1944年①(昭和19年6月まで)米軍、ニューギニアと中部太平洋、両方面から日本本土へ向かう。
●太平洋方面では2月、連合艦隊の拠点であるトラック島が大空襲を受け、その機能を失う。陸軍は3月、ビルマに進攻してくるインドにある英軍基地占領のため「インパール作戦」を開始するが、敗退する。これは無謀な作戦と言われ、死の撤退「白骨街道」の悲劇を生んだ。(作戦全体で約10万人のうち死傷7万2000人、残りの兵士も栄養失調や病気であった)
※「大陸打通作戦」と「インパール作戦」は次ページ「1944年」②(昭和19年6月まで)で記述する。
そして6月、連合艦隊は米軍によるサイパン・グアム上陸作戦を阻止するため、米大艦隊とマリアナ沖海戦(6/19~20)を戦う。だがこの海戦で日本の航空部隊は壊滅的損害をこうむった。そして7/7サイパン島守備隊は全滅(4万人以上)。見捨てられた民間人も集団自決、断崖からの投身自決(約5000人)など玉砕の道を歩んだ。生き残った非戦闘員は、約1万5000人(先住民含む)だった。米軍進攻直前の日本人の定住者は約2万5000人(このうちの8割は沖縄県人の入植者)といわれる。
昭和19年7/18大本営発表「サイパンのわが部隊全員壮烈な戦死」の2項目めは、次の内容であった。
●ヨーロッパでは6/6、連合軍による「ノルマンディー上陸作戦」が成功する。東部戦線で独ソ戦を単独で戦うソ連支援のため、第2戦線の構築が必要だった。これは「史上最大の作戦」とよばれた。
※ヨーロッパ戦線と「ノルマンディー上陸作戦」は次ページ「1944年」②(昭和19年6月まで)で記述する。
(上写真)昭和19年3/7に竣工した最新鋭空母「大鳳」。日本海軍初の装甲空母。右手奥は翔鶴型空母。フィリピン「タウイタウイ」泊地での写真(昭和19年5月~6月)(写真出典)「写真・太平洋戦争」雑誌「丸」編集部 編。潮書房光人社1989年刊
昭和19年1月~6月 | 主要項目 |
---|---|
★米軍の大攻勢(太平洋戦線)2路並進。 | 連合軍は、太平洋線で「中部太平洋進行路」(ギルバート諸島→マーシャル諸島→マリアナ諸島)と「南西太平洋進行路」(ニューギニア北岸沿→フィリピン)の2路並進を決定し日本本土へ向かった。 |
★連合軍「南西太平洋方面の作戦」概要 | ここでは、①「ウオッチタワー作戦」(1942年7月~)、次に②「カートホイル(カートホイール)作戦」(1943年4月~)について述べる。連合軍の目的は、日本の一大拠点ラバウルを占領することだった。だが連合軍は、上陸作戦から生じる多大なる損害と果てしない人的消耗戦を危惧し、日本軍の拠点(ラバウルやトラックなど)を孤立・分断化させることで無力化させ、先に進む作戦に変更した(飛び石作戦)。 |
★太平洋戦線全域の年譜。太平洋方面(南西・南東・中部)・ビルマ・中国戦線。 | 3月ビルマにて「インパール作戦」開始。この頃ビルマ西北部(フーコン谷地)では、米中軍(インドで米式訓練を受けた新編中国軍と米軍)が、インドから中国への補給路「レド公路(スティルウエル公路)」を建設をしながら進軍し、日本軍守備隊は激戦を続けていた。 一方太平洋戦線では、2月に米機動部隊がトラック島を空襲し、連合艦隊の一大根拠地はその機能を喪失した。さらに3月末、パラオ・ヤップ両島が空襲を受けた。翌日連合艦隊司令長官は、パラオから連合艦隊司令部を移すべく、ダバオ(フィリピン南部のミンダナオ島)へ飛行艇で向かう途上、遭難し行方不明となった。4月、大本営は中国大陸での「大陸打通作戦」を開始。6月15日、ついに米軍がサイパン島に上陸を開始した。その翌日6月16日、成都方面の中国基地から発進したB29重爆撃機が、北九州を初めて空襲(八幡製鉄所などを爆撃)した。そして6/19~6/20、連合艦隊は米機動部隊(サイパン島上陸作戦を支援)を壊滅すべく「マリアナ沖海戦」を戦った。「あ」号作戦の最大決戦であった。 |
★マリアナ沖海戦と日米の航空母艦と新鋭航空機。 | マリアナ沖海戦は史上最大の艦隊決戦といわれたが、実質は航空戦だった。日本海軍は、進攻してくる米機動部隊撃滅のため、マリアナ沖で戦った。 だが日本海軍航空隊の現状は、その戦力、乗員の練度、技術力、情報力などで、大きく米軍に劣っていた。このマリアナ沖海戦の結果、海軍機動部隊は最新鋭空母「大鳳」、大型空母「翔鶴」、中型空母「飛鷹」、そして多くの航空機と熟練パイロットを失い壊滅状態となってしまった。 ここでは、マリアナ沖海戦時の、両軍の最新鋭機の紹介や、航空母艦や搭載機の対比を行った。 |
★「あ」号作戦。 | 「あ」号作戦とは、連合軍の攻勢に対して、海軍が第1航空艦隊(基地航空隊)と新たに編制した第1機動艦隊(第2艦隊《戦艦・重巡洋艦等》+第3艦隊《空母艦隊》)とで大反撃を加え、戦局の転換を図ろうとした作戦である。ここでは、その連合艦隊の主要艦隊の戦時編制を一覧にした。だが海軍が必要とした航空機は、定数の1/3にも満たなかった。海軍はこの「あ」号作戦の敗退で、空母機動部隊と航空艦隊(基地航空隊)を失った。 |
★ラバウルの孤立と、日本軍の玉砕(ズンゲン守備隊)《ニューブリテン島》 | ここでは孤立したラバウルで起きた「ズンゲン守備隊玉砕」について述べる。漫画家の「水木しげる」の「総員玉砕せよ!」が、この「ズンゲン守備隊玉砕」を題材とした作品である。水木しげるは、ラバウルの南方ズンゲン守備隊に所属していた。この時の体験が、水木しげるの戦後一貫した価値観となったといわれている。 |
★ズンゲン守備隊玉砕とその後。戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」 | ここではズンゲン守備隊玉砕について、戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」から、「第38師団のワイド湾方面の作戦」の章を転載した。このなかでは「堀 亀二軍曹回想録」等が抜粋されており、ズンゲン守備隊玉砕の後、玉砕せず命令によって転進した先任将校らが、玉砕をしなかったことの責任を取って自決したことが書かれている。またリンクした「NHK戦争証言アーカイブス」の中では、多くの当事者の証言を聞くことができる。 |
★国内政治・社会年表 昭和19年《1944年》1月~6月 東条内閣 | 2月、急激な連合軍の攻勢に対抗するため、東条英機首相は、陸軍大臣と参謀総長を兼任、嶋田海相は海軍大臣と軍令部総長を兼任した。これは軍政と統帥を同時に握り、また海軍とも関係を密にし、強力な指導力を発揮しようとしたのである。同じく2月「決戦非常処置要綱」を決定し、内政の面でも強力に政策をすすめようとした。 |
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下図は連合軍の年月日ごとの進攻ラインである。次段で述べる連合軍の太平洋戦略方針(2路並進)を示している。
(出典)戦史叢書「大本営海軍部連合艦隊6」朝雲新聞社。
●1943年1月、連合軍はカサブランカ会議で、太平洋方面の予定作戦を以下のように決めた。
2、トラック、グアムに向かって西進する。
3、アリューシャンをできるだけ安定させる。
4、ニューギニア━━ミンダナオの作戦は、チモール島まで前進する。
5、中国援助のためビルマを奪回する。
