1942年(昭和17年)④日本陸海軍、ガダルカナル奪回への死闘、そして撤退。

第2次世界大戦

日本軍はニューギニアとガダルカナルで敗北する。連合軍の対日反攻が始まる。ドイツは、北アフリカ戦線、コーカサス戦線で戦い、スターリングラードの戦いに敗北する。
(上写真・部分)昭和17年10/5、ソロモン群島キゾ島(ベラ・ラベラ島南東の島)上空を飛ぶアメリカ軍B-17重爆撃機。このB-17を日本軍はなかなか撃墜することができなかった。(写真出典)「写真・太平洋戦争」雑誌「丸」編集部 編。潮書房光人社2015年刊

目次
昭和17年概要
★ミッドウェー海戦(6/5)敗北の影響(海軍)●ミッドウェー海戦の敗北(6/5)は、海軍に大きな打撃を与えた。海軍は機動部隊の空母4隻とその航空兵力の多数を失ったことで、空母部隊を活用する積極的な作戦を企画できなくなった。そのため連合艦隊は6月中旬、弱体化した航空戦力を補うため、南東方面の「航空基地強化作戦」であるSN作戦(ソロモン諸島、ニューギニア方面)を発令した。ガダルカナル島など航空基地急速整備の開始である。
●だが海軍にとっては、何よりも機動部隊の再建が急務の問題であった。そこで海軍は、軍備拡充計画を改訂(⑤計画→改⑤計画)し空母急造計画をたて、機動部隊を建制化(第3艦隊)し、連合艦隊の戦時編制(第8艦隊の新設等)を行った(7/14)。
★陸軍の対応、「陸兵派遣問題」(昭和17年初頭からの方針)●そもそも陸軍は、海軍の南太平洋への戦略(ラバウル占領《1/23》等)に対して、その重要性を認めていたが、陸軍を派兵する必要性は認めていなかった(海軍の陸戦隊で充分との認識)。だから陸軍は、南海支隊(開戦時のグアム島占領)を、ラバウル攻略作戦(海軍との協定)に派兵はしたが、作戦終了後は第16軍(蘭印攻略)に転属させることに決まっていたのである。陸軍は、「絶海の孤島に少数の陸兵を派遣することは、海の中に塩をまくようなものである(参謀次長塚田中将)」と、厳しく反対していたのである。
●だが大本営は5/18、F・S作戦方面作戦軍「米豪遮断作戦(ニューカレドニア、サモア、フィジー攻略)ならびに(ポートモレスビー)攻略」として第17軍(歩兵12コ大隊基幹)を新しく編成した。南海支隊は17軍に編入され、陸軍は海軍と協同して南太平洋に本格的に派兵することになった。だがミッドウェー海戦の敗北(6/5)によってF・S作戦は中止され(7/11)、第17軍の任務は変更となり、ポートモレスビー等ニューギニア要地の攻略に限定されることになった。
●ところがガダルカナル攻防戦が始まり、陸軍は「東部ニューギニア攻略」と「ソロモン諸島(ガダルカナルなど)攻略」という2つの作戦を同時に行うことになってしまった。そこで大本営は11/16、第18軍を新設し、第8方面軍(第17軍と第18軍を統括)を新編した。
★ポートモレスビー攻略とガダルカナルの戦い(1942年8月から6ヶ月間の死闘) ●珊瑚礁海戦(5/7~8)とミッドウェー海戦の敗北(6/5)、そして連合軍との航空戦の激化は、陸海軍の作戦に大きな影響を与えた。ポートモレスビー攻略作戦自体が延期となったのである。そこで大本営は「レ号」作戦(陸路によるポートモレスビー攻略)実施を決定し、7/28「東部ニューギニア作戦に関する陸海軍中央協定」を指示した。陸軍は「第17軍(南海支隊)」、海軍は「第8艦隊」主力による協同作戦を開始した。
●ところが8/7連合軍が ガダルカナルとツラギ上陸を開始する。大本営は急遽グァム島から宇品へに向かっていた陸軍・一木支隊(歩兵1コ大隊基幹)をガダルカナル島へ差し向けた。一木支隊は8/18ガ島上陸、次いでパラオから川口支隊(歩兵約4コ大隊《青葉支隊含む》)を8/30~9/6頃までに上陸させた。
●一方で、9/5南海支隊はニューギニア南東部スタンリー山系の稜線上に到達し、9/14にはポートモレスビー北東約50kmに進出し、モレスビーの灯を望見する地点にまで到達した。だが連合軍とのガダルカナルの戦いは激しさを増し、結果ポートモレスビー攻略は中止となり、南海支隊は後退を余儀なくされてしまう。
★国内政治・社会年表
昭和17年《1942年》5月~12月

東条英機内閣
●1942年(昭和17年)8/13、アメリカは「マンハッタン計画」を開始した。 この「マンハッタン計画」では、約54万人の科学者・技術者をリストアップし、そのうちの13万人を実際に動員し、つぎ込まれた資金は約20億ドルといわれる。米英は、ナチス・ドイツの残虐さとドイツ科学の優秀さから、ドイツが先に原爆を開発することを非常に恐れた。そしてアメリカでは、エンリコ・フェルミ(1938年ノーベル物理学賞受賞、イタリア人)が、12/2、シカゴ大学で世界初の原子炉「CP1(=シカゴ・パイル-1)」で「臨界」に成功する。プルトニウム239の生産が可能となり、人類が「原子の火」を手に入れた瞬間だった。
●一方そのドイツ軍は、8/23、スターリングラード(ソ連)の総攻撃を開始した。だがソ連軍はドイツ軍をこの攻防戦で破った(1943年1月末ドイツ軍約9万人降伏)。ドイツ軍不敗の神話が崩れたのである。

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★ミッドウェー海戦敗北の影響(海軍)

●ここでは、海軍の航空基地強化作戦(SN作戦)、ミッドウェー海戦敗退後の「連合艦隊戦時編制改定」、「開戦からの連合艦隊編制の推移」「第8艦隊編制内容」、「空母急造対策と軍備計画の改定(改⑤計画)」、「航空母艦建造実績」、「主力航空機の生産状況」などを一覧にした。

ガダルカナル島の攻防戦に関係する南東方面イメージ図


上地図は、太平洋の南東方面(ビスマルク諸島、ソロモン諸島、ニューギニア東部)の地図に、当時の日本軍の航空基地などを書き込んだイメージ図である。特に海戦場所は広範囲に戦闘が行われているので、正確な範囲を示すものではない。星野作成(地図出典)「世界大地図帳」平凡社1984年刊

(海軍)航空基地強化作戦(SN作戦)の実施(ガダルカナル島など)
●連合艦隊は南東方面航空基地の急速整備のため、SN作戦(「ソロモン諸島」「ニューギニア」方面)を発令した。「航空基地強化作戦」(ガダルカナル島等の基地設営)である。
SN作戦における基地整備と担任は次のとおりである。

ラバウル東及び道路・・第7設営隊、ラバウル西・・第10設営隊。ラエ・・第14設営隊。カビエン・・第12設営隊。ツラギ・・第13、第14設営隊の一部、その他。ガダルカナル・・第11、第13設営隊の大部。

●連合艦隊司令部は、次期作戦の関係上ガダルカナル飛行場の8月上旬完成を希望した。下記が各基地の整備状況である。(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊3」

各基地の整備状況(一部)
基地内容
ガダルカナル7月上旬に2コ設営隊と警備の陸戦隊が上陸し、7/16基地設営を開始した。そして8/5には長さ800m、幅60mの滑走路などを概成(=ほぼできあがる)し、戦闘機の進出が可能となった。だがこの間敵は大型機による攻撃を逐次強化してきた。これに対して水上戦闘機では反撃に効果が期待できないので、設営隊指揮官は零戦の進出を要望した。基地航空部隊では、8/16には六空戦闘機1コ分隊が進出予定だった。
カビエン6/23、第12設営隊が進出し、8/6には陸攻が発着可能となった。同基地は8月上旬に増援を得て8/15までに一応1コ航空戦隊の収容が可能となった。
ラエラエには7/1設営隊が到着したが、連合艦隊司令部のキエタ基地調査の要望に関連して、基地航空部隊指揮官が同設営隊のキエタ転用を要望したため、ラエ基地整備は中止された。

●だが7月、アメリカ軍はガダルカナルの飛行場建設を発見した。アメリカの反攻作戦が始まった(連合軍ガダルカナル上陸作戦8/7)。
●8月末の時点で日本軍の使用できる飛行場は、ラバウル飛行場(東と西)とカビエンの3飛行場で、その他にはブカ島に一部の戦闘機隊の基地があるだけだった。そしてブーゲンビル島南部のブイン基地の急速設営が発令されたのは9/8で、その概成は早くて9月末の見込みだった。
●この航空基地の問題は、日本軍の大きな敗因の一つであった。ガダルカナル島までの距離は、ブカ基地から約300浬(約556km)、ラバウル基地から約560浬(約1037km)に及んだ。そのため主力戦闘機である零戦の戦場上空での滞空時間もわずか15分という短い時間となってしまったのである。

「WORLD WARⅡ」第2次世界大戦全史「ガダルカナル」

これは1952年~1953年にかけて、アメリカで製作された戦史TVドキュメンタリーである。動画は、米軍の重爆撃機(哨戒・偵察)が、ガダルカナル島に海軍の飛行場を発見するシーンである。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ2.78MB、1分02秒)

海軍航空機の簡単な用語解説(攻撃力など)
ここで、海軍の代表的な航空機の攻撃など役割の違いと、空母における「雷爆装転換=航空機に吊り下げた魚雷と爆弾とを交換すること」に費やす時間を書いておく。ミッドウェー海戦で、「雷爆装転換時の混乱」が起きた意味が理解できる。南雲機動部隊は昭和17年4月、インド洋セイロン島コロンボ攻撃で貴重な戦訓を得ていたはずだった。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「海軍航空慨史」

(※用語)「艦戦」・・艦上戦闘機、「艦攻」・・艦上攻撃機、「艦爆」・・艦上爆撃機、「中攻」・・中型陸上攻撃機、「水偵」・・水上偵察機。青字は代表的な機種
●海軍では、艦艇から発着する飛行機を「艦上機」といい、陸上からのものを「陸上機」といい、水面から発着できるフロートを着けたものを「水上機」と呼んだ。
代表的な機種は、(零式水上偵察機《三座水偵》)と「飛行艇」は(九七式飛行艇)など。
●「戦闘機」は、積極的に空中戦を行う飛行機。(零式艦上戦闘機)
●「攻撃機」は戦闘能力を持ち、魚雷または爆弾を搭載するもの。(九七式艦上爆撃機・九六式陸上攻撃機・一式陸上攻撃機)
●「爆撃機」は爆弾のみを搭載するもので、「艦上爆撃機」は急降下爆撃機を指した。(九九式艦上爆撃機)

●下は、「航空機による攻撃力の種類」「主要航空機の写真(一例)」「インド洋セイロン島での戦訓」

下

ミッドウェー海戦敗退後の連合艦隊戦時編制改定(昭和17年7/14現在)

