソ連に対する不安と脅威は、戦後1年をへずしてはっきりとソ連に対する対立となり、世界はアメリカ・イギリス対ソ連という構図で「東西冷戦」の時代を迎えていった。
「ロシア憲法前文」「ソビエト社会主義共和国連邦憲法前文」1936年
(出典)「世界は『憲法前文』をどう作っているか」中山太郎編 ティビーエス・ブリタニカ2001年刊、「世界憲法集」岩波書店1983年刊
「中華人民共和国の憲法前文」
(出典)「世界は『憲法前文』をどう作っているか」中山太郎編 ティビーエス・ブリタニカ2001年刊
●次に田中角栄首相の時代に初めて中国と国交を結んだ際の共同声明を紹介する。自由主義・社会主義・共産主義とかいう体制の違いを超越したものである。1972年9月29日に日本の田中角栄内閣総理大臣と中華人民共和国の周恩来国務院総理は共同声明を行い、日本は中華人民共和国建国(1949年)以来初めて国交を結んだ。この中で注目すべき一つは、第5条『中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。』である。一方的に侵略され大きな民族犠牲を払ったにもかかわらず、中国の日本に対する態度は、悠久の歴史を持ち「ファシズム」に勝ち抜いた中国の誇りと正義と品格を感じさせるものである。
日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(出典:外務省)
日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、千九百七十二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。
毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。
年・月 | 1947/1/1~ |
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1947年1/1 | (イギリス)アトリ―労働党内閣が、社会主義化5か年計画に基づき、炭鉱と通信の国有化が実施される。 |
1947年1/16 | (フランス)第4共和政、初の大統領に社会主義者のヴァンサン・オリオール(63)が就任した。1/28日には社会・共産・人民共和派連立ラマンディエ内閣が成立する。 |
1947年1/22 | (インド)インド制憲議会が、独立宣言の決議案を可決する。しかしムスリム(イスラム教徒)連盟が承認せず、国民会議派と衝突が起きる。 |
1947年1/24 | (ギリシャ)立憲君主制のデメトリオス・マクシモス内閣が成立する。 |
1947年1/28 | (ロンドン)イギリスとビルマ(現ミャンマー)がビルマ独立協定を結ぶ。アトリー・アウンサン協定。(アウンサン=独立運動家・ビルマ建国の父、アウンサンスーチー氏は長女) |
1947年2/10 | (パリ)第2次世界大戦の講和条約が、戦勝国21カ国とイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドの5カ国が調印した。(ドイツ、オーストリア、日本との講和条約は先送りされた。)この5カ国は、賠償金の支払い、軍備の制限を受け、イタリアはアフリカ植民地の放棄と領土の割譲を受けた。 |
1947年3/10 | (モスクワ)アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の外相が、対ドイツ・オーストリア講和問題をめぐる会議を行う。 |
1947年3/12 | (アメリカ)トルーマン大統領、ギリシャ・トルコの共産化防止のため両国への経済・軍事支援を提案する。 |
●このきっかけとなったのは、イギリスがアメリカに対して、自国の財政危機を理由にギリシャとトルコに対する軍事援助の肩代わりを求めたことによる。イギリスは第2次世界大戦で大きな打撃を受けており、これ以上の援助は不可能になっていた。アメリカは、イギリス軍の撤退後、ギリシャとトルコがソ連の勢力下なることを恐れ、すぐに要請を受けた。ここにアメリカの外交政策は、ヨーロッパと距離を置く伝統的な「孤立主義」への回帰(1945年の時点)から大きく変換することになった。トルーマンは次のように宣言した。
