1941年(昭和16年)12/8、日米英開戦、太平洋戦争勃発②

第2次世界大戦

海軍は、太平洋戦争開戦後の12/16、世界最大の戦艦大和を竣工させた。
 アメリカ相手の戦争では、陸軍ではなく海軍によってその勝敗が決まる。海軍が最後まで対米英戦に反対したのは、自国の海軍力ではアメリカに勝てる見込みがなかったからである。このページ②では、最初にヨーロッパの概況と独ソ戦の戦況を述べ、国内では東条英樹内閣が成立した頃(11月頃)までを記述した。
 海軍は最後まで対米英戦に反対したが、最後にはついに開戦の決定に従う。陸軍を中心とする開戦論の前提は、ドイツ軍の勝利であり不敗であることにあった。だが、その神話はモスクワ攻防戦で崩れた。12/5無敗のドイツ軍はソ連軍の大反撃によって、モスクワを目前に敗退した。その同じ時、極東の日本はハワイ真珠湾攻撃を行い、世界大戦の幕を開いた。
 前年の昭和15年9月、近衛首相は、3国同盟に反対していた海軍が急に賛成に変わったことに不信を感じ、山本五十六連合艦隊司令長官を荻窪の荻外荘に呼んだ。そして日米戦が起こった場合の海軍の軍事的な見通しを聞いた。山本は次のように答えた。

「それは、是非やれと言われれば、初め半年や1年は、ずいぶん暴れて御覧に入れます。しかし2年、3年となっては、全く確信は持てません。3国同盟が出来たのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力御努力を願いたいと思います」

(上写真)昭和16年10月30日、宿毛湾沖標柱間で全力公試運転中の大和。(出典)「ハンディ版日本海軍艦艇写真集①」戦艦大和・武蔵・長門・陸奥。編者・雑誌「丸」編集部。光人社1996年刊

目次
昭和16年 主要項目
★ヨーロッパの概況と、ドイツ軍によるモスクワ進軍と撤退。
12月、ソ連軍の大反攻が開始され、ドイツ軍の撤退が始まる。6月のドイツ軍のソ連侵攻(バルバロッサ作戦)に呼応して7月、日本は満州で「関東軍特別演習」を行った。もしこの時、関東軍がソ連に侵攻すれば(ドイツから要請されていた)、モスクワは陥落していただろう。だが日本は、南方進出を選択した。ソ連のスパイ・ゾルゲらの工作が功を奏したのかもしれない。あるいは、陸軍が、1939年のノモンハン事件(大規模な日ソ国境紛争)でソ連陸軍の機動力に衝撃を受け、ソ連軍との戦闘を躊躇したのが理由かもしれない。
★国内政治・社会年表
昭和16年《1941年》

第2次近衛内閣→第3次近衛内閣→東条英機内閣
7月18日成立した第3次近衛内閣は、対ソ参戦強硬論を主張する松岡洋右外相を排除する目的で組閣した。そして対米交渉の成立に強い期待を持ったが、7月末の日本軍の南部仏印進駐によって、アメリカに強硬な報復措置をうけた。近衛首相は事態を好転させるため、ルーズベルト大統領との直接会談を望んだが、かなわなかった。
そして9月6日、御前会議は外交交渉が成立しない場合、10月上旬、対米英蘭との開戦と決定した。「帝国国策遂行要領」
★海軍と山本五十六連合艦隊司令長官
海軍の山本五十六連合艦隊司令長官は、開戦の劈頭にアメリカ太平洋艦隊の基地であるハワイ真珠湾をたたくという奇襲作戦を考え出した。しかも誰も考えつかなかった航空兵力の集団使用(空母群)によって先制攻撃をしかけるというものだった。
この航空機による戦艦撃沈は、1940年11/11に先例があった。これはイギリ海軍が空母イラストリアスから、ターラント港(イタリア南端)に停泊中のイタリア艦隊を攻撃したもので、戦艦3隻が撃沈され、艦隊の半数が航行不能となった。これによりイギリスは東地中海の制海権を回復した。しかしイギリスはこの勝利が航空戦力によるものだとは気づかなかった。
山本は、早くから航空戦力の優位性に気づき、このハワイ真珠湾攻撃(12/8)、つづいてマレー沖海戦(12/10)で、実戦航行中の最新鋭イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパレスを航空機によって撃沈して実証した。
★東条内閣成立
10月18日に成立した東条英機は、9/6の「帝国国策遂行要領」を「白紙還元」して再検討せよ、との天皇の御諚(言葉)を木戸内大臣より伝えられた。東条首相は国策の再検討を行い、11/5の御前会議は正式に新たな「帝国国策遂行要領」を決定した。だがその内容は、「開戦を12月初頭とし、外交交渉は12/1午前0時まで継続する」という、武力発動の時期をさらに明確に定めたものになった。

(1)武力発動の時機を12月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す

開戦が決まったのである。

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★ヨーロッパの概況と、ドイツ軍によるモスクワ進軍と撤退。
ヨーロッパの概況と1941年の年譜

●1941年までに、ヨーロッパ諸国はドイツの植民地と化した。スウェーデンとスイスは中立国とされたが、経済的にはドイツと密接に結びつき、ドイツはスウェーデンから鉄鉱石を、スイスからは精密機械を輸入していた。これらは戦争に必要な物資だった。ドイツはこの両国を占領するよりは存続させた方が好都合だった。本来の意味で中立を選択できた国家は、スペイン、ポルトガル、アイルランド、トルコといった周辺国家だけだった。
●ドイツの支配地域に対する統治方法はさまざまだった。特にフランスについては、ヴィシー政権を存続させ支配させたが、そのフランスに対して、占領軍経費として莫大な額の支払いを要求した。また旧フランスが備蓄していた石油は、対イギリス、対ソ連との最初の会戦に足る十分な量であった。フランスの占領は大きな意味をもったのである。
●ドイツの統治方法で、直接統治という形態をとった地域があった。それがポーランドの、ドイツにもソ連にも併合されなかった地域だった。そこではナチスのハンス・フランク(ニュルンベルク裁判で死刑)が、ポーランド総督としてポーランド人の搾取とユダヤ人虐殺(ホロコースト)を実行したとされるのである。
●同盟国としては、ハンガリー、ルーマニアがあるが、両国はトランシルバニア地方の支配権をめぐって抗争を続けてはいたが、ドイツとは密接な同盟関係にあり、対ソ戦にはそろって参加した。ブルガリアはドイツのユーゴスラビア攻撃に参加する意思は示したが、対ソ戦には国内のスラブ系住民の反発をおそれ、宣戦布告はしなかった。イタリアは、ヒトラーがムソリーニを唯一の同僚と認めたことで同盟国として満足していた。
●特にバルカン半島で特別な場所がユーゴスラビアである。セルビア人・クロアチア人・スロベニア人の王国として誕生したが、現在においても、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアの6つの共和国が共存する地域である。1941年4月、ドイツは、3国同盟加入承諾を反故にしたことを理由(クーデターが発生した)に、ユーゴスラビアを電撃的に攻撃し、占領・解体した。マケドニアはブルガリアのものになり、クロアチアがファシスト国家としてイタリアの庇護のもとに発足した。セルビアはドイツの保護下に置かれた。ドイツは同時にギリシャに侵攻し、4/27アテネを陥落させ、5月には全土を占領した。この時イギリス軍はギリシャから撤退した。
 この年、ドイツ軍に対する武装闘争(パルチザン)を組織し、戦後大統領になってユーゴスラビアを、ソ連に属さない社会主義国としてまとめ上げたのがチトー大統領である。
●地図は同書から色分けして作成。(出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊。
(新聞)昭和16年4/7の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


イギリスとアメリカ

●イギリスは本土上空の防衛戦を戦いながら、ドイツ本土への報復爆撃、ドイツのUボート(潜水艦)攻撃から輸送船団を守る大西洋戦線、地中海戦線(ギリシャ、クレタ島の防衛やイタリア海軍への攻撃)、北アフリカ戦線(エジプトを拠点にリビア攻撃)、西アフリカ戦(エチオピア奪回戦)、中東戦線(イラク・ヨルダン・パレスチナの防衛と、ソ連と共同でのイラン攻撃)、太平洋・インド洋・中国戦線(インド、シンガポール防衛、中国援助ルート、香港防衛等)など多方面で戦っていた。
●イギリスには数多くの同盟国があり、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ポーランド各国の亡命政府がロンドンにあった。チェコスロバキアの亡命政府の長と見なされたベネもいたし、自由フランスを代表していたドゴールもいた。オランダとベルギーは、広大な植民地からの資源を保持し、ポーランドの陸・空軍はかなりの戦力だった。だが彼ら亡命政権はヨーロッパ本土ではほとんど力を持っていなかった。
 実際に力となったのは、ヨーロッパ外のイギリス連邦諸国だった。カナダの産業界はイギリスへの軍需物資の生産を行い、カナダ軍はイギリス防衛のため遠征してきたし、北フランス侵攻にも参加した。南アフリカは、エチオピアとエジプトにおける戦闘に参加した。ニュージーランド軍は、クレタ島攻防戦で多大の損害を被った。オーストラリア軍は北アフリカ戦線のドブルクを奪取した。
●だが何といってもイギリスが期待したのは、アメリカが参戦することだった。だがアメリカには参戦する意思はなく、ルーズベルト大統領は、イギリスに援助物資を供給すればするだけ、戦争にはまきこまれないですむと考えていた。8/14のチャーチルとルーズベルトによる「大西洋憲章」においても、東洋に関してのアメリカの関心はフィリピンだけであり、イギリスが望んだシンガポールの防衛要請にもアメリカは答えなかった。アメリカはヨーロッパを第1義的に考えており、太平洋より大西洋に重点を置いていた。そして日本に対しては、経済・財政的圧力だけで日本は手を引くだろうと考えていたのである。


