1937年(昭和12年)②12/13~「南京大虐殺」
2023年4月15日アジア・太平洋戦争
上写真「南京大虐殺。刑場に運ばれる中国人捕虜」(出典:「世界の歴史15」中央公論1962年刊)
この認識は共有しなければならない。外務省の公式サイトから引用する。
「日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。・・・」
問6 「南京事件」に対して、日本政府はどのように考えていますか。
日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
先の大戦における行いに対する、痛切な反省と共に、心からのお詫びの気持ちは、戦後の歴代内閣が、一貫して持ち続けてきたものです。そうした気持ちが、戦後50年に当たり、村山談話で表明され、さらに、戦後60年を機に出された小泉談話においても、そのお詫びの気持ちは、引き継がれてきました。
こうした歴代内閣が表明した気持ちを、揺るぎないものとして、引き継いでいきます。そのことを、2015年8月14日の内閣総理大臣談話の中で明確にしました。
河村・名古屋市長の「南京事件」に関する発言
【横井外務報道官】河村市長のご発言について、そのような事実関係については日本国政府としても承知してございますし、日本国政府の立場は、名古屋市と南京市という地方自治体間のあいだで適切に処理・解決されていくという問題であって、可能な限り早く解決されることを期待しております。
南京大虐殺につきましては、その事実関係を巡っていろいろな議論があるということは承知していますけれども、旧日本軍の南京入城の後、非戦闘員の殺害、もしくは略奪行為などがあったことは否定できないというように考えております。我が国としましては、過去の一時期植民地支配と侵略により多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを率直に認識し、戦争は二度と繰り返さず、平和国家としての道を歩んでいくという決意であって、このような立場に一切変更はございません。
今後の日中関係につきましては、本年が特に日中国交正常化40周年にあたるということでもございますし、日中関係が戦略的互恵関係に基づき、ますます発展していくことを切に願っておりますし、その方向に向けて日本国政府としても最大限の努力をしていきたいというように思っております。
*リンクします「問6 「南京事件」に対して、日本政府はどのように考えていますか。」→
外務省(アジア歴史問題Q&A)
*リンクします「河村・名古屋市長の「南京事件」に関する発言」→
外務省(記者会見)「報道官会見記録(要旨)(平成24年2月)」
日本軍、上海制圧から南京攻略へ向かう。日本軍は南京城へ向かう周辺地域において、略奪・放火・暴行を起こしていく。日中戦争は陸軍ばかりが暴走しているように思えるが、第2次上海事変は不拡大方針の陸軍に対して海軍が起こしたものであり、なによりも近衛文麿内閣が戦争拡大を望んだのである。
●1937年(昭和12年)11/5第10軍が杭州湾に上陸すると、背後を衝かれた上海防衛の中国軍は動揺した。
●11/7中支那方面軍(上海派遣軍と第10軍が編合、司令官 松井石根大将)の幕僚に、参謀長として、陸軍中央である参謀本部より第3部長の塚田攻少将が赴任し、参謀副長として、参謀本部作戦課長の武藤章大佐が就任した。
この2人は戦争拡大派であり、特に武藤大佐は、不拡大派の石原莞爾第1部長(作戦)を参謀本部から追い出したほどの中国一撃論者であった。
●11/13第16師団が長江・白茆口に上陸すると、中国軍の撤退と潰走が始まり、上海攻略戦は一段落し日本軍は上海全域を制圧した。作戦の本来の目的である「上海居留民保護」は達成されたのである。
(新聞)昭和12年11/10の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●しかし11/20第10軍(司令官柳川平助中将)は南京追撃を独断専行で開始した。そして11/24には中支那方面軍からも南京攻略の意見書が参謀本部に届いた。しかし参謀本部は南京進撃を許可しなかった。
11/24に開かれた第1回大本営の御前会議においても、参謀本部・下村第一部長(南京追撃派)は、南京攻略は無理であると述べながらも、中支那方面軍の航空兵力と海軍航空兵力とが協力して南京その他の要地を爆撃することで敵の戦意を消耗させ、南京その他を攻撃することも考慮していると述べ、多田参謀次長(不拡大派)から叱責を受けたという。
第10軍の独断専行は、中支那方面軍の参謀副長・武藤章大佐が中心であったとされる。
●こうして上海派遣軍と第10軍は南京攻略戦に先陣争いをしながら突入していった。
反対していた参謀本部も国民の戦意高揚をはかる連日の報道合戦によって、11月末にはこの進軍を認めたのであった。
しかしこの上海派遣軍と第10軍は上海周辺の限定作戦に適する編組となっていたため、後方部隊の増強が必要だった。
そこで参謀本部は増強案を提示したが、中支那方面軍の参謀副長・武藤章大佐は、「内地からの新たな増員の部隊を待っていては戦機を逸してしまう」として方面軍だけで南京攻略はできるとしたのである。
●日本軍が南京に進軍を開始した頃、南京においては国民政府軍事委員会(委員長蔣介石)が最高国防会議(11/15~18)を開き、国民政府の重慶への遷都を決定し、南京防衛作戦の方針を決定した。
蔣介石は多くの幕僚の反対を押し切って、首都である南京固守作戦を決定したのである。
その司令官には「南京を死守し、南京城と生死を共にする覚悟」である唐生智が任命されたのであった。(新聞)昭和12年11/17の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●一方日本では12/1、大本営は「中支那方面軍司令官は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」(大陸命第8号)との南京攻略を下命し、ここに中支那方面軍の独断専行を正式に追認したのであった。
そして中支那方面軍の戦闘序列が正式に下命され、松井石根大将が兼任を解かれ中支那方面軍司令官に、皇族の朝香宮鳩彦王中将が上海派遣軍司令官に任命された(12/7着任)。
●しかしこの後方部隊を持たない中支那方面軍の「兵馬の給養は現地物資で充たす方針(現地食糧徴発=略奪)」により、南京城へ向かう周辺地域において、多くの部隊によって一般民衆への略奪・放火・暴行が行われたのである。
●そして日本軍は南京事件へと向かうのである。
●下は海軍省製作の支那事変「海軍作戦記録」の中の「杭州湾北岸11/5敵前上陸」の部分である。本編は海軍省が1939年(昭和14年)製作したもので、撮影は海軍省特設写真班とあり、日映(社団法人日本映画社)によって映画館で上映された。
(映像出典)「日本映画新社(2009年解散)」製作。「戦記映画復刻シリーズ」「支那事変「海軍作戦記録」
下は「陸軍叢書 大本営陸軍部(1)上海、南京作戦経過要図」を色分けして師団名を強調したイラストである。このイラストでは「山田支隊」を図示したが元図にはなかった。下段では参加部隊の一覧を載せた。
*リンクします「陸軍叢書 大本営陸軍部(1)」上海、南京作戦経過要図→
「防衛庁防衛研究所 戦史室著 朝雲新聞社」
方面軍・派遣軍・軍 | 司令官・参謀長・師団 | 師団長(最終階級、陸士卒期、陸大卒期、最終軍職)備考 | 旅団、旅団長 | 連隊、連隊長 |
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中支那方面軍。1937年(昭和12年)11/7上海派遣軍と第10軍との統一指揮のため中支那方面軍を編成。 | ||||
◎中支那方面軍 | 司令官 松井石根大将 | (大将、陸士9期、陸大18期、台湾軍司令官) 東京裁判絞首刑 |
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参謀長 塚田攻少将 | (大将、陸士19期、陸大26期、第11軍司令官 ) 中支那方面軍参謀長として松井石根大将を補佐。1941年南方軍総参謀長となり太平洋戦争序盤の南方作戦と軍政を担当、1942年第11軍司令官の時、飛行機事故で殉職。 |
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参謀副長 武藤章大佐 | (中将、陸士25期、陸大32期、第14方面軍参謀長) 東京裁判にて、フィリピンでの捕虜虐待により絞首刑。 |
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上海派遣軍。1937年8/13上海事変勃発により、陸軍は第3師団、第11師団で上海派遣軍を編成(軍司令官松井石根大将)上海に上陸したが海岸に釘付けにされる。9月~10月に、第9、第13、第101師団を派遣し上海派遣軍に編入。11月北支那方面軍から第16師団が転用され上海派遣軍に編入される。 | ||||
○上海派遣軍 | 司令官 朝香宮鳩彦王中将 | (大将、陸士20期、陸大26期、上海派遣軍司令官) 東京裁判や南京裁判などで、南京事件関与の疑い。皇族のため免除。 |
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参謀長 飯沼守少将 | (中将、陸士21期、陸大31期、第110師団長) | |||
第9師団(金沢) | 師団長 吉住良輔中将(中将、陸士17期、陸大28期) 参謀長 中川広大佐(中将、陸士22期、陸大29期、第48師団長・台湾) |
●歩兵第6旅団(秋山義兌少将) -歩兵第7連隊(伊佐一男大佐) -歩兵第35連隊(富士井末吉大佐) ●歩兵第18旅団(井出宣時少将) -歩兵第19連隊(人見秀三大佐) -歩兵第36連隊(脇坂次郎大佐) ●騎兵第9連隊・山砲兵第9連隊・工兵第9連隊・輜重兵第9連隊 |
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第16師団(京都) | 師団長 中島今朝吾(なかしま-けさご)中将(砲兵科)(中将、陸士15期、陸大25期、第4軍司令官) 参謀長 中沢三夫大佐(中将、陸士24期、陸大32期、第40軍司令官) |
●歩兵第19旅団(草場辰巳少将) -歩兵第9連隊(片桐護郎大佐) -歩兵第20連隊(大野宣明大佐) ●歩兵第30旅団(佐々木到一少将) -歩兵第33連隊(野田謙吾大佐) -歩兵第38連隊(助川静二大佐) ●騎兵第20連隊・野砲兵第22連隊・工兵第16連隊・輜重兵第16連隊 |
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山田支隊 (第13師団の一部) |
支隊長 山田栴二少将 第13師団主力は揚子江北岸 |
●歩兵第103旅団 -歩兵第65連隊(両角業作大佐) |
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第3師団先遣隊 | 第3師団主力は後方警備 | -歩兵第68連隊(鷹森孝大佐) | ||
第11師団と第101師団 | 後方警備 | |||
第10軍。1937年(昭和12年)10/20第10軍を新たに編成し、杭州湾北岸より上陸開始。 | ||||
