1942年(昭和17年)④日本陸海軍、ガダルカナル奪回への死闘、そして撤退。
2022年7月18日第2次世界大戦
(上写真・部分)昭和17年10/5、ソロモン群島キゾ島(ベラ・ラベラ島南東の島)上空を飛ぶアメリカ軍B-17重爆撃機。このB-17を日本軍はなかなか撃墜することができなかった。(写真出典)「写真・太平洋戦争」雑誌「丸」編集部 編。潮書房光人社2015年刊
●ミッドウェー海戦の敗北(6/5)は、海軍に大きな打撃を与えた。海軍は機動部隊の空母4隻とその航空兵力の多数を失ったことで、空母部隊を活用する積極的な作戦を企画できなくなった。そのため連合艦隊は6月中旬、弱体化した航空戦力を補うため、南東方面の「航空基地強化作戦」であるSN作戦(ソロモン諸島、ニューギニア方面)を発令した。ガダルカナル島など航空基地急速整備の開始である。
●だが海軍にとっては、何よりも機動部隊の再建が急務の問題であった。そこで海軍は、軍備拡充計画を改訂(⑤計画→改⑤計画)し空母急造計画をたて、機動部隊を建制化(第3艦隊)し、連合艦隊の戦時編制(第8艦隊の新設等)を行った(7/14)。
●ここでは、海軍の航空基地強化作戦(SN作戦)、ミッドウェー海戦敗退後の「連合艦隊戦時編制改定」、「開戦からの連合艦隊編制の推移」「第8艦隊編制内容」、「空母急造対策と軍備計画の改定(改⑤計画)」、「航空母艦建造実績」、「主力航空機の生産状況」などを一覧にした。
上地図は、太平洋の南東方面(ビスマルク諸島、ソロモン諸島、ニューギニア東部)の地図に、当時の日本軍の航空基地などを書き込んだイメージ図である。特に海戦場所は広範囲に戦闘が行われているので、正確な範囲を示すものではない。星野作成(地図出典)「世界大地図帳」平凡社1984年刊
SN作戦における基地整備と担任は次のとおりである。
●連合艦隊司令部は、次期作戦の関係上ガダルカナル飛行場の8月上旬完成を希望した。下記が各基地の整備状況である。(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊3」
基地 | 内容 |
---|---|
ガダルカナル | 7月上旬に2コ設営隊と警備の陸戦隊が上陸し、7/16基地設営を開始した。そして8/5には長さ800m、幅60mの滑走路などを概成(=ほぼできあがる)し、戦闘機の進出が可能となった。だがこの間敵は大型機による攻撃を逐次強化してきた。これに対して水上戦闘機では反撃に効果が期待できないので、設営隊指揮官は零戦の進出を要望した。基地航空部隊では、8/16には六空戦闘機1コ分隊が進出予定だった。 |
カビエン | 6/23、第12設営隊が進出し、8/6には陸攻が発着可能となった。同基地は8月上旬に増援を得て8/15までに一応1コ航空戦隊の収容が可能となった。 |
ラエ | ラエには7/1設営隊が到着したが、連合艦隊司令部のキエタ基地調査の要望に関連して、基地航空部隊指揮官が同設営隊のキエタ転用を要望したため、ラエ基地整備は中止された。 |
●だが7月、アメリカ軍はガダルカナルの飛行場建設を発見した。アメリカの反攻作戦が始まった(連合軍ガダルカナル上陸作戦8/7)。
●8月末の時点で日本軍の使用できる飛行場は、ラバウル飛行場(東と西)とカビエンの3飛行場で、その他にはブカ島に一部の戦闘機隊の基地があるだけだった。そしてブーゲンビル島南部のブイン基地の急速設営が発令されたのは9/8で、その概成は早くて9月末の見込みだった。
●この航空基地の問題は、日本軍の大きな敗因の一つであった。ガダルカナル島までの距離は、ブカ基地から約300浬(約556km)、ラバウル基地から約560浬(約1037km)に及んだ。そのため主力戦闘機である零戦の戦場上空での滞空時間もわずか15分という短い時間となってしまったのである。
●海軍は、ミッドウェー海戦の敗因の分析と戦訓から、連合艦隊の戦時編制を改定した。一挙に主力空母4隻と航空機、そして何よりもベテランパイロットを含む貴重な人員を失った日本海軍は、早急な立て直しを迫られたのである。そのポイントは以下の点である。
②第8艦隊(外南洋部隊)を新しく編成し、南方要地の攻略と豪州方面の作戦を担当させた。旧来の第4艦隊は、南洋群島の防備や前進根拠地の整備拡充と南洋方面全般の交通保護を担当した。
またこの第8艦隊の新編成により、南洋方面には、第11航空艦隊(基地航空部隊)、第4艦隊(南洋部隊)と第8艦隊が併立することになったが、統一作戦を行う場合は、第11航空艦隊司令長官が統一指揮を行うことになった。
●永野修身軍令部総長による上奏文の第3艦隊新編成の部分。ひらがなで表示。
仍(よっ)て現有航空母艦の大部を以て第1、第2航空戦隊を編成し 之に高速戦艦2隻より成る第11戦隊、巡洋艦戦隊2隊及新鋭駆逐艦より成る第10戦隊を加へまして1箇艦隊を編成致します 鳳翔は着艦訓練艦を兼ねまして之に附属せしめます 而して此の艦隊は航空艦隊と致しますよりも第3艦隊と申した方が適当と考へますので第1航空艦隊を解隊し第3艦隊を新に編成する次第で御座います」
●下が、ミッドウェー海戦後の第3艦隊、第8艦隊の艦隊編制である。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊2」「大本営海軍部連合艦隊3」
(注)次段の「連合艦隊の編制の推移」で昭和17年4/10現在(第2段作戦開始時)と比較して下さい。
(第3艦隊司令長官・南雲忠一中将) | |
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戦隊名 | 艦船部隊・「特設艦船部隊」 |
第1航空戦隊 | 《航空母艦》瑞鶴、翔鶴、瑞鳳。 |
第2航空戦隊 | 《航空母艦》龍驤、隼鷹、飛鷹(7/31編入)。 |
第11戦隊 | 《戦艦》比叡、霧島 |
第7戦隊 | 《重巡洋艦》熊野、鈴谷、最上。 |
第8戦隊 | 《重巡洋艦》利根、筑摩。 |
第10戦隊 | 長良(旗艦《軽巡洋艦》)、《駆逐艦》・第4駆逐隊(嵐、萩風、野分、舞風)・第7駆逐隊(曙、潮、漣)・第10駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)・第16駆逐隊(初風、雪風、天津風、時津風)・第17駆逐隊(浦風、磯風、谷風、浜風)。 |
附属 | 《航空母艦》鳳翔。《駆逐艦》夕風。第1航空基地隊。 ●リストには、ここに既に沈没した航空母艦(赤城)と(飛龍)を載せている |
(注)1コ航空戦隊は、大型空母2隻と小型空母1隻の3隻編制とし、小型空母を主として自隊の防御を担当させ、大型空母を攻撃に専念させる目的とした。 また、搭載機は艦戦、艦爆を増加し艦攻を減らし、従来の敵戦艦の撃沈ではなく、敵空母撃破を主目的とする航空決戦を目指した。 |
空母艦名 | ●艦戦(艦上戦闘機)●艦爆(艦上爆撃機)●艦攻(艦上攻撃機) |
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翔鶴、瑞鶴。 | ●艦戦各27(21)、●艦爆各27(21)、●艦攻各18(21) |
瑞鳳。 | ●艦戦21(12)、●艦爆0、●艦攻6(12) |
隼鷹、飛鷹。 | ●艦戦各21(16)、●艦爆各18(24)、●艦攻各9(0) |
龍驤。 | ●艦戦24(16)、●艦爆0、●艦攻9(20) |
●常用機補用機の合計。()カッコ内は改定前。
(第3艦隊司令長官・三川軍一中将) | |
---|---|
戦隊名 | 艦船部隊・「特設艦船部隊」 |
独立旗艦 | 《重巡洋艦》鳥海 |
第18戦隊 | 《軽巡洋艦》天龍、龍田。 |
第7潜水戦隊 | 迅鯨(旗艦《潜水母艦》) 第13潜水隊(伊号第121、第122、第123潜水艦) 第21潜水隊(呂号第33、第34潜水艦) |
第7根拠地隊 父島→ラエ | 第23駆潜隊、第32駆潜隊。第85通信隊、第85潜水基地隊。 |
第8根拠地隊 ラバウル | 第20号、第21号掃海艇。第21、第31駆潜艇。第5砲艦隊、第56駆潜隊、第81警備隊、第82警備隊、第84警備隊、第8潜水艦基地隊、第8通信隊。 |
附属 | 《機雷敷設艦》津軽、第30駆逐隊《駆逐艦》(睦月、彌生、卯月)。第12設営隊、呉鎮守府第3特別陸戦隊、(特設水上機母艦)聖川丸、第2航空隊、第10、第11、第15設営隊、第13、第14設営隊、佐世保鎮守府第5特別陸戦隊。 |
(連合艦隊電令作第181号7/14抜粋・兵力部署の改正) 7、基地航空部隊・・第11航空艦隊司令長官 第11航空艦隊、第2航空隊(注・第8艦隊附属) 東及南東正面に対する航空戦。 8、内南洋部隊 ・・第4艦隊司令長官 第4艦隊、特別陸戦隊2 「ナウル」島「オーシャン」島攻略、「オーシャン」島方面基地整備、担当区域の防備哨戒。 9、外南洋部隊 ・・第8艦隊司令長官 第8艦隊(一部欠)、第6戦隊 陸軍と協同「ポートモレスビー」攻略(主として陸路より)、「ニューギニア」の戡定(かんてい=平定)、「ソロモン」諸島方面航空基地の整備、担任区域の防備哨戒、NK(ニューカレドニア)、F(フィジー)作戦の研究。 |
海軍では、艦艇から発着する飛行機を「艦上機」といい、陸上からのものを「陸上機」といい、水面から発着できるフロートを着けたものを「水上機」と呼んだ。(※用語)「艦戦」・・艦上戦闘機、「艦攻」・・艦上攻撃機、「艦爆」・・艦上爆撃機、「中攻」・・中型陸上攻撃機、「水偵」・・水上偵察機。
