1940年(昭和15年)ヨーロッパを席巻するドイツ、徹底抗戦するイギリス。

第2次世界大戦

ドイツ軍大攻勢、6/14フランス・パリ陥落、イギリス本土爆撃開始。日本はドイツの圧倒的な戦勝を見て、3国同盟(=日独伊軍事同盟)締結にむかう。
●日本では、前年の独ソ不可侵条約締結により、ドイツとの3国同盟締結論議は立ち消えになってしまった。だがこの年のドイツ軍によるヨーロッパ大攻勢(侵略)は、3国同盟推進派を勢いづかせた。日本は、ドイツのヨーロッパ制圧によって、空白となったアジアのオランダ、フランス、イギリスの植民地を支配できると考えたのである。
●だが3国同盟はアメリカを敵とする軍事同盟であり、海軍大臣吉田善吾は、反対派(海軍の主流)と推進派の松岡外相と陸軍との板ばさみにあって健康を害し辞任してしまう。そして9/19、御前会議は、松岡外相によって押し切られ、3国同盟締結を了承する。 下は、駐日米大使(滞日10年)ジョセフ・グルーの日記からの抜粋引用である。3国同盟が日本に何の利益をもたらすか、わからないと懸念を述べている。
(1940年10月1日)「同盟の主な目的が合衆国を目標にしていることは明瞭である。米国に太平洋区域に危惧を起こさせる点で、これが独伊両国に都合がいいことは明らかだが、日本の利益が何であるかはそれほど明らかでない。(中略)この条約の締結によって、日本がドイツによる英国の敗北を念頭においた大賭博に乗り出したことは明らかである。(中略)・・・・ドイツがどんな約束をするかしらないが、(ドイツが)日本に効果的な援助を与えることは出来もしないし、しようともしないだろう・・・」『滞在10年』(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

(上写真)左「勝利の歓び-ヒトラーとゲーリング」右「パリ入城後シャンゼリゼーを行進するドイツ軍」(出典)「目で見る戦史・第2次世界大戦」A.J.Pテイラー著(株)新評論1881年刊

目次
昭和15年 主要項目
★ヨーロッパの戦況(侵攻するドイツとソ連、抗戦するイギリス) ドイツ軍、4月デンマーク・ノルウェーを占領、5月ベルギー・オランダを占領。そしてフランスに侵攻、6/14ついにパリが陥落する。一方ソ連はバルト3国に侵攻、7月併合する。ドイツは、イギリスと講和を結ぼうとするが、イギリスはこれを拒否、ドイツに対して徹底抗戦を決意する。
★政党人最後の抵抗、斎藤隆夫演説 民政党代議士斎藤隆夫は、2/2の衆議院で戦争政策を批判する反軍演説を行った。斎藤は米内光政内閣の施政方針演説に対する代表質問で、1時半にわたって政府と軍部に対する批判を行った。だが帝国議会は、演説の後半部分をすべて速記録より削除し、民政党は斎藤の離党・謹慎を勧告し、2/3斎藤は党籍を離脱した。
★国内政治・社会年表
昭和15年《1940年》

阿部信行内閣→米内光政内閣→第2次近衛文麿内閣→近衛内閣改造
7月、海軍大将米内光政内閣が、陸軍によって総辞職に追い込まれると、第2次近衛文麿内閣が成立した。その背景には、ナチスドイツの強力な1党独裁にならい、日本においても既成政党を解消し、強力な新党を結成しようとする「新体制運動」があった。そして近衛内閣は、「基本国策要綱」を決定し、「大東亜新秩序建設」を基本方針と定め、速やかな支那事変解決と南進武力方針を決定した。そして9/27英米と決定的な対立となる「3国同盟」を締結する。
★5/18重慶爆撃 日本、「第百一号作戦」に基づく重慶、成都等、無差別爆撃を開始する。
★6/21援蒋ルート遮断 フランス・アンリ駐日大使、仏印の援蒋ルート遮断等を正式に受け入れる。
★7/19近衛文麿に組閣の大命 近衛内閣は「基本国策要綱」と「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定する。
★7/31ルーズベルト大統領の外交 アメリカ、西半球以外への航空機用ガソリンの輸出を禁止する。
★9/27-日独伊3国同盟 1940年9/27、日独伊3国同盟がベルリンで調印される。

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★ヨーロパの情勢(侵攻するドイツとソ連、抗戦するイギリス)

1938年~1940年ヨーロッパ地図


●上はヨーロッパ地図のイラストで、「黒色」が1938年初頭のドイツの領域である。東プロイセンはポーランド(ポーランド回廊)を挟んで飛地になっている。
●1938年ドイツが併合したのはオーストリアとミュンヘン協定によるチェコスロバキアのズデーテン地方である「濃いグレー」。ドイツは翌1939年に、チェコスロバキアを解体し、スロバキアはドイツの保護下に共和国として枢軸側についた。
●ドイツが占領した地域と国は「グレー色」で、枢軸国側となった国は「濃いグレー色」とした。「白」は中立国を表しているが、ユーゴスラビアは最初にドイツ側についたが、クーデターが起き反ドイツとなったため、1941年にドイツに侵攻された。またフィンランドは、ソ連の侵略を受け国土を割譲してソ連と講和したので、それ以降枢軸側についた。「ピンクの色」はプランスのビシー政権のエリアを表している。
●ソ連が占領した地域は「うすちゃ色」にしたが、バルト3国は併合された。

1938年~1940年欧州戦争略年表。ドイツをめぐる動き

●ドイツは、イギリス本土侵攻をあきらめ、空軍による爆撃をもってイギリスの屈服をねらった。だがイギリスはこの航空戦=「バトル・オブ・ブリテン」に不屈の闘志をもって勝利していく。だがドイツの潜水艦Uボートによる封鎖は、イギリスを経済的に大きな打撃を与えていた。もしドイツが都市部の無差別爆撃(ロンドンなど)ではなく、産業拠点(軍事、工業、港湾等)の爆撃を続けていれば、イギリスはドイツと講和したであろうといわれている。
 だがヒトラーの本当の狙いは、イギリスよりソ連征服とアメリカの参戦防止だった。できるだけ早くソ連侵攻を完了させ、イギリスと講和できれば、アメリカは参戦する大義名分を失うだろうと考えた。
●だが、アメリカとの戦争の引き金を引いたのは日本だった(翌年の真珠湾攻撃)。ドイツは、3国同盟により日本がロシアに侵攻することは期待していたが、アメリカと直接戦争することは避けたかったに違いない。

1938~1940年、欧州戦争略年表ドイツをめぐる動き
1938年(昭和13年)内容
3月 ●ドイツ、オーストリアを併合。3/14ヒトラー、ウイーンに凱旋しオーストリアのドイツ帝国編入を宣言。
9/30 ●ミュンヘン協定締結(独、英、仏、伊)。チェコスロバキアのズデーテン地方(ドイツ系住民が多く居住)をドイツへ割譲をすることを認める。(英仏、ドイツに屈服)
1939年(昭和14年)内容
3/15 ●ドイツ軍プラハに無血入城、ボヘミア・モラヴィア地方を併合し、チェコスロバキアを解体する。3/16、ドイツ保護下においてスロバキアは共和国として独立する。
3/23 ドイツ軍リトアニアのメーメル港に上陸。同日リトアニアはメーメル地方の割譲に同意する。ドイツは第1次世界大戦後(1919年)、東西のプロイセン地方は分断され、西部はドイツ領、中央部にポーランド回廊、自由都市ダンツィヒ、東プロイセンは飛地となった。メーメル地方は東プロセインの北、リトアニアの海岸地帯。
4/7 ●イタリア軍アルバニアに侵攻。4/12アルバニアを併合する。
8/23 ●独ソ不可侵条約締結。
9/1 ●第2次世界大戦勃発。ドイツ海軍がダンツィヒ沖合からポーランド要塞を攻撃、同時に内陸部では、ドイツ機甲師団と空軍の爆撃機がポーランド国境を突破、ワルシャワに向かって進軍を開始した。
9/3 ●イギリスとフランスがドイツに対して宣戦を布告。
9/17 ●ソ連軍は独ソ不可侵条約の秘密議定書にもとづきポーランドに侵攻。9/27、ワルシャワはドイツ軍によって陥落した。そして9/28、独ソ間にて協定が結ばれ、ポーランドは分割された。
11/30 ●ソ連軍フィンランド侵攻(冬戦争)。ソ連は、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の防衛強化と海軍基地建設のため国境線の移動をもくろみフィンランドに侵攻した。この戦争は長引き、翌年3/12休戦協定が締結されたが、フィンランドは多くの領土を失いソ連と講和した。
1940年(昭和15年)内容
3/13 ソ連とフィンランドが講和する。
※国際連盟は、ソ連のフィンランド侵攻を侵略と認めソ連を除名した。フィンランドは戦いに勝ち抜いたが、国土の10%を割譲するなど過酷な条件で講和を結んだ。その後フィンランドはソ連に対抗するため、ドイツ・イタリア側(枢軸国)についた。
4/9 ●ドイツ、デンマーク、ノルウェーに侵攻。デンマークは当日夕刻までに全土が占領された。ノルウェーにはドイツ海軍の、戦艦2、巡洋艦7、駆逐艦14、魚雷艇8、潜水艦(Uボート)31隻、戦闘機430機を投入し、沿岸部の主要都市と港を制圧した。だがノルウェー軍は、イギリス、フランス、ポーランドの支援を受け果敢に抵抗した。
5/1 ヒトラー、西部戦線攻撃を指令。
5/10 ●ドイツ軍は、北仏・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクを奇襲攻撃する。5/15、オランダはドイツ軍の激しい爆撃と落下傘部隊の進軍によりアムステルダムを破壊され、降伏した。ドイツ軍は、ベルギーを守る連合軍(フランス軍、イギリス軍、ベルギー軍)を包囲していく。
●5/10、英チェンバレン内閣総辞職、チャーチル連合内閣が成立。5/13ロンドンにオランダ亡命政権成立。
5/14 ドイツ軍、セ(ス)ダン付近でマジノ線突破。このマジノ線は、フランスがドイツとの国境に沿って構築した軍事要塞で、全長322kmに達し難攻不落と呼ばれていた。ドイツ軍は、自然の要害(重砲や戦車が通れない)と思われていたアルデンヌの森を抜けてセダン付近のマジノ線を突破した。この作戦の成功により連合軍は海岸のダンケルクに追い詰められていく。
5/27 ●英仏軍、ダンケルク撤退を開始。イギリス兵20万人とフランス兵14万人がイギリス本土へ撤退していった。
※5/27ベルギー軍は降伏。ベルギー政府はロンドンへ逃れるが、ベルギー国王レオポルド3世は戦時捕虜となりドイツに降伏する(5/28)。だがベルギー軍の働きで、英軍のダンケルク撤退が成功したといわれる。
6/7 英仏軍、ノルウェーより撤退。ノルウェー国王と政府はイギリスに亡命。だがイギリス海軍はドイツ海軍に大きな損害を与えた。
6/10 ●イタリア、英仏に宣戦布告。
6/12 ノルウェー降伏。
6/13 英軍、リビアのイタリア軍攻撃。
6/14 ●ドイツ軍、パリに無血入城。
※6月、ドイツ軍のフランス侵攻の時、南フランスへ逃げる途上、両親を機銃掃射で亡くした5歳の少女の物語が「禁じられた遊び」である。下段でYouTubeにリンクしておいた。
6/16 ●仏、ペタン内閣成立。
※ペタン政権は7/2ボルドーからヴィシーに移転し、7/11第3共和政憲法を廃止したので、ヴィシー政権と呼ばれる。国名は「フランス国」である。
6/17 ●ソ連バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)に侵攻。
6/18 ド・ゴール、ロンドンからフランスへ向けて対独抗戦を呼びかける。英国政府は、「自由フランス」の指導者としてド・ゴールを承認。
6/22 ●独仏(ペタン政権)休戦協定調印。
※この休戦協定は、フランス北部のコンピエーニュの森の列車内で結ばれた。ここは、第1次世界大戦で敗北したドイツが、1918年11/11、連合国と休戦協定を結んだと同じ場所だった。ヒトラーは同じ場所に同じ列車を運ばせたのである。
6/28 ソ連軍がルーマニアのベッサラビアと北ブコヴィナに進駐し占領を開始した。
7/3 イギリス海軍はアルジェリアのオラン近郊のメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス艦隊を攻撃した。フランス艦隊がドイツ軍にわたるのを防ぐ目的だった。7/5ペタン政権はイギリスとの国交を断絶した。
7/19 ヒトラー、ドイツ議会にてイギリスに対して講和提案を行う。
ヒトラーは、イギリスと講和できれば、アメリカ参戦の場合はイギリスが緩衝地帯となり、ソ連侵攻時には西方の危険を懸念せず専念できると考えた。
7/20 ●英国、ドイツの提案を拒否し、徹底抗戦を決意する。
7/21 バルト3国(エストニア・ラトビア・リトアニア)の議会、ソ連邦加盟を議決する。(ソ連がバルト3国を併合)
7/31 アメリカ、航空機用ガソリンの西半球以外への輸出禁止を発表(8/1実施)
8/1-10 イタリア軍、英領ソマリランド攻略。
8/6-7 ドイツ、ルクセンブルグとアルザス・ロレーヌを併合。
8/10 ●ドイツ空軍、イギリス本土空爆(軍需工場や飛行場を攻撃)を開始する。(イギリスからみると、対ドイツ航空戦=バトル・オブ・ブリテンと呼ぶ。)
※7/21にドイツはイギリス侵攻作戦「シ―・ライオン計画」の大綱を決めたが、ヒトラーは英国よりもソ連侵攻作戦を重要と考えていた。またドイツ海軍はノルウェー戦で戦力を失っていて、イギリス侵攻作戦は不可能と陸軍も考えていた。そこでドイツ軍は、空軍による爆撃でイギリスを降伏させようと考えたのである(イーグル作戦)。
8/24 一機のドイツ機が方角を誤り、ロンドンに爆弾を投下。
8/25 イギリスは報復のためベルリン空襲を敢行。ヒトラーはそれまで許していなかったロンドン攻撃を許可。
9/7 ●ドイツ空軍、初めてロンドンを900機の大編隊で爆撃。(都市に対する無差別爆撃)
9/9 ドイツ空軍、ロンドン昼間爆撃。
9/12 イタリア軍、エジプト侵攻。
9/14 イタリア軍、イギリス中東方面軍と交戦。
9/15 ●イギリス空軍は、ドイツ空軍(総力をかけたロンドン爆撃)を迎撃し、56機の戦果をあげる(イギリス26機損失)。この敗北により、ヒトラーは「シ―・ライオン計画」を延期し、またこれ以後ドイツ空軍は、イギリス空軍が苦手とする夜間攻撃に転じた。
※「バトル・オブ・ブリテン」はイギリスの勝利となる。この日までにドイツ空軍は1733機を失い、イギリス空軍は915機を失ったが、本土制空権を守ったのである。この戦いで重要な役割を担ったのが、スピットファイヤ(戦闘機)とレーダーといわれている。
9/23 ●日本軍、北部仏印に進駐を開始、第5師団フランス軍を攻撃。
※「援蒋ルート」遮断を目的に平和的進駐を行う協定を、陸軍は大本営の命令を無視して破り、フランス軍を攻撃、武力進駐した。
9/26 これに対抗してアメリカ政府は、屑鉄・鉄鋼の対日全面禁輸を発表(10/16実施)
9/27 ●日独伊3国同盟締結。
※これは軍事同盟で、端的に言えば、もしアメリカが日独伊のうちいずれかの国を攻撃したときは、他の国は自動的にアメリカに参戦するというのが条文の解釈である。日本はこの参戦義務は3国で協議するとしたが、ドイツは条文どおりと解釈していた。ドイツとしては、日本が極東でアメリカと戦争を起こせば、アメリカのヨーロッパへの軍事力行使は手薄になると期待したのである。
10/5 ドイツ軍、油田確保のためルーマニアに進駐し、12日までにプロイエシュティなどを掌握する。
10/18 ●イギリス政府、日独伊3国同盟への対抗策として援蒋ルート「ビルマ-雲南」を再開する。
12/24 ヒトラーがフランス・ヴィシー政権に対英戦線に加わるように迫るがペタンは拒否した。またスペインのフランコ将軍も対英参戦を拒否した。
10/28 イタリア軍、ギリシャ侵攻。ギリシャはイギリスに救援を要請、10/29イギリス軍クレタ島に上陸する。
10月下旬 ●ハンガリー、ルーマニア、スロヴァキア、日独伊3国同盟に参加。
11/14 ドイツ軍、イギリス、コベントリーを空爆。
11/16 ●ドイツ、ワルシャワにゲットー(ユダヤ人強制居住区)を設立する。
※ナチス・ドイツ、人類史上かってない悪魔のホロコースト実行へとむかう。
12/18 ●ヒトラー、バルバロッサ作戦準備指令。(ソ連攻撃作戦)
12/29 ロンドン空襲で大被害。

