1941年(昭和16年)12/8、日米英開戦、太平洋戦争勃発③「米英に対する宣戦の詔書」

天佑(てんゆう=天のたすけ=大源たる天つ神のたすけ)ヲ保有シ、萬世一系(ばんせいいっけい)ノ皇祚(こうそ=天皇の位)ヲ踐(ふ《む》=受け継いで位につく)メル大日本帝國天皇ハ、昭(あきらか)二忠誠勇武ナル汝(なんじ)有眾(ゆうしゅう=有衆=君主から人民を呼ぶ称)二示ス。
朕(ちん)茲(ここ)二米國及英國二對シテ戰ヲ宣ス。 朕カ(が)陸海將兵ハ、全力ヲ奮(ふるっ)テ交戰二従事シ、朕力(が)百僚有司(ひゃくりょう・ゆうし=多くのつかさびと、百官・役人)ハ、勵精(れいせい=励精=一心に励みつとめる)職務ヲ奉行(ほうこう=奉じ行う)シ、朕力(が)眾庶(しゅうしょ=多くの人民。もろもろの民。)ハ、各~(おのおの)其(そ)ノ本分ヲ盡(つく)シ、億兆一心(おくちょういっしん=億兆の民が心を一つにしての意味)、國家ノ總カ(そうりょく)ヲ舉(あ)ケ(げ)テ、征戰ノ目的ヲ逹成スルニ遺算(いさん=計算・計画の違い)ナカラムコトヲ期セヨ。
*リンクします「米国及英国ニ対スル宣戦ノ件・御署名原本」→国立公文書館
(上写真・部分)ハワイ・ヒッカム飛行場上空を飛ぶ九七艦攻—テールコードからわかるように瑞鶴の搭載機で、第2波攻撃のおりに撮影したもの。水平爆撃を完了した直後の姿である。画面左手が真珠湾の湾口。中央より少し上にフォード島が見える。(出典)「写真・太平洋戦争第1巻」編者 雑誌「丸」編集部 光文社1988年刊
昭和16年 | 主要項目 |
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★太平洋戦争前夜、日米交渉、ハル・ノート。 | これまでアメリカの関心はヨーロッパにあり、日本も中立を保っていた。それが7/28、日本軍が南部仏印に進駐すると、アメリカは、ただちに対日石油輸出を全面的に禁止した。アメリカは現代においても、最初に行うのは経済制裁であり、その後に交渉を行うのである。 9/6、日本は「帝国国策遂行要領」(第1回目)を決定し、戦争準備を10月下旬をめどに完遂させることを決定した。 |
★太平洋戦争前夜、御前会議開戦決定、日本の戦争目的。 | 12月1日、御前会議は、対米英蘭に対する開戦を決定した。 「11月5日決定の『帝国国策遂行要領』(第2回目)に基く対米交渉はついに成立するに至らず、帝国は米英蘭に対し開戦す」 戦争目的は、11/13の大本営政府連絡会議で「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」を決定した。 |
★太平洋戦争前夜、陸海軍開戦準備なる。 | 陸・海軍の南方作戦部隊は、11月中旬から南部仏印、パラオ、海南島、中国南部、澎湖島、台湾、奄美大島、南洋群島、小笠原諸島および内地に展開していた。 |
★日米英開戦。12/8、日本同時奇襲攻撃をしかける。 | ●12/8(月)日本時間午前2:15マレー半島コタバルに敵前上陸。 ●日本時間午前3:19・ハワイ時間12/7(日)午前7:49、ハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を攻撃。 日本時間午前3:40タイ・バンコック南方海岸に上陸(その後タイ政府に、日本軍のタイ国内の通過を認めさせる)。日本時間午前5:38、シンガポール攻撃、フィリピン・ダバオ爆撃、アメリカ領ウエーキ島爆撃。日本時間午前8:00、香港爆撃と攻撃。日本時間午前8:30、アメリカ領グアム島爆撃、フィリピン爆撃。 |
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●アメリカは日本に対して、日中戦争開戦(1937年・昭和12年)以来、ワシントン・9ヵ国条約体制(1922年2月締結)の維持を主張し続けていた。このワシントン条約は、海軍軍縮の他に、「中国の主権・独立・領土保全・機会均等を保障する」9か国条約があったのである。これをアメリカは日本に求め続けてきた。
さらにアメリカは、日本が3国同盟(日・独・伊)を締結(1940年9月)したことに対して、その破棄を求めた。もしアメリカが欧州戦争に参戦した場合、日本が3国同盟にもとづいて参戦することを防ぎたかったからである。
●アメリカの重要な関心はヨーロッパにあり、日本に対しては資産凍結と経済封鎖(石油禁輸等)だけで、日本が折れると考えていた。またアメリカは欧州戦に対しても参戦の意思はなく、経済援助だけの立場を維持しようと考えていた。蘭印(インドネシア)が日本への石油供給交渉を拒絶したのも、アメリカがオランダ亡命政府に圧力をかけたからである。
●逆にドイツは、日本がアメリカに対して開戦することを強く求めた。日米が和解すれば、アメリカは海軍を大西洋にまわしてくると考えたのである。だからドイツは日本に対して、日本がアメリカに開戦すればドイツも宣戦布告することを固く約束したのである。既にアメリカは、大西洋において、Uボート(ドイツ潜水艦)に対して船団防衛のための攻撃を始めていた。
●イギリスは地中海戦線においても危機的な状況になってきており、アメリカの参戦を熱望していた。イギリスはシンガポールの防衛で、日本の軍事力を見くびっていたが、孤立して日本と戦争することは恐れていた。だからチャーチル首相は、11/10、「もし日米戦がおこれば、イギリスは1時間以内に対日宣戦布告する」と演説して、シンガポール防衛のためのアメリカの軍事援助を促した。
