1943年(昭和18年)連合軍の大攻勢が始まる。日本、「絶対国防圏」を設定する。

第2次世界大戦

日本軍、ニューギニアで敗北し、ガダルカナル島からも撤退する。ドイツ軍はソ連軍との戦いに敗北する。
●ガダルカナル撤収は、2/1、2/4、2/7の3次にわたり毎回駆逐艦20隻で実施された。この結果、陸軍約9,800名と海軍約830名が撤収できた。だが6ヶ月におよぶガダルカナル島の戦いでは、陸軍約20,800名、海軍約3,800名が戦没した。
●またニューギニアでは、在ギルワとブナ支隊が、撤収命令(1/13)により、大発動艇(だいはつどうてい=陸軍上陸用舟艇《通称・大発》)によりラエ方面に転進した。このブナ方面作戦参加総兵力は、陸海軍合計約15,900名であり、オーエン・スタンレー機動間で約4,500名、ブナ周辺地区の防御戦で約8,000名の将兵が戦没した。撤収した人員はわずかに約3,400名にすぎなかった。(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦3」
●このブナ地区の撤収戦での「バサヴァ守備隊の玉砕」(昭和17年12/8~)を記録した連合国側(豪軍=オーストラリア軍)の資料の一部を下に抜粋した。日本軍の凄まじい死闘のありさまを知ることができる。

 日本軍は完全に疲労困憊に陥り、しかも生存者はわずかに100名~200名で、その全滅は今や時間の問題となってきた。(中略)
・・いよいよ断末魔が次の日にやってきた。12月9日の払暁からニの第16大隊、二の第27大隊及び第39大隊の巡羅兵は教会地区に躍り込んだ。これはまことにいやな仕事で、その大部はなぐり合い突き合いの戦闘だったが、遂にその日の午後敵陣地をことごとく制圧してしまった。豪軍はそこで若干の食糧、弾薬を見つけるとともに、捕虜16名を得たが、そのうち10名は担架で運ばなければならない重傷者であった。
 ゴナの日本軍は戦死者を葬るだけの余裕がなく、友軍の屍体を依托物(いたくぶつ=支えのこと)として陣地構築に利用し、あるいは掩体(えんたい=銃撃から身を守る物)として戦った。戦闘の終期には、死臭があまりはなはだしいので、生存者はガスマスクをかけなければおられないほどであった。事実この臭気で豪軍は嘔吐を催し、ひどい目にあった。
 戦闘が終わり日本軍陣地を点検しうるようになってみると、人間というものが、どうしてこんなひどい環境を耐え忍ぶことができるのか、しかも生存しうるのかと疑わざるを得なかった。
 ある部隊と行動を共にした豪州の新聞記者が、当時の景況について次のように述べている。

 腐敗した屍体、中には一週間もたっているものもあるが、それが築城の一部を構成している。生存者はその屍体に銃を托して射撃をしている。 屍体と床を並べて眠っている。ある塹壕の中には過労のため立つことができない兵がいた。彼は我々が近づくと小銃を自分の頭に向け、足の親指で引鉄を引き脳天を粉砕してしまった。何処もかしこも、物という物すべて皆が、肉の腐敗臭で満ち満ちていた。豪軍が埋葬した日本兵だけでも、638名の多きに上っている。しかし豪軍の損害も戦死、負傷、行方不明を合すれば、実に750名に達していたのである。

(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦2」

(上絵)「密林の死闘-ニューギニア」佐藤敬。(出典:「太平洋戦争名画集」毎日グラフ臨時増刊1967/11/3)

目次
昭和18年主要項目
★アメリカ軍の本格的な反攻が始まる。2月日本軍はガダルカナル島から、同じソロモン諸島のブーゲンビル島へ撤退した。それ以後主戦場は、中部ソロモンのニュージョージア島周辺に移っていく。5月アリューシャン列島のアッツ島で日本軍は玉砕する。一方東部ニューギニアでは、ラエ、サラモア周辺で激戦が繰り返され、9月~10月にかけてサラワケット山脈を越えて撤退する。また中部太平洋ギルバート諸島では、マキン、タラワが攻略され、11月に両島とも玉砕する。12月連合軍は、ついにラバウルのあるニューブリテン島に上陸する。
★ヨーロッパの戦況(ドイツ第6軍、スターリングラードで降伏する)ドイツ軍は、ソ連とのスターリングラードでの戦いで敗北し、コーカサス戦線からも撤退する。一方、北アフリカ戦線でも、ドイツ軍は連合国に敗北する。そして連合軍はシチリア島上陸作戦から、イタリア本土へ進攻する。イタリアではムソリーニが失脚し、バドリオ政権が誕生し連合国に降伏する。だがドイツ軍はイタリアに侵攻しムソリーニを救出し、イタリアは内乱状態となる。
★連合艦隊司令長官山本五十六大将戦死。昭和18年5/21午後3時の大本営発表は、衝撃となって日本列島を駆け抜けた。

「連合艦隊司令長官海軍大将山本五十六は、本年4月前線に於いて全般作戦指導中敵と交戦、飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げたり。後任には海軍大将古賀峯一親補せられ既に連合艦隊の指揮を執りつつあり」

ラジオは、山本が元帥の称号を与えられ、国葬が行われることも伝えた。国民的英雄で「無敵連合艦隊」の象徴だった山本が死んだ・・彼の死は当時の国民を暗澹とさせた。
(文)講談社『昭和2万日の全記録』

★日本は労働力供給源として学徒動員、女子挺身隊動員を行う。日本の敗戦時までに動員された学徒数は、340万人を超え、女子挺身隊の動員数は、約47万人だった。一方アメリカもまた、今まで就労が禁止されていた既婚女性を含め、人手不足を補うため、軍需工場等に600万人の女性を動員した。
★国内政治・社会年表
昭和18年《1943年》

東条内閣→内閣改造(4/20)
日本はついに戦争継続に必要な、労働力、戦闘力(兵隊)、食糧生産力を失っていく。労働力不足は、学徒動員(6月~)、女子挺身隊編成(9月~)、なかでも8月からは「第3次国民徴用令改正」で、強制徴用「白紙召集」をできるようにした。兵隊不足は、4月「兵役施行令一部改正施行」により中等学校生徒の徴兵延期制を廃止、陸軍・海軍の少年兵の志願年齢を引き下げ(5月)、朝鮮にも徴兵制を適用(8/1施行)、そしてついに10月、「在学徴集延期臨時特例」を公布施行し、理工系など一部を除き、学生・生徒の徴兵猶予を停止した。学徒出陣である。そして、11月には兵役法を改正公布施行して、兵役服務年限を5年間延長して45歳までとした。

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★アメリカ軍の本格的な反攻が始まる。

太平洋方面はアメリカ軍が担当した

●1942年(昭和17年)3月、米英両国の戦略担任地域が決定し、太平洋方面はアメリカの担任となり、左図のように区分された。
●太平洋方面(北太平洋・中部太平洋・南太平洋)の最高指揮官は、ニミッツ海軍大将。南西太平洋方面の最高指揮官は、マッカーサー陸軍大将。そして、ニミッツ指揮下の南太平洋方面指揮官にはゴムレー海軍中将が任じられた (10月、ハルゼー海軍中将)。
●そして7月、「ツラギ・ガダルカナル島攻撃作戦」が何回かの折衝が重ねられ(ニミッツ提督かマッカーサー将軍どちらが担任するかの問題)、統合幕僚長会議は次のように指令した。これがアメリカ軍の本格的対日反攻作戦の開始であった。

1,(最終目的)・・ニューブリテン島、ニューアイルランド島、ニューギニア方面の攻略並びに占領。
2,
(1)第1段作戦・・サンタクルーズ諸島、ガダルカナル島、ツラギ島を占領。ゴムレー海軍中将の指揮する南太平洋方面部隊が担任。マッカーサー将軍の南西太平洋方面部隊の支援を受ける。
(2)第2段作戦・・中、北部ソロモンの占領とニューギニア北東岸の奪回。
(3)第3段作戦・・ニューブリテン島の奪回を目標とする。第2段、第3段の作戦はマッカーサー将軍が指揮する。
(4)作戦第1日は8月1日とし、南太平洋、南西太平洋両方面の境界を、8月1日以降、従来の東経160度を159度に変更する。
※これに対して、第1線部隊から準備時間が不足するという意見が出て、反攻作戦開始は8/7に延期された。

●こうして、アメリカ軍は、7/28から4日間、コロ島(フィジー島)で上陸予行演習を行い、第2次世界大戦で行った最初の大規模な水陸両用作戦を、ガダルカナル島で行った(1942年8/7)。
(地図出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦1」

ギルバート諸島タワラでの激戦(1943年11/21~)

(映像出典)(一部のみの映像)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作。
タワラでは、海軍陸戦隊の柴崎少将以下約4600名が全島を要塞化して、アメリカ軍海兵団第2師団約1万6000人を迎え撃った。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
(mp4動画、サイズ3.38MB、1分14秒)

連合軍の反攻(太平洋戦線)
1943年(昭和18年)~1944年初頭
1942年末~内容
12/8●ニューギニア、バサヴァで日本軍守備隊800人、全滅。
●左地図は、「南太平洋方面一般図」で、地図上の△赤色は、豪軍沿岸監視隊展開位置。だいだい色の日本地図は、ラバウルと東京をあわせて作図したもの、と原図の(注)にある。主要なエリアはピンクでポイントし、重要地名は強調した。(地図出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦3」
12/31●大本営、御前会議でガダルカナル島の全兵力撤退を決定(昭和18年1/4下命)
※(写真)分解した連隊砲(約100kg)を肩に、密林中の通称「丸山道」を行く日本軍兵士。米軍はマイクロフォンで日本兵を察知し、集中砲火を浴びせた。密林中で日本兵は炊煙も出せず、トカゲや木の芽も食べつくし、飢餓、病気とたたかった。(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊
1/2 ニューギニア、ブナの日本軍守備隊安田司令官、山本連隊長ら連合軍基地へ突撃。
1/22第17軍、ガダルカナル島撤収機動作戦を開始。
2/1ガダルカナル島から撤退開始。2/1第1次撤退。2/4第2次撤退。2/7撤退完了(1万1千余人)。
2/7 ニューギニアのギルワから最後の日本軍撤退部隊が集結地クムシに到着
2/9 ●大本営、ガダルカナル島からの転進(=撤退)を発表。
大本営はこの時から、撤退、退却、敗走などを「轉進(=転進)」と発表するようになった。左新聞にあるように『新作戦の基礎を確立し、目的を達成したので、陣地を撤し他に転進させた』とある。(新聞)昭和18年2/10朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
2/19米艦隊、アリューシャン列島のアッツ島を砲撃。
3/3 ニューギニア(ラエ)増援に向かう日本輸送船団、ダンピール海峡で全滅。戦死3600人(ダンピールの悲劇)。
3/24 ビルマ侵入の英軍インド第77旅団、日本軍の反撃で、インドに反転敗走を開始。
※この英軍インド第77旅団は、2/14チンドウィン川を渡り北部ビルマに進入し攻撃を開始していた。
3/27 アッツ島第2次輸送部隊、米艦隊と交戦し輸送を断念(アッツ島沖海戦)。
3/27 大本営、ビルマ方面軍・第15軍の戦闘序列を下令(4/3、ビルマ方面軍司令部編成完結)
3/30 大本営、ガダルカナル島から撤収した一木支隊を第17軍から除き、内地帰還を発令。
4/3 連合艦隊司令長官山本五十六大将、「イ号作戦」指導のためトラック島からラバウルに移動する。
4/7連合艦隊、イ号作戦X攻撃(艦載機をラバウル基地に集結し、ガダルカナル沖米艦船攻撃)を実施する。
4/12第3艦隊・第11航空艦隊の175機、イ号作戦Y攻撃(ポートモレスビー飛行場攻撃)実施。
4/14第3艦隊・第11航空艦隊の191機、イ号作戦Y₁・Y₂攻撃(ニューギニアのミルン湾など攻撃)実施。
4/16第16軍、ジャワでプートラ(民族総力結集運動、委員長スカルノ)本部の開所式を挙行。
※プートラとは民衆総力結集運動の略。ジャワで日本軍政当局が、施策の対住民徹底、協力宣伝、物資・労務供出などを目的に3/9発足させたもの。建前はインドネシア人の自治組織だったが、日本軍にとっては予期したほどの成果は上がらず翌年解散。より強力な軍政協力組織「ジャワ奉公会」が組織される。
4/18 ●山本連合艦隊司令長官、ブーゲンビル島南のバラレに向かう途次、米軍の攻撃をうけ戦死。
※山本連合艦隊司令長官(一式陸攻)は、米軍機ロッキードP-38(16機)の待ち伏せにあい、ブーゲンビル島上空で撃墜され、戦死した。これは米軍が、山本長官の予定を報じた海軍の暗号電文を解読したことによる。だがあまりにも詳細な発着時刻予定までも電文に記載したことに原因があったことは否めないだろう。(新聞)昭和18年5/22朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
4/25●南シナ海で病院船「ぶえのすあいれす丸」、国籍不明の潜水艦に雷撃され10数人重傷。
※病院船は、ジュネーブ条約で交戦国同士でも攻撃を禁じられ、傷病者を治療し、輸送することを目的とした船。病院船は、白く塗った船体に赤十字を描き、白地に赤十字の旗を掲げてその標識とした。だが太平洋戦争では、しばしば兵員や軍需物資の輸送にも使われたため、攻撃も行われ被害も少なくなかった。
(写真)海軍特設病院船「氷川丸」。山本五十六連合艦隊司令長官が病院船に傷病兵を見舞うシーンで氷川丸が映像に残っている。氷川丸は、現在横浜市山下公園前に「日本郵船氷川丸」として係留保存されている。(映像出典)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作。