●だが南西太平洋方面司令官マッカーサー大将は、上記2の中部太平洋進行路には、最初から反対で、南西太平洋進行路(ニューギニア北岸沿いに北西進する)の方が成功率が高いと考えていた。
●1943年5月のワシントン会議(チャーチル英首相第3回訪米)では、主として、地中海作戦の強化、英仏海峡横断作戦(ノルマンディー上陸作戦のこと)を1944年(昭和19年)に実行することなどが決定された。そして太平洋戦略については、対日圧迫を強化し、マーシャル、カロリン、ビスマーク、ニューギニアの占領、アリューシャンの奪回、援蒋ルートの打開、中国からの対日戦略爆撃等が予定された。
そして5/20の統合幕僚会議で、キング提督(合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長)は中部太平洋からの西進を力説して、英国代表もこれを賛成した。これによりマッカーサーの主張する「ニューギニア━比島━台湾━沖縄━日本本土」と中部太平洋からの2路並進が決定した。この並進採用の理由は次のようであった。
2、2路並進は、米軍の進撃路について日本軍を迷わせる利点がある。
(地図)赤〇連合軍。青〇日本軍。「絶対国防圏周辺における陸海軍主要部隊の兵力配置図」昭和19年5月末現在。(出典)戦史叢書「大本営海軍部連合艦隊⑥」朝雲新聞社
●マッカーサー将軍はこの決定に不満を持ったが、こうしてビスマーク諸島攻略と並行して、マーシャル、カロリンに進撃することが決定された。中部太平洋進行路の主目的は、南洋諸島を経由する東京への第2の道を開き、ニューギニア方面からの進撃路と連携することだった。
●こうして、1943年8月のカナダ・ケベックでの首脳会議で、統合幕僚長会議議長は、中部太平洋作戦について進撃を下記6段階にすべきと報告した。このうち第1項と第2項は、既に9/1付でニミッツ提督に指令済みだった。このケベック会談で1番重要な決定は、「ラバウルを占領しない」ことだった。ラバウルは孤立していくことになる。
2、マーシャル諸島、ウェーク島、クサイ島。
3、ボナベ島。
4、中部カロリン諸島(トラック島を含む)。
5、パラオ諸島、ヤップ島。
6、マリアナ諸島。
●そして1944年(昭和19年)3月、ニミッツ提督は統合幕僚長会議の指令に基づいて、トラック作戦計画を中止しマリアナ作戦準備を最優先とする旨を発令した。上記6番目のマリアナ作戦を、新たに第3番目に繰り上げたのである(6月)。このマリアナ作戦の目的は次の4項目だった。
2、素通りしたトラック島の制圧作戦を支援する。
3、日本本土爆撃のB-29の基地とする。
4、パラオ、フィリピン、台湾、中国本土に対する攻撃を容易にする。
●そして予定期日も大幅に変更された。サイパン、グアム、テニアン占領を1944年6/15。パラオ占領を1944年9/8。ミンダナオ占領を1944年11/15。台湾南部およびアモイ占領またはルソン占領を1945年2/15、とした。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦1」
●一方の南西太平洋方面(司令官マッカーサー大将)の作戦概要は下段のようであった。
●最初に①「ウオッチタワー作戦」(1942年7月~)、次に②「カートホイル作戦」(1943年4月~)を述べる。こうして1944年3月、③「中部太平洋方面と南西太平洋方面の作戦」(1944年~)が調整され決定された。参考として④「アメリカ軍主要上陸作戦概歴一覧(昭和19年8月現在)」を掲載した。
●注意しなければならないことは、この太平洋戦線では、日本軍はアメリカ軍とだけ戦ったわけではない。連合国(オーストラリア軍、ニュージーランド軍、イギリス軍、オランダ軍、カナダ軍、中国軍など)と戦ったのである。またヨーロッパ戦線を含めて第2次世界大戦全体としてみたとき、連合軍の力の中心は、アメリカ軍、ソ連軍そしてイギリス連邦軍だったことも忘れてはならない。ドイツが敗北すれば、ソ連軍が満州から侵攻することは、テヘラン会議(1943年11月)で決まっていたことだった。日本軍の戦線はあまりにも広大でありすぎた。
●また、ニミッツは海軍、マッカーサーは陸軍であり、機動部隊(空母中心)を運用したのは海軍であり、マッカーサーの作戦が全て通ったわけではなかった。7月、ルーズベルト大統領(米軍最高司令官)は、ハワイで両者(ニミッツとマッカーサー)と日本進攻路の調整のため会談を行っている。※(マッカーサーはどうしてもフィリピンへ「I shall return」したかったといわれている)
最初に南西太平洋方面軍の指揮機構の概略を書いておく。
戦術司令部と司令官 | 軍 | 配下の部隊 | |
---|---|---|---|
●南太平洋方面司令部(司令官ハルゼー海軍大将) | |||
●南西方面司令部(司令官マッカーサー陸軍大将) | |||
●連合国陸上部隊 ブレーミー大将(豪) 全連合軍陸上部隊を指揮(連合国空軍指揮による若干の対空部隊を除く)。 | 米第6軍(1943年2月編成) (クルーガー米陸軍中将) 第1海兵師団。 アラモ軍(初めニューブリテン軍)。 | 第1軍団、第2工兵特別旅団、第503番落下傘連隊。 (アイケルバーガー米陸軍中将) | |
第1、第2オーストラリア軍。 ニューギニア軍。 (ブレーミー大将《豪》) | |||
●連合国海軍 カーベンダー米海軍中将 | 米第7艦隊。オーストラリア海軍、オランダ海軍の大部。 第7水陸両用軍。 | ||
●連合国空軍 ケニー米空軍中将。 | 米第5空軍。オーストラリア空軍。その他連合軍航空部隊。 | ||
●連合軍沿岸監視員(情報網として重要な役割を果たした。) 最初はその要員はオーストラリア軍隊で将校任官辞令を与えられた英国人、豪州人あるいはニュージーランド人の文官、または農園主だったが、昭和18年頃には、総司令部の連合軍情報課の一員として、アメリカ軍の専門技術を持った者が配置された。ソロモン諸島の沿岸監視員は、彼らの観察をその性質上、直接南太平洋方面司令部に報告する組織をとっていた。沿岸監視員の活動により、日本側の部隊、船舶および飛行機の行動について、かなり詳細な情報を迅速に、連合軍情報組織は入手することができた。また、ニューギニアもソロモン諸島も、内陸部の地形はほとんど知られておらず、かつ実際に地図もなかったので、沿岸監視員は地形に関する重要な情報源でもあった。 更に彼らの隠れ家は、ほとんどの連合軍作戦に、主力に先立って日本軍戦線の後方に突進する斥候のための基地として、実に貴重なものであったと米陸軍公刊戦史は述べている。(引用)戦史叢書「南太平洋陸軍作戦3」 |
(引用・抜粋)戦史叢書「南東方面海軍作戦3」
●連合軍のガ島及びブナヘの来攻・1942年(昭和17年)は、1942年7月2日米統合幕僚長会議が指令した「ウォッチタワー作戦計画」に基づき実施されたものであった。この作戦計画は、ラバウル攻略を最終目標に掲げ、
第2期にソロモン諸島残郡とラエ、サラモア及びニューギニア北東岸の占領、
第3期にニューブリテン、ニューアイルランド各地区のラバウルヘの近接点の占領をそれぞれ指示していた。