昭和16年 | 内容 |
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6月21日 | アメリカのハル国務長官は、野村大使に米国政府として初の米国案と口上書を手交した。内容は、①三国同盟に関して、アメリカが「自衛」のため欧州戦争に参戦した場合でも、日本は立たないこと。②日中和平については「支那政府」に和平を慫慂する(しょうようする=そばから誘い、すすめること)など、であった。口上書では、強硬な松岡外相を非難した。 |
6月22日 | 独ソ戦が始まると、6/25大本営政府連絡懇談会は、南方施策促進に関する件を採択し、南部仏印進駐などを決定した。7/23、大本営、南部仏印進駐を発令。 |
7月25日 | アメリカは、日本軍の南部仏印進駐への警告として、在米日本資産凍結令を公布し26日実施した。同じくイギリスも26日、蘭印も27日資産凍結を実施した。28日には、「日蘭石油民間協定」が停止された。 |
7月28日 | ●日本軍南部仏印に進駐する。8/1、アメリカはただちに対日石油輸出を全面的に禁止した。 この日本軍の南部仏印進駐は東南アジアの軍事バランスを崩した。北部仏印のハノイから英領マレーのコタバルまでは約1600kmもあった。だが南部仏印の、フランス・ヴィシー政権から使用権を得た航空基地(コンポントラッシュ)からコタバルまでは500kmに満たない距離だった。これにより英領マレーは、日本軍の零戦21型(航続距離2463km)や九七式重爆撃機Ⅱ型(航続距離2800km)の攻撃範囲に入ったのである。 ●この日本軍の南部仏印進駐により日米関係は急速に悪化していった。 |
8月 | ●このアメリカの石油禁輸処置は陸海軍に衝撃を与えた。特に海軍は8/16、「帝国国策遂行方針」を陸海軍局部長会議に提示した。これが9/6の御前会議決定の「帝国国策遂行要領」の原案となり、さらに11/5御前会議決定の同名の「帝国国策遂行要領」(下段で引用)に続くのである。 ●一方近衛首相は、ルーズベルト大統領との直接会談を希望し、8/28、野村駐米大使に、日米首脳会談を希望する旨の近衛メッセージを大統領に手交させた。だがルーズベルト大統領は、9/3、野村大使に首脳会談には予備的討議が必要とのルーズベルトメッセージと、「ハル4原則」に対する日本政府の態度表明を要求する口上書を手交した。 |
9月6日 | ●御前会議は「帝国国策遂行要領」を決定した。この内容は、「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目途として、戦争準備を完遂し」、「並行して外交手段を尽くして要求貫徹を努め」、「10月上旬に貫徹の目途が無い場合」、「直ちに対米(英蘭)開戦を決意する」というものであった。 ●これにより陸海軍は戦争準備を始め、海軍は9/1より連合艦隊を戦時編制に移行させ、南方資源の獲得をめざす陸軍は、マレー半島からシンガポール、フィリピン攻略を重点にした具体的な準備に入った。 |
10月2日 | これまでに、日本とアメリカの間では、中国からの撤兵問題や首脳会談の前提となる案件のやり取りがあった。またグルー駐日大使が、ハル長官に首脳会談開催をすすめる意見書の具申もあった。 ●だが10/2、ハル国務長官は、野村大使に日米首脳会談拒否を通告。そして「ハル4原則」確認と仏印撤兵要求の覚書を手交した。「ハル4原則」とは以下をいう。 1.全ての国家の領土保全と主権尊重 2.他国に対する内政不干渉 3.通商を含めた機会均等 4.平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持 |
10月16日 | 第3次近衛内閣、陸軍の主戦論にて総辞職。10/18東条英機内閣成立。 ●10/21、東郷外相、野村駐米大使に日米交渉の継続を指示する。 |
11月5日 | ●御前会議は、白紙撤回され再度考察された「帝国国策遂行要領」を決定した(内容は下段に引用)。対米交渉は「甲案」と「乙案」があった。11/6、野村駐米大使を援護し、日米局面を打開するため、特派大使・来栖三郎をアメリカに派遣(15日ワシントン着)した。来栖はベルリンで三国同盟を調印した全権大使。 |
11月7日 | 野村駐米大使、甲案によりハル国務長官と交渉再開する。(日本の最後的譲歩と付言) |
11月12日 | ハル国務長官、野村駐米大使に中国撤兵と近衛書信の平和政策再確認要求の覚書を手交。 |
11月18日 | 野村・来栖両大使、ハル国務長官に日本軍の南部仏印からの撤退・米の対日資産凍結解除を提案。 |
11月20日 | 東郷外相、甲案による妥結を断念し、乙案提示を打電する(絶対にこれ以上譲歩の余地なし)。そして東郷外相は、アメリカが不承知の場合は決裂もやむなしと通達する。野村・来栖両大使、ハル長官に乙案を提示する。 |
11月22日 | 東郷外相、野村駐米大使らに交渉最終期限を11/29に延期と訓電(アメリカ側傍受)。大使らはアメリカ側に回答を要求。 |