これが「トルーマン・ドクトリン」であり「自由主義世界」と「共産主義世界」との対立の始まりである。具体的には6/5、経済復興のための「マーシャル・プラン」が発表された。
●アメリカはヨーロッパの復興計画を全面的に支援する用意があると表明した。ソ連と東欧諸国は参加を拒否したが次の諸国が賛成し、そのための経済協力機構(OEEC)が設立された。参加国は「オーストラリア、ベルギー、デンマーク、フランス、イギリス、ギリシャ、アイスランド、アイルランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウエー、ポルトガル、スウエーデン、スイス、トルコ」であった。アメリカは、軍事力や侵略によらない方法で共産主義勢力の「封じ込め」を意図した。
●一方ソ連は、1947年9月にコミンフォルム(共産党および労働者党情報局)を設立し、アメリカのマーシャル・プランを「アメリカ帝国主義の世界制覇のための侵略・拡大路線」と非難し、対抗して東ヨーロッパに経済相互援助会議COMECON(コメコン)を設立した。当初加盟国はソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの6ヶ国と遅れてアルバニアだった。
●上は1950年前後のヨーロッパの簡易地図、共産圏と色分けし簡単に作成してみた。この境界を「鉄のカーテン」と呼んだのである。ポイントはユーゴスラヴィアで、1948年コミンフォルムはユーゴ共産党を除名した。ユーゴスラヴィアは自主独立の共産主義建設を指導者チトーのもとで行っていった。
年 | エルサレムの歴史 |
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1948/5/14、パレスティナ分割とイスラエル建国がなされた
●最初に1967年イスラエルの歌謡コンクールで優勝した「黄金のイスラエル(ナオミ・シュメル作詞・作曲)」(最初の部分)を紹介する。イスラエルのユダヤ人がエルサレム旧市街への熱い思いを歌った曲である。逆にアラブ人からすればどのように感じるのであろうか。下段でyoutubeにリンクした。 「黄金のエルサレム」
(Jerusalem of Gold – Yerushalayim shel Zahav -Ofra Haza- with English Lyrics)
*リンクします「黄金のエルサレム」(YouTube Yael Lavieより) | |
「中東の歴史とエルサレムの歴史」
●最初にイスラエル建国までの「エルサレム」の歴史と中東の歴史の概略を述べてみる。現代(21世紀)この地域で起きている紛争・戦争は、歴史をさかのぼっても簡単には理解できない。ここでは宗教の争いがあり、民族の争いがあり、列強の争いがあり、石油の争いがある。そしてなによりも世界で一番古い歴史を持つ地域である、簡単にわかるはずが無い。 |
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![]() (地図)「世界のシーア派」(出典:『地図で読む世界情勢第2部』河出書房新社2009年刊) |
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紀元前2000年代 |
エルサレム
●エルサレムには、カナーン人と総称されるセム系の人々の小さな都市国家ができていたらしい。その族長の1人「シャレム」の名から「シャレムの町」(イェルシャライム)の名が生まれたという説や、ユダヤ人の言語のヘブライ語で「シャロム」が「平和」を意味するところから、「平和の町」と命名されたという説もある。また同じセム系の言語であるアラビア語でも「エル・サレム」は「平和」という意味であるという。 |
紀元前1000年頃 | ●ユダヤ人の武将であったダビデは、非セム系の海洋民族であるペリシテ人との戦いに勝ち、エルサレムを征服して都を移した(ダビデの都ともいわれる)。旧約聖書によれば、この時代よりはるかな昔、アブラハムはメソポタミア(イラク)のウルから、一族を従えてカナーン(パレスティナ)に移り来て、唯一神よりこの地を約束されたとされる。 ●ダビデは、アブラハムがモリア山に設けた神への祭壇が、このエルサレムであるとし、仮の祭壇をこの地に設けた。そしてダビデの末子のソロモンは、王位を継ぐと本格的な神殿を建築した。イスラエルは「ソロモンの栄華」といわれるほど繁栄した。しかしソロモンの死後、イスラエル(北部)とユダ(南部)に分裂し、エルサレムはユダ王国の都となった。 |
