(19世紀頃まで)朝鮮(朝鮮王朝成立~大韓帝国成立)日本(明治維新)
●日本は、天皇制を根幹とする大日本帝国を築き上げていく。
●日本では、徳川家康は秀吉の死後ただちに朝鮮から兵を撤退させ、国内統一へ邁進した。1600年の「関ヶ原の戦い」で豊臣家との天下分け目の戦いに勝利し、1603年武家の棟梁として朝廷より「征夷大将軍」に任命され江戸幕府を開いた。特筆すべきは、「禁中並公家諸法度」で、天皇の主な職務を定め、第1条は『天子諸藝能之事、第一御學問也。・・』として、朝廷すら法的に管理したことである。また「武家諸法度」第1条で、武家は『文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事』とし、武家のあるべき形も示したことである。
●儒教(朱子学)の林羅山(道春)は、藤原惺窩の推挙を受け、23歳の若さで家康のブレーンの一人となった。朱子学は江戸幕府の正学とされた。
*リンクします「三徳抄」林道春 国民思想叢書・ 儒教篇 1929-1931刊→
●下の絵は、17世紀に描かれた「江戸図屏風」の一部を、切り取り合成した参考図。「朝鮮通信使」の一行が、江戸城正面・大手門に描かれている。

●この「江戸図屏風」は『江戸時代初期の江戸市街地および近郊の景観を画題として、そのなかに江戸幕府第三代将軍徳川家光の事蹟を描き込んだ、六曲一双の屏風。(=国立歴史民俗博物館)』とあります。このなかには明暦3年(1657年)の大火で焼け落ちた江戸城天守が描かれていて、その江戸城大手門には、登城する「朝鮮通信使」の一行が描かれている。この図では、正使・副使とおぼしき人物は輿に乗り、従者に天蓋様の長柄の傘をさしかけさせ、まだ大手門へ向かう城外にいる。先行する先頭集団は大手三之門前に達し、橋前には4人が並んで、竿頭に矛のついた旌旗を押し立てている。また濠端には虎皮その他獣皮類など献上品が並んでいる。豊臣秀吉の朝鮮侵攻の後、難航していた日朝の修好が、徳川家康によって関係が修復されていったことを象徴している。(出典:「江戸図屏風」平凡社1971年刊と「江戸図屏風」国立歴史民俗博物館)
*リンクします「江戸図屏風」→「国立歴史民俗博物館」
●同時期の日本は明治維新の激動期にあたる。明治政府の「征韓論」については、1873年10月の政変で、留守政府主役であり「征韓論」を強く主張した西郷隆盛らが政権を去った。しかしこの「征韓論」は、外交政策の論争ではなく、統一国家と「富国強兵」の実現のために、不満を持つ士族階級と人心を外に向かわせるための手段であったとも言える。なぜなら、この後実権を握った「征韓論」反対派であった大久保利通らの新政府も、1874年に初の海外派兵・台湾出兵(=西郷従道の独断専行と評価されている)を行ったことに現れている。明治政府の事実上の中心となった大久保利通は、次のように言った。
激動の10年間(1877年頃まで)の主な出来事は以下のようである。「御一新」と呼ばれた。
年 | 日本・明治維新 |
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1868年~ | 「王政復古の大号令」「五か条の誓文」「神仏分離令」「廃仏毀釈」 ●「五か条の誓文」 一、広ク会議ヲ興(おこ)シ、万機公論(ばんきこうろん)ニ決スベシ。 一、上下(しょうか)心ヲ一(いつ)ニシテ、盛(さかん)ニ経綸(けいりん)ヲ行ウベシ。 一、官武一途庶民(かんぶいっとしょみん)ニ至ル迄、各々(おのおの)其(その)志(こころざし)ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦(う)マザラシメン事ヲ要ス。 一、旧来(きゅうらい)ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道ニ基(もとづ)クベシ。 一、知識ヲ世界ニ求メ、大(おほい)ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スベシ。 ●新政府は、王政復古の方針のなかで、祭政一致を目的に、神祇官を再興し、仏教を排斥しようとした。