●下段に昭和17年4/10現在(第2段作戦開始時)の連合艦隊の編制(大項目のみ)を一覧にした。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「海軍航空慨史」
青字は代表的な機種
●海軍では、艦艇から発着する飛行機を「艦上機」といい、陸上からのものを「陸上機」といい、水面から発着できるフロートを着けたものを「水上機」と呼んだ。
代表的な機種は、(零式水上偵察機《三座水偵》)と「飛行艇」は(九七式飛行艇)など。
●「戦闘機」は、積極的に空中戦を行う飛行機。(零式艦上戦闘機)
●「攻撃機」は戦闘能力を持ち、魚雷または爆弾を搭載するもの。(九七式艦上爆撃機・九六式陸上攻撃機・一式陸上攻撃機)
●「爆撃機」は爆弾のみを搭載するもので、「艦上爆撃機」は急降下爆撃機を指した。(九九式艦上爆撃機)
●下は、「航空機による攻撃力の種類」「主要航空機の写真(一例)」「インド洋セイロン島での戦訓」
(攻撃力の種類)使用機 | 内容 | |
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(対艦船水平爆撃) ●艦攻、●中攻、飛行艇、三座水偵 | 主力となったのは艦攻、中攻で、高高度を水平飛行し爆弾(800キロの徹甲弾・通常弾、500キロと250キロの通常弾)などを投下する攻撃。高度を上げれば命中率が下がるが爆弾の威力は増す。高度を下げれば命中率は上がるが、防空砲火を浴びてしまう。そこで研究の結果、9機編隊で爆撃を面(逆三角形)で行う編隊爆撃方式にした。16年10月に行われた第1航空艦隊教練爆撃の命中率は、9機編隊、高度3000mで、平均10%だった。 | |
(急降下爆撃) ●艦爆。九九式艦上爆撃機。 | この攻撃は、一直線に低空まで降下して爆撃(高度400m~600mで爆弾投下)するので、きわめて命中率が高いことが特徴。携行可能な爆弾は250キロで、16年10月の第1航空艦隊教練爆撃の命中率は、成績平均40%、最高50%だった。特に昭和17年4月のインド洋で、イギリス海軍小型空母(ハーミス)を艦爆45機で攻撃し、命中率82%でこれを撃沈したことは有名。命中率が高いため、防御の弱い空母や中小艦艇や地上の小型目標には、最も有効な攻撃方法だった。 | |
(雷撃) ●艦攻、●中攻、時に飛行艇。 | この攻撃は、飛行機で敵防御砲火の中に突入して、魚雷(重量800キロ余)を敵艦より1000m以内に投下し、艦船の水線下に攻撃を加えるもので、効果は大きかった。ただ海戦時海軍が使用していた魚雷は、馳走距離2000mで水中速力は42節(1ノット=1.852km。約77.8km/h)だった。そのため敵艦の回避に余裕を与えないため、多方面からの同時攻撃が必要だった。さらに雷撃隊が突入する直前に艦爆隊を突入させ、敵の防御砲火を制圧し指揮混乱を図ることが極めて有効な方策だった。 | |
(空中戦闘・戦闘機) ●艦戦、艦爆・二座水偵・観測機。艦戦以外は主として防御として空戦を行う。 | 特に「零式艦上戦闘機」は20ミリ固定機銃2丁と7.7ミリ固定機銃2丁を装備した、火力・航続力・運動性など全ての面で、世界的傑作戦闘機だった。主要任務は、味方の艦隊・要地を攻撃してくる敵機の迎撃、敵地攻撃のための爆撃機の護衛などである。ミッドウェー海戦で、アメリカの急降下爆撃機に攻撃を受けた時、零戦は敵雷撃機を攻撃(ほとんど撃墜)するため低空に降りていて、上空ががら空きとなっていた。 |
●上左から零式艦上戦闘機、九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機。2段目左から九六式陸上攻撃機、一式陸上攻撃機、零式水上観測機。3段目左から二式水上戦闘機、零式三座水偵、九七式輸送飛行艇。
(写真出典)「写真・太平洋戦争」雑誌「丸」編集部 編。潮書房光人社2015年刊
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このインド洋セイロン沖海戦でも、ミッドウェー海戦と同じように雷爆装転換を行った。4/5朝、南雲機動部隊は、敵飛行艇に触接されたが、攻撃隊艦攻54機、艦爆38機、零戦36機を発進させコロンボを強襲、大戦果を収めた。しかしなお湾内に輸送船20隻があるとの報告を受け、司令官は艦上で待機していた雷装の艦攻隊(第5航空戦隊《瑞鶴、翔鶴》)へ爆装への転換を下命した。
一方、西方を索敵中の水偵は、約150浬(約277km)のところを南下中の巡洋艦2隻の発見を報じた。そこで指揮官は、爆装を下命した艦攻隊へ再び雷装へ戻すように命じた。だが作業はなかなかはかどらなかった。そこで指揮官は、第一、第二航空戦隊に待機させていた艦爆隊53機に発進を下命した。
艦爆隊は、敵重巡2隻(英コーンウェルとドーセッシャー)を発見攻撃し、2隻とも撃沈した。この時の命中率は88%という驚異的な数字だった。(上写真)インド洋での「九九式艦上爆撃機」(出典)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作。
●この戦訓から、のちに飛龍で艦攻18機による雷爆装転換を実験し、その所要時間を計った。下がその成績である。空母上での雷爆装転換は、実験でも1時間半~2時間半はかかるので、戦闘状態で航空機の発進と着陸を行いながらの転換作業は、さらに時間のかかる作業だったに違いない。
①爆弾は格納庫に出し、搭載準備完了の状態 |
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雷装から25番(250キロ)2発・2時間30分 |
雷装から80番(800キロ)通常・1時間30分 |
雷装から80番(800キロ)徹甲・2時間30分 |
②魚雷は格納庫に出し、搭載準備完了の状態 |
25番2発から雷装・2時間 |
80番通常から雷装・2時間 |
80番徹甲から雷装・1時間30分 |
●ミッドウェー海戦では、日本軍が雷爆装転換で混乱しているときに、アメリカ軍の艦爆隊(急降下爆撃機)の攻撃で空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)が被弾し大火災の後に沈没した。この時1隻残った飛龍は直ちに反撃し米空母ヨークタウンを撃破した。だがこの飛龍も米軍の急降下爆撃機に撃破され沈没した。
この雷爆装転換で混乱している時、第二航空戦隊の司令官山口多聞少将(飛龍)は、南雲司令官に「直ちに艦爆隊発進の要ありと認む」と意見を具申したが却下されていたのである。
●昭和17年4/10現在(第2段作戦開始時)の連合艦隊の編制(大項目のみ)を下段で一覧にした。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊2」「大本営海軍部連合艦隊3」
●この昭和17年4/10現在(第2段作戦開始時)の編制は、昭和16年12月(太平洋戦争開戦時)と比べるとポイントは次の3点である。
②第11航空艦隊(基地航空部隊)の規模を拡大した(昭和17年4/1戦時編制改定)。これにより基地航空部隊は、6コ航空戦隊、15コ航空隊となり、主な飛行機の定数(常用、補用の計)は、中攻472機(開戦時288)、艦戦300機(開戦時245機)、飛行艇48機(開戦時48機)となった。だが当時までの飛行機の生産状況は、わずかに消耗を上回る程度だったので、第一線部隊の保有機数合計は開戦時と大差なかった(戦史叢書)。
③空母は第3航空戦隊が解隊され「鳳翔・瑞鳳」は第1艦隊直率となった。
下が、昭和17年4/10現在(第2段作戦開始時)の海軍の艦隊編制である。
連合艦隊山本五十六大将 | |
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戦隊名 | 艦船部隊・「特設艦船部隊」 |
第1戦隊 | 大和(旗艦)、長門、陸奥、《戦艦》。 |
(直率する部隊) 第11航空戦隊 | 瑞穂、千歳、《水上機母艦》。 |
第5潜水戦隊 | 由良(旗艦《軽巡洋艦》) 第19潜水隊(伊号第56、第57、第58、第59潜水艦) 第30潜水隊(伊号第62、第64、第65、第66潜水艦)、伊号第8潜水艦。。りおでじゃねろ丸(特設潜水母艦) |
第1連合通信隊 | 東京海軍通信隊 高雄海軍通信隊 父島海軍通信隊。沖縄通信隊、第3,4,5,6通信隊 |
附属 | 千代田(水上機母艦→空母)、日進(水上機母艦)、矢風(標的艦)、摂津(標的艦)、明石(工作艦)、朝日(工作艦)、室戸(病院船・運送艦)。報国丸(特設巡洋艦)、愛国丸(特設巡洋艦)、清澄丸(特設巡洋艦・輸送艦) 浦上丸(特設工作艦)、山鳩丸(特設電線敷設船) ●横須賀鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第3特別陸戦隊。 |
下段は、連合艦隊を構成する8つの艦隊の編制一覧である。主力となった航空機動部隊である「第1航空艦隊」の序列はまだ低い位置にいる。
第1艦隊高須四郎中将 | |
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戦隊名 | 艦船部隊・「特設艦船部隊」 |
第2戦隊 | 伊勢、日向、扶桑、山城、《戦艦》。 |
第3戦隊 | 金剛、榛名、霧島、比叡、《戦艦》。 |
第6戦隊 | 青葉、衣笠、加古、古鷹、《重巡洋艦》。 |
第9戦隊 | 北上、大井、《軽巡洋艦》。 |