紀元前6世紀 | ●前586年ユダ王国は、新バビロニア王国(イラク)のネブカドネザルに征服され、エルサレムの神殿(ソロモン王の神殿=第1神殿)は破壊され多くのユダヤ人が捕虜としてバビロンに連れ去られ、ユダ王国は滅亡した(バビロン捕囚=前586年~前538年)。 ●しかしその新バビロニア王国もペルシャ帝国(イラン)のクロス(キロス)に前538年に滅ばされた。ペルシャはオリエントを統一し、バビロンの捕囚の全て民を故国へ返した。ユダヤ人達も帰ることができたが、荒廃した故国再生とユダヤ民族再生のために、その中心である神殿(第2神殿)を22年の歳月をかけて再建した。 |
紀元前1世紀頃 | ●ローマ帝国の時代、ヘロデ王はローマの支配を受けながら(属領地)、ローマとの協調関係を築き、ユダヤの王(紀元前40年)となった。ヘロデ王は残忍な独裁者であったという評価もあり複雑ではあるが、一方では10年の歳月をかけて荒廃した第2神殿の大規模改築なども行っている。そしてこの時代にイエス・キリストは生まれた。 |
紀元1世紀頃 |
イエス・キリスト
●ヘロデ王の死後(紀元前4年)、ユダヤ人たちのローマ帝国に対する反乱(独立運動)が起こってきた。イエス・キリストの教えと数々の奇跡は、ユダヤとローマの対立する構図の中で行われ、イエス・キリストはユダヤの法廷では反逆者とされ、ローマ総督ピラトの法廷では危険分子とされ、十字架にかけられ処刑された。紀元30年頃とされる。 |
紀元66年 |
嘆きの壁
●ついに第1次ユダヤ反乱(対ローマ)が起こった。抗戦は4年に及んだが、紀元70年についにエルサレムは陥落し、第2神殿は徹底して破壊された。今も残る「嘆きの壁」は、ヘロデ王が第2神殿大規模改築の際に作られた、西側の土台の石垣である。山本七平「日本人とユダヤ人」には次のようにある。 「・・そしてこの壁に来たときわれわれは、もっとひどい苦難の中にこの神殿を再建した祖先の不屈の精神を思い起こすのである。そして、民が心を一つにして再建にかかった時、それが立派にできあがったことに思いを致し、いつの日か、ここに再び祖国を築き上げることを、常に心に誓いつづけて来た壁なのである。・・」
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2世紀 | ●そして136年、第2次ユダヤ反乱が起こった。ユダヤはこれも圧倒的なローマ軍により、徹底的に制圧された。そしてこの結果パレスティナはアエリナ・カピトリナと改名され、海外居住のユダヤ人の帰国は禁止された。そしてローマ帝国によるユダヤ教徒とキリスト教徒への過酷な迫害が始まった。 |
4世紀 |
ビザンティウム・コンスタンティノープル
●ディオクレティアヌス皇帝(3世紀末)は、専制的な支配体制によって国家の安定を図るため、4人の皇帝を置く分割統治体制をしいた。つづくコンスタンティヌス1世は、キリスト教に改宗し、宗教的基盤強化のためキリスト教を公認した。そして首都をビザンティウム(=コンスタンティノープル=イスタンブ-ル)に移した。これが東ローマ帝国でありローマ帝国の繁栄は東に移っていった。 |
7世紀 イスラム興る |
ムハンマド、アッラーの啓示を受け、イスラム教を創始
●アラビアのメッカで生まれたムハンマドは、アッラーの啓示を受け予言者として、「唯一神の信仰」「偶像崇拝の排斥」「人間の平等」のイスラム教を創始した。630年にメッカを征服し、メッカをイスラム教の第1の聖地と定めた。第2の聖地はメディナで、迫害を逃れた場所である。そして第3の聖地がエルサレムである。 |
7世紀~8世紀 | ●ユダヤ教徒たちは、キリスト教徒による迫害をうらみ、617年のササン朝ペルシャのエルサレム侵攻にも歓迎して協力した。そして正統カリフ時代のイスラムの侵攻(638年)にも協力して従軍した。こうしてエルサレムはイスラム帝国に支配されていった。ウマイヤ朝は都をダマスカスに置いたため、エルサレムは都市として発展しイスラム教徒の巡礼が盛んに訪れた。 |