11月24日 | ハル長官、暗号解読で日本の交渉期限(29日)を知り、英・中・豪・蘭と対日暫定協定案を協議する。 ●アメリカ側では、乙案が提示された11/20には、全面協定案と暫定協定案、あるいはルーズベルト大統領の「6ヶ月案(対日戦が6ヶ月延ばされればよいというもの)」などいくつかの案があった。そのうちの国務省極東部作成の暫定案は乙案と似通ってさえいた。アメリカは11/25日には、暫定案を日本側に提示する方針が固まっていたのである。 |
11月26日午後5時 | ●ところがこの日ハル国務長官は野村駐米大使と来栖特派大使に対し、乙案を拒否し、「包括的基礎協定案」いわゆる「ハル・ノート」を手渡した。これは8ヶ月におよぶ日米交渉の末に、アメリカは最初からの原則とアメリカ側の主張のみを提示したのである。これは、実質、交渉打ち切りを意味し、日本は最後通告と受け止めた。この「ハル・ノート」の内容の骨子は以下の通りである。 4月に提示されていた4原則の承認の他に、 ①日・米・蘭・中・ソ連・タイ間の多辺的不可侵条約の締結。 ②中国・仏印からの一切の兵力および警察力の撤収。 ③重慶国民政府以外の政府あるいは政権の否認。 ④中国における一切の特権の放棄。 ④日独伊三国同盟の破棄。などであった。
●ではなぜ、ハル長官は26日至って暫定案を放棄し、アメリカの従来の原則をむき出しにした「ハル・ノート」を提示したのだろうか。この理由は、すでに動きだした日本軍の動きがアメリカ軍に探知されたからであった。日本軍には11/5の御前会議終了後、すでに開戦準備が発令されていた。アメリカ軍は、マレー半島上陸作戦のため海南島の三亜にむかう日本軍の「1万トン級の10~30隻の船団」を台湾南方で認めたのである。 この陸軍情報は、26日午前9時半頃、スチムソン陸軍長官からルーズベルト大統領に届けられ、これを聞いた大統領は、日本の背信行為に怒り、交渉打ち切りを決定したのである。 |
11月26日 | ※一方日本海軍の機動部隊は、11/26午前6時、北海道とカムチャツカ半島の間に位置する択捉(エトロフ)島の単冠(ヒトカップ)湾を、無線封鎖を行いながらハワイ海域に向け出港した。(この時点では対米開戦は決まっていない。) 山本連合艦隊司令長官は11/13、開戦前の打ち合わせのため、岩国海軍航空隊に南遣艦隊を除く各艦隊の司令長官、参謀長、先任参謀らを参集させ、作戦命令の説明と打合わせを行った。そこで長官が述べたことは次のようであった。(出典「山本五十六」阿川弘之著 新潮社1973年刊)
山本は「・・但し、目下ワシントンで行われている日米交渉が成立した場合は、出動部隊に引揚を命ずるから、その命令を受けた時は、たとい攻撃隊の母艦発進後であっても直ちに反転、帰航してもらいたい」 すると機動部隊の司令長官南雲中将が、「そりゃ無理ですよ、士気にも関するし、実際問題としてもとても出来ませんよ」と反対すると、山本は顔色をあらためて、 「百年兵を養うは、何のためだと思っているか。もしこの命令を受けて、帰って来られないと思う指揮官があるなら、只今から出動を禁止する。即刻辞表を出せ」と言った。 |
11月27日 | アメリカ陸軍は、ハワイ軍管下全軍の非常警戒訓練を実施した。アメリカ海軍は、太平洋艦隊司令長官に「戦争警告」を発した。 ●アメリカはこの時点で対日開戦を決意していたはずである。だがアメリカは日本を見くびっていたに違いない。アメリカは、太平洋艦隊の強力な基地であるハワイ真珠湾が、日本海軍の空母を主体とする機動部隊による航空機攻撃によって、甚大な被害を受けるなどとは、予測できなかったことは間違いない。 |
一、帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為この際対英米蘭戦争を決意し左記措置を採る
(一) 武力発動の時機を12月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す
(ニ) 対米交渉は別紙要領に依り之を行う
(三) 独伊との提携強化を図る
(四) 武力発動の直前泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立す
ニ、対米交渉が12月1日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す
(別紙 対米交渉要領)
対米交渉は従来懸案となれる重要事項の表現方式を緩和修正する別記甲案或は別記乙案の如き局地的緩和案を以て交渉に臨み之が妥結を計るものとす
日米交渉懸案中最重要なる事項は(一)支那及仏印に於ける駐兵及撤兵問題(二)支那に於ける通商無差別問題(三)三国条約の解釈及履行問題(四)四原則問題なる処之等諸項に付ては左記の程度に之を緩和す
(記)
(一)支那に於ける駐兵及撤兵問題
一、日米両国は孰(いず)れも仏印以外の南東亜細亜及南太平洋地域に武力的進出を行わざることを約すべし
二、日米両国政府は蘭領印度に於て其の必要とする物資の獲得が保障せらるる様相互に協力すべし
三、日米両国政府は相互に通商関係を資金凍結前の状態に復帰せしむべし
米国は所有の石油の対日供給を約すべし
四、米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与うるが如き行動に出でざるべし
(備考)
