(19世紀頃まで)朝鮮(朝鮮王朝成立~大韓帝国成立)日本(明治維新)

日本・中国・朝鮮

朝鮮の「鎖国攘夷」と日本の方向転換「門戸開放」。そして日本は「明治維新」へ
 最初は日本も朝鮮も、ヨーロッパ列強に対して「攘夷=外敵排斥」が国家方針であった。朝鮮は「鎖国攘夷」を徹底し、列強をも撃退することができた。だが江戸幕府は、列強との力の差と、清国の悲劇をまのあたりにして門戸開放へ方向転換を行った。一方「尊王攘夷」派であった薩摩藩と長州藩は、合同して武力によるクーデターよる「討幕」を決意した。その大義名分は「王政復古」であり、「天皇親政」であった。
●日本は、天皇制を根幹とする大日本帝国を築き上げていく。

ここでは「朝鮮の歴史(旧版1974年・新版1995年)三省堂刊」、「朝日百科・日本の歴史近代1」・朝日新聞社1989年刊などを参考とし要約・引用した。明治維新の日本史は「日本の歴史・第10巻」読売新聞社1963年第14刷から要約・引用した。日本の昭和史は「昭和2万日の全記録・第6・7巻」講談社1989・90年刊などから要約・引用した。現代史は「激動!!北朝鮮・韓国そして日本」重村智計(しげむら・としみつ)著・実業之日本社2013年刊を抜粋要約した。

年代 朝鮮王朝
14世紀
李成桂、朝鮮王朝建国する

●朝鮮王朝は李成桂(イソンゲ)が建国し(1392年)、500年以上続いた。
●李成桂は、仏教(高麗王朝)を排斥し、儒教(朱子学)を採用して国家建設を行った。(現代において、儒教の《孝を中心とする》価値観と伝統を、社会に徹底して生かしている国は、世界で韓国・北朝鮮しかない。)
左絵「李成桂」(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)』)

15世紀
世宗王による訓民正音(ハングル)の創製

● 「世宗(セジュン)王」は王朝最高の名君といわれる。最大の成果がこの「ハングル=大(ハン)+文字(クル)の意味」で(古くは諺文といった)、体系性と合理性をそなえた新しい文字であり、朝鮮独自の文字の完成である。
左「訓民正音」(出典:『朝鮮の歴史(新版)』三省堂1995年刊)
「世宗王」はハングル公布にあたり次のように述べた。
 

「国の語音が中国と異なり、文字がおたがいに通じないので、愚かな民には言いたいことがあっても、その情を十分に述べることができないものが多い。予はこれをあわれみ、新しく28文字を制定した。人々が習い易く、日用にに便ならしむるためである」

●しかし李朝時代はいぜんとして漢字が正字とされていたが、1894年の甲午改革によって公用文にも使われるようになり「国文」とよばれるようになった。

(重要語)
●世宗王による訓民正音(ハングル)の創製。「金属活字による印刷技術」「李朝実録(1706巻におよぶ膨大な歴史書)」「経国大典」
16世紀
支配階層、両班(ヤンバン・リャンバン)の登場

●両班(ヤンバン・リャンバン=高麗王朝時代からの文臣《文班》・武臣《武班》から発展)は、初期は勲旧派とよばれる両班官僚で、のちに新進官僚(科挙制度により台頭=士林派)が新勢力となった。両派は対立抗争を繰り返したが、16世紀半ばには士林派が主導権を握った。士林派の内部抗争は、党争(東人・西人・南人・北人)といわれた。
●その頃、李滉(イ・ファン)・李 珥(イ・イ)らが朝鮮朱子学を大成した。特に李滉(イ・ファン)の学説は、日本の藤原惺窩・林 羅山・山崎闇斎らに決定的な影響を与えたといわれる。
左絵「李退渓(李滉)(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)』)
●その頃の身分制度は、両班・中人・常民・賤民(奴婢と白丁)の4つに分けられていた。

16世紀
豊臣秀吉、朝鮮侵攻(1592年と1597年)

●日本の豊臣秀吉は朝鮮に侵攻(壬辰倭乱1592=文禄の役・丁酉倭乱1597=慶長の役)する。ここで活躍したのが李舜臣(イスンシン)である。亀甲船による日本水軍打破は有名。現代でも、李舜臣は国を守った英雄として尊敬されている。この時秀吉軍は、朝鮮人陶工をはじめとして、数多くの捕虜を連行した。日本の萩焼・有田焼・薩摩焼・唐津焼などは、この時最先端の技術を有する朝鮮人陶工が、技術を伝えて創始したことで有名である。秀吉の死により戦争は終結した。
(絵)「亀甲船」(出典:『朝鮮の歴史(旧版)』三省堂1974年刊)

徳川幕府と関係修復

●日本では、徳川家康は秀吉の死後ただちに朝鮮から兵を撤退させ、国内統一へ邁進した。1600年の「関ヶ原の戦い」で豊臣家との天下分け目の戦いに勝利し、1603年武家の棟梁として朝廷より「征夷大将軍」に任命され江戸幕府を開いた。特筆すべきは、「禁中並公家諸法度」で、天皇の主な職務を定め、第1条は『天子諸藝能之事、第一御學問也。・・』として、朝廷すら法的に管理したことである。また「武家諸法度」第1条で、武家は『文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事』とし、武家のあるべき形も示したことである。
●儒教(朱子学)の林羅山(道春)は、藤原惺窩の推挙を受け、23歳の若さで家康のブレーンの一人となった。朱子学は江戸幕府の正学とされた。

*リンクします「三徳抄」林道春 国民思想叢書・ 儒教篇 1929-1931刊→国立国会図書館デジタルコレクション
●下の絵は、17世紀に描かれた「江戸図屏風」の一部を、切り取り合成した参考図。「朝鮮通信使」の一行が、江戸城正面・大手門に描かれている。
●この画像は、マウスホイールで拡大・縮小・移動ができる。この画像操作は「Wheelzoom」jsにより行っている。
jacklmoore氏のサイトを参照してください。
「江戸図屏風」

江戸図屏風


●この「江戸図屏風」は『江戸時代初期の江戸市街地および近郊の景観を画題として、そのなかに江戸幕府第三代将軍徳川家光の事蹟を描き込んだ、六曲一双の屏風。(=国立歴史民俗博物館)』とあります。このなかには明暦3年(1657年)の大火で焼け落ちた江戸城天守が描かれていて、その江戸城大手門には、登城する「朝鮮通信使」の一行が描かれている。この図では、正使・副使とおぼしき人物は輿に乗り、従者に天蓋様の長柄の傘をさしかけさせ、まだ大手門へ向かう城外にいる。先行する先頭集団は大手三之門前に達し、橋前には4人が並んで、竿頭に矛のついた旌旗を押し立てている。また濠端には虎皮その他獣皮類など献上品が並んでいる。豊臣秀吉の朝鮮侵攻の後、難航していた日朝の修好が、徳川家康によって関係が修復されていったことを象徴している。(出典:「江戸図屏風」平凡社1971年刊と「江戸図屏風」国立歴史民俗博物館)

*リンクします「江戸図屏風」→「国立歴史民俗博物館」
年代 朝鮮王朝
17世紀
朝鮮通信使

●徳川幕府との友好(朝鮮通信使)。朝鮮王朝と徳川幕府(家康)のあいだに立った対馬藩は、国書を偽造してまで国交回復を望んだ。1607年の第1回目は回答兼刷還使といい、日本からの要請に答え(=回答)、捕虜として連行された朝鮮人を連れ戻す(=刷還)というものであった。その後通信使と名称を変え、1811年まで計12回行われた。絵「朝鮮通信使」「使節の人員は300~500人にのぼり、朝鮮側・日本側とも多大の経費と労力をかけて準備と接待にあたった。日本各地には通信使に縁のある書籍、芸能、絵画などが残されており、使節が両国文化交流の上で大きな役割を果たしたことを示している。」(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)

1637年
朝鮮、清の藩属国(属国・保護国)となる

●朝鮮は清に降伏し臣従する(1637年)。後金は清(しん)と国号を改め、朝鮮に対して藩属国(属国・保護国)となることを要求、戦争となり朝鮮は、ソウルにまで進攻され降伏した。しかし朝鮮の知識人の間では、清が支配する中国はもはや文明国ではなく、朝鮮のみが中華文明の継承者であるとする小中華思想を持つようになった。政権内部では党争が激化し、南人・西人の間での政権交代は終わり、西人の分派である老論と少論が対立抗争を行うようになった。

(日本と朝鮮の封建支配の違い)日本は「武」を根拠とする分権的(藩)な支配。朝鮮は「文」を根拠とする「両班」官僚による中央集権的支配。そのため朝鮮では、朱子学の解釈をめぐる学説の違いが「党争」となり権力争いとなった。
18世紀
「蕩平策」の実施(各党派を公平に登用して対立を調停する政策)

●朝鮮では、老論と少論の対立抗争は続き、政局は安定しなかった。彼らは、南部三道での凶慌や流民の増加による地方の混乱を収拾できなかった。そこで王である「英祖」は、「蕩平策」をとり蕩平政権を成立させたが、1728年には清州(チョンジュ)で反乱(戊申乱)も起こった。改革として「均役法」が実施されたが、王権内部では外戚による対立も始まった。1777年には「正祖」が即位し、商業における自由売買を「辛亥通共」で定めた。