※下段でYouTubeから、「Black Saturday; the bombing of London’s docks in WWII.」と「The Battle of Britain」にリンクした。イギリスの「バトル・オブ・ブリテン」に関するドキュメンタリー映画は数多くある。

下は「1940年6月ドイツ軍がパリ入城時、凱旋門を行進する動画」。下段でリンクした「Black Saturday; the bombing of London’s docks in WWII.」の1シーン。動画ではパリ市民の不安げな様子が撮影されている。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ1.5MB、14秒)

*リンクします「Black Saturday; the bombing of London’s docks in WWII.」
動画・出典:YouTube(Yoho Media氏)
*リンクします「Battlefield S1/E2 – The Battle of Britain」
動画・出典:YouTube(Vasile Iuga氏)
*リンクします「禁じられた遊び(1952)Jeux interdits 」
動画・出典:YouTube(werden240 berg氏)

★政党人最後の抵抗、政府と陸軍を批判する。

民政党代議士斎藤隆夫は、2/2の衆議院で戦争政策を批判する反軍演説を行った。斎藤は米内光政内閣の施政方針演説に対する代表質問で、1時半にわたって政府と軍部に対する批判を行った。
●斎藤の演説要旨は下記の4点だった。

①昭和13年1月の近衛声明が「支那事変」処理の最善をつくしたものであるか否か。
②いわゆる東亜新秩序建設の具体的内容はいかなるものか。
③汪兆銘援助と蒋介石政権打倒を同時に遂行できるのか。
④「事変」勃発以来すでに戦死者10万、国民にさらに犠牲を要求する十分な根拠を示せ。

●そして続けて、下記の内容で政府と軍部の戦争政策の欺瞞性を批判したのである。

削除された斎藤演説(部分)
 国家競争ハ道理ノ競争デハナイ、正邪曲直ノ競争デモナイ、徹頭徹尾カノ競争デアル(中略)弱肉強食ノ修羅道二向ツテ猛進ヲスル、是(これ)ガ即チ人類ノ歴史デアリ、奪フコトノ出来ナイ現実デアルノデアリマス、此ノ現実ヲ無視シテ、唯(ただ)徒(いたずら)二聖戦ノ美名二隠レテ、国民的犠牲ヲ閑却シ、曰(いわ)ク国際正義、曰ク道義外交、曰ク共存共栄、曰ク世界ノ平和、斯(かく)ノ如キ雲ヲ掴ムヤウナ文字ヲ列べ立テテ、サウシテ千載一遇ノ機会ヲ逸シ、国家百年ノ大計ヲ誤ルヤウナコトガアリマシタナラバ現在ノ政治家ハ死シテモ其ノ罪ヲ滅ボスコトハ出来ナイ(中略)
事変以来今日二至ルマデ吾々ハ言ハネバナラヌコト、論ゼネバナラヌコトハ沢山アルノデアリマスルガ、是(これ)ハ言ハナイ、是ハ論ジナイノデアリマス、吾々ハ今日二及ンデ一切ノ過去ヲ語ラナイ、又過去ヲ語ル余裕モナイノデアリマス、一切ノ過去ヲ葬り去ツテ、成(なる)ベク速(すみやか)二、成ベク有利有効二事変ヲ処理シ解決シタイ、是が全国民ノ偽リナキ希望デアルト同時二、政府トシテ執(と)ラネバナラヌ所ノ重大ナル責任デアル(中略)
然ルニ歴代ノ政府ハ何ヲ為(な)シタカ、事変以来歴代ノ政府ハ何ヲ為シタカ 二年有半ノ間二於テ三タビ内閣が辞職ヲスル、政局ノ安定スラ得ラレナイ、斯(こ)ウ云フコトデドウシテ此ノ国難二当ルコトガ出来ルノデアルカ、畢竟(ひっきょう)スルニ政府ノ首脳部二責任観念ガ欠ケテ居ル(中略)国民的支持ヲ欠イテ居ルカラ、何事二付(つけ)テモ自己ノ所信ヲ断行スル所ノ決心モナケレバ勇気モナイ、姑息偸安(こそくゆあん)一日ヲ弥縫(びほう)スル所ノ政治ヲヤル、失敗スルノハ当り前デアリマス
(斎藤隆夫先生顕彰会『斎藤隆夫政治論集』から)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

●斎藤の演説終了後、議場は「拍手がなりやまない光景」で終わったといわれる。米内首相の答弁は形式的に簡単におわり、畑陸相は答弁に立たず、議長は数分後に散開を宣言した。
●ところが散会後、陸軍は武藤章軍務局長を中心に、斎藤の演説を「聖戦目的の侮辱」「10万英霊への冒涜」として攻撃を開始した。議会内でも、時局同志会、政友会革新派、社会大衆党が斎藤を非難した。こうした情勢から衆院議長は職権で、演説後半部分すべてを速記録から削除し、民政党幹部も問題の拡大を恐れ、斎藤を離党させた(2/2)。
●だが陸軍は、この民政党の処理に満足しなかった。畑陸相は、2/3午後の衆院本会議で反駁演説を行い、反民政党諸会派も、斎藤の議員除名を要求し、衆院議長は3日夜、斎藤議員を懲罰委員会にかけることを決定した。
こうして各政党は斎藤議員除名問題をめぐって紛糾し、2/7午後1時衆院本会議が開かれ、懲罰委員会の決定(満場一致で除名決定)が議決にかけられた。そして記名投票の結果、除名賛成296票、反対7票、棄権144人で、斎藤の除名が可決された。内務省・警察は新聞社に対して、斎藤を英雄視するような感情を与える記事の掲載は不可等の通達を行った。
●だがこの結果、各政党は反対者・欠席者の処分をめぐって内部の動揺と対立が続き、分裂状態に陥った。そして斎藤除名の急先鋒だった政友会革新派、時局同志会は、政友会正統派、社会大衆党麻生派、第一議員俱楽部および民政党の一部を加え、3/25、「聖戦貫徹議員連盟」を結成し、翼賛体制づくりの旗振り役となっていった。
(上写真)第75議会衆議院本会議において、代表質問を行う民政党の斎藤隆夫。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

★国内政治と社会年表。1940年(昭和15年)頃。『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。

年・月 1940年(昭和15年)
1940年
昭和15年3/3
橿原神宮(かしはらじんぐう)正月三が日の参拝者125万人を記録

●この橿原神宮は、「古事記」「日本書紀」において初代天皇とされる神武天皇をまつる神社で、1889年(明治22年)に創建されたもの。昭和15年(1940年)は、神武天皇の即位(紀元前660年)から数えて2600年にあたるので、11/10には宮城前広場にて「紀元二千六百年記念式典」が挙行された。
このようなことから、正月三が日の参拝者は125万人と創建以来の最高を記録し、前年の20倍となったのである。