この思想的な背景は、藤田幽谷・藤田東湖・会沢正志斎の後期水戸学や、平田篤胤の平田派であったが、結局実務を担って行けたのは、津和野・大国隆正の国学派亀井茲監や福羽美静であった。当初明治政府の国学派グループは、神祇官(じんぎかん)を再興して祭政一致の制度を実現しようと神道国教化を目指した。しかし平田派の神秘主義的な思想は、さすがに近代化を目指す新政府には、受け入れられなかった。新政府は、富国強兵と近代国家の樹立の為、政教分離と信教の自由をみとめ、キリスト教解禁も西洋諸国からの圧力により認めた。しかし神仏分離令は、江戸時代に権勢を誇った仏教界(檀家制度)に大きなダメージを与えた「廃仏毀釈」運動。 |
1868年 | 藩兵の処遇 ●戊辰戦争の奥羽での戦闘が終わると、中央政府や各藩は、凱旋してくる藩兵の仕末に頭を悩ました。中央政府にとっては、藩に兵力が戻ることにより政府に反抗するのではないかという恐れ、また藩にとっては藩兵がもはや藩の統制に服さないのではないかという恐れであった。そこで廃藩のまえおきとして「版籍奉還」が必要となった。 |
1869年(正月より) | 「版籍奉還」版=領地、籍=領民 ●中央政府(特に木戸孝允)は、大名が土地と人民を朝廷に返す形をとることが、諸藩の統制に必要と考えた。そこで薩長土肥の4藩が、率先して版籍奉還を願う建白書を提出した。4月までには大きな藩のほとんどが建白書を提出した。旧藩主は藩知事となった。 |
1869年(5月) | 「戊辰戦争」終結 ●最後まで抵抗を続けた榎本武揚・土方歳三らは、北海道・箱館五稜郭で独立(蝦夷共和国)を宣言したが、戦闘の末無条件降伏した。 |
~1870年 | 政府による「藩の改革」 ●新政府は、藩士(武士階級)の家格(一門から平武士にいたるまで10以上の階層に分かれていた)の区別を廃止して、士族と卒族の2階級とした(大久保利通の立案とされる)。また地方知行は廃止され、俸禄は米で渡されるようにした。中央政府にとって、戊辰戦争で倒幕を成功させた士族階級は、逆に新体制にとって重荷となり、近代的軍隊組織にとっても古い存在になっていた。 |
1870年~ | 新政府「官営模範工場・富岡製糸工場」等の設立を行う ●明治初期の官営事業は、軍事工業(例:横須賀海軍工廠など)・一般工業、模範工場、農林・牧畜業、鉱山など全てにわたった。 *リンクします群馬県富岡市富岡「官営模範工場」「富岡製糸場」 |
1869年~1870年 | 「農民闘争」百姓一揆や打ちこわし ●「諸隊の反乱」長州藩の脱隊騒動。 |
1871年 | 「日清修好条規」調印
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1871年(7月) | 新政府「廃藩置県」を断行 ●天皇は在京の諸藩知事を召集して、藩を廃し県を置く旨の詔書をつたえた。「廃藩置県」である。藩知事は、家禄と華族の身分が保障され、東京に居を移された。また諸藩の年貢は政府が一手に収めたが、藩の持っていた多額の借金を政府が肩代わりした。廃藩は藩主にとって、決して悪い取引ではなかった。しかしそのしわ寄せを受けたのは、下級藩士だった。 |
1871年(11月)~1873年(9月) | 「岩倉使節団」欧米へ出発
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1872年 | 「壬申戸籍」 ●壬申戸籍は、身分制度別による戸籍ではなく、屋敷・家屋単位の戸籍であった。平民も苗字を名乗ることを許されていたが、この壬申戸籍の届け出の時に、苗字をつける者が多かったと言われる。しかしスローガンでは「四民平等」とはいっても、実際は支配階級(皇族・華族・士族)と平民に分かれており、第2次世界大戦後の日本国憲法制定まで続いた。この士族(新たに天皇の官吏・軍人がなった)は「官尊民卑」の風潮を社会に今なお残している。そして最下層には「えた」「非人」がいたが平民とされ差別の撤廃がはかられた。 |