両班人口急増

●地方社会では大きな身分制度の変動が起きた。両班人口が急増し、常民と奴婢人口が急減したことである。「一例・慶尚道大丘府の場合、17世紀後半に戸数の9%だった両班戸が、19世紀半ばには70%を占め、常民戸(54%→28%)と奴婢戸(37%→2%)は急激な減少を示した。」
絵「両班と農民(当時の風俗画)」(出典:『朝鮮の歴史(旧版)』三省堂1974年刊)


●実学派朴趾源の風刺小説『両班伝』のあらすじの一部

・・・巨富を蓄えた商人が、それでもサンノム(良人)の身分では、みちで両班に行き会うたびに土下座しなければならないことをくやしく思い、巨額の金を出して『族譜』(チョクポ)を買い、両班の仲間入りをするが、いざ両班になってみると、いつも両班らしくしかめつらして書物を読んだりしていなければならず、自由に笑ったり怒ったり人間的に生活することをもできないことがわかり、「こんな馬鹿げたことはない」と、せっかく買った両班の位を返上してサンノムにもどる・・

(出典:『朝鮮の歴史(旧版)』三省堂1974年刊)

両班(支配階級)

●この両班(ヤンバン・リャンバン)の住まいの写真と達城徐氏の『族譜』の写真を、「近世朝鮮の農村社会と人」『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊より載せる。またその中の「住民と血縁」には、以下のように書かれている。

●支配階層である両班たちにとって重要なものは血縁関係である。父方の祖先(始祖)を同じくする人々の集団を同本同姓と称して、広い意味での同族と考えているが、これが両班たちのアイデンティティーの中核をなしていた。朝鮮王室の一族である全州李氏といえば、全州を始祖の出身地(本貫)とし、李を姓とする同族ということになる。全州李氏の始祖李翰は新羅の地方官僚だったとされるように、同本同姓集団の始祖はおおむね新羅から高麗初期にまでさかのぼる長い歴史をもっている。同本同姓は『族譜』をつくって結束を固め、さらに一族のなかでの自分の位置を確認していた。両班は同族が集まって居住することが多く、同族集落の存在が朝鮮農村のひとつの特徴となっている。同族の力によって地域の支配権をとるためである。
これに対して常民の多くや奴婢たちはもともと本貫や姓をもっていなかった。しかし朝鮮時代後期の身分変動によって、奴婢が常民に、さらに常民が両班へと身分上昇していく過程で、いつのまにか彼らも本貫と姓をもって同本同姓集団の中に入り込み、『族譜』にも記載されるようになる。こうして社会全体の両班化がおきてくる。

●両班の邸宅の写真と『族譜』

(上写真)左・両班の邸宅。中・一般農民の茅葺屋根の家屋。右・達城徐氏『族譜』の例。
出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)

19世紀
勢道政治(王妃を出した一族が政権独占)

●18世紀末から19世紀にかけては、王妃を出した一族が外戚となって有力両班家門となり、政権独占を行うようになった。これを「勢道政治」といった。19世紀中葉には安東金氏による勢道政治が大きな実権を握った。これに対して、政権から排除された両班層や王族の不満は高まって行った。また良民に対する収奪の強化は、民衆の反発を生み、逃亡や蜂起が起き始めていた。さらに国内の不安定化に拍車をかけたのが、西洋列強による圧力である。アヘン戦争後の南京条約(1842年=イギリス)による中国の開港(香港の割譲など含む)、日本の開港(1854年=アメリカ・ペリー)などにより、朝鮮だけが鎖国を続けていくことは困難な状況となっていった。(日本は、朝鮮王朝、琉球、中国、オランダと通信・通商関係にあった。)

日本は戊辰戦争から明治維新(江戸幕府倒壊)へ進む

●日本では、1854年ペリーと日米和親条約を結んだ後、1857年アメリカ・ハリスと下田条約(領事裁判権などを認めた)を結び、さらに1858年日米修好通商条約(治外法権や関税など不平等条約)を結んだ。これを機に、攘夷運動と幕府に対する批判は激しくなった。
●そこで大老・井伊直弼は、反対派の水戸藩(徳川御三家)の藩主徳川斉昭らを、謹慎処分にし統制を強化した。しかし朝廷に許可を得ずに外国と条約を結んだことから、さらに尊皇攘夷運動は激しさを増した。そこで幕府は「安政の大獄」(1858年)で吉田松陰、橋本左内など指導的な人々を弾圧・処刑した。このことがさらに倒幕運動を激化させ、1860年「桜田門外の変」で大老・井伊直弼は暗殺された。こうして日本では、史上最大の内戦が起こり、薩摩藩と長州藩を中心として天皇を抱く新政府軍(イギリスが援助)が、旧幕府軍(徳川)を戊辰戦争(1868-1869年)で破り新政権を樹立した。これが明治維新の始まりである。

19世紀
1863年
大院君(テウォングン)政権の成立

●朝鮮王朝26代の王高宗(コジョン=在位1863-1907)の生父・興宣(フンソン)大院君(テウォングン)李是応(イハウン)が10年間(1863年~1873年)実権を握った。そして次のような政策を行った。
①安東金氏の勢道政治を打破し王権を強化した。
②朱子学以外の学問宗教を弾圧した。1864年東学教祖崔済愚を処刑。1866年天主教(カトリック)フランス人神父9名を含む多数の教徒を処刑。
③鎖国攘夷の徹底。1866年のフランス艦隊(フランス人神父事件の報復)との交戦撃退、アメリカ・シャーマン号焼き討ち事件、1871年アメリカ艦隊江華島交戦事件(辛未洋擾)などがあげられる。

●そして大院君は、鎖国攘夷を象徴する斥和碑を、全国の要所に建てた。その碑には次のように彫られている。
(斥和碑)「洋夷侵犯 非戦則和 主和売国=(洋夷が侵犯するのに、戦うにあらざれば、則《すなわち》和すことであり、和を主張するのは売国である)戒我万年子孫=(我が万年の子孫に戒める)・・」
●そんな中で朝鮮王朝は、日本の開港と急速な西洋文化摂取の動きに対して警戒心を抱くようになった。言いかえれば朝鮮王朝としては、武力で江戸幕府を倒し外交文書の慣例を無視し(正統性に欠ける)、西洋文明に門戸を開いた(洋夷に和した)日本の新政府とは、当然ながら交流するつもりはなかったのであろう。そんな鎖国排外政策のなかで排日行為がさかんになり、1873年5月釜山の日本公館に対する食料支給拒否や、日本人商人取締や日本人排斥の通告が行われた。これが征韓論復活の材料を日本に与えた。


左各写真(出典:『朝鮮の歴史(新版)』三省堂1995年刊)

日本の明治維新(国内統一と富国強兵)

●同時期の日本は明治維新の激動期にあたる。明治政府の「征韓論」については、1873年10月の政変で、留守政府主役であり「征韓論」を強く主張した西郷隆盛らが政権を去った。しかしこの「征韓論」は、外交政策の論争ではなく、統一国家と「富国強兵」の実現のために、不満を持つ士族階級と人心を外に向かわせるための手段であったとも言える。なぜなら、この後実権を握った「征韓論」反対派であった大久保利通らの新政府も、1874年に初の海外派兵・台湾出兵(=西郷従道の独断専行と評価されている)を行ったことに現れている。明治政府の事実上の中心となった大久保利通は、次のように言った。

「富国強兵をなしとげるためには、どうしても近代的な産業をおこさなくてはならない。また現在、日本の貿易は外国の商人によって支配されているが、もっと日本人による商業貿易をさかんにして、外国商人の支配をなくさなくてはいけない。しかしこれらのことを実現するためには、民間の自主的な努力にのみまかせておくわけにはいかない。どうしても政府が強力な指導と保護をあたえなくてはならない」

激動の10年間(1877年頃まで)の主な出来事は以下のようである。「御一新」と呼ばれた。

日本・明治維新
1868年~
「王政復古の大号令」「五か条の誓文」「神仏分離令」「廃仏毀釈」

●「五か条の誓文」

一、広ク会議ヲ興(おこ)シ、万機公論(ばんきこうろん)ニ決スベシ。

一、上下(しょうか)心ヲ一(いつ)ニシテ、盛(さかん)ニ経綸(けいりん)ヲ行ウベシ。

一、官武一途庶民(かんぶいっとしょみん)ニ至ル迄、各々(おのおの)其(その)志(こころざし)ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦(う)マザラシメン事ヲ要ス。

一、旧来(きゅうらい)ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道ニ基(もとづ)クベシ。

一、知識ヲ世界ニ求メ、大(おほい)ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スベシ。

●新政府は、王政復古の方針のなかで、祭政一致を目的に、神祇官を再興し、仏教を排斥しようとした。この思想的な背景は、藤田幽谷・藤田東湖・会沢正志斎の後期水戸学や、平田篤胤の平田派であったが、結局実務を担って行けたのは、津和野・大国隆正の国学派亀井茲監や福羽美静であった。当初明治政府の国学派グループは、神祇官(じんぎかん)を再興して祭政一致の制度を実現しようと神道国教化を目指した。しかし平田派の神秘主義的な思想は、さすがに近代化を目指す新政府には、受け入れられなかった。新政府は、富国強兵と近代国家の樹立の為、政教分離と信教の自由をみとめ、キリスト教解禁も西洋諸国からの圧力により認めた。しかし神仏分離令は、江戸時代に権勢を誇った仏教界(檀家制度)に大きなダメージを与えた「廃仏毀釈」運動。

