1941年(昭和16年)②海軍、対米英戦反対。10月東条英機内閣成立。
2022年6月21日第2次世界大戦
海軍は最後まで対米英戦に反対したが、最後にはついに開戦の決定に従う。陸軍を中心とする開戦論の前提は、ドイツ軍の勝利であり不敗であることにあった。だが、その神話はモスクワ攻防戦で崩れた。12/5無敗のドイツ軍はソ連軍の大反撃によって、モスクワを目前に敗退した。その同じ時、極東の日本はハワイ真珠湾攻撃を行い、世界大戦の幕を開いた。
前年の昭和15年9月、近衛首相は、3国同盟に反対していた海軍が急に賛成に変わったことに不信を感じ、山本五十六連合艦隊司令長官を荻窪の荻外荘に呼んだ。そして日米戦が起こった場合の海軍の軍事的な見通しを聞いた。山本は次のように答えた。
(上写真)昭和16年10月30日、宿毛湾沖標柱間で全力公試運転中の大和。(出典)「ハンディ版日本海軍艦艇写真集①」戦艦大和・武蔵・長門・陸奥。編者・雑誌「丸」編集部。光人社1996年刊
1941年(昭和16年)12月、ソ連軍の大反攻が開始され、ドイツ軍の撤退が始まる。6月のドイツ軍のソ連侵攻(バルバロッサ作戦)に呼応して7月、日本は満州で「関東軍特殊演習」を行った。もしこの時、関東軍がソ連に侵攻すれば(ドイツから要請されていた)、モスクワは陥落していただろう。だが日本は、南方進出を選択した。ソ連のスパイ・ゾルゲらの工作が功を奏したのかもしれない。あるいは、陸軍が、1939年のノモンハン事件(大規模な日ソ国境紛争)でソ連陸軍の機動力に衝撃を受け、ソ連軍との戦闘を躊躇したのが理由かもしれない。
(年譜出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊。
月/日・内容 |
---|
1941年1月 |
(アメリカ)ルーズベルト1/6「4つの自由」。(北アフリカ戦線)イギリス軍、エチオピア進撃。(南アジア)ヴェトナム独立闘争民主戦線結成。(大西洋戦線)ドイツUボート作戦展開。 |
1941年2月 |
(北アフリカ戦線)ロンメル、トリポリに到着。 |
1941年3月 |
(東部戦線)ブルガリア、ユーゴ、3国同盟に。(アメリカ)3/1武器貸与法成立。(東部戦線)3/27ユーゴ、反ドイツクーデター。(北アフリカ戦線)ロンメル、攻勢を開始。 |
1941年4月 |
(東部戦線)4/5ソ連、ユーゴ相互不可侵条約。(東部戦線)4/6ドイツ軍、ギリシャ・ユーゴ侵入、ユーゴ降伏。ギリシャ休戦。(北アフリカ戦線)4/上旬ロンメル、キレナイカ再征服。イギリス、エリトリア・エチオピア攻略。(日米)4/13日米交渉開始(ハル・野村会談)。(東部戦線)4/下旬イギリス軍、ギリシャより撤退。 |
1941年5月 |
(アメリカ)非常事態宣言。(日仏)5/9日本・フランス東京条約。(ドイツ)5/10副総統ルドルフ・ヘス、イギリスに和平交渉。(西部戦線)5/15フランス、対ドイツ国民解放戦線結成。(イギリス本土防衛戦)5/16バトル・オブ・ブリテン終了。(地中海戦線)5/20〜27ドイツ空挺部隊、クレタ島占領。(北アフリカ戦線)5月中旬〜6月中旬イギリス、”斧作戦”失敗。ウェーベル解任。後任、オーキンレック。 |
1941年6月 |
(アメリカ)ソ連を中立法の適用外に、対華武器貸与法発令。(東部戦線)ルーマニア、対ソ宣戦布告。(ドイツ)6/18トルコと友好条約。(東部戦線)6/22ドイツ、バルバロッサ作戦開始(ソ連侵攻)。(東部戦線)6/27イタリア・ルーマニア・スロバキア・ハンガリーも対ソ宣戦布告。(東部戦線)6/30ドイツ機甲部隊、ミンスク攻略・リトアニア占領。 |
1941年7月 |
(東部戦線)7/3スターリン、焦土戦術命令。(英ソ)7/12相互援助条約成立。(東部戦線)7/16グデリアン軍団、スモレンスク侵入。(連合国)7/26アメリカ・イギリス・カナダ・ポルトガル・フランス、日本資産凍結。(南アジア)7/28日本軍、南部仏印上陸(ベトナム)。(連合国)7/下旬オランダ、日本資産凍結。日英通商航海条約廃棄。 |
1941年8月 |