1872年~1876年 | ●福沢諭吉「学問のすすめ」「文明論之概略」など ●「明六社」結成(1873年)福沢諭吉・西周・津田正道・中村敬宇・加藤弘之・森有礼・神田孝平・箕作麟祥・西村茂樹ら啓蒙思想家達が作った。 天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、萬人(ばんにん=多くの人・すべての人)は萬人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、萬物の霊たる身と心との働を以て天地の間にあるよろづの物を資(と)り、以て衣食住の用を達し、自由自在、互に人の妨(さまたげ)をなさずして各(おのおの)安樂に此(この)世を渡らしめ給ふの趣意(しゅい=意見・意味)なり。 *リンクします「学問のすすめ」→*「福沢全集. 巻3『文明論之概略』」福沢諭吉著 時事新報社1898年刊 |
1873年 | 「徴兵令の発布」
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![]() (左上・イラスト徴兵令発布)張り紙に、「血税というのは自分の生血で国に報ずること」とある。(左下・徴兵のがれのパンフレット)飛ぶように売れたという。出典:『幕末の素顔』毎日新聞社1970年刊) | |
1873年 | 「地租改正」 ●この改正は、各藩まちまちな年貢を、統一された地租にすることが目的だった。そのため、米(農作物)ではなく現金で税金を収めること、そのために農民は農作物を自由に栽培できるようにしたこと、また土地売買の禁止を廃止し、地券を持つものが土地の所有者となり税金を払うことにしたことなどが定められた。重要なことは、今まで税率を収穫高の%で決めていたことを、農地の値段(地価)の%で決めて定率としたことであった。 |
1873年 | 征韓論と岩倉使節団帰国そして政変 ●西郷隆盛は岩倉・大久保らが帰国する前に朝鮮使節派遣を決め、自身が大使になることで朝鮮へ赴き、戦端を開くつもりでいた。そして太政大臣・三条実美に決定を迫り、ついに同意を得て大使派遣を決定した。三条は天皇に裁可を求めたが、天皇は岩倉具視の帰国(9月)を待って裁断することとした。西郷は決まったことに喜んでいたが、帰国した岩倉らは反対で、大久保利通を参議に就任させて、留守政府の決定を覆そうとした。大久保は会議の席上次のように主張した。 「外征をおこせば、かならず重税・外債・紙幣乱発となって、大変な災いとなる。少し待って、先に国内産業を起こし、武器・軍艦を整えるべき」 しかし認められなかったので、大久保・木戸・大木・大隈らはそろって辞表を提出した。太政大臣・三条実美は両派の間に入って心痛のあまり病気となってしまった。そこで大久保は、岩倉具視を太政大臣代理に任命するように画策して、最終的に天皇の採決を朝鮮使節派遣反対に導いた。ここに征韓派の敗北は定まり、留守政府主役であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らは辞職し、同時に賛同していた官僚、軍人達も政権を去った。(10月) |
1873年 | 「大久保利通による官僚制度の確立と改革」 ●大久保は、参議が卿(各省の行政長官)を兼任することで、各省を監督させるようにした。また内務省を創設して卿につき、全国の警察権をにぎった。東京の警視庁には、川路利良を大警視に任じた。内務省は、行政警察・新聞雑志の発禁の権・府県への指導・殖産興業の農政関係など、国内政治の中枢をにぎった。警官には、最初3000人の内2000人を薩摩士族から採用した。警察の目的は、政治警察が目的であり、政治運動や思想弾圧の基礎がこのときにできた。大久保利通は西郷らの辞職の後、伊藤博文・勝海舟・寺島宗則らを参事に任じた。(10月) |
1874年(1月) | 「民選議院設立の建白」 ●辞職した参議、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと、由利公正・岡本健三郎・古沢滋・小室信夫らの士族出身のインテリを加えた8名が、連名で「左院」に建白した。この議会の開設を要求する運動は、後に「自由民権運動」として日本全国に広がっていく。民選議院設立の建白の草案の最後部分を引用した。 |
民選議院設立の建白の草案