1868年
藩兵の処遇

●戊辰戦争の奥羽での戦闘が終わると、中央政府や各藩は、凱旋してくる藩兵の仕末に頭を悩ました。中央政府にとっては、藩に兵力が戻ることにより政府に反抗するのではないかという恐れ、また藩にとっては藩兵がもはや藩の統制に服さないのではないかという恐れであった。そこで廃藩のまえおきとして「版籍奉還」が必要となった。

1869年(正月より)
「版籍奉還」版=領地、籍=領民

●中央政府(特に木戸孝允)は、大名が土地と人民を朝廷に返す形をとることが、諸藩の統制に必要と考えた。そこで薩長土肥の4藩が、率先して版籍奉還を願う建白書を提出した。4月までには大きな藩のほとんどが建白書を提出した。旧藩主は藩知事となった。

1869年(5月)
「戊辰戦争」終結

●最後まで抵抗を続けた榎本武揚・土方歳三らは、北海道・箱館五稜郭で独立(蝦夷共和国)を宣言したが、戦闘の末無条件降伏した。

~1870年
政府による「藩の改革」

●新政府は、藩士(武士階級)の家格(一門から平武士にいたるまで10以上の階層に分かれていた)の区別を廃止して、士族と卒族の2階級とした(大久保利通の立案とされる)。また地方知行は廃止され、俸禄は米で渡されるようにした。中央政府にとって、戊辰戦争で倒幕を成功させた士族階級は、逆に新体制にとって重荷となり、近代的軍隊組織にとっても古い存在になっていた。

1870年~
新政府「官営模範工場・富岡製糸工場」等の設立を行う

●明治初期の官営事業は、軍事工業(例:横須賀海軍工廠など)・一般工業、模範工場、農林・牧畜業、鉱山など全てにわたった。
●「おやとい外国人」・・富岡製糸工場では、大蔵少輔伊藤博文や事務主任渋沢栄一らが中心となり、フランス人技師を雇い入れ、フランスからそっくり購入して官営模範工場を造り上げた。この工場の寄宿工女の40%は士族出身者であり、1876年までに2000人の工女が教育され、各地に戻って新技術を伝えた。これらの工女が器械製糸の発展につくした役割は大きい。
●「海外留学」・・官学卒業生の中から選ばれた俊才達は、海外留学帰国後の官界での出世を約束されて、懸命に欧米の行政知識や学問を吸収して、国家に尽くした。
●「おやとい外国人」の一例。
クラーク(札幌農学校)、コンドル(建築)、キヨソネ(大蔵省印刷局)、ボアソナード(民法)、ワグネル(化学)、モレー(学校制度)など1877年までに180人が日本の文明開化に貢献した。

*リンクします群馬県富岡市富岡「官営模範工場」「富岡製糸場」
1869年~1870年
「農民闘争」百姓一揆や打ちこわし

●「諸隊の反乱」長州藩の脱隊騒動。
●養蚕・製糸業のさかんな信州では、この2年間で10数件の百姓一揆が起きた。松代藩では1870年、年貢の高を金高に換算する率を、農民の要求通りするように主張し一揆を起こした。これに対し藩知事は要求を認めたが、中央政府は認めずこれを弾圧し処罰・処刑した。これを機に中央政府は、全国統一税制の実施に向かった。
●倒幕の中心勢力であった長州藩で諸隊兵の反乱が起きた。これは藩士の家禄の削減や兵制改革の不満、軍隊での上級幹部と平兵士の対立などがあった。そしてさらに庄屋の不正や重い貢祖に反対する農民などが絡み合い大騒動になった。また九州日田県では、長州藩からの脱走兵士や草莽層が農民と結合して大事件となった。これらの事件によっても、中央政府は藩が分立する体制をなくす「廃藩置県」の必要性を強く意識した。

1871年
「日清修好条規」調印

●この発効は1973年。当初日本は、欧米諸国と清との不平等条約と同様な内容で交渉したが、清に拒絶された。そこで相互の領事裁判権を持つ内容で締結した。しかし日本は、朝鮮の宗主国(他国の内治・外交を管理する権力を持つ国)である清に対して対等以上であることを望み、それにより朝鮮に対して支配力を強めようとした。1873年清に渡っていた外務卿副島種臣は、清の皇帝に対して「三跪九叩(さんきくこう)」を拒絶し、3回の最敬礼(立礼)ですまし、日本の国威を示した。(1816年イギリスのアマーストもこれを拒絶している)
●上「三跪九叩」の図。臣下が中国の皇帝に拝謁するときの礼。1度ひざまずいて3回頭を床に叩きつけ、たちあがって、またひざまずき、3回頭を叩きつける。これを3度くりかえす。(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)

1871年(7月)
新政府「廃藩置県」を断行

●天皇は在京の諸藩知事を召集して、藩を廃し県を置く旨の詔書をつたえた。「廃藩置県」である。藩知事は、家禄と華族の身分が保障され、東京に居を移された。また諸藩の年貢は政府が一手に収めたが、藩の持っていた多額の借金を政府が肩代わりした。廃藩は藩主にとって、決して悪い取引ではなかった。しかしそのしわ寄せを受けたのは、下級藩士だった。

1871年(11月)~1873年(9月)
「岩倉使節団」欧米へ出発

●ここで注目すべきは、使節団と留守政府の顔ぶれである。使節団は、岩倉具視(特命全権大使)・木戸孝允(=桂小五郎)・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳らと、各省のえり抜きを加えていた。
●留守政府は、太政大臣・三条実美を西郷隆盛・板垣退助が輔佐し、大規模な改革をしない約束で使節団は出発した。そして西郷・板垣・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らが実権を握った。木戸系の大蔵大輔・井上馨は江藤とぶつかり辞職し、陸軍大輔・山県有朋は御用商人との癒着問題で江藤に追求され、留守政府は、いわゆる「征韓派」で占められていた。
(写真)岩倉使節団サンフランシスコで撮影。左から、木戸(副使)・山口(外務少輔)・岩倉(和服にちょんまげ、靴)・伊藤(工部大輔)・大久保(大蔵卿)出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)

1872年
「壬申戸籍」

●壬申戸籍は、身分制度別による戸籍ではなく、屋敷・家屋単位の戸籍であった。平民も苗字を名乗ることを許されていたが、この壬申戸籍の届け出の時に、苗字をつける者が多かったと言われる。しかしスローガンでは「四民平等」とはいっても、実際は支配階級(皇族・華族・士族)と平民に分かれており、第2次世界大戦後の日本国憲法制定まで続いた。この士族(新たに天皇の官吏・軍人がなった)は「官尊民卑」の風潮を社会に今なお残している。そして最下層には「えた」「非人」がいたが平民とされ差別の撤廃がはかられた。

1872年~1876年
●福沢諭吉「学問のすすめ」「文明論之概略」など

●「明六社」結成(1873年)福沢諭吉・西周・津田正道・中村敬宇・加藤弘之・森有礼・神田孝平・箕作麟祥・西村茂樹ら啓蒙思想家達が作った。
●新聞の発行「横浜毎日新聞(1870年)」「郵便報知新聞」など。
●福沢諭吉は「三田の文部省」といわれ、彼の思想は文部省に大きな影響力を与えた。儒教の教養でも、大教宣布の詔「=1870年に出された詔書で、 天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を祭政一致の国家とする国家方針=」でも、富国強兵の実現には役に立たないことははっきりしていた。政府は、それよりも福沢の説く「実学」の実現のため「学制を発布」した(全国学区ごとに小学校・中学校・大学を置くもの)。そして「村に不学の家なし」と義務教育制をしいた。
●「学問すすめ(初編)」福沢諭吉著(一部引用)

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、萬人(ばんにん=多くの人・すべての人)は萬人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、萬物の霊たる身と心との働を以て天地の間にあるよろづの物を資(と)り、以て衣食住の用を達し、自由自在、互に人の妨(さまたげ)をなさずして各(おのおの)安樂に此(この)世を渡らしめ給ふの趣意(しゅい=意見・意味)なり。

下

*リンクします「学問のすすめ」→国立国会図書館デジタルコレクション
*「福沢全集. 巻3『文明論之概略』」福沢諭吉著 時事新報社1898年刊
国立国会図書館デジタルコレクション
1873年
「徴兵令の発布」

●徴兵は3年間の兵役義務であったが、発布早々(兵役を血税と表現したことや、働き手をとられることなど)民衆の激しい反対にあった。正式な徴兵免除者は、壬申戸籍の戸主と跡継ぎ、官公吏、代人料支払者などであった。そのため徴兵のがれも多く、また武士(藩士)でない民衆軍隊(国民皆兵)の質に対する批判も多く、徴兵制自体の危機をむかえた。

●しかし1877年の西南戦争で、「土百姓兵」とよばれた徴兵軍隊が薩摩士族(西郷軍)を破ったことで、批判は消えた。(しかし、この国民皆兵である徴兵制を計画した大村益次郎は、1869年反対する同じ長州藩士によって襲われそれがもとで死亡した)
(左上・イラスト徴兵令発布)張り紙に、「血税というのは自分の生血で国に報ずること」とある。(左下・徴兵のがれのパンフレット)飛ぶように売れたという。出典:『幕末の素顔』毎日新聞社1970年刊)
1873年
「地租改正」