○第10軍 | 司令官 柳川平助中将 | (中将、陸士12期、陸大24期、第10軍司令官) オランダ軍軍事裁判で死刑 |
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参謀長 田辺盛武少将 | 陸士22期(中将、陸大30期、第25軍司令官) | |||
第6師団(熊本) | 師団長 谷寿夫(たに-ひさお)中将(中将、陸士15期、陸大24期、中部軍司令官) 南京軍事法廷で南京事件の責任者として銃殺刑。 参謀長 下野一霍砲兵大佐(中将、陸士23期、陸大31期、南方軍兵站監) |
●歩兵第11旅団(坂井徳太郎少将) -歩兵第13連隊(岡本保之大佐) -歩兵第47連隊(長谷川正憲大佐) ●歩兵第36旅団(牛島満少将) -歩兵第23連隊(岡本鎮臣大佐) -歩兵第45連隊(竹下義晴大佐) ●騎兵第6連隊・野砲兵第6連隊・工兵第6連隊・輜重兵第6連隊 |
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第114師団(宇都宮) | 師団長 末松茂治中将(中将、陸士14期、陸大23期、第14師団長) 参謀長 磯田三郎砲兵大佐(中将、陸士25期、陸大33期、南方軍司令部附) |
●歩兵第127旅団(秋山充三郎少将) -歩兵第66連隊(山田常太中佐) -歩兵第102連隊(千葉小太郎大佐) ●歩兵第128旅団(奥保夫少将) -歩兵第115連隊(矢ケ崎節三中佐) -歩兵第150連隊(山本重省中佐) ●騎兵第18大隊・野砲兵第120連隊・工兵第114連隊・輜重兵第114連隊 |
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国崎支隊 (第5師団の一部) |
支隊長 国崎登少将 (中将、陸士19期、陸大32期、第7師団長) |
●歩兵第9旅団 -歩兵第41連隊(山田鐵二郎大佐) |
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第18師団(久留米) | 師団長 牛島貞雄中将 (中将、陸士12期、陸大24期、第19師団長) |
蕪湖方面 |
12月上旬、日本軍は陸からは陸軍が総数20万近い規模で波状進軍し、空からは海軍支那方面艦隊航空部隊が空爆し、長江からは海軍遡江部隊が南京に向かって両岸の要塞・砲台を攻撃しながら進軍をはじめた。南京城包囲殲滅戦が始まったのである。
ここでは「南京事件」笠原十九司著 岩波書店1998年第4刷から、南京城陥落に至るまでのポイントを簡単に書き出してみる。
●国民政府軍は3ヶ月間にわたった上海防衛戦で、全兵力の1/3にあたる約70万人の兵力を投入し、戦死者を25万人前後を出したといわれる。そのため蔣介石は南京防衛をあきらめ臨時首都を重慶に移し漢口、長沙に各部を分散することを決定した(11/16)。しかし南京は中国の首都であり、南京には国父孫文の陵墓・中山陵があることから簡単に首都を明け渡すわけにはいかなかった。
下の地図「南京城要図」(出典)「南京事件」笠原十九司著 岩波書店1998年第4刷
●蔣介石は、「トラウトマン和平工作」とベルギーで開催中の「ブリュッセル会議=9ヵ国条約会議」(11/3-11/24)での日本に対する制裁決議に期待し、短期的にでも南京を固守することを決定した。1、2カ月でも持ちこたえれば国際情勢は変化し危機は回避できると考えたのである。そして軍事委員会常務委員の唐生智を南京防衛司令官に任命し、11/20南京防衛軍司令部編制と防衛軍の配備を行い、南京城複郭陣地(周辺に2重3重の陣地)構築を開始した。12月4~5日かけて日本軍が南京近郊県に突入した段階で、南京防衛軍の総数は前線部隊、後方部隊ならびに雑兵、軍夫を合わせると約15万人に達した。この段階で南京近郊区(=日本の東京・埼玉・神奈川の大きさ)には100万人以上の住民と難民、南京城区には40万~50万人の市民および難民が居住したり避難していたと「南京事件」笠原十九司著 には書かれている。
●こうして日本軍は陸からは陸軍が総数20万近い規模で波状進軍し、空からは海軍支那方面艦隊航空部隊が空爆し、長江からは海軍遡江部隊が南京に向かって両岸の要塞・砲台を攻撃しながら進軍をはじめた。南京城包囲殲滅戦が始まったのである。そして12/6までには城内も砲撃の射程に入るようになり、海軍の第2連合航空隊も12/3常州に前進基地を開き、同基地から連日出撃し南京城に激しい爆撃を加えた。
●そして12/6ついに蔣介石夫婦は南京脱出を決意し、南京防衛軍の師長以上の高級指揮官を一堂に集め、「南京を死守すれば、みずから新鋭部隊で日本軍の包囲を撃滅する」と鼓舞激励した。唐生智南京防衛司令官も「私は南京と運命をともにすることを誓う」と南京死守の決意を表明した。こうして12/7夜明け前、蔣介石夫婦は側近らと共にアメリカ人パイロットが操縦する2機の大型単葉機で南京を脱出した。そしてドイツ軍事顧問団もひそかに漢口へ脱出し、国民政府の要人、南京市長や南京市政府要人もすべて1両日中には南京を脱出したのであった。
●12/8日本軍は、南京城を覆うように布陣されていた烏龍山-幕府山-紫金山-雨花台の複郭陣地に迫り南京城包囲網を完成させた。そして翌12/9夕方、陸軍は司令官松井石根の名において、南京防衛軍に対して「投降勧告文」を日本軍機から南京城内8カ所に投下し投降を呼びかけた。そして翌12/10の午後1時まで、中支那方面軍参謀副長 武藤章大佐らが通訳官を伴い中山門-句容街道で回答を待った。しかし中国側からの軍使は来なかった。
●この時投降拒否した唐生智南京防衛軍司令官は12/10午後7時、「本軍は最後の南京固守の戦闘に入った。各部隊は陣地を死守せよ」と下命し、「指令なく陣地を放棄・撤退したものは厳罰に処する」と伝え、また長江沿岸を厳重に警備させ、許可なくいかなる部隊の渡江を厳禁した。この挹江門(下関門)付近とその外側の長江下関・中山埠頭は南京防衛軍や撤退しようとした軍・避難民らの最後の逃げ道であった。
●こうして12/10午後1時、松井中支那方面軍司令官は「上海派遣軍ならびに第10軍は南京城の攻略を続行し城内を掃蕩すべし」(中方作命第34号)と南京城総攻撃を下令した。同時に海軍航空隊の爆撃も激しさを加え12/10午後から12/12にかけて昼夜をわかたず壮絶な南京城攻防戦が開始されたのである。
●12/12夜明けとともに激烈な日本軍の攻撃が開始され、中華門外の雨花台陣地には第6師団と第114師団が猛攻を加え正午までにここを占領し、第6師団は中華門へ集中砲火を浴びせた。
●南京城東の紫金山の西南山麓は太平門-中山門間の城壁につながっており、第16師団の佐々木支隊は北山麓陣地、南山麓は同師団主力が南京防衛軍の最精鋭部隊と3日にわたる死闘をつづけた。そして紫金山第2峰陣地を落とした第16師団は中山門とその南の城壁に重砲によって集中攻撃を加え数メートルにわたり城壁を決壊させた。
●長江南岸にそった南京城東の鵜龍山砲台には、第13師団の山田支隊が猛攻をかけた。また南京城西の長江南岸(長江上流)の上新河鎮から江東門、下関に広大に広がる湿地帯では、雨花台を占領した第6師団が城内突入をめざして中華門から水西門にかけて攻撃を集中した。水西門外では砲列の援護をうけて戦車を先頭に激烈な戦闘が繰り広げられた。
●長江の北岸では国崎支隊がターミナル駅浦口の占領をめざして進撃し、12/12午後に江浦県城を占領し長江を渡河して撤退しようとする中国軍の殲滅作戦を準備した。
●そしてこの日(12/12)、海軍の第12航空隊および第13航空隊が、中国軍が汽船で南京を脱出中との報をえて、アメリカ砲艦パネー号とアメリカのタンカーを、中国兵を護送中と誤認して撃沈した(パネー号事件)。パネー号にはアメリカ大使館臨時事務所が開設されており、誤爆回避の要請が日本軍に通知されており、当日は視界良好であったため、この事件は日本軍の意図的な攻撃とする意見も強かったが、日本は即座に陳謝し翌年3月221万ドルの賠償金を支払うことで解決した。ただこの事件と南京事件はアメリカで大きな抗議と対日感情悪化をまねき、太平洋戦争への序曲ともなったといわれる。またこの日の早朝、陸軍は蕪湖付近を航行中のイギリスの砲艦レディーバード号を砲撃した。(上の新聞)12/17東京朝日新聞第2夕刊(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●一方、唐生智南京防衛司令官は前日に蔣介石より撤退指令を受けていたが、「急な撤退命令は混乱を招くだけ」として、翌12/13の日の出前に各部隊がいっせいに日本軍の包囲を正面突破し撤退する計画をたてた。しかし唐生智司令官は12/12夜明けとともに始まった激烈な日本軍の攻撃に動揺し、午前11時南京難民区国際委員長ラーベ(日本と同盟国のドイツ人でナチス党員)に、日本軍との間で3日間の休戦協定を結ぶ仲介を依頼した。休戦協定の間に中国軍が撤退し、南京城を日本軍に引き渡そうとしたのであった。
●しかし戦況は悪化し、まさに南京城陥落寸前の激闘と混乱の極致に達しており、すでに休戦協定を結ぶ状況ではなくなったのである。南京防衛軍の崩壊は徐々に進行しており、この時南京城内の南の中華門から北の挹江門(下関門)まで縦断する中山北路に立っていたアメリカ人記者A・T・スティールは、この時の様子を次のように記した。
もはや、彼らを押しとどめるすべもなかった。何万という兵士が下関門(挹江門)に向かって群をなして街路を通り抜けていった。(中略)
午後4時半頃、崩壊がやってきた。はじめは比較的秩序だった退却であったものが、日暮れ時(当時の日没は午後5時ごろ)には潰走と化した。逃走する軍隊は、日本軍が急追撃をしていると考え、余計な装備を投げ捨てだした。まもなく街路には捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。
(『シカゴ・デイリー・ニューズ』1938年2月3日、『アメリカ関係資料編』)
●唐生智南京防衛司令官は撤退命令を正式に決定するため高級指揮官会議を招集しようとした。しかしすでに中山北路に面した鉄道部地下室(防衛軍司令長官部)付近は混乱しており、12/12午後5時ごろ、場所を百子亭の唐生智の官邸に変更し会議を開いた。しかし時はすでに軍の崩壊は始まっており、撤退計画を実行できるはずはなかった。鉄道部地下室の司令長官部は5時以前に撤退を開始していたのである。
この時撤退する司令長官部の者が、この4階建ての交通部の建物を日本軍に使用させないために放火したときの模様を、近くのアメリカ大使館にいたスティール記者はこう目撃している。
銃弾と砲弾の破片が高くあらゆる方向に甲高い音を出して散り、河岸にいたる道路をうろうろする群集のパニックと混乱をいっそう高めた。燃えさかる庁舎は高々と巨大な炎を上げ、恐ろしい熱を放った。パニックに陥った群集の行列はためらって足をとめ、交通は渋滞した。トラック、大砲、オートバイと馬の引く荷車がぶっかりあってもつれ絡まり、いっぽう、後ろからは前へ前へと押してくるのであった。
兵士たちは行路を切り開こうと望みなき努力をしたが、むだであった。路上の集積物に火が燃え移り、公路を横切る炎の障壁をつくった。退却する軍隊に残っていたわずかばかりの秩序は、完全に崩壊した。いまや各人がばらばらとなった。燃える障害を迂回して何とか下関門(挹江門)に達することができたものは、ただ門が残骸や死体で塞がれているのを見いだすのだった。