「民撰議院設立建白草稿(三種)」 「・・・臣等既に已に今日我国民撰議院を立てすんはある可からさる所以、及ひ今日我国人民進歩の度能く斯議院を立るに堪る事を弁論する者は、則有司の之を拒む者をして口に藉する所なからしめんとに非す、斯議院を立る、天下の公論を伸張し、人民の通義権利を立て、天下の元気を鼓舞し、以て上下親近し、君臣相愛し、我帝国を維持振起し、幸福安全を保護せん事を欲して也、請幸ひに之を択ひ玉はん事を。」(出典:「民撰議院設立建白草稿(三種)」国会図書館・資料にみる日本の近代) *リンクします「民撰議院設立建白草稿(三種)」猊剌屈社編『日新真事誌』(1874.1.18)掲載*リンクします「自由党史. 上 p78~p81」宇田友猪, 和田三郎 共編 五車楼 1910刊 | |
1874年 | 「士族による反乱」 ●(1月)「岩倉具視暗殺未遂事件」高知県士族武市熊吉ら9人による赤坂での事件。 |
1874年(5月) | 初の海外派兵(台湾出兵) ●政府は大久保と大隈の主張により、1872年に起きた台湾の原住民による漂着琉球人(沖縄人)殺害事件を口実に、台湾出兵を決定した。(アメリカの後押しもあった)しかしイギリスは、清国がこれを「侵略」と見なせば、イギリス船の参加を禁止する通告をしてきた。そしてアメリカも中立を宣言したため、政府は台湾出兵を中止した。 |
1875年(5月) | 「樺太・千島交換条約」 ●1870年樺太開拓使次官黒田清隆は、樺太を放棄し北海道開拓に専念すべしと主張していた。イギリス・アメリカは、ロシアの南下を阻止する目的があったが、日本の樺太経営の能力がないことを見て、樺太の放棄と北海道確保に専念することを勧告した。そして日本はロシアと樺太・千島交換条約を結んだ。小笠原諸島についてはペリーの領有宣言があり、日本も領有権を主張しなかったが、アメリカはイギリスに対抗するため、日本の領有を認めた。 |
1875年(7月)~1879年(3月) | 日本新政府、琉球王国を滅ぼす「琉球処分」
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1875年(2月) | 「大阪会議」 ●木戸孝允は台湾出兵に反対して1874年(5月)辞職した。同時に薩摩の島津久光(西郷や大久保の薩摩元藩主)が大久保・大隈に対する排斥運動を起こした。また自由民権運動も全国的な展開に発展しそうになり、大久保は苦境に立ち、事態収拾のため大阪会議を開いた。そして大久保利通・木戸孝允・板垣退助・伊藤博文・井上馨ら5人が会談して事態を収拾させた。これは大久保の専制主義が、立憲政体論に対して示した妥協であって、木戸・板垣の協調をはかったものにすぎなかった。 |
1875年(9月) | 「江華島事件」 ●日本政府は、朝鮮王室の内紛(大院君追放、閔氏政権成立)につけこんで、1875年5月軍艦雲揚号を派遣し、9月には江華島付近に侵入し示威行動を起こした。これに対して朝鮮側は砲撃を行い交戦となった。 |
1876年 | 「廃刀令」「家禄制度の廃止(秩禄処分)」 ●「廃刀令」は大礼服(最上礼服)着用者、軍及び警察以外に刀を身に付けることを禁じたもので、武士の特権と身分を完全に否定したものだった。 |
1876年 | 士族の反乱と農民一揆 ●(10月)熊本神風連の乱。 「そもそもわが百万の士族になんの罪かある。政府果たしてこの心をもって士族を制馭(せいぎょ)せば、かならず天下の大乱を醸(かも)さん」 ●75年末~76年「農民大一揆」鳥取・茨城・愛知・三重・和歌山・岐阜などで前例の無いほどの大一揆が発生した。農民一揆にたいしては木戸は次のように手紙に書いている。 「良民に災難をかける士族の暴動にたいしては、鉄火をもって十二分に圧倒せよ。しかし人民が生活に苦しみ、やむをえずおこす一揆にたいしては、鉄砲をもって制御してはならぬ」 ●1877年大久保・木戸は、地価の3%という地租の率を2.5%に引き下げ、地方税の率も、地租の1/3から1/5に下げた。農民には一時のアメを与えながら、全力のムチを士族暴動に加えた。 |
1877年(1月) | 「西南戦争」勃発、士族最後の反乱
政府に尋問の筋があって、西郷大将が旧兵隊を従えて上京する と通告し、兵を集める檄をとばし、途中九州各地の士族を加え総兵力3万人をこえた。 |
1877年~78年 | 「維新三傑の死」 ●西郷隆盛(1877年9月西南戦争で敗戦自刃・51歳) |
