1937年(昭和12年)②12/13~「南京大虐殺」

2023年4月15日アジア・太平洋戦争

1937年(昭和12年)12/13~日本、南京城陥落において「南京大虐殺」を引き起こす。
アメリカをはじめ国際連盟は、日本の中国に対する軍事行動を「侵略」と呼び非難した。また国際連盟は、海軍による南京をはじめとする無差別都市爆撃に対して、その残虐性から日本に対する非難決議も行った。そしてそんななか日本軍は、南京城陥落において「南京大虐殺」まで引き起こすのである。
上写真「南京大虐殺。刑場に運ばれる中国人捕虜」(出典:「世界の歴史15」中央公論1962年刊)

現在の日本政府の「南京事件」に対する公式見解は以下の通りである。7-1

この認識は共有しなければならない。外務省の公式サイトから引用する。
「日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。・・・」

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1937年(昭和12年)11/5杭州湾上陸から南京攻略戦。拡大する日中戦争(第2次上海事変から南京事件へ)7-2

日本軍、上海制圧から南京攻略へ向かう。日本軍は南京城へ向かう周辺地域において、略奪・放火・暴行を起こしていく。日中戦争は陸軍ばかりが暴走しているように思えるが、第2次上海事変は不拡大方針の陸軍に対して海軍が起こしたものであり、なによりも近衛文麿内閣が戦争拡大を望んだのである。

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1937年(昭和12年)12月南京城陥落に至るまで概要 7-3

12月上旬、日本軍は陸からは陸軍が総数20万近い規模で波状進軍し、空からは海軍支那方面艦隊航空部隊が空爆し、長江からは海軍遡江部隊が南京に向かって両岸の要塞・砲台を攻撃しながら進軍をはじめた。南京城包囲殲滅戦が始まったのである。
ここでは「南京事件」笠原十九司著 岩波書店1998年第4刷から、南京城陥落に至るまでのポイントを簡単に書き出してみる。

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★「極東国際軍事裁判所判決」(1946年5月~1948年11月)7-4

●ここでは東京裁判「極東国際軍事裁判」の判決を引用しておく。戦後日本人は初めて「東京裁判」で日本軍のおこした「南京事件」を知ったのである。「戦争法規」すら眼中になかった日本軍の実態が証言されたのである。下に「東京裁判・判決文」から一部を引用してみる。「平頂山事件」「秋田花岡事件」と「南京虐殺」が述べられている。(なるべく旧漢字は新漢字にし、振り仮名と意味も記入した)

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★「パル判決書(意見書)における南京事件」(1946年5月~1948年11月)

●ここでは東京裁判でのパル判決書(意見書)の「南京事件」に関する部分を引用した。パル判事も、日本軍の犯した残虐行為の証拠は『圧倒的である』と述べ、南京事件そのものは否定しなかったのである。
パル判事はこの南京残虐事件発生に対して、「松井大将(中支那方面軍司令官)の刑事上の責任を問うべき不作為があった証拠は無い」として無罪と言っているのである。以下に数カ所引用する。(出典)共同研究「パル判決書(上・下)」東京裁判研究会編 講談社学術文庫2005年第19刷発行。
(注)パル判事・・東京裁判でのインド代表判事。被告全員の無罪(日本無罪論)を判決書(意見書)で主張した。靖国神社には「パール博士顕彰碑」が建てられている。

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★エドガー・スノー著作集「アジアの戦争」7-5

ここではエドガー・スノー著作集「アジアの戦争」筑摩書房1973年刊より、1937年(昭和12年)8月の第2次上海事変後の南京戦のルポタージュである「4・神より偉大な」の章を引用する。
訳者(森谷巌)によるあとがきには、この「アジアの戦争」は1943年(昭和18年)9月に大東亜省総務局総務課より、「亜細亜の烽火」なる邦題で軍部関係者に「極秘」の2文字を表紙に掲げた「大東亜資料第5号」として配られたとある。

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1938年(昭和13年)石川達三「生きてゐる兵隊」掲載の「中央公論」3月号を発売禁止 7-6

●1938年(昭和13年)2/18、内務省警保局図書課は「中央公論」3月号を発売禁止と命令。同誌の特派員として南京攻略戦に従軍した石川達三の「生きてゐる兵隊」の非戦闘員に対する略奪・暴行などの描写が、反戦気運をあおるという理由であった。そして石川は起訴され、禁錮4ヶ月判決を受けた。

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南京事件に対してどのように考えるか。7-7

●「南京事件」はこの事件単体だけで考えるのではなく、その後の「武漢三鎮占領」のときはどうであったか、さらシンガポール陥落の時はどうであったか、その時の軍司令官はどう考えていたのか、陸軍は「南京事件」にどう対応したのか、そういった複眼的視点に立って判断すべきである。

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