そしてガ島及びツラギ攻略作戦は、太平洋方面部隊指揮官C・W・ニミッツ大将指揮の下にW・F・ハルゼー中将(10月中旬までR・L・ゴムレー中将)の指揮する南太平洋部隊が担任し、ニューギニア方面の作戦は、D・マッカーサー陸軍大将の指揮する南西太平洋方面軍が担任した。第2、第3期各作戦は、マッカーサー大将の戦略的統一指揮の下に実施される予定であった。
ブナにおける日本軍の抵抗がやんだ昭和18年1月23日、マッカーサー大将はパプア作戦の終結を宣言した。2月9日には、ガ島の戦闘も終結した旨宣言された。かくして日本軍の南進は食い止められ、米豪連絡線に対する脅威はなくなった。
●1943年(昭和18年)1月中、下旬、米英首脳出席の下にカサブランカ会談が開かれた。この会議は、米英間の意見の差が大きく、これを調整しただけにとどまったが、1943年の連合軍の戦略構想として、欧州方面においてシシリー島上陸、太平洋方面においては、従来に引き続き連合軍海上交通線の保護、英領土の防衛、日本商船隊に対する潜水艦戦のほか、次の諸作戦を実施することを決定した。
2、トラック及びグァムに向けて進攻する。
3、アリューシャンの奪取に努める。
4、ニューギニア、ミンダナオ路線を進攻、チモール島を奪取する。
5、中国援助のため次によりビルマを奪取する。(ー以下略)
これより先、ガ島に対する日本軍の脅威がなくなった昭和17年12月上旬から、米国においては、「ウォッチタワー作戦」の第2期、第3期作戦の開始について陸海軍間で折衝を始めていたが、中央と現地間、現地陸海軍間などで意見の一致をみていなかった。
※昭和17年3月の米英間の協定により、連合軍の戦略指揮担任区域は太平洋方面を米国、印度洋方面を英国と定めた。
●昭和18年3月12日、カサブランカ会談の結果をふまえて、次期「ウォッチタワー作戦」を決定するため、太平洋方面部隊、南西太乎洋方面軍、南太平洋部隊各部隊代表者を招集してワシントンで太平洋軍事会議が開催された。席上、現地代表は、第2期、第3期作戦を遂行しラバウルを占領するために、睦上部隊22コ師団と3分の2コ師団、飛行機45グループ、統合幕僚長会議が出し得る限りの海軍艦艇を要求した。ワシントンでは、これに応じ得るような兵力の準備はしていなかった。特に飛行機が少なかった。欧州戦線との関連で兵力の配分について真剣な討議が行われたが、結局現地軍の要求を満たし得ないので、昭和18年の作戦としては第2期作戦だけに限定することに意見が一致した。兵力としては、現在作戦中の部隊及び輸送途上の兵力に加えて、更に米陸軍2コ師団、飛行機6・5グループの派遣が決定された。飛行機だけについて言えば、この増援によって南西太平洋方面軍と南太平洋部隊は、海軍が南太平洋に配分するものを合わせると、重爆240機を含む2,500機をもって作戦することになった。この会議を終わるに当たって統合幕僚長会議は、3月29日昭和18年度の作戦としてラバウル占領を取り消すとともに、次のとおり指示した。
1、本作戦は、南西太平洋方面軍指揮官の戦略指揮の下に実施する。
2、ソロモン諸島作戦(東経159度以西)は、南西太平洋方面軍指揮官の一般指令の下に、南太平洋部隊指揮官の直接指揮下に実施する。
3、太平洋方面部隊に属する艦船、航空機、地上部隊は、統合幕僚長会議の指令により本作戦に参加するものを除き、太平洋方面部隊指揮官の指揮下に残置する。
(作戦要領)
1、キリウイナ及びウッドラーク島に飛行場を設定する。
2、ラエ、サラモア、フィンシュハーヘン、マダン、ニューブリテン島西部(グロセスター岬)を奪取。
3、ボーゲンビル島南部を含むソロモン諸島の奪取。
キリウイナ、ウッドラーク両島は「ウオッチタワー作戦計画」には含まれていなかったが、重爆撃機数が現地軍の要求を満たし得なかったので、北部ソロモンの目標に対しニューギニア方面の中型爆撃機の攻撃圏を延伸するために、両島に中継飛行場建設が必要となったためであった。また、この両飛行場に戦闘機隊が進出すれば、空母機動部隊がソロモン海深く作戦できることとなるのであった。
この統合幕僚長会議指令に基づき、南西太平洋方画軍指揮官は4月26日、「カートホイル作戦」という暗号名称の下に、12月末までの南東方面作戦の実施計画を発令した。
●この「カートホイル作戦」は、上図のように南西太平洋方面軍と南太平洋方面軍が車の両輪のように陸海空軍が合同して日本軍の一大拠点ラバウル攻略を目指したものである。日本軍の各所にある航空基地の爆撃、海軍基地への攻撃、輸送ルートの壊滅などを行った。
(地図)「絶対国防圏周辺における陸海軍主要部隊の兵力配置図」昭和19年5月末現在。赤〇-連合軍、青〇-日本軍。(出典)戦史叢書「大本営海軍部連合艦隊⑥」朝雲新聞社
(※ルッセル諸島《=ラッセル島》はガダルカナル島とニュージョージア島の中間。キリウイナ及びウッドラーク島はニューギニア、ラビ北東の島。)地図に追記した。
段階 | 南西太平洋方面軍 ニューギニア方面 | 南太平洋方面部隊 ソロモン方面 |
---|---|---|
第1段階 | ウッドラーク及びキリウイナを占領。 守備隊は南太平洋方面部隊。 | ニュージョージア島あるいはサンタイサベル※(ニュージョージア島の東)、または両者へ進出。 |
第2段階 | ラエ、サラモア、フィンシュハーフェン及びマダンに進撃。 | この間、重爆による南部ボーゲンビル、ブカおよびラバウルを攻撃。その後戦略的な海軍支援、ソロモン諸島における日本軍機の抑止と作戦支援を行う。 ●ファイシ島及びボーゲンビル島南部を占領する。 (マダンを占領する頃までに) ※(ファイシ島)はボーゲンビル島南端のショートランド島の南端の島 |
第3段階 | グロスター岬上陸、ガスマタ制圧。 ※(ニューブリテン島《ラバウル》) | キエタ及びブカ島を制圧。※(ボーゲンビル島) |
昭和19年1月頃 | ニューブリテン島西部の作戦終了。 | ボーゲンビル島占領を終える。 |
時期 | 中部太平洋方面 マーシャル諸島からマリアナ諸島方面(サイパン、グアム) | 南西太平洋方面の作戦 ニューギニアからフィリピン方面 |
---|---|---|
1944年3月 | ●ニミッツ提督は統合幕僚長会議の指令に基づいて、トラック作戦計画を中止しマリアナ作戦準備を最優先とする旨を発令した。そして予定期日も大幅に変更され、サイパン、グアム、テニアン占領を1944年6/15。パラオ占領を1944年9/8。ミンダナオ占領を1944年11/15。台湾南部およびアモイ占領またはルソン占領を1945年2/15、とした。 | ●マッカーサー将軍は、3/5統合参謀本部に新作戦計画を提出した。この計画では、カビエンは予定通り4/1占領、ニューギニアに対しては、ハンサ湾を放置して、4月末以前にホーランジアに上陸するというものであった。作戦予定は、太平洋艦隊に支援された2コ師団で4/15ホーランジア上陸、同地に基地設定後、6/1ごろヘルビング湾に進撃、さらに翌月中旬、3コ師団をアラフラ海諸島に送って左翼援護の措置を講じたのち、9月中旬にフォーゲルコップ半島とハルマヘラに進撃、11/15ミンダナオ上陸という案だった。 |
1944年3/12 | ●統合参謀本部は、これらの提案や各種の意見を調整したうえで、3/12新たな指令を発令した。マッカーサー将軍に対する任務は以下の通りだった。