1940年
昭和15年1/11
津田左右吉、右翼からの攻撃で早大教授を辞任

●下は、国家主義者蓑田胸喜、雑誌「原理日本」の臨時増刊(昭和14年12/24・第15巻第11号)の「津田左右吉氏の大逆思想」の一部抜粋。

「かくの如き津田氏の神代上代史捏造論、即ち抹殺論は、その所論の正否に拘わらず、掛けまくも畏き極みであるが、記紀の『作者』と申しまつりて『皇室』に対し奉りて極悪の不敬行為を敢えてしたものなるは勿論、(中略)皇祖皇宗を始め奉り14代の天皇の御存在を、それ故にまた神宮皇陵の御義をも併せて抹殺しまつらむとするものであるから、これ国史上全く類例なき思想的大逆行為である」
(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

●そして2/10、津田の著書である「古事記及日本書記の研究」、2/12「神代史の研究」「日本上代史研究」「上代日本の社会及び思想」が発売禁止とされ、さらに3/8、東京地方検事局は、津田左右吉とこれらを出版した岩波茂雄(岩波書店)を出版法違反で起訴した。

1940年
昭和15年1/14
阿部信行内閣、陸海軍の支持を失い総辞職

●この日、「東京朝日新聞」は号外で「畑大将(前陸軍大臣)に大命降下せん」と報じた。後継首班として、陸軍も畑本人も、大命が降下するものと信じていた。だが1/14夜7時半、組閣の大命は、米内光政元海軍大臣に下った。
●これは天皇が、陸軍ではなく海軍を選んだものと思われる。天皇は、14日侍従武官から宮中への参内を要請された畑に対して、「米内に内閣組閣を命じたによって陸軍として協力するように」と言ったとされるからである。

1940年
昭和15年1/15
静岡市大火

●午後0時8分出火、折からの強風(西北の風、風速10数メートル)にあおられ、4170戸焼失、2万8156人が被災した。鎮火までに15時間かかった。

1940年
昭和15年1/16
米内光政内閣成立

(米内光政・よない‐みつまさ)
海軍軍人、政治家。岩手県出身。海軍大将。連合艦隊司令長官・海相を歴任後、昭和15年(1940)首相に就任。日独伊三国同盟に反対して陸軍と対立し、辞職に追い込まれた。のち海相をつとめ、終戦処理にあたった。明治13~昭和23年(1880-1948)精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006

●米内内閣は、陸軍大臣を畑俊六(留任)、海軍大臣を吉田善吾(留任)、外務大臣を有田八郎(元外務大臣)としたが、大蔵大臣、農林大臣、逓信大臣、鉄道大臣を政党から登用し、自由主義的な性格を示した。
 2/1の再開された第75帝国議会で米内首相は施政演説で以下のように述べた。

戦時経済対策を確立し、低物価政策の下に物資の増産並びに配給の適正をはかり、戦時国民生活を確保する」

国民生活は、日中戦争の長期化で米、木炭などが不足するようになり、インフレが始まった。
●政府は、物価対策のため4/1内閣に物価対策審議会、商工省に価格形成中央委員会を新設し、価格統制、配給統制を始めた。生活必需品の配給制は6月から開始され、砂糖、マッチは品不足のため6大都市で切符制が導入された。

(米、木炭など不足する記事1月)
1/3、3万5280石の外米を積んだ山下汽船武庫丸、1/1芝浦に入港し陸揚げの荷役作業始まる。
1/5、広島県吉名村、米の自主的消費規制を決め、1人1日3合の通帳制を実施(高知市4/29実施)。
1/12、逓信省、石炭不足から関西2府12県で、さらに1割8分の電力制限を決定。通算3割強の制限となる。
1/18、木炭不足で東京府が計画した東京市内中学生と師範学校生の炭焼き動員、山の作業に無理と中止を決定。
1/21、石炭不足により九条・安治川東・毛馬・名古屋東の4火力発電所が操業停止。関西の工場に臨休・操短続出する。
1/24、東京地方逓信局、渇水と石炭不足により日本発送電・東電などに無警告送電停止の緊急指令を通牒。
1/30、旱天(かんてん=日照り)と石炭不足で電力飢饉深刻化。関西方面では、軍需・特殊産業を除き、14時間の一斉停電を実施。
1/31、政府、電力飢饉克服のため、北海道・東北北部を除く全国に電力調整令発動を閣議決定(2/10実施)。
1/31、電力難で調布ポンプ場の揚水能力が減退し、東京市は節水徹底を呼びかける。
1940年
昭和15年1/21
英国軍艦浅間丸を臨検、ドイツ人船客21人を引致(強制連行)する。

●この事件は、日本郵船の豪華客船浅間丸がホノルルから横浜へ帰港途中に、イギリスの巡洋艦に停船させられ、ドイツ人船客21人が強制連行された事件である。イギリスとドイツは前年9月より交戦状態にあり、乗り込んできたイギリス士官は、ドイツ人船客51名のうち「兵役に関係ある者」21人の引き渡しを要求したのである。
●この事件は、日本の目と鼻の先である千葉県野島崎沖約64.82キロの公海上で起きたこともあり、政府はイギリスに抗議するとともに、拉致したドイツ人の引き渡しを求めた。さらに日独同盟推進派にとっては反英キャンペーンの格好の材料となり、中野正剛らは強硬な対英交渉を政府に迫り、新聞各紙も連日大きく報道した。鎮静化していた反英運動が再燃したのである。(2月イギリスは9名を軍籍に関係なしとして引き渡しに応じた)
(新聞)昭和15年2/1の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1940年
昭和15年2/1
陸運統制令(2/25施行)、海運統制令公布施行(外地2/15施行)。

●これは戦時下における輸送力を確保するために、国家総動員法に基づき公布されたもの。

1940年
昭和15年2/5
マッチの製造及び配給に関する件公布(2/10施行)

●これは業者への生産命令などを規定したもの。3/4には満州国政府は、日本のマッチ用材不足解消のため、満州林業用材の供給を前年比5割増しを計画するとある(新京発)。

1940年
昭和15年2/6
生活綴方関係者を検挙

●これは、山形県で村山俊太郎ら3人を検挙したもので、これ以降、生活綴方・北方教育関係教員約300名を検挙した。

1940年
昭和15年2/10
逓信省、電力調整令を発動、電力大幅制限を断行する

●政府は1/31の臨時閣議で、電力飢饉対策として電力の消費と供給の両面にて強権を発動することを決定した。この電力調整令で制限を受ける地域は、北海道・東北北部を除いて、関東、関西、中国、四国、九州の全地域で、10日~20日までは関東で30%、関西で35%の制限とし、20日からは20%に緩和するとの目標だった。
●そしてさらに状況によって、石炭10万トン確保を目標に石炭徴発令も考慮することとした。

1940年
昭和15年2/16
労働組合の解散を期待と答弁

●藤原厚生省労働局長、衆院厚生予算分科会で、産業報国運動の徹底を期すため、労働組合の解散を期待と答弁。

1940年
昭和15年2/21
「桐工作」実行を指示

●閑院宮参謀総長は、香港での対重慶国民政府和平工作を「桐工作」と呼称し、支那派遣軍に実行を指示。
●この頃日本では、数多くの対重慶和平工作が行われており、陸軍においても泥沼化する日中戦争打開を求めていた。だが一方で対重慶和平工作が具体化しないときは、汪兆銘政権を正式政府として承認するとも決めていた。
●この「桐工作」とは、重慶政府の要人宋子文(浙江財閥の中心人物で、その妹は蒋介石夫人の宋美齢)の弟である宋子良を通じて重慶政府と和平交渉を行うというもので、これが成功すれば一挙に停戦ができると大いに期待された。
●だがこの宋子良は偽物で、日本は重慶側秘密組織の謀略に踊らされてしまったのであった。9/28日本は「桐工作」打ち切りを決定。

1940年
昭和15年2/21
少年工員の災害事故が急増

●厚生省調査で、昭和14年度の負傷者のうち37%が21歳以下と新聞に。

1940年
昭和15年3/6
横浜-サイパン-パラオ間定期航空路開設

●このルートは日本航空会社が横浜と南洋諸島を結んだもので、従来の船便で往復20日のところを、画期的に短縮させたもの(サイパン、パラオに1泊ずつしても4泊6日)。この南洋諸島は第1次世界大戦後、赤道以北の旧ドイツ領を、国際連盟から委任統治領として正式に統治下においてきたもの。南洋諸島は、マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島があり、日本は1922年4月から、パラオ諸島コロール島に南洋庁を設置した。そしてサイパン島、パラオ諸島(コロール島)、ヤップ島、トラック諸島のDublon島(ダブロン島=旧夏島)、ポナペ島(=ポンペイ島)、ヤルート環礁(ジャルート環礁=Jaluit Atoll)のJabor(ジャボール)の6カ所に支庁を置いた。コロール島にはパラオ支庁も置かれた。下段でこの6ヵ所の位置をGoogleマップに示した。下で「写真週報」143号にリンクした。コロール島で「南洋神社鎮座祭」が行われた写真などが掲載されている。

*リンクします「写真週報」143号 昭和15年11月20日号「南洋神社鎮座祭」
南洋群島・パラオ・コロール島→国立公文書館アジア歴史資料センター
年・月 1940年(昭和15年)
1940年
昭和15年3/7
斎藤隆夫、議員除名される。

●この除名決議に反対した、社会大衆党の片山哲(戦後日本社会党委員長で首相)ら8人は社会大衆党より離党勧告を受け、3/9除名処分される。これ以降「聖戦」に公然と批判することは許されなくなった。3/21には社会大衆党の阿部磯雄党首も、片山哲ら8人と行動を共にすると表明し、離党を発表した。「聖戦」=皇道に基づいた正義の戦いという意味。

1940年
昭和15年3/25
聖戦貫徹議員連盟の発会式挙行

●斎藤議員條名問題で各政党は紛糾し、内部の動揺と対立が続き、分裂状態に陥った。そして斎藤除名の急先鋒だった政友会革新派、時局同志会は、政友会正統派、社会大衆党麻生派、第一議員俱楽部および民政党の一部を加え「聖戦貫徹議員連盟」を結成したのである。

1940年
昭和15年3/28
内務省・警保局、俳優たちの改名を指示する。

●内務省の方針は、時局柄風紀上おもしろからぬもの、不敬にわたるもの、偉人の尊厳を傷つけるもの、外国かぶれのもの、を改名させることだった。漫才のミス・ワカナを玉松ワカナ、ディック・ミネを三根耕一、俳優(東宝)の藤原釜足は、藤原鎌足(近衛家の祖)を揶揄するものとして藤原鶏太と改名させられた。また不敬としては、熱田みや子は熱田神宮、吉野みゆきは吉野御幸を連想させるとして改名させられた。
●また英語追放は日常生活に及び、カタカナ語も禁じられていった。(一例)
たばこの「ゴールデンバット」は「金鵄(きんし)」、「チェリー」は「桜」、巨人軍のユニフォームの「GIANTS」は「巨」に変わり、スタルヒン投手は「須田博」と改名させられた。

1940年
昭和15年3/29
所得税法改正・源泉徴収始まる

●現在にも続く「源泉徴収制度(当時は源泉課税といった)」(=給与から天引き)の始まりである。
政府は、膨れ上がる軍事予算の総額が、昭和15年度予算純計額《一般会計+臨時軍事費特別会計》の64%に達したことや、国債消化率の低下、インフレの拡大が進むことなどにより、税収の増大を図る必要に追い込まれていた。そこで昭和14年の税制調査会は、大規模な税制改革案として「所得税」を中心としたものに変えた(イギリスの普通所得税をモデル)。そして勤労所得においては、徴税費を節約するため、第1次世界大戦後のドイツの源泉徴収方式を導入した。
●これにより、個人所得税納税人員は、昭和14年度-188万人だったのが、15年度-535万人、19年度-1162万と増えた。