5/9北海道幌別(ほろべつ)村、米潜水艦の砲撃を受ける(午後11時40分)
5/12 ●米軍1万1000人、アリューシャン列島のアッツ島に上陸。日本軍守備隊と戦闘開始。
●地図は、(赤枠)「陸軍主要部および部隊司令部の所在(昭和18年4月1日現在)」と(青枠)「海軍主要部および部隊司令部の所在(昭和18年4月1日現在)」。主要な地名はピンクでポイントした。海軍の略号は地図上に一覧表記した。(地図出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊4」
5/27潜水艦によるキスカ島撤収作戦開始。「伊7潜」、キスカ港に入泊、この日60人の輸送を行う。
5/29 ●アッツ島の日本軍守備隊、陸軍大佐山崎保代以下約2500人、玉砕
「玉砕(ぎょくさい)」とは、玉が砕けるように潔く死ぬ、の意で、中国の史書『北斉書』が出典とされる。
5月29日のアッツ島守備隊全滅を報じた大本営発表で初めて使われた。20日に軍中央が放棄を決定したアッツ島に残された守備隊にとって、とりうる道は「玉砕」しかなく、以後戦局の悪化とともに、太平洋の島々で同様な惨劇が繰り返された。
左新聞(5/31)によれば、5/30.17時大本営発表は以下の通り。

大本営発表(五月三十日十七時)
一、「アツツ」島守備部隊は五月十二日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に對し血戦継続中の処五月二十九日夜敵主力部隊に對し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり、爾後通信全く杜絶全員玉碎せるものと認む、傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは之に先ち悉く自決せり、我が守備部隊は二千数百名にして部隊長は陸軍大佐山崎保代なり、敵は特種優秀装備の約二萬にして五月二十八日までに与えたる損害六千を下らず
二、「キスカ」島はこれを確保しあり

※(上新聞)昭和18年5/31朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

5/31御前会議、大東亜政略指導大綱を決定。マレー、蘭印の日本領有、ビルマ・フィリピンの独立(促進)など。
6/30 ●連合軍、ソロモン諸島中部のレンドバ島とニューギニア北岸のナッソウ湾に同時上陸(「カートホイール」作戦開始)。
●地図は、(赤枠)「陸軍主要部および部隊司令部の所在(昭和18年4月1日現在)」と(青枠)「海軍主要部および部隊司令部の所在(昭和18年4月1日現在)」。海軍の略号は地図上に一覧表記した。(地図出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊4」
7/3 連合軍、ソロモン諸島のニュージョージア島ザナナ付近に上陸(5日、ムンダ地区に上陸)。
7/11米軍爆撃機B25が9機、北千島の幌筵(パラムシル)島を初空襲(日本本土空襲としては2度目)。
7/12第2水雷戦隊、コロンバンガラ島沖合で米軍と交戦、司令部は全滅する(コロンバンガラ島沖夜戦)。
7/25 米機動部隊、ウェーキ島空襲(27日、10月6日も)。
7/29 ●キスカ島の日本軍守備隊(陸・海軍守備隊約5200人)、第5艦隊の駆逐艦などに分乗し、全員撤退に成功する。
(新聞)昭和18年8/23朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
8/2駆逐艦天霧(あまぎり)、ソロモン沖で米魚雷艇を撃沈。艇長J.F.ケネディ中尉(のちの第35代アメリカ大統領)が負傷する。
8/4第8方面軍、東部ニューギニアのベナベナとハーゲン攻略の空挺作戦実施を約1ヶ月延期する。
8/6 ベラ海夜戦(ソロモン諸島コロンバンガラ島への日本軍増援部隊、940人中820人戦死)。
8/8ニュージョージア島方面防御部隊司令部、コロンバンガラ島へ後退する。
8/12宮中大本営戦況交換で、中部ソロモン方面の作戦を検討、同地域からの撤退を決定する。
8/12米軍爆撃機B17・B24計9機、北千島の幌筵(パラムシル)島を2度目の空襲。
8/15 米軍、ソロモン諸島ベララベラ島に上陸。(連合軍はコロンバンガラ島日本軍を攻略せずに、ベララベラ島に上陸。)
9/1 米機動部隊、南鳥島に空襲と艦砲射撃を加える。
9/4 連合軍、ニューギニアのラエ、サラモアに上陸。「蛙とび」作戦開始(=飛び石作戦とも)。(9/11、サラモア占領)。
9/6第18軍司令部、第51師団などニューギニアのサラモア周辺部隊に、ラエへの撤収開始を命令する。
※日本軍の退却は、ラエでは持ちこたえることができず、サラワケット山脈(3000~4000m級)を越えて北岸のキアリ、直線距離で120km(道なりで400km?)を目指して退却した。この行軍は「魔のサラワケット越え」といわれ、その多くが飢えと寒さで死んだ。
9/12米軍機20機、北千島の幌筵(パラムシル)海峡に来襲。陸・海軍航空隊と地上部隊が迎撃。
9/13郵船大和丸、東シナ海で米潜水艦の雷撃を受け沈没(午前1時30分)。乗員1092人中、18人が行方不明。
9/19ニミッツ指揮下の米太平洋方面部隊、ギルバート諸島に来襲、機動部隊による攻撃を開始(~20日)
9/22 連合軍、ニューギニアのフインシュハーフェン付近に上陸(10/2同地占領)。
9/30●御前会議、「今後採るべき戦争指導の大綱と当面の緊急処置に関する件」を決定。そのなかで、絶対確保すべき要域(=絶対国防圏)を決定した。

千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域トス

※日本は、この絶対国防圏を設定することで、戦線を縮小し防御に転じようとした。だがもはやそれは不可能だった。

10/5関釜(下関-釜山)連絡船崑崙(こんろん)丸、沖ノ島付近で米潜水艦により撃沈される。死者544人。
10/2コロンバンガラ島の日本軍1万4000人、撤退。
10/6第3水雷戦隊(ブーゲンビル島へ撤退するベララベラ島部隊589人を援護中)が、米駆逐艦隊と交戦。
10/12連合軍機約210機、ラバウル(ビスマーク諸島のニューブリテン島)を大規模空襲。
10/27米第1海兵師団、ソロモン諸島ブーゲンビル島南東のチョイセル島・モノ島に上陸する。
10/28連合艦隊司令長官古賀峯一、「ロ号作戦」(ニューギニア東岸の連合軍制圧と補給路遮断)を発令。
11/1 連合軍、ソロモン諸島北部のブーゲンビル島のタロキナ岬に上陸(12月中旬に全島を制圧)。
※日本軍はタロキナには少数の守備隊がいただけで、アメリカ軍の上陸を簡単に許した。第17軍は部隊をさし向けて奪回しようとしたが、アメリカ軍との攻撃力の差がありすぎ奪回をあきらめた(この連隊長は戦意不足とされ更迭された)。そして翌昭和19年3月、再度奪回試みたが失敗した(第2次タロキナ作戦)。
11/4アーノルド米陸軍航空部隊司令官、大型爆撃機B29を対日空襲に使用と発表(ブエノスアイレス発)。
11/5 ブーゲンビル島沖航空戦(第ニ次8日、第三次11日、第四次13日、第五次17日、第六次12月3日)。
11/21 ●米軍、ギルバート諸島のマキン、タラワ両島に上陸(ギルバート攻略開始)。
●地図は、(赤枠)「陸軍主要部および部隊司令部の所在(昭和18年4月1日現在)」と(青枠)「海軍主要部および部隊司令部の所在(昭和18年4月1日現在)」。(地図出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊4」
11/24、11/25 ●マキン島の日本軍守備隊、玉砕(11/24)。
●タラワの日本軍守備隊、玉砕(11/25)。(両島の玉砕5400余人)

●米軍は、マキン、タワラでの激戦で多数の死傷者を出したことに衝撃を受けた。そこで米軍は、上陸前の砲・爆撃の徹底化、トーチカを破壊する大口径砲の徹甲弾の使用、装甲水陸両用車の補強などの戦訓を得た。(タワラでは上陸用舟艇を接岸できず、水陸両用車を使って兵を運んだが、その水陸両用車の大半が日本軍の砲火で破壊されたのである)
(新聞)昭和18年12/21朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
11/27陸軍病院船「ぶえのすあいれす丸」、南太平洋で米軍機B24の爆撃を受け、沈没。乗船者1422人うち174人が死亡。
12/15 ●連合軍、ニューブリテン島のマーカス岬に上陸。(ラバウルの孤立化始まる)
●地図は、(赤枠)「陸軍主要部および部隊司令部の所在(昭和18年4月1日現在)」と(青枠)「海軍主要部および部隊司令部の所在(昭和18年4月1日現在)」。主要な地名はピンクでポイントした。右の一覧表は、海軍の略号。(地図出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「大本営海軍部連合艦隊4」
12/26連合軍、ニューブリテン島の西北端グロセスター岬ツルブに上陸(30日、ツルブ飛行場を占領)。
12/27連合軍戦闘機約50機、ニューブリテン島ラバウル日本軍基地を強襲。
12/29 日本軍、ニューギニアのフインシュハーヘン地区を放棄。
1944年
1/2 
連合軍、東部ニューギニア北岸のグンピ岬に上陸。
2/2 連合軍、マーシャル諸島のクェゼリン・ルオット・ナウル各島に上陸(各島の日本軍、5日までに全滅)。
2/7 連合艦隊、トラック島から主力は内地へ、遊撃部隊はパラオへの引揚げを下命。
2/17 米機動部隊、トラック島を大空襲(~18日)。

★ヨーロッパの戦況(ドイツ第6軍、スターリングラードで降伏する)

ドイツ軍、パウルス元帥、スターリングラードで降伏する(1943年1/31)

ドイツ第6軍司令官パウルス元帥、スターリングラードの戦いに敗れ、降伏する。
(映像出典)「よみがえる第2次世界大戦(カラー化された白黒フィルム)第3巻人類の”悪夢”」NHKエンタープライズ2009年。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
(mp4動画、サイズ4.07MB、1分27秒)

●下は1980年代のソ連の地図に、1943年代の独ソ戦の状況を記入したイメージ図。(地名は現在と変わっている)。(地図出典)「世界地図帳」昭文社1984年刊
ソ連軍の反撃(1943年)


※上地図は、「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊から、第8章「連合国の攻勢1943」から「ソ連軍の反撃(1943年)」の地図を参考にして作成したイメージ図である。
●以下の点がポイントと思われる。
①スターリングラードの攻防戦で、ソ連軍の補給線に重要な役割を担ったのが、ヴォルガ川だった。
②スターリングラードでドイツ第6軍が降伏したことで、コーカサス方面へ進軍していたクライスト部隊が退却することができた。
③1943年における最大の戦いは「クルスクの戦い」といわれる。この戦いは、7/5から7/12にかけてクルスクとその周辺部で行われたもので、「史上最大の戦車戦」といわれ、ドイツ軍とソ連軍の戦車を合わせると約6000輌の戦車が戦った。
だが今やソ連軍は、ドイツ軍よりはるかに多くの火器、より多くの兵士、より優れた戦車を保有していた。そして続々と到着するアメリカ製のトラック、軍需物資、缶詰食品などの補給を受け、機動力もドイツ軍を上回っていたのである。
④ソ連軍は1943年の8月~12月の間に、広い範囲にわたる前線で進撃を開始した。そして10月ソ連軍は、ついにドニエプル川を渡った。ベルリンに向かって進撃開始である。
●上記地図北方、モスクワの西方に「スモレンスク」がある。この近郊の「カチンの森」で数千のポーランド人将校の死体が発見された。集団虐殺の現場であった。1943年4/13、ドイツ・ベルリン放送が、『ドイツ軍がソ連の秘密警察に殺害されたとみられる数千のポーランド人将校の遺体を発見した』と報じた。ポーランド亡命政府はソ連に対し、捕虜のポーランド将校の釈放を要求していて、ソ連政府は既に釈放済みと回答していた矢先の報道だった。ソ連はナチス・ドイツの仕業と言明した。
 ポーランドでは、この「カチンの森」は、戦後ながらく政治的タブーとされてきた(ソ連との関係上)。だがソ連のペレストロイカの新風の中で、ゴルバチョフが発足させたポーランド・ソ連両国歴史委員会が、真実を暴露した。1990年4月、ソ連政府は「カチンの森」に対する責任を認め、ポーランド政府に正式に謝罪した。(クロニック「世界全史」講談社1994年刊より)

ソ連軍の反撃(1943年)

●下左は1943年7月「クルスクの戦い」の大戦車戦と、下右、1943年11月28日~の「テヘラン会談」の3巨頭の写真。
左からスターリン(ソ連)、ルーズベルト(米)、チャーチル(英)。