それからは、この巨大な城壁を越えようとする野蛮な突撃だった。脱いだ衣類を結んで口-プが作られた。恐怖に駆られた兵士らは胸壁から小銃や機関銃を投げ捨て、続いて這い降りた。だが、彼らはもう一つの袋小路に陥ったことを見いだすのだった。
(『シカゴーデイリー・ニュース』1938年2月3日、『アメリカ関係資料編』)
●唐生智司令官は、撤退計画以外の部隊の下関からの渡江を厳禁し、第36師に他部隊が挹江門から撤退、退却するのを実力阻止するように命じた。そして官邸に火をつけた後唐生智一行は撤退を開始し、中山北路に充満した退却兵や潰兵の大群の中を夜8時ごろ海軍艦艇専用の埠頭にたどりつき最後の小汽船で浦口埠頭へ脱出していった。
●こうして南京を脱出しようとした膨大な数の退却・潰走兵と避難民らは挹江門へ向かって押し寄せたが、門を守る第36師と退却軍との間で同志撃ちが始まり銃撃戦で多くの死者がでた。そしてそこに撤退を決めた戦車隊が強行突破をはかったため、兵士・避難民の大群も挹江門から脱出することができた。
●午後10時過ぎ、脱出した敗走兵と避難民の大群で下関埠頭中心に周辺数キロが埋めつくされた。渡江できる船舶はなかったのである。そして長江沿岸を逃走しようとした部隊が日本軍と遭遇して戦闘になった。そしてついに何万という群衆が長江の流れに身を乗り入れていった。
●また脱出を断念した兵士や、長江岸まで行って渡江手段がないために再度城内にもどってきた兵士たちは、みずからを武装解除して一般民衆に紛れて逃走しようとした。この時、南京攻略戦を取材するために 南京に留まっていたF・T・ダーディン記者は、こう報じている。
軍服といっしょに武器も捨てられたので、通りは、小銃・手榴弾・剣・背嚢・上着・軍靴・軍帽などで埋まった。下関門(挹江門)近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。交通部の前から2ブロック先まで。トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ごみ捨て場のようになっていた。
(『ニューヨーク・タイムズ』1938年1月9日、『アメリカ関係資料編』)
●そして深夜の0時半をすぎると、砲声や銃声は途絶え、ついに中国軍すべての抵抗は瓦解した。最後に残った中山門も第16師団の歩兵第20連隊が無血占領した。下段の映像にもその文字が映し出されている。「昭和12年12月13日午前3時10分 大野部隊占領」と。南京城はついに陥落した。
(新聞)「南京完全占領」昭和12年12/14東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●下は1938年(昭和13年)東宝文化映画部作品「戦線後方記録映画・南京」の中の、「南京城の攻略後の映像」と昭和12年12/17の「南京入城式」のシーンである。「南京城の攻略後の映像」では、中国軍の防衛軍と撤退する軍が衝突し、避難民も殺到して大パニックとなった挹江門付近と城壁、そしてその外の長江下関埠頭が映像にある。また映像にある「南京入城式」を南京城陥落後すぐに挙行したことが、早急で無差別な敗残兵狩り「残敵掃蕩」を行った原因ともいわれている。
●特に注意しなければならないことは、この映画作品は、日本国内向けプロパガンダ映画であったことである。だからこの作品には、皇軍の名誉を傷つける映像や残虐な映像はあってはならない作品であったことを忘れてはいけない。
(映像出典)「日本映画新社(2009年解散)」製作。「戦記映画復刻シリーズ」「支那事変「海軍作戦記録」
「南京入城式12/17」※(YouTube動画、サイズ10.1MB、1分34秒)
●ここでは東京裁判「極東国際軍事裁判」の判決を引用しておく。戦後日本人は初めて「東京裁判」で日本軍のおこした「南京事件」を知ったのである。「戦争法規」すら眼中になかった日本軍の実態が証言されたのである。下に「東京裁判・判決文」から一部を引用してみる。「平頂山事件」「秋田花岡事件」と「南京虐殺」が述べられている。(なるべく旧漢字は新漢字にし、振り仮名と意味も記入した)
すべての証拠を慎重に検討し。考量した後、われわれは、提出された多量の口頭と書面による証拠をこのような判決の中で詳細に述べることは、実際的でないと認定する。残虐行為の規模と性質の完全な記述については、裁判記録を参照しなければならない。
本裁判所に提出された残虐行為及びその他の通例の戦争犯罪に関する証拠は、中国における戦争開始から1945年8月の日本の降伏まで、拷問、殺人、強姦及びその他の最も非人道的な野蛮な性質の残忍行為が、日本の陸海軍によって思うままに行われたことを立証している。数ヵ月の期間にわたって、本裁判所は証人から口頭や宣誓口述書による証言を聴いた。これらの証人は、すべての戦争地域で行われた残虐行為について、詳細に証言した。それは非常に大きな規模で行われたが、すべての戦争地域でまったく共通の方法で行われたから、結論はただ一つしかあり得ない。すなわち、残虐行為は、日本政府またはその個々の官吏及び軍隊の指導者によって、秘密に命令されたか、故意に許されたかということである。
残虐行為に対する責任の問題に関して、被告の情状と行為を論ずる前に、訴追されている事柄を検討することが必要である。この検討をするにあたって、被告と論議されている出来事との間に関係があったならば、場合によって、われわれは便宜上この関係に言及することにする。他の場合には、そして一般的には、差支えない限り、責任問題に関連性のある事情は、後に取扱うことにする。
1941年12月の太平洋戦争開始当時、日本政府が、戦時捕虜と一般人抑留者を取扱う制度と組織を設けたことは事実である。表面的には、この制度は適切なものと見受けられるかもしれない。しかし、非人道的行為を阻止することを目的とした慣習上と条約上の戦時法規は、初めから終りまで、甚だしく無視された。
残虐行為の程度と食糧及び医療品の不足の結果とは、ヨーロッパ戦場における捕虜の死亡数と、太平洋戦場における死亡数との比較によって、例証される。合衆国と連合王国の軍隊のうちで、23万5473名がドイツ軍とイタリア軍によって捕虜とされた。そのうちで、9348人、すなわち4分が収容中に死亡した。太平洋戦場では、合衆国と連合王国だけから、13万2134名が日本によって捕虜とされ、そのうちで、3万5756人、すなわち2割7分が収容中に死亡したのである。
(注)戦争法規=戦争状態においてもあらゆる軍事組織が遵守するべき義務を明文化した戦時国際法)
この戦争は膺懲(ようちょう=征伐して懲らしめること)戦であり、中国の人民が日本民族の優越性と指導的地位を認めること、日本と協力することを拒否したから、これを懲らしめるために戦われているものであると日本の軍首脳者は考えた。
この戦争から起るすべての結果を甚だしく残酷で野蛮なものにして、中国の人民の抵抗の志を挫(くじ)こうとこれらの軍指導者は意図したのである。
蔣介石大元帥に対する援助を遮断するために、南方の軍事行動が進んでいたとき、中支那派遣軍参謀長は、1939年7月24日に、陸軍大臣板垣(板垣征四郎・A級戦犯として絞首刑)に送った情勢判断の中で、『陸軍航空部隊は奥地要地に攻撃を敢行し、敵軍及び民衆を震駭(しんがい=おそれてふるえおどろくこと)し、厭戦和平の機運を醞醸(うんじょう=かもし出すこと)す。奥地進攻作戦の効果に期待するところのものは、直接敵軍隊又は軍事施設に与ふる物質的損害よりも、敵軍隊又一般民衆に対する精神的脅威なりとす。彼等が恐怖の余り遂に神経衰弱となり、狂乱的に反蒋和平運動を激発せしむるに至るべきを待望するものなり』と述べている。
政府と軍の代弁者は、同じように、戦争の目的は中国人にその行いの誤りを『猛省』させるにあるとときどき主張した。これは結局において日本の支配を受け入れることを意味したものである。
1938年2月に、廣田(廣田弘毅=外相・A級戦犯として絞首刑)は貴族院における演説で、『日本は武力に依って中国側国民政府の誤った思想を膺懲(ようちょう=征伐してこらしめる)して行く外、一面に於(おい)ては、出来ることならば反省をさせたいと云うことに努力して参ったのであります』と述べた。『彼等は非常な頑強な排日思想を持って日本に当たっているから、是はどうしても膺懲せなければならぬと云う方針を決めました』とかれは同じ演説の中で述べた。
平沼は、1939年1月21日に議会における演説によって、かれのいわゆる『国民の精神の昂揚』を始めたが、その中で、
日本の軍隊によって犯された残虐行為の性質と程度を論ずる前に、このような行為を取締ることになっていた制度をきわめて簡単に述べておきたい。
軍の方針を樹立する権限をもっていた者は、陸海軍両大臣、参謀総長、軍令部総長、教育総監、元帥府及び軍事参議院であって、陸海軍大臣は行政を担当し、教育総監は訓練を監督し、参謀総長と軍令部総長は軍の作戦を指導した。元帥府と軍事参議院の両者は諮問機関であった。陸軍は特権を与えられていた。その一つは、陸軍大臣の後継者を指名する独占的な権利である。陸軍はこの権能を行使することによって、その唱道(しょうどう=自ら先に立ってとなえる)する政策を絶えず固守させることができた。
陸軍省では、政策の発案機関は軍務局であった。この局は、参謀本部、陸軍省の他の局及び他の各省と協議した上、陸軍大臣の署名のもとに発せられた法規の形式で、日本軍部の方針を公表した。一般に戦争の指導に関して、特に一般人抑留者及び捕虜の待遇に関して方針を立て、これに関する規則を発したのは、この軍務局であった。中国における戦争の間の捕虜の管理は、この局によって行われた。 一般人抑留者と捕虜の管理は、太平洋戦争の敵対行為が始まって、特別な部がその任に当たるために創設されるまで、同局によって行われていた。被告のうちの3名が、この強力な軍務局に局長として在職した。それは小磯(小磯国昭=陸軍大将・首相・A級戦犯終身禁固刑)、武藤(武藤章=陸軍中将・A級戦犯絞首刑)及び佐藤(佐藤賢了=陸軍中将・A級戦犯終身禁固刑)である。
小磯は中国における戦争の初期、1930年1月8日から1932年2月29日までの間在職した。武藤は太平洋戦争の開始の前から後にかけて在職した。かれは1939年9月30日に同局の局長となり、1942年4月20日まで在任したのである。佐藤は1938年7月15日に任命されて、太平洋戦争の開始の前に軍務局に勤務し、武藤がスマトラの軍隊を指揮するために転任したときに、同局の局長となり、1942年4月20日から1944年12月14日まで、局長として勤務していた。
海軍省で右の局に相当するのは、海軍軍務局であった。海軍軍務局は、海軍のために法規を制定し、公布し、海上、占領した島及びその他の海軍の管轄下にあった領土における海軍の戦争巡行の方針を規定し、その権内にはいった捕虜と一般人抑留者を管理した。被告岡は、太平洋戦争の前とこの戦争中の1940年10月15日から1944年7月31日までの間、右の局の局長として勤務した。