1940年
昭和15年3/30
汪兆銘ら南京で「中華民国政府還都典礼」を挙行。南京国民政府が成立。

●新政権の首席は空位として汪兆銘が代理主席となり、10大政綱(日本との善隣友好・反共和平を柱)を発表した。この中央政府の発足で、北平(北京)の中華民国「臨時」政府(1937年12月樹立)は華北政務委員会に改組され、新政権委任の範囲内で華北を統治することになった。また南京の中華民国「維新」政府(1938年3月樹立)は、新政権に吸収された。日本は即日「全幅の協力と支援を与えん」との声明を発表し、4/1阿部信行前首相を特命全権大使に任命した。
●だがこの新政権に対する日本の要求は過酷なもので、新政権はこれ以上の傀儡政権はないといわれるほどになってしまう。新政権は、政治、経済、軍事などすべてを日本に管理され、日本軍の軍事目的達成のための協力機関になっていった。汪兆銘は日本軍の撤退を信じて和平を求めたのだが、歴史は汪兆銘を唾棄すべき漢奸(売国奴)としていくのである。

1940年
昭和15年4/8
国民体力法公布

●17歳から19歳男子の体力検査を義務化し、体力手帳を交付。

1940年
昭和15年4/15
文部・内務両省「日本ニュース映画社」を認可する。

●この「日本ニュース映画社」は、4/9、大毎、東日、朝日、読売、同盟各社のニュース映画部門が、「映画法」の趣旨に沿って統合、設立した国策会社である。そして6/13、日本ニュース第1号を公開した。日本ニュースは10/1から6大都市映画館で強制上映となった。
下段は「日本ニュース第1号」最初の部分の動画。下で「NHKアーカイブス」ニュース映像にリンクした。

「日本ニュース第1号」「脱帽 天皇陛下 関西御巡幸」

『かしこくも天皇陛下には、肇国(ちょうこく)の皇謨(こうぼ)、連綿として白光に輝く、紀元2600年にあたり、伊勢神宮および各山陵(さんりょう)に、親しく紀元2600年の皇謨を御報告、・・・』と始まる。下でリンクした映像の1シーン。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ4.4MB、40秒)

*リンクします「日本ニュース 第1号」
動画・出典:「NHKアーカイブス」ニュース映像

年・月 1940年(昭和15年)
1940年
昭和15年4/15
有田外相、蘭印に深い関心と声明。

●この蘭印とは、オランダ領東インドのことで、インドネシアのこと。声明は、「東亜の平和・安定の上から、欧州戦争の激化に伴う蘭印の事態変化に深い関心を有す」というもので、日本は南進政策を実行するぞという宣言でもある。
●一方アメリカのハル国務長官は、4/17この有田外相の声明に対して、「蘭印の現状変更は全太平洋地域の安全に悪影響」と発言し牽制した。

1940年
昭和15年4/23
国民精神総動員中央連盟、改組解散決定。

●4/24設立の国民精神総動員本部へ改組し、10月に大政翼賛会に引き継がれ解散した。

1940年
昭和15年4/24
生活必需品の価格統制方針策定

●価格形成委員会は、米・味噌・醤油・木炭・医療品など、生活必需品の価格統制方針を策定する。切符制採用も検討する。この切符制とは、前もって交付された切符と交換するもの。

1940年
昭和15年5/1
国民優正法公布(昭和16年7/1施行)

●現代人が知っておかねばならことは、この「国民優正法(1940年)」と「旧優生保護法(戦後1948年)」、「母体保護法(1996年改正)」、そして2019年4/24に成立した「旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給等に関する法律」についてである。
●この「国民優正法」については、「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊によれば以下のように述べられている。

「国民優正法」
「国民素質」の向上を名目として、不健全素質者への優生手術(断種)と健全者の産児制限防止を規定した法律。ナチスの断種法をモデルに制定された。優生手術の対象となるのは、遺伝性の精神病・奇形・疾患のある者などで、医学的経験上生まれる子にそれらの疾病の出る率が著しく高い者とされ、本人や家族の任意申請で地方長官が可否を決定した。16年7月1日の施行以後、22年までに538件の手術が行われた。

●2019年4月に成立した「旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給等に関する法律」の前文には次のように述べられている。

(前文)
昭和二十三年制定の旧優生保護法に基づき、あるいは旧優生保護法の存在を背景として、多くの方々が、特定の疾病や障害を有すること等を理由に、平成八年に旧優生保護法に定められていた優生手術に関する規定が削除されるまでの間において生殖を不能にする手術又は放射線の照射を受けることを強いられ、心身に多大な苦痛を受けてきた。
このことに対して、我々は、それぞれの立場において、真摯に反省し、心から深くおわびする。
今後、これらの方々の名誉と尊厳が重んぜられるとともに、このような事態を二度と繰り返すことのないよう、全ての国民が疾病や障害の有無によって分け隔てられることなく相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に向けて、努力を尽くす決意を新たにするものである。
ここに、国がこの問題に誠実に対応していく立場にあることを深く自覚し、この法律を制定する。

●特にこのなかの『全ての国民が疾病や障害の有無によって分け隔てられることなく相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に向けて、努力を尽くす決意を新たにするものである。』ということが、現代の我々が共通して持つべき認識だと思う。

*リンクします「旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給等に関する法律」総務省「電子政府の総合窓口」→ 電子政府の総合窓口
1940年
昭和15年5/7
アメリカ、太平洋艦隊をハワイ方面へ

●アメリカ海軍省は、パールハーバー(真珠湾)を臨時根拠地として、太平洋艦隊のハワイ方面への無期限滞留を発表。
(新聞)昭和15年5/9の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1940年
昭和15年5/10
イギリス、チャーチル内閣成立

●イギリス首相チェンバレン(71歳)が正式に辞意を表明し、これを受けて国王ジョージ6世は、海相ウィンストン・チャーチル(66)に組閣を命じた。チャーチルはチェンバレン政権下では、海相としてドイツとの宥和政策を厳しく批判していた。イギリス軍はノルウェー戦線での撤退が続き、国内では強力な戦争指導者が待望されていたのである。チャーチルは労働党と自由党の連携に成功し、挙国一致内閣でドイツとの総力戦を推進していく。
(新聞)昭和15年5/12の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1940年
昭和15年5/15
全米各地で、デュポン社製ナイロン・ストッキング販売開始。

●前年の4/8の新聞に、「デュポン社の新合成繊維ナイロン、軽くて丈夫で弾力性あり、絹の強敵か」との記事がのった。
このナイロンの出現は、昭和11年~15年までの日本の主要輸出品の双璧をなした「綿製品」と「生糸」に打撃を与えた。

1940年
昭和15年5/17
新聞雑誌用紙統制委員会設置

●閣議は、用紙の配給統制を徹底するため、内閣に新聞雑誌用紙統制委員会の設置を決定した。

1940年
昭和15年5/18
日本、「第百一号作戦」に基づく重慶、成都等、無差別爆撃開始

●重慶爆撃は1938年から1941年にかけて行われた。日本軍は、特にこの昭和15年の6/24から6/29にかけての6日間に、陸海軍合同による昼夜にわたる記録的な連続無差別爆撃を行った。6/28の爆撃は、「上海特務機関首席武官情報」前田哲男『戦略爆撃の思想』所収、によれば次のような甚大な結果をもたらした。

市内文字通り阿修羅の巷(ちまた)と化し全市火焔を以て蔽われたり。長江及び嘉陵江上の「ジャンク」沈没し、死体累々として江上を流れつつあり

この爆撃は高度5、6000メートルから行われた無差別爆撃であり、爆弾は、60キロ、250キロを中心に使われた。そのほかに、800キロ爆弾と焼夷爆弾(黄燐溶液を吸収させたゴム片と火炎剤をつめたもの)も投下された。
●この日本軍による重慶爆撃は1938年(昭和13年)2/18が最初で、同年12/26~翌年1/15までは陸軍が4次にわたって爆撃を実施した。1939年(昭和14年)5/3と5/4は、海軍が単独で爆撃を行い、この2日間で中国側の発表では、死者3991人、重傷2287人、建物損壊4888棟という甚大な被害を出した。世界史からみてもこの日本の重慶爆撃は、1937年4/26、ドイツ軍によって行われたゲルニカ無差別爆撃以上の被害を与えたもので、国際的な非難を受けたのである。戦争末期に日本はアメリカ軍によって無差別都市爆撃を受けたが、日本も中国に対して無差別爆撃を行っていたのである。
●1940年6/13、アメリカ国務省は日本軍の重慶爆撃を非難する公式声明を発表した。
●1940年8/19からの爆撃には初めて「ゼロ戦」が海軍96式陸攻を護衛した。

重慶爆撃

(出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」1億2千万人の映像の1シーン。第1巻「世界恐慌と太平洋戦争」講談社2005年7/15第1刷発行。ゼロ戦の映像も映っている。
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年・月 1940年(昭和15年)
1940年
昭和15年5月
米の混入率変更

●4月から東京では、米穀商を通じて販売する米には外米4割を混入と定めた。
●5/22から、東京の配給米の混入率は外米5割、内地米3割、台湾産もち米2割となる。
●5/31警視庁経済保安課、東京白米商同業者組合などに、以下の混入率を通牒する。外米7割、内地米2割、台湾産もち米1割。
※外米とは、タイなどからの輸入米をいい、当時は内地米より風味が落ちるとして嫌われた。

1940年
昭和15年5/27
英仏軍フランス北部ダンケルクからイギリス本土へ撤退開始

●5/14ドイツ軍は、アルデンヌの森を抜けてセダン付近のマジノ線を突破した。この作戦の成功により連合軍は海岸のダンケルクに追い詰められていった。
●ダンケルクからの撤退作戦はダイナモ作戦といわれ、6/4までにイギリス軍20万人、フランス軍14万人が脱出に成功した。イギリスにおいては、このダンケルクの撤退は賞賛されたが、フランスからすれば、イギリスは敗北を目の前にするとすぐに撤退してしまうと思われた。1915年ガリポリ撤退(オスマントルコ上陸作戦失敗)、ノルウェーでの撤退、そしてこのダンケルクである。
(新聞)昭和15年5/18の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1940年
昭和15年5/29
石炭配給統制法に基づく日本石炭株式会社設立

●この会社は石炭の買い付け販売を一手に行うものである(10/1業務開始)。

1940年
昭和15年6/1
砂糖とマッチの切符制実施。

●横浜・名古屋・京都・神戸で実施され、東京・大阪は6/5から実施される。(1人1日マッチ5本)
●また主食(米)の代用品として芋の配給や、炭の不足から燃料としての薪(まき)の配給も行われていた。

1940年
昭和15年6/12
日泰(タイ)和親友好条約調印

●日本は、東南アジアで唯一の独立国であるタイ国と、和親友好条約を結んだ。タイ国は国際情勢のバランスをとるため、フランスとイギリスとの間で相互不可侵条約を結んでいた。日本とも不可侵条約を求めたが、和親友好条約に留まった。(第1条・相互の領土尊重と平和及び友好関係の確認)

1940年
昭和15年6/14
ドイツ軍パリ無血入城、6/22フランス休戦協定締結

●フランスはレイノー内閣に代わりペタン新政権がドイツと休戦協定を締結した(実質の降伏)。一方ロンドンに亡命したド・ゴール将軍(レイノー政権での陸軍次官)は、ドイツ軍に降伏することを拒否、「自由フランス委員会」を組織し、対ドイツ抵抗運動(レジスタンス)を進めていく。
(新聞)昭和15年6/18の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1940年
昭和15年6/21
フランス・アンリ駐日大使、仏印の援蒋ルート遮断等を正式に受け入れる。

●フランス政府は仏印(=フランス領インドシナ)のハイフォンからハノイを通って中国雲南省昆明へ結ぶ援蒋ルートの国境封鎖と日本側監視員受け入れなどを正式に認めた。

●前年の昭和14年(1939年)10月、大本営は南寧攻略作戦(援蒋ルートの遮断を目的とする)を支那派遣軍に発令し、11/15第5師団は広西省欽州湾に上陸、11/24南寧を占領した。(南寧は、仏印ハノイから鉄道による援蒋ルートのひとつだった。)
●昭和14年11/30野村外相は、アンリ駐日フランス大使に、仏印経由蒋介石政権援助の停止と軍事監視団のハノイ派遣などを申し入れた。
だが昭和15年1月、日本軍は中国軍の反撃にあい、増援を得て南寧を確保したものの、中国側は新たに百色(南寧より北西)・昆明ルートを開拓していた。