(連合国)8/1米ソ経済援助協力。(東部戦線)8/上旬レープ北部方面軍、エストニア侵入。ランドシュタット南部方面軍、ウクライナ侵入。オデッサ包囲戦。(連合国)8/14チャーチル・ルーズベルト、大西洋憲章。(アメリカ)8/17日本に警告を発する(ルーズベルト・野村会談)。(東部戦線)8/21ヒトラー作戦変更を指令。モスクワ進撃中止命令、クリミア半島占領、ドニェツ工業地帯・カフカス油田の確保命令。 |
1941年9月 |
(東部戦線)9/13レニングラード攻防戦始まる。(東部戦線)9/30ボック中部方面軍、モスクワ進撃再開。 |
1941年10月 |
(日本)10/15ゾルゲ事件発覚。(日本)10/18東条内閣発足。(東部戦線) 10/下旬ドイツ軍、クリミア進攻、ハリコフ攻略。 |
1941年11月 |
(アメリカ)11/6対ソ10億ドル借款。(北アフリカ戦線)11/18ロンメル軍団、イギリス第8軍(カニンガム)撃破。(東部戦線)11/21ドイツ軍、ロストフ占領。(太平洋戦争)11/26日本機動部隊、単冠(ヒトカップ)湾を発進。(東部戦線)11/下旬ドイツ軍、モスクワ寸前に迫る。(大西洋戦線)ドイツUボート作戦本格化。 |
1941年12月 |
(北アフリカ戦線)12/1ロンメル軍、トブルク包囲。(東部戦線)12/5ドイツ軍進撃停止、ソ連軍の大反攻開始。(東部戦線)12/初旬ドイツ軍撤退始まる。ランドシュタット解任、ボック、レーブ辞任へ。後任はライヘナウ、クルーゲ、キュヒラー。(日米)12/7交渉決裂。 (太平洋戦争)12/8日本軍、ハワイ真珠湾奇襲。日本、対英米宣戦布告。日本軍第25軍(山下 奉文)、マレー半島に上陸。アメリカ対日および対独伊宣戦布告。イギリス対日宣戦布告。 |
(出典)「よみがえる第2次世界大戦(カラー化された白黒フィルム)第2巻日米開戦」NHKエンタープライズ2009年。
※mp4動画(ダウンロード)のため再生までに時間がかかります。
(mp4動画、サイズ4.75MB、1分42秒)
●7月18日成立した第3次近衛内閣は、対ソ参戦強硬論を主張する松岡洋右外相を排除する目的で組閣した。そして対米交渉の成立に強い期待を持ったが、7月末の日本軍の南部仏印進駐によって、アメリカに強硬な報復措置をうけた。近衛首相は事態を好転させるため、ルーズベルト大統領との直接会談を望んだが、かなわなかった。
そして9月6日、御前会議は外交交渉が成立しない場合、10月上旬、対米英蘭との開戦と決定した。「帝国国策遂行要領」
ここでは『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。
海軍の山本五十六連合艦隊司令長官は、開戦の劈頭にアメリカ太平洋艦隊の基地であるハワイ真珠湾をたたくという奇襲作戦を考え出した。しかも誰も考えつかなかった航空兵力の集団使用(空母群)によって先制攻撃をしかけるというものだった。
この航空機による戦艦撃沈は、1940年11/11に先例があった。これはイギリ海軍が空母イラストリアスから、ターラント港(イタリア南端)に停泊中のイタリア艦隊を攻撃したもので、戦艦3隻が撃沈され、艦隊の半数が航行不能となった。これによりイギリスは東地中海の制海権を回復した。しかしイギリスはこの勝利が航空戦力によるものだとは気づかなかった。
山本は、早くから航空戦力の優位性に気づき、このハワイ真珠湾攻撃(12/8)、つづいてマレー沖海戦(12/10)で、実戦航行中の最新鋭イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパレスを航空機によって撃沈して実証した。
●海軍内部で「艦隊派」と「条約派」とが対立するようになったのは、世界的な海軍軍縮問題が話し合われた「ワシントン会議」1921年(大正10年)~1922年(大正11年)開催、にさかのぼる。下段は、1922年のワシントン海軍軍縮条約の概略である。海軍軍縮の考えが対立を生んでいく。
(文は「日本の歴史」読売新聞社1963年より引用・要約)