●この改正は、各藩まちまちな年貢を、統一された地租にすることが目的だった。そのため、米(農作物)ではなく現金で税金を収めること、そのために農民は農作物を自由に栽培できるようにしたこと、また土地売買の禁止を廃止し、地券を持つものが土地の所有者となり税金を払うことにしたことなどが定められた。重要なことは、今まで税率を収穫高の%で決めていたことを、農地の値段(地価)の%で決めて定率としたことであった。
●しかしこれは重税となったため農民一揆も多発した。(1873年の最大の農民一揆は福岡県で、約30万人の農民が徴兵反対・学校設置反対などの要求をかかげ9日間にわたって立ち上がった)また貨幣経済の浸透していない農村では、米の現金化などはできようがなく、実際は大商人が米を買い取り、税金を代わりに収め、差額を利益として儲けた。また当時の公金は、各官庁がそれぞれ出入りの商人に任せていたため、公金を自分の事業に投資して大きな利益をあげるものもいた。特に戊辰戦争のときに御用金をさしだし政府と深い関係をもった三井・小野・島田らの大商人達は、大蔵省をはじめとして手広く官金の出納事務を取り扱った。

1873年
征韓論と岩倉使節団帰国そして政変

●西郷隆盛は岩倉・大久保らが帰国する前に朝鮮使節派遣を決め、自身が大使になることで朝鮮へ赴き、戦端を開くつもりでいた。そして太政大臣・三条実美に決定を迫り、ついに同意を得て大使派遣を決定した。三条は天皇に裁可を求めたが、天皇は岩倉具視の帰国(9月)を待って裁断することとした。西郷は決まったことに喜んでいたが、帰国した岩倉らは反対で、大久保利通を参議に就任させて、留守政府の決定を覆そうとした。大久保は会議の席上次のように主張した。

「外征をおこせば、かならず重税・外債・紙幣乱発となって、大変な災いとなる。少し待って、先に国内産業を起こし、武器・軍艦を整えるべき」

しかし認められなかったので、大久保・木戸・大木・大隈らはそろって辞表を提出した。太政大臣・三条実美は両派の間に入って心痛のあまり病気となってしまった。そこで大久保は、岩倉具視を太政大臣代理に任命するように画策して、最終的に天皇の採決を朝鮮使節派遣反対に導いた。ここに征韓派の敗北は定まり、留守政府主役であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らは辞職し、同時に賛同していた官僚、軍人達も政権を去った。(10月)

1873年
「大久保利通による官僚制度の確立と改革」

●大久保は、参議が卿(各省の行政長官)を兼任することで、各省を監督させるようにした。また内務省を創設して卿につき、全国の警察権をにぎった。東京の警視庁には、川路利良を大警視に任じた。内務省は、行政警察・新聞雑志の発禁の権・府県への指導・殖産興業の農政関係など、国内政治の中枢をにぎった。警官には、最初3000人の内2000人を薩摩士族から採用した。警察の目的は、政治警察が目的であり、政治運動や思想弾圧の基礎がこのときにできた。大久保利通は西郷らの辞職の後、伊藤博文・勝海舟・寺島宗則らを参事に任じた。(10月)

1874年(1月)
「民選議院設立の建白」

●辞職した参議、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと、由利公正・岡本健三郎・古沢滋・小室信夫らの士族出身のインテリを加えた8名が、連名で「左院」に建白した。この議会の開設を要求する運動は、後に「自由民権運動」として日本全国に広がっていく。民選議院設立の建白の草案の最後部分を引用した。

民選議院設立の建白の草案
「民撰議院設立建白草稿(三種)」
「・・・臣等既に已に今日我国民撰議院を立てすんはある可からさる所以、及ひ今日我国人民進歩の度能く斯議院を立るに堪る事を弁論する者は、則有司の之を拒む者をして口に藉する所なからしめんとに非す、斯議院を立る、天下の公論を伸張し、人民の通義権利を立て、天下の元気を鼓舞し、以て上下親近し、君臣相愛し、我帝国を維持振起し、幸福安全を保護せん事を欲して也、請幸ひに之を択ひ玉はん事を。」(出典:「民撰議院設立建白草稿(三種)」国会図書館・資料にみる日本の近代)

*リンクします「民撰議院設立建白草稿(三種)」猊剌屈社編『日新真事誌』(1874.1.18)掲載
「国会図書館・資料にみる日本の近代」
*リンクします「自由党史. 上 p78~p81」宇田友猪, 和田三郎 共編 五車楼 1910刊
国立国会図書館デジタルコレクション
1874年
「士族による反乱」

●(1月)「岩倉具視暗殺未遂事件」高知県士族武市熊吉ら9人による赤坂での事件。
(2月)「佐賀の乱」江藤新平を中心に不平士族が挙兵し県庁をおとしいれたが、大久保利通みずから全権をおびて、鎮台兵の出兵によって鎮圧した。江藤は軍律によって処刑され、さらし首にされた。(ネットで検索するとその写真がある)

1874年(5月)
初の海外派兵(台湾出兵)

●政府は大久保と大隈の主張により、1872年に起きた台湾の原住民による漂着琉球人(沖縄人)殺害事件を口実に、台湾出兵を決定した。(アメリカの後押しもあった)しかしイギリスは、清国がこれを「侵略」と見なせば、イギリス船の参加を禁止する通告をしてきた。そしてアメリカも中立を宣言したため、政府は台湾出兵を中止した。
●しかし西郷従道(隆盛の弟)は独断専行で台湾出兵を決行した。(政府は岩崎弥太郎が創設した三菱に台湾出兵の軍事輸送を行わせ、巨大な利益を与えた。その後ばくだいな補助金を与え、上海や釜山の航路を開かせ、三菱は日本の海運業を支配するようになった。当時東洋の航路を独占していたのは、アメリカ・イギリスの船会社だった。)この台湾出兵は清国の非難することとなり、大久保利通はみずから全権弁理大使となり清国との交渉にあたった。イギリスは仲介に入り、日本は台湾より朝鮮に向かうなら援助するとそそのかした。清国との交渉では、日本は償金と琉球領有を黙認させて撤退した(10月)。

1875年(5月)
「樺太・千島交換条約」

●1870年樺太開拓使次官黒田清隆は、樺太を放棄し北海道開拓に専念すべしと主張していた。イギリス・アメリカは、ロシアの南下を阻止する目的があったが、日本の樺太経営の能力がないことを見て、樺太の放棄と北海道確保に専念することを勧告した。そして日本はロシアと樺太・千島交換条約を結んだ。小笠原諸島についてはペリーの領有宣言があり、日本も領有権を主張しなかったが、アメリカはイギリスに対抗するため、日本の領有を認めた。

1875年(7月)~1879年(3月)
日本新政府、琉球王国を滅ぼす「琉球処分」

●沖縄では15世紀以来尚巴志による琉球王国が、北は奄美大島まで統一していた。そして中継貿易によって栄えていたが、ポルトガルの進出によりその貿易の基盤を失い、日本(薩摩藩)と中国両方に朝貢する形(両属)となってしまった。1872年に、琉球藩とされたが、政府は1875年7月琉球藩に対して、清への主従関係を廃止するように命令した。しかし命令に従わなかったため、1879年3月首里城に軍事力をもって廃藩処分を行い、沖縄県を設置した。藩主(国王)は華族に列せられ後に侯爵となったが、ここに琉球王国は滅びた。
図「進貢船の図」明(又は清)へ行く使節一行を福州まで乗せていく船(出典:『海上の道』-沖縄の歴史と文化-読売新聞社1992年刊)

1875年(2月)
「大阪会議」

●木戸孝允は台湾出兵に反対して1874年(5月)辞職した。同時に薩摩の島津久光(西郷や大久保の薩摩元藩主)が大久保・大隈に対する排斥運動を起こした。また自由民権運動も全国的な展開に発展しそうになり、大久保は苦境に立ち、事態収拾のため大阪会議を開いた。そして大久保利通・木戸孝允・板垣退助・伊藤博文・井上馨ら5人が会談して事態を収拾させた。これは大久保の専制主義が、立憲政体論に対して示した妥協であって、木戸・板垣の協調をはかったものにすぎなかった。

1875年(9月)
「江華島事件」

●日本政府は、朝鮮王室の内紛(大院君追放、閔氏政権成立)につけこんで、1875年5月軍艦雲揚号を派遣し、9月には江華島付近に侵入し示威行動を起こした。これに対して朝鮮側は砲撃を行い交戦となった。
●1876年2月には、日本は開戦も辞さずという方針で、6隻の艦隊を派遣(黒田清隆)し、ついに「日朝修好条規」を締結させ朝鮮を開港させた。これは、ペリーの開港をまね、アメリカに了解をもとめて実行した。