●一方、ビルマルート(当時ビルマはイギリスの植民地)に対しては、6/24、谷外務次官がクレーギー駐日英大使にビルマ・雲南ルートなどの援蒋物資輸送について厳重警告を行った。
そして7/12、クレーギー駐日大使は有田外相との会談で、「日本政府の雲南・ビルマルート遮断要求を原則受諾」と回答した。
●6/25、大本営は仏印の援蒋物資輸送禁絶監視のため、監視員40人を派遣と発表した。
●7/16ハル・アメリカ国務長官は、英仏による滇緬公路(ビルマ公路のこと)・滇越鉄道(ハイフォンから昆明を結ぶ)などの援蒋ルート遮断に反対を表明。

援蒋ルート(仏印とビルマ)


●ハンプ空路とは、1942年4月以降、日本軍にビルマ全域を支配された後、イギリス軍とアメリカ軍が開設した中国・昆明への空路輸送路のこと。この出発地は、インド・アッサム州北東部の数カ所の飛行場で、途中に横断山脈(ホントワン山脈)があり、高度、気温、天候など困難を極めた輸送路といわれる。この山脈は、大きく言えば、ヒマラヤ山脈・崑崙山脈などの山塊が、ビルマ、中国に南北に急角度で押し出したような山脈である。北部の山々は標高6000メートルをこえる。
●このための武器弾薬・援助物資はインド・カルカッタから鉄道を使って運ばれた。日本軍が1944年3月、このインド側の援蒋ルート壊滅の目的で攻撃を開始したのが、インパール作戦だった。
(注)上のイラストに背景として使用した地図は、平凡社1984年発行「世界大地図帳」なので当時の地名を示すものではない。

1940年
昭和15年6/20
東京市内20ヵ所に落雷。大蔵省、厚生省など9官庁が全半焼

●午後9時53分、東京大手町の逓信省航空局に落雷、火災となる。官庁街約6万7千余㎡を焼失、重軽傷者107人を出した。

1940年
昭和15年6/24
近衛文麿、枢密院議長を辞任。「新体制運動」

●近衛文麿は、強力な挙国政治体制確立の決意声明を発表する。これは「新体制運動」のことで、既存の政治体制を脱皮するため、近衛と近衛側近の有馬頼寧、風見章、後藤隆之助ら昭和研究会のグループが、国民の力の結集による新たな国民組織の結成を構想したものである。この運動の本来の目的は、軍部の独走を、既成の政党ではなく新たな国民的統合によって打開しようとしたことにあった。
●だが軍部は、ヨーロッパ戦線がナチスドイツによって勝利すると判断し、ナチスに似た強力な一党独裁が国内において必要であると考えた。また既存政党のなかからも、軍部と結び新党を樹立しようという動きも始まった。
●そして、2月の斎藤隆夫の反軍演説を機に結成された「聖戦貫徹議員連盟」は、「挙国一致、国策完遂に邁進」するため既成政党解消と強力新党結成方針を決め、各党首に解党を進言した。これを機に政党は解散を急ぎ、新体制運動になだれ込んでいった。

(政党や組合の解党、解散の例)
●7/1日本革新党(旧新日本国民同盟・赤松克麿)、拡大総務委員会で解党を決定(7日、大日本党結成)。
●7/6社会大衆党解党式挙行(地方から約400人の党員が参加し、東京芝の協調会館で挙行、30年の歴史に幕)。
●7/7東京交通労働組合解散(9日、大阪市電従業員組合、10日、大阪交通労働組合、各解散)。
●7/8日本労働総同盟中央委員会、7日の地方委員と本部役員との協議に基づき、解散の方針を決定。
●7/16政友会久原派、所属貴衆両議員200余名を集め、立憲政友会解党大会を開催し解党決議。
(7/30政友会中島派解党大会、所属貴衆両議員・地方支部代議員300余人が出席して開催、解党を可決。)

●7/18日本農民組合総同盟、16日幹部会決定の無条件解散を警視庁に届出。
●7/23民政党の永井柳太郎ら31議員、新体制参加のため解党を求め脱党を決定(25日脱党)。
●7/26国民同盟、東京丸ノ内の本部で解党大会挙行。安達謙蔵総裁、新体制創設に協力する所信を表明。
●8/8解散した各党派の衆議院議員ら126人が参加し、新体制促進同志会結成大懇談会開催。
●8/15立憲民政党解党大会、丸ノ内東京会館で開催(既成政党全て解党)
●9/30日本海員組合、産報運動の普及徹底に伴い、臨時大会で自主的に解散。
1940年
昭和15年6/29
出版統制により1年間で全国で雑誌など約4000種廃刊

●新聞によれば丹羽文雄らの「新風」も創刊号で廃刊となる。

1940年
昭和15年7/1
日本軍、竜州を占領

●日本軍は、南寧からさらに仏印国境に近い竜州を占領し、援蒋ルート封鎖を進める。

1940年
昭和15年7/6
奢侈品等製造販売制限規則公布(7/7施行)

●これは通称「7.7禁令」と呼ばれ、ぜいたく品の製造販売を抜き打ちに禁止したもので、伝統産業(西陣の絹織物など)が直撃を受け、中小商工業者(履物、時計・貴金属類、靴・鞄類など)にも深刻な打撃となった。
●この時期、生活必需品(米、味噌、醤油など)は切符制が導入されるほど供給がひっ迫していた。しかし一方で貴金属や高級織物には公定価格がなく、ぜいたく品は出回っていた。残業の増加や労働力のひっ迫で賃金収入が増えた消費者は過熱気味にこれらの商品を求め、供給側も利益率の高く売れ行きの良い奢侈品の生産に傾いていたのである。

1940年
昭和15年7/16
畑陸相「国務遂行の意見不一致」のため辞職、米内内閣総辞職

●陸軍は、3国同盟・反英運動に反対する海軍の米内内閣を倒すため、畑陸軍大臣を辞任させ、後任の大臣選出を拒み米内内閣を総辞職させた。これは「軍部大臣現役武官制」という軍が自らの政治的要求を実現するために作った制度で、今回は陸軍が、気に入らない海軍の内閣を倒すために使ったのである。

1940年
昭和15年7/17
重臣会議で、後継首相に近衛文麿の奏薦を決定

●奏薦(そうせん)とは天皇に推薦する意味で、それをもとに天皇が大命を降下(組閣を命じる)するのである。今までは後継首班の選定は、元老西園寺公望が奏薦していたが、今回は自らの老齢も考慮し、重臣らを加えて首相を選出する新方式を望んだ。
●7/17内大臣木戸幸一は重臣会議を開いた。原嘉道枢密院議長と首相経験者の若槻、岡田、広田、林、平沼、近衛が出席、わずか30分で近衛の奏薦を決めた。

1940年
昭和15年7/19
近衛は東京荻窪の自宅荻外荘(てきがいそう)で荻窪会談を行う

●17日夜に組閣の大命を受けた近衛は、19日午後荻窪の自宅に、陸、海、外3相の候補を招き、新内閣の基本政策の大綱を決めた。陸軍は東条英機航空総監、海軍は吉田善吾(留任)、外務は近衛自身が選んだ松岡洋祐だった。内閣発足後、公式に決定された「基本国策要綱」「時局処理要綱」の柱は全てこの会談で決められた通りのものだった。

1940年
昭和15年7/22
第2次近衛文麿内閣成立

●新閣僚には、政党人は採用されずほとんどが官僚出身者であった。そして財界から2人、商工大臣に小林一三(東京電灯社長)、逓信・鉄道兼任大臣に村田省蔵(大阪商船社長)がなった。新閣僚の中で異彩を放ったのは松岡洋右(ようすけ)外務・拓務兼任大臣(元満鉄総裁、元内閣参議)だった。松岡は国際連盟脱退時の立役者であり、その脱退演説は脚光を浴びた。そして陸軍大臣は東条英機陸軍中将(元関東軍参謀長、前陸軍航空総監)が就任した。(新聞)昭和15年8/2の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

「基本国策要綱」と「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定

●1940年(昭和15年)7/26、近衛内閣は閣議で根本方針である「基本国策要綱」を決定した。翌7/27には大本営政府連絡会議でより具体的な「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。下に全文を引用したが、これは読んでおかねばならないものである。単純に日本はアメリカの制裁により戦争に突き進んだわけではない。


「基本国策要綱」「八紘(はっこう)ヲ一宇(いちう)トスル」

●初めて政府の公式文書に神がかり的な表現が使われた。「皇国(こうこく)ノ国是(こくぜ)ハ八紘(はっこう)ヲ一宇(いちう)トスル肇国(ちょうこく)ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ・・」この意味は、日本の根本方針は「天皇のもとにひとつの家となるような世界平和」を招来することだ、と宣言しているのである。

※この「八紘(はっこう)ヲ一宇(いちう)トスル」とは、日本書紀巻第三の「神日本磐余彦天皇(神武天皇)」の章で、橿原の地を都とするところからとられている。「・・然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以(もっ)て都を開き、八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、亦可(よ)からずや。・・」

●また「皇国現下ノ外交ハ大東亞ノ新秩序建設ヲ根幹トシ先ツ其ノ重心ヲ支那事変ノ完遂ニ置キ・・」とし、「大東亞ノ新秩序建設」を根幹、「支那事変ノ完遂」を重心とし、万難を排し、「国防国家体制」の完成に邁進するとしたのである。

世界ハ今ヤ歴史的一大転機ニ際会シ数個ノ国家群ノ生成発展ヲ基調トスル新ナル政治経済文化ノ創成ヲ見ントシ、皇国亦有史以来ノ大試練ニ直面ス、コノ秋ニ當リ真ニ肇国ノ大精神ニ基ク皇国ノ国是ヲ完遂セントセハ右世界史的発展ノ必然的動向ヲ把握シテ庶政百般ニ亘リ速ニ根本的刷新ヲ加ヘ萬難ヲ排シテ国防国家体制ノ完成ニ邁進スルコトヲ以テ刻下喫緊ノ要務トス、依ツテ基本国策ノ大綱ヲ策定スルコ卜左ノ如シ
「基本国策要綱」

下


「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」

●注目すべき方針は、第1に援蒋行為を絶滅させ、重慶政権を屈伏させることであり、南方問題解決には武力行使を行うと決めていることである。(武力行使において相手はイギリスに限定するが、アメリカとの開戦についても準備しておく、と決めている。)
●対外施策では、速やかに3国同盟(日独伊)を結び、ソ連とも飛躍的関係強化を図るとしている。(日本はソ連を含めた同盟を望んでいた。この時点では、ドイツがソ連に侵攻するとは思ってもいなかった。)
●アメリカとは、関係が自然と悪化することはやむを得ないが、動向を注意し日本から進んで摩擦を増やすことは避ける、と決めている。

「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」
    昭和一五年七月二七日大本営政府連絡会議決定
  方  針
帝国ハ世界情勢ノ変局二対処シ内外ノ情勢ヲ改善シ速力二支那事変ノ解決ヲ促進スルト共二好機ヲ捕捉シ対南方問題ヲ解決ス
支那事変ノ処理未夕終ラサル場合二於テ対南方施策ヲ重点トスル態勢転換二関シテハ内外諸般ノ情勢ヲ考慮シテ之ヲ定ム
右二項二対処スル各般ノ準備ハ極力之ヲ促進ス

下

*リンクします第2次近衛内閣「基本国策要綱」→
国立公文書館アジア歴史資料センター
*リンクします大本営連絡会議「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」→
国立公文書館アジア歴史資料センター
年・月 1940年(昭和15年)
1940年
昭和15年
「一億一心」「大東亜共栄圏」

