1940年(昭和15年)ヨーロッパを席巻するドイツ、徹底抗戦するイギリス。

2022年6月20日第2次世界大戦

ドイツ軍大攻勢、6/14フランス・パリ陥落、イギリス本土爆撃開始。日本はドイツの圧倒的な戦勝を見て、3国同盟(=日独伊軍事同盟)締結にむかう。
●日本では、前年の独ソ不可侵条約締結により、ドイツとの3国同盟締結論議は立ち消えになってしまった。
だがこの年のドイツ軍によるヨーロッパ大攻勢(侵略)は、3国同盟推進派を勢いづかせた。日本は、ドイツのヨーロッパ制圧によって、空白となったアジアのオランダ、フランス、イギリスの植民地を支配できると考えたのである。
●しかし3国同盟はアメリカを敵とする軍事同盟であり、海軍大臣吉田善吾は、反対派(海軍の主流)と推進派の松岡外相と陸軍との板ばさみにあって健康を害し辞任してしまう。そして9/19、御前会議は、松岡外相によって押し切られ、3国同盟締結を了承する。 下は、駐日米大使(滞日10年)ジョセフ・グルーの日記からの抜粋引用である。3国同盟が日本に何の利益をもたらすか、わからないと懸念を述べている。

(1940年10月1日)「同盟の主な目的が合衆国を目標にしていることは明瞭である。米国に太平洋区域に危惧を起こさせる点で、これが独伊両国に都合がいいことは明らかだが、日本の利益が何であるかはそれほど明らかでない。(中略)この条約の締結によって、日本がドイツによる英国の敗北を念頭においた大賭博に乗り出したことは明らかである。(中略)・・・・ドイツがどんな約束をするかしらないが、(ドイツが)日本に効果的な援助を与えることは出来もしないし、しようともしないだろう・・・」『滞在10年』(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
(上写真)左「勝利の歓び-ヒトラーとゲーリング」右「パリ入城後シャンゼリゼーを行進するドイツ軍」(出典)「目で見る戦史・第2次世界大戦」A.J.Pテイラー著(株)新評論1881年刊

★1940年(昭和15年)ヨーロパの情勢(侵攻するドイツとソ連、抗戦するイギリス)

1940年(昭和15年)ドイツ軍は4月デンマーク・ノルウェーを占領、5月にベルギー・オランダを占領した。そしてフランスに侵攻、6/14ついにパリが陥落する。一方ソ連はバルト3国に侵攻、7月併合する。ドイツは、イギリスと講和を結ぼうとするが、イギリスはこれを拒否、ドイツに対して徹底抗戦を決意する。

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★1940年(昭和15年)2/2政党人最後の抵抗、政府と陸軍を批判する。

民政党代議士斎藤隆夫は、2/2の衆議院で戦争政策を批判する反軍演説を行った。斎藤は米内光政内閣の施政方針演説に対する代表質問で、1時半にわたって政府と軍部に対する批判を行った。だが帝国議会は、演説の後半部分をすべて速記録より削除し、民政党は斎藤の離党・謹慎を勧告し、2/3斎藤は党籍を離脱した。

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国内政治と社会年表。1940年(昭和15年)。

1940年(昭和15年)7月、海軍大将米内光政内閣が、陸軍によって総辞職に追い込まれると、第2次近衛文麿内閣が成立した。その背景には、ナチスドイツの強力な1党独裁にならい、日本においても既成政党を解消し、強力な新党を結成しようとする「新体制運動」があった。そして近衛内閣は、「基本国策要綱」を決定し、「大東亜新秩序建設」を基本方針と定め、速やかな支那事変解決と南進武力方針を決定した。そして9/27英米と決定的な対立となる「3国同盟」を締結する。
ここでは『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。

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1940年(昭和15年)7/26「基本国策要綱」と「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定

●1940年(昭和15年)7/26、近衛内閣は閣議で根本方針である「基本国策要綱」を決定した。翌7/27には大本営政府連絡会議でより具体的な「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。

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1940年(昭和15年)9/27、日独伊3国同盟ベルリンで調印

●1940年(昭和15年)9/19御前会議は、日独伊3国同盟案を承認した。

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第2次世界大戦

Posted by hhks