●新政府の行った各種政策は、経済・財政・金融上の課題・問題を理解しないと、本当の意味はわからない。戊辰戦争、西南戦争の費用をはじめ、旧藩の債務(家禄を含む)の肩代わりは、莫大な費用がかかり、また同時に諸外国から導入した技術移植・官営工場・運輸・通信など産業基盤の整備にも莫大な費用がかかった。新政府にとって、封建制度撤廃、資金の創出、安定した通貨・金融制度、殖産興業など課題は山積していた。また士族階級の反乱や民選議院設立運動・自由民権運動・武装蜂起勃発など、政治的な問題も社会を揺るがしたが、文明開化・富国強兵は政治論だけでは達成できるはずもなかった。大隈重信・伊藤博文・井上馨・渋沢栄一・松方正義らの経済政策は、現代にまで続く日本の経済構造の基盤を作ったといえる。
「明治財政史。第1巻」から緒言(明治23年頃までの部分)を引用し(ポイントを赤字にし、カタカナをひらがなに、読点・句読点を入れ、旧字体はなるべく新字体にした)、「日本銀行 百年史」などからその内容を簡単に書き出してみる。
年 | 朝鮮王朝 |
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1873年~ | 「大院君追放と閔氏政権」 ●1873年朝鮮では、大院君に対して両班層の不満が高まり政変が起きた。大院君を追放し、国王高宗の親政がはじまり、閔升鎬(ミンスンホ)を中心に王妃の閔氏一族が政権の中枢を占めた。1874年に日本の台湾出兵の報が伝わると、開国の主張も起こり閔氏政権は妥協をはかり、日本との交渉が再開されていった。 |
1876年 | 「日朝修好条規(江華条約)締結」 ●1875年9月、日本軍艦「雲揚号」は朝鮮の首都漢城(ソウル)の表玄関である「江華島」で示威行動を行い、朝鮮側・草芝鎮砲台と交戦し江華島事件を起こした。当然ながら日本は、欧米諸国の軍事的威嚇行動(アメリカのペリー)をまねし実行したものだった。そして翌1876年2月開国を強要するため、特命全権大使(黒田清隆)を6隻の軍艦と共に派遣し、江華島へ乗り込ませた。これに対し朝鮮政府は、交渉を有利に進めようとしたが日本側の威嚇行動に屈し、不平等条約である「日朝修好条規」締結を余儀なくされた。 第1款 朝鮮国は⾃主の邦にして⽇本国と平等の権を保有せり。嗣後(しご=以後)両国和親の実を表せんと欲するには、彼此(ひし=あちらとこちら)互に同等の礼儀を以て相接待し、毫(いささか)も侵越(=おかす)猜嫌(=そねみきらう)する事あるべからず。先づ従前(じゅうぜん=今まで)交情(こうじょう=交際のよしみ)阻塞(=ふさぎとめる)の患(=わずらい・うれい)を為(な)せし諸例規を悉(ことごと)く⾰除(かくじょ=悪を断って改める)し、務めて寛裕(かんゆう=心がひろくゆとりのあること)弘通(ぐつう=仏法がひろく世の中に行われる)の法を開拡し以て双⽅とも安寧を永遠に期すべし。 *リンクします「修好条規」法令全書 内閣官報局1887-1912 |
1880年~ | 「開国・開化政策」 ●朝鮮政府は日本との開港後も、欧米諸国とは鎖国政策を堅持していた。しかし清国・李鴻章は、日本とロシアを牽制するため、列国との間で条約締結をはかるべきと勧告してきた。また政府は、国内改革による自強をはかる必要から、対欧米諸国と開化政策採用の方針を決定した。こうして1881年には軍制を統合して、洋式の別技軍をもうけ日本人教官を招いて訓練させた。また紳士遊覧団(62名)を日本に派遣したり、金允植(キムユンシク)を武器製造や軍事技術習得のため清国に派遣(留学生38名)した。 |
1882年 | 「壬午軍乱」 ●反乱は大院君の復帰により収拾したが、日清戦争の遠因となった。 |
1882年 | 「日本・清国の対応」
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1884年12月 | 「甲申政変」
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1885年4月 | 「天津条約」