(出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊

ドイツの戦況とソ連の軍隊

●イギリスによるドイツ爆撃とドイツの軍事生産。
1942年末から43年初めにかけて、新たにアメリカ空軍がイギリス本土からドイツ爆撃に参加するようになった。イギリス空軍機の大部分はカナダとアメリカ合衆国で生産されるようになり、燃料不足に悩まされることも無くなった。連合軍は、3月~6月ルール地方、7月~11月ハンブルクの無差別爆撃、11月~翌年3月にかけてはベルリンの無差別爆撃を行った。だがドイツ迎撃機による爆撃機の消耗は激しく、アメリカは爆撃機に同行できる長距離戦闘機(ムスタング)の完成を急いだ。
(左写真)「空飛ぶ要塞B-17爆撃機」アメリカは夜間爆撃ではなく、白昼爆撃を行うようになった。(出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊
 この爆撃の結果、何千というドイツ人が死亡し、何万の人々が家を失った。だがドイツの工業生産にはほとんど影響を与えなかった。ドイツの軍事生産は、激しい爆撃を受けながらも、1942年から1943年にかけて56%も向上し、全軍需生産では1944年8月にピークを迎えた。また航空機生産は1944年9月に、武器と潜水艦建造は同年12月に頂点をむかえた。
●ドイツ潜水艦(Uボート)。
Uボートは、1942年末にはレーダーを装備した航空機により、夜間に浮上するところを探知され攻撃を受けるようになった。一方ドイツ側も逆探知能力を向上させたり、潜航能力を向上させ対抗したが、劣勢となっていった。ドイツ潜水艦による撃沈トン数は、1942年770万トン、1943年361万トン、1944年142万トン、1945年4月までで46万トンと低下した。
●強力なソ連軍の奇妙な特徴。
 ソ連軍の先頭には、護衛師団の名を冠した精鋭部隊が立ち、戦車、大砲、ロケット砲などを保有し、高度な戦闘能力と技術を備えた兵士で構成されていた(モスクワやスターリングラード攻防戦では、現代戦にみられるような凄まじい攻撃映像が残されている)。ところが、ひとたび敵軍突破がなされると、今度はろくな訓練もうけていない無数の歩兵が突進していく。彼らに秩序を与えるのは、その後に続く精鋭部隊(憲兵部隊)であり、逃亡しようとする兵士や不服従の兵士を射殺し、歩兵を新たな攻撃に突進させることを任務としたのである。ソ連軍の軍律は、歩兵を使い捨ての駒に使ったようである。そのため、歩兵にとって、敵兵の虐殺、占領地での略奪、女性への暴行などは普通のことであったようである。

(戦後、アイゼンハワーがジューコフに地雷原を除去するのにアメリカ兵が苦心して考え出した方策《地雷爆破車輛や掃射等》を説明していると、ジューコフは最も効果的な方法は『歩兵にその上を行進させることだ』と言明したのである)
(出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊

1943年の年譜(東部戦線から太平洋戦線)

●米・英・ソは初めて対ドイツ戦で団結する(テヘラン会談11/28~)。対日戦においても、ソ連は参戦を約束する。(年譜出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊

1943年年譜
1943年月(戦線)と内容
1/4〈太平洋戦争〉日本軍,ガダルカナルよりの撤退命令
1/14~25〔連合国〕カサブランカ会談
※ルーズベルトとチャーチルが仏領モロッコで行った第3次戦争会議。シチリア島上陸作戦などが合意。
1月中旬〈東部戦線〉ソ軍,レニングラードで反撃開始
〈北アフリカ戦線〉英軍,攻勢に転ず
1/23〈北アフリカ戦線〉英軍,トリポリ攻略
1/31~2/2〈東部戦線〉独軍,スターリングラード戦に敗北
1月〈太平洋戦争〉日本軍,泰緬鉄道(戦場にかける橋)建設開始
2/6〈東部戦線〉独軍,ルジェフより撤退
2/7〈太平洋戦争〉日本軍,ガダルカナルより全面撤退
2月中旬〈東部戦線〉第3次ハリコフ戦,独軍敗北。ソ連軍ロストフ奪還
3/9〈北アフリカ戦線〉ヒトラー,ロンメル召還
3月〈大西洋戦線〉独Uボート,連合国艦船攻撃に成果
4/18〈太平洋戦争〉山本五十六連合艦隊司令長官戦死
4/19〈東部戦線〉ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人蜂起,独軍により鎮圧
※これはゲットーに押し込められていたユダヤ人住民が、ドイツ軍に対して生存をかけ蜂起した闘い。だが5週間あまりにわたった蜂起は、6000人以上の死者を出して鎮圧された。ドイツ軍は鎮圧後、ゲットーを跡形もなく破壊し、生き残った5万のユダヤ人も強制収容所に送り込んだ。クロニック「世界全史」講談社19994年刊より
5/11〈太平洋戦争〉米軍,アッツ島上陸。日本軍部隊玉砕
5/12〈北アフリカ戦線〉チュニスの枢軸軍降伏す
5/12~25〔連合国〕トライデント会談
※ワシントンで米・英首脳で行われた会議。シチリア島上陸作戦、イタリア侵攻など。
6/25〔日本〕学徒動員体制
7/5〈東部戦線〉独軍,クルスク戦開始
7/10〈東部戦線〉独軍,クルスク戦中止。ソ軍,クルスク解放
7/10〈イタリア戦線〉連合軍,シシリー島上陸
※米英連合軍、アイゼンハワー総指揮でシチリア島(シシリー島)に上陸(ハスキー作戦)。
7/24~28〈西部戦線〉連合軍,ハンブルク大空襲
※月末までに延2765機が出撃、全市壊滅し死者3万人以上。
7/25〔伊〕イタリアでクーデター。ファシスト党瓦解。
ムソリーニ逮捕。後任はバドリオ
8/11~24〔連合国〕ケベック会談
※米・英首脳によるカナダで行われた会議。ドイツ本土への爆撃の強化や、アメリカ軍のイギリス本土進出、中国援蒋ルートの回復やハンプ空輸強化が決定された。
8/17〈西部戦線〉米空軍,独本土昼間爆撃   
〈イタリア戦線〉連合軍,シシリー島占領
8/22 〈東部戦線〉独軍,ハリコフ撤退
9/3~9〈イタリア戦線〉英軍,メッシナ進撃。米軍,サレルノ上陸
9/8 〈イタリア戦線〉イタリア降伏,独軍ローマ占領
※ドイツ軍はローマに集結しはじめており、追い詰められたパドリオ政権は突然連合軍に降伏の申し入れを行った。混乱のなかパドリオと国王は、ローマを脱出し南イタリアのバリへ向かった。ドイツ軍はローマを占拠しイタリア軍を武装解除した。
9/12〔伊〕独軍,ムソリーニ救出
※ドイツ軍に救出されたムソリーニは復権を果たしたが、実権はドイツ軍にあった。だがイタリアでは反ナチ・ファシストのパルチザンが決起、武装レジスタンスが大きな勢力となっていく。
9/13〔中国〕蒋介石,国民政府主席就任
9/22〈東部戦線〉独軍,ポルタワ撤退
9/24〈東部戦線〉独軍,スモレンスク撤退
9月中旬〔日本〕“絶対国防圈”策定
10/1〈イタリア戦線〉連合軍,ナポリ進攻    
10月〈太平洋戦争〉チャンドラ・ボースの自由国民軍成立
※チャンドラ・ボースはガンジーら国民会議派と違って、急進派のインド独立運動家であった。シンガポールで自由インド仮政府を立ち上げ、翌1944年3月の日本軍インパール作戦にインド国民軍を率いて従軍した。
10/5〈イタリア戦線〉独軍,コルシカ島より撤退
10/13〔伊〕バドリオ政府,対独宣戦布告
10月〈東部戦線〉ソ軍,ドニエプル渡河
10月下旬〈東部戦線〉クリミアの独軍孤立
11/6〈東部戦線〉ソ軍,キエフ解放
11/18~〈西部戦線〉連合軍,ベルリン大空襲
※英空軍は、ベルリン夜間大空襲を、12/3までに5回にわたり実施。市民約2700人が死亡。
11/22~26〔連合国〕第1次カイロ会談(エジプト)
※米・英・中、首脳会議。対日戦とその戦後処理に関する討議を行い、カイロ宣言を採択する。会議後米・英首脳はテヘランにむかい、初めての米・英・ソ首脳会議へ臨んだ。
●カイロ宣言の要旨は、最下段「国内政治と社会年表」で記述。
11/28~12/1
〔連合国〕テヘラン会談(イラン)

米英ソの3巨頭(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)の初めての会談。

●東ヨーロッパで単独でドイツと戦うソ連のスターリンが米英に要望したことは、連合軍による「北フランス上陸作戦」(第2戦線問題)であり、アメリカは賛意を示し、チャーチルは渋々同調した。チャーチルは東地中海における軍事行動を期待していたが、この方面の戦いは2次的なものとなってしまった。
●会議の重要な案件はポーランド問題だった。だがイギリスは、ドイツ敗戦後の領土問題を、ロンドンの亡命政府とソ連との間で調整できず、ポーランド問題は先送りとなった。
●だが会議で驚くべき進展があった。それは、スターリンがルーズベルト大統領に、ドイツが敗北したあかつきには、ソ連は対日戦に加わることを約束したことである。アメリカはこの提案に安堵し、スターリンに対する評価を高めた。
●このテヘラン会議の画期的なことは、世界の2大強国が初めて歩み寄りを見せ、イギリスを含めた3大国が、ドイツ敗北の日まで団結することを誓ったことである。日本はそのことすら知らなかった。
12/1〈太平洋戦争〉日本,学徒出陣

★連合艦隊司令長官山本五十六大将戦死。


(上新聞)昭和18年5/22朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●山本連合艦隊司令長官の死の発表は、遺骨が戦艦武蔵で東京湾に帰ってくる直前まで、1ヶ月以上さし控えられた。そして6/5、国葬が東京日比谷公園斎場で行われた。この日はまず水交社で柩前祭が行われ、その後日比谷までの約2kmの道のりを柩が運ばれていった。沿道は各大学、中等学校、国民学校の学生、生徒や国民で埋めつくされた。そして午前10時50分、東条英機首相の礼拝に合わせて全国民が遥拝した。
(写真)「不時着した日本軍機-山本元帥の墓碑銘」(出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊

4/18、ブーゲンビル島上空で山本五十六大将戦死。

(映像出典)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作。
山本長官機撃墜に向かったp-38は18機と述べられているが、2機は故障ですぐに引き返したので、実際に攻撃したp-38は16機とされる。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
(mp4動画、サイズ6.75MB、2分26秒)

●下は『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊から「米軍に筒抜けだった山本の行動計画」のところ。

「米軍に筒抜けだった山本の行動計画」
 山本の死は突然の事件だった。4月18日午前6時、山本は連合艦隊参謀長宇垣 纒(まとめ)らとともに2機の一式陸攻機に分乗、零戦6機に護衛され、ラバウル東飛行場を発った。彼は前線の兵士を激励し、士気を高揚しようと、ラバウル・ショートランド・ブインなどを回り、その日の午後には帰着する予定だった。連合艦隊は、4月7日から16日にかけガダルカナル島やニューギニア・ポートモレスビー方面の敵艦船、基地を攻撃し、輸送遮断を目的とした「イ号作戦」を実施した。その結果、米軍の5隻の駆逐艦・油槽船を撃沈、航空機25機を撃墜したが、日本側も61機の損失を出した。これは予想以上の被害だった。山本は多くの反対を押しきってこの作戦を実施したいきさつもあり、この日、第一線の兵士たちを鼓舞するために出向いたのである。
 最初の目的地ブーゲンビル島南方のバラレ島に向かった山本の乗った一番機と宇垣の乗った二番機が、ブーゲンビル島上空にさしかかった時、突然16機のロッキードP-38が右前方から襲ってきた。護衛の零戦が阻止する間もなく一番機は頭上から攻撃され、黒煙と炎に包まれてジャングルへ墜落していった。宇垣の二番機もモイラー岬沖の海中へ突っこんだ。
 米太平洋艦隊司令部(ハワイ)は、暗号解読により4日前には山本の行動計画を知っており、海軍長官ノックスの判断によって山本搭乗機撃墜を決意していた。16機のP38は山本を待ちぶせしていたのだが、暗号が筒抜けになっていることを知らぬ連合艦隊司令部は、結果的に長官機を敵の火中にやることになった。重傷を負いながらも助かった宇垣は、その時の心境を「ジャングル中より黒煙の天に冲するを認むるのみ、噫万事休す!」(宇垣 纒『戦藻録』)と、記している。
 公式発表によれば、山本は機上で被弾し「顔面貫通機銃創、背部盲管機銃創を被り貴要臓器を損傷して即死」とされている。しかし、19日夕方遺体を発見し収容した陸海軍の将兵たちは、山本の遺体は他の同行者の遺体よりきれいだったと証言しており、即死ではなかったという見方もある(蜷川親正『山本五十六検死ノート』)。

●この暗号解読については、阿川弘之著「山本五十六」新潮社昭和48年刊に、次のように書かれている。

この巡視計画は、四月十三日、山本長官自身の手で決裁され、その日の夕刻、同方面の根拠地隊、各航空戦隊、守備隊に宛てて、

 「GF長官四月十八日左記二依リ『バラレ』『ショートランド』『ブイン』ヲ実視セラル。
 〇六〇〇中攻(戦闘機六機ヲ附ス)ニテ『ラバウル』発、〇八〇〇『バラレ』着、 直チニ駆潜艇ニテ〇八四〇『ショートランド』着(中略)、一四〇〇中攻ニテ『ブイン』発、一五四〇『ラバウル』着。(中略)天候不良ノ際「一日延期」