●海軍は、ミッドウェー海戦の敗因の分析と戦訓から、連合艦隊の戦時編制を改定した。一挙に主力空母4隻と航空機、そして何よりもベテランパイロットを含む貴重な人員を失った日本海軍は、早急な立て直しを迫られたのである。そのポイントは以下の点である。

①1番のねらいは、連合艦隊の主力を、空母機動部隊(航空機)にするために、第1航空艦隊を解体して第3艦隊を新編成し建制化した。いままで機動部隊は臨時的な編制にすぎなかった。そして早急な立て直しのため、「空母急造対策」を立案し直ちに実行に着手した。
②第8艦隊(外南洋部隊)を新しく編成し、南方要地の攻略と豪州方面の作戦を担当させた。旧来の第4艦隊は、南洋群島の防備や前進根拠地の整備拡充と南洋方面全般の交通保護を担当した。
 またこの第8艦隊の新編成により、南洋方面には、第11航空艦隊(基地航空部隊)、第4艦隊(南洋部隊)と第8艦隊が併立することになったが、統一作戦を行う場合は、第11航空艦隊司令長官が統一指揮を行うことになった。

●永野修身軍令部総長による上奏文の第3艦隊新編成の部分。ひらがなで表示。

 「従来連合艦隊に於きましては「ハワイ」作戦以来第1航空艦隊に戦艦戦隊、巡洋艦戦隊等を加えましたものを機動部隊として作戦せしめて居りましたが、今回の「ミッドウェイ」作戦の結果並に従来の実績に鑑みまするに機動部隊の編制は之を一層強化致しますると共に固有の建制と致しますことが適当と認められます。
 仍(よっ)て現有航空母艦の大部を以て第1、第2航空戦隊を編成し 之に高速戦艦2隻より成る第11戦隊、巡洋艦戦隊2隊及新鋭駆逐艦より成る第10戦隊を加へまして1箇艦隊を編成致します 鳳翔は着艦訓練艦を兼ねまして之に附属せしめます 而して此の艦隊は航空艦隊と致しますよりも第3艦隊と申した方が適当と考へますので第1航空艦隊を解隊し第3艦隊を新に編成する次第で御座います」

●下が、ミッドウェー海戦後の第3艦隊、第8艦隊の艦隊編制である。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊2」「大本営海軍部連合艦隊3」
(注)次段の「連合艦隊の編制の推移」で昭和17年4/10現在(第2段作戦開始時)と比較して下さい。

下

帝国海軍、開戦からの連合艦隊編制の推移。(参考)

●昭和17年4/10現在(第2段作戦開始時)の連合艦隊の編制(大項目のみ)を下段で一覧にした。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊2」「大本営海軍部連合艦隊3」
●この昭和17年4/10現在(第2段作戦開始時)の編制は、昭和16年12月(太平洋戦争開戦時)と比べるとポイントは次の3点である。

①旧来の「南遣艦隊」を昭和17年1/3、「第1南遣艦隊(マレー・インドシナ)」と「第3南遣艦隊(フィリピン)」に分け、3/10、旧第3艦隊を第2南遣艦隊(インドネシア)とし、4/10これらを統括する「南西方面艦隊」を新編した。
②第11航空艦隊(基地航空部隊)の規模を拡大した(昭和17年4/1戦時編制改定)。これにより基地航空部隊は、6コ航空戦隊、15コ航空隊となり、主な飛行機の定数(常用、補用の計)は、中攻472機(開戦時288)、艦戦300機(開戦時245機)、飛行艇48機(開戦時48機)となった。だが当時までの飛行機の生産状況は、わずかに消耗を上回る程度だったので、第一線部隊の保有機数合計は開戦時と大差なかった(戦史叢書)。
③空母は第3航空戦隊が解隊され「鳳翔・瑞鳳」は第1艦隊直率となった。

下が、昭和17年4/10現在(第2段作戦開始時)の海軍の艦隊編制である。

下

空母急造対策と軍備計画の改定「改⑤計画」
海軍は、ミッドウェー海戦の結果、既定軍備計画を急速かつ根本的に改訂しなければならない状況となった。それは直ちに航空兵力を画期的に増勢し、航空母艦を緊急建造することだった。
●アメリカは、1940年(昭和15年)に第3次ビンソン案(艦艇22隻167,000トン建造、航空機1,500機。1942年《昭和17年》完成)を計画した。次いでスターク計画と称された両洋(大西洋、太平洋)艦隊法案は、艦艇257隻132万トン建造、航空機を15,000機に増勢し、1946年(昭和21年)完成、という膨大な計画を立てた。
●日本海軍は昭和17年度計画として、昭和16年9月⑤計画(マルゴ計画)(第3次ビンソン案に対して)を立案していた。概要は、戦艦(大和型)3隻、超巡洋艦(新型)2隻、航空母艦(大鳳型)3隻を含む158隻約65万トン建造し、航空兵力の画期的画期的増勢を期した。だが依然として大和改良型の計画も含んでいて、大艦巨砲主義を脱却してはいなかった。
●そしてミッドウェー海戦の結果を踏まえた「改⑤計画」が、昭和17年秋季までにその実行計画が案画された。下は「改⑤計画」と「⑤計画」の対比表で、「航空増勢計画」の実用航空隊(基地航空兵力と空母搭載機補充兵力)と「艦船建造補充」(主な艦艇の建造計画)を抜粋したものである。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊3」
●また「航空増勢計画」としての要員は次のようである。
①搭乗員、40,500名を養成する。作戦部隊の搭乗員は戦時常用機数に対して大型機2倍、その他の機種は1.5倍の組数、教育部隊その他に対しては所要員数を常時保有するものとする。
②搭乗整備員2,470名を養成する。配員率は搭乗員と同じ。
③飛行機整備員57,800名を養成する。
④兵器整備員19,400名を養成する。

●下が「改⑤計画」と「⑤計画」の対比である。

下

航空母艦建造実績
下の実績にある通り、昭和17年から昭和19年までに建造・改造された航空母艦は、15隻である。軍令部は空母急造計画は立てた。だがそれに対して海軍省は、次のように回答した(昭和17年8/3)。「艦艇の整備完了は、主として資材労力の不足の為約1ヶ年以上の遅延を免れざる状況なり」と。

●下が航空母艦建造状況一覧である。

下

主力航空機の生産状況
最大の問題となったのは航空機の消耗とその補充(生産状況)にあった。珊瑚海海戦とミッドウェー海戦で失った航空機は約400機に達した。一方太平洋南東方面における基地航空戦は激しさを増し、担当した第25航空戦隊の消耗も少なくなかった。その4月~7月の被害数(大破、自爆、未帰還)は、下のとおりであった。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊3」

17年4月~7月被害状況
零戦陸攻一式陸攻水戦飛行艇合計
4月19928
5月1317333
6月55111
7月112215
485282487

●この他に被弾機が多数機あった。7月以降さらに航空戦は激しさを増し、日本の国力は、その激しい消耗に生産を追い付けることができなかった。

●下は「終戦後第2復員局で調製した実用機生産実績表」
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊3」上段生産実績、下段生産計画

下

★陸軍の対応

大本営、11/16、第8方面軍、第18軍の戦闘序列を下命する

●7/11、陸軍の南太平洋方面作戦は、海軍第8艦隊と陸軍第17軍が共同して「ポートモレスビー攻略」(MO作戦)を含む東部「ニューギニア」を戡定(かんてい=平定)することになった。そして、MO作戦は、海路攻略(船団による上陸作戦)から陸路攻略作戦(「レ号」作戦)に変更となった(陸軍によるニューギニア東部オーエン・スタンレー山系越え作戦である)。
●陸軍の重点は、ポートモレスビー攻略作戦にあった。そのため陸軍にとって、当初はガダルカナル島奪回作戦は片手間と思っていたに違いない。
●ところが、連合軍の上陸(8/7)に始まるガダルカナル島の攻防は激しさを増し、ポートモレスビー攻略は中止となった。そして第17軍には次々と師団が増派されたが、ガダルカナル奪回はできなかった。日本軍にとってガダルカナルの死闘は、さらに深刻化し、飢餓とマラリアとの戦いになっていった(餓島=ガ島とよばれた)。
●そのため大本営はまず11月上旬、第8方面軍司令部及び第18軍司令部の編成を下令した。この理由は、10/9以降第17軍司令部はガ島に上陸していたので、連合艦隊との協力関係や東部ニューギニアの作戦指揮を行うためにも一軍の新設が必要になったためである。そしてさらにソロモン諸島の作戦両方を統括するためにも、方面軍新設が必要となったのである。(11/16、第8方面軍、第18軍の戦闘序列を下命)
●下段は、連隊などの編制、17軍の隷下の部隊、ガダルカナル派遣部隊と増派部隊、などの簡単な説明である。陸軍は次々に師団クラスを投入していった。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦①」「南太平洋陸軍作戦②」