●「一億一心」とは、7/23近衛首相がラジオ放送で「大御心(おおみこころ)を仰いで、一億一心、真実の御奉公を期さなければならぬ」と語った言葉から流行した。日本の総人口が外地人口を含めて1億人を突破すると推定されていた。
●「大東亜共栄圏」とは、8/1松岡外相が「基本国策要項」の発表に際し、要項の「大東亜の新秩序建設とは日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立」であるとし、その範囲は南進策の具体化により「南洋」を含むとの見解を示した言葉。従来の「東亜」を拡大したものとなった。

1940年
昭和15年7/31
アメリカ、西半球以外への航空機用ガソリンの輸出を禁止

●7/25ルーズベルト大統領は、輸出管理法による輸出許可制適用品目に、屑鉄・石油を追加指定した。翌日大統領は、この輸出許可制は禁輸を意味せず、英国の援蒋ルート遮断とは無関係と声明した。
●だがこの石油には高オクタン価の航空機用ガソリンも含まれており、7/31アメリカはアメリカ船舶による西半球以外への石油輸送を禁止した。対日経済制裁であった。
●このなぜ西半球と限定したのかは、アメリカのパン-アメリカ主義に起因する。またアメリカがドイツや日本の「全体主義国家」から「民主主義国家」を防衛するため、孤立主義を捨てようとしていたことなどは、当時の日本国民にとっては、何のことだか全くわからなかったに違いない。下段ではアメリカ・ルーズベルト大統領と外交について述べる。
(新聞)昭和15年7/27の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

アメリカ・ルーズベルト《ローズヴェルト》大統領と外交

●ルーズベルトが大統領(民主党)に就任した1933年は、伝統的な孤立主義を守ろうとする空気が強かった。またルーズベルトは、軍縮問題や極東問題(日本)に対しては、中国の主権、独立、領土保全を守り、門戸開放と1928年の不戦条約を守ろうとするスティムソン主義(1932年国務長官)を踏襲していた。だが一番の重要問題は世界恐慌の対策である経済政策「ニューディール」であった。
●この恐慌対策に関連する外交上の動きは、共産主義のため認めなかったソ連を承認したしたこと(1933年)、植民地だったフィリピンの独立(10年後)を認めたこと(1934年タイデングス-マッタダフィ法)である。これらの要因は経済的な効果(ソ連との貿易拡大)と経済的な負担の解消(フィリピン)とされる。
(写真)1935年11/15、マニラのフィリピン議事堂で、陸軍長官はルーズベルト大統領のフィリピン独立の宣言を読み上げた。(出典)「世界の歴史」15ファシズムと第2次世界大戦。中央公論社1962年発刊。
●ルーズベルトは、モンロー主義(ヨーロッパ大陸と相互不干渉を原則とする外交政策)をもとに、合衆国が指導国であるとの考えを改め、パン-アメリカ主義(ラテンアメリカ諸国を含む政治的・経済的結束をめざす)に基づき西半球全体を一つと考え、善隣外交(合衆国による内政干渉をやめる)を推進しようとしたのである。ルーズベルト大統領は、1933年の第7回パン-アメリカ会議の2か月後改めて次のように演説した。

「今後のアメリカの決定的な外交政策は武力干渉に反対することである」と

●この実際の事例は、1934年に起きた保護国としていたキューバのクーデターで、アメリカは武力干渉を行わず、プラット修正条項を廃棄しキューバを完全な独立国としたのである。
●1938年第8回パン-アメリカ会議(リマ)では、ラテンアメリカに対するナチス勢力の伸長を阻止するため、「いかなるアメリカ州の1国でも外部からの侵略のおそれがある場合には共同戦線をとる」というリマ宣言を全員一致で採択した。当時ラテンアメリカには、ドイツ人およびイタリア人移民が多くいて、ナチス及びファシストの活発な宣伝活動が行われていた。アルゼンチンには多くのイタリア移民、チリおよびブラジル南部には多くのドイツ人移民が送り込まれていた。アメリカはこれらに対抗するため、ラテンアメリカ諸国に対して経済・文化・教育上の積極的な援助を行い、全体主義の侵略から守ろうとしたのである。
●アメリカの世論は、ヨーロッパの国際情勢が悪化しても、依然として孤立主義的な傾向が強かった。もしヨーロッパで戦争が起きても、アメリカは中立を維持すべきだという考えが圧倒的だった。そこで生まれたのが中立法だった。
●1935年、アメリカは、イタリアがエチオピアを侵略すると中立法を制定した。これは大統領が戦争状態であると宣言すれば、アメリカ国民は交戦国に対して軍需品の販売や輸送ができないことを規定したものである。1936年には、交戦国に対する借款も禁止し、この年の7月スペイン内乱が勃発すると、戦争だけでなく内乱にも適用することに改めた。さらに1937年にはアメリカ国民の交戦国船舶による旅行が禁止された。しかし軍需品以外の戦時貿易は、現金取引と当事国の船舶による輸送に限って許可するようになった(アメリカの友好国、イギリス・フランスなど)。中立法は、ある意味、侵略国にも侵略を受けた国にも平等であった。
●そこでようやくアメリカの世論も、中立法だけでは、侵略国(全体主義国)にも有利となるので、民主主義国に対してはより同情的になるべきだと考えるようになった。
●1937年7月、再び日本が中国侵略(日中戦争)を開始すると、ルーズベルト大統領は、侵略に対してより積極的な行動をとるべきだと考えるようになった。そして1937年10月、ルーズベルト大統領はシカゴで演説(侵略国を隔離せよとの演説)し、はじめて日・独・伊の3国を「侵略国」だと非難し、このような疫病の蔓延から平和愛好国は一致団結して侵略国を打倒しなければならないと述べた。
だがアメリカ国民の反応は、まだ日・独・伊の3国に対して積極的に干渉する必要はないというものだった。
●1939年9/1、ドイツがポーランドに侵攻し第2次世界大戦を起こしたとき、ルーズベルト大統領は、「炉辺談話 fireside chats」といわれるラジオ放送で国民に語りかけた。この時点(9/4)では、まだ大統領は「私は戦争を憎む。アメリカは中立を守るだろう。合衆国が戦争に参加しないことを希望する。」と述べていた。この「炉辺談話」は、今のトランプ大統領がツイッターで国民に直接発信するような意味合いをもつものかもしれない。
(上写真)「私は戦争を体験したことがあり、戦争を憎む。わが国がこの戦争に介入しないことを私は望んでいる」と語るルーズベルト大統領。(出典)「クロニック世界全史」講談社1994年刊
●だが1939年11/4ルーズベルト大統領は「新中立法」に署名した。これにより交戦国(連合国側)への武器輸出禁止は撤廃され、アメリカ船も危険区域航行ができるようになった。ついにアメリカは孤立主義を放棄したのである。
●そして1940年4月から始まったドイツのヨーロッパ侵攻は、6月にはフランスが降伏(休戦協定)し、最後に残ったのはイギリスだけになった。一方日本は、国民政府の首都重慶への無差別爆撃を続け、イギリス・フランスに援蒋ルート遮断の圧力をかけ、武力による南方攻略(南下政策)を国策として決定したのである。
●重要なことは、1940年はアメリカ大統領選挙の年であったことである。民主国家アメリカは、国民がどう判断し、誰を大統領に選ぶかで政策が変わる。国民が戦争を望まない限り戦争はできないのである。
年末に大統領は、アメリカは侵略国と戦う国に対する援助を強化し、そのためにアメリカは、世界の民主主義国の軍需工場になると宣言したのである。

1940年
昭和15年7/27
在日イギリス人多数、諜報謀略活動容疑で全国一斉に検挙

●これは対英戦争の始まりを意味していた。

●7/29、イギリスロイター通信のコックス特派員が、諜報行為容疑で検挙、取り調べ中に、東京憲兵本部で飛び降り自殺。
●7/30イギリス外相は重光駐英大使に、スパイ容疑で在日イギリス人が大量検挙された事件の円満解決を要請。
●7/31、東京憲兵隊、救世軍の植村司令官ら幹部7名を防諜法違反容疑で逮捕。
●8/2、三菱商事と三井物産のロンドン支店長、英国官憲に逮捕される。(朝日新聞には、対日報復の第一歩か、とある)
●8/4、シンガポールで日本人通信社社員、英国官憲に逮捕される。
●8/9、イギリスは日本の強硬な要求により、上海英国駐屯軍撤退を重光駐英大使に通告する。
●8/12、東京排英市民同盟、日比谷公会堂で「討英国民大会」を全国30数都市の代表約5000人を集めて開催。
●8/29、救世軍日本本営、救世団と改称、イギリス・ロンドンにある救世軍本部と絶縁、独立する。
1940年
昭和15年8/1
松岡洋右外相、アンリ駐日仏大使に要求(仏印)

●松岡外相は、日本軍の仏印駐屯・通過、仏印飛行場の使用などを要求した。これは現在のベトナムのハノイ、ハイフォンを中心として、援蒋ルート遮断のため、爆撃のための飛行場、鉄道遮断のための駐屯などを要求したものである。

1940年
昭和15年8/1
「ぜいたくは敵だ!」の看板1500本配置。

●国民精神総動員本部は、銀座など東京市内の繁華街1500ヵ所に、「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ!」「ぜいたくは敵だ!」と書かれた看板を設置した。同時に東京市精動実践部では、婦人団体と協力して市内盛り場10ヵ所に実践委員と100数十人の監視隊員を派遣し、ぜいたくの自粛を訴えた。
●この運動は「愛国婦人会=上流婦人を中心」「国防婦人会=割烹着にたすき掛けを会服とした」をはじめとした婦人団体が行動を起こしたものだった。当時の動画で白い「かっぽうぎ」を着た人たちが国防婦人会の会員である。

1940年
昭和15年8/19
警視庁特高課、新協劇団と新築地劇団、100余名検挙

●新協劇団と新築地劇団は、3年前の昭和12年12月に警視庁特高課に出頭して、国民精神総動員運動に協力することを表明していた。だが警視庁は劇団への警戒と監視を続けていた。そんななかで新協劇団は、築地小劇場で昭和15年2/2から3/18までの46日間にわたり「大仏開眼」の公演を52回おこなった。
●この「大仏開眼」は、天平の大仏建立を夢幻的な叙事詩で描いたものだったが、これを見た特高第一課長は、この大仏建立の裏に、当時の農民と奴隷の搾取を暗示させるものと受け止めた。そして8/19警視庁は新劇関係者の一斉検挙を行ったのである。
●この検挙について報道は禁止され、8/24に解禁されたが、内容は「当局の勧告により新協劇団と新築地劇団は自発的に解散した」というものだった。そして8/20から8/30の間に、大阪、京都、岡山、北陸など地方の新劇団も解散させられたのである。

1940年
昭和15年8/20
八路軍、第1次百団大戦開始する

●中国共産党の八路軍が、初めて行った大規模な攻勢で、華北全域の交通線・鉱山に攻勢をかける。

1940年
昭和15年8/27
小林一三商相を蘭印特派大使に任命

●8/30出発、9/12バタビア着。9/13日蘭印経済交渉開始。

1940年
昭和15年9/11
内務省、部落会・町内会等の整備要綱を通達。「隣組」

●国民統制(上意下達・相互監視)のために下部組織として整備されたのが、「隣組(となりぐみ)」だった。この訓令の目的は以下のようである。(カタカナはひらがなに変えた)

「隣保団結の精神に基づき市町村内住民を組織結合し万民翼賛の本旨に則り地方共同の任務を遂行せしむること」

●これによって、市町村行政の下請け機関として「部落会」「町内会」が整備され、その下に10戸内外を単位とする隣保班(隣組)が整備された。この隣組の役割は、列挙すると以下のようであった。

出征兵士の見送り、遺族・留守家族への救援活動に加えて、食糧増産、貯蓄推進、国債の割当などの任務が課された。さらに民間防空体制として隣組が地域での消防、灯火管制、警報伝達、防護などを担った。

●この強制力は、生活必需品の配給を隣組を通じて行った事で個人を拘束した。活動に出席しないと配給切符に判を押さないことで個人を強制させたという。
●昭和17年になると、政府はこの部落会・町内会・隣組をすべて大政翼賛会の指導下に置く方針を決めた。これにより町内会長等は翼賛会の「世話役」に、隣組長は「世話人」として翼賛会の正式構成員となった。昭和17年7/1時点で、全国で町内会・部落会は20万7007、隣組は133万3732が組織されたのである。