 という電報が出された。そして戦後出版された、デーヴィッド・カーンの「The Codebreakers」(出版1967年)によって、アメリカ太平洋艦隊司令部の無線諜報班は、上記電報「NTF(南東方面艦隊)機密第131755番電(13日17時55分発信)」を解読したことが判明した。 カーンは、艦隊無線班がIBMカードにパンチされていた乱数表を用いて、4月1日に変ったばかりの新乱数の大部分を解明したと記している。
(日本側でも ショートランドにいた第十一航空戦隊司令官の城島高次少将は、この4月13日の電報を見ると、自分の幕僚たちに、「こんな前線に、長官の行動を、長文でこんなに詳しく打つ奴があるもんか。君たちに参考のために言っとくが、こんな馬鹿なことをしちゃいかんぞ」と怒ったとも書かれている。)
(出典)阿川弘之著「山本五十六」新潮社昭和48年刊
(※)この「バラレ」「ショートランド」「ブイン」は、日本軍が奪回をあきらめた「ガダルカナル飛行場」から約500kmのアメリカ軍との最前線にあり、ロッキードP-38もガダルカナル飛行場(ヘンダーソン飛行場)から発進していた。

●またR.W.クラーク著「暗号の天才」新潮社1981年刊によれば、暗号を解読したことを、”陽動通信”で秘匿したと書かれている。

「山本五十六提督とある映画俳優の死」
コードやサイファーの解読を公表しない必要性はしばしば、入手情報に基づいて行動をとるべきかどうかという問題に疑問を投げかける。最も有名な例は、1943年4月、連合艦隊司令長官の山本五十六提督が、太平洋の基地を5日間にわたって巡察する決定を下したときに訪れた。日程は山本が立ち寄る基地に通報されたが、それは詳細をきわめ、しかもアメリカの暗号機関がすでに解読したコードで送られたのである。おかげで、巡察が行なわれる数日前から、アメリカ側は山本が訪ねる先々の発着時間までつかんでいた。同じく重要な点だが、山本の巡察コースはアメリカ軍機の航続距離の範囲内にあり、しかも彼は時間のことになると、病的なほどやかましいことが分っていた。
 アメリカ軍の司令官たちは、いまや厳しい決断を迫られた。もし山本を首尾よく撃墜できるなら、彼以上の有能な提督がその後を継ぐ可能性はきわめて少い。しかし一方、計画的な迎撃がただの遭遇とは考えられないだろうし、それで日本のコードが解読されたことをまさしく裏づける羽目になってしまうにちがいない。だが結局、このチャンスに賭けることに決定し、日本が疑惑を抱いた場合に備えて、″陽動通信″が用意されたのである。つまり、提督が訪れる地域の一部には、いまなお友好的な原住民が工作員として活動しており、相変らず情報が無線でオーストラリアの沿岸監視員に送られ、アメリカ軍当局ヘリレーされていた。必要とあれば、これを迎撃作戦の拠りどころとした情報源として、日本側にわざと洩れるように工作すればよかった。
 4月18日の朝、18機のP-38が400余マイルの迎撃に超低空飛行で飛びたつ。2時間あまりで、編隊はブーゲンヴィルの沖合に到着した━ちょうどそのとき、山本の搭乗機と護衛機の小さな黒点が、はるか彼方に現われた。数分後、提督機はブーゲンヴィルの密林内に火を吹いて突っこんだ。アメリカの未帰還機はたったの一機だった。・・(略)

★日本は労働力供給源として学徒動員、女子挺身隊動員を行う。

学徒動員と女子挺身隊

(映像出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン-一億ニ千万人の映像」(第1巻)講談社2005年刊
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(mp4動画、サイズ5.23MB、47秒)

学徒動員と女子挺身隊

●ここでは、講談社『昭和2万日の全記録』から「学徒動員と女子挺身隊」の部分を抜粋した。基本的な事実を知っておかなければならない。「慰安婦」「徴用工」等とは別の話である。

「学徒動員と女子挺身隊」(引用)
(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊
●残された労働力供給源    
 昭和18年6月25日、政府は「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定した。学徒出陣に先立つこの決定は、産業労働力の有力な供給源として学生生徒を位置づけ、食糧増産・国防施設・緊急物資増産・輸送力増強の重点四事業に中等学校3年生以上の学徒を学校単位で、勤労動員に送り込むものだった。同時に、年間30日以内とされていた勤労動員期間は60日以内に延長された。動員期間は翌19年1月には4ヵ月に、さらに同年3月の決戦非常措置によって1年間の通年動員にかわり、学徒はもはや「学生服の労務者」(『学制八十年史』)となり、勉学は名ばかりという状況になった。
 とりわけ戦局の逼迫による航空機増産の要請は、学徒動員の徹底化をもたらし、条件も苛酷となっていった。19年7月には、①動員対象を中等学校低学年生、国民学校高等科にまで拡大されて、②1週6時間の教育訓練時間の撤廃、③1日10時間労働、④中等学校3年生以上の男女の深夜業断行などが決められた。学徒動員を「教育錬成内容の一環」と説明してきた文部省も、ついに「勤労即教育」と言い換えざるを得なかった。
●未婚女性も動員         
 学徒と並んで残された労働力供給源とされたのは未婚の女性だった。18年9月23日、政府は「国内必勝勤労対策」を決め、事務補助・販売店員・出改札係・車掌・理髪業など17業種に男子の就業を禁止し、代わりに女性を就業させるとした。同年9月からは女子勤労挺身隊の編成を決め、従来の勤労報国隊と異なり、1年ないし2年の長期にわたる動員を義務づけた。新規女学校卒業生は同窓会単位に、14歳以上の未婚女性は部落会、婦人会などを単位に軍需工場や政府作業庁などに出動させられた。約1年後の19年9月には「女子挺身勤労令」を公布、動員に法的根拠を与えるとともに、家庭にとどまっていた女性、企業整備や「高級享楽停止」などで職を奪われていた女性なども、労働力として駆りたてられることになった。 
※「女子挺身隊」は当初自主的な組織との建前をとったが、昭和19年「女子挺身勤労令」を公布、一年間の動員を義務化した。   
●多くの犠牲者を出した学徒・女子挺身隊     
 19年、軍需工場はどこも熟練工が不足し、徴用工であふれていた。技術や生産の低下に加えて厭戦気分が高まり、欠勤、遅刻、怠業なども増えていた。
 学徒は「純真で規律があり、比較的短期間内に、相当程度の熟練と能率に達しうる」(『前出』)と評され、軍需工場で歓迎された。学徒は率先して作業にあたり、過労や病気を隠して作業に従事する場合もあった。彼らは日本の軍需産業の支柱的存在とみなされ、一般工員の嫉視や反感を被る場合も多かった。しかし、いつまで続くのかも分からない動員は、学徒のあいだに「遊興・喫煙・怠惰・学校間のあつれき・風紀頽廃・待遇に対する不満」(『前出』)などを生じさせた。
 山形中学から群馬県の中島飛行機に動員され、寮から工場に出勤していた無着成恭(教育評論家)は、「サツマイモ飯」「ソーメン飯」などのまずい食事に、毎晩のように「食べる夢」を見た。そして、工場からの帰りに畑からさつまいもを盗んだり、夜勤の途中ぬけだして居眠りすることなども覚えた。将来に対する不安も大きかった。同級生たちが半ば義務感から兵学校などを受験してまわる姿を横目に、彼自身は進学するか農業をやるかで悩んだという(無着成恭「動員日記」『実録太平洋戦争』)。
 軍需工場に対する米軍の空爆が本格化した20年には、動員学徒や女子挺身隊に多くの犠牲者がでた。動員学徒の死亡者は1万966人とされており、そのうち8953人が、広島・長崎に落とされた原爆によって死亡した。なかでも8月6日の広島では、建物強制疎開に動員されて太田河畔に集合していた広島市内の中学生が一瞬のうちに全滅した。翌7日には愛知県の豊川海軍工廠が猛爆をうけ、2477人の動員学徒、女子挺身隊員などが犠牲となった。
 敗戦時までに動員された学徒数は、340万人を超え、女子挺身隊の動員数は、約47万人だった。

「V is for VICTORY!」「FIGHT FOR FREEDOM」

●アメリカもまた、今まで就労が禁止されていた既婚女性を含め、人手不足を補うため、軍需工場等に600万人の女性を動員した。「自由のため」「勝利のため」に労働に参加しようが合言葉になったという。
(映像出典)「WORLD WARⅡ」第2次世界大戦全史「ガダルカナル」。これは1952年~1953年にかけて、アメリカで製作された戦史TVドキュメンタリーである。
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(mp4動画、サイズ3.22MB、1分10秒)

★国内政治と社会年表。1943年(昭和18年)1月頃から。『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。

年・月1942年12月頃~
1942年
昭和17年12/24
ドイツ、新兵器「V1号」の発射実験に成功

●この名の「V」というのは英語の勝利( victory)ではなく、ドイツ語の報復(Vergeltung)の意味である。ドイツ軍によるロンドンなどの爆撃を堪えてきたイギリスは、ドイツのベルリンなどの爆撃を本格化させ対抗した。この「V1号」は、そのイギリスに対する報復を意味し、ドイツ空軍が開発した世界初の無人飛行機型ミサイルで、巡航ミサイルなどの戦略ミサイルの祖型となったものである。パルスジェットを動力とし、頭部に1トンの爆薬を搭載し、ジャイロコンパスで目標まで誘導された後、動力を停止し落下させ爆発させた。
●一方同時に開発されていた陸軍の「V2号」は液体燃料による弾道ミサイル(ICBMの祖)である。A1~A4と開発が進み、A4の成功(1942年10月)でヒトラーに認められ、「V2号」と命名された。その開発指導者が、W・フォン・ブラウンである。下段で「V1」「V2」の動画にリンクした。

1942年
昭和17年12/31
大本営、御前会議でガダルカナル島の全兵力撤退を決定

●この命令は、昭和18年1/4、下命された。

ドイツ新兵器「V1」の映像

●「WW2 – V1 “Flying Bomb"」出典:YouTube:Pzkfw5氏より一部紹介。
下段でリンクしています。「V2」号はその下でリンクしました。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。(mp4動画、サイズ3.04MB、31秒)

*リンクします「WW2 – V1 “Flying Bomb"」
動画・出典:YouTube(Pzkfw5氏)

*リンクします「Original Footage of German V-2 Rocket Development Tests [HD]」
動画・出典:YouTube(Nguyễn Trường Long氏)

年・月1943年1月頃~
1943年
昭和18年1/1
朝日新聞掲載の中野正剛「政治宰相論」、東条首相の逆鱗に触れる

●情報局は、朝日新聞を東条首相を批判するものとして発売禁止を命令。下はその朝日新聞の記事の最後の結語「天下の人材を活用」の部分である。中野正剛は、東条首相を今までの非常時の宰相と比較し、暗に批判した。

(天下の人材を活用)
日露戦争において,桂公はむしろ貫禄なき首相であつた。彼は孔明のやうに謹慎には見えなかつたが,陛下の御為に天下の人材を活用して,専ら実質上の責任者を以て任じた。山県公に頭が上らず,井上侯に叱られ,伊藤公を奉り,それで外交には天下の賢才小村を用ひ,出征軍に大山を頂き,聯合艦隊に東郷を推し,鬼才児玉源太郎をして文武の聯絡たらしめ,倣岸なる山本権兵衛をも懼れずして閣内の重鎮とした。而して民衆の敵愾心勃発して, 日比谷の焼討となつた時,窃かに国民に感謝して会心の笑みを漏らした。桂公は横着なるかに見えて,心の奥底に誠忠と謹慎とを蔵し,それがあの大幅にして剰す所なき人材動員となつて現はれたのでないか。難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。強からんが為には,誠忠に謹慎に廉潔に,而して気宇広大でなければならぬ。
1943年
昭和18年1/1
社名と題号を「毎日新聞」に統一

●「大阪毎日新聞社」と「東京日日新聞社」は、社名を「毎日新聞社」、題号を「毎日新聞」に統一。

1943年
昭和18年1/11
三井銀行と第1銀行が合併調印、「帝国銀行」となる。

●第1銀行は、1873年に渋沢栄一によって創設された日本最古の第1国立銀行をそのルーツとする銀行。合併した新銀行名は、「帝国銀行」とし、3/27発足し4/1開業した。略称は「帝銀」である。三井銀行は業界首位の銀行であり、同日(3/27)には三菱銀行が第百銀行を合併するなど、銀行の統合が進んだ。これらの合併が行われた理由は、国家の要請によるもので、預金を吸収し資金需要にこたえるためであった。

1943年
昭和18年1/13
内務省と情報局、米英楽曲の演奏を禁止

●内務省と情報局はジャズなど英米楽曲約1000曲の演奏を(レコードを含む)禁止した。情報局は、米英音楽は「軽佻浮薄、物質至上、末梢感覚万能」に毒されており、「国民の士気の昂揚と、健全娯楽の発展を促進する」(『週報』昭和18年1月17日号)ため、これを一掃するとしたのである。既に日本では昭和15年頃から、芸名や駅の表示などからカタカナ語を追放する動きがあった。そして日米開戦を機に米英語・米英音楽は「敵性もの」の烙印が押された。
 中でもジャズ、軽音楽は「卑俗低調で、頽廃的、煽情的、喧噪的」(『前出』)と徹底的に排除され、カフェー、バー、飲食店からはもちろん、ラジオの音楽番組からも締め出され、レコード盤も回収された。この結果、残った洋楽は枢軸国ドイツ、イタリアの音楽が中心となった。
●また、追放された「敵性語」「敵性音楽」として以下のものがあった(一例)