●ワシントン海軍軍縮会議は、第1次世界大戦後の1921年(大正10年)7月、アメリカ国務長官ヒューズがアメリカ駐在全権大使幣原喜重郎に軍縮会議の提案をしたことから始まった。
第1次世界大戦は非常に進歩した軍事科学が軍備の革新をもたらした。そのため各国は、飛行機、戦車、毒ガスなどの新兵器そして重火器(大砲)の大型化や、軍艦の近代化のためほとんどの兵器を一新する必要がおこった。
これは戦後の戦勝列強の政府にとって大変な財政負担であった。その上に悲惨な大戦の経験の直後、全世界に起こった平和風潮は、いっそうこのような巨大な軍事費の財政負担に対する批判を強めた。どの国でも、軍からの膨大な軍事費の要求を、議会や政府が削るのに大わらわという状態であった。ことに、海軍の建艦費が問題であった。何しろ、ちっぽけな排水量1000トンぐらいの駆逐艦でも、総製作費は東京の国会議事堂の建築費総額ぐらいかかるのであった。しかも大戦前の軍艦はもはやすっかり旧式化してしまった。早急に最新型の軍艦を建造しなければならないということで、戦勝列強つまりイギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアは、いずれも大規模な建艦計画を抱えていたのである。
●日本海軍は仮想敵国をアメリカとし、アメリカ海軍と対抗するため海軍充実計画(八八艦隊)を練っていた。内容は、主力を、艦齢8年未満の戦艦と巡洋艦おのおの8隻とし、これに見合う補助艦艇をもつものであった。第1次世界大戦後、日米の建艦競争は露骨になり、日本は1920年から 8年間にわたる、総額約10億円に達する継続支出を決定した。これは、戦艦4、巡洋戦艦4、巡洋艦12、駆逐艦32などの建造にあてられる予定で、八八艦隊の完成を図らんとしたのである。
●かくて、戦争直後の 1920年の決算では、軍事費は維新以来最大の規模に達した。すなわち、陸軍省関係2億4000余万円、海軍省関係4億余万円、計6億5000万円弱で、これは政府の歳出総額の 4割8分をしめた。1921年度はこれを上回り陸軍省関係2億4000余万円、海軍省関係4億8000余万円、計7億3000余万円となり、歳出総額の4割9分をしめた。
●この上もし軍備増強が計画通り継続支出を続けるとすれば、それは政府にとって大変な負担となる。そこで、対抗上膨大な軍事費を支出せざるを得ない状態に陥っている列強政府は、国際的協定によってこの重荷を減らそうと望んだのであった。米国議会も、1921年度の海軍予算可決の際に際して、アメリカ、イギリス、日本で軍縮会議を開けと付帯決議をしたほどであった。
●このワシントン会議は、アメリカ国務長官ヒューズによる爆弾宣言で流れが決まった。ポイントは次の3点で
①主力艦は(戦艦と巡洋戦艦)建造計画は、目下建造中のものを含めてすべて放棄する。
②老築艦の一部を廃艦にする。
③今後の海軍力制限は、だいたい現在の保有海軍力で決定する。というものであった。
●主力艦の保有比率の提案はアメリカ、イギリス、日本で10.10.6だった。しかし日本は10.10.7を主張した。日本海軍は当然10.10.7の比率を強硬に主張したが、当時の新聞などの論調は、10.10.6の比率をとっても軍縮の実現をはかれというものが多かった。国内では海軍は孤立する情勢にあった。そして日本は、1922年2月、主力艦5.5.3(=10.10.6)の比率を受諾したのである。
●この「海軍軍備制限に関する條約」(ワシントン条約)は1936年12月31日まで効力を有し、主力艦は、1921年11月12日より10年間(1931年11月)まで起工できないという内容であった。また、その有効期間より2年前に本条約を廃止する意思を通告するときは、その通告より2ヶ年経過するまで条約は有効とし、またもし廃止通告がされた場合は、全締結国は1ヶ年以内に会議を開かねばならないということも定められていた。
●そしてワシントン会議の首席全権で、後に総理大臣となる加藤友三郎海相は、重要案件が片付いたあとワシントで海軍省あての伝言を口述した(下記に一部引用)。このような思想を持つものを「条約派」といった。これを筆記した当時大佐であった随員の堀悌吉、親友の山本五十六、彼らの先輩である谷口尚真、岡田啓介、左近司政三、山梨勝之進、米内光政、後輩にあたる古賀峯一、井上成美などは皆人脈の上で加藤友三郎の系列に属する人々だった。