750年 アッバス朝ウマイヤ朝を倒す。 |
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11世紀 ファーティマ朝 |
●11世紀の初め、エジプトのカイロを都にしていたファーティマ朝(シーア派)が、エルサレムを支配下に納めると、異教徒への迫害を始めた。エルサレムの聖墳墓教会(キリスト教)をはじめユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)が破壊された。このキリスト教徒の迫害が十字軍遠征につながり、またキリスト教徒迫害をユダヤ人がそそのかしたとの風評が広がり、ヨーロッパでのユダヤ人迫害を起こした。 |
11世紀 セルジューク朝 |
セルジューク朝建国
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11世紀 十字軍 |
第1回十字軍
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12世紀 アイユーブ朝 |
アイユーブ朝を創始
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13世紀 第4回十字軍 |
ラテン王国樹立
●第4回十字軍(1204年)は、調達金不足のため、ヴェネティア(ヴェニス)商人に、敵対的なザマを攻撃することを要求され実行。怒ったローマ教皇インノセントは十字軍を破門した。破門された十字軍はエジプトに向かわず、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻撃、陥落させ、ラテン王国を樹立した。 |
13世紀 モンゴル大遠征 |
モンゴル大遠征開始
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13世紀 第6回十字軍 |
●1229年無血十字軍がエルサレムを支配する。神聖ローマ皇帝とアイユーブ朝が協定を結んで和解する。 |
13世紀 ホラズム傭兵隊 |
●1244年アイユーブ朝の支援を受けたホラズム傭兵隊が、エルサレムを陥落させる。ここにキリスト教の支配が最終的に終わる。 |
13世紀 マムルーク朝 |
マムルーク朝成立
●1250年エジプト、マムルーク軍のクーデターによりアイユーブ朝のスルタンが殺害され、マムルーク朝が成立する。シリアに残ったアイユーブ朝とエジプト・マムルーク朝の政情不安は10年間続いた。しかしマムルーク朝は支配をシリアまで広げ、エルサレムはマムルーク朝に支配される。 |
13世紀 モンゴル・フラグ |
フラグ、アッバス朝を滅ぼす
●チンギス・ハーンの孫のフラグは、イランに留まり、勢力を拡大していた。そして1258年バクダードに侵入してアッバス朝を滅ぼした。この時80万人~200万人が虐殺されたといわれる。この時カリフを失ったアッバス朝の血縁者たちは、エジプト・シリアを支配するマムルーク朝に亡命した。そしてフラグはこの後、アジェルバイジャンのタブリズを首都を定め、イル・ハン国を建てた。フラグは1265年に死んだが、1335年フラグの血統が絶えると後継者争いが起き国家としての実態を失っていく。そしてイル・ハン国とマムルーク朝は、シリアをめぐる覇権争いを14世紀後半まで続けた。 |
13世紀 アッカー陥落 |
十字軍拠点アッカー陥落
●マムルーク朝、十字軍の最後の拠点アッカー(アッコン)を奪還する。アッカーは1187年以来ラテン王国の首都だった。アッカーの陥落により十字軍側は総崩れになり、残る十字軍の拠点であるスール、サイダー、ベイルート、ハイファーも陥落した。こうして200年近く存在した十字軍国家は、シリア地域から消滅した。 |
13世紀 オスマン朝創設 |
オスマン朝創設
●西北アナトリアの君侯(ベイ)オスマンが、オスマン朝を創設した。オスマン家はオスマンの祖父の代に、ルーム・セルジューク朝の支配下のアナトリアに進出したといわれる。父のエルトゥグルルは、ガージー(イスラム聖戦戦士)として、ビザンティン帝国のキリスト教徒領主たちと戦い領地を広げていた。息子のオスマンは、モンゴルの侵入により衰退してきたルーム・セルジューク朝黙認のもとに、オスマン朝を創設した。 |