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1885年 | 「ロシア」への接近策 ●高宗および閔妃は日・清の圧力を牽制するため、ロシアと陸軍教官を招聘する秘密協定を結ぼうとしたが、清国は圧力をかけてそれを撤回させた。そして清国は、高宗および閔妃牽制のため大院君を帰国させ、さらに宗主国として朝鮮の内政干渉を強めるため、袁世凱(えんせいがい)を送り込んだ。 |
1887年 | 「自立化」への動き。 ●朝鮮政府は、外交の自立化をはかるため、諸外国に公使を派遣することを決定した。しかし清国は、派遣には清国の許可が必要であることと、現地では清国公使の指示に従うことを朝鮮政府に約束させた。清国は朝鮮との宗属関係強化に乗り出した。一方日本は、ロシアの介入を警戒しつつ清国と朝鮮の宗属関係を切り離し、朝鮮を日本の利益線と見なし、朝鮮を支配下に置くことを国家目標とした。 |
「東学」新興宗教と民衆運動 ●朝鮮は、日本をはじめ、アメリカ・イギリス・ドイツ・ロシア・フランスなど欧米諸国との間に不平等条約を結び開国したが、その影響は特に農村において深刻化した。飢餓・疫病の流行や盗賊の横行など、社会不安は激しくなっていった。そうしたなか、李朝両班支配体制を批判し、人間平等をうたう「東学=西学(キリスト教)に対する」が農民層のあいだに広く深く浸透していった。この宗教はやがて実践的に理解され、兵乱を意図し蜂起するようになっていった。「南接派」は政府に対して徹底抗戦的であった。「斥倭洋」「地方官の不当誅求(厳しい取り立て)反対」などを標榜した。 | |
1894年 | 甲午農民戦争」 ●この1894年の農民戦争は、東学南接派によって計画的に引き起こされた。その発端は、私腹を肥やしていた郡守に対して、全羅道の農民1000余名が武器を奪取して蜂起したものだった。一旦は収束したものの、農民軍は1万人以上で再蜂起し、道都の全州に入城し政府軍の精鋭部隊と熾烈な攻防戦を繰り広げた。これにより政府は清国に出兵を要請し、また日本もこれに対抗して軍事介入を行った。これにより農民軍は、政府と全州和約(農民軍の安全保障を含む)を結び、この蜂起を収束させた。 |
1894年(6月~) | 「日清戦争・開戦」宣戦布告は1894/08/01
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1894年(7月) | ロシアの圧力とイギリスによる調停 ●日本の出兵に驚いた清国や列強諸国は、日清の共同撤兵を申し入れてきた。日本は最初から、清国を軍事力で朝鮮より追い出すことが目的であったので、なんとしても出兵の口実を早急に作る必要があった。そこで日本は清国に対して、朝鮮の乱民の鎮圧を日清共同で行うことや、鎮圧後朝鮮の「内政改革」を共同で行うことを、申し入れた。 |
1894年07/23 | 日本「王宮占領」と「大院君」招聘 ●日本の大鳥公使は朝鮮王に対し「清国に撤兵を要求し、清国の宗主権を認めた条約を破棄する」ことを最後通告として要求した。 |
「日清戦争」●「平壌の戦い」(9/15)●「黄海海戦」(9/17)●「講和条約調印」(1895/04/17)
(概略)清国は、朝鮮の独立を承認し、遼東半島・台湾・澎湖島を割譲し、償金2億両(テール)を支払い、また通商上、諸列強と均等の権利を与え、また新しい開港場と開市場における日本人の工業企業権を認めた ●下のリンク先から馬関條約(下関條約)の日本文・漢文などの原本が公開されている。表紙をクリックした後「進入資料庫」へ進み日文(影像)をクリックして、1895年の項目から選択して下さい *リンクします『中華民国外交部保存之前清條約協定』 | |
1895年05月 | 「3国干渉」
それは①中国での利害の対立は、イギリスとロシアにあったこと。②両国ともヨーロッパ情勢から、単独で日清間に介入することを避けたこと。(ヨーロパでは単独行動は国際的孤立を招く恐れがあった)③ドイツは中国に利害関係を持っていなかったが、自国のヨーロッパでの露仏同盟(ロシア・フランス同盟)に対する不安から、ロシア・フランスの後押しをすることで、露仏同盟とイギリスを対抗させる狙いがあった。そしてこれにより中国への発言権も確保しようとした、ことなどである。 |