陸軍省では、陸軍次官が省内の事務を統轄し、陸軍省のもとにあった各局や他の機関を統合する責任をもっていた。陸軍次官は戦場における指揮官から報告や申出を受け、陸軍省の管理に属する事務について陸軍大臣に進言し、しばしば命令や指令を発した。被告のうちで、3名が太平洋戦争の前に陸軍次官として勤務した。小磯は1932年2月29日から1932年8月8日まで在職した。梅津(梅津美治郎=陸軍大将・A級戦犯終身禁固刑)は1936年3月23日から1938年5月30日までの間、この地位を占めていた。東條(東条英機=陸軍大将・首相・A級戦犯絞首刑)は1938年5月30日に陸軍次官となり、1938年12月10日まで在職した。木村(木村兵太郎=陸軍大将・A級戦犯絞首刑)は太平洋戦争の前から後にかけて陸軍次官であった。かれは1941年4月10日に任命され、1943年3月11日まで在職したのである。
最後に、もちろんのことであるが、戦場における司令官は、その指揮下の軍隊が軍紀を維持し、戦争に関する法規と慣例を遵守することに対して、責任を負っていた。
(注)匪賊(ひぞく=徒党を組んで殺人・略奪を行う盗賊)
中国軍の主要部隊は、1931年の末に長城内に撤退したが、日本軍に対する抵抗は、広く分散した中国義勇軍の部隊によって絶えず続けられた。関東軍の特務部は、1932年に義勇軍の小区分として編成されたところの、いわゆる中国の路軍の名を多数挙げていた。これらの義勇軍は、奉天、海城及び営口附近の地帶で活躍した。1932年8月に、奉天のすぐ近くで戦闘が起った。この奉天の戦闘が最高潮あった1932年8月8日に、陸軍次官小磯が関東軍参謀長兼関東軍特務部長に任命された。かれは1934年5月5日までこの職にあった。
それから間もなく、小磯は陸軍次官に対して『満州国指導要綱』を送り、その中で、『日支両国間の民族闘争は亦之を予期せざるべからず。之が為其の止むなきに方(あた)りては武力の発動固(もと)より之を辞せず』と述べた。中国軍に実際に援助を与えたり、または与えたと想像されると、その報復として、右の趣旨で、都市や村落の住民を虐殺する慣行、すなわち、日本側のいわゆる『膺懲(ようちょう=征伐してこらしめる)』する慣行が用いられた。この慣行は、中日戦争を通じて続けられた。その最も悪どい例は、1937年12月における南京の住民の虐殺である。
捕えられた中国人の多数は、拷問され、虐殺され、日本軍のために働く労働隊に編入され、または日本によって中国の征服地域に樹立された傀儡(かいらい)政府のために働く軍隊に編制された。これらの軍隊に勤めることを拒んだ捕虜のある者は、日本の軍需産業の労働力不足を緩和するために、日本に送られた。本州の西北海岸にある秋田の収容所では、このようにして輸送された中国人の一団981名のうち。418名が飢餓、拷問または注意の不行届のために死亡した。
国際連盟と九国条約調印国のブラッセルにおける会議とは、ともに、1937年に盧溝橋で敵対行為が起ってから、中国に対して日本の行っていたこの『膺懲』戦を阻止することができなかった。中日戦争『事変』として取扱う日本のこの方針は、そのまま変らずに続けられた。大本営が設置された後でさえも、中国における敵対行為の遂行に戦争法規を励行するために、いかなる努力も払われなかった。その大本営は、1937年11月19日に開かれた閣議で陸軍大臣がいい出したように、宣戦布告を必要とするほどの規模の『事変』の場合に、初めてこれを設置することが適当であると考えられていたものである。政府と陸海軍は完全な戦時態勢を整えていたが、中日戦争は依然として『事変』として取扱われ、従って戦争の法規は無視された。
1937年12月の初めに、松井(松井岩根=陸軍大将・南京大虐殺責任者・A級戦犯絞首刑)の指揮する中支那派遣軍が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。中国軍は、この市を防衛するために、約5万の兵を残して撤退した。1937年12月12日の夜に、日本軍が南門に殺倒するに至って、残留軍5万の大部分は、市の北門と西門から退却した。中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので、1937年12月13日の朝、日本軍が市にはいったときには、抵抗は一切なくなっていた。日本兵は市内に群がってさまざま残虐行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒し汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。目撃者逹によって、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、同市は単に組織的な戦闘で占領されただけではなかったこと、戦いに勝った日本軍は、その獲物に飛びかかって、際限のない暴行を犯したことが語られた。
多くの強姦事件があった。犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しで反抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまった。幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。そして、これらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数詼あった。多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の最初の1ヵ月の間に、約2万の強姦事件が市内に発生した。
日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪った。兵が道路で武器をもたない一般人を呼び止め、体を調べ、価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。掠奪された物資はトラックで運び去られた。日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一劃一劃と相ついで焼き払われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は焼き払った。このような放火は、数日後になると、一貫した計画に従っているように思われ、6週間も続いた。こうして、全市の約3分の1が破壊された。
ドイツ政府は、その代表者から、『個人でなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行爲』について報告を受けた。この報告の後の方で、『日本軍』のことを『畜生のような集団』と形容している。
城外の人々は、城内のものよりもややましであった。南京から2百中国里 (約六十六マイル)以内のすべての部落は、大体同じよう状態にあった。住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で、かれらは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。南京から避難していた一般人のうちで、5万7千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。
このようにして、右のような捕虜3万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。
後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている。これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。
日本の大使館員は、陸軍の先頭部隊とともに、南京へ入城した。12月14日に、一大使館員は、『陸軍は南京を手痛く攻撃する決心をなし居れるが、大使館員は其の行動を緩和せしめんとしつつあり』と南京国際安全地帯委員会に通告した。大使館員はまた委員に対して、同市を占領Lた当時、市内の秩序を維持するために、陸軍の指揮官によって配置された憲兵の数は、17名にすぎなかったことを知らせた。軍当局への抗議が少しも効果のないことがわかったときに、これらの大使館員は、外国の宣教師たちに対して、宣教師たちの方で日本内地に実情を知れわたらせるように試み、それによって、日本政府が世論によって陸軍を抑制しないわけには行かなくなるようにしてはどうかといった。
ベーツ博士の証言によると、同市の陷落後、2週間半から3週間にわたって恐怖はきわめて激しく、6週間から7週間にわたっては深刻であった。国際安全地帯委員会幹事スマイス氏は、最初の六週間は毎日二通の抗議を提出Lた。
松井は12月17日まで後方地区にいたが、この日に入城式を行い、12月18日に戦没者の慰霊祭を催し、その後に声明を発し、その中で次のように述べた。
当時大佐であった武藤は、1937年11月10日に、松井の幕僚に加わり、南京進撃の期間中松井とともにおり、この市の入城式と占領に参加した。南京の陥落後、後方地区の司令部にあったときに、南京で行われている残虐行為を聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗議を申込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。この事態を改善するような効果的な方策は、なんら講ぜられなかった。松井が南京にいたとき、12月19日に市の商業区域は燃え上っていたという証拠が、1人の目撃者によって、本法廷に提出された。この証人は、その日に、主要商業街だけで、14件の火事を目撃した。松井と武藤が入城してからも、事態は幾週間も改められなかった。
南京における外交団の人々、新聞記者及び日本大使館員は、南京とその附近で行われていた残虐行為の詳細を報告した。中国へ派遣された日本の無任所公使伊藤述史は、1937年9月から1938年2月まで上海にいた。日本軍の行為について、かれは南京の日本大使館、外交団の人々及び新聞記者から報告を受け、日本の外務大臣廣田に、その報告の大要を送った。南京で犯されていた残虐行為に関して情報を提供するところの、これらの報告やその他の多くの報告は、中国にいた日本の外交官から送られ、廣田はそれらを陸軍省に送った。その陸軍省では、梅津が次官であった。これらは連絡会談で討議された。その会議には、総理大臣、陸海軍大臣、外務大臣廣田、大蔵大臣賀屋、参謀総長及び軍令部総長が出席するのが通例であった。
残虐行為についての新聞報道は各地にひろまった。当時朝鮮総督として勤務していた南は、このような報道を新聞紙上で読んだことを認めている。このような不利な報道や、全世界の諸国で巻き起された世論の圧迫の結果として、日本政府は松井とその部下の将校約80名を召還したが、かれらを処罰する措置は何もとらなかった。1938年3月5日に日本に帰ってから、松井は内閣参議に任命され、1940年4月29日に、日本政府から中日戦争における『功労』によって叙勲(じょくん)された。松井はその召還を説明して、かれが畑と交代したのは、南京で自分の軍隊が残虐行為を犯したためでなく、自分の仕事が南京で終了したと考え、軍から隠退したいと思ったからであると述べている。かれは遂に処罰されなかった。