一方、そういった考えは「艦隊派」には英米の顔色をうかがう卑屈な弱腰に映った。なかでもワシントン会議に海軍専門委員と出席した加藤寛治提督は、帰国後不満をぶちまけ、海軍の少壮将校はもとより国民の多くに強く訴えた。大正12年の夏、加藤友三郎が首相在任のまま亡くなると、加藤寛治はまもなく軍令部次長になり、その下に末次信正がつき、対米強硬論を唱える加藤・末次一派(艦隊派)と条約派との対立は深まっていった。そして「艦隊派」が勢力を拡大していくのである。(出典)「山本五十六」阿川弘之著 新潮社1973年刊から要約。
●下段は1930年のロンドン海軍条約の概略である。1929年に端を発する世界恐慌により、各国はさらなる海軍軍縮を強く望んだのである。
●1922年のワシントン海軍軍縮会議は、主力艦と航空母艦を制限したものだったので、各国の補助艦艇(巡洋艦以下)についての建造競争は激化していた。そこで1927年(昭和2年)、ジュネーブで補助艦を制限する会議が開かれたが、これは各国の主張が対立してまとまらなかった。
●しかし1929年に端を発する世界恐慌は、各国を経済不況と社会不安で襲い、各国政府にとっても財政負担軽減である海軍軍縮を強く望む機運がうまれた。また主力艦の建造停止期間も1931年に迫っていたこともあり、1930年1月より日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア5ヶ国がロンドンに集まり軍縮会議開催となったのである。
●この会議の主な目的は、①補助艦艇の建造に新たな制限を設けること。②主力艦の建造停止期間を延長すること、であった。
●日本においては、濱口内閣は緊縮財政・金解禁による財政立て直しと協調外交が政治目標であったため、軍縮を強く望んでいた。
一方海軍は、今度こそ対米7割を主張し、①補助艦総トン数対米7割、②大型巡洋艦対米7割、③潜水艦保有量現状維持、を3原則として会議に臨んだ。
●しかしアメリカ・イギリスは5.5.3の比率を主張して会議は難航したが、妥協案が成立し(補助艦艇総保有量対米比率は6.97割など)、1930年4/22調印された。
そして、①ワシントン条約の主力艦建造停止期間を1931年から1936年まで延長し(第1篇 第1条)、②このロンドン海軍条約の有効期限を1936年12月31日までとし、かつ新条約を作成するために1935年に全締約国による会議を開くことを決めたのである。(第5編 第23条)
●だが日本国内では、政友会がこの軍縮条約の締結を「統帥権干犯」と問題視し、その後大きな政治・思想問題に発展していくのである。
下は政友会鳩山一郎の議会発言の一部。
「・・しかして国防に関しては国務大臣に天皇輔ひつの責任があるが、軍事に関する輔ひつの責任は参謀総長あるひは軍令部長にある、政府が軍縮問題に関して軍令部といふ統帥権に関する直接の機関の意向を無視したことはまことに政治上の大冒険といはねばならない・・」
*リンクします「海軍軍備制限ニ關スル條約」1922年「ワシントン会議」→
国立公文書館「アジア歴史資料センター」
*リンクします1930年「ロンドン」海軍条約→
国立公文書館「アジア歴史資料センター」
●そして1934年(昭和9年)10/24、イギリスがロンドン海軍条約(有効期限1936年12/31)に定められた(第23条)「1935年に開かれる予定の軍縮会議」前に、日英米3国の了解を得るために提議した予備交渉である「日米海軍予備第1次会談」がロンドンで開催された。このときの日本側代表が山本五十六海軍少将だった。山本は粘り強く交渉を進めたが、当時の海軍上層部はワシントン条約破棄を決めており、条約破棄を望まない山本は、会議終了後「艦隊派」から冷遇されたといわれる。