イギリスとイタリアとドイツ(地中海戦線など)

●イギリスは19世紀の昔より地中海に艦隊を配備し、スエズ運河防衛のためエジプトにも軍隊を駐留していた。地中海とスエズ運河はイギリスの生命線とされていたのである。
●そしてイギリスは多くの戦線で戦っていた。イギリスが、上段で記入した1941年4月にギリシャから撤退したというのは、前年10月28日、イタリアがアルバニアからギリシャに侵攻したことが発端であった。イタリアは、1939年にギリシャ北西部にあたるアルバニアを占領して傀儡政権を作っていた。
 ギリシャの大統領はイギリスに救援を求め、イギリス軍は翌日クレタ島に上陸した。ギリシャ軍は山岳戦に強く、この時はイタリア軍をただちにアルバニアに撃退することができた。
 ところが1941年4月のドイツ軍侵攻に対しては、イギリスは軍事援助に消極的だった。兵力が不足していたのである。イギリスは政治的な理由から軍事援助を決めたが、イギリス軍がギリシャに上陸する頃、ユーゴスラビアは崩壊しており、ギリシャ軍もまさに敗北せんばかりの状態だった。そしてイギリス軍はドイツ軍に敗北し、ギリシャに送った6万2000の兵のうち、捕虜は5万人(約1万人のギリシャ兵を含む)にのぼってしまった。ダンケルクの小規模な再来であった。
●だが続いて起こった戦闘はクレタ島攻防戦だった。クレタ島の連合軍は、撤退してきたイギリス・ギリシャ両軍の到着によって4万人以上にも膨れ上がっていた。イギリス軍には海軍力はあったが航空兵力はほとんどなかった(イギリス本土防衛とドイツへの戦略爆撃機の護衛)。エジプトの基地から発進できたのもわずかの戦闘機しかなかった。そこをドイツ軍は5/20、航空兵力を中心として、大量の落下傘部隊と兵員輸送機とグライダーで攻撃を開始したのである。こうしてクレタ島でもイギリス軍は敗北し、1万8000の将兵は撤退できたが、1万3000人が残され、クレタ駐留のギリシャ軍と共に捕虜となった。イギリス海軍は巡洋艦3隻と駆逐艦6隻を失い、戦艦2隻、唯一の航空母艦、巡洋艦2隻、駆逐艦2隻が大きな損害を受けた。イギリスはエーゲ海の制海権を失ったのである。
 だがドイツ軍の航空兵力の損失も220機におよび、また落下傘部隊の被害も甚だしく、ヒトラーは今後のスエズ運河やマルタ島(イギリス海軍基地)への空輸作戦による攻撃計画を断念したのである。


イギリスとイタリアとドイツ(北アフリカ戦線)

●左の地図は、1984年の地図に、ポイントを赤丸で記入したものなので、当時の地名を示すものではなく参考である。(出典)「世界大地図帳」平凡社1984年刊。
●赤丸に黒点があるのは、イギリスの地中海艦隊とエジプト駐留軍の基地である。
イギリスの地中海艦隊はマルタ島、アレキサンドリア、キプロス島、と画面にはないが地中海の入り口ジブラルタルにあった。エジプト駐留軍はカイロとスエズ運河に赤丸を記した。
また1941年4月、イギリス軍の支援受けて首都アジス・アベバを奪回したエチオピアは画面に示していない。位置はさらに南部になる。

●1940年エジプト方面軍総司令官ウェーベルは、チャーチルにせかされて、まずエチオピアのイタリア軍を処理しようと目論んだ。そしてその予備作戦としてエジプト国境沿いのイタリア領土であるリビア(海岸側に沿って西部がトリポリタニア、東部がキレナイカ)攻撃を実行した。
 この作戦は成功し、12月に進軍を開始したオコナー将軍は1941年1/22トブルクを攻略、2/9にはエル・アゲイラに到達し、キレナイカ全域を占領した。イギリス軍はイタリア軍10個師団を粉砕し、13万人を捕虜にした。
この時438名のイギリス兵が死亡したが、そのうち353人はオーストリア兵だった。オコナーはさらにトリポリまで制圧しようとしたが、撤退命令がでた。ドイツ軍がギリシャに向かったからである。
●ヒトラーは、北アフリカ戦線でイタリアが負けたことで、イギリスによるバルカン半島侵攻を恐れた。そこでヒトラーは航空戦力をシシリー島へ派遣し、そこを基地としてイギリスの中部地中海の制海権を脅かさせた。すぐ南のマルタ島のイギリス海軍基地は、ドイツ軍によって猛攻を受け続けたが、最後まで死守した。ヒトラーは同時にロンメル将軍に戦車団を率いさせ(アフリカ軍団)トリポリへ送り込んだ。このロンメルが「砂漠の狐」とよばれイギリス軍は4/11までにトブルクを除いてキレナイカ全域の占領地を失うのである。
写真・ロンメル将軍(出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊。


シリアで、ヴィシー政権のフランス軍と自由フランス軍(ドゴール)が戦う。
イランではイギリス軍とソ連軍が進駐を開始し占領する。

●6/8、自由フランス軍(ドゴール軍)とイギリス軍は、シリアとレバノンに進入し、ヴィシー政権のフランス軍と激戦となった。戦闘は6月末まで続き、双方ともに約1000人の死者を出した。同じフランス人同士の戦いだった。
 結局ヴィシー政権のフランス軍は降伏したが、自由フランス軍に加わろうとするものはほとんどいなかった。シリアには自由フランス政府が樹立された。
●8/25、イランではイギリス軍とソ連軍が進駐を開始し、国王レザー・シャーを退位に追い込み、占領した。
1930年代を通してイランはナチス・ドイツと接近を強めていた。
これを危惧したイギリスとソ連は、6月のドイツのソ連侵攻後、国王レザー・シャーに圧力をかけてきた。
だが再三にわたるイラン政府への要請をけられたイギリスとソ連軍は、この日ついに占領に踏み切った。
 そして翌月の9日、イランは3カ国間の協定により分割占領された。そして国王レザー・シャーは退位させられ、息子のモハンマド・レザーが王位を継いだ。イランは大国のイギリスとソ連に屈服させられたのである。

(上新聞)昭和16年6/9の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
(下新聞)昭和16年8/26の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


1941年の年譜(各戦線の動き)