第1水雷戦隊 | 阿武隈(旗艦《軽巡洋艦》) 第6駆逐隊(雷、電、響、暁) 第21駆逐隊(初春、子曰、初霜、若葉) 第24駆逐隊(海風、山風、涼風、江風) 第27駆逐隊(有明、夕暮、白露、時雨) 《駆逐艦》。 |
第3水雷戦隊 | 川内(旗艦《軽巡洋艦》) 第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪、叢雲) 第19駆逐隊(磯波、浦波、敷波、綾波) 第20駆逐隊(天霧、朝霧、夕霧、白雲) 《駆逐艦》。 |
第1艦隊直率 | 鳳翔、瑞鳳《航空母艦》。三日月、夕風、《駆逐艦》。 |
附属 | 神祥丸(特設水雷母艦) |
第2艦隊近藤信竹中将 | |
戦隊名 | 艦船部隊・「特設艦船部隊」 |
第4戦隊 | 高雄、愛宕、鳥海、摩耶、《重巡洋艦》。 |
第5戦隊 | 那智、羽黒、妙高、《重巡洋艦》。 |
第7戦隊 | 最上、三隈、鈴谷、熊野、《重巡洋艦》。 |
第8戦隊 | 利根、筑摩、《重巡洋艦》。 |
第2水雷戦隊 | 神通(旗艦《軽巡洋艦》) 第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮) 第16駆逐隊(初風、雪風、天津風、時津風) 第18駆逐隊(霞、霰、陽炎、不知火) 《駆逐艦》。 |
第4水雷戦隊 | 那珂(旗艦《軽巡洋艦》) 第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨) 第4駆逐隊(嵐、萩風、野分、舞風) 第8駆逐隊(朝潮、大潮、満潮、荒潮、) 第9駆逐隊(山雲・夏雲・朝雲・峯雲) 《駆逐艦》。 |
附属 | 神風丸(特設水雷母艦) |
第4艦隊井上成美中将 | |
戦隊名 | 艦船部隊・「特設艦船部隊」 |
独立旗艦 | 鹿島《練習巡洋艦》。 |
(南洋部隊) 第18戦隊 | 天龍、龍田《軽巡洋艦》。 |
第19戦隊 | 沖島、常磐、津軽、《機雷敷設艦》。 |
第6水雷戦隊 | 夕張(旗艦《軽巡洋艦》) 第23駆逐隊(菊月、夕月、卯月) 第29駆逐隊(追風、朝凪、夕凪) 第30駆逐隊(睦月、彌生、卯月) 《駆逐艦》。 |
第7潜水戦隊 | 迅鯨(旗艦《潜水母艦》) 第21潜水隊(呂号第33、第34潜水艦) 第26潜水隊(呂号第61、第62、第65、第67潜水艦) 第33潜水隊(呂号第63、第64、第68潜水艦)。 |
第3特別根拠地隊 パラオ | 「特設艦船部隊」 西京丸(特設砲艦)、江戸丸(特設砲艦)、福山丸(特設砲艦兼敷設艦)。 第13掃海隊、第55駆潜隊。 |
第4根拠地隊 トラック | 「特設艦船部隊」 高栄丸(特設敷設艦)、第2号長安丸(特設砲艦)、第2号長江丸(特設砲艦)、平壌丸(特設砲艦)。 第14掃海隊、第57駆潜隊、第58駆潜隊、第41警備隊、第42警備隊。 |
第5特別根拠地隊 サイパン | 「特設艦船部隊」 弘玉丸(特設砲艦)、昭徳丸(特設砲艦)、勝泳丸(特設砲艦兼敷設艦)。 第59駆潜隊、第60駆潜隊、第54警備隊。 |
第6根拠地隊 クェゼリン | 「特設艦船部隊」 第8砲艦隊、八海山丸(特設砲艦兼敷設艦)、光島丸(特設砲艦兼敷設艦)、第16掃海隊、第62駆潜隊、第63駆潜隊、第65駆潜隊、第61警備隊、第62警備隊、第63警備隊、第64警備隊、第65警備隊、第19航空隊、第6潜水艦基地隊。 |
第8根拠地隊 ラバウル | 第20号掃海艇。第5砲艦隊、第56駆潜隊、第81警備隊、第82警備隊、第8通信隊、第8潜水艦基地隊。 |
第2海上護衛隊 | 熊代丸(特設巡洋艦)、長運丸(特設砲艦)、金城山丸(特設巡洋艦)。 |
附属 | 「特設艦船部隊」 第4港務部、第4測量隊、聖川丸(特設水上機母艦)、松栄丸(特設工作艦)、氷川丸(特設病院船)、金龍丸(特設巡洋艦)、神川丸(特設水上機母艦)。 ●呉鎮守府第3特別陸戦隊。 |
第5艦隊細萱戊子郎中将 | |
戦隊名 | 艦船部隊・「特設艦船部隊」 |
第21戦隊 | 多摩、木曽、《軽巡洋艦》。 |
(本土東方警備・アリューシャン方面) 第22戦隊 | 粟田丸、赤城丸、浅香丸、《特設巡洋艦》。 |
第7根拠地隊 父島 | 父島海軍航空隊。吉田丸(特設砲艦兼敷設艦)、まがね丸(特設砲艦兼敷設艦)、第17掃海隊、第66駆潜隊、第7防備隊。 |
附属 | 帆風、汐風、《駆逐艦》。君川丸(特設水上機母艦)、興和丸(特設砲艦)、第二日の丸(特設砲艦)、第十福栄丸(特設砲艦)、神津丸(特設砲艦兼敷設艦)、第一雲洋丸(特設砲艦)、第1監視艦隊、第2監視艦隊、第3監視艦隊。 |
第6艦隊小松輝久中将 | |
戦隊名 | 艦船部隊・「特設艦船部隊」 |
独立旗艦 | 香取(練習巡洋艦)。 |
(潜水艦部隊) 第1潜水戦隊 | 第2潜水隊(伊号第15、第17、第19潜水艦) 第4潜水隊(伊号第23、第25、第26潜水艦) 伊号第9潜水艦。平安丸(特設潜水母艦) |
(潜水艦部隊) 第2潜水戦隊 | 第7潜水隊(伊号第1、第2、第3潜水艦) 第8潜水隊(伊号第4、第5、第6潜水艦) 伊号第7潜水艦。さんとす丸(特設潜水母艦) |
(潜水艦部隊) 第3潜水戦隊 | 第11潜水隊(伊号第74、第75潜水艦) 第12潜水隊(伊号第68、第69、第71、第72潜水艦) 伊号第8潜水艦。靖国丸(特設潜水母艦) |
(潜水艦部隊) 第8潜水戦隊 | 第1潜水隊(伊号16、第18、第20潜水艦) 第3潜水隊(伊号第21、第22、第24潜水艦) 第14潜水隊(伊号第27、第28、第29、第30潜水艦) 伊号第10潜水艦。>日枝丸(特設潜水母艦) |
附属 | 第13潜水隊(伊号第121、第122、第123潜水艦) |
第1航空艦隊南雲忠一中将 | |
戦隊名 | 艦船部隊・「特設艦船部隊」 |
(空母機動部隊) 第1航空戦隊 | 赤城(旗艦)、加賀、《航空母艦》。 |
第2航空戦隊 | 蒼龍、飛龍、《航空母艦》。 |
第4航空戦隊 | 龍驤、祥鳳、《航空母艦》。 |
第5航空戦隊 | 翔鶴、瑞鶴、《航空母艦》。 |
第10戦隊 | 長良(旗艦《軽巡洋艦》) 第7駆逐隊(曙、潮、漣) 第10駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、風雲) 第17駆逐隊(浦風、磯風、谷風、浜風) 《駆逐艦》。 |
第11航空艦隊塚原二四三中将 | |
戦隊名 | 艦船部隊・「特設艦船部隊」 |
(基地航空部隊) 第21航空艦隊 | 鹿屋海軍航空隊、東港海軍航空隊。 |
第22航空艦隊 | 美幌海軍航空隊、元山海軍航空隊。 |
4/17司令部テニアンへ 第23航空戦隊 | 高雄海軍航空隊。第3航空隊。小牧丸(特設航空機運搬艦) |
第24航空戦隊 | 千歳海軍航空隊。神威(水上機母艦。第1航空隊、第14航空隊。五洲丸(特設航空機運搬艦) |
第25航空戦隊 | 横浜海軍航空隊、臺(台)南海軍航空隊。第4航空隊。最上川丸(特設航空機運搬艦) |
第26航空戦隊 | 三沢海軍航空隊、木更津海軍航空隊。第6航空隊 |
附属 | 第34駆逐隊(羽風、秋風、太刀風) 《駆逐艦》。りおん丸、慶洋丸、名古屋丸、《特設航空機運搬艦》 |
南西方面艦隊高橋伊望中将 | |
戦隊名 | 艦船部隊・「特設艦船部隊」 |
南西方面艦隊は以下の3艦隊を統括した。「第1南遣艦隊(マレー・インドシナ)」と「第3南遣艦隊(フィリピン)」(=旧「南遣艦隊」)、そして第2南遣艦隊(インドネシア)(=旧「第3艦隊」) | |
直率 第1海上護衛隊 | 第13駆逐隊(若竹、呉竹、早苗) 第22駆逐隊(皐月、水無月、文月、長月) 第32駆逐隊(朝顔、芙蓉、苅萱) 《駆逐艦》。 鷺(水雷艇)、隼(水雷艇)。浮島丸(特設巡洋艦)、華山丸(特設砲艦)、唐山丸(特設砲艦)、北京丸(特設砲艦)、長壽山丸(特設砲艦)、でりい丸(特設砲艦)。 |
(マレー・インドシナ) 第1南遣艦隊 | 香椎(練習巡洋艦)、占守(海防艦)。 |
第9特別根拠地隊 サバン(スマトラ島) | 初鷹(敷設艦) 第1掃海隊。>永興丸(特設掃海母艦)、第91駆潜隊、第11潜水艦基地隊。 |
第10特別根拠地隊 シンガポール | 第7号掃海艇 第11駆潜隊。長沙丸(特設砲艦兼敷設艦)、第1警備隊、第10通信隊、第10港務部。 |
第11特別根拠地隊 サイゴン | 永福丸(特設砲艦兼敷設艦)、第11通信隊。 |
第12特別根拠地隊 アンダマン諸島 | 雁(水雷艇)。江祥丸(特設砲艦)、第41掃海隊、第12通信隊。 |
附属 | 勝力(敷設艦) 第5駆逐隊(朝風、春風、松風) 《駆逐艦》。 |
第2南遣艦隊 | 足柄(重巡洋艦)、厳島(敷設艦)。 |
第16戦隊 | 名取(軽巡洋艦)、鬼怒(軽巡洋艦)、五十鈴(軽巡洋艦)。 |
(インドネシア) 第21特別根拠地隊 スラバヤ(ジャワ島) | 白鷹(敷設艦)、第8号掃海艇、第11号掃海艇、第12号掃海艇、第1駆潜隊、第2駆潜隊。辰宮丸(特設敷設艦)、いくしま丸(特設掃海母艦)、第33航空隊、第21通信隊、第21潜水艦基地隊、第1港務部。 |
第22特別根拠地隊 バリクパパン(ボルネオ島) | 若鷹(敷設艦)、第15号掃海艇、第16号掃海艇、第21駆潜隊。辰春丸(特設敷設艦)、射水丸(特設掃海母艦)、第2警備隊、第2工務部。 |
第23特別根拠地隊 マッカサル(セレベス島) | 蒼鷹(敷設艦)、千鳥(水雷艇)、真鶴(水雷艇)、第12駆潜隊。新興丸(特設敷設艦)、第54駆潜隊、第3警備隊、第35航空隊。 |
第24特別根拠地隊 アンボン(モルッカ諸島) | 初雁(水雷艇)、友鶴(水雷艇)。西安丸(特設急設網艦)、第52駆潜隊、第24通信隊、第4警備隊。 |