●昭和11~14年、米内光政が海軍大臣、山本五十六(いそろく)が海軍次官、井上 成美(しげよし)が海軍省軍務局長の頃、この3人は徹底的に「三国同盟」締結に反対した。陸軍とは違い、ドイツの危うさと、ヒトラーの本質(日本も蔑視していた差別主義者)を理解していた海軍は、3国同盟に徹底して反対した。3国同盟がアメリカとの開戦の引き金になることを理解していたからである。海軍は、その合理性から、アメリカと開戦すれば負けることを分かっていたのである。そのため三国同盟締結を強力に主張する陸軍と対立し、その手先でもあった右翼につけ狙われた。彼らの考えはどのようなものだったのだろう。一例を上げる。(出典)「山本五十六」阿川弘之著 新潮社1973年刊から引用。
①2.26事件(昭和11年)前夜、陸軍の青年将校らの昭和維新の動きに共鳴しようとする海軍の士官に対して、軍人の本分を諭した井上成美の言葉が以下である。暴走する陸軍に対して、軍人としての本分を守ろうとした海軍の良識ともいえる。だが全ての海軍士官が中道であったわけではない。
②昭和12年12月、南京攻略戦のさなか日本海軍の航空隊が揚子江上のアメリカ艦船(パネー号)を撃沈した事件が起きた。この事件は大きな国際問題となるかにみえたが、支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊長谷川清司令長官は速やかに自軍の非を認め謝罪し事件を収拾した。この時の山本五十六海軍次官の発言は以下の通りである。少なくとも国際法を守ろうとしたのが海軍であった。だがそれより前の昭和12年8月、96式陸攻(世界水準に達した海軍新鋭攻撃機)による渡洋爆撃を敢行し、国際連盟に「無差別爆撃」と非難されたのも海軍だった。
●松岡外相は就任(昭和15年7月)直後より3国同盟締結の打診をドイツ側におこなっていた。当初、ドイツ側の反応は冷たかったが、英国屈服の見通しがつかなくなったことや、アメリカの参戦が危ぶまれるようになると、ドイツ側も同盟に積極的になった。
一方、3国同盟に反対を続けていた吉田善吾海相が、反対派の海軍の長老と推進派の陸軍・外務省との板挟みで健康を害し9/4辞任した。新しく就任した及川古志郎海相は同盟には反対せず、3国同盟締結は急速に進展していった。
●そして9/16閣議で3国同盟条約案は了承され、9/19の御前会議で条約締結の方針が決定された。御前会議で松岡外相は、3国同盟に関して、日米関係を改善する余地は殆どなく、改善する方法があるとすれば毅然とした態度(3国同盟を結ぶ意味)をとるしかないと説明した。席上、対米関係、石油資源の確保、対ソ関係などについて質問が出たが、政府側の説明に押し切られた。そして伏見宮軍令部総長より日米開戦回避に万全を期するようになどの希望がでて御前会議は終了した。
この御前会議の出席者は、天皇、(政府側)近衛首相、東条英機陸相、松岡外相、及川海相、河田蔵相、星野企画院総裁、(統帥部)閑院宮参謀総長、沢田参謀次長、伏見宮軍令部総長、近藤軍令部次長、原枢密院議長だった。
●反対すると思われていた海軍の内情は、阿川弘之著「山本五十六」新潮社、平成23年(2011年)66刷によれば次のようである。
そこで山本連合艦隊司令長官が、私は大臣に対しては、絶対に服従するものですが、もし3国同盟を結べば、今まで英米圏内から得てきた8割の資材を失うことになってしまうが、どう物動計画を切り替えたのかを質した。ところが、及川大臣はこの問いに答えず、「いろいろご意見もありましょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、この際は3国同盟にご賛成願いたい」と、同じことを繰り返した。
すると、選任軍事参議官の大角 岑生大将が、まず、「私は賛成します」と口火を切ると、ばたばたと一同賛成ということになってしまった。
●この及川海軍大臣についての評価はあまり高くはない。この時の及川海軍大臣は、軍事的な意見ではなく、政治的な力関係から賛成したといわれている。近衛首相は、強硬に反対していた海軍があっさり賛成したので不信を感じ、山本五十六連合艦隊司令長官を荻窪の荻外荘に呼び、日米戦が起こった場合の海軍の軍事的な見通しを聞いた。山本は次のように答えたという。