(年譜出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊。

北アフリカ戦線、東部戦線、地中海戦線
月・日 (1941年6月まで)内容 月・日 (1941年7月から12/8まで)内容
1/6 (アメリカ)ルーズベルト「4つの自由」 7/3 (東部戦線)スターリン、焦土戦術命令。
1月 (北アフリカ戦線)イギリス軍、エチオピア進撃。 7/12 (英ソ)相互援助条約成立。
1月 (南アジア)ヴェトナム独立闘争民主戦線結成。 7/16 (東部戦線)グデリアン軍団、スモレンスク侵入。
1月 (大西洋戦線)ドイツUボート作戦展開。 7/26 (連合国)アメリカ・イギリス・カナダ・ポルトガル・フランス、日本資産凍結。
2月 (北アフリカ戦線)ロンメル、トリポリに到着。 7/28 (南アジア)日本軍、南部仏印上陸(ベトナム)
3月 (東部戦線)ブルガリア、ユーゴ、3国同盟に。 7月下旬 (連合国)オランダ、日本資産凍結。日英通商航海条約廃棄。
3/1 (アメリカ)武器貸与法成立。 8/1 (連合国)米ソ経済援助協力。
3/27 (東部戦線)ユーゴ、反ドイツクーデター。 8月上旬 (東部戦線)レープ北部方面軍、エストニア侵入。ランドシュタット南部方面軍、ウクライナ侵入。オデッサ包囲戦。
3/31 (北アフリカ戦線)ロンメル、攻勢を開始。 8/14 (連合国)チャーチル・ルーズベルト、大西洋憲章。
4/5 (東部戦線)ソ連、ユーゴ相互不可侵条約。 8/17 (アメリカ)日本に警告を発する(ルーズベルト・野村会談)
4/6 (東部戦線)ドイツ軍、ギリシャ・ユーゴ侵入、ユーゴ降伏。ギリシャ休戦。 8/21 (東部戦線)ヒトラー作戦変更を指令。モスクワ進撃中止命令、クリミア半島占領、ドニェツ工業地帯・カフカス油田の確保命令。
4月上旬 (北アフリカ戦線)ロンメル、キレナイカ再征服。イギリス、エリトリア・エチオピア攻略。 9/13 (東部戦線)レニングラード攻防戦始まる。
4/13 (日米)日米交渉開始(ハル・野村会談) 9/30 (東部戦線)ボック中部方面軍、モスクワ進撃再開。
4月下旬 (東部戦線)イギリス軍、ギリシャより撤退。 10/15 (日本)ゾルゲ事件発覚。
5月 (アメリカ)非常事態宣言 10/18 (日本)東条内閣発足。
5/9 (日仏)日本・フランス東京条約 10月下旬 (東部戦線)ドイツ軍、クリミア進攻、ハリコフ攻略。
5/10 (ドイツ)副総統ルドルフ・ヘス、イギリスに和平交渉。 11/6 (アメリカ)対ソ10億ドル借款。
5/15 (西部戦線)フランス、対ドイツ国民解放戦線結成。 11/18 (北アフリカ戦線)ロンメル軍団、イギリス第8軍(カニンガム)撃破。
5/16 (イギリス本土防衛戦)バトル・オブ・ブリテン終了。 11/21 (東部戦線)ドイツ軍、ロストフ占領。
5/20〜27 (地中海戦線)ドイツ空挺部隊、クレタ島占領。 11/26 (太平洋戦争)日本機動部隊、単冠(ヒトカップ)湾を発進。
5月中旬〜6月中旬 (北アフリカ戦線)イギリス、”斧作戦”失敗。ウェーベル解任。後任、オーキンレック。 11月下旬 (東部戦線)ドイツ軍、モスクワ寸前に迫る。
(大西洋戦線)ドイツUボート作戦本格化。
6月 (アメリカ)ソ連を中立法の適用外に、対華武器貸与法発令。 12/1 (北アフリカ戦線)ロンメル軍、トブルク包囲。
6月 (東部戦線)ルーマニア、対ソ宣戦布告。 12/5 (東部戦線)ドイツ軍進撃停止、ソ連軍の大反攻開始。
6/18 (ドイツ)トルコと友好条約。 12/1 (北アフリカ戦線)ロンメル軍、トブルク包囲。
6/22 (東部戦線)ドイツ、バルバロッサ作戦開始(ソ連侵攻) 12月初旬 (東部戦線)ドイツ軍撤退始まる。ランドシュタット解任、ボック、レーブ辞任へ。後任はライヘナウ、クルーゲ、キュヒラー。
6/27 (東部戦線)イタリア・ルーマニア・スロバキア・ハンガリーも対ソ宣戦布告。 12/7 (日米)交渉決裂。
6/30 (東部戦線)ドイツ機甲部隊、ミンスク攻略・リトアニア占領。 12/8 (太平洋戦争)日本軍、ハワイ真珠湾奇襲。日本、対英米宣戦布告。日本軍第25軍(山下泰文)、マレー半島に上陸。
アメリカ対日および対独伊宣戦布告。
イギリス対日宣戦布告。

ドイツ軍によるモスクワ進軍。

●左地図は同書から色分けして作成したもの。(出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊。
●地図で真ん中の赤線が1941年12月時点の戦線、ドイツ軍はモスクワまで数10kmまで迫っていた。その左のピンク線が1941年11月時点の戦線である。

●1941年6/22、ドイツは3方面軍(北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団)によってソ連侵攻を開始した。北方軍集団はレニングラード(現サンクトペテルブルク)方面へ、中央軍集団はモスクワ方面へ進攻し、南方軍集団はウクライナのキエフから南方の有数の工業都市ドニエプロペトロフスク方面とクリミア半島方面へと進攻した。
●ヒトラーがソ連侵攻を決断するに至った論拠は次のようなことであるという。(「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著による)
①ドイツには海軍力はほとんどなく、空軍力もイギリスを屈服させるだけの力がなかった。だがドイツには最強の陸軍があり、それを大規模に展開できるのは対ソ戦だけであると考えた。
②その根拠は、ドイツ陸軍はヨーロッパ最強と言われてきたフランス軍を、わずか6週間で撃ち破ったこと。従ってソ連の征服ははるかに容易だろうと考えた。
③さらに、ソ連の戦力は第1次世界大戦当時の水準にも達していないだろうと考えたこと。またソ連の経済は混乱状態にあり、共産党独裁は嫌われ、さらにスターリンの大粛清により、ソ連軍の将軍や将校の大部分が殺されてしまっていると考えたのである。
④結局、ヒトラーが対ソ侵略を決断したのは、ソ連の脅威によるものではなく、単にそれが容易だと思われたから実行したのである。(A.J.P.テイラーはそう述べている)
●この対ソ戦に関して、大方の予想は戦闘は2~3週間で終わるだろう、というものだった。イギリス情報機関は、ソ連は10日間も持ちこたえられないだろうと見ていた。モスクワ駐在のイギリス大使は、1ヶ月もてばと述べ、イギリス参謀総長は、6週間はもつであろうと考えた。アメリカ・ルーズベルト大統領の軍事顧問は、「ドイツはソ連侵略に少なくとも1ヶ月、多くて3ヶ月費やすだろう」と言っていた。


イギリスとアメリカの決断

●6/22夕、イギリスのチャーチル首相はBBC放送を通じて、次のように演説した。

「イギリスの政策について国民が疑念を抱くことなどありはしません。われわれにはただひとつの目標、ただひとつの最終目標しかないのであります。それは、ヒトラーとナチ政権の息の根を止めることであります。従ってわれわれはソ連とソ連人民に対してはできる限りの援助を惜しまないでありましょう。」

●イギリスがドイツと和解するものと半ば予想していたスターリンとって、これはまさに朗報であった。だがこの時点では、イギリスはソ連の誠実度と戦力に対して信頼を置いていたわけではなかった。
●一方アメリカにおいても、ヨーロッパ戦線に介入すべきだとの立場をとる者にとって、ドイツのソ連侵略は重大な妨げになった。イギリスへの援助と共産主義ソ連への援助は別問題であったからである。多大な影響力を持っていたトルーマン上院議員(後の大統領)は「ドイツとソ連が互いの喉笛を噛み合っている間は西欧は事態を静観しているべきだ」と断言した。ルーズベルト大統領は、アメリカはくりかえし戦争には巻き込まれることはないと強調し続けたのである。
●だがまもなくソ連は、イギリスやアメリカのためにドイツ戦を戦い抜き、勝利をもたらす同盟国となっていくのである。


レニングラード攻防戦

●9月初め、北部方面軍はレニングラード郊外に進撃していた。戦車部隊は市街突入を避けるように命令されていたが、方面軍の司令官は自らの功をあせり、戦車部隊を突入させてしまった。機甲師団はモスクワ進軍の中央軍でも必要とされていたのである。
●劣勢だったレニングラード防衛軍の指揮官はスターリンによって更迭され、ジューコフが任命された。ジューコフはドイツ軍の進軍を止めたが、レニングラードは11月までにドイツ軍によってほぼ完全に包囲された。
 レニングラードは、凍結したラドガ湖を通って補給されるわずか物資だけで戦い抜いた。だが1944年に包囲網が解除されるまでに、300万市民の1/3以上が餓死したのである。
(新聞)朝日新聞(出典)9/7「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


ソ連の重要な勝利と反撃開始(工場の移転と焦土作戦)

●ドイツは1941年末までに、ソ連最大の工業地帯や食料供給の穀倉地帯および工業原料を産出する資源地域を掌中にすることができた。その結果ソ連は工業生産高の1/3と農業地域の半分を失った。そしてソ連の工業生産高も戦前の半分以下に落ち込んでしまった。
 だがソ連は、ドイツに対して退却中に焦土作戦を実行した。例えばウクライナの有数の工業の中心地ドニエプロペトロフスクの水力発電用のダムを爆破し、鉄道や橋を破壊し、さらに備蓄食料を焼却して退却したのである(これはどこの戦場でも、古来から同じである)。ヒトラーはウクライナから利益を得ることができなかった。
●さらにソ連は、ウクライナにあった機械と工場を戦争勃発直後から東方へ移転し始めた。戦前からソ連はウラルの東方に新しい工業地帯の建設を始めており、1941年にはソ連の産業製品の1/3を生産していた。ウクライナが侵略されるまでに約500の工場が移動した。だが農地の半分は失われてしまい、食糧の配給は戦前の半分にも満たず、戦争中ソ連の人々は飢餓に苦しんだのである。
(写真)上「焦土と化した街に着いたドイツ軍兵士」、下「ソ連における工場疎開」(出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊。