附属 | 筑紫(測量艦)。山陽丸(特設水上機母艦)、山彦丸(特設工作船)、第2砲艦隊、第1測量隊。 |
第3南遣艦隊 | 球磨(軽巡洋艦)、八重山(敷設艦)。 |
第31特別根拠地隊 マニラ(フィリピン) | 第17号掃海艇、第18号掃海艇、第31駆潜隊。第3砲艦隊、第53駆潜隊、第31航空隊、第31通信隊。 |
第32特別根拠地隊 ダバオ(フィリピン) | 武昌丸(特設砲艦兼敷設艦)、慶興丸(特設砲艦)、第51駆潜隊、第32航空隊。 |
附属 | 讃岐丸(特設水上機母艦)、日祐丸(特設敷設艦)、第2測量隊、第36共同丸(特設測量艦)。 |
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊2」「大本営海軍部連合艦隊3」
ここでは、海軍の「改⑤計画」と「⑤計画」の対比、航空母艦建造状況一覧、主力航空機の生産状況等を記述した。
海軍は、ミッドウェー海戦の結果、既定軍備計画を急速かつ根本的に改訂しなければならない状況となった。それは直ちに航空兵力を画期的に増勢し、航空母艦を緊急建造することだった。計画が、計画で終わるか実行できるかは、まさに国力によるのである。
●アメリカは、1940年(昭和15年)に第3次ビンソン案(艦艇22隻167,000トン建造、航空機1,500機。1942年《昭和17年》完成)を計画した。次いでスターク計画と称された両洋(大西洋、太平洋)艦隊法案は、艦艇257隻132万トン建造、航空機を15,000機に増勢し、1946年(昭和21年)完成、という膨大な計画を立てた。
●日本海軍は昭和17年度計画として、昭和16年9月⑤計画(マルゴ計画)(第3次ビンソン案に対して)を立案していた。概要は、戦艦(大和型)3隻、超巡洋艦(新型)2隻、航空母艦(大鳳型)3隻を含む158隻約65万トン建造し、航空兵力の画期的増勢を期した。だが依然として大和改良型の計画も含んでいて、大艦巨砲主義を脱却してはいなかった。
●そしてミッドウェー海戦の結果を踏まえた「改⑤計画」が、昭和17年秋季までにその実行計画が案画された。下は「改⑤計画」と「⑤計画」の対比表で、「航空増勢計画」の実用航空隊(基地航空兵力と空母搭載機補充兵力)と「艦船建造補充」(主な艦艇の建造計画)を抜粋したものである。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊3」
●また「航空増勢計画」としての要員は次のようである。
①搭乗員、40,500名を養成する。作戦部隊の搭乗員は戦時常用機数に対して大型機2倍、その他の機種は1.5倍の組数、教育部隊その他に対しては所要員数を常時保有するものとする。
②搭乗整備員2,470名を養成する。配員率は搭乗員と同じ。
③飛行機整備員57,800名を養成する。
④兵器整備員19,400名を養成する。
●下が「改⑤計画」と「⑤計画」の対比である。
機種(1飛行隊の機数)(常用/補用=計) | 「改⑤計画」所要隊数改定による増減隊数と(機数) |
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陸上戦闘機 局戦+遠戦(36/12=48機) | +56隊(1344機) |
戦闘兼爆撃機(18/6=24機) | +34隊(816機) |
陸上偵察機(18/6=24機) | +5隊(120機) |
陸上 大型(18/6=24機) | -10隊(-240機) |
攻撃機 中型(18/6=24機) | +30隊(720機) |
水上戦闘機(18/6=24機) | -10隊(-240機) |
水上爆撃機(12/4=16機) | +-0 |
哨戒機(12/4=16機) | +10隊(160機) |
輸送機(18/6=24機) | +-0 |
飛行艇 大型(9/3=12機) | -24隊(-288機) |
飛行艇 中型(9/3=12機) | -12隊(-144機) |
合計 | +79隊(2248機) |
機種(1飛行隊の機数)(常用/補用=計) | 「改⑤計画」による増減隊数(機数) |
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艦上戦闘機(18/6=24機) | +13隊(312機) |
艦上攻撃機 艦上爆撃機(18/6=24機) | +20隊(480機) |
艦上偵察機(18/6=24機) | +3隊(72機) |
合計 | +36隊(864機) |
艦種(艦型) | 「改⑤計画」による増減 |
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戦艦(改大和型) | -3 |
超巡洋艦 | -2 |
巡洋艦乙 | -3 |
巡洋艦小 | +4 |
航空母艦(改大鳳型) | +3 |
航空母艦(雲龍型) | +3 |
航空母艦(改飛龍型) | +9 |
駆逐艦(甲) | -8 |
駆逐艦(乙)(防空駆逐艦) | +7 |
潜水艦(8種)(新型) | +94 |
海防艦(新型) | +30 |
掃海艇(新型) | +26 |
敷設艇(新型) | +4 |
駆潜艇(新型) | +12 |
※空母建造において特筆されるのが最後の空母「信濃」である。「信濃」は、1940年5月に起工した大和型戦艦3番艦(110号艦)を、ミッドウェー海戦後に急速改造した。だが1944年(昭和19年11月29)、横須賀から呉に回航途上、竣工から10日で、米潜水艦の雷撃により沈没した。
●下が航空母艦建造状況一覧である。
艦名 | 建造、改造、改装、完成年月。※(備考) |
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鳳翔(ほうしょう) | 1922年(大正11年)完成。日本初の空母。 ※昭和17年7月、第3艦隊附属で着艦訓練艦を兼ねる。敗戦後昭和20年以降、復員輸送艦として使用され、昭和22年5月解体。 |
赤城(あかぎ) | 1927年(昭和2年)新造、 1938年(昭和13年)改装完成。※昭和17年6月ミッドウェー海戦で沈没。 |
加賀(かが) | 1928年(昭和3年)新造、 1935年(昭和10年)改装完成。※昭和17年6月ミッドウェー海戦で沈没。 |
龍驤(りゅうじょう) | 1933年(昭和8年)完成。※昭和17年8月第2次ソロモン海戦で沈没。 |
蒼龍(そうりゅう) | 1937年(昭和12年)完成。※昭和17年6月ミッドウェー海戦で沈没。 |
飛龍(ひりゅう) | 1939年(昭和14年)完成。※昭和17年6月ミッドウェー海戦で沈没。 |
瑞鳳(ずいほう) | 1940年12月(昭和15年)潜水母艦高崎を改造。※昭和19年10月比島沖海戦で沈没。 |
翔鶴(しょうかく) | 1941年(昭和16年)完成。※昭和19年6月マリアナ沖海戦で沈没。 |
瑞鶴(ずいかく) | 1941年(昭和16年)完成。※昭和19年10月比島沖海戦で沈没。 |
大鷹(たいよう) | 1941年(昭和16年)「特設航空母艦」春日丸、昭和17年8月「航空母艦」大鷹と改名。※昭和19年8月米潜水艦の雷撃を受け沈没。 |
祥鳳(しょうほう) | 1941年(昭和16年12月)潜水母艦剣崎から改造。※昭和17年5月珊瑚海海戦で沈没。 |
飛鷹(ひよう) | 1942年(昭和17年7月)貨客船出雲丸を改造。※昭和19年6月マリアナ沖海戦で沈没。 |
龍鳳(りゅうほう) | 1942年(昭和17年11月)潜水母艦大鯨を改造。※昭和18年1月第3艦隊編入。昭和21年9月解体。 |
冲鷹(ちゅうよう) | 1942年(昭和17年11月)貨客船新田丸を改造。※昭和18年12月米潜水艦の雷撃を受け沈没。 |
雲鷹(うんよう) | 1941年(昭和16年)「特設航空母艦」八幡丸、改造後1942年(昭和17年8月)「航空母艦」雲鷹と命名。※昭和19年9月米潜水艦の雷撃を受け沈没。 |
隼鷹(じゅんよう) | 1941年(昭和16年)「特設航空母艦」隼鷹改造後、1942年(昭和17年7月)「航空母艦」隼鷹と命名。※昭和17年7月、第3艦隊第2航空戦隊。昭和22年8月解体。 |
海鷹(かいよう) | 1942年(昭和17年5月)「特設運送船」アルゼンチナ丸、改造後1943年(昭和18年11月)「航空母艦」海鷹と命名。※昭和20年米軍空爆により損傷、放棄される。 |
神鷹(しんよう) | ドイツ客船シャルンホルスト号を改造後、1943年(昭和18年12月)「航空母艦」神鷹と命名。※昭和19年11月米潜水艦の雷撃により沈没。 |
千歳(ちとせ) | 1943年(昭和18年12月)水上機母艦千歳を改造。※昭和19年10月比島沖海戦で沈没。 |
千代田(ちよだ) | 1943年(昭和18年12月)水上機母艦千代田を改造。※昭和19年10月比島沖海戦で沈没。 |
大鳳(たいほう) | 1944年(昭和19年3月)完成。 飛行甲板に装甲を施した大型空母。※昭和19年6月マリアナ沖海戦で沈没。 |
雲龍(うんりゅう) | 1944年(昭和19年8月)完成。 「飛龍型、同改型」新造。※昭和19年12月米潜水艦の雷撃により沈没。 |
天城(あまぎ) | 1944年(昭和19年8月)完成。 「飛龍型、同改型」新造。※昭和20年7月、米軍の呉軍港空襲により大破横転。 |
葛城(かつらぎ) | 1944年(昭和19年10月)完成。 「飛龍型、同改型」新造。※敗戦後昭和20年10月以降、復員輸送船として使用され、昭和22年11月解体された。 |