●山本は及川海軍大臣の八方美人ぶりを嫌い、かつ「薄志弱行の近衛公」と言われた近衛首相を嫌っていたために、上記のような強気なことを言ったのかもしれない。山本はこの2ヶ月半のちに、同期の嶋田繁太郎(東条内閣で東条の副官とまでいわれた海軍大臣)への書簡の中で次のように怒りを述べた。
さらに「・・要するに近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を土からはなす事は危険千万にて、誠に陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感を深く致候、ご参考迄」
●また山本は「3国同盟調印(9/27)」約2週間後に、西園寺公望の秘書の原田熊雄に次のように語った。山本にとって対米開戦が現実味を帯びてきたのかもしれない。非常な決心の様子で語ったという。
昭和13年5月5日、前支那方面艦隊司令長官長谷川清中将が、退任して海軍省に凱旋の挨拶に来た時のニュース映像が残っている。画面で「脱帽」とあるのが伏見宮博恭王・軍令部総長とおもわれる。映像の最後の場面が下のシーンで、左が長谷川清中将、米内光政・海軍大臣、右側にギリギリで映像に残っているのが山本五十六・海軍次官である。
(出典)昭和14年海軍省製作、社団法人日本映画社「支那事変海軍作戦記録」、「戦記映画復刻版シリーズ」日本映画新社製作。
※(YouTube動画、サイズ4.74MB、44秒)
●だが陸軍はアメリカの要求する「中国からの撤兵」について譲歩は不可能とし、9/6の御前会議決定の対米英蘭開戦の実行を主張する。こうして10/16、第3次近衛内閣は主戦論の陸軍を抑えきれず総辞職した。
そして10/18、開戦派軍人の筆頭東条英機内閣が成立した。
●海軍の山本五十六連合艦隊司令長官は、対米開戦に反対していたが、もし開戦となれば最大の効果を上げる作戦を考え出さねばならなかった。それが、開戦の劈頭にアメリカ太平洋艦隊の基地であるハワイ真珠湾をたたくという奇襲作戦だった。一番の目的は、日本軍の南方攻撃を成功させるためであった。従来の考えは、フィリピン等の防衛のため、アメリカ海軍が進出して来たところを艦隊決戦で迎え撃つというものであった。山本は、そうではなくアメリカ太平洋艦隊の基地に先制攻撃をしかけ、しかも誰も考えつかなかった航空兵力の集団使用(空母群)によって行おうとしたのである。連合艦隊の幕僚たちは、誰もがこの作戦のあまりのリスクの高さに反対したが、山本は自身の職を賭して決行したのである。 そして10/19、軍令部はこのハワイ奇襲作戦実施に同意の決裁を下した。
昭和16年 | 内容 |
---|---|
9/29 | 山本五十六連合艦隊司令長官、永野修身軍令部総長に「戦争は長期となり困難」として「避戦」を上申。 |
10/5 | 近衛首相、東条陸相と会談し日米交渉継続の決意披露。陸相反対。陸軍省当局、妥結の目途なしと結論。 |
10/5 | 海軍、海相官邸で首脳会議開催。日米懸案は交渉の余地ありと判断、対陸軍折衝は首相に一任と決定。 |
10/6 | 陸・海軍部局長会談で、軍令部は南方作戦自信なしと表明。日米交渉継続とその目途で陸・海軍が対立する。 |
10/11 | 野村駐米大使から「日本の譲歩がない限り日米首脳会見は絶対に見込みなしと観察」との電報が到着。 |
10/12 | 近衛首相、私邸で陸・海・外相、企画院総裁と和平か開戦かを討議するが結論を得ず。 |
10/14 | 日米交渉問題を討議する閣議で、陸相が中国駐兵問題で譲歩は不可能と主張し、首相・外相と対立する。 |
10/15 | 近衛首相、陸相の総辞職要求(14日)を受け、東久邇内閣を提唱。木戸内大臣は反対を表明する。 |
10/16 | 第3次近衛内閣総辞職。対米和戦について、陸軍の主戦論で閣内の意見不一致のため。 |
10/17 | 後継内閣推挙のための重臣会議開催。木戸内大臣らの発意で、東条陸相を推挙、大命降下。 |
10/17 | 木戸内大臣、東条首相に9/6の御前会議で決定の国策を白紙還元したい、との天皇の意思を伝える。 |