歩兵連隊などの簡単な説明
編制(人数)構成する部隊×個数隊長
1コ師団(2万人ぐらい)旅団×2師団長(中将)
1コ旅団(8,000人ぐらい)連隊×2旅団長(少将)
↑(歩兵連隊4単位師団)
1コ師団(16,000人ぐらい)歩兵団×1師団長(中将)
1コ歩兵団(12,000人ぐらい)連隊×3歩兵団長(少将)
↑(歩兵連隊3単位師団)大隊×3
1コ連隊(4,000人ぐらい)大隊×4連隊長(大佐)
1コ大隊(1,000人ぐらい)中隊×4大隊長(少佐)
1コ中隊(260人ぐらい)小隊×4+指揮班等中隊長(中尉)
1コ小隊(40人)分隊×4小隊長(少尉)
1コ分隊(10人)分隊長(伍長)
第17軍隷下の部隊(一部)(5/18)
第17軍司令官 陸軍中将 百武晴吉(第17軍司令部も10/9ガダルカナル島へ上陸した。)
★部隊名内容備考
★南海支隊
支隊長 堀井富太郎 少将
支隊長第55歩兵団長
第55師団の歩兵第144連隊基幹。南海支隊は昭和16年9/27動員下令、10/1四国丸亀で動員開始。第55師団の歩兵団長を支隊長とし、歩兵1コ連隊(歩兵144連隊)、砲兵1コ大隊を基幹とした。
昭和16年12/10、グアム島攻略、昭和17年1/23ラバウル攻略後、2/2「ニューギニア、ソロモン諸島」攻略命令。3/8ラエ、サラモアを海軍陸戦隊と占領。5/17ラバウルにて第17軍司令官隷下に入る。
8/18南海支隊主力、ニューギニア・バサブア上陸(ブナ近郊)、8/19ココダへ進軍。
★歩兵第35旅団
従来、川口支隊と呼称
旅団長 川口清健少将
旅団司令部と歩兵第124連隊からなる(歩兵第114連隊欠)。先に英領ボルネオを攻略し、作戦終了後に比島に転用され、4月上旬以来比島の戡定に任じ、6/6ダバオに転進して第17軍司令官隷下に入る。8/18、3者協定(第17軍、第11航空艦隊、第8艦隊)は、歩兵第35旅団の主力を川口支隊として、一木支隊と海軍陸戦隊を指揮下に置き、ガダルカナルとツラギの奪回を命じた。第17軍は、川口支隊の1コ大隊をラビ攻略の予備の支援隊としてラバウルに置くつもりでいたが、ガダルカナル情勢悪化により、川口支隊全隊をガダルカナルへ投入した。8/29歩兵第124連隊(1大隊)ガダルカナル島タイボ岬、上陸成功(一木支隊一部含む)。8/31川口支隊長上陸。
★青葉支隊
支隊長 那須弓雄 少将
第2歩兵団長
第2師団の歩兵3大隊を基幹とする。ジャワ攻略作戦参加後、西部ジャワの戡定(かんてい)、5/18青葉支隊を編成。5/26バタビアを出港、6/5ダバオ付近に上陸し、第17軍隷下に入る。支隊は5/28の作戦準備命令によってポートモレスビー攻略のためパラオに集結予定が延期となる。7/1南海支隊長の指揮下に入る。8/10、第17軍の指揮下に復帰し、当初ポートモレスビー作戦、次いでラビ作戦充当予定が、ガ島の戦況によって変更。9/4青葉支隊歩兵第4連隊第2大隊、ガダルカナル島上陸。9/11同第3大隊ガ島カミンボに上陸し、川口支隊長の指揮下に入る(青葉大隊)。
★第5師団の歩兵第41連隊
連隊長 矢沢清美大佐
マレー侵攻作戦に参加したのち、歩兵第9旅団長指揮の下に比島に転用され南部比島の戡定に当たる。連隊長の指揮する1コ大隊は「東支隊」となり、他の2大隊は歩兵第35旅団長の指揮下に入る予定になっていた。8/16ラバウル到着、南海支隊長の指揮下に入る。8/21南海支隊に続いてニューギニア・バサブア上陸。
★独立工兵第15連隊
連隊長 横山與助大佐
横山大佐の指揮する同隊の主力、歩兵144連隊の1大隊及び山砲兵第55連隊第1大隊の1中隊を基幹とする兵力。7/1、南海支隊長の指揮下に入る。連隊は、ポートモレスビー陸路攻略(「リ」号研究)のための道路偵察任務を命じられる。7/15辻政信大本営派遣参謀がダバオ17軍司令部に到着、第17軍は「リ」号研究を待たず、ポートモレスビー陸路攻略作戦開始を決定した(辻参謀の独断)。その後連隊は、陸路進攻のための先遣隊(横山先遣隊)となる。7/18第17軍の攻略命令が出され、7/21横山先遣隊は、ブナ北西12kmのゴナ(バサブア予定)へ上陸、海軍陸戦隊はゴナ北西5kmのギルワに上陸した。横山先遣隊主力は7/22朝までにブナに進出した。
ガダルカナル島派遣部隊と増派部隊
★部隊名内容備考
★一木支隊
支隊長 一木清直大佐
歩兵第28連隊長
一木支隊は、歩兵第28連隊、工兵第7連隊第1中隊及び独立速射砲第8中隊からなり、人員は約2,000名。当時歩兵第28連隊は、ミッドウェー攻略作戦参加のため、特に編制改正されて縮小編制を採っていた。
一木支隊は、ミッドウェー攻略部隊として作戦に参加していたが、ミッドウェー海戦敗北のため、グアム島帰還後、その戦闘序列と任務を解かれた。そして一木支隊は、8/7内地へ帰還の途上にガダルカナル奪回を命じられ、第17軍に編入された。
8/20一木支隊の先遣隊、ヘンダーソン飛行場に第1次攻撃を開始。8/21未明、本隊が突入するが一木支隊長以下大半が戦死。
※「支隊長一木清直大佐は、陸軍歩兵学校教官を長年務めた人で、実兵指揮に練達した部隊長だった。一木大佐はわが陸軍の伝統的戦法である白兵威力による夜襲をもってすれば、米軍の撃破は容易であると信じていた。ミッドウェー島の攻略も、その方針でいくつもりでいた。これはひとり一木大佐だけでなく、当時の陸軍を風靡していた一般的傾向であって、大本営陸軍部もまたその戦法と一木支隊長の練達した指揮能力とに望みをかけていた。」(一部引用)戦史叢書「南太平洋陸軍作戦①」から。
※8月末頃の大本営陸軍部の、南太平洋方面兵力使用の腹案は、
●ガ島奪回は、一木支隊の残部と川口支隊。●ラビ攻略は、青葉支隊。●ポートモレスビー攻略は、南海支隊と第2師団主力で陸海両方面から強力に進軍する、というものだった。戦史叢書「南太平洋陸軍作戦①」
ガダルカナル島派遣部隊と増派部隊(第2師団派遣)
★部隊名内容備考
★第2師団
●師団長 丸山政男中将
●参謀長 玉置温和大佐
●参謀 平間寛次郎少佐、細川小一少佐。
8/29大本営陸軍部は、ソロモン方面及びポートモレスビ攻略に関して、「作戦緊急処置案」を決定した。そしてその緊急処置案に基づき、第2師団(在ジャワ島第16軍)、独立速射砲第2大隊の1中隊(在ジャワ島第16軍)及び迫撃第3大隊(在比第14軍)を、第17軍に編入した。これにより青葉支隊の編成は解かれた。
●こうして陸軍はついに「師団」を太平洋南東方面に派遣することになったのである。
引用(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦①」
●第2師団主力は10/3以降、逐次海軍艦艇によりガ島に移送された。10月初旬以来、米軍の反撃攻勢を体験した第17軍は、敵の圧倒的に優勢な火力と航空攻勢をかわすため、日本軍得意の夜襲を敢行する。そのために第2師団主力を迂回させ米軍の側背を急襲することに決した。
●そして10/24及び10/25夜、総攻撃を行ったが、攻撃は失敗し、米軍の第1線を抜くこともできなかった。この結果、第2歩兵団長 那須弓雄少将以下多数の将兵が斃れた。
第2師団編制の概要と主要職員
部署隊長等備考
第2歩兵団長少将 那須弓雄 大本営陸軍部が第2師団主力等の転用に関して、参謀総長の指示した事項は次のとおりで、モレスビー作戦充当を胸算してのことである。
1,転用セラルル第2師団(青葉支隊ヲ除ク)ノ主力等ハ 敵前上陸作戦及困難ナル山地作戦ノ為梯次毎二使用セラルルコトアルヲ予期シ 概ネ左ノ区分二拠り転用スルモノトス
●第1梯団
  師団司令部、歩兵1聯隊、十榴1中隊、工兵1聯隊ヲ基幹トスル部隊
  独立速射砲第二大隊ノ1中隊
●第2梯団
  歩兵1聯隊、輜重1中隊(努メテ駄馬ニ改編スルモノトス)ヲ基幹トスル部隊
2,前項兵力転用二方リテハ糧秣、自動車用燃料、衛生材料等約1ヶ月分ノ常続補給諸資材ヲ携行セシムルモノトス
引用(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦①」
歩兵第4連隊長大佐 中熊直正
歩兵第16連隊長大佐 廣安壽郎
歩兵第29連隊長大佐 小宮正次郎
野砲兵第2連隊長大佐 石崎益雄
工兵第2連隊長大佐 高橋卓三
輜重兵第2連隊長大佐 新村里市
第2師団通信隊長大尉 江崎孝一
第2師団兵器勤務隊長少佐 細見作蔵
第2師団第1野戦病院院長大尉 荘子峰男
第2師団第2野戦病院院長大尉 品川安彦
第2師団第4野戦病院院長大尉 黒川一郎
第2師団防疫給水部長大尉 沼澤保
第2師団病馬廠長少佐 佐藤忠信
ガダルカナル島派遣部隊と増派部隊(第38師団派遣)
★部隊名内容備考
★第38師団
●師団長 佐野忠義中将
●参謀長 阿部芳光大佐
●参謀 親泊朝省中佐、細川直知少佐、黒崎貞明少佐。
9/17、大本営陸軍部は、第38師団を第17軍戦闘序列に編入した。この第38師団は開戦初頭、香港の攻略後、昭和17年年1月4日、第16軍(蘭印攻略)の戦闘序列に入り、師団主力は南部スマトラ方面に作戦して、パレンバンその他の石油資源の所在地を占領し、ジャワ本土攻略のための航空基地を占領した部隊であった。また、その東方支隊は軍直轄としてチモールを占領し、東海林支隊もまた軍直轄として直路バンドンに迫り蘭印降伏に偉功をたてた。その後師団主力は第25軍(マレー半島・シンガポール攻略)の指揮下に入り中部スマトラに集結、セイロン作戦を目標として熱地における上陸作戦を訓練していた。
引用(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦①」
●11月に入ると第17軍はマタニカウ川西岸地区で、攻撃再興のため兵力の集結を計った。そして第38師団主力および軍需品のガ島揚陸のため、11隻の優速船団による輸送を強行した。海軍艦艇による輸送では重火器や軍需品を送り込むことができなかったためである。(搭載軍需品)(糧秣)・在ガ島兵力3万人×20日分。(主要弾薬)・山砲7,000発、十榴4,000発、十五榴3,000発、十加1,500発、高射砲15,000発、その他各種弾薬。
●そして11/13午後3時30分、再度ブーゲンビル島シュートランドをガ島に向けて出航した。だが速力の遅い輸送船は連合軍空軍の餌食となり、11/14の日中に6隻沈没、1隻が航行不能の損害を受けた。残った4隻の輸送船は、その日の夜ガ島に到着したが、懸命の揚陸作業中に連合軍の砲爆撃を受け、大半が灰燼に帰した。
第38師団編制の概要と主要職員
部署隊長等備考
第38歩兵団長少将 伊藤武夫各歩兵連隊は連隊本部、歩兵大隊3、歩兵砲隊(砲4門)、通信隊からなり、各歩兵大隊は歩兵4中隊、機関銃1中隊、大隊砲小隊(砲2門)に編成されていた。
山砲兵連隊は連隊本部と3大隊からなり、各大隊は3中隊、1中隊は山砲4門で編成されていた。
歩兵第228連隊長大佐 土井定七
歩兵第229連隊長大佐 田中良三郎
歩兵第230連隊長大佐 東海林俊成
山砲兵第38連隊長大佐 神吉武吉
工兵第38連隊長中佐 岩淵経夫
輜重兵第38連隊長中佐 薮田秀一
第38師団通信隊長少佐 伊藤遼一
第38師団兵器勤務隊長大尉 小出貞治
第38師団衛生隊長中佐 服部乙一
第38師団第1野戦病院院長軍医少佐 鈴木敏美
同第2野戦病院院長軍医少佐 伊藤卓蔵
第38師団病馬廠長獣医少佐 林次郎
第8方面軍(第17軍、第18軍編入)
★部隊名内容
★第51師団
●師団長 中野英光中将
●参謀長 本郷忠夫大佐
●参謀(作戦) 榊利徳中佐、参謀(後方)鈴木元明少佐、参謀(情報)本田隆晴大尉 
●10/20、17軍の戦闘序列に編入。第51師団は昭和16年7月動員、関東軍の隷下に入り、満洲東部正面に向かい内地を出発したが、途中8/9「関特演=関東軍特種演習」の打ち切り決定に伴い、その前進目標を錦州変更され、同地に駐屯、9/18第23軍の戦闘序列に入る(大陸令第542号)ことになり、広東に移動、第18師団と交替して広東東方から珠江東岸の守備に任じていた部隊である。16年12月、師団の一部は香港攻略に参加した。
 17年7月、従化滃源作戦に参加し、同年10月南太平洋方面への進出が決定すると守備を第104師団と交替して、ジャングル地帯の山地作戦及び上陸作戦の訓練に専念していた。第51師団はニューギニアに充当される予定であった。11月、ニューギニア戦線に転用され第18軍に編入、ラバウルに進出した。引用(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦②」
★第6師団
●師団長 神田正種中将
●参謀長 山之内二郎大佐
●参謀 江藤義行中佐、参謀 瀬川知憲少佐
●第6師団は11/16、第8方面軍の戦闘序列に軍直部隊として編入された。第6師団と所要の軍直部隊は、ガダルカナル島攻撃再興に当たっての方面軍予備兵力と考えられた。この第6師団は支那事変勃発以来、支那各地に転戦した在支兵団中最精鋭師団の一つで、当時武漢地区に集結していた。引用(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦②」
★第20師団
●師団長 青木重誠中将
●参謀長 中井増太郎大佐
●参謀(作戦)小野武雄中佐、参謀(情報)高橋中佐、参謀(後方)高田佐壽朗少佐 
●第20師団は、京城師管区を管轄した師団。開戦当初は出動せず1942年12月23日に第17軍に編入される。東部ニューギニアでは、制空権を失い補給も断たれ、自活も困難な環境の中で転戦した。戦死や戦傷死に加えて、マラリアや栄養失調・飢餓による戦病死のため、終戦時は1,711名まで人員が損耗。終戦時の師団長は、陸軍中将中井増太郎。終戦後はムシュ島に集結し、逐次復員。各部隊のうち、輜重兵第20連隊は1946年1月15日にムシュ島出港、同月24日浦賀上陸、第20師団第2野戦病院は、1946年1月16日ムシュ島出港、同月24日に浦賀に上陸して復員。引用(出典)「アジア歴史資料センター」
●第20師団は、昭和16年7月動員を下令されていたが出動せず、朝鮮の駐屯地でもっばら訓練に邁進していた。17年12月上旬、大本営から南東方面派遣を内示され、軍令(軍令陸甲第110号)による歩兵連隊の編制改正を、12月26日完結した。
昭和18年1月19日から22日にかけて、第20師団の第1梯団(師団司令部、歩兵団司令部、歩兵第79、第80連隊、野砲兵第26連隊、工兵第20連隊、師団通信隊主力、防疫給水部主力、第1野戦病院)が、ニューギニア・ウェワクに上陸した。だがその他の部隊についての具体的策案の検討という段階になかなか入れなかった。引用(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦③」
★第41師団
●師団長 阿部平輔中将
●参謀長 三原修二大佐
●参謀(作戦)大井確一中佐、参謀(後方)稲垣正治少佐、参謀(情報)鈴木重雄少佐 
●第41師団は、中国において転戦したのち、1942年12月23日に第8方面軍隷下の第18軍に編入された(大陸命第728号)。東部ニューギニアにおいて作戦に従事する。制空権を失い補給も断たれ、自活も困難な環境の中で転戦した。戦死や戦傷死に加えて、マラリアや栄養失調・飢餓による戦病死のため、終戦時は1,147名まで人員が損耗。終戦時の師団長は、陸軍中将真野五郎。終戦後はムシュ島に集結した後、逐次復員。第41師団歩兵団司令部は、1946年1月24日に復員した。引用(出典)「アジア歴史資料センター」
●第41師団は昭和17年秋、当時北支(津浦線沿線)にあった。12月19日編制改編を命ぜられ(軍令陸甲第110号)、翌1月15日その編成を完了した。
第81号作戦の一環である第41師団主力のウェワク輸送は、海軍輸送船11隻、護衛繿軽巡2隻、駆逐艦10隻で、昭和18年2月20日から同26日に至る間にウェワク逐次入泊、無事師団主力の上陸に成功した。
引用(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦③」
★第65旅団
●旅団長 真野五郎中将 
●参謀 都渡正義中佐
●第65旅団は、1941年8月に広島師管区で編成。開戦後はフィリピンをへて、1942年11月にガダルカナル島を奪還する作戦方針のもと増派され、第8方面軍に編入。その後、日本軍がガダルカナル島から撤退することになったため、同島には進出せず、ニューブリテン島のツルブの防衛にあたる。1944年4月下旬以降は、ラバウル近郊のトーマに移り、現地自活体制を整えつつラバウル防衛に従事。終戦時の旅団長は、陸軍中将松田巌。各部隊のうち、司令部は1946年5月17日に復員完了。引用(出典)「アジア歴史資料センター」
●大本営は11/20、11/27に第5師団の一部と第65旅団主力を第8方面軍に増強した(大陸令第717号及び第721号)。第65旅団はニューブリテン島の警備を目的とするものだった。また第65旅団主力は、旅団司令部、歩兵第141連隊、工兵隊、通信隊、野戦病院の各半部と示された。同旅団は昭和16年8月広島師管で編成され、その編制、装備、素質は、占領地守備を目的とするものであった。同年11月第14軍の戦闘序列に編入、バタアン半島攻略戦に参加して、旅団は当時北部ルソン戡定作戦に参加していた。引用(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦②」
★第6飛行師団
●師団長 板花義一中将
●大本営は11/18、第8方面軍作戦要領を指示した。そのうちの「航空作戦要領」は要約すると次のようである。「12月下旬には第12飛行団(飛行第11戦隊欠)と飛行第45戦隊及びその他の部隊をラバウルに展開し、翌18年1月末までにこれらの部隊を中部ソロモンに推進、更に飛行第1戦隊、後述する白城子陸軍飛行学校教導飛行団司令部及び飛行第208戦隊をビスマーク諸島に展開する構想である。」
●そして11月27日、大本営は第6飛行師団の編合を令し、第8方面軍戦闘序列に編入した(大陸命第721号)。この発令で第8方面軍の航空兵力(第一線定数)は、司偵一中(百式司偵9機)、戦闘飛行団(一式戦74機)、軽爆飛行団(九九式双軽56機)、合計約139機となった。 そして更に12月29日、大本営は次の重爆関係部隊を南方軍総司令官の隷下から抽出して、第6飛行師団の編合に編入した(大陸命第731号)。 飛行第14戦隊(九七重28機)、第25飛行場大隊(重爆)、移動修理班(重爆)である。引用(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦②」
※上記の「一式戦」とあるのは、陸軍の誇る一式戦闘機「隼」のことで、開戦時から太平洋戦争を通して大活躍した。また「百式司偵」とあるのは、「百式司令部偵察機」のことで、航続距離4,000km、最大速度630km/hで、敵から「空の通り魔」と恐れられた陸軍の双発偵察機。海軍でもこの機を使用した。