信濃(しなの) | 1944年(昭和19年11月)完成。 1940年5月に起工した大和型戦艦3番艦(110号艦)を、ミッドウェー海戦後に急速改造。※1944年(昭和19年11月29)、横須賀から呉に回航途上、竣工から10日で、米潜水艦の雷撃により沈没。 |
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊3」
機種 | 被害状況4ヶ月間 |
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零戦 | 48 |
陸攻 | 5 |
一式陸攻 | 28 |
水戦 | 2 |
飛行艇 | 4 |
合計(4ヶ月間) | (合計87機)(月平均)21.8機/月 |
●この他に被弾機が多数機あった。7月以降さらに航空戦は激しさを増し、日本の国力は、その激しい消耗に生産を追い付けることができなかった。
●下は「終戦後第2復員局で調製した実用機生産実績表」
この表では、19種類の機種から生産数で90%を占めた8機種を選んで一覧にした。欄外には、総数には入っているが注目すべき最新鋭機の生産数を書いておいた。昭和17年4月~18年3月の期間では生産数は少ない。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊3」
(順位)機種名 | 年間生産機数・月平均 |
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①艦戦 零戦 | 1691機(140.9機/月) |
②陸攻 一式 | 437機(36.4機/月) |
③艦爆 九九式 | 246機(22.4機/月) |
④陸攻 九六式 | 235機(21.4機/月) |
⑤観測 零式 | 218機(18.2機/月) |
⑥水偵 零式 | 204機(17機/月) |
⑦水戦 二式 | 177機(14.8機/月) |
⑧艦攻 九七式 | 102機(10.2機/月) |
8種生産合計実績 | 3310機(90%) |
19種生産実績 | 3663機(100%) |
「雷電」13機・・海軍初の局地戦闘機で、大戦末期B-29迎撃戦に活躍。
「月光」54機・・当初二式陸上偵察機として使用、その後「斜銃」を搭載したことで戦果を上げ、夜間戦闘機として活躍。
「彗星」25機・・ミッドウェー海戦時、開発中の十三試艦上爆撃機(のちの彗星)は、新鋭の二式艦上偵察機として空母蒼龍に臨時搭載された。「彗星」は、戦闘機並みの性能を持った高性能艦上爆撃機を目標に開発された機体。液令式発動機を空冷式に変更して活躍した。
「天山」10機・・九七式艦上攻撃機の後継機として、空前の大馬力・高性能の大型艦上攻撃機として各方面で活躍。
「強風」6機・・この水上戦闘機は後に改造され陸上戦闘機「紫電」となり、さらに大改良し、高性能機「紫電改」(局地戦闘機)として活躍した。
「二式飛行艇」13機・・7000kmの航続距離を持つ巨大飛行艇で、レシプロ飛行艇の最高傑作といわれた。1942年3月、飛行艇によるハワイ再空襲「K作戦」を実施した。
●そもそも陸軍は、海軍の南太平洋への戦略(ラバウル占領《1/23》等)に対して、その重要性を認めていたが、陸軍を派兵する必要性は認めていなかった(海軍の陸戦隊で充分との認識)。だから陸軍は、南海支隊(開戦時のグアム島占領)を、ラバウル攻略作戦(海軍との協定)に派兵はしたが、作戦終了後は第16軍(蘭印攻略)に転属させることに決まっていたのである。陸軍は、「絶海の孤島に少数の陸兵を派遣することは、海の中に塩をまくようなものである(参謀次長塚田中将)」と、厳しく反対していたのである。
●だが大本営は1942年(昭和17年)5/18、F・S作戦方面作戦軍「米豪遮断作戦(ニューカレドニア、サモア、フィジー攻略)ならびに(ポートモレスビー)攻略」として第17軍(歩兵12コ大隊基幹)を新しく編成した。南海支隊は17軍に編入され、陸軍は海軍と協同して南太平洋に本格的に派兵することになった。だがミッドウェー海戦の敗北(6/5)によってF・S作戦は中止され(7/11)、第17軍の任務は変更となり、ポートモレスビー等ニューギニア要地の攻略に限定されることになった。
●ところがガダルカナル攻防戦が始まり、陸軍は「東部ニューギニア攻略」と「ソロモン諸島(ガダルカナルなど)攻略」という2つの作戦を同時に行うことになってしまった。そこで大本営は11/16、第18軍を新設し、第8方面軍(第17軍と第18軍を統括)を新編した。
●7/11、陸軍の南太平洋方面作戦は、海軍第8艦隊と陸軍第17軍が共同して「ポートモレスビー攻略」(MO作戦)を含む東部「ニューギニア」を戡定(かんてい=平定)することになった。そして、MO作戦は、海路攻略(船団による上陸作戦)から陸路攻略作戦(「レ号」作戦)に変更となった(陸軍によるニューギニア東部オーエン・スタンレー山系越え作戦である)。
●陸軍の重点は、ポートモレスビー攻略作戦にあった。そのため陸軍にとって、当初はガダルカナル島奪回作戦は片手間と思っていたに違いない。
●ところが、連合軍の上陸(8/7)に始まるガダルカナル島の攻防は激しさを増し、ポートモレスビー攻略は中止となった。そして第17軍には次々と師団が増派されたが、ガダルカナル奪回はできなかった。日本軍にとってガダルカナルの死闘は、さらに深刻化し、飢餓とマラリアとの戦いになっていった(餓島=ガ島とよばれた)。
●そのため大本営はまず11月上旬、第8方面軍司令部及び第18軍司令部の編成を下令した。この理由は、10/9以降第17軍司令部はガ島に上陸していたので、連合艦隊との協力関係や東部ニューギニアの作戦指揮を行うためにも一軍の新設が必要になったためである。そしてさらにソロモン諸島の作戦両方を統括するためにも、方面軍新設が必要となったのである。(11/16、第8方面軍、第18軍の戦闘序列を下命)
●下段で、17軍の隷下の部隊、ガダルカナル派遣部隊と増派部隊などについて記述した。陸軍は次々に師団クラスを投入していった。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦①」「南太平洋陸軍作戦②」
大本営は5/18、F・S作戦方面作戦軍「米豪遮断作戦(ニューカレドニア、サモア、フィジー攻略)ならびに(ポートモレスビー)攻略」として第17軍(歩兵12コ大隊基幹)を新しく編成した。
第17軍司令官 陸軍中将 百武晴吉(10/9第17軍司令部はガダルカナル島へ上陸した。) | ||
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★部隊名 | 内容 | |
★独立工兵第15連隊 連隊長 横山與助大佐 | 横山大佐の指揮する同隊の主力、歩兵144連隊の1大隊及び山砲兵第55連隊第1大隊の1中隊を基幹とする兵力。7/1、南海支隊長の指揮下に入る。連隊は、ポートモレスビー陸路攻略(「リ」号研究)のための道路偵察任務を命じられる。7/15辻政信大本営派遣参謀がダバオ17軍司令部に到着、第17軍は「リ」号研究を待たず、ポートモレスビー陸路攻略作戦開始を決定した(辻参謀の独断)。その後連隊は、陸路進攻のための先遣隊(横山先遣隊)となる。 ●7/18第17軍の攻略命令が出され、7/21横山先遣隊は、ブナ北西12kmのゴナ(バサブア予定)へ上陸、海軍陸戦隊はゴナ北西5kmのギルワに上陸した。横山先遣隊主力は7/22朝までにブナに進出した。 | |
★一木支隊 支隊長 一木清直大佐 歩兵第28連隊長 | 一木支隊は、歩兵第28連隊、工兵第7連隊第1中隊及び独立速射砲第8中隊からなり、人員は約2,000名。当時歩兵第28連隊は、ミッドウェー攻略作戦参加のため、特に編制改正されて縮小編制を採っていた。 一木支隊は、ミッドウェー攻略部隊として作戦に参加していたが、ミッドウェー海戦敗北のため、グアム島帰還後、その戦闘序列と任務を解かれた。そして一木支隊は、8/7内地へ帰還の途上にガダルカナル奪回を命じられ、第17軍に編入された。 ●8/20一木支隊の先遣隊、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に第1次攻撃を開始。8/21未明、本隊が突入するが一木支隊長以下大半が戦死。 | |
※「支隊長一木清直大佐は、陸軍歩兵学校教官を長年務めた人で、実兵指揮に練達した部隊長だった。一木大佐はわが陸軍の伝統的戦法である白兵威力による夜襲をもってすれば、米軍の撃破は容易であると信じていた。ミッドウェー島の攻略も、その方針でいくつもりでいた。これはひとり一木大佐だけでなく、当時の陸軍を風靡していた一般的傾向であって、大本営陸軍部もまたその戦法と一木支隊長の練達した指揮能力とに望みをかけていた。」(一部引用)戦史叢書「南太平洋陸軍作戦①」から。 | ||
★南海支隊 支隊長 堀井富太郎 少将 支隊長第55歩兵団長 | 第55師団の歩兵第144連隊基幹。南海支隊は昭和16年9/27動員下令、10/1四国丸亀で動員開始。第55師団の歩兵団長を支隊長とし、歩兵1コ連隊(歩兵144連隊)、砲兵1コ大隊を基幹とした。 昭和16年12/10、グアム島攻略、昭和17年1/23ラバウル攻略後、2/2「ニューギニア、ソロモン諸島」攻略命令。3/8ラエ、サラモアを海軍陸戦隊と占領。5/17ラバウルにて第17軍司令官隷下に入る。 ●8/18南海支隊主力、ニューギニア・バサブア上陸(ブナ近郊)、8/19ココダへ進軍。 | |