1876年
「廃刀令」「家禄制度の廃止(秩禄処分)」

●「廃刀令」は大礼服(最上礼服)着用者、軍及び警察以外に刀を身に付けることを禁じたもので、武士の特権と身分を完全に否定したものだった。
●「家禄制度の廃止」は、華族と士族に対して、家禄の支給を廃止し、金禄公債を交付したもの。これにより公債金額に大きな格差が生じ、官吏になれない下級武士はみじめで、「武士の商法」といわれ失敗したものが大部分であった。これもまた武士の特権を否定するものであった。1880年の中央・地方官吏の74%は士族であったが、官吏になれたのは全士族戸数40万戸のうちの1割といわれるので、残りの9割が農工商その他へ転身していった。

1876年
士族の反乱と農民一揆

●(10月)熊本神風連の乱。
●(10月)福岡県秋月の乱。
●(10月)萩の乱(元参議・松下村塾出身・長州藩士)の前原一誠は1870年に木戸孝允と衝突して参議をやめ、郷里の萩に帰り一派をなしていた。前原一誠は次のように言った。

「そもそもわが百万の士族になんの罪かある。政府果たしてこの心をもって士族を制馭(せいぎょ)せば、かならず天下の大乱を醸(かも)さん」

●75年末~76年「農民大一揆」鳥取・茨城・愛知・三重・和歌山・岐阜などで前例の無いほどの大一揆が発生した。農民一揆にたいしては木戸は次のように手紙に書いている。

「良民に災難をかける士族の暴動にたいしては、鉄火をもって十二分に圧倒せよ。しかし人民が生活に苦しみ、やむをえずおこす一揆にたいしては、鉄砲をもって制御してはならぬ」

●1877年大久保・木戸は、地価の3%という地租の率を2.5%に引き下げ、地方税の率も、地租の1/3から1/5に下げた。農民には一時のアメを与えながら、全力のムチを士族暴動に加えた。

1877年(1月)
「西南戦争」勃発、士族最後の反乱

●1873年10月の政変で西郷隆盛は下野し、郷里鹿児島に帰り私学校を開いた。この西郷の私学校は、士族の子弟を中心に教育をほどこし県内に136の分校をもうけた。そして県の吏員から警察官にいたるまで私学校のメンバーを任用し、県庁と私学校は一体となって県政を支配した。そして私学校自体がひとつの兵団とみられような軍事組織をもっていた。また鹿児島では秩禄処分や地租改正も行われず、中央政府の命令が行き渡らない、まるで独立国・西郷王国と化していた。そんななか陸軍省は、鹿児島に貯蔵していた兵器・弾薬を大阪に移動しようとした。1877年1月29日、このことに反発した私学校党が火薬局と海軍省の造船所を襲い、運搬中の武器弾薬を略奪した。1877年2月、ここでついに決起をもとめられた西郷隆盛が、1万2千人の兵力で挙兵し熊本に向かった。大山県令は、

政府に尋問の筋があって、西郷大将が旧兵隊を従えて上京する

と通告し、兵を集める檄をとばし、途中九州各地の士族を加え総兵力3万人をこえた。
●2月19日政府は征討の方針をとり、鹿児島賊徒征討の詔を出した。ここに西郷軍は賊軍となった。熊本城の鎮台司令官谷干城は、かっての神風連のにがい経験から、防備を厳重にし堅く守った(籠城50日間)。「土百姓」の鎮台兵と甘く見た西郷軍は、結局敗戦し西郷は城山で自刃した。この西南戦争は、政府の強大な常備軍と警察力に対する武力反抗は無効であることを証明した。
熊本城1870年の写真。(出典:『百年前の日本』モースコレクション/写真編・小学館1983年刊)

1877年~78年
「維新三傑の死」

●西郷隆盛(1877年9月西南戦争で敗戦自刃・51歳)
●木戸孝允(1877年5月西南戦争のさなか明治政府と西郷両方を案じながら病死・45歳)
●大久保利通(1878年5月東京麹町で、元陸軍将校で征韓派島田一郎らに暗殺・49歳)
この3人の死により明治政府の最高指導部は交代し、岩倉具視を看板に、伊藤博文・山県有朋らが中心となっていった。

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日本・明治新政府の経済・財政・金融政策

●新政府の行った各種政策は、経済・財政・金融上の課題・問題を理解しないと、本当の意味はわからない。戊辰戦争、西南戦争の費用をはじめ、旧藩の債務(家禄を含む)の肩代わりは、莫大な費用がかかり、また同時に諸外国から導入した技術移植・官営工場・運輸・通信など産業基盤の整備にも莫大な費用がかかった。新政府にとって、封建制度撤廃、資金の創出、安定した通貨・金融制度、殖産興業など課題は山積していた。また士族階級の反乱や民選議院設立運動・自由民権運動・武装蜂起勃発など、政治的な問題も社会を揺るがしたが、文明開化・富国強兵は政治論だけでは達成できるはずもなかった。大隈重信・伊藤博文・井上馨・渋沢栄一・松方正義らの経済政策は、現代にまで続く日本の経済構造の基盤を作ったといえる。
「明治財政史。第1巻」から緒言(明治23年頃までの部分)を引用し(ポイントを赤字にし、カタカナをひらがなに、読点・句読点を入れ、旧字体はなるべく新字体にした)、「日本銀行 百年史」などからその内容を簡単に書き出してみる。

下

朝鮮王朝
1873年~
「大院君追放と閔氏政権」

●1873年朝鮮では、大院君に対して両班層の不満が高まり政変が起きた。大院君を追放し、国王高宗の親政がはじまり、閔升鎬(ミンスンホ)を中心に王妃の閔氏一族が政権の中枢を占めた。1874年に日本の台湾出兵の報が伝わると、開国の主張も起こり閔氏政権は妥協をはかり、日本との交渉が再開されていった。

1876年
「日朝修好条規(江華条約)締結」

●1875年9月、日本軍艦「雲揚号」は朝鮮の首都漢城(ソウル)の表玄関である「江華島」で示威行動を行い、朝鮮側・草芝鎮砲台と交戦し江華島事件を起こした。当然ながら日本は、欧米諸国の軍事的威嚇行動(アメリカのペリー)をまねし実行したものだった。そして翌1876年2月開国を強要するため、特命全権大使(黒田清隆)を6隻の軍艦と共に派遣し、江華島へ乗り込ませた。これに対し朝鮮政府は、交渉を有利に進めようとしたが日本側の威嚇行動に屈し、不平等条約である「日朝修好条規」締結を余儀なくされた。
●下の条規にある『朝鮮国は⾃主の邦にして⽇本国と平等の権を保有せり』とあるのは、朝鮮は清国の属国・保護国ではなく独立国なのであるから、日本は清国に対して、朝鮮と条約を結べるのだと宣言して、朝鮮に足がかりを得ようとしたものであろう。この条約により、釜山開港は1876年、元山(ウォンサン)開港は1880年、仁川(インチョン)開港は1883年だった。
●この「日朝修好条規」第1款(かん)は次のようである。(カタカナをひらがなにし、濁点、句読点を追加し、ふりがなを追加した)

第1款
朝鮮国は⾃主の邦にして⽇本国と平等の権を保有せり。嗣後(しご=以後)両国和親の実を表せんと欲するには、彼此(ひし=あちらとこちら)互に同等の礼儀を以て相接待し、毫(いささか)も侵越(=おかす)猜嫌(=そねみきらう)する事あるべからず。先づ従前(じゅうぜん=今まで)交情(こうじょう=交際のよしみ)阻塞(=ふさぎとめる)の患(=わずらい・うれい)を為(な)せし諸例規を悉(ことごと)く⾰除(かくじょ=悪を断って改める)し、務めて寛裕(かんゆう=心がひろくゆとりのあること)弘通(ぐつう=仏法がひろく世の中に行われる)の法を開拡し以て双⽅とも安寧を永遠に期すべし。
*リンクします「修好条規」法令全書 内閣官報局1887-1912国立国会図書館デジタルコレクション
1880年~
「開国・開化政策」

●朝鮮政府は日本との開港後も、欧米諸国とは鎖国政策を堅持していた。しかし清国・李鴻章は、日本とロシアを牽制するため、列国との間で条約締結をはかるべきと勧告してきた。また政府は、国内改革による自強をはかる必要から、対欧米諸国と開化政策採用の方針を決定した。こうして1881年には軍制を統合して、洋式の別技軍をもうけ日本人教官を招いて訓練させた。また紳士遊覧団(62名)を日本に派遣したり、金允植(キムユンシク)を武器製造や軍事技術習得のため清国に派遣(留学生38名)した。

「衛生斥邪派」(鎖国攘夷)の運動

●衛生斥邪思想とは、正学としての朱子学をまもり、それ以外の学問を邪学としてしりぞけ、華夷の別を明確にして中華の伝統を護持しようとするもの。そしてその思想は、外圧のもとで西洋近代文明の侵略に対抗する民族運動の理念のひとつとなった。李恒老「洋夷禽獣論」。著名な崔益鉉(チェイクヒョン)は、「倭洋一体」論で「日朝修好条規」の締結に反対し、のちに1906年の反日義兵闘争で敗北して対馬に連行されたが、「敵の粟は拒む」として断食して餓死した。
写真:崔益鉉(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)