1942年(昭和17年)大本営は11月16日、第8方面軍戦闘序列を下命した(大陸命第714号)
第8方面軍司令部主要職員とその戦闘序列(概要)
司令部戦闘序列司令官等
第8方面軍司令部
方面軍司令官  陸軍中将 今村  均
方面軍参謀長  陸軍中将 加藤 鑰平
方面軍参謀副長 陸軍少将 佐藤  傑  
方面軍参謀   陸箪大佐 有末  次(第一課高級参謀)
方面軍参謀   陸軍中佐 末弘  勇(作戦主任)
方面軍参謀   陸軍少佐 原  四郎(作戦補助)
方面軍参謀   陸軍少佐 田中 耕二(航空)
方面軍参謀   陸軍中佐 杉田 一次(情報)
方面軍参謀   陸軍大佐 加藤 道雄(第二課高級参謀)
方面軍参謀   陸軍中佐 小山 公利(後方主任通信)
方面軍参謀   陸軍少佐 太田 庄次(後方補助)
方面軍参謀   陸軍中佐 篠原  優(船舶)
(注)なお、12月上旬、第8方面軍参謀として陸軍中佐 井本熊男(作戦)、同少佐 渡部光彦(航空)、同少佐佐藤忠彦(兵站)が追加発令された。
●第17軍陸軍中将 百武 晴吉
第2師団第38師団
第51師団歩兵第35旅団(歩兵第114連隊欠)
一木支隊その他
●第18軍陸軍中将 安達二十三
南海支隊歩兵第41連隊
其の他
●第6師団陸軍中将 神田正種
●独立混成第21旅団(自動車隊欠)
●独立飛行第76中隊
●第12飛行団
●飛行第45戦隊
●其の他

★ガダルカナルの戦い始まる(1942年8月から6ヶ月間の死闘)

ガダルカナルの戦いとポートモレスビー攻略作戦(昭和17年7月~)

(左地図)「ブナーココダーポートモレスビー道主要地名図」(出典)戦史叢書「南太平洋陸軍作戦①」、(右地図)「ガダルカナル島附近要図」(出典)戦史叢書「中部太平洋陸軍作戦」