モスクワの攻防戦とソ連の反撃

●ドイツ軍は進軍を続けモスクワに迫っていった。10月半ばを過ぎるとモスクワには戒厳令が布告され、スターリンはモスクワ市民に武装を命じた。政府と外交団はクイビシェフへ移動し、約200万人の市民はさらに東方へ向かった。スターリンはモスクワに留まり、ジューコフが中央戦線の総指揮をとった。
●だがついにドイツ軍の進撃が止まった。雪が降り始めたのである。ドイツ軍は泥のぬかるみにはまり輸送部隊も戦車も前進できなくなってしまった。また極寒の到来によって、冬服の無いドイツ兵士たちは凍死し、パルチザンによる鉄道の妨害も頻繁に起こるようになった。11月末、ドイツ軍は人も物資も底をついてしまったのである。
●そしてその時モスクワの到着したのがシベリア軍団だった。12/5ジューコフはモスクワ戦線でドイツ軍に対して総攻撃を命じた。ソ連の反撃が始まったのである。下段に、映像を紹介したので確認してください。
(新聞)朝日新聞(出典)11/28「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

伸び切った戦線と泥のぬかるみに進軍を阻まれるドイツ軍
ソ連軍の反撃。T-34戦車の出現

(出典)「よみがえる第2次世界大戦(カラー化された白黒フィルム)第1巻ヒトラーの野望」NHKエンタープライズ2009年。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ4.3MB、39秒)

ドイツ軍、泥のぬかるみに進軍を阻まれる

(出典)「よみがえる第2次世界大戦(カラー化された白黒フィルム)第1巻ヒトラーの野望」NHKエンタープライズ2009年。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ6.9MB、1分07秒)

ソ連軍の反撃。ドイツ軍、極寒のモスクワ攻防戦で敗退する

(出典)「よみがえる第2次世界大戦(カラー化された白黒フィルム)第2巻日米開戦」NHKエンタープライズ2009年。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ12.9MB、1分58秒)

★国内政治と社会年表。1941年(昭和16年)頃。『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。
年・月 1941年(昭和16年)
1941年
昭和16年6/25
警視庁、流言飛語を取り締まるように伝達

●警視庁は、独ソ開戦による日本の動向を論ずる流言飛語を厳重に取り締まるように各署特高主任に伝達。

1941年
昭和16年7/2
御前会議「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」を決定

●ついに日本は、南方進出に対する態勢を強化し、その目的達成のため「対英米戦」を辞せず、と決定した。
そして独ソ戦には介入せずに、密かに対ソ戦の武力的準備を整えることも決定したのである。
●7/6ルーズベルト大統領は近衛首相に、グルー駐日大使を通じて、日本の対ソ戦不参加を要望する声明を伝達した。

1941年
昭和16年7/7
大本営、「関東軍特別演習」の第1次動員を下命

●この「関東軍特別演習」(関特演)は陸軍始まって以来の大動員だった。40日~50日の間にソ満国境付近への動員を予定された人員は85万人で、人員、武器、弾薬、糧秣を輸送するために徴用された船舶は80万トンにのぼった。独ソ戦によって極東ソ連軍が西方へ移動して手薄になったら一挙に攻め込もうという計画だった。
●6/22の独ソ戦開始は軍内部に激しい意見の対立を生んだ。南方資源を目指す南進論と、伝統的に仮想敵国であるソ連を攻撃して北方の安全を確保するという北進論との対立である。特に強硬な対ソ武力行使論者は、参謀本部の田中新一作戦部長と、4月に日ソ中立条約を自ら結んだ松岡外相だった。ドイツ政府は6/30、日本政府に対して対ソ軍事行動を取るように、正式に対ソ参戦を申し入れた。
●7/2の御前会議「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」にある「密かに対ソ戦の武力的準備を整える」というのが、この「関東軍特別演習」の目的だったのである。
●その結果、第1次と第2次処置として、合わせて22個師団の動員となり、内地からは合わせて6個師団が新たに編成された。このため、兵役を終えた者、中国戦線から帰ったばかりの者も「臨時招集」され、歓送会、神社参拝、見送りは禁止され秘密裏に動員は進められたのである。
●この頃、ソ連、ドイツ、日本の間にあって情報活動を行っていたのが、ソ連共産党スパイの「リヒアルト・ゾルゲ」だった。彼はドイツ人で、ドイツ新聞社特派員かつドイツ大使館顧問の肩書を持っていた。彼の最大の任務は、日本がソ連を攻撃するかどうかの確実な情報を探ることだった。この情報は、危機に瀕したソ連防衛のために、極東軍を西方に向かわせることができるかどうかという、国家の存亡に大きく関わった情報だったのである。
●だが結局、日本陸軍は対ソ攻撃はしなかった。南部仏印進駐(7/28)もあり、ソ連が極寒期に向かうという季節も関係していたからである。そして12月、西方に移動したソ連極東軍(極寒の戦闘に強い)は、ドイツ軍によって陥落寸前の危機に瀕した真冬の首都モスクワを救ったのである。

1941年
昭和16年7/10
本州と九州をつなぐ関門海底トンネルが貫通

●この工事は昭和11年9月着工されたもので、開通式は翌17年の11/15に行われた。この時初めて旅客列車が走ったが、貨物輸送はそれより4ヶ月前の7/1から開始されていた。この意味は、この関門トンネルの誕生は、戦時輸送体制の強化を象徴するものだったからである。陸軍は、満州事変後、外征部隊の出発地、補給基地として北九州を重視し、建設資材を優先的に供給し、隘路となっていた下関と門司をつなぐトンネルの完成を急いでいたのである。
(新聞)朝日新聞(出典)7/11「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1941年
昭和16年7/13
全国的競技大会を中止する

●厚生省は、神宮国民体育大会以外の全国的競技大会中止を通達した。

1941年
昭和16年7/18
第3次近衛内閣成立

●7/16、第2次近衛内閣はその構成を一新するという名目で総辞職した。狙いは、松岡外相を排除することによって日米交渉を進展させることにあった。
●天皇の下問を受けた内大臣木戸幸一は、7/17午後重臣会議を開き、全員一致で近衛を推すことに決めた。同日夕刻、天皇は近衛に組閣を命じ、翌18日夜、第3次近衛内閣が成立した。
●注目された外務大臣には、米英通として知られた前内閣の商工相・豊田貞次郎海軍大将が就任した。陸軍大臣・東条英樹、海軍大臣・及川古志郎ら6人は再任されたが、政党出身者3人の閣僚は更迭された。そして軍人閣僚が7人も生まれ、この第3次近衛内閣は、戦時色の強い内閣となったのである。
(新聞)7/17朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1941年
昭和16年7/21
フランス・ヴィシー政権、日本軍の南部仏印進駐を受諾

●フランス・ヴィシー政権は、仏印の日仏共同防衛に合意し、日本軍の南部仏印進駐提示を受諾する。
●7/23、大本営は、第25軍と支那方面艦隊に、南部仏印進駐を発令した。

1941年
昭和16年7/25
アメリカは、日本の南部仏印進駐に対して、在米日本資産を凍結する。

●7/26イギリスが日本資産を凍結、7/27蘭印(=オランダ領東インド)も同様の処置を行う。
(7/26米英の日本資産凍結のため株価が暴落する。7/29ニューヨーク発によれば、この凍結により在米各日本商社は、事業縮小や人員整理に着手、続々と引き揚げと報道。)

1941年
昭和16年7/26
マッカーサー少将、米極東陸軍総司令官に任命される

●ルーズベルト大統領はマッカーサー少将を米極東陸軍総司令官に任命し、比(フィリピン)陸軍をその指揮下に編入させた。

1941年
昭和16年7/28
日本陸・海軍部隊、南部仏印に進駐を開始する。

●南部仏印に進駐したのは、飯田祥二郎陸軍中将率いる第25軍(近衛師団、独立混成第21旅団基幹)だった。7/25に海南島の三亜港を出港して、南部仏印のナトランとサンジャックに上陸した。現地では、ドクー仏印総督と進駐に関する細目が決まっていたため、北部仏印進駐(15年9月)の時のような武力衝突はなかった。
●そして日本のこの南部仏印進駐は、石油取得を目的として、蘭印に対して軍事的圧力をかけることも目標だった。
さらに最悪の場合の対米戦に備え、軍事基地を確保することも目標であった。
日本はここで、南進政策のために「対英米戦を辞せず」と決意したのである。
●翌7/29、フランスのビシーにて、日本とフランス国(ヴィシー政権)との間で「仏領印度支那の共同防衛に関する議定書」が調印された。そして同時に「軍事上の協力に関する交換公文」が結ばれ、日本は、ツーラン、ビエンホア、サイゴン、コンポントラッシュ、プノンペンなど8ヵ所の航空基地とサイゴン湾とカムラン湾の海軍基地を得た。
(地図)「南部仏印への進駐経路」、(写真・毎日新聞社)8/11サイゴンに入港した南遣艦隊旗艦香椎。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1990年刊

1941年
昭和16年7/30
海軍航空隊、揚子江上の米艦を誤爆(ツッツイラ号事件)

●重慶爆撃中の海軍航空隊が、揚子江上の米艦ツッツイラ号を誤爆、同艦は至近距離に投下された爆弾で破損する。
7/31野村駐米大使はこの事件に関し、当分の間重慶市街への爆撃を中止すると、アメリカ側に通達。