〇カビエン作戦を省略し、最小限の部隊でラバウルおよびカビエンを無力化する。 〇アドミラルチー諸島の海空基地を急速に開発。 〇ウエワク、ハンサを放置したまま、4月15日にホーランジアに躍進する。同地占領の主目的は、該地に航空基地を開設し、重爆によるパラオ、西部ニューギニアおよびハルマヘラヘの攻撃を開始し得るようにすること。 〇じ後、ニューギニア海岸沿いに北西に向かう作戦と、パラオおよびミンダナオ大進攻準備のため、使用し得る兵力で可能な他の作戦を遂行。 〇比島上陸の期日は、11月15日と予定。 |
(出典)「大本営海軍部連合艦隊6」戦史叢書・朝雲新聞社。連合軍主要作戦推進要図に記載されている一覧。
上陸期日(昭和) | 上陸地点 | 上陸部隊 |
---|---|---|
17-8/8 | ガダルカナル島 | 海兵第1、第2師団。アメリカル師団。歩兵第25師団。 |
18-1/12 | アムチトカ島 (アリューシャン列島) | 歩兵第10師団の一部。 |
●マリアナ沖海戦は史上最大の艦隊決戦といわれ、日本側は空母9隻(空母艦載機439機)と戦艦(大和・武蔵等)、重巡洋艦など合計62隻だった。日本の航空機は、航続距離3000kmを超える新鋭機「天山」艦攻、「彗星」艦爆、零式52型などで、アウトレンジ戦法(米機の攻撃圏外から攻撃を行う)で先制攻撃を仕掛けた。
一方米側は、空母15隻(空母艦載機902機)、巡洋艦21隻、駆逐艦69隻など合計112隻の陣容だった。米側の航空機も新鋭機グラマンF6Fヘルキャット(艦上戦闘機)、カーチスSB2Cヘルダイバー(艦上爆撃機)などが待ち受けた。艦隊決戦といっても実質は航空戦で、米軍はレーダーピケット任務(レーダーによる索敵を主目的)を担う駆逐艦の大規模展開により、アウトレンジ戦法で先制攻撃を行う日本機を速やかに探知し、刻々と無線電話でその位置を連絡し、日本機を上空で待ち構え撃破した。さらに米艦隊上空に達した日本機も、米軍が新たに開発したVT信管を装着した高角砲弾(対空射撃)によって撃ち落とした。米軍は日本機がバタバタと撃墜されていく様子を「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄した。
※(VT信管)・・アメリカが開発した信管で、電波を発射し、目標に接近するとその反射波を感知して弾薬を爆発させる信管。対空高射砲の撃墜率向上のため、アメリカはこの開発を原爆開発に匹敵する巨大計画として推進、1944年に量産体制に入った。6月のマリアナ沖海戦で米艦隊は対空高角砲にVT信管を使用し、日本機の撃墜に大きな成果を収めた。
●上新聞の「大本営発表」には、「海軍は先制攻撃を行い、空母5、戦艦1以上を撃沈破、100機以上撃墜」とある。このような嘘の発表が常態化したことが、のちに重大戦局において軍上層部の判断すら誤らせたといわれている。
(新聞)昭和19年6/24朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●この結果日本海軍は、最新鋭空母「大鳳」(6/19米潜水艦による雷撃)、大型空母「翔鶴」(6/19米潜水艦による雷撃)、中型空母「飛鷹」(6/20米航空機攻撃)を失い、そして多くの航空機と熟練パイロットを失って機動部隊は壊滅状態となった。日本海軍は戦力、乗員の練度、技術力、情報力などで米軍には及ばなかった。
●アメリカ海軍新鋭機の例(艦上機)。1段目左から、グラマンF6Fヘルキャット(艦上戦闘機)、カーチスSB2Cヘルダイバー(艦上爆撃機)、グラマンTBFアベンジャー(艦上攻撃機)。
(写真出典)「太平洋戦争・陸海軍航空隊」成美堂出版1999年刊。
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※特にグラマンF6Fヘルキャット(艦上戦闘機)は、日本海軍の零戦に倍するエンジンパワーと強力な武装を持った機体で、1943年9月から太平洋戦線に投入され、日本海軍を圧倒した。またグラマンTBFアベンジャー(艦上攻撃機)は、1942年6月から実戦に投入され、太平洋戦争終結まで米海軍空母部隊の主力艦上攻撃機として君臨した。戦艦「大和」、戦艦「武蔵」を撃沈したのもこの機だった。
●日本海軍の新鋭機。下左から零式艦上戦闘機(この頃は零式艦上戦闘機52型、52丙型が最新鋭機として採用されている。写真は別の型)、彗星艦上爆撃機、天山艦上攻撃機。
(写真出典)「海軍航空概史」戦史叢書・朝雲新聞社。
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※「彗星」は、戦闘機なみの性能を持った高性能艦上爆撃機を目標に開発された(昭和18年12月制式採用)。「天山」は97式艦攻のあとをついだ単発3座の艦上攻撃機。昭和18年8月制式採用。
●マリアナ沖海戦での米空母は15隻で艦載機総数は902機とある。なお、米海軍では空母名を引き継いで使用している。(出典)戦史叢書「マリアナ海戦」朝雲新聞社
区分 | 空母名(正=正規空母、軽=軽空母) |
---|---|
第1群 | エセックス(正)、カウペンス(軽)、ラングレイ(軽) |
第2群 | エンタープライズ(正)、レキシントン(正)、サンジャシント(軽)、プリンストン(軽) |
第3群 | バンカーヒル(正)、 ワスプ(正)、 モンテレー(軽)、キヤボット(軽) |
第4群 | ホーネット(正)、ヨークタウン(正)、ベローウッド(軽)、バタン(軽) |
(註)( )内の正は正規空母、軽は軽空母で搭載機数は各艦異なっているが、平均して正規空母92機、軽空母32.4機であり、総計902機でその半数は戦闘機である。
●日本海軍の空母は9隻、空母艦載機は下表のように総数439だった。下表の601空は、第1航空戦隊の指揮下ではなく、第3艦隊の直率下にあり、編制表では(附属)とされる。
(出典)戦史叢書「マリアナ海戦」朝雲新聞社
戦隊名 | 第1航空戦隊 | 第2航空戦隊 | 第3航空戦隊 | 計 |
---|---|---|---|---|
空母名 | 大鳳、瑞鶴、翔鶴 | 隼鷹、飛鷹、龍鳳 | 千歳、千代田、瑞鳳 | 9隻 |
海軍航空隊 | 601空 | 652空 | 653空 | |
零戦21型 | 11 | 27 | 45 | 83 |
零戦52型 | 80 | 53 | 18 | 151 |
九九式艦爆 | 9 | 29 | 0 | 38 |
彗星艦爆 | 70 | 11 | 0 | 81 |
天山艦攻 | 44 | 15 | 9 | 68 |
九七式艦攻 | 0 | 0 | 18 | 18 |
航空隊計 | 214 | 135 | 90 | 439 |
※第4航空戦隊が第3艦隊に編入されたのは昭和19年5/1で、同戦隊は「あ」号作戦には参加せず、内海西部で整備訓練に当たっていた。
下図は、「絶対国防圏周辺における陸海軍主要部隊の兵力配置図」で、そこに下段で述べる「第1航空艦隊」司令部位置と、各航空戦隊の指令部の位置、そして第1機動艦隊の集結地点である「タウイタウイ泊地」等を記入したものである。
●また陸軍については、〇〇Dが〇〇師団表し、新設された第31軍はサイパンに司令部があり、31Aと軍司令部の記号で表記されている。この第31軍には満州からパラオへ第14師団、同じく第29師団(マリアナ諸島)、名古屋から第43師団(マリアナ諸島)が第31軍に編入された。また中国大陸から第35師団(ニューギニア北部マノクワリ)は2A(第2軍)に編入された。(出典)戦史叢書「大本営海軍部連合艦隊5」朝雲新聞社。