ガダルカナルの戦いとポートモレスビー攻略(概略)
月日内容
7/16海軍第11・13設営隊約2600人、ソロモン諸島ガダルカナル島に飛行場設営作業に着手する。
7/21第17軍、南海支隊にポートモレスビー攻略の任務を与え、横山先遣隊と海軍陸戦隊(佐世保鎮守府第5特別陸戦隊)をブナ付近に上陸させる。先遣隊は直ちに挺進隊をココダへ向かって急進させた。
7/29挺進隊は前日、高地オイビで横山先遣隊主力と合流、7/29朝までにココダ及び同地飛行場を占領した。豪軍はテネギに後退。
8/5海軍設営隊、ガダルカナル島に長さ800m、幅60mの滑走路を完成させる。
※それまで陸軍部は、海軍がガダルカナル島に飛行場を建設中であることを、一部の参謀を除いて知らなかった。陸軍部は、東部ニューギニア攻略作戦は予定通り実施することに決めていた。
8/7アメリカ海兵隊1個師団、ガダルカナル島(11,000名)とツラギ島(6,075名)に上陸開始。
※ガダルカナル島には守備隊1200名、設営隊の人夫約2000名、ツラギには守備隊約700名がいた。
8/8第1次ソロモン海戦。
第8艦隊は、ガダルカナルとツラギが猛烈な砲爆撃を受け現地軍は苦戦との連絡受ける。第8艦隊と海軍航空部隊、ガダルカナル島周辺に突入、米豪連合水上部隊と交戦。また陸戦隊(519名)を急遽ガ島へ上陸させようとしたが、中止命令が出た。輸送隊は直ちに反転してラバウルに向かったが、1隻(明陽丸)が米潜水艦の雷撃を受け沈没した(373名行方不明)。
●(新聞)昭和17年8/10の朝日新聞(大本営発表8/9)(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
※日本側損害、重巡1、沈没。重巡3、損傷。(米側資料によれば)連合軍の損害は、豪重巡1、米重巡3、(米駆逐艦1)、沈没。米重巡1、米駆逐艦3、大中損傷。連合軍の反攻開始によりテニアンにあった第11航空艦隊司令部はラバウルに進出(8/7)。
8/13大本営、陸軍第17軍および連合艦隊に、ポートモレスビー攻略の続行とソロモン群島奪回(ガ島及びツラギ奪回)を下令。
※大本営は、偵察機により(8/10以降)、ガ島に敵艦船を認めずとの報告を受け、連合軍はガ島攻略に失敗し、撤退したものと判断した。また飛行機、潜水艦による敵情偵察によっても、残存兵力はあっても大きくはないと判断するに至った。
※連合艦隊も海軍部と連絡の結果、敵機動部隊の捕捉撃滅とツラギ方面奪回のため出撃することとし、連合艦隊司令部をトラックへ進出する方針を決めた(連合艦隊司令部は「大和」に乗艦し、柱島泊地《広島湾》にあった)。
8/16駆逐艦追風は、ガダルカナルでの初めての増援として、弾薬、糧食、通信機などと横五特の一部(高橋大尉113名)をガダルカナル島タサファロングへ揚陸させた。8/17陸戦隊はガダルカナル守備隊と連絡がとれ、ラバウルと直接つながった。
※横五特(=横須賀鎮守府第5特別陸戦隊600名)
8/17アメリカ海兵隊220人、潜水艦よるギルバート諸島マキン島に奇襲上陸。日本軍守備隊潰滅する。米軍は翌18日夜までに包囲を解き、潜水艦に撤退する。
※この米軍の目的は、ソロモン反攻のため日本軍を牽制することだった。だがこの奇襲攻撃の結果、日本軍はギルバート方面の防衛上の欠陥を認識させられ、同方面の防備を著しく強化することになる。昭和17年9月、大本営は、直轄の陸軍部隊(独立混成第21旅団)を、中部太平洋の防衛のため派遣することになる。
8/18第17軍一木支隊先遣隊(約900名)、駆逐艦6隻に分乗してガダルカナル島タイボ岬に上陸。
※一木支隊は本隊約2,000名。このころ第8艦隊司令部は、各種情報からガ島敵兵力は、高射砲、戦車若干、機銃多数を有する約2000名で、戦意に乏しいとみており、精鋭である一木支隊先遣隊だけで奪回できると強い自信を持っていた。
8/20米軍、ガダルカナル島の飛行場(ヘンダーソンと命名)の修理完成。空母艦載機約20機使用開始。同じく8/20朝、海軍の索敵機はガ島南東方250浬(463km)に敵機動部隊を発見した。
8/20一木支隊の先遣隊、ヘンダーソン飛行場に第1次攻撃を開始。8/21未明、本隊が突入するが一木支隊長以下大半が戦死。
※一木支隊先遣隊も、敵兵力は約2,000で脱出に腐心している、との情報に、第2梯団の到着を待たずに攻撃を開始した。敵が逃げてしまうことをおそれたのである。
●だが8/21未明より攻撃を開始した支隊は、猛烈な敵の砲火に阻止され、午後からは敵戦車6両も加わり背後を蹂躙された。激戦の中15:00頃、支隊長は軍旗を焼いて自決し、部下将兵も壮烈な戦死を遂げた。日本軍の戦死777名、戦傷約30名だった。生存者128名は、第17軍司令部との連絡に努め、後続部隊の到着を待った。
8/23海軍航空部隊、オーストラリア・ポートダーウインを攻撃。
8/23一木支隊の残部(第2梯団)及び(海軍)横五特乗船の輸送船3隻は8/23ガ島上陸予定で南下しつつあったが、敵飛行艇に触接され反転避退(=退避)した。8/24船団はさらに反転して南下する。
※横五特(=横須賀鎮守府第5特別陸戦隊)(約600名)
8/24第2次ソロモン海戦。
ガダルカナル島上陸支援の海軍第2艦隊・第3艦隊(空母機動部隊)、米機動部隊と交戦、空母龍驤を喪失。
●(新聞)昭和17年8/28の朝日新聞(大本営発表8/27)(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

第2次ソロモン海戦(8/24)。

●下図は、「第2次ソロモン海戦概見図」(出典)戦史叢書「南太平洋陸軍作戦①」で、日本軍の「輸送船団」「前進部隊」「機動部隊」と「米軍機動部隊」を、それぞれ色分けして強調した図である(星野作成)。ポイントは以下の点である。
●輸送船団は、一木支隊の残部(第2梯団)(ぼすとん丸、大福丸)と(海軍)横五特(=横須賀鎮守府第5特別陸戦隊)(金龍丸)のガダルカナル上陸部隊である。直接護衛したのが第2水雷戦隊(旗艦軽巡洋艦神通)だったが、その大部分を他方面に転用されていたため、第4駆逐隊、第17駆逐隊、と哨戒艇4隻が戦隊に増加された。輸送船団は米軍機に索敵され、繰り返し反転して、ガダルカナル島へ向かったが、8/25午前6時、船団は米軍の空襲をうけた。これにより輸送船金龍丸は沈没し、合流した夜襲攻撃の駆逐艦睦月も沈没した。これにより船団は8/25の上陸を中止し、ショートランドへ避退した。
●前進部隊(第2艦隊)は、空母機動部隊(第3艦隊)の前にあって、敵機動部隊への前衛の役割を担った。第3艦隊は、ミッドウェー海戦での戦訓により、艦隊編制(大型空母2隻に自衛用小型空母1隻)を変え、戦作(戦闘実行要領)を根本的に改めていた。
●8/24午前2時、機動部隊は北上中に支隊(利根、空母龍驤など)を分離してガダルカナル島爆撃に向かわせた。機動部隊はその後南下し、米機動部隊を発見、攻撃を加え、空母エンタープライズを中破させた。一方、分派した空母龍驤部隊はガダルカナル島攻撃時に、逆に米軍に発見され、攻撃を受け8/24午後6時沈没した。

ガダルカナルの戦いとポートモレスビー攻略(概略)
月日内容
8/25海軍特別陸戦隊、ニューギニア・ラビ東方に上陸。9/5撤退。
※7/28の陸海軍現地協定(第17軍、第11航空艦隊、第8艦隊)で、ニューギニア東端のサマライとミルン湾岸のラビ攻略を、海軍側で行うことを提案していた。海軍はその時点では、ラビには既に連合軍の飛行場が建設されており、P-40の航空隊と約5,000名にのぼる米豪軍が守備していたことを知らなかった。このラビは激化する航空消耗戦の要であり、ポートモレスビーやラバウル、ガダルカナルの中継基地として両軍にとって重要なポイントであった。
8/28第17軍、作戦重点をソロモン方面とし、東部ニューギニアの南海支隊に進撃控制命令。
8/29川口支隊と一木支隊第2梯団、駆逐艦輸送(ネズミ輸送)によりガダルカナル島タイボ岬に上陸開始。
※8/25連合艦隊は、ガ島基地の航空兵力を掃滅しない限り、輸送船でのガ島上陸は困難であるとして、駆逐艦、哨戒艇等の高速艦艇による逐次連続輸送による方針に改めた。いわゆる「鼠上陸」である。
(注)「ネズミ輸送」・・兵員や物資を駆逐艦などの高速艦艇や潜水艦で夜陰に乗じて輸送すること。
8/31大本営は、南東方面の作戦方針を変更し、ガ島奪回とポートモレスビー攻略を同時に実施することは困難であると判断。そしてまずソロモン方面の要地奪回を第1義と決定した。
●この方針により、南海支隊のポートモレスビー突進を一時控制し、ジャワにいた第2師団(丸山政男中将)を第17軍に編入した(ガ島奪回後、ポートモレスビー攻略に使用予定)。ガ島奪回は、主として川口支隊に期待をかけていたのである。
8/31川口支隊(支隊長川口少将)主力、ガダルカナル島タイボ岬に上陸成功(9/4~11青葉支隊上陸成功)
※F・S作戦の中止により、第14軍(在フィリピン)の指揮下に入れていた青葉支隊を17軍に復帰させていた。
9/8米海兵隊、ガダルカナル島タイボ岬に逆上陸。川口支隊、腹背に敵を迎える。
9/12川口支隊、ガダルカナル島飛行場の夜襲に失敗(9/13も攻撃するが失敗)。
9/5~9/149/5南海支隊、ニューギニア南東部スタンリー山系の稜線上に到達する。9/14にはポートモレスビー北東約50kmに進出し、モレスビーの灯を望見する地点にまで到達した。だがここでポートモレスビー攻略は中止となり、南海支隊は後退を余儀なくされた。主力は10/4ココダに後退。
※この理由は、第17軍第2師団(東部ニューギニア投入予定)のガ島方面転用や連合軍のブナ付近上陸作戦懸念のため。
●だがポートモレスビー方面の連合軍は、南海支隊の後退に追尾して進撃、10月下旬スタンリー山系頂上線に到達した。
9/15伊19号潜水艦、ソロモン海域で米空母ワスプを撃沈、戦艦ノースカロライナなどを撃破。
9/23第17軍司令部、南海支隊にブナ付近の防衛強化・歩兵第41連隊のブナ派遣などを下令。
9/26第4水雷戦隊司令官指揮下の挺身輸送隊、上陸用舟艇によるガダルカナル島への輸送(蟻輸送)開始。
(注)「蟻輸送」・・主に陸軍の上陸用舟艇である大発動艇(大発)や小発動艇(小発)よる輸送。
10/2第17軍第2師団、ガダルカナル島に上陸開始。
※ガ島の戦況は、はるかに困難な状況であった。上陸した第2師団も、連合軍の輸送妨害のため、青葉支隊を合わせて、歩兵約5コ大隊、砲はわずかに18門しかなく、軍司令官は準備完成を10/20とし、そののちに総攻撃を実施することを決定した。
10/9第17軍司令部が、ガダルカナル島タサファロングへ、海軍第4特別陸戦隊が、同島カミンボへ上陸。
10/11サボ島沖海戦。ガダルカナル島輸送支援中の第6戦隊(重巡、駆逐艦)は、レーダー装備の米艦隊と交戦、敗北する。
10/24第17軍第2師団、ガダルカナル島飛行場奪回の第3次総攻撃開始した。だが米軍との戦力の格差はあまりにも大きく、攻撃は頓挫し、25日にさらに攻撃の再興を図ったが失敗。26日になって、ついに攻撃を断念した。
10/26南太平洋海戦。
ガダルカナル島総攻撃支援の南雲機動部隊、ソロモン諸島東方で米機動部隊と交戦。
●(新聞)昭和17年10/28の朝日新聞(大本営発表10/27)(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
※この間海軍は、基地航空部隊、水上艦艇をもってこの総攻撃を支援した。そして機動部隊は第2師団の総攻撃に呼応するため、ソロモン諸島の東方海上を南下し、10/26払暁(黎明)、米機動部隊と遭遇、海戦となる。
●米軍資料「米国海軍作戦年誌」によれば、米軍の損害は、空母1(ホーネット)、駆逐艦1、沈没。空母(エンタープライズ)、戦艦1、防空巡洋艦1、駆逐艦2、損傷。日本側の損害は、空母2、巡洋艦1、駆逐艦2、損傷となっている。
11/5連合軍、ガダルカナル島の兵力増強。
11/10第38師団長ほか600人の陸軍増援部隊、駆逐艦5隻でガダルカナル島タサファロングに上陸。
※大本営は、更に戦力を強化する必要を認め、6月末以来、セイロン作戦を準備していた第38師団(佐野忠義中将)と、野戦重砲、速射砲、独立臼砲その他所要の部隊を9/17、第17軍の戦闘序列に編入していた。
11/12~15日第3次ソロモン海戦。
第38師団主力のガダルカナル島上陸支援中の第2艦隊・第8艦隊、米艦隊と交戦。
11/14、ガダルカナル島増援部隊の陸軍第38師団主力をのせた輸送船団、ソロモン海で11隻中6隻が爆撃を受け沈没。このうち4隻がようやく入泊したが、数時間のうちに撃沈され、人員約2000名と糧食若干を揚陸できただけだった。
●(新聞)昭和17年11/19の朝日新聞(大本営発表11/18)(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
※米軍の損害は、巡洋艦3、駆逐艦7、沈没。戦艦1、巡洋艦2、駆逐艦4、損傷。日本側の損害は戦艦2(比叡、霧島)、巡洋艦1、駆逐艦3、沈没。
11/16米第1軍団、ニューギニア、ブナ南東のオロ湾付近に上陸。
11/24連合艦隊司令部、駆逐艦に代えて潜水艦によるガダルカナル島方面への糧食輸送を下令、この日から実施。
11/30ルンガ沖海戦。ガダルカナル島に弾薬・食料輸送中の駆逐艦8隻、米艦隊と交戦、陸揚げ中止。
12/7駆逐艦10隻によるガダルカナル島への糧食輸送(ドラム缶輸送)、サボ島付近で米軍の妨害を受け失敗。
(注)「ドラム缶輸送」・・物資をつめたドラム缶を岸近くの海中に投下し輸送するもの。
12/8ニューギニアのバサブァで日本軍守備隊800人全滅。
12/31大本営、御前会議でガダルカナル島の全兵力撤退を決定(昭和18年1/4下命)