一、必要に応じ本取極成立せば南部仏印駐屯中の日本軍は仏国政府の諒解を得て北部仏印に移駐するの用意あること竝支那事変解決するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立の上は前記日本国軍隊を仏印より撤退すべきことを約束し差支無し
二、尚必要に応じては従来の提案(最終案)中にありたる通商無差別待遇に関する規定及三国条約の解釈及履行に関する規定を追加挿入するものとす
*リンクします「帝国国策遂行要領」(御前会議議題)→国立公文書館アジア歴史資料センター
●国家の意思決定機関には、「御前会議」「大本営政府連絡会議」「重臣会議」などがあった。「御前会議」は、天皇出席のもと、主要閣僚、軍部首脳らが重大国務を審議するために開く最高会議である。「大本営政府連絡会議」とは、大本営設置後、大本営と政府との間を調整する連絡機関で、出席者は主要閣僚、参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)、陸海軍省各軍務局長などである。「重臣会議」は、元老、首相経験者、枢密院議長、内大臣などが首相候補者を選定するための選定会議であった。
●天皇は開戦が切迫してくると、東条首相に重臣を御前会議に出席することを求めた。だが東条は、責任の無い重臣を入れて審議決定するのは適当でないと断った。天皇はさらに、重臣との「御前懇談」を重ねて提案したため、11/29の重臣会議は、東条首相から重臣に対して説明がなされ、重臣が天皇に所見を述べる形となって開かれた。
昭和16年 | 内容 |
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11月27日 | 大本営政府連絡会議開催。「ハル・ノート」は日本に対する最後通牒と結論。宣戦詔書案を審議。 (出席者)東条英機首相、東郷茂徳外相、嶋田繁太郎海相、賀屋興宣蔵相、鈴木企画院総裁、杉山参謀総長、永野軍令部総長、星野直樹書記官長、武藤軍務局長、岡軍務局長。 |
11月29日 | 重臣会議(午前)開催。3分の2が、「対米忍苦現状維持」を主張。3分の1が、「対米開戦やむなし」だった。 (出席者)阿部信行、林銑十郎、岡田啓介、米内光政、若槻礼次郎、広田弘毅、平沼騏一郎、近衛文麿、原嘉道(枢密院議長)。 |
11月29日 | 大本営政府連絡会議(午後)開催(第74回)。御前会議(12/1)の原案「対米英蘭開戦の件」を決定。対米英蘭に対し開戦する内容。 (出席者)11/27の出席者と同じ。 |
12月1日 | 閣議で全閣僚「対米英蘭開戦の件」を決定。 |
12月1日 | ●御前会議、対米英蘭に対する開戦を決定。 (参列者)東条英機内閣総理大臣兼内務大臣陸軍大臣、東郷茂徳外務大臣兼拓務大臣、賀屋興宣大蔵大臣、嶋田繁太郎海軍大臣、岩村通世司法大臣、橋田邦彦文部大臣、井野碩哉農林大臣、岸信介商工大臣、寺島健逓信大臣兼鉄道大臣、小泉親彦厚生大臣、鈴木国務大臣兼企画院総裁、杉山元参謀総長、田辺盛武参謀次長、永野軍令部総長、伊藤整一軍令部次長、原嘉道枢密院議長、星野直樹内閣書記官長、武藤陸軍省軍務局長、岡海軍省軍務局長。
御前会議は、 「11月5日決定の『帝国国策遂行要領』に基く対米交渉はついに成立するに至らず、帝国は米英蘭に対し開戦す」と決定した。 ●会議の冒頭、東条首相が天皇に、開戦やむなしに到る経過を説明した。続いて東郷外相、永野軍令部総長、東条内相、賀屋蔵相、井野農相がそれぞれ所管事項について説明した。 |
(天皇不安を覚える) 11/30の午前中、天皇は海軍に籍を持つ高松宮(高松宮宣仁親王・天皇の実弟)を宮中に呼んでたずねた。その結果、天皇は「どうも海軍は手一杯で出来るならば日米の戦争を避け度い様な気持ちだが、一体どうなのだろうか」(木戸幸一日記)と感想を洩らした。 そこで天皇は、午後3時半、木戸幸一内大臣の進言を受け入れ、嶋田海相と永野軍令部総長を呼んで最後の確認をした。2人は「艦隊の訓練は行き届き司令長官(山本五十六)は充分の自信を有しおること、人も物も共に充分の準備を整えて大命降下を待ちうけておる」(木戸幸一日記)と奉答した。そして御前会議での天皇の表情は「説明に対し一々頷かれ何等御不安の様子を拝せず、御気色麗しきやに」見えた。 とある。 |
●陸軍参謀本部は、対米交渉成立を恐れていたが、「ハル・ノート」の到着に次のように喜び安堵したといわれる。
●では陸軍にとって、中国との戦争に加えて米英蘭(オランダ)と戦争する目的と構想は何だったんだろうか。以下がそれを要約した11/13大本営政府連絡会議の決定である。これを読むと、陸軍の第1の戦争目的は、蔣介石政権打倒のために、援助しているイギリスを屈伏させることのようである。またアメリカに対しては、戦意を喪失させることが目的のようである。アメリカと長期戦を戦い勝利する自信はなかったのであろう。
一 速(すみやか)に極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に、更に積極的措置に依り蔣政権の屈服を促進し、独伊と提携して先づ英の屈伏を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。
二 極力戦争対手の拡大を防止し第三国の利導に勉む。