●【スポーツ】ラグビー→闘球、ホッケー→杖球、サッカー→蹴球、レスリング→重技、ゴルフ→打球(バンカー→砂窪、グリーン→球孔区域、クラブ→打杖、パター→短杖)
●【野球】チーム名(タイガース→阪神、イーグルス→黒鷲→大和、セネタース→翼→大洋→西鉄)
審判用語(ストライク→よし一本、ボール→一つ、三振→それまで、セーフ→よし、アウト→ひけ、ファウル→だめ、ボーク→反則、タイム→停止)
ルール用語(ストライク→正球、ボール→悪球、フェア→正打、ファウル→圏外、セーフ→安全、アウト→無為、ミット→手袋)
●「放送・音楽」ニュース→報道、アナウンサー→放送員、マイクロフォン→送話器、スタジオ→演奏室、レコード→音盤、コンクール→音楽顕奬、ド・レ・ミ→ハ・ニ・ホ
●[レコード会社]ホリドール→大東亜、日本ビクター→日本音響、日本コロムビア→日畜工業、キング→富士音盤
(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊

●1942年(昭和17年)10月26日、井上成美(しげよし)海軍中将は、第4艦隊司令長官から海軍兵学校長に補された。その兵学校校長時代、英語教育の廃止論に関して、井上校長の逸話が、阿川弘之「山本五十六」に紹介されている。大多数の教官が英語教育の廃止に賛成すると、次のように非常にきつい調子で言ったという。

「よろしくない理由は只今から申し述べる。一体どこの国に他国語の一つや二つしやべれない海軍兵科将校があるか。そのような海軍士官は海軍士官として世界に通用することは出来ない。好むと好まざるとにかかわらず、英語がこんにちにおいても尚、海事貿易上世界の公用語であることは明らかな事実であって、事実はこれを事実として認めざるを得ない。軍人を養成する学校であるから、戦争に直接役に立つことだけ教えておればいいというなら、すべからく砲術学校水雷学校等の術科学校を充実して海軍兵学校そのものは廃止すべきである。兵学校は特務士官の養成機関ではない。卒業してすぐ実務に役立つような教育は丁稚教育であって、吾人は丁稚の養成を以て本校教育の眼目とするわけにはいかない。兵学校教育の目的は、識見と教養とを備えた真にジェントルメンライクの、将来何処に出しても羞ずかしくないだけの海軍将校の素地を養うにある。言いかえれば大木に成長すべきポテンシャルを持たしむるにある。
優秀な生徒が陸軍へ流れるというなら流れても構わぬ。外国語一つ真剣にマスターする気の無いような人間は、帝国海軍の方でこれを必要としない。近時日本精神作興拝外思想排斥の運動の盛んなるはまことに結構なことであるが、これを主張する人々を冷静に観察してみると、島国根性の短見を脱していない者が多いのは遺憾であって、諸官は似て非なるかかる愛国者の浮薄なる言動に迷わされることなく、本校においては英語のみならず、今後も普通学の教育に一層の力を入れてもらわねばならない。たとい多数意見であろうとも、本職在任中英語教育の廃止というようなことは絶対にこれを行わせない方針であるから、左様承知をしておいてもらいたい」
(出典)阿川弘之「山本五十六」昭和48年新潮社発行

●だからといって海軍の軍人が良識派ばかりであったわけではない。井上校長も若手教官からは「何だ校長は親米派か、国賊じゃないのか」と喧々囂々の声が起こったとも書かれている。

1943年
昭和18年1/14
仏領カサブランカで米英首脳会議開催。

●1/14から25日まで、ルーズベルトとチャーチルが仏領モロッコのカサブランカで行った第3次戦争指導会議。シシリー島上陸作戦などが決定された。またルーズベルトが日独伊への無条件降伏要求を提起し、単独講和を否定、チャーチルもこれを支持した。さらに対立する仏指導者ドゴールとジローとの和解工作も行われたが、解決しなかった。

1943年
昭和18年1/16
大阪新世界の名物「通天閣」炎上

●1/16大阪霞町の映画館大橋座から出火、大阪名物、高さ64mの通天閣は脚部が類焼、鉄骨が焼けただれた。復旧工事は取りやめ、2月解体され、屑鉄300トンの軍需資材として大阪府に供出された。写真朝日新聞社。
(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊

1943年
昭和18年1/20
閣議、生産増強勤労緊急対策要綱を決定。

●この緊急対策は、以下の4項目にわかれ、その第2項目において、女子にも代替できる職種には、男子の就業を制限・禁止した。

(緊急対策4項目)
●第1、国民徴用制度の刷新強化、●第2、国民勤労の重点的配置の強化徹底、●第3、勤労管理の刷新強化、●第4、勤労者用物資、住宅等に関する対策の強化。
(第2項目の5)
「5 女子を以て代替し得る業種及職種に付夫々女子の使用員数の標準を定むると共に、女子勤労管理を確立し以て女子動員の強化を図ること。右に関連し男子の就業制限乃至禁止を行うこと」
(出典)国立図書館リサーチ・ナビ「生産増強勤労緊急対策要綱ヲ定ム」
1943年
昭和18年1/20
弥生時代の集落・登呂遺跡発見

●(軍需工場用地を造成中に登呂遺跡発見) 
1/20、静岡市高松で住友金属と三菱重工の工場敷地を造成作業中、水田下約1mから弥生時代の集落が発見された。戦争中のため7月に入って大まかな調査が行われただけで中断され、本格的な発掘調査は昭和22年から始まった。

1943年
昭和18年1/28
●第81議会再開。東条首相、施政方針演説のなかで、ビルマの英からの独立確約を表明。
1943年
昭和18年2/1
アメリカ、日系2世による第442歩兵部隊を編成。

●太平洋戦争勃発以来の日系人に対する兵役停止処理を解かれ、2/1部隊が編成された。翌1944年6月には、ハワイの日系部隊第100大隊と合流し、イタリア、フランスの激戦地を転戦、死者600人を含む死傷者9486人を出した。彼らのアメリカへの忠誠は賞賛され、総計1万8143個の勲章が授与された。

1943年
昭和18年2/22
●ベルリン滞在中の、諏訪根自子(すわねじこ=国際的な日本人バイオリニスト)、ゲッベルス・ドイツ宣伝相より、ストラディバリウスのバイオリンを贈られる。
1943年
昭和18年2/23
陸軍省、陸軍記念日の決戦標語「撃ちてし止(や)まむ」を定める

●陸軍省、陸軍記念日の決戦標語「撃ちてし止(や)まむ」のポスター5万枚を内外地に配布する。右2/24朝日新聞掲載記事の「撃ちてし止まむ」の陸軍省ポスター(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●そして陸軍は、3/10の第38回陸軍記念日を期して、「撃ちてし止(や)まむ=(敵を撃たずにおくものか)」国民運動を展開した。これに呼応して朝日新聞は、東京有楽町の日劇に、突撃する2兵士を写した百畳敷大写真(標語入り)を掲げた。
左写真 日本劇場の壁面に張り出された「撃ちてし止まむ」の陸軍省ポスター(撮影:金丸重嶺)1943年 中村国利 東京・有楽町(出典:「目撃者」朝日新聞1999年刊)


●同じく日劇前では、百畳敷大写真の下で陸軍軍楽隊が「愛国行進曲」を演奏し、群衆が斉唱した。
(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊

*リンクします「愛国行進曲」内閣情報部選定
動画・出典:YouTube(slhs0083氏)
「撃ちてし止(や)まむ」

●この言葉の出典は「古事記」の神武東征(九州から大和への征服戦争)の時、土雲(つちぐも)八十建(やそたける)らを撃ち殺すときの歌にくりかえし使われているフレーズ。「敵を撃たずにおくものか!」という強い決意を表している。

(登美毘古を撃とうとした時)「みつみつし 久米の子等(=久米部の人たち)が 垣下(かきもと)に 植ゑし椒(はじかみ=山椒) 口ひひく(=口がヒリヒリする) 吾(われ)は忘れじ 撃ちてし止(や)まむ」

●このフレーズは当然ながら「日本書紀」の神武天皇の巻の歌に使われている。下のリンク先の「国立国会図書館デジタルコレクション」のコマ番号12を選んでください。下はそのフレーズが使われている歌の一例。

「・・先づ八十梟帥(やそたける)を国見丘(くにみのをか)に撃ちて破りて斬りたまひつ。是の役(えたち)に、天皇志(みこころざし)必ず克ちなんといふことを存(たもち)たまへり。乃(すなわ)ち御(み)謠(うたよみ)して曰(のたまは)く、

カムカゼ(神風)ノ、イセノウミ(伊勢海)ノ、オホイシ(大石)ニヤ、 イハヒモトヘル、シタダミ(細螺)ノ、シタダミノ、アゴ(吾子)ヨ 、アゴヨ、シタダミノ、イハヒモトヘリ、ウ(撃)チテシヤ(止)マム、ウ(撃)チテシヤ(止)マム。

謠(みうた)の意(こころ)は大石を以て其の国見丘に喩(たと)へたまふなり。・・・

など複数の歌で使われている。

「訓讀日本書紀. 中巻」→国立国会図書館デジタルコレクション
1943年
昭和18年3/2
朝鮮にも徴兵制を適用する(8/1施行)

●兵役法を改正し朝鮮にも徴兵制を適用した。これは、兵員の大幅な欠乏の補填策だった。写真は京城(ソウル)郊外にある朝鮮総督府陸軍兵志願者訓練所。朝鮮では昭和13年に陸軍志願兵制度が導人されていたが、昭和18年8/1には徴兵制が施行され、翌19年4月から徴兵検査が実施された。
(左写真)『アサヒグラフ』7月7日号(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊。(右新聞)昭和18年8/1の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

(「兵役法中改正法律」の一部)
第五十三條ノニ 左二掲グル者ノ徴集二關シテ(第二十六條、第二十七條又ハ第二十九條ノ規定ニ對シ勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ爲スコトヲ得
 一 戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ朝鮮、臺灣又ハ帝國外ノ地二在留スルモノ
 ニ 朝鮮民事令中戸籍二關スル規定ノ適用ヲ受クル者
(出典)国立公文書館アジア歴史資料センター「兵役法中改正法律・御署名原本・昭和十八年・法律第四号(昭和18年3/1)」
1943年
昭和18年3/13
戦時刑事特別法改正公布(3/28施行)

●これにより、治安維持の罰則強化、社会秩序紊乱目的の宣伝に宣伝罪を規定した。

法律第五十八號
戦時刑事特別法中左ノ通改正ス
第七條第六項ヲ削ル
第七條ノニ 戦時二際シ國政ヲ變亂(=変乱)スルコトヲ目的トシテ人ヲ傷害シ、逮捕シ又ハ監禁シタル者ハ一年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮二處ス因テ人ヲ死二致シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ十年以上ノ懲役若ハ禁錮二處ス
 戦時二際シ國政ヲ變亂スルコトヲ目的トシテ人二對シ暴行又ハ脅迫ヲ加ヘタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮二處ス
 刑法第二百八條第二項ノ規定ハ前項ノ暴行ノ罪二付テハ之ヲ適用セズ
第七條ノ三 戦時二際シ國政ヲ變亂スルコトヲ目的トシテ騒擾ノ罪其ノ他治安ヲ害スベキ罪ノ實行二關シ協議ヲ爲シ又ハ其ノ實行ヲ煽動シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮二處ス
第七條ノ四 戦時二際シ國政ヲ變亂シ其ノ他安寧秩序ヲ紊亂スルコトヲ目的トシテ著シク治安ヲ害スベキ事項ヲ宣傳(=宣伝)シタル者ノ罰亦前條二同ジ
第七篠ノ五 第七條第三項乃至第五項又ハ前二篠ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ減軽又ハ免除ス
   附 則                    、
本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
(出典)国立公文書館アジア歴史資料センター「昭和十八年・法律第五八号・戦時刑事特別法中改正法律(昭和18年3/12)」
1943年
昭和18年3/18
戦時行政特例法・戦時行政職権特例・許可認可等臨時措置法、公布施行

●戦時行政特例法とは、軍需生産拡充のため、法律の規定を超えて政府の権限を強化する法律。3月18日公布施行。鉄鋼・石炭・軽金属・造船・航空機の5重点産業では、勅令によって他の法律の定める禁止の解除や所轄官庁の変更ができることとなった。同時に各大臣の権限を首相に一元化する戦時行政職権特例と、行政査察制も制定された。
(新聞)昭和18年1/19の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1943年
昭和18年3/18
内閣顧問臨時設置制公布施行

●これにより、藤原銀次郎・鈴木忠治ら民間人7名を顧問に任命した。

1943年
昭和18年3/24
金属回収本部官制公布施行

●商工省に本部を設置し、第1次非常回収を行う。国家による金属回収を強化。

1943年
昭和18年4/1
樺太が内地に編入される。

●樺太庁官制(3/27公布)の施行により、樺太庁が地方庁となり、樺太が内地に編入される。

1943年
昭和18年4/20
東条内閣大改造

●昭和18年4月20日、東条英機首相は内閣を大改造した。湯沢三千男(内相)、谷正之(外相)、橋田文彦(文相)、井野碩哉(農相)の4閣僚を更迭し、安藤紀三郎、重光葵、山崎達之輔をそれぞれ内相、外相、農相に起用した。谷が兼任していた情報局総裁には天羽英二が、国務相には大麻唯男が就任した。さらに文相には岡部長景が就任(23日)し、内相となった安藤の後任国務相には後藤文夫が任命された(5月26日)。
(新聞)昭和18年4/21の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