1941年
昭和16年8/1
アメリカ、対日石油輸出を全面的に禁止する

●アメリカは、南部仏印進駐に対して、まず在米日本資産を凍結することで警告を発し、実際に進駐が実施されると、石油全面禁止に踏み切った。28には「日蘭石油民間協定」が停止された。

1941年
昭和16年8/6
日ソ開戦を避ける方針決定

●大本営政府連絡会議は、日本の採るべき措置として日ソ開戦を避ける方針を決定する。

1941年
昭和16年8/8
文部省、学校報国隊の編成を訓令

●この学校報国隊とは、学徒勤労動員体制を強化するため、大学・高等・専門学校で結成された全校編成の組織。文部省には統括するための学校報国隊本部が置かれ、全国10地区に地方部が置かれた。

1941年
昭和16年8/8
空母翔鶴(しょうかく)竣工

●横須賀海軍工廠で、軍縮条約期限切れ後、初の本格空母(2万9800トン)翔鶴が竣工した。

1941年
昭和16年8/14
「米英共同宣言(大西洋憲章)」発表

●これは、ルーズベルト大統領(アメリカ)とチャーチル首相(イギリス)が、北大西洋ニューファンドランド沖合の両国の艦船上で行った会談の結果を発表したもの。
中央公論の世界の歴史には、この宣言の内容は以下のように書かれている(上の段)。
またイギリスの歴史家A.J.P.テイラーによれば、この大西洋憲章はそれほどのものではなく、両人の署名もないプレス向けに配られたものにすぎないともある。(下の段)
(写真)プラセンチア湾でのチャーチルとローズベルトの第1回会談(出典)「目で見る戦史・第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著(株)新評論1981年刊

(世界の歴史・中央公論社1962年刊)
この「大西洋憲章」はウイルソンの14ヵ条に似ていて、8ヵ条からなる。
①関係諸国民の意思に反する領土変更をおこなわないこと(14ヵ条の民族自決の原則)
②国民の自由意思にもとづく政治形態の選定ならびに被侵略諸国の領土回復(14ヵ条の第6-第8と第11条)
③自由通商と資源の公平な配分(14ヵ条の第3条)
④公海自由の原則(14ヵ条の第2条)
⑤軍縮による諸国民の負担軽減(14ヵ条の第4条)
⑥国際紛争の手段としての武力の放棄、ならびに将来における一般的安全保障機構の設立(14ヵ条の第14条)
(これはのちの国際連合設立のためのアメリカの協力の基礎が示されている)。新しい考えとしては、
⑦諸国民間に労働基準・経済生活・社会保障の向上発展をもたらすための国際的経済協力の促進」(憲章の第5条)
⑧「4つの自由」の精神による諸国民に恐怖と欠乏からの自由の保障を与えること(憲章の第6条)

●A.J.P.テイラーによれば、ルーズベルトのこの会談の目的は、アメリカの世論を喚起するための一般的な正義論を発表することにあったと述べられている。一方でイギリスの目的は達せられなかったとある。その内容は以下のようである。

(第2次世界大戦A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊)
●イギリスは、ヨーロッパでドイツと戦い、北アフリカでも戦っていた。そしてイギリスにとって、ドイツ軍がコーカサス地方に進軍したため、ペルシャ湾沿岸のイラク・ペルシャ(イラン)からの石油供給が脅かされる恐れが高まっていた。そこに今度は極東のシンガポールが日本に攻撃される恐れがでてきたのである。だからイギリスは、シンガポールの防衛にアメリカ海軍の援助を求めたのである。
●だがアメリカは、極東について協議することを拒み、中東についてはイギリスの責任範囲外として撤退することを求めた。そしてドイツに対する戦いでも、イギリスが上陸作戦を敢行しないで、空爆によってドイツを降伏に導くという戦術を却下したのである。アメリカはイギリスが中東戦とドイツ空爆をやめれば、シンガポールを自力で守れるはずだと考えたのである。そしてソ連に関しても、将来は物資を供給するだろうというあいまいな約束しかしなかった。
1941年
昭和16年8/24
チャーチル首相、アメリカが対日宣戦すれば、アメリカに協力すると発表

●チャーチル首相は日本の仏印進出を非難し、アメリカが対日宣戦すれば、アメリカに協力すると全世界に向け放送する。

1941年
昭和16年8月
陸軍落下傘部隊が秘密の降下訓練を実施

●写真は、東京二子玉川の読売遊園地に建てられた落下傘塔。高さ70mで4人乗りエレベーターを備えていた。この塔は昭和15年6月、武藤清東大教授の設計により建てられた。
●この塔では、この夏頃から陸軍落下傘部隊が学生を装い、秘密のうちに降下訓練を行っていた。この訓練は、太平洋戦争開戦後の昭和17年2月に、スマトラ島パレンバンへの奇襲降下作戦でその存在が公然となるまで続いた。
(写真-撮影・国際報道工芸、提供・JPS)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1990年刊

1941年
昭和16年8/25
鴨緑江水豊水力発電所が送電を開始する

●昭和12年10月に着工した朝鮮と満州国境近くの鴨緑江水豊水力発電所の一部が竣工し、8/25に送電を開始した。写真は芝浦電気製10万キロワット発電機1機、2号機で、世界最大容量を誇った。
(写真・東芝)「新鋭大型発電機始動」(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1990年刊

1941年
昭和16年8/28
野村駐米大使、日米首脳会談を希望する

●野村駐米大使は、ルーズベルト大統領に日米首脳会談を希望する近衛首相のメッセージを手交する。
●9/3、ルーズベルト大統領は、日米首脳会談を拒否するアメリカ政府覚書を野村大使に手交する。

1941年
昭和16年8/30
金属類回収令公布

●9/1施行で、不急品以外の鉄・銅製品も対象となった。看板・階段など鉄や銅を主原料とする使用中の品や不急品にも供出が適用された。下は統制などの9月の例である。

●9/1、東京市、小麦粉・食用油などの生活必需品の配給切符をひとつにした集成切符制を実施。
●9/3、価格等統制令改正公布施行。修繕費や入場料など日常生活の各種料金に統制が拡大する。
●9/6、逓信省、配電統制令に基づき全国9ブロック別に配電会社設立を命令(電力の国家管理が配電に及ぶ)
●9/9、農林省、みそ・しゅうゆの統制実施。(全国3ブロック化などの処理要綱を各地方長官に通牒)
●9/10、農林省、従来の77種に100種を加え、鮮魚介類の新公定価格実施。
●9/11、警視庁、府下のハイヤー、タクシーのガソリン使用を全面的に中止と各社に通告。
●9/15、農林省、全管理米の政府買い上げなどの「米穀国家管理実施要項」を地方長官に通牒。
●9/19、情報局、映画製作会社10社を3社(東宝・松竹・大映)に統合し、月6本製作とする案を決定。
●9/22、商工省、鉄製品製造制限規則公布。新たに150品目を追加し、約350品目の製造を禁止。
1941年
昭和16年9/3
ドイツ、初の毒ガス処刑を執行する

●ドイツ軍は、アウシュビッツ強制収容所でソ連兵捕虜600人とユダヤ人250人に、初の毒ガス処刑を執行する。

1941年
昭和16年9/6
御前会議、帝国国策遂行要領を決定

●10月上旬までに外交交渉が進展しない場合、対英米蘭との戦争を決意。

1941年
昭和16年9/18
陸軍第11軍、長沙作戦開始

●支那派遣軍第11軍(軍司令官阿南惟幾中将)は湖南省長沙への攻撃を開始した。そして9/27長沙を占領したが、12/24香港作戦に呼応して第2次長沙作戦を実施したが、いずれも中国軍の反撃にあって長沙を撤退した。
9/28(新聞)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1941年
昭和16年9/25
開戦決意の採否の決定を要望

●陸・海軍両総長、大本営政府連絡会議で、遅くとも10/15までに開戦決意の採否の決定を行うように政府に要望した。

1941年
昭和16年9/27
南海支隊の動員を下命

●陸軍は、グアム島攻略部隊である南海支隊の動員を下命した。10/4動員完了。

1941年
昭和16年9/29
モスクワで米英ソ3国会談開催

●議定書は10/1に調印し、これにより米英ソは必要物資の相互援助を決めた。

★海軍と山本五十六連合艦隊司令長官
海軍内部の「艦隊派」と「条約派」の対立。

●海軍内部で「艦隊派」と「条約派」とが対立するようになったのは、世界的な海軍軍縮問題が話し合われた「ワシントン会議」1921年(大正10年)~1922年(大正11年)開催、にさかのぼる。下段は、1922年のワシントン海軍軍縮条約の概略である。海軍軍縮の考えが対立を生んでいく。

「海軍軍備制限に関する條約」(ワシントン海軍軍縮条約)(1922年2月)