14世紀 |
モンゴル帝国4つに分裂
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15世紀 アンカラの戦い |
ティムール、オスマン朝軍を破る
●ティムールは、シリア、小アジアに侵攻し、オスマン朝軍と衝突した。そしてアンカラの戦い(1402年)で大勝し、オスマン朝スルタン・バヤズイット1世を捕虜(ティムール軍中央アジアに帰還途上に死亡)とした。これによりオスマン朝は帝国の分裂と危機に陥り、スルタン・メフメト1世が再統合を開始するまで、10年間の空位時代となる。しかし1405年ティムールが急死したため、オスマン朝を含め西アジアの各王朝は立ち直っていった。 |
15世紀 コンスタンティノープル陥落 |
ビザンティン帝国滅亡
●1453年ビザンティン帝国1000年の歴史が終わる。オスマン朝スルタン・メフメト2世は、約2ヶ月間の包囲戦の末コンスタンティノープルを落とし、帝国皇帝コンスタンティノス11世は討ち死にした。そしてオスマン朝の首都をコンスタンティノープルに移し、イスタンブルと改名した。 |
16世紀 マムルーク朝に勝利 |
オスマン朝、地中海世界を支配する
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19世紀 | (セルビア人蜂起、ギリシャ独立、エジプトトルコ戦争、スエズ運河) ●19世紀になるとオスマン帝国は、列強諸国からの侵略と帝国内での各民族による独立運動により衰退してきた。1804年セルビア人の第1次蜂起がおこり、エジプトでは、1805年ムハンマド・アリーが総督についたことで、エジプトはヨーロッパ文明の導入と近代化を進め始めた。 ●また1821年にはギリシャ独立戦争が起こった。この戦争では、ロシアがギリシャを援助したことにより、これを危惧したイギリスとフランスが介入し、オスマン帝国はギリシャの自治国化を認めた。しかし1830年最終的にイギリスは、ギリシャを3国の保護下に置いての独立をオスマン帝国に認めさせた。 ●1831年エジプトのムハンマド・アリーは、オスマン帝国に対して第1次エジプト・トルコ戦争を起こした。エジプト軍はシリアに侵攻しダマスクスも占領し、さらにアナトリア地方に進軍しオスマン・トルコ軍を撃破した。エルサレムは1831年から9年間エジプトに支配された。しかしオスマントルコは列強の支援を受け、第2次エジプト・トルコ戦争でエジプトがイギリスに大敗したため、ロンドン会議(1840年)でシリアなどの返還を受け、再度エルサレムを支配することとなった。ムハンマド・アリーはオスマン帝国の宗主権の下でのエジプトの世襲的藩王(副王)の地位を得た。 ●その後エジプトでは1869年、フランス人レセップスがスエズ運河を7年の歳月をかけて開通させた。これによりヨーロッパとアジアの航路は50%近く短縮された。レセップスはエジプトの藩王(ムハンマド・アリーの孫)より特許状を受け「国際スエズ運河株式会社」を創設し、50%以上の株式をフランス人が持ち、44%を藩王が所有した。しかしイギリスはフランスに脅威をおぼえ、その藩王の持つ株式を買い取り、結果スエズ運河はフランスとイギリスの物となってしまう。さらにその後エジプトが財政破綻すると、イギリスはそれに乗じて「エジプト債務管理委員会」を主宰し、エジプトの財政と経済を支配した。そうしたなかエジプトに民族主義的排外運動が起きると、イギリスはフランスを出し抜いて武力鎮圧を行い、スエズ運河地帯を占領し、第1次大戦中にエジプトを保護国とした。 |
19世紀 露土戦争 |
オスマン帝国ロシアに敗れる
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19世紀 シオニズム |
シオニズム
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20世紀 第1次世界大戦前後 |
青年トルコ
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第1次・第2次バルカン戦争 |