●『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊には「強まる東条独裁、動揺する翼賛政治体制」として次のようにある(以下に要点を抜粋して引用してみる)。

「強まる東条独裁、動揺する翼賛政治体制」

●動揺する翼賛政治体制
 改造内閣の新しい顔ぶれの多くは、大政翼賛会(以下翼賛会)、翼賛政治会(以下翼政会)、大日本翼賛壮年団(以下翼壮)に関係していた。安藤は翼賛会副総裁兼翼壮団長、山崎は翼政会政務調査会長、大麻、岡部は翼政会常任総務だった。さらに後藤は安藤の後任として翼賛会副総裁兼翼壮団長に就任した。
●翼賛政治体制の亀裂 
 東条政権が発足後1年半で内閣大改造を実施し、しかもこのように翼賛会や翼政会の人物をずらりと人閣させたのは、政治力の強化を図るためだった。東条体制は翼賛会、翼政会そして政府の三者の協力によって支えられていた。それは軍部・官僚・警察の完全な癒着によって言論や思想を徹底的に抑圧し、政治はもちろん国民の全生活を戦争へと総動員していく体制だった。
●反対勢力を封殺
 東条首相は治安強化のため戦時刑事特別法の改正に乗り出し、次いで政府の経済運営に対する統制権限を拡充するための戦時行政特例法の成立を企図した。
 18年1月再開された第81帝国議会では、斎藤隆夫や中野正剛らは同法が「東条独裁になる」と、こぞって批判し、議会は紛糾した。これは従来の「一国一党」の翼賛議会では見られなかった変化で、中野ら5人が翼政会を脱退した。とくに右翼団体「東方会」を主宰していた中野正剛は、軍人が政治に関与するのは間違いとの立場から、東条首相に対し厳しい姿勢をとった。
 中野は18年1月1日付『朝日新聞』に、「戦時宰相論」の一文を書いたが、これに東条首相は激怒し、朝日新聞の発売禁止を命じた。これいらい東条首相は中野に含むところがあったようで、10月21日、中野は改正された戦時刑事特別法によって倒閣を策したとの容疑で警視庁に留置された。その後、身柄を東京憲兵隊に移されて取り調べをうけたが、26日の午後釈放され、翌日午前零時、自決した。57歳だった。
●「陰謀団体」弾圧      
 翼賛政治強化のために東条首相は、まず3月に内閣顧問制度を発足させ、結城豊太郎(日銀総裁)、大河内正敏(産業機械統制会会長、理研所長)、藤原銀次郎(産業設備営団総裁)ら7人を任命した。これは経済政策の立案と実施に、財界の意見を反映させることを意図していた。つづいて内閣大改造の後、東条首相は翼賛会の実践部隊で、17年4月の翼賛選挙とその後の市町村会議員選挙いらい強力な政治勢力となっていた翼壮と翼政会との調整に乗り出した。
 翼壮は金属回収、食糧増産、闇取引き絶滅などの国民生活にかかわる運動を積極的に担ったため、草の根ファシズム的な組織となっていった。18年末、東条首相は翼壮をこのまま放置しておくと政権の命取りになりかねないとして、「陰謀団体」と決めつけ、弾圧の方針を示した。東条首相の支えを失った翼壮は急速に衰えた。
●翼賛政治体制は、上からのファシズムであり、そのため東条の「独裁」は法的制度的権限の強化にばかり力点がおかれた。18年11月には航空機生産体制の一元化を目ざして軍需省が設置された。東条首相はここでも自ら軍需相を兼任し、陣頭指揮に当たった。戦局のさらなる悪化により、19年2月、ついに従来の統帥権独立の原則を破り自ら参謀総長を兼任、嶋田繁太郎海相にも軍令部総長を兼任させた。こうして東条は、首相、陸相、軍需相、参謀総長の4役を兼任するという空前の権力を掌握した。
(文・出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊

1943年
昭和18年4/29
第3回文化勲章の授与伝達式行われる。

●37歳の湯川秀樹も受章する 4/29、第三回文化勲章の授与伝達式が、内閣賞勲局総裁室で行われた。受章者は7人。写真は式直後で、右から薬学の朝比奈泰彦、洋画家和田英作、農芸化学の鈴木梅太郎、建築学者の伊東忠太、理論物理学の湯川秀樹。文筆家徳富蘇峰と三宅雪嶺は病気のため欠席だった。なお、蘇峰は21年に勲章を返上した。━写真・毎日新聞社(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊

1943年
昭和18年5/1
全国一斉、健民運動強調期間が始まる。

●4/8厚生省は、出生増加と結婚奨励、国民心身錬成・母子健康の徹底などの「健民運動」実施要項を各地方長官に通牒した。下は前年昭和17年4/27、陸軍省が陸軍一般へ通牒した「健民運動実施要綱」のうち「5、実施要項」。

(本運動の徹底を図る為特に)
1,皇国民族精神の昂揚
1,出生増加と結婚の奨励
1,母子保健の徹底
1,体力の錬成
1,国民生活の合理化
1,結核及性病の予防撲滅
(に重点を置き、地方の実情に即し、右の内適切なる事項を選択し、各其の実践強調に努め以て実効を収むること)(出典)国立公文書館アジア歴史資料センター」
1943年
昭和18年5/3
生産力拡充・国民動員・電力動員など国家計画を正式決定

●閣議は、決戦体制確立のための国家計画を決定した。生産拡充はその重点を、鉄鋼、石炭、軽金属、船舶、航空機の5大産業とした。そのため国民動員は、男子の就業を制限し、その代わり女子の勤労を指導勧奨するものとした。電力動員は、万難を排して5大産業に供給するとした。(新聞)昭和18年5/4の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1943年
昭和18年5/5
陸軍、少年兵の志願年齢を引き下げる。

●陸軍は、少年兵の志願年齢を1年引き下げ、満14歳以上と決定し、公布した。これにより、国民学校卒業直後の入隊が可能となった。
●一方海軍も5/25、18年度後期飛行予科練習生の募集要項を発表し、少年兵の応募資格を14~20歳未満に拡大した。

1943年
昭和18年5/26
中央公論社社員ら4人逮捕される。

●この事件は、言論弾圧事件である「横浜事件」の関連で、富山県泊町で、中央公論社社員ら4人が、細川嘉六と共産党再建を謀議したとして逮捕された事件。この横浜事件は、昭和17年9/1に、細川嘉六「世界史の動向と日本」を掲載した『改造』の発禁処分が発端となった。なぜ横浜事件とよばれたかというと、神奈川県特高警察が横浜市内の警察署で、この弾圧事件の取り調べを、過酷な「拷問」によって行ったからである。4人が獄中で死亡、保釈後別の4人が死亡した。

1943年
昭和18年6/1
戦時農園鍬入れ式を行う。

●これは、東京昭和通りの中央植樹帯900余坪を、戦時農園とし、神田岩本町など近辺の16町会が鍬入れ式を行う。

1943年
昭和18年6/8
戦艦陸奥、原因不明の爆発、沈没。

●姉妹艦「長門」とともに帝国海軍の象徴であった戦艦陸奥が、広島湾内の柱島泊地で、第3砲塔爆薬庫の砲弾の原因不明の爆発により沈没した。

1943年
昭和18年6/10
●警視庁、無断欠勤や二重稼ぎなどを、国民徴用令違反として、776人を検挙。
1943年
昭和18年6/16
工場法戦時特例公布施行

●これにより、工場就業時間制限令が廃止となり、女子・年少者の深夜業と坑内作業が認可された。これは工場法による女子と16歳未満の男子に対する労働条件の保護規定を緩和し、決戦化の生産力増強の要請に応じようとしたものである。

1943年
昭和18年6/25
閣議、学徒戦時動員体制確立要綱決定する。

●政府は「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定した。学徒出陣に先立つこの決定は、産業労働力の有力な供給源として学生生徒を位置づけ、食糧増産・国防施設・緊急物資増産・輸送力増強の重点4事業に中等学校3年生以上の学徒を学校単位で、勤労動員に送り込むものだった。
(7/30、閣議は女子の学徒動員を決定した。)
(新聞)昭和18年6/26の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1943年
昭和18年6/20
●警視庁、牧口常三郎・戸田城聖ら創価教育学会幹部21名を治安維持法違反と神宮に対する不敬罪で検挙する。
1943年
昭和18年6/24
天皇、戦艦武蔵に行幸


●天皇は横須賀軍港に帰投中の連合艦隊旗艦武蔵へ極秘裏に行幸した。武蔵の存在は、まだ一般には秘匿されていた。写真は、武蔵の最上甲板中央部での記念撮影。中央は天皇、その左が高松宮。海軍首脳部が集まった最後の写真だった。(写真-三菱重工業長崎造船所)(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊

1943年
昭和18年
「世の中は星に碇(いかり)に闇に顔、馬鹿者のみが行列に立つ」

●物不足が深刻になると、行列買いや闇取引が日常化したが、一部の特権階級は庶民の窮乏とは無縁だった。この狂歌はそんな実態を如実に語っていた。「星」は陸軍、「碇」は海軍、「闇」は闇商人、「顔」は官庁や大企業などで、庶民の怒りと自嘲が込められていた。
●阿川弘之著「山本五十六」新潮社昭和48年刊にも次のような挿話が書かれている。昭和17年9/24に、ガダルカナルの戦闘指導を担当していたあの大本営参謀・辻政信(陸軍第17軍派遣)が、ガダルカナルから「海軍の協力が不十分」だと「大和」に山本連合艦隊司令長官を詰問に来た時の話である。

・・辻参謀は山本に会い「陣地を持ちこたえている将兵は、ガンジー以下に痩せ細りました」と、補給船団護送の問題で、陸軍のガ島奪回作戦への海軍の協力を要請した。山本は、「補給がつづかず、陸軍の兵隊を餓死させたとあっては、海軍として、申訳が立たない。承知しました。必要とあれば、この「大和」をガダルカナルへ横着けしてでも、援護しましょう」と答え・・・。
辻政信は、山本の会見のあと、館内で夕食の馳走になり、黒塗りの膳に、鯛の刺身、鯛の塩焼、冷えたビールという品々を出されて、思わず副官の福崎昇に、「海軍は贅沢ですねえ」と、いや味を言った。福崎は笑いながら、小声で、「長官があなたに、出来るだけの御馳走をしてやれと言われましたのでね」と答えたというが、これは多分、福崎副官のつくろいの嘘であろう。辻の供されたのは、司令部の日常の夕食であったはずである。・・・。
(出典)阿川弘之著「山本五十六」新潮社昭和48年刊
1943年
昭和18年7/1
東京都制施行

●東京府・東京市制が廃止され、新たに旧東京府の全区域を管轄する東京都制が施行された。東京都の誕生である。これは府市2重機構解消による行政能率向上を目的としたものだった。初代都長官には大達茂雄(おおだちしげお)が任命された。

1943年
昭和18年7/6
●東照宮は、史跡名勝天然記念物の「日光杉並木」を造船用材として供木するため、伐採奉告祭を挙行する。
1943年
昭和18年7/13
●東京都は、教員・児童の団体旅行を制限し、鉄道の団体割引は軍事教練・勤労奉仕優先と各学校長に通牒。
1943年
昭和18年7/17
挙国芋類大増産運動を開始

●閣議、芋類の統制機構と価格の改訂要綱を決定。農林省は、挙国芋類大増産運動を開始することに決定した。

1943年
昭和18年7/21
国民徴用令改正公布(8/1施行)

●政府は昭和18年7月21日、国民徴用令の第3次改正を公布した。これにより、国民皆働体制は強化され、社長も徴用されるようになった。この国民徴用は、兵役に次ぐ国民の義務となったのである。(新聞)昭和18年8/20の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 
●次段で『昭和2万日の全記録』の「社長も徴用へ・強化された国民皆働体制」のところを抜粋した。

「社長も徴用へ・強化された国民皆働体制」

(文章抜粋)(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊。  
●政府は昭和18年7月21日、国民徴用令の第3次改正を公布した。これは、以下のように徴用の内容を強化・拡大するものだった。また、徴用工という呼び名は「応徴士」と改められた。

①国が必要と認める時は随時、「徴用」できる、
②「徴用」の範囲を事業主にまで広げる、
③2ヵ年に限られていた期間を厚生大臣の権限で延長できるようにする、

●徴用は、国家による強制的な労務動員で、国民登録された16~40歳の男子、16~25歳未満の女子を重要産業に強制配置し、人々に「白紙召集」と恐れられた。ひとたび徴用されると職業選択や転・退職の自由は奪われた。
●14年7月、国家総動員法に基づいて制定・公布された国民徴用令は、初年度、わずかに建設関係者850人に適用されただけだった。しかし、軍需産業の生産力向上が急務となり、一方で兵力動員のため労働力確保が困難になってくると、政府は15年10月、16年12月と矢継ぎばやに国民徴用令を改正、そして今回の第三次改正となった。
●そして12月には、政府は軍需会社徴用規則を公布、新規徴用とは別に会社ぐるみの徴用も(現員徴用)も実施できるとした。こうして徴用者は飛躍的に増大し、終戦時には616万4156人(うち会社ぐるみは455万4598人)にも達した。労務の中心が熟練工や若者から徴用工に移るにつれ、生産現場の士気は低下し、能率も落ちていった。これは会社側にとっては「成る程頭数だけは揃えられるものの(中略)未熟練労働中心に変ったことになり、生産性も低く、その上労務管理上からの気苦労も」(『久保田の歩み』)増大した。
●徴用への反発と抵抗
 徴用は、学歴や職歴、前収などをすべてなげうち、工場労働者になることを意味した。たとえば、月収150円位で一家を養っている満19歳の職人が応徴すると、100円位しかもらえず、前収分を確保するには平均3~4年かかるとされた(厚生省勤労局監修『国民徴用読本』)。とくに、企業整備で転業を余儀なくされた自営業者や職人などは、徴用により収入が大幅に減り、たちまち生活苦に陥る例が続出した。自発的転業による「徴用のがれ」は、人々のささやかな抵抗だった。
 労働意欲は低下し、都市地区の工場では19年7月に18%、20年7月には40%もの欠勤率(『現代史資料』39)を示した。また、所定労働時間に対する徴用工の正味労働時間の割合は50%にも満たず、「其の態度は懐疑的となり企業体の内情に対し漸次批判の眼を差向けんとする情勢」(『週報輿論報告』一ニ号)を惹起し、徴用工による上役、監督者への集団暴行や機械に砂を投げ入れる怠業も頻発した。そして底をついた労務動員は学徒、女性、朝鮮人へと向けられた。