(文は「日本の歴史」読売新聞社1963年より引用・要約)
●ワシントン海軍軍縮会議は、第1次世界大戦後の1921年(大正10年)7月、アメリカ国務長官ヒューズがアメリカ駐在全権大使幣原喜重郎に軍縮会議の提案をしたことから始まった。
第1次世界大戦は非常に進歩した軍事科学が軍備の革新をもたらした。そのため各国は、飛行機、戦車、毒ガスなどの新兵器そして重火器(大砲)の大型化や、軍艦の近代化のためほとんどの兵器を一新する必要がおこった。

下


●そしてワシントン会議の首席全権で、後に総理大臣となる加藤友三郎海相は、重要案件が片付いたあとワシントで海軍省あての伝言を口述した(下記に一部引用)。このような思想を持つものを「条約派」といった。これを筆記した当時大佐であった随員の堀悌吉、親友の山本五十六、彼らの先輩である谷口尚真、岡田啓介、左近司政三、山梨勝之進、米内光政、後輩にあたる古賀峯一、井上成美などは皆人脈の上で加藤友三郎の系列に属する人々だった。

「国防ハ軍人ノ専有物二非ズ戦争モ亦軍人ノミニテ為シ得ベキモノニ在ラズ国家総動員シテ之二当ルニ非ザレバ目的ヲ達シ難シ……平タク言ヘバ金が無ケレバ戦争ガ出来ヌト云フコトナリ……仮リニ軍備ハ米国二拮抗スルノ力(ちから)アリト仮定スルモ日露戦役ノ時ノ如キ少数ノ金デハ戦争ハ出来ズ 然ラバ其ノ金ハ何処(いずこ)ヨリ之ヲ得ベシヤト云フニ 米国以外二日本ノ外債二応ジ得ル国ハ見当ラズ 而シテ其ノ米国が敵デアルトスレバ此ノ途ハ塞ガル……結論トシテ日米戦争ハ不可能トイフコトニナル……茲(ここ)二於テ日本ハ米国トノ戦争ヲ避ケルヲ必要トス……斯(か)ク考フレバ国防ハ国力(りょく)二相応スル武力(りょく)ヲ整フルト同時二国力(りょく)ヲ涵養シ一方外交手段二依り戦争ヲ避クルコトガ目下ノ時勢二於テ国防ノ本義ナリト信ズ」

一方、そういった考えは「艦隊派」には英米の顔色をうかがう卑屈な弱腰に映った。なかでもワシントン会議に海軍専門委員と出席した加藤寛治提督は、帰国後不満をぶちまけ、海軍の少壮将校はもとより国民の多くに強く訴えた。大正12年の夏、加藤友三郎が首相在任のまま亡くなると、加藤寛治はまもなく軍令部次長になり、その下に末次信正がつき、対米強硬論を唱える加藤・末次一派(艦隊派)と条約派との対立は深まっていった。そして「艦隊派」が勢力を拡大していくのである。(出典)「山本五十六」阿川弘之著 新潮社1973年刊から要約。

●下段は1930年のロンドン海軍条約の概略である。1929年に端を発する世界恐慌により、各国はさらなる海軍軍縮を強く望んだのである。

「1930年ロンドン海軍条約」(1930年4月)

●1922年のワシントン海軍軍縮会議は、主力艦と航空母艦を制限したものだったので、各国の補助艦艇(巡洋艦以下)についての建造競争は激化していた。そこで1927年(昭和2年)、ジュネーブで補助艦を制限する会議が開かれたが、これは各国の主張が対立してまとまらなかった。
●しかし1929年に端を発する世界恐慌は、各国を経済不況と社会不安で襲い、各国政府にとっても財政負担軽減である海軍軍縮を強く望む機運がうまれた。また主力艦の建造停止期間も1931年に迫っていたこともあり、1930年1月より日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア5ヶ国がロンドンに集まり軍縮会議開催となったのである。

下

*リンクします「海軍軍備制限ニ關スル條約」1922年「ワシントン会議」→
国立公文書館「アジア歴史資料センター」

*リンクします1930年「ロンドン」海軍条約→
国立公文書館「アジア歴史資料センター」

●そして1934年(昭和9年)10/24、イギリスがロンドン海軍条約(有効期限1936年12/31)に定められた(第23条)「1935年に開かれる予定の軍縮会議」前に、日英米3国の了解を得るために提議した予備交渉である「日米海軍予備第1次会談」がロンドンで開催された。このときの日本側代表が山本五十六海軍少将だった。山本は粘り強く交渉を進めたが、当時の海軍上層部はワシントン条約破棄を決めており、条約破棄を望まない山本は、会議終了後「艦隊派」から冷遇されたといわれる。

年・月 1934年(昭和9年)10/24日米海軍予備第1次会談開催
1934年
昭和9年
10月24日
日米海軍予備第1次会談開催

●新聞は、10/24に開かれた日米海軍予備第1次会談を報じたものである。(写真1段目、山本五十六代表・海軍少将、写真2段目右、松平恒雄代表・駐英大使)、10/23から日英予備会談開始。
●この予備交渉は、イギリスがロンドン海軍条約(有効期限1936年12/31)に定められた(第23条)「1935年に開かれる予定の軍縮会議」前に、日英米3国の了解を得るために提議したものであった。ところが日本の軍縮方針(ワシントン条約破棄など)が、英米と根本的に異なるため、10月まで予備交渉を休止していた。そして日本は方針を確定し予備交渉を再開したのであった。
●日本の根本主張は、①ワシントン条約破棄(有効期限1936年12/31)、②軍備平等確保、③現行艦種別比率主義を廃棄し、共通最高限保有量設定により全保有量を縮減する、などであった。これらは英米の主張とは相容れず、イギリスは斡旋を試みたが、交渉は危機に瀕していった。
(新聞)10/25朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

海軍「三国同盟」締結に反対

●昭和11~14年、米内光政が海軍大臣、山本五十六(いそろく)が海軍次官、井上 成美(しげよし)が海軍省軍務局長の頃、この3人は徹底的に「三国同盟」締結に反対した。陸軍とは違い、ドイツの危うさと、ヒトラーの本質(日本も蔑視していた差別主義者)を理解していた海軍は、3国同盟に徹底して反対した。3国同盟がアメリカとの開戦の引き金になることを理解していたからである。海軍は、その合理性から、アメリカと開戦すれば負けることを分かっていたのである。そのため三国同盟締結を強力に主張する陸軍と対立し、その手先でもあった右翼につけ狙われた。彼らの考えはどのようなものだったのだろう。一例を上げる。(出典)「山本五十六」阿川弘之著 新潮社1973年刊から引用。
①2.26事件(昭和11年)前夜、陸軍の青年将校らの昭和維新の動きに共鳴しようとする海軍の士官に対して、軍人の本分を諭した井上成美の言葉が以下である。暴走する陸軍に対して、軍人としての本分を守ろうとした海軍の良識ともいえる。だが全ての海軍士官が中道であったわけではない。

「軍人が平素でも刀剣を帯びる事を許されており、吾々またその服装を誇りとしておるのは、一朝事ある時、その武器で人を斬り、国を守るという極めて国家的な職分を果すからである。然しその一朝事ある時であるかどうかは、国家の意志が之を決する。即ち『戦争』と国の意志が決定し、『さあ、やれ』と統帥権の発動があってはじめて軍人が敵人を殺し、敵物を破壊する事を許されるのである。然るに軍人が手近に武器を保有しておるのを奇貨とし、統帥権の発動もないのに勝手に之を以て人を殺すような不法な事をすれば、名誉ある軍人は忽ち殺人の大罪人と化し、神聖な武器は殺人の兇器となる事をさとれ」

②昭和12年12月、南京攻略戦のさなか日本海軍の航空隊が揚子江上のアメリカ艦船(パネー号)を撃沈した事件が起きた。この事件は大きな国際問題となるかにみえたが、支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊長谷川清司令長官は速やかに自軍の非を認め謝罪し事件を収拾した。この時の山本五十六海軍次官の発言は以下の通りである。少なくとも国際法を守ろうとしたのが海軍であった。だがそれより前の昭和12年8月、96式陸攻(世界水準に達した海軍新鋭攻撃機)による渡洋爆撃を敢行し、国際連盟に「無差別爆撃」と非難されたのも海軍だった。

「『パネー号』事件は本日米国大使より外務大臣に致せる回答を以て一段落を告げたる次第なるが右は事件発生以来各種誤解宣伝の渦中に於て米国政府並に其の国民が公正明察克(よ)く事件の実相と我方の誠意とを正解したるに依るものにして事件の責任者たる帝国海軍として洵(まこと)に欣快に堪へず、又本事件発生以来我国民が終始冷静にして理解ある態度を持したる事に対し深甚なる謝意を表するものなり、今後我海軍は愈々(いよいよ)自重自戒以て此種事件の根絶に万全を期するは勿論なるが一方更にこの機会において支那事変を繞(めぐ)りて帝国と第三国との間に介在する各種の誤解疑念を一掃し進んで理解と親善とに至らしめ以て禍(わざわい)を転じて福となすことに対し我国民一致の協力を切望して已(や)まざる次第なり」