★第5師団の歩兵第41連隊 連隊長 矢沢清美大佐 | マレー侵攻作戦に参加したのち、歩兵第9旅団長指揮の下に比島に転用され南部比島の戡定に当たる。連隊長の指揮する1コ大隊は「東支隊」となり、他の2大隊は歩兵第35旅団長の指揮下に入る予定になっていた。 ●8/16ラバウル到着、南海支隊長の指揮下に入る。8/21南海支隊に続いてニューギニア・バサブア上陸。 | |
★歩兵第35旅団 従来、川口支隊と呼称 旅団長 川口清健少将 | 旅団司令部と歩兵第124連隊からなる(歩兵第114連隊欠)。先に英領ボルネオを攻略し、作戦終了後に比島に転用され、4月上旬以来比島の戡定に任じ、6/6ダバオに転進して第17軍司令官隷下に入る。8/18、3者協定(第17軍、第11航空艦隊、第8艦隊)は、歩兵第35旅団の主力を川口支隊として、一木支隊と海軍陸戦隊を指揮下に置き、ガダルカナルとツラギの奪回を命じた。 ●17軍は、川口支隊の1コ大隊をラビ攻略の予備の支援隊としてラバウルに置くつもりでいたが、ガダルカナル情勢悪化により、川口支隊全隊をガダルカナルへ投入した。8/29歩兵第124連隊(1大隊)ガダルカナル島タイボ岬、上陸成功(一木支隊一部含む)。8/31川口支隊長上陸。 | |
※8月末頃の大本営陸軍部の、南太平洋方面兵力使用の腹案は、 ●ガ島奪回は、一木支隊の残部と川口支隊。 ●ラビ攻略は、青葉支隊。 ●ポートモレスビー攻略は、南海支隊と第2師団主力で陸海両方面から強力に進軍する、というものだった。戦史叢書「南太平洋陸軍作戦①」 | ||
★青葉支隊 支隊長 那須弓雄 少将 第2歩兵団長 | 第2師団の歩兵3大隊を基幹とする。ジャワ攻略作戦参加後、西部ジャワの戡定(かんてい)、5/18青葉支隊を編成。5/26バタビアを出港、6/5ダバオ付近に上陸し、第17軍隷下に入る。支隊は5/28の作戦準備命令によってポートモレスビー攻略のためパラオに集結予定が延期となる。7/1南海支隊長の指揮下に入る。8/10、第17軍の指揮下に復帰し、当初ポートモレスビー作戦、次いでラビ作戦充当予定が、ガ島の戦況によって変更。 ●9/4青葉支隊歩兵第4連隊第2大隊、ガダルカナル島上陸。9/11同第3大隊ガ島カミンボに上陸し、川口支隊長の指揮下に入る(青葉大隊)。 | |
※大本営陸軍部が第2師団主力等の転用に関して、参謀総長の指示した事項は次のとおりで、モレスビー作戦充当を胸算してのことである。 1,転用セラルル第2師団(青葉支隊ヲ除ク)ノ主力等ハ 敵前上陸作戦及困難ナル山地作戦ノ為梯次毎二使用セラルルコトアルヲ予期シ 概ネ左ノ区分二拠り転用スルモノトス ●第1梯団 師団司令部、歩兵1聯隊、十榴1中隊、工兵1聯隊ヲ基幹トスル部隊 独立速射砲第二大隊ノ1中隊 ●第2梯団 歩兵1聯隊、輜重1中隊(努メテ駄馬ニ改編スルモノトス)ヲ基幹トスル部隊 2,前項兵力転用二方リテハ糧秣、自動車用燃料、衛生材料等約1ヶ月分ノ常続補給諸資材ヲ携行セシムルモノトス 引用(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦①」 | ||
★第2師団 ●師団長 丸山政男中将 ●参謀長 玉置温和大佐 ●参謀 平間寛次郎少佐、細川小一少佐。 | 8/29大本営陸軍部は、ソロモン方面及びポートモレスビ攻略に関して、「作戦緊急処置案」を決定した。そしてその緊急処置案に基づき、第2師団(在ジャワ島第16軍)、独立速射砲第2大隊の1中隊(在ジャワ島第16軍)及び迫撃第3大隊(在比第14軍)を、第17軍に編入した。これにより青葉支隊の編成は解かれた。 ●こうして陸軍はついに「師団」を太平洋南東方面に派遣することになったのである。引用(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦①」 ●第2師団主力は10/3以降、逐次海軍艦艇によりガ島に移送された。10月初旬以来、米軍の反撃攻勢を体験した第17軍は、敵の圧倒的に優勢な火力と航空攻勢をかわすため、日本軍得意の夜襲を敢行する。そのために第2師団主力を迂回させ米軍の側背を急襲することに決した。 そして10/24及び10/25夜、総攻撃を行ったが、攻撃は失敗し、米軍の第1線を抜くこともできなかった。この結果、第2歩兵団長 那須弓雄少将以下多数の将兵が斃れた。 | |
(第2師団、部署・隊長等) 第2歩兵団長・少将 那須弓雄、歩兵第4連隊長・大佐 中熊直正、歩兵第16連隊長・大佐 廣安壽郎、歩兵第29連隊長・大佐 小宮正次郎、 野砲兵第2連隊長・大佐 石崎益雄、工兵第2連隊長・大佐 高橋卓三、輜重兵第2連隊長・大佐 新村里市、第2師団通信隊長・大尉 江崎孝一、第2師団兵器勤務隊長・少佐 細見作蔵、第2師団第1野戦病院院長・大尉 荘子峰男、第2師団第2野戦病院院長・大尉 品川安彦、第2師団第4野戦病院院長・大尉 黒川一郎、第2師団防疫給水部長・大尉 沼澤保、第2師団病馬廠長・少佐 佐藤忠信。 | ||
★第38師団 ●師団長 佐野忠義中将 ●参謀長 阿部芳光大佐 ●参謀 親泊朝省中佐、細川直知少佐、黒崎貞明少佐。 | 9/17、大本営陸軍部は、第38師団を第17軍戦闘序列に編入した。この第38師団は開戦初頭、香港の攻略後、昭和17年年1月4日、第16軍(蘭印攻略)の戦闘序列に入り、師団主力は南部スマトラ方面に作戦して、パレンバンその他の石油資源の所在地を占領し、ジャワ本土攻略のための航空基地を占領した部隊であった。また、その東方支隊は軍直轄としてチモールを占領し、東海林支隊もまた軍直轄として直路バンドンに迫り蘭印降伏に偉功をたてた。その後師団主力は第25軍(マレー半島・シンガポール攻略)の指揮下に入り中部スマトラに集結、セイロン作戦を目標として熱地における上陸作戦を訓練していた。 各歩兵連隊は連隊本部、歩兵大隊3、歩兵砲隊(砲4門)、通信隊からなり、各歩兵大隊は歩兵4中隊、機関銃1中隊、大隊砲小隊(砲2門)に編成されていた。山砲兵連隊は連隊本部と3大隊からなり、各大隊は3中隊、1中隊は山砲4門で編成されていた。(引用・出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦①」 ●11月に入ると第17軍はマタニカウ川西岸地区で、攻撃再興のため兵力の集結を計った。そして第38師団主力および軍需品のガ島揚陸のため、11隻の優速船団による輸送を強行した。海軍艦艇による輸送では重火器や軍需品を送り込むことができなかったためである。(搭載軍需品)(糧秣)・在ガ島兵力3万人×20日分。(主要弾薬)・山砲7,000発、十榴4,000発、十五榴3,000発、十加1,500発、高射砲15,000発、その他各種弾薬。 | |
(第38師団、部署・隊長等) 第38歩兵団長●少将 伊藤武夫、歩兵第228連隊長●大佐 土井定七、歩兵第229連隊長●大佐 田中良三郎、歩兵第230連隊長●大佐 東海林俊成、山砲兵第38連隊長●大佐 神吉武吉、工兵第38連隊長●中佐 岩淵経夫、輜重兵第38連隊長●中佐 薮田秀一、第38師団通信隊長●少佐 伊藤遼一、第38師団兵器勤務隊長●大尉 小出貞治、第38師団衛生隊長●中佐 服部乙一、第38師団第1野戦病院院長●軍医少佐 鈴木敏美、同第2野戦病院院長●軍医少佐 伊藤卓蔵、第38師団病馬廠長●獣医少佐 林次郎。 |
司令部・司令官・参謀 | 戦闘序列・直属部隊等 |
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(第8方面軍司令部) 方面軍司令官 陸軍中将 今村 均 方面軍参謀長 陸軍中将 加藤 鑰平 方面軍参謀副長 陸軍少将 佐藤 傑 方面軍参謀 陸箪大佐 有末 次(第一課高級参謀)、方面軍参謀陸軍中佐 末弘 勇(作戦主任)、方面軍参謀陸軍少佐 原 四郎(作戦補助)、方面軍参謀 陸軍少佐 田中 耕二(航空)、方面軍参謀陸軍中佐 杉田 一次(情報)、方面軍参謀陸軍大佐 加藤 道雄(第二課高級参謀)、方面軍参謀陸軍中佐 小山 公利(後方主任通信)、方面軍参謀陸軍少佐 太田 庄次(後方補助)、方面軍参謀陸軍中佐 篠原 優(船舶)。 (注)なお、12月上旬、第8方面軍参謀として陸軍中佐 井本熊男(作戦)、同少佐 渡部光彦(航空)、同少佐佐藤忠彦(兵站)が追加発令された。 ※第8方面軍の総兵力約11万、飛行機数約130機。 |
●第17軍 陸軍中将 百武 晴吉、 第2師団、第38師団、第51師団、歩兵第35旅団(歩兵第114連隊欠)、一木支隊、其の他。 ●第18軍 陸軍中将 安達二十三、 南海支隊、歩兵第41連隊、其の他。 ※11/20比島の第65旅団主力が編入。 ●第8方面軍直属 第6師団、独立混成第21旅団(自動車隊欠)、独立飛行第76中隊、第12飛行団、飛行第45戦隊、其の他。 ※その後第6飛行師団が編入。 |
※(第6師団)
●師団長 神田正種中将●参謀長 山之内二郎大佐
第6師団は11/16、第8方面軍の戦闘序列に軍直部隊として編入された。第6師団と所要の軍直部隊は、ガダルカナル島攻撃再興に当たっての方面軍予備兵力と考えられた。この第6師団は支那事変勃発以来、支那各地に転戦した在支兵団中最精鋭師団の一つで、当時武漢地区に集結していた。引用(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦②」
※(第6飛行師団)
●師団長 板花義一中将