●「あ」号作戦とは、連合軍の絶対国防圏への来攻に対して、第1航空艦隊(基地航空戦隊)と第1機動艦隊(空母機動部隊を主力)を決戦兵力の中核として、5月以降に集中使用して、連合軍機動部隊に対して大反撃を加えて、戦局の転換を図ろうとするものであった。
●だが基地航空部隊は、米機動部隊による、トラック(2月中旬)、マリアナ(2月下旬)、パラオ(3月下旬)、さらにトラック方面(4月末~5月初め)に対する大規模空襲等により、再三にわたり大損害をうけた。そのため基地航空部隊は、19年4月末においては決戦を行える状態ではなくなっていた。そこで大本営海軍部は、北東方面及び南西方面の一部を除いて全兵力を第1航空艦隊(下段②)に統合して、「あ」号作戦の体制づくりを行った。だが6/5現在の第1航空艦隊の兵力の実数は、約530機にすぎず、定数の1/3にも満たなかった。(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「海軍航空概史」
また海軍は、この基地航空隊の基盤である航空基地を、連合軍の攻撃が急迫するなかで完成を急ぎ、6月上旬にはマリアナ及びカロリン方面は一応の造成をみた。だが、豪北及び比島方面は不十分であり、特に必要とされる諸施設及び兵器はきわめて貧弱だった。
●マリアナ方面(9カ所)・・サイパン(3)、テニアン(3)、グァム(2)、ロタ(1)。
●東カロリン方面(7カ所)・・トラック(4)《春島2、竹島1、楓島1》、モートロック(1)、メレヨン(1)、エンダービー(1)。
●西カロリン方面(4か所)・・パラオ(3)《アイライ、ガドブス、ペリリュー》、ヤップ(1)。
●西部ニューギニア、豪北、南部比島、(計8カ所)・・ビアク(1)、ソロン(1)、バボ(1)、モミ(1)、ワシレ(1)、ダバオ(3)。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「海軍航空概史」
●また第1機動艦隊の第3艦隊(空母機動部隊)にも次のような共通する問題があった。第3艦隊は第1航空戦隊(大鳳、瑞鶴、翔鶴)、第2航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)、第3航空戦隊(千歳、千代田、瑞鳳)だったが、第1航空戦隊は3月~4月初めに「リンガ泊地(シンガポール南方約148kmにある海軍の拠点)」に進出して訓練を開始していたが、第2、第3航空戦隊の空母は整備が遅れた。また各戦隊とも、艦上機の新機種「天山」「彗星」が装備されたが、搭乗員・整備員とも不慣れで訓練に支障がでた。さらに艦隊は5/16に「タウイタウイ泊地(フィリピン、ボルネオの油田から近い)」に集結したが、付近に米潜水艦が進出しており、計画していた総合訓練ができなかった。さらに彗星の着艦訓練もできず、同地で待機中の1ヶ月間訓練がほとんどできなかったことが、若い搭乗員の練度を一層低下させた原因となった。
●このように海軍には問題があったが、特に根本的な問題として、搭乗員の問題と油槽船(燃料確保)問題が深刻であった。
※(搭乗員の問題)とは、連合軍との長期にわたる航空消耗戦によりベテラン搭乗員の多くが失われたが、補充される搭乗員は練習航空隊卒業後短期間の錬成を受けたに過ぎないものが大部分を占めていたことである。海軍は彼らを錬成し、更に部隊として訓練をしなければならなかったが、それを行う余裕がなかった。4/24の軍令部と連合艦隊の打合せでは次のように航空機の消耗原因が示されたという。
また夜間雷撃と哨戒の主兵力である陸攻隊(主力一式陸攻)の戦力低下が問題(哨戒においても未帰還機が多くでる)となっていた。その代わりと期待された「銀河」は、新機種であるため機材的にもまだセットせず、搭乗員、整備員の不慣れもあって稼働率が悪く、訓練する余裕すらなかった。※上写真は海軍陸上爆撃機「銀河」。海軍が極めて高い理想のもとに開発した、双発急降下爆撃機で零戦なみの速度と一式陸攻なみの航続距離を持ち、雷撃にも使用できた。ただ「誉」発動機の不調が多く稼働率が低かった。(写真出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「海軍航空概史」
※(油槽船問題)とは、日本の油槽船(タンカー)が、連合軍の攻撃によって多数を喪失したことが原因である。下は昭和19年1月~3月までの油槽船の喪失内訳である。連合艦隊配属の油槽船が8割を占めていた。海軍は燃料不足によって、作戦遂行にも重大な制約を受けるようになっていたのである。
●トラック被空襲・・3隻、28,238総トン。
●パラオ被空襲・・3隻、25,829総トン(連合艦隊給油特務艦3隻)。
●事故によるもの・・1隻、5,135総トン。
計14隻、124,896総トン。(連合艦隊所属11隻、102,477総トン)
下は昭和19年2月の船舶被害の状況である。米潜水艦の増強と行動の活発化、戦況の悪化による航空機攻撃の拡大により、日本の船舶の被害は激増し、特に2月はトラック空襲のため、開戦以来の最大の船舶被害を記録した。
●潜水艦によるもの・・沈没46隻(214.6千トン)、損傷12隻(99.6千トン)、計58隻(314.2千トン)
●飛行機によるもの・・沈没44隻(230.6千トン)、損傷09隻(18.9千トン)、計53隻(249.5千トン)
●機雷および艦艇・・・沈没02隻(006.2千トン)、損傷04隻(10.8千トン)、計06隻(017.0千トン)
●海難によるもの・・・沈没04隻(011.7千トン)、損傷12隻(51.0千トン)、計16隻(062.7千トン)
●合計・・・・・・・沈没96隻(463.1千トン)、損傷37隻(180.3千トン)、計133隻(643.4千トン)
(トラック被空襲)・・船舶被害30隻(188.0千トン)
●海軍船・・・・・・沈没43隻(232.0千トン)、損傷14隻(87.9千トン)、計57隻(319.9千トン)
●陸軍船・・・・・・沈没25隻(109.4千トン)、損傷08隻(24.6千トン)、計33隻(134.0千トン)
●民間船・・・・・・沈没28隻(121.7千トン)、損傷15隻(67.8千トン)、計43隻(189.5千トン)
●さらに連合軍のビアク島(ニューギニア島北岸)上陸作戦(5/27)に関連した問題があった。連合艦隊司令長官は連合軍のビアク島上陸の報に接し、第1航空艦隊に対し第3次攻撃集団投入を下令し、のちに陸軍部隊増援のための「渾(こん)作戦(第1次~3次)」を開始したことである。さらに6/3には、マリアナ方面の第2次攻撃集団にも進出を命じた。連合艦隊は、米機動部隊壊滅(「あ」号作戦)のための航空兵力を西方に移動して決戦海面を西カロリン方面に誘致しようとしたのである。だが米軍はマリアナ方面(サイパンなど)に来襲したのである(6/11)。第1航空艦隊は、5/26までに第1次攻撃集団をパラオ方面、第2次攻撃集団をマリアナ方面、第3次攻撃集団をヤップ、第23航空戦隊の一部をソロンに配置していた。
●次段以降では、②連合艦隊の主要艦隊(第1航空艦隊)の戦時編制、そして③連合艦隊(第1機動艦隊)の戦時編制、最後に④帝国海軍戦時編制(司令官名と司令部の位置)(昭和19年6/15)を一覧にした。