昭和15年(1940年)9/19、御前会議、日独伊3国同盟案を承認

●松岡外相は就任(昭和15年7月)直後より3国同盟締結の打診をドイツ側におこなっていた。当初、ドイツ側の反応は冷たかったが、英国屈服の見通しがつかなくなったことや、アメリカの参戦が危ぶまれるようになると、ドイツ側も同盟に積極的になった。
 一方、3国同盟に反対を続けていた吉田善吾海相が、反対派の海軍の長老と推進派の陸軍・外務省との板挟みで健康を害し9/4辞任した。新しく就任した及川古志郎海相は同盟には反対せず、3国同盟締結は急速に進展していった。
●そして9/16閣議で3国同盟条約案は了承され、9/19の御前会議で条約締結の方針が決定された。御前会議で松岡外相は、3国同盟に関して、日米関係を改善する余地は殆どなく、改善する方法があるとすれば毅然とした態度(3国同盟を結ぶ意味)をとるしかないと説明した。席上、対米関係、石油資源の確保、対ソ関係などについて質問が出たが、政府側の説明に押し切られた。そして伏見宮軍令部総長より日米開戦回避に万全を期するようになどの希望がでて御前会議は終了した。
 この御前会議の出席者は、天皇、(政府側)近衛首相、東条英機陸相、松岡外相、及川海相、河田蔵相、星野企画院総裁、(統帥部)閑院宮参謀総長、沢田参謀次長、伏見宮軍令部総長、近藤軍令部次長、原枢密院議長だった。
●反対すると思われていた海軍の内情は、阿川弘之著「山本五十六」新潮社、平成23年(2011年)66刷によれば次のようである。

●及川が海軍大臣に就任した後、東京で海軍首脳会議を開いた。これは海軍として、3国同盟に対する最終的態度を決定するためのものだった。会議の席上、及川海軍大臣は、ここでもし海軍が反対すれば、第2次近衛内閣は総辞職のほかなく、海軍として内閣崩壊の責任をとることは到底できないから、条約締結に賛成ねがいたい、ということを述べた。列席の伏見軍令部総長宮以下、各軍事参議官、艦隊及び各鎮守府長官の中から、1人も発言する者が無かった。
 そこで山本連合艦隊司令長官が、私は大臣に対しては、絶対に服従するものですが、もし3国同盟を結べば、今まで英米圏内から得てきた8割の資材を失うことになってしまうが、どう物動計画を切り替えたのかを質した。ところが、及川大臣はこの問いに答えず、「いろいろご意見もありましょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、この際は3国同盟にご賛成願いたい」と、同じことを繰り返した。
 すると、選任軍事参議官の大角 岑生大将が、まず、「私は賛成します」と口火を切ると、ばたばたと一同賛成ということになってしまった。

●この及川海軍大臣についての評価はあまり高くはない。この時の及川海軍大臣は、軍事的な意見ではなく、政治的な力関係から賛成したといわれている。近衛首相は、強硬に反対していた海軍があっさり賛成したので不信を感じ、山本五十六連合艦隊司令長官を荻窪の荻外荘に呼び、日米戦が起こった場合の海軍の軍事的な見通しを聞いた。山本は次のように答えたという。

「それは、是非やれと言われれば、初め半年や1年は、ずいぶん暴れて御覧に入れます。しかし2年、3年となっては、全く確信は持てません。3国同盟が出来たのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力御努力を願いたいと思います」

●山本は及川海軍大臣の八方美人ぶりを嫌い、かつ「薄志弱行の近衛公」と言われた近衛首相を嫌っていたために、上記のような強気なことを言ったのかもしれない。山本はこの2ヶ月半のちに、同期の嶋田繁太郎(東条内閣で東条の副官とまでいわれた海軍大臣)への書簡の中で次のように怒りを述べた。

「日独伊軍事同盟前後の事情、其後の物動計画の実情等を見ると、現政府のやり方はすべて前後不順なり、今更米国の経済圧迫に驚き、憤慨し困難するなどは、小学生が刹那主義にてうかうかと行動するにも似たり」
さらに「・・要するに近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を土からはなす事は危険千万にて、誠に陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感を深く致候、ご参考迄」

●また山本は「3国同盟調印(9/27)」約2週間後に、西園寺公望の秘書の原田熊雄に次のように語った。山本にとって対米開戦が現実味を帯びてきたのかもしれない。非常な決心の様子で語ったという。

「実に言語道断だ。これから先どうしても海軍がやらなければならんことは、自分は思う存分準備のために要求するから、それを何とか出来るようにしてもらわなければならん。自分の考えでは、アメリカと戦争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ。要するにソヴィエトと不可侵条約を結んでも、ソヴィエトなどというものは当てになるもんじゃない。アメリカと戦争しているうちに、その条約を守ってうしろから出て来ないということを、どうして誰が保証するか。結局自分は、もうこうなった以上、最善を尽くして奮闘する。そうして『長門』の艦上で討死するだろう。その間に、東京あたりは3度ぐらいまる焼けにされて、非常なみじめな目に会うだろう。結果において近衛だのなんか、気の毒だけれども、国民から八ツ裂きにされるようなことになりゃせんか。実に困ったことだけれども、もうこうなった以上はやむをえない」

昭和13年5月5日、前支那方面艦隊司令長官長谷川清中将

昭和13年5月5日、前支那方面艦隊司令長官長谷川清中将が、退任して海軍省に凱旋の挨拶に来た時のニュース映像が残っている。画面で「脱帽」とあるのが伏見宮博恭王・軍令部総長とおもわれる。映像の最後の場面が下のシーンで、左が長谷川清中将、米内光政・海軍大臣、右側にギリギリで映像に残っているのが山本五十六・海軍次官である。
(出典)昭和14年海軍省製作、社団法人日本映画社「支那事変海軍作戦記録」、「戦記映画復刻版シリーズ」日本映画新社製作。
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昭和16年10月、海軍は最後まで対米開戦に反対する

●だが陸軍はアメリカの要求する「中国からの撤兵」について譲歩は不可能とし、9/6の御前会議決定の対米英蘭開戦の実行を主張する。こうして10/16、第3次近衛内閣は主戦論の陸軍を抑えきれず総辞職した。
そして10/18、開戦派軍人の筆頭東条英樹内閣が成立した。
●海軍の山本五十六連合艦隊司令長官は、対米開戦に反対していたが、もし開戦となれば最大の効果を上げる作戦を考え出さねばならなかった。それが、開戦の劈頭にアメリカ太平洋艦隊の基地であるハワイ真珠湾をたたくという奇襲作戦だった。一番の目的は、日本軍の南方攻撃を成功させるためであった。従来の考えは、フィリピン等の防衛のため、アメリカ海軍が進出して来たところを艦隊決戦で迎え撃つというものであった。山本は、そうではなくアメリカ太平洋艦隊の基地に先制攻撃をしかけ、しかも誰も考えつかなかった航空兵力の集団使用(空母群)によって行おうとしたのである。連合艦隊の幕僚たちは、誰もがこの作戦のあまりのリスクの高さに反対したが、山本は自身の職を賭して決行したのである。 そして10/19、軍令部はこのハワイ奇襲作戦実施に同意の決裁を下した。

海軍の動き(昭和16年9月末から10月)
昭和16年 内容
9/29 山本五十六連合艦隊司令長官、永野修身軍令部総長に「戦争は長期となり困難」として「避戦」を上申。
10/5 近衛首相、東条陸相と会談し日米交渉継続の決意披露。陸相反対。陸軍省当局、妥結の目途なしと結論。
10/5 海軍、海相官邸で首脳会議開催。日米懸案は交渉の余地ありと判断、対陸軍折衝は首相に一任と決定。
10/6 陸・海軍部局長会談で、軍令部は南方作戦自信なしと表明。日米交渉継続とその目途で陸・海軍が対立する。
10/11 野村駐米大使から「日本の譲歩がない限り日米首脳会見は絶対に見込みなしと観察」との電報が到着。
10/12 近衛首相、私邸で陸・海・外相、企画院総裁と和平か開戦かを討議するが結論を得ず。
10/14 日米交渉問題を討議する閣議で、陸相が中国駐兵問題で譲歩は不可能と主張し、首相・外相と対立する。
10/15 近衛首相、陸相の総辞職要求(14日)を受け、東久邇内閣を提唱。木戸内大臣は反対を表明する。
10/16 第3次近衛内閣総辞職。対米和戦について、陸軍の主戦論で閣内の意見不一致のため。
10/17 後継内閣推挙のための重臣会議開催。木戸内大臣らの発意で、東条陸相を推挙、大命降下。
10/17 木戸内大臣、東条首相に9/6の御前会議で決定の国策を白紙還元したい、との天皇の意思を伝える。
10/18 東条英機内閣成立。首相は現役のまま陸・内相を兼務。
10/19 永野軍令部総長、山本連合艦隊司令長官要求の、ハワイ奇襲作戦実施に同意の決裁を下す。