大本営は11/18、第8方面軍作戦要領を指示した。そのうちの「航空作戦要領」は要約すると次のようである。「12月下旬には第12飛行団(飛行第11戦隊欠)と飛行第45戦隊及びその他の部隊をラバウルに展開し、翌18年1月末までにこれらの部隊を中部ソロモンに推進、更に飛行第1戦隊、後述する白城子陸軍飛行学校教導飛行団司令部及び飛行第208戦隊をビスマーク諸島に展開する構想である。」
●そして11月27日、大本営は第6飛行師団の編合を令し、第8方面軍戦闘序列に編入した(大陸命第721号)。この発令で第8方面軍の航空兵力(第一線定数)は、司偵一中(百式司偵9機)、戦闘飛行団(一式戦74機)、軽爆飛行団(九九式双軽56機)、合計約139機となった。 そして更に12月29日、大本営は次の重爆関係部隊を南方軍総司令官の隷下から抽出して、第6飛行師団の編合に編入した(大陸命第731号)。 飛行第14戦隊(九七重28機)、第25飛行場大隊(重爆)、移動修理班(重爆)である。引用(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦②」
※上記の「一式戦」とあるのは、陸軍の誇る一式戦闘機「隼」のことで、開戦時から太平洋戦争を通して大活躍した。また「百式司偵」とあるのは、「百式司令部偵察機」のことで、航続距離4,000km、最大速度630km/hで、敵から「空の通り魔」と恐れられた陸軍の双発偵察機。海軍でもこの機を使用した。
●珊瑚礁海戦(5/7~8)とミッドウェー海戦の敗北(6/5)、そして連合軍との航空戦の激化は、陸海軍の作戦に大きな影響を与えた。ポートモレスビー攻略作戦自体が延期となったのである。そこで大本営は「レ号」作戦(陸路によるポートモレスビー攻略)実施を決定し、7/28「東部ニューギニア作戦に関する陸海軍中央協定」を指示した。陸軍は「第17軍(南海支隊)」、海軍は「第8艦隊」主力による協同作戦を開始した。
●ところが8/7連合軍が ガダルカナルとツラギ上陸を開始する。大本営は急遽グァム島から宇品へに向かっていた陸軍・一木支隊(歩兵1コ大隊基幹)をガダルカナル島へ差し向けた。一木支隊は8/18ガ島上陸、次いでパラオから川口支隊(歩兵約4コ大隊《青葉支隊含む》)を8/30~9/6頃までに上陸させた。
●一方で、9/5南海支隊はニューギニア南東部スタンリー山系の稜線上に到達し、9/14にはポートモレスビー北東約50kmに進出し、モレスビーの灯を望見する地点にまで到達した。だが連合軍とのガダルカナルの戦いは激しさを増し、結果ポートモレスビー攻略は中止となり、南海支隊は後退を余儀なくされてしまう。
●下図は、「第2次ソロモン海戦概見図」(出典)戦史叢書「南太平洋陸軍作戦①」で、日本軍の「輸送船団」「前進部隊」「機動部隊」と「米軍機動部隊」を、それぞれ色分けして強調した図である(星野作成)。ポイントは以下の点である。●輸送船団は、一木支隊の残部(第2梯団)(ぼすとん丸、大福丸)と(海軍)横五特(=横須賀鎮守府第5特別陸戦隊)(金龍丸)のガダルカナル上陸部隊である。直接護衛したのが第2水雷戦隊(旗艦軽巡洋艦神通)だったが、その大部分を他方面に転用されていたため、第4駆逐隊、第17駆逐隊、と哨戒艇4隻が戦隊に増加された。輸送船団は米軍機に索敵され、繰り返し反転して、ガダルカナル島へ向かったが、8/25午前6時、船団は米軍の空襲をうけた。これにより輸送船金龍丸は沈没し、合流した夜襲攻撃の駆逐艦睦月も沈没した。これにより船団は8/25の上陸を中止し、ショートランドへ避退した。
●前進部隊(第2艦隊)は、空母機動部隊(第3艦隊)の前にあって、敵機動部隊への前衛の役割を担った。第3艦隊は、ミッドウェー海戦での戦訓により、艦隊編制(大型空母2隻に自衛用小型空母1隻)を変え、戦作(戦闘実行要領)を根本的に改めていた。
●8/24午前2時、機動部隊は北上中に支隊(利根、空母龍驤など)を分離してガダルカナル島爆撃に向かわせた。機動部隊はその後南下し、米機動部隊を発見、攻撃を加え、空母エンタープライズを中破させた。一方、分派した空母龍驤部隊はガダルカナル島攻撃時に、逆に米軍に発見され、攻撃を受け8/24午後6時沈没した。
5/1陸軍第15軍第18師団、ビルマの要衝マンダレーを占領、南方作戦が一段落する。
5/7米軍フィリピン・コレヒドール要塞が陥落する。
ここでは『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。
●1942年(昭和17年)8/13、アメリカは「マンハッタン計画」を開始した。 この「マンハッタン計画」では、約54万人の科学者・技術者をリストアップし、そのうちの13万人を実際に動員し、つぎ込まれた資金は約20億ドルといわれる。米英は、ナチス・ドイツの残虐さとドイツ科学の優秀さから、ドイツが先に原爆を開発することを非常に恐れた。そしてアメリカでは、エンリコ・フェルミ(1938年ノーベル物理学賞受賞、イタリア人)が、12/2、シカゴ大学で世界初の原子炉「CP1(=シカゴ・パイル-1)」で「臨界」に成功する。プルトニウム239の生産が可能となり、人類が「原子の火」を手に入れた瞬間だった。
●アメリカはこの日、原爆製造計画である「マンハッタン計画」を開始した。翌年から物理学者ロバート・オッペンハイマーを中心に、ロス・アラモス研究所で本格的な研究を開始した。下に「ウランとプルトニウム」を主題に、原爆について分かりやすく書かれたものがあるのでリンクしておいた。「2018年12月4日今中哲二・京都大学複合原子力科学研究所」作成のPDFファイルである。
●「マンハッタン計画」については、ナチス・ヒトラーの迫害を受けたユダヤ人科学者たちや、各国からアメリカへ亡命した科学者たちに関して下段で簡単にふれておく。この「マンハッタン計画」では、約54万人の科学者・技術者をリストアップし、そのうちの13万人を実際に動員し、つぎ込まれた資金は約20億ドルといわれる。
米英は、ナチス・ドイツの残虐さとドイツ科学の優秀さから、ドイツが先に原爆を開発することを非常に恐れた。「マンハッタン計画」のきっかけは1939年8月、相対性理論で有名なアインシュタイン(1921年ノーベル物理学賞受賞、1935年アメリカへ移住)が、ルーズベルト大統領に原爆製造を促す手紙を書いたことから始まった。(そもそも、ハンガリーからの亡命者科学者レオ・シラードの奔走がなければ、マンハッタン計画は存在しなかったかもしれない、といわれている。)
項目 | 内容 |
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時代背景 | 第1次世界大戦(1914年〜)では大量殺戮兵器は「毒ガス」だった。そのために駆り出された化学者は、ドイツ2000人、イギリス1500人、フランス100人、アメリカ1900人といわれる。毒ガスによる兵士の死傷者は約53万人、一般市民を含む非戦闘員の死傷者は約100万人といわれる。第2次世界大戦期においても、科学者も祖国のために貢献することが求められた。だが第2次世界大戦は「毒ガス」ではなく「原子爆弾」だったのである。 |
ドイツ | ●ドイツ士官オットー・ハーン(1944年ノーベル化学賞受賞)は、1915年新設の毒ガス戦用特殊部隊に転属させられ、毒ガスの開発等を担い、悲惨な戦場を体験した。ハーンは、第1次世界大戦後放射能研究に打ち込み、1938年にウラン原子核に中性子をぶつけることで、原子核分裂が起こることを発見した。「核の時代」の扉をハーンが開いたのである。 だがハーンは、毒ガス戦争の悲惨な体験から、一貫してナチスには非協力的だった。原爆を開発するつもりなどなかったのである。彼は戦後ドイツ科学会の良心として平和運動の先頭に立ち、1957年4月に、「科学者らは、いかなる場合、形においても、原子兵器の生産、実験に決して参加しない」というゲッチンゲン宣言を発表した。 |
ドイツ | ●天才物理学者ヴェルナー(ウェルナー)・ハイゼンベルク(1932年ノーベル物理学賞受賞)は、1927年、20代の若さで「量子論」の確立に貢献する「不確定性原理」を行列力学を用いて発表した。彼の卓越した頭脳は、連合軍側に原爆開発に関与しているとの恐怖心を与え、暗殺計画も立てられたほどだった。 だが実際には、ハイゼンベルクは、原爆開発に関与していなかった。彼は開戦直後の1939年、ドイツ陸軍から原爆の可能性を研究するように命令された。だが彼は、1942年6月、原爆開発には膨大な資金と数年の年月がかかり、ドイツの戦時下の国力では無理であるとの最終報告を行った。ヒトラーは当時、開発に半年以上かかる兵器研究を認めておらず、ドイツの原爆開発はこの時点で終わったのである。 ハイゼンベルクは、ナチスには同調せず、ナチスから厳しい迫害を受けながら、ナチス滅亡後の祖国ドイツ復興のためドイツにとどまったといわれる。彼が戦時研究として細々と行ったのは、エネルギー源としての原子炉の建設だった。 |
アメリカ | ●エンリコ・フェルミ(1938年ノーベル物理学賞受賞、イタリア人)は、1938年ノーベル賞授賞式に出席後、ストックホルムからそのままアメリカに亡命した。フェルミは、1942年12/2、シカゴ大学で世界初の原子炉「CP1(=シカゴ・パイル-1)」で「臨界」に成功する。プルトニウム239の生産が可能となり、人類が「原子の火」を手に入れた瞬間だった。 だが、臨界の成功の祝福を受けるフェルミに、レオ・シラードは次の言葉をかけたという。やがて起こるヒロシマ・ナガサキの惨劇を予見したといわれる。 「きょうという日は、人類史に『暗黒の日』として記録されるだろう」と。 |