一 帝国は迅速なる武力戦を遂行し東亜及南西太平洋における米英蘭の根拠を覆滅(ふくめつ=滅ぼすこと)し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域竝(=並)主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う。
凡有(あらゆる)手段を盡(=尽)して適時米海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む。
二 日独伊三国協力して先づ英の屈伏を図る。
●12月12日、閣議はこの戦争を「大東亜戦争」とすることを決めた。
情報局は次のように発表した。
*リンクします「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案 昭和16年11月15日」→
国立公文書館アジア歴史資料センター
●陸軍は、11/5の御前会議の終了後の11/6、大陸命第555号で南方軍の戦闘序列が発令された。下がその戦闘序列一覧である。陸・海軍の南方作戦部隊は、11月中旬から南部仏印、パラオ、海南島、中国南部、澎湖島、台湾、奄美大島、南洋群島、小笠原諸島および内地に展開していた。
●開戦時の帝国陸軍は51個師団、総兵力約200万人といわれ、そのうち南方作戦には39万4000人があてられ、中国大陸には130万人前後が展開していた。下の写真は、11/10夜、南方地域出陣前に陸相官邸で会合した陸軍首脳陣である。(東条英機陸相は写真前列左から10番目)(写真・毎日新聞社)(出典)「昭和2万日の全記録(第6巻)」講談社1990年刊
軍 | 方面 | 軍司令官 |
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南方(総軍) | 「軍」を束ねた。総司令部はベトナムのサイゴン | 総司令官・寺内寿一(てらうち-ひさいち)陸軍大将 (写真前列左から9番目) |
第14軍 | フィリピン攻略 | 本間雅晴(ほんま-まさはる)中将 (写真前列右から5番目) |
第15軍 | タイ・ビルマ方面 | 飯田祥二郎(いいだ-しょうじろう)中将 |
第16軍 | 蘭印攻略 | 今村均(いまむら-ひとし)中将 (写真前列左から4番目) |
第25軍 | マレー半島・シンガポール攻略 | 山下奉文(やました-ともゆき)中将 (写真前列右から6番目) |
第23軍 (支那派遣軍) | 香港と九龍半島 | 酒井隆(さかい-たかし)中将 |
南海支隊 | グアム島攻略 | 支隊長・堀井富太郎(ほりい-とみたろう)少将 |
●海軍は当時世界の主流だった艦隊決戦主義(戦艦を中心とする艦隊による決戦)を否定し、空母を主力とする航空艦隊を新設した(昭和16年4月)。山本五十六は、来攻してくるアメリカ艦隊を迎撃するのではなく、アメリカ太平洋艦隊の基地ハワイを、航空兵力の集団使用によってたたくことを考え付いたのである。下が開戦時の艦隊司令長官とハワイ奇襲攻撃を担当した機動部隊の編制である。下の写真は、11/13、開戦を前に岩国航空隊で最後の打合せを行った連合艦隊首脳陣(山本五十六連合艦隊司令長官は前列中央)(写真・毎日新聞社)一覧(出典)「昭和2万日の全記録(第6巻)」講談社1990年刊
艦隊 | 司令長官 | 艦隊 | 司令長官 |
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第1艦隊(戦艦中心) | 高須四郎中将 (写真前列右から4番目) | 第2艦隊 | 近藤信竹中将 (写真前列左から4番目) |
第3艦隊 | 高橋伊望中将 (写真前列左から3番目) | 第4艦隊 | 井上成美中将 (写真前列右から1番目) |
第5艦隊 | 細萱戊子郎中将 (写真前列左から2番目) | 第6艦隊(潜水艦中心) | 清水光美中将 (写真前列左から1番目) |
第1航空艦隊 (空母中心) | 南雲忠一中将 (写真前列右から3番目) | 第11航空艦隊 (基地航空部隊中心) | 塚原ニ四三中将 (写真前列右から2番目) |
南遣艦隊 | 小沢治三郎中将 |
部隊 | 戦隊等 | 艦種別 | 艦名等 |
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空襲部隊 | 第1航空戦隊 | 空母2隻 | ●赤城・加賀。 |
同上 | 第2航空戦隊 | 空母2隻 | ●蒼龍・飛龍。 |
同上 | 第5航空戦隊 | 空母2隻 | ●瑞鶴・翔鶴。 |
同上 | 第1波攻撃隊 | 航空機183機出撃 九七艦攻(水平爆撃)49機、同(雷撃)40機、九九艦爆(急降下爆撃)51機、零戦(制空隊)43機。 | ●零式艦上戦闘機21型、九九式艦上爆撃機、九七式三号艦上攻撃機12型。 |
同上 | 第2波攻撃隊 | 航空機167機出撃 九七艦攻(水平爆撃)54機、九九艦爆(急降下爆撃)78機、零戦(制空隊)35機。 | ●零式艦上戦闘機21型、九九式艦上爆撃機、九七式三号艦上攻撃機12型。 |
支援部隊 | 第3戦隊 第1小隊 | 霧島型戦艦2隻 | ●比叡・霧島。 |
同上 | 第8戦隊 | 利根型巡洋艦2隻 (重巡) | ●利根・筑摩。 |
警戒隊 | 第1水雷戦隊 第17駆逐隊 | 軽巡洋艦1隻 駆逐艦4隻 | ●阿武隈。第1水雷戦隊旗艦(長良型巡洋艦) ●谷風・浦風・浜風・磯風。 |