1940年
昭和15年8/30
日本軍の北部仏印進駐に関する公文交換

●この日、松岡洋右外相とアンリ駐日仏大使との間で、フランス領インドシナ北部(北部仏印)への日本軍進駐に関する公文が交換され、「松岡・アンリ協定」が成立した。この公文には、この進駐は、日本軍による軍事占領ではない旨が盛り込まれた。そしてこの進駐に関しての細目は、6/29にハノイ入りしていた「援蒋物資輸送禁絶監視団」団長の西原一策少将と現地フランスの機関の交渉で決めることになった。
●そして9/4、仏印軍司令官マルタンとの間で「西原・マルタン協定」が結ばれた。ところが、進駐日時などの細目を協議中に、南寧から中国領内を仏印国境近くに進出していた第5師団の一部が越境するという事件が起きた。交渉は振り出しに戻ってしまった。
●9/5大本営は南支那方面軍に北部仏印進駐を発令した。
●9/22午後4時半、交渉に結果「西原・マルタン協定」は、署名され成立した。内容は、トンキン州における飛行場の使用、日本軍の駐屯(兵力6000以下)、日本軍のトンキン州通過であった。

1940年
昭和15年9/16
「大政翼賛運動」「大政翼賛会」の名称が決まる

●新体制準備会常任幹事会、新体制運動と指導機関の名称は「大政翼賛運動」「大政翼賛会」で意見一致。
●9/27、閣議、翼賛会の人事を決定。事務総長・有馬頼寧、企画局長・小畑忠良、常任総務・中野正剛、橋本欣五郎ら。

1940年
昭和15年9/19
御前会議、日独伊3国同盟案を承認

●松岡外相は就任直後より3国同盟締結の打診をドイツ側におこなっていた。当初、ドイツ側の反応は冷たかったが、英国屈服の見通しがつかなくなったことや、アメリカの参戦が危ぶまれるようになると、ドイツ側も同盟に積極的になった。
●一方、3国同盟に反対を続けていた吉田善吾海相が、反対派の海軍の長老と推進派の陸軍・外務省との板挟みで健康を害し9/4辞任した。新しく就任した及川古志郎海相は同盟には反対せず、3国同盟締結は急速に進展していった。
●9/16閣議で3国同盟条約案は了承され、9/19の御前会議で条約締結の方針が決定された。御前会議で松岡外相は、3国同盟に関して、日米関係を改善する余地は殆どなく、改善する方法があるとすれば毅然とした態度(3国同盟を結ぶ意味)をとるしかないと説明した。席上、対米関係、石油資源の確保、対ソ関係などについて質問が出たが、政府側の説明に押し切られた。そして伏見宮軍令部総長より日米開戦回避に万全を期するようになどの希望がでて御前会議は終了した。
●この御前会議の出席者は、天皇、(政府側)近衛首相、東条英機陸相、松岡外相、及川海相、河田蔵相、星野企画院総裁、(統帥部)閑院宮参謀総長、沢田参謀次長、伏見宮軍令部総長、近藤軍令部次長、原枢密院議長だった。
●反対すると思われていた海軍の内情は、阿川弘之著「山本五十六」新潮社、平成23年(2011年)66刷によれば次のようである。

●及川が海軍大臣に就任した後、東京で海軍首脳会議を開いた。これは海軍として、3国同盟に対する最終的態度を決定するためのものだった。会議の席上、及川海軍大臣は、ここでもし海軍が反対すれば、第2次近衛内閣は総辞職のほかなく、海軍として内閣崩壊の責任をとることは到底できないから、条約締結に賛成ねがいたい、ということを述べた。列席の伏見軍令部総長以下、各軍事参議官、艦隊及び各鎮守府長官の中から、1人も発言する者が無かった。
●そこで山本連合艦隊司令長官が、私は大臣に対しては、絶対に服従するものですが、もし3国同盟を結べば、今まで英米圏内から得てきた8割の資材を失うことになってしまうが、どう物動計画を切り替えたのかを質した。ところが、及川大臣はこの問いに答えず、「いろいろご意見もありましょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、この際は3国同盟にご賛成願いたい」と、同じことを繰り返した。
●すると、選任軍事参議官の大角 岑生大将が、まず、「私は賛成します」と口火を切ると、ばたばたと一同賛成ということになってしまった。

●この及川海軍大臣についての評価はあまり高くはないが、この時の海軍は、軍事的な意見ではなく、政治的な意見で賛成したといわれている。近衛首相は、この海軍の態度に不信を感じ、山本五十六連合艦隊司令長官を荻窪の荻外荘に呼び、日米戦が起こった場合の海軍の軍事的な見通しを聞いた。山本は次のように答えたという。

「それは、是非やれと言われれば、初め半年や1年は、ずいぶん暴れて御覧に入れます。しかし2年、3年となっては、全く確信は持てません。3国同盟が出来たのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力御努力を願いたいと思います」
1940年
昭和15年9/23~24
第5師団、仏印フランス軍ドンダン要塞とランソンを攻撃する

●前日に協定が成立したにもかかわらず、第5師団は9/23午前0時にドンダンを攻撃、翌9/24にランソンを攻撃し、9/25には仏印守備隊を降伏させた。ドンダンとランソンは、ハノイと南寧・百色ルート間の仏印側の拠点。

参謀本部作戦部長ら強硬派と印度支那派遣軍が、大本営命令を無視

●富永恭次少将・参謀本部作戦部長は2度にわたり現地へ赴き、参謀総長職権代行者を自称して武力進駐させた。また9/26第5師団の攻撃を知った印度支那派遣軍は、協定を無視して敵前奇襲上陸を強行したので、護衛の海軍はこの部隊をハイフォンに置き去りにした。
●一方協定を無視され、現地陸軍の専横に怒った西原一策団長は、第2遣支艦隊の旗艦「鳥海」から次の文面の電報打った。

統帥乱れて信を内外に失う、今後の収拾に関し小官等必ず一応東京に帰り報告の必要ありと確信す」と。
1940年
昭和15年9/26
アメリカ、屑鉄・鉄鋼の西半球諸国とイギリス以外に対する禁輸断行

●これは、アメリカが日本の北部仏印武力侵攻に対抗しての処置だったが、公式にはアメリカの「急速に拡張する国防計画に対応するもの」とされる。(10/16より実施)
●またイギリスは遮断していたビルマルートを再開した(10/18)。
(新聞)昭和15年9/27の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1940年9/27、日独伊3国同盟ベルリンで調印

「日独伊三国条約締結ノ詔」

●この3国同盟は正式名を「日本国、獨逸国及伊太利国間三国條約」という。上は「日独伊三国条約締結ノ詔」で、下は条約の内容である。それぞれ「国立公文書館アジア歴史資料センター」にリンクしたので、原文を確認してください。条約の中で第3条が、アメリカの参戦があった時の相互軍事援助を決めたもの。第5条は、松岡外相が持論とする、ソ連を含めた4ヵ国同盟を念頭に置いて、ソ連との戦争を避ける意味合いがあったと思われる。
上図「日独伊三国条約締結ノ詔」(出典)国立公文書館アジア歴史資料センター
(新聞)昭和15年9/28の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

條約第9号
日本国、獨逸国及伊太利国間三国條約

大日本帝国政府、獨逸国政府及伊太利国政府は萬邦をして各其の所を得しむるを以て恒久平和の先決要件なりと認めたるに依り大東亜及欧州の地域に於て各其の地域に於ける当該民族の共存共栄の実を挙ぐるに足るべき新秩序を建設し且之を維持せんことを根本義と為し右地域に於て此の趣旨に拠(よ)れる努力に付相互に提携し且協カすることに決意せり而して三国政府は更に世界到る所に於て同様の努カを為さんとする諸国に対し協力を吝(おし)まざるものにして斯くして世界平和に対する三国終局の抱負を実現せんことを欲す依(よっ)て日本国政府、獨逸国政府及伊太利国政府は左の通協定せり
   第一條
日本国は獨逸国及伊太利国の欧州に於ける新秩序建設に関し指導的地位を認め且之を尊重す
   第二條
獨逸国及伊太利国は日本国の大東亜に於ける新秩序建設に関し指導的地位を認め且之を尊重す
   第三條 
日本国、獨逸国及伊太利国は前記ノ方針に基く努力に付相互に協力すべきことを約す更に三締約国中何れかの一国が現に欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国に依て攻撃せられたるときは三国は有らゆる政治的、経済的及軍事的方法に依り相互に援助すべきことを約す
   第四條
本條約実施の為各日本国政府、獨逸国政府及伊太利国政府に依リ任命せらるべき委員より成る混合専門委員会は遅滞なく開催せらるべきものとす
   第五條
日本国、獨逸国及伊太利国は前記諸条項が三締約国の各と「ソヴィエト」連邦との間に現存する政治的状態に何等の影響をも及ぼさざるものなることを確認す
   第六條
本條約は署名と同時に実施せらるべく、実施の日より十年間有効とす右期間満了前適当なる時期に於て締約国中の一国の要求に基き締約国は本條約の更新に関し協議すべし
右証拠として下名は各本国政府より正当の委任を受け本條約に署名調印せり

昭和15年9月27日即ち1940年、「ファシスト」歴18年9月27日
「ベルリン」に於いて本書3通を作成す
来栖三郎   ヨアヒム、フォン、リッベントロップ   チアーノ
「日本国、独逸国及伊太利国間三国條約」(出典)国立公文書館アジア歴史資料センター


上写真、東京の外相官邸で行われた祝賀会。右からオット駐日独大使、インデルリ伊大使、松岡外相、星野企画院総裁、東条陸相。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

*リンクします「日独伊三国条約締結ノ詔」→国立公文書館アジア歴史資料センター
*リンクします「日本国、独逸国及伊太利国間三国條約」→
国立公文書館アジア歴史資料センター

9/27ドイツでの日独伊3国同盟の調印式

9/27、ベルリンにおいて3国同盟条約が来栖(くるす)三郎駐独大使、リッベントロップ・ドイツ外相、チアノ・イタリア外相によって調印された。(出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」1億2千万人の映像の1シーン。第1巻「世界恐慌と太平洋戦争」講談社2005年7/15第1刷発行。
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年・月 1940年(昭和15年)
1940年
昭和15年10/4
砂糖・マッチの配給統制規則各公布

●商工省は配給統制規則を公布し、15日施行した。そしてこの砂糖・マッチの配給は、11/1より切符制で全国実施となった。

1940年
昭和15年10/12
大政翼賛会、首相官邸で発会式挙行

●大政翼賛会の発会式は、首相官邸大ホールで開かれた。出席者は、首相以下全閣僚、内閣参議、貴・衆両院議長、解党した旧政党総裁ら約100名だった。発会式では、17条の翼賛会規約が発表され、役員、組織が決定した。総裁は首相が兼任することが決まっており、近衛が就任した。
●この年の春から急速に盛り上がった新体制運動は、全政党が消滅した後の8月末に新体制準備会が発足した。だが、メンバーに選ばれたのは、国家主義者、大学教授、右翼団体の代表、言論界、経済界と勢力均衡の人選だった。そのため近衛を頭に戴くことは一致していたが、各派の思惑が対立した。
●特に、この国民運動体の性格をめぐって意見が対立した。中野正剛・橋本欣五郎らの革新右翼は、ドイツのナチスを念頭においた綱領を持つ政治結社を、武藤章軍務局長は親軍的な1国1党を、井田磐楠らの観念右翼は、党的なものに反対し幕府的な存在ではあってはならないと主張し、内務省は、上意下達的な官製運動の機関を目標とした。
●結局当日になっても、宣誓文案も綱領もできていなかったので、近衛総裁は挨拶で次のように述べた。