★国内政治と社会年表。1942年(昭和17年)5月頃から。『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。

年・月1942年5月頃~8月
1942年
昭和17年5/1
南方作戦一段落する

●陸軍第15軍第18師団、ビルマの要衝マンダレーを占領、南方作戦が一段落する。同日連合艦隊は旗艦大和でミッドウェー作戦の図上演習を実施し(〜4日)。
(新聞)昭和17年5/3の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1942年
昭和17年5/7
米軍フィリピン・コレヒドール要塞陥落

●第14軍第4師団、マニラ湾コレヒドール島の一部占領。米軍司令官ウエンライト中将、降伏文書に調印。
(新聞)昭和17年5/8の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1942年
昭和17年5/7〜8
珊瑚海海戦(日米機動部隊)

●史上初の空母対空母による海戦が行われた。5/7米軍は、日本軍のポートモレスビー攻略部隊の輸送船団(南海支隊)を攻撃、船団は北方へ退避したが、護衛の小空母祥鳳は撃沈された。翌5/8黎明日米の機動部隊は激突し、アメリカ軍は空母レキシントンが沈没、空母ヨークタウンは大破、日本軍は空母翔鶴が中破し航空機93機を失った。米軍は日本軍のポートモレスビー攻略を阻止できたことにより、戦略的には勝利したといわれる。
(新聞)昭和17年5/10の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1942年
昭和17年5/9
金属類回収令の期日指定公布(12日施行)

●これにより、寺院の仏具・梵鐘などの強制譲渡令が発動された。

1942年
昭和17年5/13
企業整備令公布(勅令)(15日施行。外地6/15日施行)

●この目的は、産業界を戦争のための総力戦態勢に早急に移行させることだった。これにより軍需産業と直接関係のない「平和産業」や「不急産業」といわれた繊維・食品・化学部門が対象となり、これらは工場閉鎖、優秀工場への生産集中、整理された工場機械の金属供出、軍需工場への転用が行われた。中小企業の転業、整理、解体の一例を挙げると、下記のようであった。

●繊維産業(昭和16年~18年)・・京都室町の老舗の問屋2500店が21店にまで整理統合された。西陣織業者の場合、昭和19年4月の第5次企業整備までに13,417台(61%)の織機が廃棄され、業者は転業した。
●塗装工場は300から60、ガラス工場は800から90、セメント工場は20社から6社に減じた。
●小売業も東京だけで、昭和18年半ばには11,000店舗が閉鎖した。
●一方財閥系の三井・三菱・安田・住友は、重点産業を一手に握り、資本・利潤の著しい集中と増大をみたのである。
1942年
昭和17年5/22
陸軍飛行第64戦隊長加藤建夫中佐ビルマにて戦死

●ビルマにおいて陸軍新鋭戦闘機「隼」にて、敵機2百数10を撃墜し活躍した加藤建夫中佐に対し、陸軍は将校として初の2階級特進をおこない少将として武勲を讃えた。「空の軍神」である。
(新聞)昭和17年7/23の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1942年
昭和17年6/5
日本軍ミッドウェー海戦(6/5~7)で大敗

●海軍主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失った(重巡・三隈も失う)。この結果、日本軍の進攻計画は頓挫し、海軍は空母部隊の再建が終わらない限り、対米攻勢作戦実施は不可能との結論に達した。アメリカの反攻が始まる。
●だが大本営は6/10、この海戦の戦果を過大に、損害を過少に発表した。国民の戦意高揚は高まったが、逆に国民の生産力増進にも緊迫感が失われ、「おごり」を助長したといわれる。後に、情報を隠し戦果を誇張した大本営発表は、軍部の作戦計画にも悪影響を与え、判断ミスを助長したともいわれる。
(新聞)昭和17年6/11の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1942年
昭和17年6/18
第2次米英戦争指導会議開催される(~6/26)

●このとき、イギリス首相が主張する北アフリカ作戦にアメリカ大統領は同意した。

1942年
昭和17年6/24
食糧管理法施行令公布(7/1施行)

●これにより、米のほか、麦・雑穀・じゃが芋などを主要食糧とした。

1942年
昭和17年6/26
日本基督教団の第6部、全国一斉に検挙される

●1941年にプロテスタント系教派が合同させられて日本基督教団を設立した。そのうちの第6部(全部で11部)の旧日本聖教会などの96人が、治安維持法違反容疑で全国一斉に検挙された。当時の日本基督教団はキリスト教団体ではなく、皇国臣民として国体(天皇制)に迎合した組織だった。だから、日本基督教団が宗教弾圧を受けた彼らを擁護することはなかった。

1942年
昭和17年6/29
上海の反戦グループを検挙

●警視庁特高部、満鉄調査部の中西功らを上海で逮捕する。このグループは上海を拠点にし、上海の東亜同文書院(日本の私立大学)出身者が中心となった反戦グループ。活動内容は、中国共産党への軍事情報の提供や対日本兵工作の援助などであった。
●だが前年の昭和16年10月、ゾルゲ事件で逮捕されたなかに東亜同文書院出身の水野成がいた。そこからこのグループの活動が発覚し、検挙に至ったのである。

1942年
昭和17年7/2
アメリカ統合参謀本部、対日反攻第1段作戦、ウォッチタワー作戦を指示

●ウォッチタワー作戦は日本語訳で望楼作戦とも呼ばれ、アメリカ軍はソロモン群島・東部ニューギニアを北上してラバウルを目指した。

1942年
昭和17年7/5
泰緬(タイメン)連接鉄道(日本軍の正式名称)測量開始

●南方軍は、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道建設工事で測量を開始する。

1942年
昭和17年7/7
大本営、「支那事変」勃発5周年に際し戦死者数を発表

●発表によれば、日本軍戦死者11万余人。中国側230万余人。

1942年
昭和17年7/12
全国中等野球大会の終止を発表

●この大会は現在の「全国高等学校野球選手権大会」のことで、朝日新聞社は、主催してきた全国中等野球大会が終止した(終わった)ことを発表した。
●この終止の理由は、大日本学徒体育振興会(文部省が結成した組織)が、全国中等野球大会を中等学校総合競技会のなかの1種目として組み入れたため、全国中等野球大会は終焉をむかえたのである。

1942年
昭和17年7/22
石けん4人家族で月2個(地方1個)の割当

●商工省は、8月からの配給石けん割当量を発表した。都市部の家庭用石けんを4人家族で月2個(地方1個)とした。

1942年
昭和17年7/24
新聞報道を1県1紙制とする

●情報局は、言論統制と用紙統制のため、1道府県に新聞1紙と制限を加えた。内閣情報局と内務省は、昭和16年12月公布の新聞事業令により新聞社の整理統合を本格的に推進した。そして7/24、全国紙5紙、ブロック紙3紙、地方紙は1道府県に新聞1紙という全面的整理統合方針が閣議決定された。こうして昭和13年に739紙あった日刊紙が10月には54紙となった。

1942年
昭和17年7/28
ビルマ防衛軍を組織

●第15軍は、ビルマ独立義勇軍を解散し、新たにビルマ防衛軍(司令官アウン・サン少将)を組織する。昭和16年、南機関(日本軍のビルマ工作を担当)が組織したビルマ独立義勇軍は、3万人を超えたが、訓練が不十分で規律も乱れたため、2800人を少数精鋭の防衛軍に編成し他を武装解除した。8/1日本軍によりバー・モーを長官とするビルマ中央政府がラングーンに開庁した。

1942年
昭和17年8/5
戦艦武蔵竣工

●三菱重工長崎造船所で、大和型戦艦2番艦武蔵が竣工した。7/14の連合艦隊編制では戦艦大和1艦のみが直率だったが、ここで戦艦武蔵が加わり第1戦隊を構成した。

1942年
昭和17年8/5
読売新聞社と報知新聞社合併

●読売新聞社と報知新聞社は合併して題号『読売報知』のもと新発足した(資本金810万円)

1942年
昭和17年8/7
連合軍反攻始まる

●米海兵隊1個師団、ガダルカナル島とツラギ島に上陸開始。

1942年
昭和17年8/9
インド政庁、ガンジーらを逮捕

●インド政庁は、前日イギリス撤退要求を決議した国民会議派の活動を禁止し、ガンジーら幹部を逮捕。
(新聞)昭和17年8/10の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1942年
昭和17年8/11
全国初めて外国語追放を行う