バルカン戦争
●1912年、ブルガニア・セルビア・ギリシャ・モンテネグロが、ロシアの支持のもとバルカン同盟を結び、オスマン帝国に対して戦争を起こした。そしてロンドン条約の結果、オスマン帝国はバルカン半島の大部分の領土を失った。 |
第1次世界大戦 1914年7月~1918年11月。1919年ヴェルサイユ条約で講和成立。 |
第1次世界大戦
●1914年三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)との対立を背景に、サラエヴォ事件を導火線として、7月オーストリアがセルビアに宣戦して世界大戦が勃発し、トルコは8月ドイツと同盟を結んだ。当初イギリス、フランス、ロシアはトルコに中立を要求して、報償として独立・領土保全などを保証したが、エンヴェルは動かなかった。イギリスは、インド兵のヨーロッパ移送の際のスエズ運河通過の問題、ロシアはトルコ方面への兵力の分散などに問題があったためである。 |
1915年ガリポリ(ゲリボル)上陸作戦失敗。 | ●英仏連合軍が、ダーダネルス海峡突破作戦で、ガリポリ半島上陸作戦に失敗し、イギリス連邦に属する兵士の死傷者だけで21万4千人にのぼった。この責任をとりイギリスの海軍大臣ウィンストン・チャーチルは辞任した。このときのオスマン軍司令官ムスタファ・ケマルは、この勝利に決定的な役割を果たし、「首都の救い主」とたたえられた。しかしエンヴェルは彼をねたみ、1816年もっと困難なカフカス(コーカサス)戦線へ彼をまわした。 |
1915~16年フサイン・マクマホン協定 |
フサイン・マクマホン協定
●イギリスはオスマン帝国打倒のため、ヒジャーズ(サウジアラビア西部で、聖地メッカや聖地メディナを含む)の名家(予言者ムハンマドの血を引くとされる)ハーシム家のフサインを利用しようと考えた。オスマン帝国は「青年トルコ」革命以後、中央集権とトルコ民族主義に傾いていたため、帝国内の非トルコ人、特にアラブ人は、反オスマンとしてフサインを中心に結束していた。 |
アラビアのロレンス |
アラビアのロレンス
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●1962年のイギリス映画。歴史映画。デヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演。
砂漠の印象的なシーンとアラブ独立運動の一部を紹介してみよう。
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1917年当時、パレスチナには60万人のアラブ人に対して、8万人のユダヤ人が住んでいたが、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害が始まると、パレスティナへのユダヤ人の入植者は急増した。イギリスはユダヤ人の入植者を制限しようとしたがだめで、パレスティナ分割の方もアラブ人からはっきり拒絶された。
戦争が終結すると、世界シオニスト会議は 100万人のユダヤ人のパレスチナへの即時入植を要求した。そしてイスラエル建国宣言となった。
●イスラエルは、建国と同時に起きた第一次中東戦争(1948年~1949年)に勝ち、入植地を建設し占領地を大きく拡大していった。翌年結ばれた休戦協定では、イスラエルは分割案より領土を25%も拡大し、94万人のアラブ人が難民となった。
1949年に戦争がおわると、戦前はアラブ系住民が人口の大半を占めていたパレスチナのイスラエル占領地域には、16万人程度のアラブ人しか残っていなかった。パレスチナの分割に伴い、国連によってパレスチナ人に認められていた土地も消滅した。いずれもイスラエルに併合されたり(ネゲヴ砂漠地帯がその代表的な例)、アラブ諸国に占領された。またガザ地区はエジプトに、ヨルダン川西岸地区(サマリアとユダヤ)はヨルダンに併合された。離散したパレスチナ人のうち、ユダヤやサマリア、ガザに家族がいる人々はそこへ移住し、それ以外の人々は急ごしらえの難民キャンプに身を寄せることになった。キャンプの生活条件はあまりにも厳しく、国連は難民キャンプで暮らすパレスチナ人のための組織(国連パレスチナ難民救済事業機関)を設立した。