1943年
昭和18年8/1
ビルマ独立宣言

●バー・モー政府は、英国からの独立を宣言。日本との同盟条約が成立し、米英に宣戦を布告する。

1943年
昭和18年8/14
学徒勤労奉仕本格化

●文部省、薪炭増産に国民学校4年生以上と青年学校・中等学校全生徒の動員を決定。

1943年
昭和18年8/19
甲子園球場、金属回収

●甲子園球場、金属回収で解体工事を開始。大鉄傘・アルプススタンドなどで750トン。

1943年
昭和18年8/28
陸軍省、アッツ島で玉砕した全将兵の氏名と進級を公表

●陸軍省は5/29、アッツ島で玉砕した山崎保代大佐以下2500余の全将兵の氏名と進級を発表。(新聞)昭和18年8/29の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1943年
昭和18年9/1
厚生省、女子にも体力章検定を実施

●健民運動の一環として、女子の体力増強を図るため実施された体力検査制度。9月1日、厚生省が実施を通牒。対象は15歳から21歳までの未婚女性。男子については、すでに14年から行われていた。1000メートル速行、縄跳び、短棒投、重量運搬、体操を基礎検定種目とし、水泳と行軍を特殊種目とした。検定標準は上級、中級、初級の3区分。

1943年
昭和18年9/1
都市近郊の買い出し(持出し)量制限始まる。

●下段は、『昭和2万日の全記録』の「買い出し野菜類はニ貫目まで・忍びよる飢餓とのたたかい」のところの抜粋。上写真(部分)善光寺下駅(長野県)の買い出し部隊。19年。警察の取り締まりの網をくぐって買い出しは続いた。-撮影・川上今浅太郎。(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊

「買い出し野菜類はニ貫目まで・忍びよる飢餓とのたたかい」

●昭和18年9月1日、この日から都市近郊の買い出し(持出し)に量制限が始まった 茨城・群馬両県では従来どおり一人当たりの買い出し量を八貫目(30kg)まで、千葉・埼玉・神奈川・栃木・山梨各県ではニ貫目(7.5kg)までとする県令も、同時に施行された。買い出しは、近郊の農家に出かけ、お金や、着物などと引き換えに米や野菜を分けてもらうことだが、食料不足が長びくにつれ農家も簡単には応じなくなった。
●日米開戦は海外からの食糧輸人を困難にし、配給食料品の不足、欠乏を招いた。 東京では17年8月から、主食の米の配給をうどん・小麦粉・しゃが芋などで代替する、「代用食」も始まった。この時期になると配給の質的低下は著しく、生鮮食料品の欠配が目立ち、庶民の食卓にはイワシやタラばかりが並ぶというありさまだった。一万、軍需工場や高級料亭などの大口買い出しや、ヤミの横流しなども問題となっていた。
●主婦にとって食料品の確保は切実な問題だった。配給の知らせが入ると、限られた食料を手に入れるため、彼女たちは家事・育児をさしおいても長時間、店頭に並ばなければならなかった。当時の調査によると、5人家族で1日4時間半が行列買いに費やされたという(『東京都の百年』)。
●ヤミと買い出しは、食料不足への自衛手段だった。とくに配給統制の強化と買い出し自粛を狙った買い出しに量制限後は、小さな子供たちまでリュックを背に買い出し部隊に加わるようになった。
 東京近郊の主な買い出し地域は、三多摩、千葉、埼玉方面だった。埼玉県を例にとると、「平日で5千人、休日になると1万人近くの買い出しが殺到し、2倍から3倍の闇値で日に平均一万貫を持出している現状」(『朝日新聞』昭和19年2月24日付)と報じられた。


●ところで、食糧増産の担い手である農村は深刻な労働力不足に直面していた。
 農業従事者の200~250万人は軍隊に、軍需産業や季節労働者には年間約30万人(12年~19年)が流出していた(北河賢三『国民総動員の時代』)。このため農業労働は婦人・年少者・老人の肩にかからざるを得なかった。肥料や農機具の供給も不足していた。 労働時間は、開戦時に比べ10~20%も増加したが、耕地・作付面積は減少し、生産性も下降線をたどっていった。
 政府は、学生・生徒、一般市民を「食料増産隊」として大量に農村に動員し、労働力不足をを補おうとした。また、16年度労務動員計画からは農業従事者を除外したり、農村出身の兵士を農繁期に一時帰休させるなどの措置を講じた。
●18年には、約100万人の戦時農業要員を指定し、離農統制強化に乗り出すなど、農業労働力確保にやっきとなった。さらに、消費者米価よりも高い生産者米価を導人(二重価格制)、供出米の確保にも努めた。
19年3月、決戦非常措置要綱が閣議決定されると、隣組総出で庭先、校庭、工場敷地などを野菜畑に変えた。国会議事堂前は芋畑に変わった。 しかし、こうした試みも食糧事情の好転にはつながらなかった。
上記写真、昭和19年頃の「決戦農園」の1シーン。(出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」1億2千万人の映像。第1巻「世界恐慌と太平洋戦争」講談社2005年7/15第1刷発行。

1943年
昭和18年9/4
上野動物園、猛獣の慰霊法要を行う。

●東京都は、空襲時の混乱回避のため毒殺した上野動物園の象やライオンなど猛獣の慰霊法要を行った。「処分」される動物たちは「時局捨身動物」とよばれた。  
(写真)ありし日のジヨン(手前)とトンキー。ジョンは17日目に餓死。花子とトンキーは8月25日からエサを与えられなくなったが、慰霊祭当日も生きており、花子は18日目、トンキーは30日目に餓死した。 -写真・上野動物園。(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊。


●上野動物園は、東部軍司令部の命令により、空襲時に『危険視』される動物のリストを作成、防空演習も頻繁に行っていた。そして7月1日、東京に「都制」が布かれ、初代東京都長官に前「昭南(シンガポール)」市長の内務官僚大達茂雄を迎えた。上野動物園は「東京都上野恩賜公園動物園」と名称が変わった。
●8月16日、福田三郎(上野動物園園長代理)と、召集されて陸軍獣医学学校に勤務中の古賀忠道(同園長)は、東京都公園課長の井下清の呼び出しをうけた。井下公園課長は両人に対し、先に作成していたリストに基づいて猛獣を1ヵ月以内に「処分」(毒殺)するようにとの都長官命令を伝えた。そして、銃殺はその音が世間に不安を与えるため禁止する、秘密を守るため動物園の職員はこのことを家族も含め口外しないとの注意もなされた。
●「処分」は命令の翌日から開始された。新聞には、ことさら穏やかな方法で処分と記されていたが、実際は悲惨なものだった。その「処分」方法は、ほとんどが猛毒硝酸ストリキニーネによる毒殺だったが、薬物を受けつけない動物は槍や金槌でとどめを刺したり、絞殺したり、ヘビ類の場合は切断したりと酷たらしいものだった。絶食させられたインドゾウのトンキーは、飼育係の姿を見ると前足を折って鼻を高くあげる芸をして、しきりに餌をねだったという。こうして上野動物園では14種27頭が処分された。
※上野公園の慰霊碑(この時亡くなった動物たちを含め)は、ゾウ園の横にあります。
●この処分は各地の動物園でも行われた。18年9月、井の頭恩賜公園自然文化園(2頭)、19年3月、大阪天王寺動物園(10種26頭)、京都市動物園(13頭)、仙台、福岡の動物園では猛獣類を処分した後、19年半ばに閉鎖された。名古屋の東山動物園では、園長の努力によって飼育が続けられたが、19年12月13日の空襲を機に猟友会の手でヒョウ、トラ、ライオンなどが銃殺された。翌年1月同園は閉鎖されたが、インド象2頭とチンパンジー1頭は生き残った。   
●一方、動物園以外のサーカスなどで飼育されていた猛獣も同様に処分された。警視庁は猛獣類については、昭和18年10月28日午前10時までに、自発的処置により処分するように指示した。対象となったのは、ライオン52頭、ゾウ7頭ほか、ヒョウ、トラ、ヘビ、クマなどであったが、ゾウは処分保留となった。だがゾウたちも飼料不足によって結局倒れていった。
12/3、築地本願寺で、全国のサーカス28団で、公衆への危害防止を理由に殺された猛獣の慰霊祭が行われた。

1943年
昭和18年9/8
イタリア、パドリオ政権、無条件降伏

●このパドリオ政権とは、イタリアの降伏内閣のこと。7月10日の連合軍のシチリア島上陸を契機に、国王エマヌエレ三世は軍上層部らとむすんでムッソリーニを罷免・逮捕し、後任首相にピエトロ・バドリオ元帥を任命した。バドリオ政権はドイツ軍の弾圧下、ひそかに連合軍と休戦交渉をすすめ、9月8日、無条件降伏した。だが、ドイツは直ちにローマを占領、イタリア軍を武装解除した。混乱のなかパドリオと国王は、ローマを脱出し南イタリアのバリへ向かった。9/12にはドイツ軍がムソリーニを救出した。
●9/15、日独両国政府は、「イタリアバドリオ政府の無条件降伏は3国条約に影響せず」と同盟再確認を共同宣言した。
(新聞)昭和18年9/10の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1943年
昭和18年9/10
鳥取地震M7.4

●午後5時37分、鳥取市を中心に地震が発生、断層は8kmに及び、横ずれ最大幅は1.5mに達した。死者1083人、家屋全壊7485戸、半壊6158戸を数えた。

1943年
昭和18年9/21
男子就業の制限・禁止

●閣議は、男子就業の制限・禁止に関する件と、女子勤労動員の促進に関する件を決定。(新聞)昭和18年9/23の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1943年
昭和18年9/23
●閣議、20年度から台湾に徴兵制施行と決定する。
1943年
昭和18年9/30
御前会議、「今後採るべき戦争指導の大綱」決定する

●この日御前会議が開かれ、「今後採るべき戦争指導の大綱」と、それに基づく「当面の緊急処置に関する件」が決定された。「大綱」はその「方針」のなかで、18年中に戦争の大勢を決することを強調し、「要領」のなかで絶対に確保すべき要域、すなわち絶対国防圏を決定した。以下にそのポイント部分を抜粋した(ひらがなで表示)。

「今後採るべき戦争指導の大綱」

(方針)
一、帝国は今明年内に戦局の大勢を決するを目途とし敵米英に対し其の攻勢企画を破砕しつつ速かに必勝の戦略態勢を確立すると共に決勝戦力特に航空戦力を急速増強し主動的に対米英戦を遂行す
ニ、三、(略)
(要領)
一、万難を排し概ね昭和19年中期を目途とし米英の進攻に対応すべき戦略態勢を確立しつつ随時敵の反攻戦力を捕促破砕す
 帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面に於て絶対確保すべき要域を
千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」を含む圏域とす

 戦争の終始を通し圏内海上交通を確保す
ニ~八(略)

1943年
昭和18年10/2
学生・生徒の徴兵猶予停止

●「在学徴集延期臨時特例」公布施行。理工系など一部を除き、学生・生徒の徴兵猶予停止となる。12/1第1回学徒兵入隊。

1943年
昭和18年10/10
米麦の買い出しを厳禁

●農林省、食糧管理法施行規則改正実施。これにより米麦の買い出しを厳禁し、食糧管理法第9条違反で、買い手も厳罰となる。●10/17、栃木県が、米などの「買い出し部隊」を一斉取り締まり。検挙数1530件、大部分は東京方面から来県。

1943年
昭和18年10/14
●フィリピン共和国、独立を宣言。日比同盟条約、マニラで調印。
●10/21、チャンドラ・ボースが、シンガポールで自由インド仮政府を樹立した。日本政府は10/23、この自由インド仮政府を承認し、協力支援を約する声明を発表した。
1943年
昭和18年10/18
財団法人大日本育英会(仮称・大日本育英団)、発足

●翌19年3月に大日本育英会法が公布され、特殊法人となった。育英会はわが国初の国家的な奨学金貸与機関で、経済的理由から就学が困難な学生・生徒に学費を貸与し、「国家有用な人材」を育成するために創設された。19年度の貸与人員は5744人。