1895年10/8 | 「閔妃暗殺と日露の対立」
●この事件は『クロニック世界全史』講談社1994年刊には以下のように書かれている。 |
1896年02/11 | 「親ロシア派クーデター」「高宗」ロシア公使館へ ●朝鮮国王「高宗」と皇太子は、王宮を密かに脱出し、ロシア公使館へ移った。親ロシア派がクーデターを起こし、日本の圧力を避けて国王の身柄を移したものであった。そして高宗と親ロシア派内閣は、金宏集ら開化派の大臣の処刑を命じ、親日派を一掃した。金宏集や魚允中ら大臣たちは白昼惨殺されたという。 |
1897年10/12 | 「大韓帝国の成立」(大韓帝国皇帝高宗)
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![]() ここには17世紀以来、清の使節を「三跪九叩(さんきくこう)」してむかえた、屈辱の「迎恩門」があった。 (写真)独立門(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊) ● しかし、1898年12月高宗は、政府による皇国協会による弾圧が、双方の暴力抗争となったため、詔勅をもって独立協会を解散させ協会員を逮捕し、運動を終息させた。 |
●「明治大正財政史 第1巻 大蔵省編」から「第3節 償金の収支及運用」と「第7節 貨幣制度の改革」の1部分を引用してみる。(漢字数字をアラビア数字に直し、旧字体はなるべく新字体にした)維新以来急務であった金本位制へ移行するために、清国賠償金が大いに役立ったと書かれている。この金本位制への移行は、日本の近代化にとって最重要なものだったと思われる。
●中国や朝鮮がまだ極東世界だけに目を向けていた頃、世界は「帝国主義」の時代に突入していた。そしてヨーロッパ列強の植民地支配のやり方は、過去の重商主義の時代(武力による権力奪取や圧政による原住民の搾取)から変貌をとげ、より資本主義的な関係から実質の支配と利益を得るように変化していた。
●その具体的な方法は、現地政府やその国の有力者に借款を与えたり、民間資本を貸し付けたりして、代わりに鉄道敷設権・鉱山開発権・築港権・油田開発権などを譲渡させ、実質的な支配をしていくやり方だった。また租税徴収権などの特権を譲渡させ、現地権力者の弱みに乗じてその地域全体を従属させることも行われたのである。
●そして実際に活動するのは先進国の企業家達であり、後進国の現地で新しい企業を起こし経営し利益をあげる事こそが国家のためでもあり最大の目的でもあった。さらに19世紀後半になると富の蓄積は拡大し、新しい金融資本(銀行・保険会社・証券会社など)が誕生し、この金融資本が大規模な投資を行い、企業経営を支配していく金融資本主義の時代になっていった。そして列強の政府は、その目的のため、現地の政治情勢を安定させ、社会秩序を維持し、企業家や投資家の所有権を保護しなければならなかった。またその国の内政に干渉し、その国を植民地や保護国としまうことも相手次第で行った。また国全体ではなくても、一定の地域を「租界」や「租借地」とし領事裁判権を得て自国民を保護することも同じ目的のためであった。
●そして自国に対するナショナリズムは、資本主義を背景に国家主義につながり、積極的膨張政策を生み、さらに白人の持つ、未開種族や有色人種に対する選民意識は、他国を支配し文明化するのは使命でもあるという「帝国主義」を生み出していった。
●イギリスは最初に産業革命を起こし、19世紀後半までに最大の資本の蓄積を持った国だった。そのイギリスですら、「小英国主義」の植民地不要論を捨て、旧植民地を再編して、帝国の強化と発展に努めねばならないと、帝国主義的国家政策に転換した。1877年1月1日、イギリス・ヴィクトリア女王はインド皇帝に即位し、インド帝国が成立した。ディズレーリ首相は強力に帝国主義的外交を進めた。そして続いて、フランス・ドイツ・イタリア・ベルギー・アメリカ合衆国も、海外に資本を投下し植民地化を推進する帝国主義国家に成長していった。
●そしてその帝国主義の本質を見抜いていた思想家が日本にもいたのである。日本の幸徳秋水の「帝国主義」は、その記念碑的著述のひとつである。
●下段でアフリカの分割の一例をあげる。