1882年
「壬午軍乱」

●反乱は大院君の復帰により収拾したが、日清戦争の遠因となった。
●朝鮮政府は、朝米修好通商条約(1882/5月)につづいてイギリス・ドイツとも不平等条約をむすんで、欧米諸国への開国が行われた。そんな中、開化政策による軍制改革で冷遇されていた旧式軍隊は、俸禄米(砂や石の混入)事件で憤激して反乱・決起した(7/19)。
●そして7/23日から大院君の示唆を得て、日本公使館を襲撃し(日本公使は脱出)、7/24日には王宮に乱入して閔謙鎬(ミンキョムホ)らを殺害し、閔氏政権を打倒した「壬午軍乱」。大院君は、この兵士や民衆の蜂起を背景に全権を掌握し、軍制を元に戻し別技軍を廃止し、開化政策を否定した。

1882年
「日本・清国の対応」

●日本は、脱出した花房公使を、軍艦4隻・輸送船3隻・歩兵1個大隊と共に朝鮮へ帰任させた。そして8/16には兵を率いてソウルに入り、被害者の賠償などで大院君の新政府と対立した。
●その後8月末、日本は済物浦(チェムルポ)条約を結び、公使館襲撃の謝罪と賠償を得た。
●清国は、天津(中国)に滞在中の金允植らの要請を受け、宗主国として軍隊の出動を決定し、8/10には丁汝昌率いる軍艦3隻が仁川につき、さらに8/20には3隻の軍艦と2隻の汽船で呉長慶の指揮する清国陸軍の精鋭が到着した。そして8/26には大院君を捕まえ天津へ連れ去り幽閉した。
●清国は、大院君を連行して壬午軍乱を鎮圧した後、約3000人の軍隊をソウルに駐屯させた。9月には朝中商民水陸貿易章程を結び、条約前文に「朝鮮は久しく藩封に列す」と日本に対し牽制を行い、清と朝鮮との宗属関係を明文化した。そして朝鮮政府には李鴻章が推薦した顧問(ロシア人含む)を置き、本格的な内政への干渉を図った。(写真)丁汝昌「上野一郎氏蔵」出典:「古写真にみる幕末・明治」別冊歴史読本・新人物往来社1987刊

1884年12月
「甲申政変」

●鎖国攘夷派は決定的な打撃を受け、閔氏政権が清国軍の後押しで復活した。そうして清国との連携を強めながら開化政策が進められた。そうしたなか金玉均(キムオクキュン)らの少壮官僚が、政府内部で勢力を広げていった。しかし清国の干渉が強まると開化派勢力は二つに分かれていった。ひとつは穏健派で、清国と宗属関係を維持しながら改革を進めようとするものであった。もう一方は、日本の近代化をモデルに清国からの「独立」を主張し、日本との関係を強めようとした金玉均らであった。金玉均らは日本政府要人や福沢諭吉らとの親交を深め、閔氏一族との対立を深めていった。
●1884年7月ベトナムで清仏戦争が勃発すると、ソウルに駐留していた清国の軍隊の半数1500が撤退した。日本の公使は、清仏戦争の状況をみながら、金玉均らの急進改革派に好意的な態度をとった。
●1884年12月4日、金玉均らはクーデターの実行にふみきり、国王にせまり日本軍の出動を要請し、朝鮮政府軍の一部とで王宮を固め、12/6新政府を組織した。
●しかし、閔氏政権から正式な出動要請をうけた清国軍は、政府軍とともに攻撃にうつり新政権を圧倒した。これをみて日本公使は日本軍のひきあげを命じ、新政権は3日で崩壊した。金玉均らは日本公使とともに仁川から脱出し、日本などへ亡命した。(金玉均はのちに上海で閔氏の刺客に暗殺され、遺体は朝鮮に送られたが惨刑にされたという)
(写真)金玉均「長崎市立博物館蔵」(出典:「古写真にみる幕末・明治」別冊歴史読本・新人物往来社1987刊

1885年4月
「天津条約」

●甲申政変ののち清国の勢力は強まり、劣勢に立った日本は、伊藤博文を清国に派遣し李鴻章とのあいだに天津条約をむすんだ。これにより両軍は朝鮮より撤退し、今後もし出兵する場合には相互に事前通告をすることなどを取り決めた。しかし条約締結直前にはイギリス艦隊による巨文島占領事件(イギリスは日・清には通知済)が起こった。これはイギリスが当時対抗関係(アフガニスタンではロシアと紛争)にあったロシアの朝鮮進出をはばむため,巨文島を占領し海軍基地を作ろうとしたものだった。こうして朝鮮は列強の争いにまきこまれていった。左絵:ビゴーが1887年に「トバエ」に掲載した風刺画。「左の日本と右の清国が魚(朝鮮)を釣り上げようとしている。上のロシアは機会を狙っている」(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)

1885年
「ロシア」への接近策

●高宗および閔妃は日・清の圧力を牽制するため、ロシアと陸軍教官を招聘する秘密協定を結ぼうとしたが、清国は圧力をかけてそれを撤回させた。そして清国は、高宗および閔妃牽制のため大院君を帰国させ、さらに宗主国として朝鮮の内政干渉を強めるため、袁世凱(えんせいがい)を送り込んだ。

1887年
「自立化」への動き。

●朝鮮政府は、外交の自立化をはかるため、諸外国に公使を派遣することを決定した。しかし清国は、派遣には清国の許可が必要であることと、現地では清国公使の指示に従うことを朝鮮政府に約束させた。清国は朝鮮との宗属関係強化に乗り出した。一方日本は、ロシアの介入を警戒しつつ清国と朝鮮の宗属関係を切り離し、朝鮮を日本の利益線と見なし、朝鮮を支配下に置くことを国家目標とした。

「東学」新興宗教と民衆運動

●朝鮮は、日本をはじめ、アメリカ・イギリス・ドイツ・ロシア・フランスなど欧米諸国との間に不平等条約を結び開国したが、その影響は特に農村において深刻化した。飢餓・疫病の流行や盗賊の横行など、社会不安は激しくなっていった。そうしたなか、李朝両班支配体制を批判し、人間平等をうたう「東学=西学(キリスト教)に対する」が農民層のあいだに広く深く浸透していった。この宗教はやがて実践的に理解され、兵乱を意図し蜂起するようになっていった。「南接派」は政府に対して徹底抗戦的であった。「斥倭洋」「地方官の不当誅求(厳しい取り立て)反対」などを標榜した。

1894年
甲午農民戦争」

●この1894年の農民戦争は、東学南接派によって計画的に引き起こされた。その発端は、私腹を肥やしていた郡守に対して、全羅道の農民1000余名が武器を奪取して蜂起したものだった。一旦は収束したものの、農民軍は1万人以上で再蜂起し、道都の全州に入城し政府軍の精鋭部隊と熾烈な攻防戦を繰り広げた。これにより政府は清国に出兵を要請し、また日本もこれに対抗して軍事介入を行った。これにより農民軍は、政府と全州和約(農民軍の安全保障を含む)を結び、この蜂起を収束させた。

1894年(6月~)
「日清戦争・開戦」宣戦布告は1894/08/01

●日本では、陸奥外相が清国の出兵の報告を受け、川上参謀次長と混成旅団(7~8千人)を派遣することを決めた。伊藤博文首相には、大軍を派遣すると反対されるので、1旅団(2千人)程度と報告した。川上を中心とする主戦派は、政府をひきずって開戦へと急いだ。6/5戦時大本営条例によって東京に大本営(9月に広島に移設)が開かれ動員令が下った。
●6/9には混成旅団の先頭部隊は広島県宇品(うじな)を出発し、6/12仁川に上陸した。清国の先頭部隊が牙山上陸完了したのは6/9だった。宇品(広島港)は朝鮮半島に最も近い軍事都市で、日本最大の陸軍都市であった。(左写真)広島県宇品(うじな)より出兵する第2陣(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊

1894年(7月)
ロシアの圧力とイギリスによる調停

●日本の出兵に驚いた清国や列強諸国は、日清の共同撤兵を申し入れてきた。日本は最初から、清国を軍事力で朝鮮より追い出すことが目的であったので、なんとしても出兵の口実を早急に作る必要があった。そこで日本は清国に対して、朝鮮の乱民の鎮圧を日清共同で行うことや、鎮圧後朝鮮の「内政改革」を共同で行うことを、申し入れた。
●当然ながら清国は、この申し入れを内政干渉だと拒否した。しかし一番の圧力をかけてきたのはロシアで「日清共同撤兵を拒絶すれば、日本の責任は重大である」と警告的な申し入れをしてきた。陸奥外相はこれに対して「日本の朝鮮改革が妨害されない保証さえつけば撤兵するし、朝鮮侵略の意図はない」と言葉を尽くして説明し、ロシアの一応の了解を得た。
●一方イギリスは戦争を防止するため日清間の調停に乗り出そうとしたが、清国は譲歩せず調停は失敗した。日本はイギリスとの条約改正をひかえていたので、調停には応じようとしていた。清国がイギリスの調停に応じなかったので、日本は逆に喜び、実力行使に出た。

1894年07/23
日本「王宮占領」と「大院君」招聘

●日本の大鳥公使は朝鮮王に対し「清国に撤兵を要求し、清国の宗主権を認めた条約を破棄する」ことを最後通告として要求した。
●そして日本は、7/23明け方前日に出た回答を不満として、いきなり王宮を占拠し、国王に大院君を招かせ(7/27)、金弘集(キムホンジプ)を首班とする親日開化派政権を樹立させた。
●その間、日本は7/25には牙山湾付近の豊島沖で清国艦隊に奇襲攻撃をしかけ戦争状態に突入し、7/29には成歓・牙山を占領した。宣戦布告は8/1。イギリスは、上海方面には戦争を及ぼさないことを日本に約束させ、局外中立を宣言した。