1938年2月5日に、新任の守備隊司令官天谷少将は、南京の日本大使官で外国の外交団に対して、南京おける日本人の残虐について報告を諸外国に送っていた外国人の態度をとがめ、またこれらの外国人が中国人に反日感情を扇動していると非難する声明を行った。この天谷の声明は、中国の人民に対して何物にも拘束されない膺懲戦を行うという日本の方針に敵意をもっていたところの、中国在住の外国人に対する日本軍部の態度を反映したものである。
極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪 極東国際軍事裁判所 編 1948年刊

「東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文」極東国際軍事裁判所 編 毎日新聞社1949年刊

●ここでは東京裁判でのパル判決書(意見書)の「南京事件」に関する部分を引用した。パル判事も、日本軍の犯した残虐行為の証拠は『圧倒的である』と述べ、南京事件そのものは否定しなかったのである。
パル判事はこの南京残虐事件発生に対して、「松井大将(中支那方面軍司令官)の刑事上の責任を問うべき不作為があった証拠は無い」として無罪と言っているのである。以下に数カ所引用する。(出典)共同研究「パル判決書(上・下)」東京裁判研究会編 講談社学術文庫2005年第19刷発行。
(注)パル判事・・東京裁判でのインド代表判事。被告全員の無罪(日本無罪論)を判決書(意見書)で主張した。靖国神社には「パール博士顕彰碑」が建てられている。
●パル判決書(下)「日本占領下の諸地域の一般人に関する訴因(訴因第54および第55)」の、「南京暴虐事件に関する証拠を厳密に取り調べると曲説や誇張の疑惑は避けられない」の部分。(p566)
問題は被告に、かかる行為に関し、どの程度まで刑事的責任を負わせるかにある。以上述べたように、被告にたいする訴追はつぎのとおりである。
一 かれらは特定の者をしてその行為を犯すことを命令し、授権し、かつ許可し、それらの者は実際にその行為を犯したこと(訴因第54)。あるいは、
二 かれらは故意にまた不注意に、かような犯罪的行為を犯すことを防止する適当な手段をとるべき法律上の義務を無視したこと(訴因第55)。・・』
(注:星野)「問題は被告に、かかる行為に関し、どの程度まで刑事的責任を負わせるかにある。」・・東京裁判の被告のこと
●パル判決書(下)「諸地域における、一般人にたいする残虐行為に関する検察側の説明」に対して(p589-p590)
本官は事件の裏づけとして提出された証拠の性質を、各件ごとに列挙した。この証拠がいかに不満足なものであろうとも、これらの鬼畜行為の多くのものは、実際行われたのであるということは否定できない。
しかしながら、これらの恐るべき残虐行為を犯したかもしれない人物は、この法廷には現れていない。そのなかで生きて逮捕されえたものの多くは、己れの非行にたいして、すでにみずから命をその代価として支払わされている。かような罪人の、各所の裁判所で裁かれ、断罪された者の長い表が、いくつか検察側によってわれわれに示されている。かような表が長文にわたっているということ自体が、すべてのかかる暴行の容疑者にたいして、どこにおいてもけっして誤った酌量がなされなかったということについて、十分な保証を与えてくれるものである。しかしながら、現在われわれが考慮しているのは、これらの残虐行為の遂行に、なんら明らかな参加を示していない人々に関する事件である。・・』
(注:星野)「すでにみずから命をその代価として支払わされている。」・・BC級戦犯裁判で処刑されているの意味。「なんら明らかな参加を示していない人々」・・東京裁判の被告達のこと。
●パル判決書(下)「検察側の南京残虐事件の顛末」に対して(p600-p601)
弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。かれらはたんに誇張されていることを愬(うった)えているのであり、かつ退却中の中国兵が、相当数残虐を犯したことを暗示したのである。・・』
●パル判決書(下)「松井大将が南京攻撃を前に日本軍に対して命令した内容」と松井大将の責任について(p616-p617)
二、部隊ノ軍規風紀ヲトクニ厳重ニシ、中国軍民ヲシテ皇軍ノ威風二敬仰帰服セシメイヤシクモ名誉ヲ毀損スルガゴトキ行為ノ絶無ヲ期ス。
三、別二示ス要図ニモトヅキ、外国権益、コトニ外交機関二ハ絶対二接近セザルハモチロントクニ外交団ノ設定シタル中立地帯二ハ、必要ノ外立入りヲ禁ジ、所要ノ地点二歩哨ヲ配置スベシ。マタ城外ニオケル中山陵ソノ他革命志士ノ墓オヨビ明考陵二ハ立入ルコトヲ禁ズ。
四、入城部隊八師団長がトクニ選抜シタルモノニシテ、アラカジメ注意事項、トクニ城内ノ外国権益ノ位置ヲ徹底セシメ絶対二過誤ナキヲ期シ、要スレバ歩哨ヲ配置スベシ。
五、掠奪行為ヲナシマタ不注意トイエドモ火ヲ失スルモノハ厳重二処罰スベシ。軍隊卜同時二多数ノ憲兵オヨビ補助憲兵ヲ入城セシメ、不法行為ヲ防止セシムベシ。
12月17日松井大将は南京に入城して、初めて、あれほど厳戒したのにかかわらず、軍規風紀違反のあったむねを報告によって知った。かれはさきに発した命令の厳重な実施を命じ、城内にある軍隊を城外に出すことを命じた。塚田参謀長および部下参謀は、南京城外の宿営地を調査したところ、関係場所は軍隊の宿営に不適当なことを知った(法廷証第2577号)。
よって12月19日、第10軍は上海派遣軍のいた蕪湖方面に引返した。第16師団だけが南京警備のために残され、他の部隊は逐次、揚子江の北岸および上海方面に撤退するように命令された(法廷証第3454号)。
松井大将が部下の参謀とともに上海に帰還した後、大将は南京において日本軍の不法行為があるむねの噂をふたたび聞いた。これを聞いて同大将は、部下の一参謀に12月26日または27日、つぎのような訓令を上海派遣軍参謀長に伝達させた。すなわち、
かように措置された松井大将の手段は効力がなかった。しかしいずれにしてもこれらの手段は不誠意であったという示唆はない。この証拠によれば、本官は松井大将としては本件に関連し、法的責任を故意かつ不法に無視したとみなすことはできない。・・』
ここではエドガー・スノー著作集「アジアの戦争」筑摩書房1973年刊より、1937年(昭和12年)8月の第2次上海事変後の南京戦のルポタージュである「4・神より偉大な」の章を引用する。
訳者(森谷巌)によるあとがきには、この「アジアの戦争」は1943年(昭和18年)9月に大東亜省総務局総務課より、「亜細亜の烽火」なる邦題で軍部関係者に「極秘」の2文字を表紙に掲げた「大東亜資料第5号」として配られたとある。
私には、神よりも偉大なある力がわが兵を鼓舞したとしか思えない。(杉山大将)
火力の点では敵と互角の立ち合いはできそうもない最初の陣地戦に、中国軍は乏しい予備軍を多数くり出した。しかしこれは重大な戦術的誤謬のように思える。こんな戦術を採用しなければ、当時自信満々の敵軍を、兵力が強化されぬ前に内部へ引きずり込むことができたであろう。更に上海の西部の有利な高地に兵力を集中させて側面急襲を加え、重要な勝利を獲得するのも不可能ではなかった筈だ。
ドイツ人顧問はかかる戦術の採用を主張した。ドイツ人たちは蘇州-杭州線に沿い、かつその線を越えて主陣地を形成しようとしたのである。この方法に従っていたならば、有能な兵士や軍需資材に軽微な損害を受けるくらいで連絡を保持できたであろう。まして予備兵をすっかり消耗してしまって、反撃作戦の可能性を完全に放棄せざるを得ない羽目に陥るようなことはなかったであろう。
中国軍の参謀がこの忠告を無視したのは、もちろん多くの理由があってのことであった。しかしその一つにうぬぼれということがあったのである。紅軍との陣地戦に若干の成功を収めたということが、当時の高級士官の多くに、日木軍のような軍隊の猛撃も固定陣地で撃退できると思い込ませていたのである。南京の惨劇はこの甘い夢を深刻に揺ぶった。しかし、苦い真実が多勢の者の胸に刻みつけられるには漢口陥落を待つまでもなかった。この苦い真実とは、中国全体が今やかつて国民党に対した紅軍と殆んど同じ軍事的地位に落ちてしまったことである。つまり戦争を継続するにはどうしても紅軍の軍事的、経済的、政治的原則の多くを採用しなければならないということに他ならなかった。
ひとたび日本軍は中国軍右翼を突破するや、その進撃は南京に達するまで止る所を知らなかった。中国軍は上海からの退却軍を収容し得る強力な陣地を準備するいとまもないくらいであった。輸送は望みなきまでにふさがり、参謀の任務は乱れた。そのために統一軍の指揮も一時は消滅してしまったくらいである。中国軍がこの時になってからでもこの新情勢を理解して首都を抛棄し、北部及び西部の整えられた線まで後退していたならば、損失はこんなに驚くべきまでに達しなくてもすんだであろう。しかし蔣介石ですら南京の古い城壁に、大人気のない信頼を寄せているようであった。だから、蒋はもはや手もつけられぬようになってしまうまで首都撤退令を出すのを延ばしていたのだ。
日本にとって少しでも軍事的、経済的価値を与えるような建物や工場を破壊する時間は充分あったにもかかわらず、破壊工作の準術は殆んど行われなかった。「焦土」政策は蒋幕下の参謀中最も有能な戦略家、白祟禧将軍の手に委ねられていた。しかし白崇禧は蒋側近の利口な少壮派ではなかったので、その助言もドイツ人の忠告と共に無視されてしまった。それやこれやで、退却前に爆破された唯一の重要政府建造物は交通省だけだった。日本軍は兵器廠を殆んど完全なままで手に入れた。その他、重要工場、発電所、鉄道と車輛、渡船、政府病院、全官庁建物、莫大な弾薬と輸送機関、南京軍官学校を完全な設備を備えたままで占領してしまった。日本はここで傀儡軍隊を装備するのに充分な資材と、3ヵ月後になってもなお軍に積んで運び出された程の戦利品に富んだ町を獲得したのである。
南京が失われた時には、戦争はすでに5ヵ月を経過していた。それにもかかわらず、人民組織を作ろうという努力は首都の内部にすら殆んどなかった。50万ないしそれ以上の市民がどうにかこうにか撤退したが、それとても政府の計画に従ってではなかった。軍と協力する人民の組織は全くなかった。長い退却で憔悴しきった、餓死状態に近い軍隊が町を通っていった時、水とパンだけででも慰安しようという歓迎委員会すらなかったのである。しかも軍隊の大方の軍紀は厳正だった。街を通り抜ける際、開けている店から巻パンとかつまらない品物を奪う兵士も時にはあった。しかしそれ以外の一切の略奪は勝ち誇った日本軍にまかせられた。人口を処理するなんらの組織も持たない政府は、避難民のために、いわゆる「国際難民区」を市内に設けようという数人の外人の申出を受諾する以外に、なすべき術を知らなかった。
日本軍は12月12日に南京に入城した。それは中国軍及び文官がただ一つ残された城門を抜けて、掲子江の北岸に退こうとしていた日のことである。極度に混乱する光景が相次いで起った。川を越そうとしていた数百人の人々が日本軍の機銃掃射を受けて沈んだ。更に数百人の人々は下関門に延びている隘路で捕えられ、死屍は塁々として4フィートも積み重ねられた。この最後の時に権威が崩壊したのは許すべからざることだった。この権威の失墜こそ、日本軍の占領を歓迎すべき「秩序回復」として、幾多の人々に受け入れさせるようにしてしまったのであった。
だがなんという幻滅が中国人を待ち受けていたことか!