①海軍部は昭和19年3/4に、内南洋に中部太平洋艦隊(第14航空艦隊《新編》+第4艦隊)を新設した。この第14航空艦隊には、第22航空戦隊と第26航空戦隊があったが、5/5の戦時編制改訂により、これらは第1航空艦隊に移された。
②第1航空艦隊は昭和19年2/1以降、第61航空戦隊と第62航空戦隊の2コ航空戦隊であったが、米軍の中部太平洋進攻により大きな損害をうけた。このため練度の比較的高いものを第61航空戦隊に集め、さらに第13航空艦隊、第14航空艦隊から航空戦隊を編入した。そして第62航空戦隊は独立させ、内地において訓練を急がせた。
③この第1航空艦隊の航空機の定数は、合計すると1600機以上となるが、実際の保有機数や実働機数は、はるかに定数には及ばなかった。「戦史叢書」「海軍航空概史」によれば、6/5現在の第1航空艦隊の兵力の実数は、約530機にすぎず、定数の1/3に満たなかったと書かれている。下段の編制表の航空戦隊ごとに実数も記入した。
※この第1航空艦隊編制表の航空機合計定数1682機は、「戦史叢書」「海軍航空概史」朝雲新聞社によったが、「大本営海軍部連合艦隊5」は1750機とあり、表の合計1646機とも異なっている。この理由は、第23航空戦隊の定数がそれぞれ異なるせいである。
戦隊名 | 航空隊名(略称) | 特設飛行隊名 | 定数・機数(常用+補用) |
---|---|---|---|
★第1航空艦隊 角田覺治中将 (基地航空部隊)合計定数1682機(図表計1646機)赤字6/5現在実数約530機 「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊5」1750機、「海軍航空概史」1682機。 | |||
第61航空戦隊 上野敬三少将 (定数計696機)。実数計約285機 「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊5」と「海軍航空概史」共に696機。 | |||
第121海軍航空隊(121空) | 艦偵48 | ||
第261海軍航空隊(261空) | 零戦72 | ||
第263海軍航空隊(263空) | 零戦72 | ||
第265海軍航空隊(265空) | 零戦72 | ||
第343海軍航空隊(343空) | 零戦72 | ||
第321海軍航空隊(321空) | 夜戦72 | ||
第521海軍航空隊(521空) | 銀河96 | ||
第523海軍航空隊(523空) | 彗星96 | ||
第761海軍航空隊(761空) | 中攻96 | ||
第22航空戦隊 澄川道夫少将 (定数計520機)実数計約134機 「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊5」522機と「海軍航空概史」520機。 | |||
航空隊名(略称) | 特設飛行隊名 | 定数・機数(常用+補用) | |
第151海軍航空隊(151空) | 偵101 | 艦偵24 | |
第202海軍航空隊(202空) | 戦301、戦603 | 各零戦48 | |
第253海軍航空隊(253空) | 戦309、戦310 | 各零戦38 | |
第301海軍航空隊(301空) | 戦310 戦601 | 零戦36 雷電48 | |
第251海軍航空隊(251空) | 戦901 | 夜戦48 | |
第503海軍航空隊(503空) | 攻107 | 彗星48 | |
第551海軍航空隊(551空) | 攻251 | 艦攻48 | |
第755海軍航空隊(755空) | 攻701、攻706 | 各中攻48 | |
第26航空戦隊 有馬正文少将 (定数計240機)実数計約43機 「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊5」と「海軍航空概史」共に240機。 | |||
第201海軍航空隊(201空) | 戦305、戦306 | 各零戦48 | |
第501海軍航空隊(501空) | 戦351 攻105 | 零戦48 艦爆48 | |
第751海軍航空隊(751空) | 攻704 | 中攻48 | |
第23航空戦隊 伊藤良秋少将 (定数計120機)実数計約43機 「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊5」240機、「海軍航空概史」120機。「マリアナ沖海戦」では753空がリストにある。 | |||
第153海軍航空隊(153空) | 偵102 戦311 | 艦偵24 零戦48 | |
第732海軍航空隊(732空) | 攻705(707) | 中攻48 | |
※第753海軍航空隊(753空) | 攻705 | ||
附属 (定数計70機) 「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊5」と「海軍航空概史」共に70機。 | |||
第1021海軍航空隊(1021空) | 陸輸48 | ||
偵察機隊 | 飛行艇、三座水偵(各8) | ||
輸送機隊 | 陸輸4、水輸2 | ||
●上記第1航空艦隊の編制表で、航空隊名が番号化されたのは、昭和17年11/1施行からである。従来、作戦航空隊は地名などを冠していたが、3ないし4桁の番号を冠することに改められた。下がその意味するところである。
100位(機種) | 10位(所管鎮守府) | 1位(常設・特設) |
---|---|---|
1-偵察機 | 0-横鎮(横須賀鎮守府) | 1位は、奇数を常設、偶数を特設とした。 (一例) 751空-陸攻隊-佐鎮所管-常設航空隊 202空-戦闘機隊-横鎮所管-特設航空隊 (新旧例) 鹿屋空(旧)→751空(新) 元山空(旧)→755空(新) |
2-戦闘機 | 1-横鎮 | |
3-戦闘機 | 2-横鎮 | |
4-水偵 | 3-呉鎮(呉鎮守府) | |
5-艦(爆)攻 | 4-呉鎮 | |
6-母艦機 | 5-佐鎮(佐世保鎮守府) | |
7-陸攻 | 6-佐鎮 | |
8-飛行艇 | 7-佐鎮 | |
9-哨戒機 | 8-舞鎮(舞鶴鎮守府) | |
10-輸送機 | 9-舞鎮 |
●上記第1航空艦隊の編制表で、海軍航空隊の右の欄に「戦301」等と書かれているのが「特設飛行隊」である。昭和17年以降南東方面の戦況は激化し、兵力の消耗が甚だしく、航空隊の入れ替えも頻繁となった。その際、航空隊の人員・装備を全部一緒に移動させることはもはや不可能となってしまった。そこで航空隊の兵力消耗に対する補充交代を、飛行隊単位で行うこととし、特設飛行隊の制度が採用された。この特設飛行隊は、艦船または航空隊に属し、艦船または航空隊の長は、特設飛行隊を指揮して、その飛行機の整備を所管又は協力することになった。特設飛行隊には、点検整備に必要な最小限度の飛行機、兵器の熟練整備員を編入させていた。この制度は「空地分離」(飛行機の部隊と、基地の支援任務を行う部隊を分離させることをいう)の前段階であった。
