(戦後世界)「日本・敗戦」(昭和20年《1945年》8/15)

2024年2月22日戦後世界

日本の敗戦(1945年8月15日)日本最高指導部は、最後までソ連の仲介を期待していた。
ここでのポイントは、1940年頃から日本の敗戦までの最高指導部の対応である。日本は、1941年にソ連と中立条約を締結した。そのため日本は最後までソ連に対して、アメリカとの仲介を期待していた。しかしソ連の中立条約破棄と満州への侵攻は、ソ連と連合国アメリカとの間で、ドイツ降伏の3ヶ月後に行う約束事項であった。日本最高指導部は、最後までソ連の仲介を期待しながら、全国民には徹底抗戦を強いて、「国体護持」のために戦争遂行を続けた。
(上写真左から)●ドイツ(ナチス)総統ヒトラー●フランス(初めての放送を終えた)ドゴール●アメリカ(日独伊への宣戦布告に署名する)ローズベルト大統領●イギリス(首相一日目の)チャーチル●ロシア(もう一人の独裁者)スターリン●アメリカ(連合軍最高司令官)マッカーサー元帥●(アメリカ大使館を訪問した)日本国昭和天皇●中国周恩来と(若き日の)毛沢東1935年3月。(出典)A.J.P.テイラー「第2次世界大戦」1981年刊(左5枚)と「目撃者」朝日新聞1999年刊(右2枚)
ここでは「朝鮮の歴史(旧版1974年・新版1995年)三省堂刊」、「朝日百科・日本の歴史近代1」・朝日新聞社1989年刊などを参考とし要約・引用した。日本の昭和史は「昭和2万日の全記録・第6・7巻」講談社1989・90年刊、「昭和史」半藤一利著・平凡社2004年刊などから要約・引用した。現代史は「激動!!北朝鮮・韓国そして日本」重村智計(しげむら・としみつ)著・実業之日本社2013年刊を抜粋要約した。

(目次)「日本・敗戦」(昭和20年《1945年》8/15)

★日本・海軍の予科練と戦意高揚映画 5-1 ★日本敗戦へ向かう(1938年~1944年頃)(概略)5-2
★日本降伏前夜(1945年)無差別爆撃と原子爆弾2発 5-3 ★日本・降伏文書調印(1945年09/02) 5-4
★日本、ポツダム宣言第10条における連合国による戦犯裁判を受諾する。5-5

★日本・海軍の予科練と戦意高揚映画 5-1

最初に、1942年11/1海軍の予科練(海軍飛行予科練習生)の募集ポスターと東宝映画「決戦の大空」を紹介しよう。日本国内での戦意高揚のイメージである。この日から予科練の制服が水兵服から7つボタンの短ジャケットに変わった。●日本的美学の体現とは、いかに潔く死ぬか、あくまでも責務を忠実に果たし、すがすがしい笑顔残して死んでいくか、にあるという。

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★日本敗戦へ向かう(1938年~1944年頃)(概略)5-2

日本の15年間に及ぶ戦争は敗戦という最終段階をむかえた。1931年9月の柳条湖鉄道爆破事件を契機に中国東北地方へ侵略、1937年7月盧溝橋事件を契機に中国との全面戦争(日中戦争)、1941年12月ハワイ真珠湾攻撃によってアメリカと開戦し、東南アジア・太平洋方面において、連合国(アメリカ・イギリス・オーストラリア・オランダ・中国など)と太平洋戦争に突入した。

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★日本降伏前夜(1945年)無差別爆撃と原子爆弾2発 5-3

1945年7/26日、アメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席は、大日本帝国(日本)に対して、降伏要求の最終宣言を行った。「ポツダム宣言」である。
このポツダム宣言に対し、07/28、日本の各新聞社は内閣情報局の指令で、戦意高揚をはかる言葉を並べて次のように報道した。

「笑止、対日降伏条件、戦争遂行に邁進、帝国政府問題とせず」(読売報知)
「米・英・重慶、日本降伏の最後条件を声明、三国共同の謀略放送、政府は黙殺」(朝日新聞)
「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃砕せん、聖戦を飽くまで完遂」(毎日新聞)

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★日本・降伏文書調印(1945年09/02) 5-4

だが、戦争は降伏受諾を通知するだけでは終わらない。「ポツダム宣言」受諾を通知し、正式に連合国諸国代表に対し降伏文書に調印しなければ戦争は終わらない。日本の降伏文書調印(1945年09/02)は、1945年/08/14ポツダム宣言受諾の通知から18日も過ぎていた。

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★日本、ポツダム宣言第10条における連合国による戦犯裁判を受諾する。5-5

「東京裁判」だけが連合国による戦犯裁判ではない。海外で行われたBC級戦犯裁判の方がはるかに多くの軍人らが処刑された。

『・・・・吾等の俘虜(ふりょ=捕虜)を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加えらるべし。・・・』

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Posted by hhks