南京虐殺の血なまぐさい物語は、今ではかなり世界に聞えている。南京国際救済委員会━━ついでながら、これは後年ヒットラーからナチ最高の勲章が授与されたドイツ商人ジョン・H・D・ラーベ氏を偶然その頭にいただいていた━━の委員がわたしに示した算定によると、日本軍は南京だけで少くとも4万2千人を虐殺した。しかもこの大部分は婦人子供だったのである。また、上海・南京間の進撃中に、30万人の人民が日本軍に殺されたと見積られているが、これは中国軍の受けた死傷者とほぼ同数であった。
いやしくも女である限り、10歳から70歳までの者はすべて強姦された。難民は泥酔した兵士にしばしば銃剣で刺し殺された。母親は赤ん坊の頸が切られるのを見た上で強姦を受けねばならぬことがしばしばであった。或る母親は1軍人に犯された時のことを次のように語った━━その男は赤ん坊の泣声に癇癪を起し、その頭に蒲団をかぶせて窒息死させた上で、やすやすと自分の日的を達したというのである。こういった暴行を指揮した若干の士官は自分の宿所をハレムと化し、夜毎に新らしい捕虜と床を共にした。白昼公然たる性交も不思議でなかった。約5万に上るこの町の軍隊は、1ヵ月以上にわたって、近世においては匹敵するもののない強姦、虐殺、略奪、といったあらゆる淫乱の坩堝を泳いでいた。
1万2千戸の商店と家屋は貯蔵品や家具を全部略奪され、それから放火された。市民は動産の一切を失った。日木軍の兵士や士官は誰も彼も自動車や人力車をはじめ運搬に使える物ならなんでも盗み、この略奪品を上海へと運ぼうとした。外国外交官の家庭も侵入を受けた。そして使用人が殺された。兵卒は思うままに振舞い、士官も進んで加わった。たとえ加わらないまでにせよ、このような部下の行動は、中国人は被征服民であるから「特別の考慮」など願う権利がないのだという理由で、看過していたのである。ここで「神よりも偉大な或る力がわが兵を鼓舞した」という杉山大将の言葉が想起されねばならない。しかし事実は、司令官たちも自らこの大略奪に加わっていたので、兵士にも同一の特権を認めてやらねばならなくなったまでである。
さすがに日本大使館の館員もこのスペクタクルには仰天した。が、さてなにか手を打とうとしても完全に無力であった。私用のための自助車を軍から借りることさえできず、国際委員会に乗用車の世話を訴える始末であった。
ある外人の傍観者は次のように書いている。「事実アメリカ、イギリス、ドイツの大公使館員の住宅、大半の外人財産を始めとする市中の建物は、どれも再三日本軍人の略奪を受けた。あらゆる種類の乗物、食糧、衣類、夜具、貨幣、時計、絨緞や絵画の類、種々の貴重品がその主なものであった。たいていの商店は手当り次第の押込みや窃盗を受けた後、トラックを使う集団をなした兵士の組繊的略奪を受けた。これは士官の命令で行われることもたびたびであった」
国際「難民区」は、25万に上る恐怖に打ちひしがれた流民に満たされた。しかし現実には、非戦闘員にとっては危険地帯となってしまい、善意の創立者にとっては藪蛇となった。創立者たちは単純に、日本軍も外国の世論を考慮してこの天国を尊敬するものと想像していたのである。ところが日本軍司令官は決して公式にはこの聖なる私室を承認しようとしなかった。しかし多くの中国人は万能の星条旗、ユニオン・ジヤツク、ハーケン・クロイツの下なら安全だろうと信じてそこに止った。けれども実際には、この場所は日本軍が数千の男女を引きずり出して、恐るべき死にいたらしめるに都合の良い強制収容所であることが明らかになったのである。
毎日のように日本軍はこの一劃に入って来て、好色な英雄たちを宥めるための女を掴えていった。若い娘たちがアメリカ人やイギリス人の経営するミッション・スクールから引きずり出された。そして軍人用の淫売婦にされ、それっきりなんの音沙汰もなかった。ある日のこと、わたしはこの難民区の伝道師から手紙を受け取った。それには避難所を求めて有徳なシスターたちと一緒にやって来た、数人のコーラスガールの奇妙な愛国的行為が記されていた。この伝道師はキャンプにこのような女たちがいるのを知った。そこで寮母たちにうながされて、誰か無辜の子女を救うために自ら進んで日本人の所へ行ってくれる人はいないか、と尋ねた。コーラスガールとて敵兵を軽蔑することでは他の誰にも引けはとらなかった。しかし暫く考えあぐねた後、殆んど全部が前に出た。この少女たちこそ、この種の女が失ったと信じられ勝ちの、あらゆる徳を贖ったに相違ないのである。しかもこの中の数人はこれに命を捧げた。しかし私の知る限りでは、死後認められることもなく、〈健気なる莫連女の勲章〉さえ受けなかったのである。
数千人の男が、表向きは労働のためと称して、この区から連れ出された。そして一列に並ばされて機関銃の一斉射撃を受けた。時には幾群かの人が銃剣術の練習台に使われた。勝利者はこのような生ぬるいスポーツにあきると、生贄を縛り上げて頭から石油を浴せかけ、生きたまま焼き殺した。また空の塹壕に押しこめられて、シナ兵の振りをしていろと命ぜられた者もある。日本の士官はそこでこの「敵陣」を占領せよとの突撃命令を兵士に下し、武器なき防禦軍を突き殺してしまったのである。ただもうびっくりするしかない患者が伝道病院に這ってきた。それは目、耳、鼻を焼き取られ、首を半分斬り離され、しかもなお生命の綱の切れていない負傷者であった。
アメリカ人財産━━主として病院、学校、宗教建築物は再三侵入されて略奪を受けた。アメリカ人は、征服者に家を焼け出された難民に食物を与え、住む所を提供したというので、嚇かされ、侮辱され、殴打された。アメリカ領事のジョン・アリソン氏は、流暢な日本語を話す人であったが、なんら気に障ることも言わなかったのに一日本士官に顔を殴られた。とかくするうちに、揚子江を数マイル溯った所で、日本軍飛行機はアメリカ軍艦パネー号を爆撃して沈めた上、機銃掃射を加えた。また甲板に大きく画いた旗によって明瞭にそれと認められるアメリカ船を更に2隻攻撃し、乗員数人を殺傷した。こうした華中・華北におけるアメリカ人財産の破壊、アメリカ人及びその合法的権益の破壊に対しては、数百の抗議が国務省に依り提起されるべく積み重ねられていた。そのくせアメリカ人は依然日本の必要とする戦争挑発的資材を売っては、多額の利潤を挙げていたのであった。
軍事行動に因る損害を、長期間にわたった南京「勝利祭」の結果生じた損害と比較してみると、実に興味あるものがある。国際救済委員会によって見積られた、2億4千6百万中国ドルに達する建築物やその中味に加えられた全損害のうち、1パーセント足らずが軍事行動に基くものであり、残り全部は主として略奪と放火に由来していた。また、アメリカの1億4千3百万ドル以上に価する動産(没収された政府財産は勿論除外して)が盗まれたのである。
*国際救済委員会、リユイス・S・C・ヌミス博士著「南京地区における戦争による損害」(1938年6月、南京)の14頁による。
日本軍の進撃路にあたった農村も同時に、同様にして甚大な損害を受けた。それは1938年の初めに国際救済委員会の指揮下に行われた調査の結果から推量できる。その調査は南京周辺の4県と半分の県とにわたるに過ぎず、その全人口は百8万であった。それでも建物、家畜、大農具、貯蔵穀物、駄目になった作物の損害は全部で4千百万ドルに近かった。この地域の農家の中でその5分の2が兵火に罹災した。また12万3千頭の水牛、牡牛、驢馬が屠殺されたり盗まれたりし、66万1千個の農具が破壊された。数千個の鍬やレーキや水車が壊されて焼かれ、そしてその金属の部分は集められて屑鉄として日本へ送られていった。救助作業員が戸別調査によって集めた資料は、不完全とは言いながらも、2万2千4百90人の男子農民と、4千3百80人の婦女子農民が日本軍に殺されたことを明らかにしている。そしてこの殺された婦女子のうち83パーセントは45歳以上であった。もし以上の条件が代表的なものであり、またこの調査が兵火を受けた地方でこれまでに企てられたどの調査よりも詳細なものであるならば、農村における全損害の大きさは、侵人を受けたその他全部の数百県をこの結果に乗ずることによって想像することができよう。ついでに付記しておくが。引用された右の調査は、この4県半で百日間にわたって行われた調査を網羅したに過ぎないものである。
*同書、18頁以下。
ところで日本においては、統制下にある諸新聞は、日本軍が圧政から中国人を救う保護者や救助者としていたる所で心からの歓迎を受けている、といったお定まりの道化じみた記事を載せた。更に中国の少年少女にお菓子を与えている兵士といったようなポーズを作った写真を掲げた。しかし軍部は真実を世界からも、中国在留の日本人からも隠しおおすことはできなかった。上海にはこの恥辱や侮辱を深く感じている日本人が少しはいた。その一例として、わたしは一夜ある日本人の友と語ったことを記そうーーこの日本人の友は、自分の考えを心の中に閉じこめることで生き延びているリベラルな思想の新聞記者だった。しかしその名前は彼のために差控えておこう。
「そうだ、みんな本当なんだ」わたしが二、三の残虐な報道について問いかけた時、この友人は思いもよらぬことながらはっきりそのことを認めた。
「事実はこれまで発表されたどんな話よりも、全くもってひどいものなのだ……」
その目には涙があった。わたしは友の悲しみが心からのものだと感じた。
しかし、東京の号外が「戦争終了」を叫んでいた時すら、多くの冷静な日本人は、南京略奪と共に戦闘が無限に長期化しつつあることを悟り始めていた。揚子江下流地帯での討伐的な殺人と略奪によって、日本は軍事的勝利は獲得したかも知れない。しかし政治的目的は獲得できなかったのだ。日本の当初の考えでは、どの地方的対立も自動的に中国に内部分裂を早期に惹起させるはずだった。しかしそれは日本の残虐な征戦のお蔭で、ことごとく極度に微弱になってしまった。日本は中国の資本蓄積階級がひそかに想像して楽しんでいた、日本との合弁の可能性の幻影を破ってしまったのである。最も重要なことは、日本がこの地城に集中していた経済的、政治的諸勢力を分散させてしまったことである。これがこの国の政治力を支配していた。そして、日本が中央政府に平和条約条項を強制する上に絶対に必要な勢力なのであった。