10/18 | 東条英機内閣成立。首相は現役のまま陸・内相を兼務。 |
10/19 | 永野軍令部総長、山本連合艦隊司令長官要求の、ハワイ奇襲作戦実施に同意の決裁を下す。 |
10月18日に成立した東条英機は、9/6の「帝国国策遂行要領」を「白紙還元」して再検討せよ、との天皇の御諚(言葉)を木戸内大臣より伝えられた。東条首相は国策の再検討を行い、11/5の御前会議は正式に新たな「帝国国策遂行要領」を決定した。だがその内容は、「開戦を12月初頭とし、外交交渉は12/1午前0時まで継続する」という、武力発動の時期をさらに明確に定めたものになった。
開戦が決まったのである。
軍人・政治家・陸軍大将。東京出身。満州事変後、関東軍参謀長。中国侵略拡大を主張。昭和16年(1941)内閣首班となって太平洋戦争に突入。独裁体制をうちたてたが戦況の不利に伴い重臣の倒閣運動におされ辞職。戦後、極東国際軍事裁判でA級戦争犯罪人とされ、刑死。明治17~昭和23年(1884‐1948)(出典)精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006
●東条は24時間で組閣を終えた。東条は首相になると大将に昇進、陸相と内務相を兼任し、軍と警察を掌握した。東条内閣の一つの特色は「満州人事」といわれ、内閣書記官長の星野直樹と、国務相の岸信介(のぶすけ)は、昭和12年頃満州国で東条英機、松岡洋右、鮎川義介らとともに「ニキ三スケ」と言われた実力者たちだった。なかでも商工相と国務相を兼任した岸信介は敗戦後首相となり、良くも悪くも戦後日本の政治をリードした政治家であった。佐藤栄作首相は実弟で、岸信介の長女の婿は安倍晋太郎(外務大臣をはじめ自民党の要職を歴任)であった。現内閣総理大臣の安倍晋三は安倍晋太郎の次男である。
●10/18親任式を終えた東条内閣の首相官邸での映像。
(出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」1億2千万人の映像の1シーン。第1巻「世界恐慌と太平洋戦争」講談社2005年7/15第1刷発行。
※(YouTube動画、サイズ7.47MB、1分09秒)
年・月 | 1941年(昭和16年) |
---|---|
1941年昭和16年11/2 | 大本営政府連絡会議「帝国国策遂行要領」決定 ●東条内閣は対米交渉を続けながら、10/23から11/2まで連日のように大本営政府連絡会議を開いて国策の再検討を行った。
「帝国国策遂行要領」昭和16年11月1日 大本営政府連絡会議決定。 1、帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為この際対英米蘭戦争を決意し左記措置を採る (1) 武力発動の時機を12月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す (2) 対米交渉は別紙要領に依り之を行う (3) 独伊との提携強化を図る (4) 武力発動の直前泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立す 2、対米交渉が12月1日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す 別紙 対米交渉要領 対米交渉は従来懸案となれる重要事項の表現方式を緩和修正する別記甲案或は別記乙案の如き局地的緩和案を以て交渉に臨み之が妥結を計るものとす ※甲案、乙案はリンク先を確認してください。一例を引用すれば
(甲案5)米側の所謂4原則に付ては之を日米間の正式妥結事項(了解案たると又は其他の声明たるとを問わず)中に包含せしむることは極力回避す (乙案3)日米両国政府は相互に通商関係を資金凍結前の状態に復帰せしむべし 米国は所要の石油の対日供給を約すべし ※甲案、乙案も妥結の可能性はないものであった。 *リンクします「帝国国策遂行要領」→国立公文書館アジア歴史資料センター「開戦準備なる!」ついに動き出した陸海軍の戦争の歯車 |