1943年
昭和18年10/21
「出陣学徒壮行会」


●東京の「出陣学徒壮行会」(学徒出陣)が明治神宮外苑で挙行された。この壮行会は、文部省主催で、東京とその近県77校(東京帝大・早大など)から集まった学徒が、スタンドを埋めた6万5千人のなかを東条英機首相らの閲兵を受け・行進した。学徒壮行会は全国各地(外地でも)で行われたが、出陣学徒は各々郷里に帰って徴兵検査をうけ、12/1陸軍、12/10海軍に入営(入団)した。その人数は、推定13万人といわれる。下のNHKのリンク先では、出陣学徒代表の東京帝大江橋慎四郎の答辞『・・生等今や見敵必殺の銃剣を提げ・・・』のシーンの動画が残されている。また下段では壮行会最後の東条英機首相の天皇陛下万歳のところを紹介しておく。
(新聞)昭和18年10/21の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

*リンクします「出陣学徒壮行会」NHKアーカイブス
学徒出陣・東条英機首相万歳三唱

(映像出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン-一億ニ千万人の映像」(第1巻)講談社2005年刊
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
(mp4動画、サイズ1.88MB、16秒)

1943年
昭和18年10/31
軍需会社法成立(12/17施行)

●これは航空機を中心とする軍需生産増強のため、軍需会社に指定された企業に優遇措置をとる一方、その生産から人事にわたる全面的な命令権を政府に与えた法律。10月31日公布。敗戦までに688社が軍需会社に指定されたが、労働力や資材の不足と陸・海軍の対立のため所期の成果は上げられなかった。

1943年
昭和18年10/31
●強制疎開や重要都市の入市制限をなどを含む、防空法中改正法公布(19年1/9施行)。
1943年
昭和18年11/1
軍需省・運輸通信省・農商省を設置

●航空機生産を一元的に計画・統制するために商工省と企画院、それに陸・海軍の民間航空工業監督部門を統合して軍需省が設置された。軍需大臣には陸相・参謀総長を兼ねる東条英機首相が就任、岸信介国務相が軍需次官に就任した。これにより、農林、商工、通信、鉄道各省、企画院、海務院を廃止した。
下段で、講談社「昭和2万日の全記録」から「飛行機を前線に送れ・統制力なき航空機生産」の章を要約・抜粋した。日本は、「陸・海軍の対立」などの障害をなくし、よりいっそうの航空機増産を図るため、軍需省を創設したとある。(上新聞)昭和18年11/1の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

●陸・海軍の対立
 航空戦力の増強は、ミッドウェーの敗北後の最大の課題だった。陸・海軍ともに「航空第一主義」で認識は一致していたが、資材不足、大量生産技術の立ち遅れ、陸・海軍の競合・確執からくる生産のロスなどの障害があった。
 軍需省設置の最大の目的は、この陸・海軍の対立による資材、生産工場、労力の奪い合いを解消し、航空戦力を増強することだった。
●航空機生産の隘路
航空機生産機数は、軍需省設置後の19年6月には、2,857機(目標月産4,000機以上)と過去最高を記録したが、実際には、航空機戦力を増強するという企図は下降線をたどっていた。
 生産の急激な拡大要求は、熟練工と工作機械の不足をもたらした。労働者数は19年126万人と開戦時の4倍に達していたが、その30~40%は学生(女子を含む)で占められていた。また、粗雑な加工技術と代用品利用などによる航空機の質的低下も著しかった。 航空資材の供給面でも、中心となるアルミニウムの生産は18年をピークに急激に低下していた。17年7月以来、海外からの物資運搬の輸送船は、その多くが沈められる状況下では、船舶量増大、原料輸入の促進のいずれもが厚い壁にはばまれ、原料のボーキサイトをはじめ国内貯蔵物資は底をついた。
●増産か、工場疎開か
 日本の航空機生産は、三菱重工業・中島飛行機・川崎航空機・立川飛行機・愛知飛行機の主要5社で全生産高の約75%を占めていた。しかも、うち72%は東京・名古屋・大阪とその周辺に多数の下請け工場とともに集中していた。19年11月、マリアナ基地からB29が飛来すると、これらの工場群は空爆の第1目標とされた。生産施設の分散・疎開は開戦時から問題とされてきたが、航空機の緊急増産要求の前に手がつけられず、19年5月、55の飛行機部品工場が疎開したにとどまっていた。
●こうして、軍需省設置にもかかわらず、19年度陸・海軍の飛行機分配をめぐっては、陸・海軍首脳部が2ヵ月もかかってやっと妥協が成立する一幕もあった。このように陸・海軍の対立は依然解消せず、軍需省はその調整に回るという状態で、戦局の窮迫はそれに追いうちをかけた。
1943年
昭和18年11/1
兵役法改正公布施行

●兵役服務年限を5年間延長して45歳までとする。

1943年
昭和18年11/5
大東亜会議、東京で開催

●日・満・比・タイ・ビルマ・南京政府などの代表が参加し、11/6共同宣言を発表した。
昭和18年11月5日と6日の2日間にわたって、東京の帝国議事堂で大東亜会議が開かれた。集まったのは、日本の東条英機首相、中国国民政府(南京政府)行政院長江兆銘、タイ国首相代理ワンワイタヤコン、満州国国務総理張景恵、フィリピン共和国大統領ホセ・ペ・ラウレル、ビルマ国首相バー・モーの6人だった。それに、自由インド仮政府首班スパス・チャンドラ・ボースが陪席した。
(写真)大東亜会議の前夜(4日夜)、帝国ホテルで外相・大東亜相共催の晩餐会が開かれた。右から、ワンワイタヤコン、江兆銘、青木一男(大東亜相)、張景恵、重光葵(外相)、ホセ・ペ・ラウレル、バー・モー、スパス・チャンドラ・ボース。(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊。 
●下段では、『昭和2万日の全記録』講談社から、この大東亜共栄圏と大東亜戦争を総括している「『大東亜共栄圏』の理想と現実。支配者の交代に終わった東南アジア」の章を引用する。現代においても、「大東亜共栄圏」を自国(日本)本位で理解しないことが必要である。ポイントは赤でマークした。

「大東亜共栄圏」の理想と現実。支配者の交代に終わった東南アジア

 大東亜会議は、「大東亜を米英の桎梏(しっこく)より解放して、其の自存自衛を全うし、左の綱領に基き大東亜を建設し、以て世界平和の確立に寄与せんことを期す」との「大東亜共同宣言」を採択して終わった。綱領は、「共存共栄の秩序を建設」など5つであるが、いずれも抽象的な美辞麗句で具体策はなく、ただ「人種的差別を撤廃」を入れたのが新味といえた。しかし、タイのピブン首相が国内の反日的空気から病気を理由として代理を送ったように、「共栄圈」内にきしみが表れつつあった。
 大東亜会議の開催は、「政略的には、大東亜の諸国家諸民族の力を結集することが喫緊の要事となって来た」(服部卓四郎『大東亜戦争全史』)ためだった。軍事的には、日本は「絶対国防圏」を設定して戦略的守勢に入つていた。そうした新段階における政治的対応であった。ガダルカナル島撤退後、東条首相兼陸相は3月から7月にかけて南京、新京(長春)、マニラ、シンガポールを訪れ各国要人と会った。その過程で、大東亜会議の開催が決まったのである。
 この間、東条内閣は5月31日、「大東亜政略指導大綱」を御前会議で決定した。それは、東南アジア諸民族の独立運動と妥協しながら日本への協力を求め、大東亜共栄圏の結束を維持しようとするものだった。「指導大綱」は、ビルマとフィリピンの「独立」を認め、一方ではマレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスについては「帝国領土卜決定シ重要資源ノ供給地トシテ」軍政を継続するとした。帝国領土とする項目は、「当分発表セズ」と秘密にされた。ビルマは同年8月1日、フィリピンは10月14日、それぞれ「独立」した。ビルマは即日、日本との同盟条約を結ばされ英米に宣戦布告した。

下

1943年
昭和18年11/9
連合国難民救済機関(UNRRA)を設立

●連合国44カ国は、ドイツ軍撤退後の占領地域の難民救済のため、ワシントンで連合国難民救済機関(UNRRA)を設立した。第2次世界大戦後も難民・亡命者の保護にあたった。1947年解散し、翌年国際避難民機関がこれを引き継いだ。

1943年
昭和18年
東京都、「帝都重要地帯疎開計画」を発表。

●東京都は、重要工場と主要駅付近の建物疎開や防火地帯の造成などを決めた「帝都重要地帯疎開計画」を発表した。

1943年
昭和18年11/17
●東条首相、内閣強化のため藤原銀次郎を国務大臣に、鈴木貞一、五島慶太、鮎川義介を内閣顧問に指名。
1943年
昭和18年
1943年11月27日、カイロ宣言を採択、12/1発表(米・英・中)

●アメリカ合衆国ルーズベルト大統領、イギリスチャーチル首相、中華民国蒋介石主席らが、エジプトのカイロで、対日戦略についての首脳会議を開いた(11/22~27)。
そして11/27対日戦とその戦後処理をめぐる「カイロ宣言」が採択された。
宣言の要旨は以下の通りである。連合国側が日本領土の処分について初めて言及したものだった。

 (宣言の要旨)
①三国の戦争目的はいかなる領土的野心ももたず、日本の侵略を防止することにある。
②第一次大戦以降、日本が奪取・占領した地域を剥奪する。
③満州(中国東北地方)、台湾、澎湖島など日本が中国から奪取した領土を返還する。
④朝鮮を自由かつ独立のものとする。
⑤以上の目的のため、日本の無条件降伏まで戦う。

 写真「カイロ会談」(出典:「世界の歴史15」中央公論社1963年刊)

1943年
昭和18年11/28~12/1
テヘラン会談(イラン)

●米英ソの3巨頭(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)の初めての会談。単独でドイツと戦うソ連スターリンは、連合軍による「北フランス上陸作戦」を米英に要望。その見返りに、ドイツ敗北後、ソ連が対日戦に加わることを約束。この会議で初めて世界の2大強国が歩み寄りを見せ、イギリスを含めた3大国が、ドイツ敗北の日まで団結することを誓った。

1943年
昭和18年11/29
●軍需省、設備機械動員実施要綱を発表。遊休・不急の機械転用で航空機増産に対処。
1943年
昭和18年12/10
文部省、学童の縁故疎開促進を発表

●閣議は、12/21都市疎開実施要綱を決定する。

1943年
昭和18年12/21
閣議、都市疎開実施要綱決定

●疎開区域は京浜、阪神、名古屋と北九州地方の主要12都市。

1943年
昭和18年12/21
厚生年金保険法(19年2/16公布)

●政府、労働者年金保険法改正案を決定。名称を厚生年金保険法として女子や事務職にも適用した。この厚生年金保険法は、労働者とその家族の生活安定のため、老齢・廃疾・死亡などについて年金や一時金の給付を行う社会保険法である。労働者年金保険法改正と同時に名称も改まり、19年2月16日に公布された。この改正で、強制適用の範囲が職員、女子および5人以上の事務所の従業員にまで拡張された。被保険者数は2倍以上になり、保険料も引き上げられ、戦争遂行の財源となった。

1943年
昭和18年12/23
大日本母子愛育会が発足

●愛育会・日本母性保護会・日本小児保健報国会が統合し、大日本母子愛育会(厚生省外郭団体)が発足。

1943年
昭和18年12/28
閣議、食糧自給態勢強化対策要綱を決定。

●閣議は、農業労働力確保のため、「戦時農業要員」を指定し、徴用除外とする「食糧自給態勢強化対策要綱」を決定した。

1943年
昭和18年12/26
第84帝国議会開院式における「勅語」

●左の翌27日の朝日新聞には次のようにある。「畏くも天皇陛下には戦局の重大なるを深く御軫念(しんねん=天皇が深く御心を痛めること)あらせられ、また前線将兵の勇武と、銃後国民の奮励とを嘉せられて同開院式に優渥(ゆうあく=めぐみ深い)なる勅語を賜うたのである」
下が帝国議会の貴族院議場において天皇より賜った「勅語」。ひらがなに変えた。

第84回帝国議会 1943年(昭和18年)12月26日「勅語」

朕茲に帝国議会開院の式を行い貴族院及衆議院の各員に告ぐ
朕が外征ノ師は懸軍万里沍寒を凌ぎ炎熱を冒し勇戦奮闘愈々其ノ威武を発揚し朕が銃後の臣民亦克く艱苦に堪え生産に勤め齊しく奉公の誠を致せり而して帝国と友邦との盟約は益々固きを加え興亞の大業を逐いて進む
朕深く之を悦ぶ
今や彼我の攻防愈々急にして戦局最も重大なり
宜しく億兆一心国家の総力を挙げて敵国の非望を粉砕すべし
朕は臣民の忠誠勇武に信倚し速に征戦の目的を達成せむことを期す
朕は国務大臣に命じて昭和十九年度及臨時軍事費の予算案を各般の法律案と共に帝国議会に提出せしむ
卿等能く朕が意を体し和衷審議以て協賛の任を尽さむことを望む

(新聞)と(勅語)昭和18年12/27の朝日新聞より。(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1943年(昭和18年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1.1 朝日新聞に掲載の中野正剛の「戦時宰相論」が東条首相を批判したものとして発売禁止
1.2 ブナ(ニューギニア)の日本軍玉砕
1.9 日華共同宣言,租界還付・治外法権撤廃等に関する日華協定調印(即日公布)
1.11 英・米,中国(重慶政府)と新条約を締結,在華特権を放棄
1.13 ジャズなど米英音楽1000種の演奏(レコードを含む)を禁止
1.14 ルーズベルト・チャーチル,カサブランカで第3次戦争指導会議

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