こうして、日本は政治的には愚鈍であるという独断的な傾向を暴露してしまった。そしてこれは後の分析でも解るように、日本が征服戦略を遂行するに際し重大な弱点を構成することになったものである。
南京奪取に引き続き、軍部はかねて交渉のあった和平を押しつけようとしたが、それに失敗してしまった。その時にはもう征服の範囲を拡大し、中国全土を包含する以外には打つ手はなかったのである。華北諸省を併合せんとする単なる「植民地戦」として出発したものは、今や大陸制覇のための食うか食われるかの戦争に発展拡大してしまった。そこで、もともとは華北及び内蒙をソ連攻撃の側面基地として獲得するためにこの植民地戦を要請した陸軍の計画は、引き延ばされた。海軍の「南進」策と、来るべきヨーロッパ戦と一致させてヨーロッパ諸国の極東領土を併合せんとする計画も延引された。
しかし数週間というもの、陸軍は南京で「中国の抗戦精神を破棄」し去ったのだ、という自分の言葉をそのまま信じ込もうと努めていたのだ。「戦争終了」祝賀会と軍の催し物が数週間続けられた。もしこの間に強力な追撃戦に移っていれば、退却する中国軍に決定的惨害を加えることができたはずであったのにー。こうしてできた息ぬきの間に、中国軍は軍隊を完全に再組織し、西部に新戦線を形成することが可能になった。そして奥地の新根拠地では、大大的な軍事訓練と徴兵の計画が始まっていた。 5ヵ月後には、中国軍はこの戦争での最初の重要な勝利を獲得するにいたるまで士気を回復し、戦術を改善していた。それを証明したのは、今や有名なものとなった台児荘の戦闘であり、この勝利によって日本軍不敗の神話は決定的な終幕を告げるにいたったのであった。
●1938年(昭和13年)2/18、内務省警保局図書課は「中央公論」3月号を発売禁止と命令。同誌の特派員として南京攻略戦に従軍した石川達三の「生きてゐる兵隊」の非戦闘員に対する略奪・暴行などの描写が、反戦気運をあおるという理由であった。そして石川は起訴され、禁錮4ヶ月判決を受けた。
石川達三(いしかわ‐たつぞう)
小説家。秋田県生まれ。早大中退。ブラジル移民を描いた「蒼氓」で第一回芥川賞を受賞。日本文芸家協会理事長や日本ペンクラブ会長などを歴任。作品「生きてゐる兵隊」「風にそよぐ葦」「人間の壁」「青春の蹉跌」など。明治38~昭和60年(1905-85)(出典)日本国語大辞典精選版
●また「南京事件論争史」笠原十九司、平凡社2007年刊によれば、次のようにある。
1938年に発禁処分を受けたこの「生きてゐる兵隊」は戦後の1945年12月に初版5万部で河出書房から出版された。そして東京裁判で南京事件が裁かれることがわかると、1946年5/9読売新聞社は、石川達三のインタビュー記事を「裁かれる残虐『南京事件』」との見出しで掲載した。この中で石川は南京事件について見聞した虐殺現場の様子を語り、
●巣鴨の獄中に居た松井石根大将(南京事件の責任者として極東国際軍事裁判で絞首刑)は、この読売新聞の記事をみて次のように日記(1946年5/10)に書いた。
●そしてこの記事が掲載された直後の1946年5/11、石川達三は国際検察局(連合国軍最高司令官総司令部)の尋問を受けた。その中で石川は次のように述べた。
●石川達三の昭和13年3月判決を受けた頃の心境を、「生きている兵隊」伏字復元版の「解説」で半藤一利は次のように書いている。石川は、新聞紙法違犯で起訴され公判で次のように堂々と自己の意見を開陳したという。
●冒頭の部分を引用する。この部分では「日本刀」が伏字とある。
「生きている兵隊」伏字復元版 石川達三
(前記)日支事変については軍略その他未だ発表を許されないものが多くある。従ってこの稿は実戦の忠実な記録ではなく、作者はかなり自由な創作を試みたものである。部隊名、将兵の姓名などもすべて仮想のものと承知されたい。
1
高島本部隊が太沽(タークー)に上陸したのは北京陥落の直後、大陸は恰度残暑の頃であった。
汗と埃にまみれた兵の行軍に従っておびただしい蠅の群が輪を描きながら進んで行った。
それから子牙河の両岸に沿うて敵を追いながら南下すること二ヶ月、石家荘が友軍の手に落ちたと聞いたのはもう秋ふかい霜が哨兵の肩に白くなる時分であった。
高島本部隊は寧晋(ネイシン)の部落に部隊[師団]集結して次の命令を待ちながら十日間の休養をとった。その間に中隊ごとに慰霊祭が行われた。二人の中隊長は戦死し歩兵は兵力の十分ノ一を失っていたが、補充部隊が来るという話は聞かなかった。
部「聯」隊本部に宛てられた民家のすぐ裏から急に火の手が上った。夕陽の射していた本部の窓を濃い煙の影がすさまじく走った。
最初にかけつけた笠原伍長と部下の二人の兵とが現場をうろついていた一人の支那人を捕えた。二十二三の青年で貧しい服装をしており、首筋も手足も垢でまだらになっていた。
「儞(ニイ)!」と笠原伍長は怒鳴った。しかし訊問するだけの支那語は知らなかった。彼は鼻水をすすり上げながら部下に言った。
「お前な、本部の通訳さんを呼んで来い」
兵が走り去ると笠原は道に投げ出してあった甕に腰をかけて火事を眺めはじめた。炎は壁づたいに二階の天井を這い棟に達していた。瓦と瓦との間が白熱の色に光りはじめ、窓の中は炎が渦を巻いて流れていた。
「よく燃えるなあ。熱いなあ」
今一人の兵は両手をかざして火鉢にあたる恰好をしながら支那人の顔を眺めて言った。
「こいつ、やりそうなつらをしてやがる」
青年は二人の兵の傍にぽつねんと枯木の様に立っていた。表情のない顔、痩せた、どこか呆けた顔つきであった。ぞろぞろと七八人の兵が集って来てこの青年をとり巻いた。
中橋通訳は拳銃を肩にかけ両手をポケットに入れ革のゲートルをつけて肩をゆすりながら歩いて来た。
「こいつがやったんかね」
「そうらしいんだ。一つ訊問して呉れ。ふてえやつだよ。本部を焼こうなんて……」
通訳は咥えていたマッチの軸を吐き出すと二こと三こと厳しく何か言ったが青年はじろりと彼を睨んだまま黙っていた。彼は軽く肩を突きとばしながら猶も訊問をくり返した。すると青年が静かな声で短い返事をした。不意に通訳はびしりと激しい平手打ちを頬にくれた。青年はよろめいた。燃えさかる炎の中から棟の瓦がひと塊りどどッと崩れ落ちた。見ていた兵が言った。
「何て言うんだね通訳さん」
「こいつ奴、自分の家に自分で火をつけたんだから俺の勝手だって言やがる!」
甕に腰かけて火事に暖まっていた笠原伍長はすっと立ち上ると青年の腕をとらえて歩き出した。
「来い。快々的(カイカイデー)!」
青年は素直に歩き出し、二人の兵がその後に従った。十歩ばかり行くと笠原はふり向いて中橋通訳の方を見かえりにやりと意味ふかく笑った。
一町も歩くと部落をはずれて四人は楊柳の並んだクリークとその両岸にひろがった田圃との静かな夕景色の中に出た。陽は落ちて空は赤かった。クリークの水に赤い雲の影が静かに映っていて、風もない和やかな秋であった。点々と農家はあるがどこにも人影はなかった。彼等は幾つかの支那兵の死骸を跳び越えてクリークの岸に立った。野菊の残りの花が水面に近く群れ咲いており、田圃にある砲弾の穴には新しい水が丸くたまっていた。
笠原は立ち止ってふり向いた。青年はうな垂れて流れるともないクリークの流れを見ていた。一匹の支那馬が水の中から丸々と肥えた尻を突き出して死んでいた。萍草が鞍のまわりをとり巻いて頭の方は見えなかった。
「あっち向け!………と言っても解らねえか。不便な奴じゃ」 ―
彼は已むなく自分で青年の後にまわり、ずるずると日本刀を鞘から引き抜いた。それを見るとこの痩せた烏の様な青年はがくりと泥の中に膝を突き何か早口に大きな声で叫び出し、彼に向って手を合わせて拝みはじめた。然し拝まれる事には笠原は馴れていた。馴れてはいてもやはり良い気持ではなかった。
「えい!」
一瞬にして青年の叫びは止み、野づらはしんとした静かな夕景色に返った。首は落ちなかったが傷は充分に深かった。彼の体が倒れる前にがぶがぶと血が肩にあふれて来た。体は右に傾き、土手の野菊の中に倒れて今一度ころがった。だぶんと鈍い水音がして、馬の尻に並んで半身はクリークに落ちた。泥だらけの跣足の足裏が二つ並んで空に向いていた。
三人は黙って引返した。部落のあちこちに日章旗が暮れかけてまだ見えていた。火事の煙に炎の赤さが映りはじめていた。夕飯のはじまる時分であった。・・・・・
●「南京事件」はこの事件単体だけで考えるのではなく、その後の「武漢三鎮占領」のときはどうであったか、さらシンガポール陥落の時はどうであったか、その時の軍司令官はどう考えていたのか、陸軍は「南京事件」にどう対応したのか、そういった複眼的視点に立って判断すべきである。
●陸軍は、昭和13年10月の武漢(国民政府の実質の首都)攻略戦の時、南京事件の轍を踏まないために、「不法行為」とくに掠奪、放火、強姦などの絶滅を期し、皇軍の名誉のためにこれら不法行為に対しては、厳罰に処すことを下達し対応した。(南京事件後、陸軍がどう対応したかを知れば、南京事件についてきちんと理解が深まるだろう。)
●大事なことは、現代人の意識・常識とは時代が異なることを前提にしなければならない。同じ日本人がそんな残虐な事ができるはずがない、と考えるのは幻想である。日本兵は、郷土と家門の名誉を守るため、残虐であろうがなかろうが命令には絶対服従である。自己を捨て、死ねと言われれば死ぬのが日本兵である。だからアメリカは徹底して日本壊滅を図ったのである。日本軍は絶対降伏しない軍隊であったのである。