●京都府は、全国で初めて女子中等学校に対し、外国語追放と外国語教員の他教科従事などを通牒する。

1942年(昭和17年)8/13アメリカ、「マンハッタン計画」を開始する。

●アメリカはこの日、原爆製造計画である「マンハッタン計画」を開始した。翌年から物理学者ロバート・オッペンハイマーを中心に、ロス・アラモス研究所で本格的な研究を開始した。下に「ウランとプルトニウム」を主題に、原爆について分かりやすく書かれたものがあるのでリンクしておいた。「2018年12月4日今中哲二・京都大学複合原子力科学研究所」作成のPDFファイルである。
●「マンハッタン計画」については、ナチス・ヒトラーの迫害を受けたユダヤ人科学者たちや、各国からアメリカへ亡命した科学者たちに関して下段で簡単にふれておく。この「マンハッタン計画」では、約54万人の科学者・技術者をリストアップし、そのうちの13万人を実際に動員し、つぎ込まれた資金は約20億ドルといわれる。
 米英は、ナチス・ドイツの残虐さとドイツ科学の優秀さから、ドイツが先に原爆を開発することを非常に恐れた。「マンハッタン計画」のきっかけは1939年8月、相対性理論で有名なアインシュタイン(1921年ノーベル物理学賞受賞、1935年アメリカへ移住)が、ルーズベルト大統領に原爆製造を促す手紙を書いたことから始まった。(そもそも、ハンガリーからの亡命者科学者レオ・シラードの奔走がなければ、マンハッタン計画は存在しなかったかもしれない、といわれている。)

一例(「20世紀 太平洋戦争」 読売新聞社20世紀取材班編 中央公論新社2001年刊より一部抜粋・要約)
項目内容
時代背景第1次世界大戦(1914年〜)では大量殺戮兵器は「毒ガス」だった。そのために駆り出された化学者は、ドイツ2000人、イギリス1500人、フランス100人、アメリカ1900人といわれる。毒ガスによる兵士の死傷者は約53万人、一般市民を含む非戦闘員の死傷者は約100万人といわれる。第2次世界大戦期においても、科学者も祖国のために貢献することが求められた。だが第2次世界大戦は「毒ガス」ではなく「原子爆弾」だったのである。
ドイツ●ドイツ士官オットー・ハーン(1944年ノーベル化学賞受賞)は、1915年新設の毒ガス戦用特殊部隊に転属させられ、毒ガスの開発等を担い、悲惨な戦場を体験した。ハーンは、第1次世界大戦後放射能研究に打ち込み、1938年にウラン原子核に中性子をぶつけることで、原子核分裂が起こることを発見した。「核の時代」の扉をハーンが開いたのである。
 だがハーンは、毒ガス戦争の悲惨な体験から、一貫してナチスには非協力的だった。原爆を開発するつもりなどなかったのである。彼は戦後ドイツ科学会の良心として平和運動の先頭に立ち、1957年4月に、「科学者らは、いかなる場合、形においても、原子兵器の生産、実験に決して参加しない」というゲッチンゲン宣言を発表した。
ドイツ●天才物理学者ヴェルナー(ウェルナー)・ハイゼンベルク(1932年ノーベル物理学賞受賞)は、1927年、20代の若さで「量子論」の確立に貢献する「不確定性原理」を行列力学を用いて発表した。彼の卓越した頭脳は、連合軍側に原爆開発に関与しているとの恐怖心を与え、暗殺計画も立てられたほどだった。
 だが実際には、ハイゼンベルクは、原爆開発に関与していなかった。彼は開戦直後の1939年、ドイツ陸軍から原爆の可能性を研究するように命令された。だが彼は、1942年6月、原爆開発には膨大な資金と数年の年月がかかり、ドイツの戦時下の国力では無理であるとの最終報告を行った。ヒトラーは当時、開発に半年以上かかる兵器研究を認めておらず、ドイツの原爆開発はこの時点で終わったのである。
 ハイゼンベルクは、ナチスには同調せず、ナチスから厳しい迫害を受けながら、ナチス滅亡後の祖国ドイツ復興のためドイツにとどまったといわれる。彼が戦時研究として細々と行ったのは、エネルギー源としての原子炉の建設だった。
アメリカ●エンリコ・フェルミ(1938年ノーベル物理学賞受賞、イタリア人)は、1938年ノーベル賞授賞式に出席後、ストックホルムからそのままアメリカに亡命した。フェルミは、1942年12/2、シカゴ大学で世界初の原子炉「CP1(=シカゴ・パイル-1)」で「臨界」に成功する。プルトニウム239の生産が可能となり、人類が「原子の火」を手に入れた瞬間だった。
 だが、臨界の成功の祝福を受けるフェルミに、レオ・シラードは次の言葉をかけたという。やがて起こるヒロシマ・ナガサキの惨劇を予見したといわれる。

「きょうという日は、人類史に『暗黒の日』として記録されるだろう」と。
日本1941年4月、陸軍航空技術研究所長安田中将が、理化学研究所大河内正敏所長に原爆研究を依頼した。仁科芳雄主任研究員が担当者となり、ニシナの頭文字をとった陸軍「二号研究」がスタートした。だが戦時下の日本の国力では原爆の製造は不可能だった。

●こうして、テネシー州オークリッジに、原爆材料であるウラン235をウラン濃縮して生産するウラン工場、ワシントン州ハンフォードに、プルトニウム239を生産する原子炉と再処理工場を建設して、1945年7月までに原子爆弾3発を作り上げた。ウラン235は広島、プルトニウム239は長崎と史上初の核実験に使われた。下でリンクした「ウランとプルトニウム」を読むと基本的な意味が分かる。

*リンクします「ウランとプルトニウム」PDFファイル→
「2018年12月4日今中哲二・京都大学複合原子力科学研究所」

史上初の核実験(プルトニウム型原子爆弾)成功

アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴルド砂漠のトリニティー実験場。1945年7/16午前5時29分、TNT火薬約2万トンに相当するプルトニウム型原子爆弾(長崎型)が炸裂した。
(出典)「WORLD WARⅡ第2次世界大戦全史(原爆投下)」アメリカTVドキュメンタリー(1952~1953)
(注意)音量がMAXになっているので、事前に調整してください。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。(mp4動画、サイズ3.12MB、28秒)

年・月1942年8月頃~12月
1942年
昭和17年8/20
第1次日米交換船横浜に入港

●浅間丸とコンテ・ベルデ号(イタリア)が横浜に入港し、野村・来栖両大使らと、北米、中南米、カナダの邦人1421名が帰国した。両大使らは東アフリカのロレンソマルケスでグルー駐日アメリカ大使一行と交換された。

1942年
昭和17年8/21
修業年限短縮される

●中等学校・高等学校高等科および大学予科の修業年限短縮に関する件を閣議決定。中等学校は4年となる。

1942年
昭和17年8/27
大型台風、西日本一帯を襲う

●この台風により、死亡891人、行方不明267人、全壊家屋3万3000余戸など、高潮などを含め大きな被害を出した。だが戦時下のため気象情報も住民には伝わらず大きな被害を出したといわれる。また新聞報道もあまりされなかった。

1942年
昭和17年8/31
「不良少年」の一斉検挙を始める

●警視庁は「不良少年」2万2千余人を9/15までに取り調べた。昭和17年9/17の朝日新聞には、「少年工員を善導」の見出しで、「徴用少年工の不良化が先般来犯罪増加の方面から指摘され、各方面より重大視されるにいたった」とある。そしてその不良化防止対策として「3ヶ月の特別錬成を全国で実施する」と記事にある。

8/22・23ドイツ軍、スターリングラード総攻撃

●スターリングラード(現ヴォルゴグラード)駅-1前に、「輪になって踊る子供たちの像」(バルマレイの泉)があった。ドイツ軍によるスターリングラード攻撃時、戦火を背景にした写真で有名になった像である。
 左の写真は、2013年にレプリカが作られたうちの一つで、現在ヴォルゴグラード駅前にあるもので、Googleストリートビューから切り取った2016年撮影の写真。下段の動画には、1942年8月、燃え上がるスターリングラード市街を背景にこの子供たちの像が写っている。
●下はドイツ軍の1942年の北アフリカ戦線、ヨーロッパ東部戦線等の略年表である。スターリングラードで追い詰められたドイツ軍パウルス陸軍元帥は、1943年1月31日、ソ連軍に降伏する。同時に最後のドイツ部隊も2/2降伏した。

1942年ドイツ軍の動向(年譜出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊。
月・日内容
1/1〔連合国〕ワシントンで連合国共同宣言
1月中旬~3月(東部戦線)ルジェフ攻防戦。※ルジェフ、モスクワの北西約208km
1/21(北アフリカ戦線)ロンメル軍団,キレナイカ反攻
※ロンメルは1941年3月から北アフリカ戦線で戦車軍団を率いて戦い「砂漠の狐」と呼ばれた。イギリスにとって地中海とスエズ運河はイギリスの生命線とされていた。
1/29(北アフリカ戦線)独軍,ベンガジ奪還
1/30(西部戦線)独,ユダヤ人絶滅計画作成
1月下旬(東部戦線)ホルムの独軍包囲さる
2/8~4月中旬(東部戦線)デミヤンスク攻防戦。※デミヤンスク、レニングラード近郊。
2/10(北アフリカ戦線)ビル・ハケイムの戦い
3/20〈地中海戦線〉独空軍,マルタ島攻略
3/28(西部戦線)英空軍の対独空爆激化。リューベック大空襲
4/5(東部戦線)ヒトラー,コーカサス占領指令。
※ドイツ南方方面軍司令官クライストは、直接コーカサス地方に進軍するようにヒトラーから指令を受けた。コーカサス地方は油田地帯であり、スターリングラード奪取とともにソ連中央部との連絡を断つことができるからであった。
4月(北アフリカ戦線)独空軍,第2次マルタ爆撃
5/5〈大西洋〉英軍,仏領マダガスカル島上陸
5/12(東部戦線)ソ連軍,ハリコフ攻勢
5/16(東部戦線)独軍,全クリミア制圧
5/26(北アフリカ戦線)ロンメル軍,攻撃再開
5月(西部戦線)英空軍,ドイツ本土爆撃作戦開始
5/30(西部戦線)英空軍、ケルン空爆ついでエッセン,ブレーメン
6/12〔連合国〕英ソ同盟締結
6/21(北アフリカ戦線)ロンメル軍,トブルク占領
6/24(北アフリカ戦線)ロンメル軍,エジプトへ侵入
7/1(北アフリカ戦線)第1次エル・アラメインの戦い。
※ドイツ軍の補給は尽き、これ以上進軍できなくなった。
7/4(東部戦線)ドイツ第11軍,セバストポリ要塞攻略
7/22(東部戦線)独軍,ドンを渡河
8月上旬(東部戦線)独軍,コーカサスに侵入
8/12〔連合国〕モスクワ会談,スターリン“第2戦線構築”を主張。
※「第2戦線構築」とは、スターリンが連合軍に北フランス上陸作戦などの実行を迫ったこと。チャーチルは、1943年中の「第2戦線構築」を約束し、代わりに北アフリカ上陸作戦実行を伝えた。
8/18(西部戦線)英空軍,ディエプ爆撃
8/23(東部戦線)独軍,スターリングラードに迫る
8/30(北アフリカ戦線)アラム・ハルファの戦い
9/1(東部戦線)独軍,コーカサスに迫る
9/3(北アフリカ戦線)ロンメル軍団,撤退開始
10/23~11月下旬(北アフリカ戦線)第2次エル・アラメインの戦い
11/8(北アフリカ戦線)連合軍,北西アフリカ上陸
※アイゼンハワー指揮の米英連合軍、北アフリカ上陸作戦を開始。カサブランカ等3ヵ所に上陸。
アメリカは単に大西洋に足がかりを作ることだけを目指しており、結局連合軍は立ち往生してしまう。
11/11(西部戦線)独軍,フランス南部占領
(北アフリカ戦線)枢軸軍,チュニジアに上陸
11/19(東部戦線)ソ軍,スターリングラードで反撃開始
11/23(東部戦線)独軍,スターリングラードで逆包囲
11/24(東部戦線)ヒトラー,スターリングラード死守を指令
11/27(西部戦線)仏ビシー政府解体
12月中旬(東部戦線)独軍,コーカサス戦線より撤退開始。※ドイツ軍がスターリングラードで敗北が濃厚となったため、その間隙をついて撤退を開始できた。
1943年
1/16~26〔連合国〕カサブランカ会談
1月中旬(東部戦線)ソ軍,レニングラードで反撃開始
(北アフリカ戦線)英軍,攻勢に転ず
1/23(北アフリカ戦線)英軍,トリポリ攻略
1/31~2/2(東部戦線)独軍,スターリングラード戦に敗北