同上 | 同上 第18駆逐隊 | 駆逐艦4隻と1隻(別所属) | ●不知火・霞・霰・陽炎。(陽炎型駆逐艦) ●秋雲。(第5航空戦隊)(夕雲型駆逐艦) |
補給隊 | タンカー8隻 | ●極東丸・健洋丸・国洋丸・神国丸・東方丸・東栄丸・日本丸・あけぼの丸(内地残留)。 | |
哨戒隊 | 先遣部隊から組み入れられた。 | 潜水艦3隻 | ●伊19潜・伊21潜・伊23潜。 |
先遣部隊 | 第1〜第3潜水戦隊 | 潜水艦20隻 | ●伊9,15,17,25潜。伊1,2,3,4,5,6,7潜。伊8,68,69,70,71,72,73,74,75潜。 |
特別攻撃隊 | 特殊潜航艇5隻 | 潜水艦5隻に搭載 | ●母艦・伊22潜・伊16潜・伊18潜・伊20潜・伊24潜。 |
一覧(参考)「太平洋戦争第1巻」編者 雑誌「丸」編集部 光文社1988年刊、「昭和2万日の全記録(第6巻)」講談社1990年刊、「山本五十六」阿川弘之著 新潮社昭和48年刊、「戦史叢書・ハワイ作戦」などより作成。
*リンクします「戦史叢書・ハワイ作戦」防衛庁防衛研究所 戦史室著→
朝雲新聞社
(出典)「よみがえる第2次世界大戦(カラー化された白黒フィルム)第2巻日米開戦」NHKエンタープライズ2009年。
※mp4動画(ダウンロード)のため再生までに時間がかかります。
(mp4動画、サイズ1.22MB、26秒)
(出典)「WORLD WARⅡ第2次世界大戦全史」アメリカTVドキュメンタリー(1952~1953)
※(YouTube動画、サイズ1.58MB、33秒)
●ルーズベルト大統領、議会にて対日宣戦布告を宣言する。(ワシントン時間11/8)
(出典)「よみがえる第2次世界大戦(カラー化された白黒フィルム)第2巻日米開戦」NHKエンタープライズ2009年。
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(mp4動画、サイズ1.84MB、41秒)
(出典)秘録・太平洋戦争全史(日映製作戦記映画復刻)1975年(株)日本映画新社製作
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下は24時間のタイムライン(出典)「昭和2万日の全記録(第6巻)」講談社1990年刊
日本時間 (東京) | 地域・場所 | 事前行動 |
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11/26午前6時 | 日本、択捉島・単冠湾 | 南雲忠一中将指揮による空母6隻、戦艦2隻、重巡、軽巡、駆逐艦などからなる機動部隊が、ハワイに向け出航。 |
12/2 | 広島湾旗艦長門 | 連合艦隊司令部は、機動部隊赤城に「ニイタカヤマノボレ1208」と打電。(開戦日12月8日) |
12/4 | 中国、海南島・三亜 | 第25軍マレー攻略陸軍先遣兵団輸送船団、海南島を出航。 |
12/4 | 日本、小笠原・母島 | グアム島攻略の南海支隊出発。 |
12/7 | 南シナ海 | 陸軍の戦闘機、マレー作戦部隊輸送船団に接近中の英軍機を撃墜。太平洋戦争最初の攻撃。 |
12/7 | ハワイ付近 | 真珠湾攻撃の特殊潜航艇、親潜水艦から発進し真珠湾内に向かう。 |
日本時間 12/8(東京) | 12/8(月)東京(0時00分)、12/7(日)マレー(23時30分)、12/7(日)ワシントン(10時00分)、12/7(日)ハワイ(4時30分) | |
0時17分 | ハワイ真珠湾口の防潜網が1時37分まで引き上げられ、日本軍の特殊潜航艇、その間に湾内に潜入。 | |
0時20分 | ワシントン12/7(日):10時20分 米海軍通信局、傍受した日本の「対米通牒(覚書)」(7日1時50分東京中央電信局発信)の暗号解読文を海軍首脳に配布。 | |
0時30分 | クルー駐日米大使、ルーズベルト大統領から天皇にあてた平和を呼びかける「親電」を東郷茂徳外相に手交。 | |
1時0分 | ハワイ12/7(日):5時30分 日本軍第1航空艦隊の偵察機、ハワイに向け発進。 | |
” | ワシントン12/7(日):11時00分 「対米通牒(覚書)」を午前3時(ワシントン時間7日午後1時)までにハル国務長官に手交するように、との東郷外相発野村吉三郎駐米大使宛の暗号訓電、米軍情報部により解読される。 | |
1時25分 | ワシントン12/7(日):11時25分 マーシャル米陸軍参謀総長、「対米通牒(覚書)」暗号解読文を読む。 | |
1時30分 | ハワイ12/7(日):6時00分 第1航空艦隊の第1次攻撃隊183機、ハワイ・オアフ島の北方425キロ海上から真珠湾に向けて発進。 | |
1時35分 | 第25軍佗美支隊の舟艇群、マレー半島コタバル沖から陸岸に向かい発進。 | |
2時15分 | マレー12/8(月):1時45分 佗美支隊、コタバルに敵前上陸成功。 | |
2時15分 | ハワイ12/7(日):6時45分 米駆逐艦ウォード、真珠湾口の外側で正体不明の潜水艦(日本軍の特殊潜航艇)を撃沈。 | |
2時30分 | ワシントン12/7(日):12時30分 ワシントンの日本大使館が「対米通牒(覚書)」暗号文の解読を終える。 | |