「本運動の綱領は、大政翼賛の臣道実践ということに尽きる」と述べたのである。

●近衛と「昭和研究会」から生まれた新体制運動は、国民再編成を通して軍部ファシズムを阻止し、日中戦争の解決をめざしたものだったが、結局、官僚主導の上意下達の官製運動機関に変わり、軍部独裁の確立を先導する役割を果たすことになっていった。
(新聞)昭和15年10/13の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1940年
昭和15年10/24
農林省、米穀管理規則公布(11/1施行)

●農林省は、町村別割当供出制を実施して米穀の国家管理を強化する。

1940年
昭和15年10/31
東京のダンスホール、この日限りで閉鎖される

●この年の7/31、ダンスホールは8/1から3ヶ月の猶予期間をおいて閉鎖されることが決まった。8/1は「ぜいたくは敵だ!」の看板が立ち並び、奢侈ぜいたく追放が始まった日であった。
●ダンスホールに対する圧力は、昭和12年10月に国民精神総動員運動が始まってから強まった。14年にはダンサーたちが愛国婦人会に加入させられ、「愛国婦人部隊」として軍事訓練を受けさせられた。東京で昭和13年7月678人いたダンサーたちは、15年9月には350人に減っていた。

1940年
昭和15年11/2
大日本帝国国民服令公布施行

●制定されたのはカーキ色の国民服だった。この制定の狙いは、この国民服が軍服に転換できたことで、軍服を民間に大規模に貯蔵させることにあった。だが普及は進展せず、国民服が普及するのは昭和19年末アメリカ軍による空襲が日常化してからだった。

1940年
昭和15年11/3
厚生省、優良多子家庭を表彰(生めよ殖やせよ)

●この背景にあったのは日中戦争の影響もあったが、昭和13年に内地人口の自然増加が、それまで年間約100万人あったものが、一挙に30万人も減少したことにあった。また出生数も200万台を割り、前年を25万人を下回る192万人に落ちた。厚生省はこのままでは日本民族が減少し「質的老衰を招来する」という危機感を持ったのである。
●この日11/3は明治節(=明治天皇の誕生日)に全国各道府県別に1万622家庭が表彰された。ただこの初の表彰には調査漏れがあり、最初は1万336家庭だった。翌16年には2145家庭が表彰された。
●政府はこの「生めよ殖やせよ」の国策に基づいて昭和16年1月、昭和35年内地人口1億人を目標とする「人口政策確立要綱」を決定した。
●だがこの「国家は優秀な人材を必要とし、そのために多数の子孫を儲け、その保護育成に努め、優秀な人材の涵養に努めることは、国民としてまた国家として重大な責務である」という政策は、現代にまでその影響を及ぼしている。それは、ナチスの優正思想を強く反映した「国民優正法(昭和15年5/1)」がそれである。
●だが一方、現代にまで引き継がれた「母子手帳」で知られる「母子健康手帳」制度は、昭和17年7月、「妊産婦手帳規程」として公布され、国家として母体と乳幼児の保護を行ったのである。
(新聞)昭和15年10/19の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1940年
昭和15年11/5
政府、日満支経済建設要綱発表

●こののち10年間で自給自足体制を確立し、「大東亜共栄圏」の建設促進を企図した。

1940年
昭和15年11/6
アメリカ大統領選、ルーズベルト3選される

●ルーズベルト大統領は、この年の12月、武器貸与法の構想を発表した。そしてラジオの炉辺談話で、今後のアメリカの外交政策の基調は、アメリカを戦争から守ると同時に、アメリカを「民主主義の大兵器廠」とすることだと述べた。アメリカは民主主義国を援助すると明言したのである。そして陸軍長官に共和党の大物スティムソン、海軍長官に1936年の共和党副大統領候補だったフランク-ノックスをむかえて、挙国一致の内閣を組織し、軍備拡張に乗り出していくのである。

1940年
昭和15年11/10
紀元2600年記念式典挙行される

●天皇・皇后が臨席し、政府主催の「紀元2600年式典」が宮城前広場で開催された。海外からの招待客を含めて、4万9017人が参列した。
●昭和15年は、神武天皇が橿原宮で即位してから2600年にあたるとされ、年間を通じて記念・祝賀行事が行われた。そして祭典が最高潮に達した11/10から14日までの5日間に限り、禁止されていた旗行列、提灯行列、みこし、山車が認められ、東京市内を花電車が走った。そしてこの年には、北京神社、南洋神社(サイパン)、建国神廟(満州国)などの海外神社が造営された。
●以前政治家の発言で注目をあびた宮崎市の高さ27mの「八紘之基柱(はっこうのもとはしら)」は、この年に建立されたもので、また「皇軍発祥之地」の記念碑も建てられた。これらは「橿原神宮」の整備に修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕をしてお祝いしたことなどとは、意味合いが違うことで、記紀の神武天皇による「東征」に関わることである。
(新聞)昭和15年11/11の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
下段は10/21に挙行された「紀元2600年記念観兵式」の動画。

紀元2600年記念観兵式挙行(10/21)

●10/21東京代々木練兵場で記念観兵式が挙行された時のニュース映像。天皇、約5万の将兵を親閲する。
(出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」1億2千万人の映像の1シーン。第1巻「世界恐慌と太平洋戦争」講談社2005年7/15第1刷発行。
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年・月 1940年(昭和15年)
1940年
昭和15年11/13
御前会議、日華基本条約案・支那事変処理要綱を決定

●11/30に日華基本条約が汪兆銘政権との間で締結された。内容は日本軍の駐屯、艦船の駐留を認めさせることや、資源を日本に供給させること、租界は返還する代わりに、日本人に中華民国の領域を居住・営業のために解放させること等、日本の要求を並べたものにすぎなかった。
●そして11/30、政府は汪兆銘政権を正式に承認し、南京で日華基本条約の調印および日満華共同宣言を行った。

*リンクします「日華基本条約」→国立公文書館アジア歴史資料センター
1940年
昭和15年11/23
大日本産業報国会創立

●これは労働組合に代わる労使一体の官制労働者組織で、新体制に即応するために作られた。「臣道実践」「産業報国」を掲げて生産増強を推進した。昭和16年には労働者の約7割を組織した。

1940年
昭和15年11/24
最後の元老・西園寺公望(さいおんじ-きんもち)死去(享年92歳)

●西園寺公望が元老となったのは、1912年(大正元年)12/21に出された勅語によってである。明治以来の元老、山県有朋、松方正義、井上馨、大山巌、桂太郎に、西園寺の6名が大正天皇を補佐することになった。しかしその後明治の元老たちがなくなり、1924年(大正13年)に松方が亡くなると、西園寺は最後の元老となった。昭和になると新天皇から勅語を下され、西園寺は昭和天皇を補佐する元老となった。
(新聞)昭和15年11/25の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1940年
昭和15年11/30
アメリカ・ルーズベルト大統領、国民政府(重慶)への新借款発表

●1億ドルの新借款と6000ドルの諸物資購入の追加契約を発表。

1940年
昭和15年12/6
情報局官制公布施行

●内閣情報部を拡大強化し、情報・宣伝・文化の統制を強化した。

1940年
昭和15年12/7
閣議、経済新体制確立要綱を決定・発表

●この「経済新体制確立要綱」の第1の基本方針の要点を箇条書きに述べれば次のようである。

●自給自足の共栄圏を確立するため、官民協力して重要産業を中心に総合的計画経済を遂行して、国防国家体制を完成し、軍備の充実、国民生活の安定、国民経済の恒久的繁栄を図る。
①そのために、企業体制を確立し、資本、経営、労務を有機的に一体化して、国家総合計画の下に、自主的経営のもと最高能率を発揮し、生産力を増強させる。
②公益優先、職分奉公の趣旨に従い国民経済を指導し、経済団体を編成することによって国家の総力を発揮し高度国防の国家目的を達成する。この要綱の実施にあたっては、緊急なものに重点を置き、必要に応じ逐次実施し、生産力の低下、配給の不円滑を避け、民心の不安を起こさせないようにする。この体制の整備に即応して、関係行政機構とその事務の再編成を行う。
*リンクします「経済新体制確立要綱」→
国立公文書館アジア歴史資料センター
1940年
昭和15年12/19
日本出版文化協会創立

●この日本出版文化協会とは、出版報国(日本文化建設と国防国家確立のため)を掲げて、全出版業者を傘下に創設された出版統制団体である。情報局の指導を受け、出版物の事前届出制を採用し、用紙割当権を掌握して、政府の出版統制政策に、業界団体として積極的に協力した。

1940年
昭和15年12/21
近衛内閣、内閣改造

●内務大臣に平沼騏一郎国務大臣。司法大臣に柳川平助興亜院総務長官を任命。

1940年
昭和15年12/26
日本赤十字社、救護看護婦の養成規則を改正

●これは日中戦争の拡大に伴い、中国戦線にも従軍看護婦の大半を占める日赤救護看護婦が多数動員されて人員不足が生じた。そこで救護看護婦の養成規則を改正し、新たに乙種看護婦の制度を設けた。これまでの救護看護婦を甲種救護看護婦とし、新たに乙種看護婦を養成することになった。
●甲種の採用資格は、従来通り高等女学校卒業者かそれと同等の学力を有する者で、満3年の養成期間を必要とした。一方乙種は、高等小学校卒業者か高等女学校2年以上の課程を修業していればよく、養成期間も2年と短縮された。
●1937年(昭和12年)7/7、盧溝橋事件を契機に日中戦争が勃発すると、7/8には陸軍大臣から日本赤十字社に救護員派遣の要請が行われ、8/3に病院船勤務として日中戦争最初の救護班が派遣された。日赤救護看護婦の従軍看護婦としての戦時召集は、日本赤十字社名による「戦時召集」によって行われたが、実質は陸軍大臣から日赤社長に対し、救護員派遣命令が出されたのである。
●昭和12年7月(日中戦争勃発)から昭和20年8月(敗戦)までに、日赤から派遣された救護班員は、延べ3万3156人で、そのうち看護婦長1888人、看護婦は2万9562人だった。そして救護班員の殉職者は1187人で、そのうち看護婦は1120人だった。
●従軍看護婦には、最も数が多い日赤看護婦と陸軍所属の陸軍看護婦、海軍所属の海軍看護婦、関東軍のように在留邦人の高等女学校高学年生徒の中から志願者を募った特志看護婦(陸軍看護婦)がいた。また中国では現地雇いの看護婦が多数いた。そのほかにも「ひめゆり部隊」として知られる沖縄の高等女学校生徒や師範学校女子部生徒のように、学徒動員の形で軍と行動をともにさせられた学徒従軍看護婦もいた。だがその動員数、殉職者数などは、日赤救護看護婦を除いて正確な数字はわかっていない。
(上写真-撮影・土門拳)出発に際し、御神酒を受ける救護班の看護婦たち。元日赤救護看護婦の岡松八千代によると、現地に着くと「陸軍読法の式」(陸軍の指揮に従います、という儀式)ののち、各自遺言状を書かされた(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1940年
昭和15年12/30
ルーズベルト大統領、英国援助強化を揚言

●大統領は3選後初めて、アメリカの外交政策について演説し、3国同盟を締結した全体主義国(日・独・伊)と民主主義国は絶対に相容れず、このまま看過すれば欧州と極東は彼らのものになり、西半球を包囲する2つの大洋を支配することになる、と述べた。そして、今、米国の将来の安全は英国の興廃にかかっているのであり、米国は英国援助のためにあらゆる手段を尽くす、と揚言した。
●そして、米国の国策は、戦争にまきこまれないことであり、そのために、国防のための急速な軍備の充実と、侵略国と戦う国に対する援助を強化する、と続けた。そしてアメリカは、世界の民主主義国の軍需工場になると宣言したのである。
(新聞)昭和15年12/31の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1940年(昭和15年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1.1 朝日新聞,新活字を鋳造し15段制実施
1. 12 関西地方,電力制限割り当て決まる(13日関東地方・中京地方も決定)
1. 14 阿部内閣総辞職
1. 15 静岡市大火, 6400余戸焼失,死者2人
1. 16 海軍大将米内光政内閣成立.

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