(1953年頃まで)朝鮮(韓国併合と3.1独立運動)
●日本に対する民族独立運動は激しさを増し、その民衆運動に対する日本の憲兵・警察・軍隊による弾圧はさらに激しさを増した。1919年の「3.1独立運動」は朝鮮における近代史上最大の民族運動であり、朝鮮人のナショナリズムの原点の一つとされる。誇り高き隣国の民族が、日本から受けた屈辱と、日本の支配に対抗し独立のため流された民族の血は、「反日による民族のアイデンティティ(同一性・帰属意識)として、子々孫々永久に続く」と考える原点はこの時代から始まるのだろう。
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年 | 大韓帝国消滅 |
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1910年 | 日本、韓国を併合する(韓国併合に関する条約1910年)
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○第1条と第2条を下記に引用してみる。 第1条 韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す 第2条 日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受諾し且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す (出典)「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03020879400、御署名原本・明治四十三年・条約第四号・韓国併合ニ関スル条約(国立公文書館)」「国立公文書館・アジア歴史資料センター」 | |
1910年より | 朝鮮総督府と「武断政治」
「大日本帝国朝鮮写真帖 : 日韓併合紀念」統監府 編1910年刊 |
大逆事件(日本) ●1910年日本の桂首相は内閣を取ると、社会主義者の弾圧を開始した。1910年5月、幸徳秋水の指導を受けていた4人の無政府主義者である青年たちが検挙された。6月には全国で数百名の社会主義者が検挙された。「爆弾による明治天皇暗殺を企てた」とされた「大逆事件」である。新聞は記事差し止めとなり、政府は極秘に取り調べを行い、26名を起訴した。非公開の裁判では弁護側の証人を一人も認めず、幸徳秋水ら24名に大逆罪による死刑判決を下した。 | |
1919年3月1日 | 3.1朝鮮独立運動(徹底的な弾圧)。朝鮮人のナショナリズムの原点 ●全土で日本に対する独立運動が展開された。最大の原因は、日本の「武断政治」による矛盾の激化だった。国際的にはアメリカのウイルソン大統領が民族自決主義を提唱したことや、ロシア革命が勃発したことなどの要因があった。デモは全土に波及し、労働者のストライキや商店の閉店抗議も行われた。やがて運動も非暴力のデモ行進から、暴力闘争へと変わっていった。そして国内の218の府郡のほとんどで蜂起が起こり、200万人以上が運動に参加した。 |
1919年8月 | 日本、朝鮮支配を「文化政治」へと転換 ●この3.1独立運動に衝撃を受けた日本は、「文化政治」を標榜して政策の転換を図った。これにより朝鮮の民族主義へある程度の譲歩がみられた。しかし基本政策は「同化政策」であり、日本の原敬首相の「朝鮮を内地(=日本本土)に同化するの方針をもって諸般の制度を刷新する」ことであった。 今なお続く「親日派」への「恨み」 ●この親日派に対する追求は今なお引き継がれており、2005年成立の「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」により、2007年「李完用」の子孫9名の土地(日本円で約4億8000万円)を没収し、韓国政府に帰属させた。これは、近代刑法における「法律不遡及の原則」を無視しても、過去の「親日派」の子孫すら罰するという、日本に対する韓国の深い恨みを垣間見た思いがする。 |
1920年代以降 | ●本格化した日本資本の進出は労働者数を急増させ、その劣悪な労働条件から労働争議が多発するようになった。また日本による産米増殖計画は、土地を失って没落する農民をうみ、小作争議も多発していった。1930年代になると、社会主義思想が広まり、社会主義者の指導を受けて、戦闘的な労働・農民運動が盛んになっていった。一方朝鮮人の海外の流出は、日本と中国東北部へ増大していった。 |
1930年代 | ●日本では昭和恐慌(1930年~1931年)が起き、満州事変(1931年)も勃発したが、逆に朝鮮では農業振興運動を展開して農家の救済に努めたり、工業化を推進して満州市場の需要に応えた。 ●しかし1937年に日中戦争が始まると、朝鮮も戦時体制として経済統制がはじまり、軍需物資の生産を担う「兵站基地」となっていった。この政策によって朝鮮の産業は大きく変化し、工業生産額は1940年には全体の41%に達し、農産額と並ぶようになった。工業地帯の形成が進み、重化学工業を中心とする咸鏡道の北部工業地帯(現在北朝鮮)と、精米・紡績・機械器具を中心とする京畿道の京仁工業地帯(現在韓国)の発展は著しかった。 |
1936年 | (孫 基禎選手ベルリンオリンピックで金メダル)
*リンクします映画「民族の祭典」 “Olympia" 開会式 |
「金日成」
(左写真)「人民革命軍の同志と語り合う金日成」(出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊 | |
1937年~ | 日中戦争と「強制連行」、(日本)国家総動員法(1938年)国民徴用令(1939年) ●日本での労働力不足を補うため、植民地を含む労働力動員計画が立てられた。朝鮮からは1939年、8万5千人が割り当てられた。当初は強制動員は避けられたが、太平洋戦時下(1942年)からは「官斡旋」で直接労働者を募集し、1944年からは徴用令状(青紙)で強制連行となった。その数は1939年から1945年までで、約113万人にのぼり、炭鉱・鉱山・土木工事の現場に送り込まれた。日本の炭鉱では朝鮮労働者が全労働者の1/3を占めたと言われる。女子挺身隊は数10万人が各地の軍需工場などに動員された。 |
1937年~ | 日中戦争と「従軍慰安婦」 ●「従軍慰安婦」については「アジア・太平洋戦争」の中で、「朝日新聞社の釈明」と「読売新聞社の朝日新聞社へ対する批判」を引用してみる。 |
1937年~ | 日中戦争と「内鮮一体」の皇民化政策 ●「内鮮一体」とは朝鮮人を「忠良なる皇国臣民」とするためのスローガンのこと。また「創氏改名」「第三次朝鮮教育令」「宮城遥拝」「神社参拝」「国旗掲揚」などを強制した。なかでも教育内容から実質的に「朝鮮語」を廃止したこと、そして「創氏改名」により民族固有の名を奪ったことは、同姓の男系血族集団(同本同姓)という民族のアイデンティティを否定するもので、このことも大きな屈辱と恨みを植え付けた一つである。 |
1941年12月8日 | 太平洋戦争(ハワイ真珠湾攻撃~)以降 ●1943年「兵役法」が改正され「徴兵制」が公布された。そして翌1944年徴兵検査実施され朝鮮人入営が開始された。別ページ「日本敗戦」のなかで、BC級裁判の一覧を載せたが、148人の朝鮮人が被告となった。 |
1945年8月 | 日本帝国無条件降伏、朝鮮解放 ●朝鮮の解放。政治犯の釈放。建国準備委員会は「朝鮮人民共和国」の樹立を提案。李承晩らは参加を拒否。アメリカは反対。アメリカとソ連による分割占領。1947年秋、内戦が続いていた中国で東北地方が中共軍の勢力下に入ると、その影響が朝鮮におよぶことを恐れた米軍政府は、左翼の活動を徹底して弾圧して、反共主義者の李承晩(イスンマン)を擁護した。 |
1948年 | 大韓民国(大統領李承晩)樹立 ●朝鮮民主主義人民共和国(首相金日成)樹立(1948年) |
1950年~1953年 | ●朝鮮戦争・南北分断(1950年~1953年・休戦協定締結)(※60年以上たった現在でも朝鮮戦争は終結せず、休戦のままである) |