そして19年7/10には「空地分離」制度が採用され、航空隊は2種類(甲航空隊と乙航空隊)に分かれた。それは特設飛行隊を有する「甲航空隊」と、基地任務を主とし、必要に応じ飛行機隊を指揮できる「乙航空隊」の2つであった。下は特設飛行隊の名称、兵力である。
飛行隊 | 機種 | 飛行機隊 |
---|---|---|
戦闘第1~第400飛行隊 | 甲戦(戦闘機と戦うことを主目的とした戦闘機。艦戦に相当)又は艦戦 | 2隊 |
戦闘第401~第800飛行隊 | 乙戦(爆撃機と戦うことを主目的とした戦闘機。局地戦闘機・局戦) | 2隊 |
戦闘第801~第1000飛行隊 | 丙戦(夜間戦闘機) | 1隊 |
攻撃第1~第200飛行隊 | 艦爆(空母用艦上爆撃機) | 2隊 |
攻撃第201~第400飛行隊 | 艦攻(空母用艦上攻撃機) | 2隊 |
攻撃第401~第600飛行隊 | 陸爆(陸上基地用の陸上爆撃機) | 2隊 |
攻撃第601~第800飛行隊 | 陸攻(陸上基地用の陸上攻撃機) | 2隊 |
偵察第1~第200飛行隊 | 陸偵(陸上基地から行動する陸上偵察機) | 2隊 |
偵察第201~第300飛行隊 | 飛行艇(水上飛行機で、小艇、中艇、大艇) | 1.5隊 |
偵察第301~第600飛行隊 | 水偵(水上基地で使用する水上偵察機) | 1.5隊 |
偵察第601~第1000飛行隊 | 哨戒機(敵潜水艦の警戒・攻撃に使用する飛行機) | 1隊 |
挺身第1~第100 | 輸送機(人員や荷物を運ぶための飛行機) | 1隊 |
(注)これらの飛行隊は、戦闘をS、攻撃をK、偵察をTとし、たとえば戦闘第1飛行隊を「S1」、「戦1」と略称した。
(出典)「戦史叢書」「海軍航空概史」朝雲新聞社
①上記第3艦隊附属の第601海軍航空隊は、第1航空戦隊の指揮下ではなく、第3艦隊の指揮下に置かれた。上記の、601空、652空、653空の母艦航空兵力(定数)は合計450機(戦闘機225機、艦爆117機、艦攻99機、艦偵9機)であった。
②第4航空戦隊が第3艦隊に編入されたのは昭和19年5/1で、同戦隊は「あ」号作戦には参加せず、内海西部で整備訓練に当たっていた。
③上記「第3艦隊」に所属していない航空母艦は、次の小型空母「大鷹」「雲鷹」「海鷹」「神鷹」である。これらの空母は、「海上護衛総司令部部隊」に属し、輸送航路の警備や航空機の輸送業務にあたっていた。また「鳳翔」は内地にて第62航空戦隊の訓練部隊に属していた。
艦隊名 | 戦隊名 | 司令官(旗艦) | 艦船部隊 |
---|---|---|---|
★第1機動艦隊 小澤治三郎中将(「大鳳」) | |||
第2艦隊 栗田健男中将(「愛宕」) | |||
第4戦隊 | 栗田中将直率 | 愛宕、高雄、摩耶、鳥海、《重巡洋艦》。 | |
第1戦隊 | 宇垣纒中将 | 長門、大和、武蔵、《戦艦》。 | |
第3戦隊 | 鈴木義尾中将 | 金剛、榛名、《戦艦》。 | |
第5戦隊 | 橋本信太郎少将 | 妙高、羽黒、《重巡洋艦》。 | |
第7艦隊 | 白石萬隆少将 | 熊野、鈴谷、利根、筑摩、《重巡洋艦》。 | |
第2水雷戦隊 | 早川幹夫少将 | 能代《軽巡洋艦》。 第27駆逐隊、第31駆逐隊、第32駆逐隊、島風《駆逐艦》。 | |
第3艦隊 小澤治三郎中将兼務 | |||
第1航空戦隊 | 小澤中将直率 | 大鳳、瑞鶴、翔鶴、《大型航空母艦》。 | |
第2航空戦隊 | 城島高次少将 | 隼鷹、飛鷹、《中型航空母艦》。 龍鳳《小型航空母艦》。 第652海軍航空隊(艦戦81、艦爆36、艦攻18。) ※機数は常用、補用の計。 | |
第3航空戦隊 | 大林末雄少将 | 千歳、千代田、瑞鳳、《小型航空母艦》。 第653海軍航空隊(艦戦63、艦攻27。) | |
第4航空戦隊 | 松田千秋少将 | 伊勢、日向、《航空戦艦》。 第634海軍航空隊(艦爆24、水爆24。) | |
第10戦隊 | 木村進少将 | 矢矧《軽巡洋艦》。 第4駆逐隊、第10駆逐隊、第17駆逐隊、第61駆逐隊。 | |
附属 | 最上《重巡洋艦》。 第601海軍航空隊(艦戦81、艦爆81、艦攻54、艦偵9。) |
●昭和19年6/15「あ号作戦決戦発動」時の戦時編制(大項目のみ)と司令官名と司令部の位置を一覧にした。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊5」「大本営海軍部連合艦隊6」
艦隊名 | 艦隊名(附属) | 司令官 | 司令部の位置 |
---|---|---|---|
●連合艦隊 豊田副武(とよだ そえむ)大将 (「大淀」) | |||
第1航空艦隊 | (基地航空部隊) | 角田覺治中将 | テニアン |
第1機動艦隊 | 小澤治三郎中将 | (「大鳳」) | |
第2艦隊(戦艦) | 栗田健男中将 | (「愛宕」) | |
第3艦隊(空母) | 小澤中将兼務 | ||
第6艦隊 | (潜水艦部隊) | 高木武雄中将 | サイパン |
北東方面艦隊 | 戸塚道太郎中将 | 幌筵(千島列島の北東部) | |
第5艦隊 | 志摩清英中将 | (「那智」) | |
第12航空艦隊 | 戸塚中将兼務 | ||
中部太平洋艦隊 | 南雲忠一中将 | サイパン | |
第4艦隊 | 原忠一中将 | トラック | |
第14航空艦隊 | 南雲中将兼務 | ||
南東方面艦隊 | 草鹿任一中将 | ラバウル | |
第8艦隊 | 鮫島具重中将 | ブーゲンビル島ブイン | |
第11航空艦隊 | 草鹿中将兼務 | ||
南西方面艦隊 | 三川軍一中将 | ジャワ島スラバヤ(インドネシア) | |
第1南遣艦隊 | 田結穣中将 | シンガポール | |
第2南遣艦隊 | 河瀬四郎中将 | ジャワ島スラバヤ | |
第3南遣艦隊 | 岡新中将 | ルソン島マニラ(フィリピン) | |
第4南遣艦隊 | 山縣正郷中将 | モルッカ諸島アンボン(インドネシア) | |
第9艦隊 | 遠藤喜一中将 | ニューギニア、当時行方不明 | |
第13航空艦隊 | 三川中将兼務 | ||
●支那方面艦隊 | 近藤信竹大将 | 上海 | |
第2遣支艦隊 | 副島大助中将 | 香港 | |
海南警備府部隊 | 松木益吉中将 | 海南島三亜(中国) |
●海上護衛総司令部部隊 及川古志郎大将 (東京) |
---|
部隊名 | 司令官 | 司令部の位置 |
---|---|---|
横須賀鎮守府部隊 | 吉田善吾大将 | 横須賀(神奈川県) |
大湊警備府部隊 | 井上保雄中将 | 大湊(青森県) |
呉鎮守府部隊 | 野村直邦大将 | 呉(広島県) |
大阪警備府部隊 | 大野一郎中将 | 大阪 |
舞鶴鎮守府部隊 | 牧田覚三郎中将 | 舞鶴(京都府) |
佐世保鎮守府部隊 | 小松輝久中将 | 佐世保(長崎県) |
鎮海警備府 | 後藤映次中将 | 鎮海(朝鮮) |
高雄警備府部隊 | 福田良三中将 | 高雄(台湾) |
下図は、ラバウル防衛陣地配備図(ニューブリテン島ラバウル付近)の一部である。(出典)戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」朝雲新聞社。次段で述べる「ズンゲン」はラバウルの100km程度南方にある。