「日清戦争」●「平壌の戦い」(9/15)●「黄海海戦」(9/17)●「講和条約調印」(1895/04/17)

●「平壌の戦い」(9/15)・・清国側は陸兵を平壌に集結させ、対する日本軍は山県有朋を司令官とする第1軍を編成し、平壌へ進軍した。9/15日本軍は総攻撃をかけ、玄武門を占領した。清軍指導部はこれにより戦意を失って撤退し、平壌の戦いはあっけなく終わった。
●「黄海海戦」(9/17)・・黄海海戦では、東洋一を誇る清国・北洋艦隊を日本の連合艦隊が破った。これは日本艦隊の速力と速射砲の威力によって勝利できたといわれる。そして日本軍はなおも進軍を続け、遼東半島旅順を占領(11/22)し、翌1895/02月に山東半島に上陸し、威海衛を海陸から攻め、北洋艦隊の主力、定遠・済遠・威遠を沈めた。司令官丁汝昌は自決し残った艦隊は降伏した。
●「講和条約調印」(1895/04/17)・・講和の動きは旅順が陥落した頃より始まっていた。しかし日本の世論(福沢諭吉や徳富蘇峰ら)は「まだ講和の時期ではない、北京を占領してからだ」などと勇ましいことを言っていた。しかし伊藤博文は「もし北京を落としてしまうと清国政府は崩壊して列国が乗り出して、さらにやっかいな事になってしまう」と戦争を指導し、旅順占領後の作戦目標を威海衛に向けた。こうして戦意を失い講和条件を打診してきた清国と、下関(日本)で1895/3月から講和会議が開かれた。清国は全権として李鴻章・北洋大臣直隷総督と李経方・欽差大臣、日本側は伊藤博文・内閣総理大臣と陸奥宗光・外務大臣が全権となった。こうして以下の内容で1895/04/17、日清講和条約が結ばれた。
(写真)清国全権・李鴻章(73歳)(出典:「写真記録日中戦争・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊)

(概略)清国は、朝鮮の独立を承認し、遼東半島・台湾・澎湖島を割譲し、償金2億両(テール)を支払い、また通商上、諸列強と均等の権利を与え、また新しい開港場と開市場における日本人の工業企業権を認めた

●下のリンク先から馬関條約(下関條約)の日本文・漢文などの原本が公開されている。表紙をクリックした後「進入資料庫」へ進み日文(影像)をクリックして、1895年の項目から選択して下さい

*リンクします『中華民国外交部保存之前清條約協定』
中日講和条約(馬関条約)
「清国分割の危機」

●日清戦争後各国は、清国に対して日本への賠償金のための借款を押しつけ、塩税・関税などを担保としたり、鉄道敷設権・鉱山開発権などを見返りに支配権を強化していった。
(ロシア・フランス・イギリス・ドイツ4国の借款の合計は3億7千万両《テール》で、当時の清国の歳入の4倍に上った)地図は各国の租借地。

地図(出典:「写真記録日中戦争1・15年戦争の道」ほるぷ出版1995年刊)

1895年05月
「3国干渉」

●3国(ロシア・ドイツ・フランス)により、日本は条約で得た遼東半島の領有を放棄させられた。日本は清国との開戦前夜にも、ロシアから朝鮮撤兵の勧告を受けた。陸奥外相と伊藤総理は勧告を拒否するに当たり、直ちにイギリスにロシアの牽制を依頼しながらも、ロシアとの戦争を悲壮な決意で固めたといわれる。当然条約締結についても干渉があることは予想していた。日本は、ロシア・ドイツ・フランスという強大な帝国との武力衝突も選択肢としたが、イギリス・アメリカは不介入の態度をとっており、やむなく「清国に恩を着せて遼東を返す」ことで3国干渉に屈した。この問題は極東の1地域の利害関係ではなく、ヨーロッパの国際関係に起因する事件だったといえよう。
(写真)日本の陸奥外相(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊)


それは①中国での利害の対立は、イギリスとロシアにあったこと。②両国ともヨーロッパ情勢から、単独で日清間に介入することを避けたこと。(ヨーロパでは単独行動は国際的孤立を招く恐れがあった)③ドイツは中国に利害関係を持っていなかったが、自国のヨーロッパでの露仏同盟(ロシア・フランス同盟)に対する不安から、ロシア・フランスの後押しをすることで、露仏同盟とイギリスを対抗させる狙いがあった。そしてこれにより中国への発言権も確保しようとした、ことなどである。
1895年10/8
「閔妃暗殺と日露の対立」

●日本は日清戦争終結後、3国干渉により遼東半島を失い、さらに朝鮮の支配もロシアにさまたげられるようになった。朝鮮の保守穏健派の金宏集・魚允中らの内閣は、親日派と大院君との板挟みになり内政改革は行われなかった。そこで日本の内相井上馨は、状況打破のため大臣を辞め駐韓公使となり朝鮮へ渡った。そして大院君を引退させ、改革を行い政府の実権を開化派(親日派=内相朴泳孝ら)に握らせた。
●そんな中、日本によって退けられていた閔妃が、ロシア公使ウエーバーと近づき、クーデターを起こした。これにより親日派朴らは一掃され、ロシア勢力が政府内にくい込んできた。日本はロシアとの衝突をさけ、朝鮮に対しても自立させようと方針を転換した。そんな日本政府の方針に不満をもった右翼浪人らは、後任の三浦梧楼公使を中心に閔妃暗殺を行いクーデター事件を起こした。
(左写真)高宗の妃である閔妃(出典:『朝日百科 日本の歴史10』朝日新聞社1989年刊)


●この事件は『クロニック世界全史』講談社1994年刊には以下のように書かれている。

●1895年10月8日早朝、日本の軍人と大陸浪人が漢城(ソウル)の王宮に乱入し、王妃閔妃(44)を殺害した。死体は王宮外の前庭に運び出され、積み上げた薪(まき)の上で焼き捨てられた。

下

1896年02/11
「親ロシア派クーデター」「高宗」ロシア公使館へ

●朝鮮国王「高宗」と皇太子は、王宮を密かに脱出し、ロシア公使館へ移った。親ロシア派がクーデターを起こし、日本の圧力を避けて国王の身柄を移したものであった。そして高宗と親ロシア派内閣は、金宏集ら開化派の大臣の処刑を命じ、親日派を一掃した。金宏集や魚允中ら大臣たちは白昼惨殺されたという。

1897年10/12
「大韓帝国の成立」(大韓帝国皇帝高宗)

●高宗は圜丘壇(天地を祭る壇)に進み出て皇帝に即位し、国号を大韓帝国と改めた。日清戦争における清国の敗北によって、1637年以来の中国との宗属関係を最終的に破棄した。大韓帝国は「万世変わらざる専制政治」を行うことが定められ、皇帝は司法・立法・行政・軍事・外交などをすべて掌握し、皇帝権を制限するいっさいの事項をもうけなかった。
●こうして大韓帝国は、年号を「光武」とし近代国家へと改革を進めていった。しかし、東学残党による抗争(1899年英学の反乱)、農民蜂起(1898・1901年済州島)など多様な民衆抗争が続発し、その改革は挫折していった。(私見だが、もしこの時に強力な大韓帝国ができていれば、その後の歴史は大きく変わっていったであろう。)(写真)大韓帝国皇帝高宗(出典:『朝鮮の歴史(新版)』三省堂1995年刊)

●一方独立協会(1896年7月設立)は、「独立門」を建て民族独立の象徴とし、政府の姿勢を批判し、ロシア勢力の駆逐をはかり、国政改革運動に乗り出した。
ここには17世紀以来、清の使節を「三跪九叩(さんきくこう)」してむかえた、屈辱の「迎恩門」があった。
(写真)独立門(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)
● しかし、1898年12月高宗は、政府による皇国協会による弾圧が、双方の暴力抗争となったため、詔勅をもって独立協会を解散させ協会員を逮捕し、運動を終息させた。
日本・明治大正財政史から清国賠償金について

●「明治大正財政史 第1巻 大蔵省編」から「第3節 償金の収支及運用」と「第7節 貨幣制度の改革」の1部分を引用してみる。(漢字数字をアラビア数字に直し、旧字体はなるべく新字体にした)維新以来急務であった金本位制へ移行するために、清国賠償金が大いに役立ったと書かれている。この金本位制への移行は、日本の近代化にとって最重要なものだったと思われる。