ドイツ軍、スターリングラード総攻撃開始8/23

(出典)「よみがえる第2次世界大戦(カラー化された白黒フィルム)第2巻日米開戦」NHKエンタープライズ2009年。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。(mp4動画、サイズ2.65MB、25秒)

年・月1942年9月頃~12月
1942年
昭和17年9/14
出版法違反、細川嘉六を検挙

●警視庁は「改造」に掲載した論文を出版法違反として細川嘉六を検挙した。これは「横浜事件」に発展する。
この横浜事件とは、関係した編集者、新聞記者ら約60人が逮捕され、4人が拷問によって獄死した事件である。これを行ったのは、神奈川県警察部特別高等課(カナトク)で、残虐さで知られた「特高」のなかでも最悪な課であった。戦後被害者が暴行・傷害で3警察官を告訴、懲役刑の判決が下された。この横浜事件でも、でっち上げた事件にもかかわらず、このカナトクは表彰されている。

1942年
昭和17年9/14
徴用工ら労働条件改善を嘆願する

●古河工業日光電気精銅所の徴用工らが、労働条件改善を嘆願し、約1500人が署名する。

1942年
昭和17年9/15
満州国、建国10周年を迎える

●満州国建国10周年記念式典、新京南嶺の総合運動場と東京日比谷音楽堂で開催される。
満州国は、建国当初は満州産業の重化学工業を振興し、日本の軍需要求に応えることを目標としていた。だが日中戦争の拡大は、日本経済の悪化と統制強化を招き、日本からの資金・資材の供給は困難となった。そのため満州国の役割は、基幹産業部門である鉄・石炭などを増産し、それを日本に供給することに変わっていった。日本は満州国の人と物を収奪していったのである。

1942年
昭和17年9/30
朝鮮人男子に1年間の錬成を義務化

●朝鮮総督府、朝鮮青年特別錬成令公布。この錬成令1条と2条は次の通りである。カタカナはひらがなに変えた。

第1条 本令は朝鮮人たる男子青年に対し、心身の鍛錬其の他の訓練を施し、将来軍務に服すべき場合に必要なる資質の錬成を為すを以て目的とし、兼て勤労に適応する素質の錬成を期するものとす。
第2条 朝鮮に居住する年齢17年以上21年未満の朝鮮人たる男子にして、第7条1項の規定に依り選定せられたるものは、本令に依り錬成を受くることを要す。
第7条1項の規定に依り選定せられたる者以外の朝鮮人たる男子にして年齢17年以上30年未満のものは、志願に依り錬成を受くることを得。
1942年
昭和17年10/6
戦時陸運の非常体制確立

●閣議は、戦時陸運の非常体制確立に関する件を決定。船舶需要の増大で、沿岸海上輸送を陸上輸送に転換する。

1942年
昭和17年10/15
重要物資、強制買い上げとする

●統制物資譲渡制限に関する件公布施行。政府指定の重要物資については、従来の任意供出を強制買い上げとする。

1942年
昭和17年10/19
敵機搭乗員は軍律会議に附し、死・重罪に処す。

●畑防衛司令官、日本領土を空襲し暴虐行為のあった敵機搭乗員は軍律会議に附し、死・重罪に処すと布告。これは、4/18日本本土初空襲(ドーリットル空襲)した搭乗員を、軍事裁判で厳罰に処すために布告したもの。

1942年
昭和17年11/1
大東亜省官制公布施行

●拓務省・興亜院・対満事務局等を廃止し大東亜省に一元化した。初代大臣青木一男。
(新聞)昭和17年9/2の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

11/1予科練の制服が、水兵服から詰襟7つボタンとなる。

●下は、海軍の予科練(甲・乙種飛行予科練習生)の募集ポスターと予科練体操の写真。また下の動画は、東宝映画「決戦の大空」の教練の1シーン。1942年11/1から予科練の制服が水兵服から7つボタンの短ジャケットに変わった。そして翌年の東宝映画「決戦の大空」(1943年9月)の主題曲「若鷲の歌」(西条八十作詞・古関裕而作曲)は、国民に広く親しまれ、とりわけ少年たちの間では航空機搭乗員の象徴になった。
●一方陸軍でも海軍の予科練に倣い、少年飛行兵制度を採用した。軍にとって、戦争の主力となった航空機搭乗員は不足し、より多くより早く搭乗員を養成することが必要となった。しかし戦局の悪化ともに太平洋戦争末期、予科練出身者は特攻の主役となり多くの戦死者を出していった。

上左写真:予科練ポスター。上右写真は「予科練体操」・毎日シリーズ出版。(出典:「昭和2万日の全記録・第6巻」講談社1990年刊)

映画『決戦の大空へ』(1943)一部

●予科練は航空機搭乗員養成をめざし、厳しい身体検査、学力試験、適性検査を経て入隊した少年兵であった。当初陸海軍とも、少年兵制度は専門技術を身につけた下士官養成を目的としていた。しかし戦局逼迫による兵員不足補うため、実際には教育そのものよりも、少年達を戦闘要員として駆り出す機関へと変わっていった。
●映画『決戦の大空へ』・出典:youtube《sandy karen》より一部紹介、下段でリンクしています。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ6.79MB、2分28秒)

*リンクします映画『決戦の大空へ』(1943)より『若鷲の歌』あり動画・出典:youtube(sandy karen)

年・月1942年11月頃~12月
1942年
昭和17年11/15
関門海底鉄道トンネル開通式

●この日、関門海底トンネル第1線の開通式が新下関駅構内で行われた。外征部隊出発・補給基地として九州を重視した陸軍の要請で昭和11年に着工された。第2線は19年に完成」した。

1942年
昭和17年11/17
中国人の強制連行を決める

●閣議は、華人労務者内地移入に関する件を決定。下がその方針などの最初部分、要領1と2(案)。カタカナはひらがなにした。

(極秘)第一 方針 内地に於ける労務需給は愈々逼迫を来し特に重筋労働部面に於ける労力不足の著しき現状に鑑み左記要領に依り華人労務者を内地に移入し以て大東亜共栄圏建設の遂行に協力せしめんとす
第二 要領
一、本方策に依り内地に移入する華人労務者は之を国民動員計画産業中鉱業、荷役業、国防土木建築業及其の他の工場雑役に使用することとするも差当り重要なる鉱山、荷役及工場雑役に限ること
二、移入する華人労務者は主として華北の労務者を以て充つるも事情に依り其の他の地域よりも移入し得ること  但し緊急要員に付ては成る可く現地に於て使用中の同種労務者竝(ならび)に訓練セル俘虜帰順兵にして素質優良なる者を移入する方途をも考慮すること
(出典)「華人労務者内地移入に関する件」企画院第三部 昭和17年10月6日(1942/10/06)国立公文書館アジア歴史センター
1942年
昭和17年11/27
「欲しがりません勝つまでは」

●これは「国民決意の標語」入選作10作品のうちの一つで、最も有名になったもの。太平洋戦争開戦1周年に、大政翼賛会と朝日、東京日日、読売の3紙が「国民決意の標語」を公募した。入選作はポスターや広告に多く使われた。その他には以下のものがあった。

「さあ2年目も勝ち抜くぞ」「たった今!笑って散った友もある」「ここも戦場だ」「頑張れ!敵も必死だ」「すべてを戦争へ」「その手ゆるめば戦力にぶる」「今日も決戦 明日も決戦」「理屈言ふ間に一仕事」「『足らぬ足らぬ』は工夫が足らぬ」
1942年
昭和17年12/3
東宝映画「ハワイ・マレー沖海戦」封切り

●この映画は、監督山本嘉次郎、特殊撮影技術 円谷(つぶらや)英二で、この日封切られ、占領地を含めて1億人が観たといわれ、日本戦争映画史上、空前のヒット作となった。この映画は大本営海軍報道部の企画をうけ、東宝が77万円という当時としては巨額の製作費を投じ、半年をかけて製作した戦争映画だった。特記されるのは、円谷英二の特撮技術で、観客が誰もが本物と信じて疑わなかった真珠湾攻撃やマレー沖海戦の場面は、真珠湾、戦艦、飛行機の精巧な模型と、動くクレーンから撮影する特撮技術によるものだった。
写真は「ハワイ・マレー沖海戦」の特撮風景。真珠湾に浮かぶミニチュア艦隊に送風機で波を起こした。(出典:「昭和2万日の全記録・第6巻」講談社1990年刊)

1942年
昭和17年12/23
大日本言論報国会、設立総会開催

●この日、内閣情報局の指導に基づき大日本言論報国会が発足した、東京の大東亜会館で設立総会を開催した。この結成総会には、戦争に協力的な評論家ら約1,000人が参加した。会長には国粋主義者の徳富蘇峰が、専務理事兼事務局長には元九州帝大教授で観念右翼の哲学者、鹿子木和信が就任した。また昭和17年5月には、約2,000人の文学者を網羅した日本文学報国会が創立され、前年の昭和16年9月には西洋音楽の作曲家、演奏家、評論家らが日本音楽文化協会を設立し、同月18日には、山田耕作を隊長に、演奏家協会の全員が音楽挺身隊を結成した。また17年3月には、全国の日本画家2,500人が日本画家報国会を結成、「彩管部隊」(=画筆のこと)とよばれた。同様に演劇・映画の分野でも、日本移動演劇連盟(16年6/9結成)、全国移動映写連盟(18年8/26結成)を中心に、全国津々浦々に演劇・映画を配給し、国民の戦意高揚に大きな役割を果たした。
(新聞)昭和17年12/20の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

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