日本 | 1941年4月、陸軍航空技術研究所長安田中将が、理化学研究所大河内正敏所長に原爆研究を依頼した。仁科芳雄主任研究員が担当者となり、ニシナの頭文字をとった陸軍「二号研究」がスタートした。だが戦時下の日本の国力では原爆の製造は不可能だった。 |
●こうして、テネシー州オークリッジに、原爆材料であるウラン235をウラン濃縮して生産するウラン工場、ワシントン州ハンフォードに、プルトニウム239を生産する原子炉と再処理工場を建設して、1945年7月までに原子爆弾3発を作り上げた。ウラン235は広島、プルトニウム239は長崎と史上初の核実験に使われた。
下でリンクした「京都大学複合原子力科学研究所」の「ウランとプルトニウム」を読むと基本的な意味が分かる。
※リンクをクリックするだけで、PDFファイルがダウンロードされてしまう時がある。「Microsoft PowerPoint .pptxファイル」
*リンクします「ウランとプルトニウム」pptxファイル→
「2018年12月4日今中哲二・京都大学複合原子力科学研究所」
アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴルド砂漠のトリニティー実験場。1945年7/16午前5時29分、TNT火薬約2万トンに相当するプルトニウム型原子爆弾(長崎型)が炸裂した。この映像は、アメリカTVドキュメンタリー「WORLD WARⅡ」もので、このシリーズはYouTubeに公開されており、原題を「Victory At Sea」という。史上初の核実験 のシーンは「Design For Peace – Episode 26」に収録されている。
(出典)「WORLD WARⅡ第2次世界大戦全史(原爆投下)」アメリカTVドキュメンタリー(1952~1953)輸入販売元「キープ株式会社」
※(YouTube動画、サイズ3.12MB、28秒)
*リンクします「WORLD WARⅡ第2次世界大戦全史」
YouTube「Victory At Sea」
●ドイツ軍は、8/23、スターリングラード(ソ連)の総攻撃を開始した。だがソ連軍はドイツ軍をこの攻防戦で破った(1943年1月末ドイツ軍約9万人降伏)。ドイツ軍不敗の神話が崩れたのである。
●スターリングラード(現ヴォルゴグラード)駅-1前に、「輪になって踊る子供たちの像」(バルマレイの泉)があった。ドイツ軍によるスターリングラード攻撃時、戦火を背景にした写真で有名になった像である。
左の写真は、2013年にレプリカが作られたうちの一つで、現在ヴォルゴグラード駅前にあるもので、Googleストリートビューから切り取った2016年撮影の写真。下段の動画には、1942年8月、燃え上がるスターリングラード市街を背景にこの子供たちの像が写っている。
●下はドイツ軍の1942年の北アフリカ戦線、ヨーロッパ東部戦線等の略年表である。スターリングラードで追い詰められたドイツ軍パウルス陸軍元帥は、1943年1月31日、ソ連軍に降伏する。同時に最後のドイツ部隊も2/2降伏した。
月・日 | 内容 |
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1/1 | 〔連合国〕ワシントンで連合国共同宣言 |
1月中旬~3月 | (東部戦線)ルジェフ攻防戦。※ルジェフ、モスクワの北西約208km |
1/21 | (北アフリカ戦線)ロンメル軍団,キレナイカ反攻 ※ロンメルは1941年3月から北アフリカ戦線で戦車軍団を率いて戦い「砂漠の狐」と呼ばれた。イギリスにとって地中海とスエズ運河はイギリスの生命線とされていた。 |
1/29 | (北アフリカ戦線)独軍,ベンガジ奪還 |
1/30 | (西部戦線)独,ユダヤ人絶滅計画作成 |
1月下旬 | (東部戦線)ホルムの独軍包囲さる |
2/8~4月中旬 | (東部戦線)デミヤンスク攻防戦。※デミヤンスク、レニングラード近郊。 |
2/10 | (北アフリカ戦線)ビル・ハケイムの戦い |
3/20 | 〈地中海戦線〉独空軍,マルタ島攻略 |
3/28 | (西部戦線)英空軍の対独空爆激化。リューベック大空襲 |
4/5 | (東部戦線)ヒトラー,コーカサス占領指令。 ※ドイツ南方方面軍司令官クライストは、直接コーカサス地方に進軍するようにヒトラーから指令を受けた。コーカサス地方は油田地帯であり、スターリングラード奪取とともにソ連中央部との連絡を断つことができるからであった。 |
4月 | (北アフリカ戦線)独空軍,第2次マルタ爆撃 |
5/5 | 〈大西洋〉英軍,仏領マダガスカル島上陸 |
5/12 | (東部戦線)ソ連軍,ハリコフ攻勢 |
5/16 | (東部戦線)独軍,全クリミア制圧 |
5/26 | (北アフリカ戦線)ロンメル軍,攻撃再開 |
5月 | (西部戦線)英空軍,ドイツ本土爆撃作戦開始 |
5/30 | (西部戦線)英空軍、ケルン空爆ついでエッセン,ブレーメン |
6/12 | 〔連合国〕英ソ同盟締結 |
6/21 | (北アフリカ戦線)ロンメル軍,トブルク占領 |
6/24 | (北アフリカ戦線)ロンメル軍,エジプトへ侵入 |
7/1 | (北アフリカ戦線)第1次エル・アラメインの戦い。 ※ドイツ軍の補給は尽き、これ以上進軍できなくなった。 |
7/4 | (東部戦線)ドイツ第11軍,セバストポリ要塞攻略 |
7/22 | (東部戦線)独軍,ドンを渡河 |
8月上旬 | (東部戦線)独軍,コーカサスに侵入 |
8/12 | 〔連合国〕モスクワ会談,スターリン“第2戦線構築”を主張。 ※「第2戦線構築」とは、スターリンが連合軍に北フランス上陸作戦などの実行を迫ったこと。チャーチルは、1943年中の「第2戦線構築」を約束し、代わりに北アフリカ上陸作戦実行を伝えた。 |
8/18 | (西部戦線)英空軍,ディエプ爆撃 |
8/23 | (東部戦線)独軍,スターリングラードに迫る |
8/30 | (北アフリカ戦線)アラム・ハルファの戦い |
9/1 | (東部戦線)独軍,コーカサスに迫る |
9/3 | (北アフリカ戦線)ロンメル軍団,撤退開始 |
10/23~11月下旬 | (北アフリカ戦線)第2次エル・アラメインの戦い |
11/8 | (北アフリカ戦線)連合軍,北西アフリカ上陸 ※アイゼンハワー指揮の米英連合軍、北アフリカ上陸作戦を開始。カサブランカ等3ヵ所に上陸。 アメリカは単に大西洋に足がかりを作ることだけを目指しており、結局連合軍は立ち往生してしまう。 |
11/11 | (西部戦線)独軍,フランス南部占領 |
(北アフリカ戦線)枢軸軍,チュニジアに上陸 | |
11/19 | (東部戦線)ソ軍,スターリングラードで反撃開始 |
11/23 | (東部戦線)独軍,スターリングラードで逆包囲 |
11/24 | (東部戦線)ヒトラー,スターリングラード死守を指令 |
11/27 | (西部戦線)仏ビシー政府解体 |
12月中旬 | (東部戦線)独軍,コーカサス戦線より撤退開始。※ドイツ軍がスターリングラードで敗北が濃厚となったため、その間隙をついて撤退を開始できた。 |
1943年 | |
1/16~26 | 〔連合国〕カサブランカ会談 |
1月中旬 | (東部戦線)ソ軍,レニングラードで反撃開始 |
(北アフリカ戦線)英軍,攻勢に転ず | |
1/23 | (北アフリカ戦線)英軍,トリポリ攻略 |
1/31~2/2 | (東部戦線)独軍,スターリングラード戦に敗北 |
(出典)「よみがえる第2次世界大戦(カラー化された白黒フィルム)第2巻日米開戦」NHKエンタープライズ2009年。
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(mp4動画、サイズ2.65MB、25秒)
1942年昭和17年11/27、太平洋戦争開戦1周年に、大政翼賛会と朝日、東京日日、読売の3紙が「国民決意の標語」を公募した。下が入選作10作品のうちの一つで、最も有名になったものである。
「欲しがりません勝つまでは」
ここでは『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。
●下は、海軍の予科練(甲・乙種飛行予科練習生)の募集ポスターと予科練体操の写真。また下の動画は、東宝映画「決戦の大空」の教練の1シーン。1942年11/1から予科練の制服が水兵服から7つボタンの短ジャケットに変わった。そして翌年の東宝映画「決戦の大空」(1943年9月)の主題曲「若鷲の歌」(西条八十作詞・古関裕而作曲)は、国民に広く親しまれ、とりわけ少年たちの間では航空機搭乗員の象徴になった。
●一方陸軍でも海軍の予科練に倣い、少年飛行兵制度を採用した。軍にとって、戦争の主力となった航空機搭乗員は不足し、より多くより早く搭乗員を養成することが必要となった。しかし戦局の悪化ともに太平洋戦争末期、予科練出身者は特攻の主役となり多くの戦死者を出していった。
●予科練は航空機搭乗員養成をめざし、厳しい身体検査、学力試験、適性検査を経て入隊した少年兵であった。当初陸海軍とも、少年兵制度は専門技術を身につけた下士官養成を目的としていた。しかし戦局逼迫による兵員不足補うため、実際には教育そのものよりも、少年達を戦闘要員として駆り出す機関へと変わっていった。
●映画『決戦の大空へ』・出典:youtube《sandy karen》より一部紹介、下段でリンクしています。
※(YouTube動画、サイズ6.79MB、2分28秒)