下

(世界)「帝国主義(19世紀末~)」の時代に突入

●中国や朝鮮がまだ極東世界だけに目を向けていた頃、世界は「帝国主義」の時代に突入していた。そしてヨーロッパ列強の植民地支配のやり方は、過去の重商主義の時代(武力による権力奪取や圧政による原住民の搾取)から変貌をとげ、より資本主義的な関係から実質の支配と利益を得るように変化していた。
●その具体的な方法は、現地政府やその国の有力者に借款を与えたり、民間資本を貸し付けたりして、代わりに鉄道敷設権・鉱山開発権・築港権・油田開発権などを譲渡させ、実質的な支配をしていくやり方だった。また租税徴収権などの特権を譲渡させ、現地権力者の弱みに乗じてその地域全体を従属させることも行われたのである。
●そして実際に活動するのは先進国の企業家達であり、後進国の現地で新しい企業を起こし経営し利益をあげる事こそが国家のためでもあり最大の目的でもあった。さらに19世紀後半になると富の蓄積は拡大し、新しい金融資本(銀行・保険会社・証券会社など)が誕生し、この金融資本が大規模な投資を行い、企業経営を支配していく金融資本主義の時代になっていった。そして列強の政府は、その目的のため、現地の政治情勢を安定させ、社会秩序を維持し、企業家や投資家の所有権を保護しなければならなかった。またその国の内政に干渉し、その国を植民地や保護国としまうことも相手次第で行った。また国全体ではなくても、一定の地域を「租界」や「租借地」とし領事裁判権を得て自国民を保護することも同じ目的のためであった。
●そして自国に対するナショナリズムは、資本主義を背景に国家主義につながり、積極的膨張政策を生み、さらに白人の持つ、未開種族や有色人種に対する選民意識は、他国を支配し文明化するのは使命でもあるという「帝国主義」を生み出していった。
●イギリスは最初に産業革命を起こし、19世紀後半までに最大の資本の蓄積を持った国だった。そのイギリスですら、「小英国主義」の植民地不要論を捨て、旧植民地を再編して、帝国の強化と発展に努めねばならないと、帝国主義的国家政策に転換した。1877年1月1日、イギリス・ヴィクトリア女王はインド皇帝に即位し、インド帝国が成立した。ディズレーリ首相は強力に帝国主義的外交を進めた。そして続いて、フランス・ドイツ・イタリア・ベルギー・アメリカ合衆国も、海外に資本を投下し植民地化を推進する帝国主義国家に成長していった。
●そしてその帝国主義の本質を見抜いていた思想家が日本にもいたのである。日本の幸徳秋水の「帝国主義」は、その記念碑的著述のひとつである。
●下段でアフリカの分割の一例をあげる。

*リンクします「帝国主義」幸徳秋水著 警醒社 明治34.4(1901年)刊国立国会図書館デジタルコレクション
アフリカの分割。1880年と1914年の地図

(地図)(出典:「世界の歴史」J.M.ロバーツ著 創元社2003年刊)


列強の世界分割(アフリカの一例)
事項
1869年
(スエズ運河)

●スエズ運河は、1869年フランス人レセップスにより、7年の歳月をかけて開通した。これによりヨーロッパとアジアの航路は50%近く短縮された。レセップスはエジプトの藩王より特許状を受け「国際スエズ運河株式会社」を創設し、50%以上の株式をフランス人が持ち、44%を藩王が所有した。しかしイギリスはフランスに脅威をおぼえ、その藩王の持つ株式を買い取り、結果スエズ運河はフランスとイギリスの物となってしまう。さらにその後エジプトが財政破綻すると、イギリスはそれに乗じて「エジプト債務管理委員会」を主宰し、エジプトの財政と経済を支配した。そうしたなかエジプトに民族主義的排外運動が起きると、イギリスはフランスを出し抜いて武力鎮圧を行い、スエズ運河地帯を占領し、第1次大戦中にエジプトを保護国とした。
(写真)開通当時のスエズ運河(出典:「世界の歴史13」中央公論社1961年刊)

19世紀末
(北アフリカ)

●北アフリカの地中海沿岸地域は、もっとも古くから文明が進んでいて、ヨーロッパ地域とも深い関係を持っていた。住民の大半はアラビア系住民で、モロッコ以外はオスマン帝国(トルコ)の宗主権下にあった。しかし実際は各地域に自主権をもったスルタンやパシャやベイたちが君臨していた。
●1830年、フランスはアルジェリアのベイを追放して占領を宣言した。(外人部隊)
●1881年、フランスはイタリアを出し抜いてチュニジアを併合した。フランスは代わりにイギリスがキプロスを領有することを認めた。
●1882年、イタリアは紅海に面するエリトリア(スエズ運河開通で重要度を増した)を領有し、その後(89年)ソマリランド(イタリア領)を保護国とした。そして1894年エチオピア戦争をおこした。しかし1896年のアドワの戦いで敗北した。

1896年
(北東アフリカ)エチオピア

●エチオピアは、古代からの歴史を誇り(聖書にはクシュという名であらわれる)、4世からはエチオピア正教(キリスト教)でもあり、現存する世界最古の独立国の一つといわれる。1896年のエチオピア戦争の勝利は、アフリカのヨーロッパに対する唯一の輝かしい勝利となった。

1879年
ベルギー「コンゴ協会」を設立

●「コンゴ協会」は、コンゴ地方の領有を国際的に認められ、1908年コンゴはベルギーの植民地になった。この発端は、ベルギー王レオポルド2世がスタンレーにコンゴ開発を援助して、「コンゴ協会」を設立したことによる。

(アフリカ内陸奥地)

●アフリカ内陸奥地は19世紀後半になって、ようやくヨーロッパの探検家たちによって知られるようになった。1858年、リチャード・バートン、タンガニー湖を発見。1860年、スペーク、ヴィクトリア湖を発見。またサミュエル・ベーカー、ゴードン将軍、ドイツ人シュニッツェル達が業績を上げた。そのなかでもリヴィングストンとスタンレーが有名である。『アフリカ探検記・1857年リヴィングストン』『リヴィングストン発見の旅・スタンレー』『暗黒大陸横断記・スタンレー』

1885年
(スーダン)

●マフディー(救世主)ムハンマドは民族解放運動を起こしスーダン独立させた。
●19世紀前半、エジプトの藩王メフメット・アリはオスマントルコより半ば独立しスーダンを征服した。ベーカーやゴードン将軍がスーダンの総督になったのは、エジプト藩王の委嘱によるものだった。しかしマフディー(救世主)は、1881年からイスラム教徒の民族解放運動を起こし、強大な勢力を築きスーダンを独立させた。(写真)マフディー(救世主)ムハンマド(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)

1898年
ファショダ事件。フランスとイギリスの対立

●その頃フランスは西アフリカに広大な植民地を築き、今度は東進してスーダンへ向かった。また、フランス領ソマリランドからは逆に西進してスーダンへ向かった。フランスのアフリカ横断政策であった。
●一方イギリスは金の産出で急に注目をされてきた南アフリカから、北へ向かって植民を拡大した。ウガンダはすでに領有しているので、ナイル中流のスーダンを掌握すればエジプトとつながることになる。イギリスのアフリカ縦断政策であった。ここにイギリスとフランスはこのスーダンで衝突することになる。(ファショダ事件)

1898年
イギリス軍マフディーの軍隊を破る

●エジプト・イギリス軍(キッチナー)がマフディーの軍隊を破り、首都ハルトゥムに入城した。1896年から2年越しの進軍だった。キッチナーはこの時、フランス領コンゴから出発したフランス・マルシャン隊が、スーダンのファショダに到達したことを知った。双方はファショダで会見を行ったが、問題の解決は本国政府間に委ねられたので、イギリスとフランスの世論は激高し、両国は戦争の危機を迎えた。しかしついにフランスが折れ、エジプト・スーダンはイギリスとエジプトの共同統治となり、スーダンはイギリスのスーダン司令官(初代キッチナー)が総督に任命された。フランスはスーダンからナイル川流域に対する通商の自由権を得た。結局イギリスが覇権を握ったといえる。

1899年
南アフリカ植民地戦争・ボーア戦争勃発する

●アフリカ南端のケープ植民地は、1814年(ナポレオン戦争後)オランダからイギリスの領有に移った。オランダ移民の子孫はボーア人といわれたが、イギリス人の統治政策に不満を持ち、北東のオレンジ川の北にオレンジ自由国、ヴァール川の北にトランスヴァール共和国を建設し、さらに海岸地帯移住した。そこでイギリス軍はダーバンを占領して、ナタール植民地を作った。
●南アフリカでは1867年と1869年ダイヤモンドが発見された。この一つは南アフリカの星と名付けられた83カラットのダイヤモンドだった。そこでイギリスはこのダイヤモンド鉱山地域(キンバリーなど)の領有を企て、ボーア人との協定を破って直轄植民地とした。
●さらに1886年トランスヴァール共和国で金鉱が発見されると、南アフリカの帝国主義を象徴するセシル・ローズは、ダイヤモンド鉱業に成功して独占権を得ると、南アフリカ合同金鉱会社を組織して、金の採掘事業を独占した。そしてトランスヴァール共和国の併合を企てたが失敗して、ケープ植民地首相の地位を失い失脚した。
●しかしイギリスは1899年オレンジ自由国とトランスヴァール共和国両国に対して侵略戦争を仕掛け、両国を征服して1910年南アフリカ連邦を形成し、イギリスの自治植民地とした。(地図)(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)

1884年
アフリカ植民地分割協定

●ドイツ・ビスマルクによるベルリン会議開催で、アフリカ植民地分割協定が行われた。
(アフリカ分割地図)(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)

1900年頃
列強による南太平洋の分割

●オーストラリア(18世紀後半~)、ニュージーランド(1840年)は既にイギリスの植民地だった。アメリカ合衆国は1898年ハワイを併合した。
(地図・南洋諸島の分割)(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)