年・月 1941年(昭和16年)
1941年
昭和16年10/2
ハル長官、日米首脳会談拒否を通告

●アメリカ、ハル国務長官は、野村駐米大使に日米首脳会談拒否を通告。そしてハル4原則確認と仏印撤兵要求の覚書を手交した。
このハル4原則とは以下をいう。

1. 一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
2. 他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与の原則
3. 通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則
4. 紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊拠ノ原則
1941年
昭和16年10/4
臨時郵便取締令公布施行

●これは国防上の秘密が外国に漏洩することを防止することが目的だった。これにより初めて郵便を開封して検閲することが制度化された。そして12/11の改正では、アメリカやイギリスへの郵便物が禁止された。

1941年
昭和16年10/7
朝鮮人労働者が待遇改善などを要求して一斉罷業

●山口県厚東川ダム工事場で、朝鮮人労働者330余人が待遇改善・時間短縮を要求して一斉罷業を行う。

軍需景気で競馬ブームが過去最高となる

●10/12横浜秋季競馬(現皐月賞)で人気のセントライトが優勝した。この馬は東京優駿競走(日本ダービー)で優勝しており、10/26には京都農林賞典(現菊花賞)で優勝し、日本初の三冠馬となった。
●この年の競馬の入場人員は約280万人(投票資格のない学生・生徒・未成年・家族を除く)で、勝馬投票券(馬券)の発売総額は約2億9386万円とどちらも過去最高を記録した。
(写真・セントライト)10/26京都農林賞典(現菊花賞)で優勝。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1990年刊
(グラフ)昭和9年からの入場人員と馬券の発売額の推移グラフ。(数値出典)「昭和2万日の全記録」講談社1990年刊
●このような時勢においても、競馬にお金を落とせる富裕層や軍需産業関係者が競馬ブームを引き起こしていたのである。当然、銃後における質実剛健の国民精神涵養の観点などからも、競馬中止を求める動きが各方面から起こった。だが孤立した馬政局(農林省の外局)は陸軍省と連絡、軍馬育成に寄与する競馬の意義をタテに中止論を抑えていた。
●だが太平洋戦争開戦がブームを一挙に鎮静化させた。そして昭和18年12月競馬中止が閣議決定された。

1941年
昭和16年10/15
尾崎秀実(ほつみ)諜報活動容疑で逮捕。ゾルゲ事件。

●リヒャルト・ゾルゲは、ドイツ人であったがソ連共産党員で、赤軍第4本部所属の情報活動の専門家で、急速に軍国主義化が進む日本の動向を諜報するために送り込まれたスパイだった。彼は昭和8年(1933年)秋に来日し、昭和10年にかけて諜報組織を作り上げた。彼の肩書は、「フランクフルター・ツァイトゥング」紙日本特派員でドイツ大使館顧問であった。彼はドイツ大使館武官オット(後の駐日大使)と親密な関係を築き、あらゆるドイツ情報を得ることができた。
●日本人の協力者(思想的に共鳴していた知己)は、中国問題に深い識見を持つ尾崎秀実だった。2人は昭和5年秋に尾崎が朝日新聞記者として赴任していた上海で知り合い、昭和9年に再開し、そこで尾崎はゾルゲへの協力を約した。
●ゾルゲが作り上げた諜報チームは、尾崎、ヴーケリッチ(ユーゴスラビア人、フランス共産党から派遣)、クラウゼン(ドイツ人、赤軍第4本部所属)、宮城予徳(アメリカ共産党から派遣)からなる強力なチームだった。
●この諜報チームがあげた大きな成果は2つあった。一つは、ドイツの対ソ攻撃計画の詳細を入手したこと。二つめは、日本の対ソ戦の動向を把握し、かつ北進(ソ連)ではなく南進へ向かわせるという政治工作の実行だった。特に日本が対ソ戦を行わないという情報は、極東に配備されていたソ連陸軍の最高装備を持つ25個師団を、モスクワ戦線にまわすことを可能とし祖国を救うことができたのである。
●10/15~18日にかけて尾崎やゾルゲらが逮捕された後、事件は厳重に秘され取調べが続けられた。司法省がこのゾルゲ事件を公にしたのは、翌昭和17年5/16で「国際諜報団事件」として報じられ国民は大きなショックを受けた。
●尾崎とゾルゲは昭和18年9/29、治安維持法・軍機保護法・国防保安法違反容疑で東京地裁で死刑判決受け、昭和19年11/7、東京拘置所で死刑が執行された。尾崎43歳、ゾルゲ49歳だった。
(写真-尾崎秀樹、提供・ゾルゲ事件研究会)「ライカを持つゾルゲ」昭和14年ごろ河口湖にて。「ソヴィエト、赤軍、共産党」と2回日本語で繰り返したのが彼の最後の言葉だった(石井花子『ゾルゲ残照』)。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1990年刊

1941年
昭和16年10/16
第3次近衛内閣総辞職、陸軍の主戦論で閣内意見不統一のため。

●翌10/17午後、内大臣木戸幸一は天皇の下問に従い、後継首相を推薦する重臣会議を開催した。7人の元首相と枢密院議長の原嘉道による重臣会議は、開戦派軍人の筆頭である東条英機を選んだ。
●これに基づいて天皇は東条を宮中に呼び、組閣を命じるとともに「陸海軍協力せよ」と支持した。その後木戸は東条に対して、9/6の御前会議での「10月上旬までに外交交渉が進展しない場合、対英米蘭との戦争を決意」という決定にとらわれずに、内外の情勢を広くふまえつつ慎重な考察を加えることを求めた。白紙還元の御諚(言葉)といわれる指示だった。

★東条英機内閣成立(10/18)
とうじょう‐ひでき【東条英機】
軍人・政治家・陸軍大将。東京出身。満州事変後、関東軍参謀長。中国侵略拡大を主張。昭和16年(1941)内閣首班となって太平洋戦争に突入。独裁体制をうちたてたが戦況の不利に伴い重臣の倒閣運動におされ辞職。戦後、極東国際軍事裁判でA級戦争犯罪人とされ、刑死。明治17~昭和23年(1884‐1948)(出典)精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006


●東条は24時間で組閣を終えた。東条は首相になると大将に昇進、陸相と内務相を兼任し、軍と警察を掌握した。東条内閣の一つの特色は「満州人事」といわれ、内閣書記官長の星野直樹と、国務相の岸信介(のぶすけ)は、昭和12年頃満州国で東条英機、松岡洋右、鮎川義介らとともに「ニキ三スケ」と言われた実力者たちだった。なかでも商工相と国務相を兼任した岸信介は敗戦後首相となり、良くも悪くも戦後日本の政治をリードした政治家であった。佐藤栄作首相は実弟で、岸信介の長女の婿は安倍晋太郎(外務大臣をはじめ自民党の要職を歴任)であった。現内閣総理大臣の安倍晋三は安倍晋太郎の次男である。

東条英機内閣成立

●10/18親任式を終えた東条内閣の首相官邸での映像。
(出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」1億2千万人の映像の1シーン。第1巻「世界恐慌と太平洋戦争」講談社2005年7/15第1刷発行。
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年・月 1941年(昭和16年)
1941年
昭和16年11/2
大本営政府連絡会議「帝国国策遂行要領」決定

●東条内閣は対米交渉を続けながら、10/23から11/2まで連日のように大本営政府連絡会議を開いて国策の再検討を行った。
そしてついに下記「帝国国策遂行要領」を決定した。武力発動の時機を12月初頭と明確に定めたのである。
●11/5、御前会議はこの「帝国国策遂行要領」を決定した。
そして海軍の永野修身軍令部総長は、山本五十六連合艦隊司令長官に対して「大海令第1号」を発令した。一方陸軍は、御前会議終了直後、杉山元参謀総長は南方軍の戦闘序列と作戦準備の実施命令に関して允裁(いんさい)を仰いだ。そして翌6日、大陸命第555号で南方軍の戦闘序列を発令した。

「帝国国策遂行要領」昭和16年11月1日 大本営政府連絡会議決定。
1、帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為この際対英米蘭戦争を決意し左記措置を採る
(1) 武力発動の時機を12月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す
(2) 対米交渉は別紙要領に依り之を行う
(3) 独伊との提携強化を図る
(4) 武力発動の直前泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立す
2、対米交渉が12月1日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す
別紙 対米交渉要領
対米交渉は従来懸案となれる重要事項の表現方式を緩和修正する別記甲案或は別記乙案の如き局地的緩和案を以て交渉に臨み之が妥結を計るものとす

※甲案、乙案はリンク先を確認してください。一例を引用すれば

(甲案5)米側の所謂4原則に付ては之を日米間の正式妥結事項(了解案たると又は其他の声明たるとを問わず)中に包含せしむることは極力回避す
(乙案3)日米両国政府は相互に通商関係を資金凍結前の状態に復帰せしむべし
米国は所要の石油の対日供給を約すべし

※甲案、乙案も妥結の可能性はないものであった。

*リンクします「帝国国策遂行要領」→国立公文書館アジア歴史資料センター
「開戦準備なる!」ついに動き出した陸海軍の戦争の歯車

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