2時36分 | ハワイ12/7(日):7時06分オアフ島の米軍レーダー、接近する飛行機群を探知するが日本の攻撃隊と気づかず。 | |
2時45分 | 第1航空艦隊の第2次攻撃機167機、出撃艦隊は減速して南下。 | |
3時0分 | 日本政府、日本時間12/8:3時0分、ワシントン時間12/7(日):13時00分に「対米通牒(覚書)」をハル長官に手交することを指示。 東郷外相、天皇にルーズベルトの「親電」を奉呈。 | |
3時19分 | ハワイ12/7(日):7時49分 オアフ島上陸の第一次攻撃隊淵田美津雄少佐、「トトトト」(全機突撃セヨ)と命令。 | |
22分 | 淵田少佐、「トラ・トラ・トラ」(「ワレ奇襲二成功ス」)を発信。 | |
25分 | 急降下爆撃隊、オアフ島のフォード、ヒッカム飛行場に第1弾を投下。 | |
27分 | 雷撃隊指揮官村田重治少佐、米戦艦ウエスト・バージニアに向け魚雷発射。 | |
3時28分 | ハワイ12/7(日):7時58分 ハワイ海軍航空隊司令官、全世界に「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と無線放送。 | |
3時30分 | 南方軍総司令部、「第15軍司令官ハ、即時タイ国進入作戦ヲ開始スベシ」と命令。 | |
” | コタバル沖の日本軍輸送船団、英軍機の爆撃を受ける。 | |
3時31分 | 真珠湾の米戦艦アリゾナ、火薬庫に爆撃を受けて大爆発を起こし沈没。 | |
3時40分 | 大本営陸軍部が支那派遣軍、第23軍、北支那方面軍、第11軍、第13軍にマレー半島上陸開始を告げる緊急電報(「ハナサク、ハナサク」)を発信。 | |
3時40分 | 近衛師団吉田支隊がバンコク南方海岸に上陸。 | |
3時42分 | 太平洋上の米軍第8任務部隊(ハルゼー提督指揮、空母エンタープライズ他)、戦闘配置につく。 | |
3時47分 | ワシントン12/7(日):13時47分 ルーズベルト大統領、真珠湾攻撃の報告を受ける。 | |
50分 | ワシントン12/7(日):13時50分 ワシントンの海軍省に真珠湾攻撃の第1報。 | |
3時50分 | ワシントンの駐米日本大使館、「対米通牒(覚書)」の全文の浄書を終える。 | |
4時0分 | 日本放送協会、海外向け短波放送末尾に「西の風晴れ」と日本政府の暗号指令を入れる。駐米・英大使館はただちに暗号書を焼却する。 | |
” | ワシントン12/7(日):14時00分 ハル国務長官、ルーズベルト大統領から真珠湾攻撃を知らされる。 | |
” | 第23軍、香港攻略作戦開始の軍命令を下す。 | |
4時5分 | ワシントン12/7(日):14時05分 野村・来栖両大使、国務省に到着 | |
4時12分 | 第五師団、マレー半島のタイ領シンゴラに上陸。 | |
4時20分 | 第1航空艦隊第二次攻撃隊の指揮官嶋崎重知少佐、全機に真珠湾突入を命令。 | |
” | 第25軍宇野支隊、マレー半島のタイ領チュンポンに上陸。 | |
4時21分 | ワシントン12/7(日):14時21分 野村・来栖両大使、ハル長官に「対米通牒(覚書)」を手交。 | |
4時30分 | 第25軍安藤支隊、マレー半島のタイ領パタニとタペーに上陸。 | |
” | 東郷外相、官邸で真珠湾攻撃の報告を受ける | |
5時0分 | ワシントン12/7(日):15時00分 ルーズベルト大統領、政府・軍首脳と「戦争会議」を開く。 | |
5時25分 | 山下奉文第二五軍司令官、シンゴラに上陸。 | |
5時30分 | 第二次攻撃隊、真珠湾から引きあげる。 | |
5時38分 | 海軍第22航空戦隊の美幌航空隊、シンガポールを攻撃。ダバオ、ウェーキも空襲。 | |
6時0分 | 大本営陸海軍部、米英軍と戦闘状態に入ったことを発表。 | |
” | チャーチル英首相、真珠湾攻撃のニュースを聞き、ルーズベルト大統領と電話で話し合う。 | |
6時30分 | 日本放送協会、天気予報を放送せず。以後、戦時下では天気予報は行われなかった。 | |
7時0分 | 日本放送協会、7時の時報のあと臨時ニュースで対米英開戦を報道。 | |
7時0分 | 近衛師団先遣隊がタイ国境を突破して、バンコックに前進を始める。 | |
7時10分 | 首相官邸で臨時閣議開かれる。 | |
” | 支那方面艦隊、上海で米砲艦ウェーキを捕獲し、英砲艦ペテレルを撃沈。 | |
7時11分 | ホノルルの商業放送局に放送禁止命令下る。 | |
7時15分 | 永野軍令部総長が天皇に海軍の戦況を奏上。 | |
7時30分 | 東条英機首相、参内して宣戦の詔書を内奏。 | |
” | 東郷外相、グルー駐日米大使にルーズベルト大統領の「親電」に対する天皇の回答を手交。 | |
7時35分 | 杉山参謀総長が天皇に陸軍の戦況を奏上。 | |
8時0分 | 第23軍、香港・九竜半島の啓徳飛行場を空襲。第38師団は深圳東地区から中・英国境を突破し香港を攻撃。 | |
8時30分 | 東郷外相、グルー米大使に開戦を通告。 | |
” | 第1航空艦隊、ハワイ攻撃の第1次・第2次攻撃隊の収容を終える。 | |
” | 第4艦隊の第18航空隊、グアム島を空襲。 | |