●昭和18年末連合軍は、ソロモン諸島を北上してラバウルのあるニューブリテン島に上陸した。連合軍はラバウル(東端)とは反対の西部から上陸を始めた。1943/12/15連合軍、ニューブリテン島のマーカス岬に上陸。12/26には連合軍、ニューブリテン島の西北端グロセスター岬ツルブに上陸(12/30日、ツルブ飛行場を占領)。そして12/27には、連合軍戦闘機約50機が、ニューブリテン島ラバウルの日本軍基地を強襲した。日本軍は西部地域からラバウルへ撤退し防衛体制を強化していく。
図は、ニューブリテン島で「ラバウル防衛陣地配備図の部分」(出典)「南太平洋陸軍作戦5」戦史叢書・朝雲新聞社。
●このラバウルは日本軍の一大拠点で、第8方面軍司令部(今村均大将)・陸軍約6万人、南東方面艦隊兼第11航空艦隊司令部(草鹿仁一中将)・海軍約3万5,000人が同居する基地であった。
だが連合軍はその後ラバウル上陸作戦は行わず、ラバウルを孤立化させ遊兵化させる方針を選んだ。もし上陸作戦を行えば、連合軍は多大なるダメージ(人的損害も含め)を受けると考えたのである。それよりも、早く日本本土を直接叩くことを優先させたのである(B29による日本本土爆撃)。●孤立したラバウルだったが、陸海軍は共に自活の道を選び、2500ヘクタールの農地を開墾し、タピオカ、タロイモ、豆類などを栽培し、マッチ、味噌、醤油も自製した。またインク、布、火薬も製造し、陸の正面80km、海の正面200kmという大要塞まで建設した。敗戦時の自給率は85%に達し、備蓄食料は2カ月もあったという。写真は、「写真週報NO351号」昭和19年12月20日の記事で、「銃後に活かせラバウル勇士の敢闘」と題されたもの。ラバウルの自活生活の様子が撮られている。(出典)国立公文書館 アジア歴史資料センター
●だがラバウルの師団司令部(第38師団)は、最前線(ズンゲン)が豪軍の攻撃を受けたとき、援軍を送ることはせず、ズンゲン守備隊は玉砕した。だが実はその時、玉砕せず遊撃戦に転じた200数10名が生き残っていた。師団司令部はこの報告に驚き、ズンゲン守備隊の玉砕を大本営に報告した手前、生き残った部隊の先任将校らを自決させ、玉砕をしなかった責任を取らせたのである。
●次段では、水木しげるの作品の紹介と戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」から「第38師団のワイド湾方面の作戦」の章を転載した。日本軍は、敵に降伏することを認めず、「玉砕」することを美化し、最終的には守るべき国民にも玉砕を強制していった。日本の戦争指導者達は、全国民に、降伏することを許さず、捕虜となる事も許さず、最後は敵に向かって突進して死ぬ(玉砕)ことを求めた。サイパン、沖縄と、民間人も玉砕を強制されていった。
●水木しげるの「総員玉砕せよ!」1973年刊が、この「ズンゲン守備隊玉砕」を題材とした作品である。「水木しげる伝」(講談社《第1刷2004年》第5刷2006年)によれば、水木しげるは、昭和17年徴集され鳥取連隊に所属し、昭和18年(1943年)ガダルカナルの補充兵として南方に送られる(2月、日本軍はガダルカナルから撤退)。そのため、水木しげるは、パラオに滞在してからニューブリテン島へ向かった(岐阜連隊の補充兵として)。時期はわからないがニューブリテン島ココボ(ココポ)に上陸したとある。
こうして水木初年兵はラバウル周辺の部隊ですごしたのち、昭和19年(1944年)になって、成瀬支隊(ズンゲン支隊)に編入され、ズンゲン攻略へ向かう。この時期は、下段の第8方面軍命令の「ラバウル周辺の要域作戦要領」の「第4 兵団部署」に次のようにあるので、4/18前後と思われる。
20・・第38師団は東部ラバウル要域に来攻する敵を撃滅す
之が為概ね左の如く部署す
2、ズンゲン及アドラー附近に歩兵1大隊を配置し同方面に対する警戒及情報収集に任ぜしむ
(出典)「南太平洋陸軍作戦5」戦史叢書・朝雲新聞社。
●こうして水木2等兵は先発隊としてズンゲンに上陸するが、そこには敵兵は誰もいなかった。ズンゲンでは陣地構築の果てしない日々が続き、ときおりラバウルへ向かう爆撃機に爆撃されたという。そうするうちズンゲン支隊(成瀬大尉)はラバウルに引き揚げることとなったが、児玉中隊(200人)だけが残ってズンゲン守備隊となった(水木しげるも残された)。この支隊500人うち200人が置き去りにされたことが、後の「ズンゲン玉砕」がうまくいかなかった理由と書かれている(中隊のなかに不満がひろがった)。
●その後、水木2等兵は100kmほど先のバイエンに10人で行くことになった。これはジャキノット(300km先)に20~30人の海軍がいたが、ここにダイハツが米を積んで入港するといったまま連絡を断ったことが原因だった(ジャキノットも全員行方不明)。バイエンにはソルジャーボーイ(現地人の兵士)がいたが、彼らは全員スパイ(オーストラリア軍側)だった。そして分隊はバイエンに到着したが一挙に攻撃を受け水木を除いて全滅した。それから水木の逃避行がはじまり、百難去っても助かることができないほどの体験の後、水木はズンゲンに帰り着くことができた。だが水木は「敗残兵」と上官からは罵られた。
その後水木はマラリアを発症し、その闘病中に空襲を受け片腕を失った。彼はこれほどの瀕死の状態のなかでも奇跡的に助かり、昭和19年6月末頃、ココポ野戦病院に移送された。以後ラバウル近郊の傷病兵訓練施設などを、マラリアの再発に悩まされながら転々と療養生活をおくった。
●この体験が水木しげるの戦後一貫した価値観となり、「総員玉砕せよ!」「敗走記」「白い旗」などの作品を生んだ。「総員玉砕せよ!」の「あとがき」を引用しておく。
この「総員玉砕せよ!」という物語は、90パーセントは事実です。
ただ、参謀が流弾にあたって死ぬことになっていますが、あれは事実ではなく、参謀はテキトウな時に上手に逃げます。
物語では全員死にますが、実際は80人近く生き残ります。
下段の「堀 亀二軍曹の回想録の要点」の最初は、「昭和19年10月5日、成瀬少佐は、部下1個中隊を指揮し、ズンゲンに進駐して兒玉(=児玉)隊と合流し、ズンゲン支隊を再編成すべし、云々」という師団命令が出たところから始まる。成瀬支隊長は少佐となって、ズンゲンに戻ってくる。
●ここでは戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」から、「第38師団のワイド湾方面の作戦」の章を転載した。日本軍ズンゲン地区の守備隊とオーストラリア軍の戦いのところである。そのなかでは、①オーストラリア軍「豪陸軍公刊戦史」と、日本軍からは②「歩兵第228聯隊史」第9中隊長春日井由太郎大尉の手記と、③「支隊本部堀 亀二軍曹回想録1~4」が抜粋されている。
●この「堀 亀二軍曹回想録1~4」には、玉砕したはずのズンゲン守備隊の生き残りの先任将校2名が、玉砕しなかったことの責任をとり自決したことと、それより前、守備隊の軍医中尉がラバウルに成瀬支隊の状況を詳細報告したあと、師団司令部壕内で無念のピストル自殺したという「悲しい事実」の結末が簡単に書かれている。この2人の先任将校らの自決については、前段の水木しげるの作品では詳しく描かれているし、また下でリンクした「NHK戦争証言アーカイブス」にも詳しい証言がなされている。長文の転載になってしまったが、「玉砕」を知る意味で必要だと思う。