●また大事なことは、加害者である日本人が被害者の立場に立てるかどうかである。加害者が被害者に対してその被害の規模の大小を論ずべきではない。数の問題ではないのである。我々にできることは、被害国民の無視され無慈悲にも殺害された数多くの尊い生命に対して許しを請うだけである。
●感情論はやめて、あえてこの南京事件についていえば、この事件は以下の4つのシーンに分かれているように思える。しかし一番強調されているのは④であるようだ。だが南京虐殺事件の中心となったのは②と③のように思える。
②南京城陥落時における、砲撃・爆撃などによる一般市民を巻き込んだ無差別の攻撃や戦闘。長江に逃れようとした敗残兵・避難民を艦船からの銃撃によって無差別に殺害。戦闘時における投降兵・敗残兵・捕虜の殺害。
③南京城陥落(12/12深夜)以後の「残敵掃蕩」命令による市民を巻き込んだ、敗残兵・便衣兵(=平服に着替えて遁走した兵隊の意味)の捜索・逮捕・監禁とその後の集団処刑。
④入城後の日本軍による南京城区および周辺地区の絶えざる虐殺、大規模な計画的掠奪、家宅侵入、婦女陵辱・暴行・殺人。
●特に③の「残敵掃蕩」時における「集団処刑」が南京虐殺の中心であるように思われる。この「残敵掃蕩」と「集団処刑」は、下段の師団長らの日記をみると、軍の上層部による「捕虜は作らぬ方針」による集団処刑命令であったと思われる。このような日本軍の敵国兵士らに対する容赦の無い殺戮は、1910年の韓国併合後の「武断政治」による反日・独立運動に対するもの、満州国における抗日武装勢力(匪賊)にたいするもの、またその後中国側が非難した日本軍による「三光作戦(殺しつくす、奪いつくす、焼きつくす)」などからみても、恐るべき現実であったと推測できる。まして日本刀による斬首は、日本軍にとっては普通であっても、諸外国人からは見ればその行為は残虐の極みであったことは間違いない。大日本帝国陸軍は絶対命令と暴力による支配を組織力の源泉とした軍隊であり、この「残敵掃蕩」命令は絶対であり捕虜の命が顧みられることはなかったのであろう。
上写真「南京大虐殺。刑場に運ばれる中国人捕虜」(出典:「世界の歴史15」中央公論1962年刊)
最後の段でリンクした「MBSナウスペシャル・フィルムは見ていた-検証南京大虐殺」中の「マギー牧師のフィルム」には、狩りたてられた「敗残兵・便衣兵」と思われた数多くの男たちが刑場に向かう様子が隠し撮りされている。
●下は、上海派遣軍第9師団・歩兵第6旅団長秋山義兌少将による「南京城内掃蕩要領」および「掃蕩実施に関する注意」である。
2、青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし
『南京戦史資料集』
●下は、上海派遣軍第16師団長中島今朝吾(なかしま-けさご)中将の日記(12/13)の「捕虜掃蕩」の項目のところである。
後にいたりて知るところによりて、佐々木部隊だけにて処理せしもの1万5千、大平門(太平門)における守備の1中隊長が処理せしもの約1300、その仙鶴門(せんかくもん)付近に集結したるもの約7,8千人あり、なお続々投降しきたる。
この7,8千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、2百に分割したる後、適当のケ処(箇処)に誘きて処理する予定なり。
『南京戦史資料集』
●下は、上海派遣軍第13師団・山田支隊長山田栴二少将の日記の捕獲した捕虜の数についてのところである。
捕虜の仕末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せしところ、14777名を得たり、かく多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外三軒屋に泊す。
(12/15)捕虜の仕末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧無く困却す。
『南京戦史資料集Ⅱ』
●しかしこのような軍紀軍律にも反した捕虜の殺戮命令は、個人レベルから部隊レベルによるさらなる無差別な民間人への暴虐行為へと発展していったと思われる。それが南京事件の残虐さを印象付ける婦女暴行・強姦・略奪・殺人の④であったと思われる。日本において④に含まれる民間人の虐殺数が20万~30万といわれると違和感をもってしまうが、被害者が①+②+③+④の中国軍人・民間人合わせての総数であるといわれれば受け入れやすいかもしれない。
●次に南京軍事裁判における第10軍・第16師団長 谷寿夫(たに-ひさお)中将に対する1947年3月10日判決を引用しておく。 谷寿夫中将は被害者30万人の首謀者の一人とされたのである。
「第一点について言えば、犯罪行為を共同で実行した者は、共同意志の範囲内で各自が犯罪行為の一部を分担し、互いに他人の行為を利用しもってその犯罪目的を達成しようとしたのであるから、発生したすべての結果に対して共同で責任を負わなければならない 。被告は南京を共同で攻撃した高級将校であった。南京陥落後、中島・牛島・末松などの部隊と合流して各地区に分かれて侵入、大虐殺および強姦略奪、放火などの暴行をおこない、捕らわれた中国の軍人・民間人で殺害された者、30万余りの多きに達した。
当時南京に滞在していた外国人は、国際団体の名義で26年(民国26年・1937年)12月14日から21日まで、すなわち被告の部隊の南京駐留期間に前後12回、日本軍当局と日本大使館にそれぞれ厳重な抗議をおこなった。覚書のなかで日本軍の放火・殺人・強姦・略奪といった暴行、合計113件を付録につけ、日本軍が注意して部下を取り締まり、暴行の拡大を防止するように要請した。しかるに被告等各軍事指導者は、この悲惨な状況を映画フィルムや写真に撮り、戦績の表彰に利用しようとした。共同攻撃した各軍事指導者が契約した意図に基づき、計画的で大規模な虐殺・放火・強姦・略奪をおこなったことは明白である。被告の部隊は10日間だけ南京市の一角で虐殺などの行為を分担しただけだとしても、会戦の指導者と事前に連絡をとりあうという犯意をもち、相互に利用してその報復の目的を達したのである。上述の説明により、発生したすべての結果は、松井・中島・牛島・末松・柳川の各軍事指導者が共同で責任を負うべきものである。犯罪行為調査表に「中島」の字が載せられているとか、被害者が日本軍の部隊番号を指摘できていないなどの言辞を口実として、どうして責任のがれをもくろむことができるであろうか。まして南京市各地区の調査によれば、虐殺・強姦・略奪などの事件はおおかた被告部隊の南京駐留期間内 ( すなわち12月12日から同月21日まで ) に発生しているのであり、被告自身が認めているその担当地域である中華門一帯で放火・殺人・強姦・略奪にあった住民について調査可能な事件はすでに459件に達している」 。
「第二点について」「調査によれば被告所属の参謀長下野一霍・旅団長坂井徳太郎および柳川部隊参謀長田辺盛武・高級参謀藤本鉄熊などはひとしく南京を合同で攻撃した高級将校および参謀であり、計画的に実行された南京大虐殺事件では本来共犯容疑者である。たとえそれら容疑者が法廷で被告のために期待する陳述をおこなったとしても私情からかばったものにほかならず、被告に有利な判決の根拠とするには難しい。いまなお被告(谷)がその容疑者らに法廷で証言するよう要請することに拘泥するのは、それにかこつけて引き延ばしをもくろんだことにほかならない」。
「被告(谷)は作戦期間中凶暴残虐な手段をもって、兵を放任し捕虜および非戦闘員を虐殺し、強姦・略奪・財産破壊などの暴行をおこなったことは、ハーグ陸戦法規および戦時捕虜待遇条約の各規定に違反し、戦争犯罪(B級戦犯)および人道に反する罪(C級戦犯)を構成すべきものである」。 「方法と結果の関係については1回のものとして処断すべきである。また連続してほしいままにおこなった残虐行為は、犯罪意志の概括に基づき連続犯の例によって処罰を決めるべきである」。 「被告と合同攻撃の各軍事指導者は、率いた部隊が首都を陥れたのち、兵がほしいままに残虐行為をおこなうのをともに放任した」。
判決主文、「谷寿夫は作戦期間中、兵と共同してほしいままに捕虜および非戦闘員を虐殺し、強姦、略奪、財産の破壊をおこなったことにより死刑に処す」
『南京事件資料集 2中国関係資料編』
●この時の民間人の虐殺数については、ナチスの南京支部副支部長で、民間人の保護活動に尽力した南京安全区国際委員会委員長であったラーベの「ヒトラーへの上申書」(南京事件・ラーベ報告書)には次のようにある、一部を引用しておこう。
●また同じく南京安全区国際委員会委員であったマギー牧師が密かに撮影した当時のフィルムは、アメリカ人宣教師ジョージ・A・フィッチが上海に持ち出すことに成功し、「LIFE(ライフ)」にも掲載され世界に衝撃を与えた。マギー牧師は東京裁判でも証言し、そのフィルムはユネスコの「世界の記憶」に2015年登録された。日本政府は登録資料の開示と検証を求めた。
●日本のマスコミは、他国からのよい評価であるユネスコの「世界遺産」などは、無批判に尊重して盛り上げているが、同じユネスコの「世界の記憶」は都合が悪いせいか報道することをためらっているようである。
●毎日放送はそのフィルムをもとに1991年10/6「MBSナウスペシャル・フィルムは見ていた-検証南京大虐殺」を放映した。それはYouTubeでみることができるが、一部紹介しておこう。
「(動画)広場に集められ、処刑場所に連行されていく捕虜たちを隠し撮りした一部分」
※mp4動画(ダウンロード)のため再生までに時間がかかります。
(mp4動画、サイズ2.75MB、57秒)