” | 陸軍第5飛行集団、フィリピンのツゲガラオ飛行場とバギオ兵営を爆撃。 | |
9時0分 | 第1航空艦隊、針路を北北西に転じ帰途につく。 | |
10時30分 | ワシントン12/7(日):20時30分 ルーズベルト大統領、閣議を開き真珠湾攻撃の詳細を説明。 | |
” | 「日本・タイ協力に関する協定」調印。タイ、日本軍の国内通過を認める。 | |
” | ハワイのショート陸軍司令官、開戦前にマーシャル参謀総長が発信した「日本軍の攻撃を警戒せよ」との電報を受け取る。 | |
10時50分 | 天皇臨席のもと、枢密院本会議が開かれる。対米英宣戦布告を満場一致で可決。 | |
11時15分 | ハワイ全土に戒厳令がしかれる。 | |
11時30分 | 日本放送協会の臨時ニュース、真珠湾攻撃の成功を伝える。 | |
11時37分 | 天皇、宣戦の詔書を允裁。 | |
11時45分 | 宣戦の詔書、発布される。臨時議会召集の詔書、公布される。 | |
” | 外務省、米・英・オーストラリア・カナダの各駐日大使館に対し宣戦を通告。 | |
12時0分 | 日本放送協会、宣戦の詔書と東条首相の「大詔を拝し奉りて」を放送。 | |
12時16分 | 大本営陸軍部、マレー半島上陸の成功と香港攻撃を発表。 | |
12時30分 | 対米英戦争についての「政府声明」発表。 | |
13時0分 | 大政翼賛会第2回中央協力会議開かれる。東条英機総裁、全議員に「重大なる決意」を要請。 | |
13時32分 | 第11航空艦隊、フィリピンのクラークフィールド飛行場とイバ飛行場を空襲。 | |
14時0分 | 陸・海相、参内して天皇から、「陸海軍に賜わる勅語」を拝受。 | |
17時0分 | 東京市、東京府防空総監から日没から灯火管制を実施するよう要請を受ける。 | |
18時30分 | 情報局、「今朝、敵国・敵性関係の外人スパイ被疑者を一斉検挙」と発表。 | |
20時0分 | ワシントン12/8(月):6時00分 ルーズベルト大統領、全米向けラジオ放送で日本との「正義の戦争」に国民の奮起と協力を訴える。 | |
20時24分 | この日作詞、作曲されたニュース歌謡『宣戦布告』『太平洋の凱歌』放送される。 | |
20時30分 | 永野修身軍令部総長、天皇に真珠湾攻撃の戦果を奏上。 | |
20時45分 | 大本営海軍部、真珠湾攻撃の戦果を発表。 | |
21時0分 | 日本放送協会、ニュースで真珠湾攻撃の戦果を放送。 |
●この真珠湾攻撃は、日本の「最後通牒」の前に行われたため、アメリカはこれを、「だまし討ち」「リメンバー・パールハーバー」といって、アメリカ国民を強く鼓舞し、「正義の戦い」に向かわせたのである。
この背景には、「開戦に関する条約」(1907年ハーグ)という、日本も1911年批准し、1912年に公布した条約があった。アメリカは、日本が平和交渉を続けるふりをして(だまして)、国際間の道義(この条約)を破って突然攻撃した、と非難したのである。この条約の第1条は以下の通りである。
第1条 締約国は理由を附したる開戦宣言の形式又は条件附き開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭且(かつ)事前の通告なくして其の相互間に戦争を開始すべからざることを承認す。
●国際法を熟知していた山本五十六は、奇襲作戦が成功したことが確実と思われた時、連合艦隊の政務参謀をよび、次のように言ったという。
(出典)「山本五十六」阿川弘之著 新潮社昭和48年刊
●この最後通牒の遅れたことを「昭和2万日の全記録(第6巻)」講談社1990年刊では、次のように切り捨てている。
とあるが、原因はもっと単純なことと思われる。その一つは、日本人の几帳面さと細かさを示すもので、「攻撃開始の30分前に手渡す命令」であったこと、そしてもう一つは、「最後通告」が長すぎる文章だったこと、であろう。下に原文をリンクしておいた。
*リンクします「帝国政府ノ対米通牒覚書」(いわゆる「最後通牒」)関連資料→
国立公文書館アジア歴史資料センター
●イギリスの歴史家A.J.P.テイラーは、イギリスの歴史学者ガイ・ウィントの言葉を引きながら、次のように述べている。(出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊。
さらに「解読されていた日本の暗号」の中では次のように述べている。
しかし、戦中や戦争直前期にありがちなことだが、合衆国は主観的に状況を判断していたのである。つまり、シンガポールとフィリピンという固定観念にとりつかれており、日本が真珠湾を攻撃するなど夢想だにせず、それを示すような徴候もまったく無視してしまったのである。
このことに関しては、現在でも一部のアメリカ人に支持されている別の見方がある。それは、ローズベルト大統領は、合衆国を参戦させるためにわざと真珠湾の防衛を手薄にして日本軍の攻撃を挑発したというものである。しかしこの見解はどうも怪しい。どんなに無節操であっても、自国の艦隊の大半を失ってから戦争に突入しようなどという政治家はいないであろう。また、真珠湾の防衛を講じなかったことから、その後一連の偶発的な事態が生じたが、これらの事態は、どうこじつけても事前に計画するのは不可能なことばかりであったからである。