1933年(昭和8年)3/27日本、満州国を認めない国際連盟を脱退、「脱退の詔書発布」

アジア・太平洋戦争

日本は大蔵大臣が高橋是清に代わり、財政・金融政策を変え不況を克服していった。
 ここでは最初に経済の数字をあげる。日本は大蔵大臣が井上準之助から高橋是清に代わり、財政・金融政策を変えた。そして世界恐慌のなか日本はいち早く不況を克服したといわれている。この時代を理解するためにも、ある程度経済の意味するところを知っておきたい。
●次に年表では昭和8年の日本国内の政治・経済・事件を書き出した。この期間の特筆すべきことは、中国大陸では日本軍が満州国を足場にして熱河省、河北省へ侵攻したことである。これにより国際連盟総会は日本の満州国を認めず、反発した日本は国際連盟を脱退した。国内では「国体明徴運動」による絶対的天皇制と軍部独裁体制への思想弾圧が進んだ。そして同時に右翼によるテロ未遂事件や陸軍青年将校による政府転覆計画が連続して発覚した。
(上写真)1934年4/1菱刈駐満大使は、皇帝溥儀に信任状を捧呈、儀式後「勤民楼」で記念撮影を行った。前列中央が皇帝溥儀、その左が菱刈駐満大使。(出典「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊)

目次
昭和8年 主要項目
★政府の財政支出の拡大と変化(特に軍事費の増加)による産業構造の変化と新興コンツェルンの出現 ●この時代、日本の産業構造は変化し重化学工業が発展した。その大きな要因は政府による財政支出の拡大であり、なかでも軍事費の拡大であった。また政府や関東軍による満州の資源を利用した大規模な重化学工業の開発があり、朝鮮においても新興コンツェルンを中心に重化学工業の進出が続いた。当然ながら軍事費拡大を求めたのは軍部ではあったが、国家としてもそれを求めたのである。そして新興財閥といわれた「日産コンツェルン」「日窒コンツェルン」「森コンツェルン」「日曹コンツェルン」「理研コンツェルン」が生まれる。
昭和8年(1933年)斎藤実内閣 ●満州では、1/3関東軍が山海関を占領し、熱河作戦を開始した。満州国は熱河省もその領土であると宣言して侵攻したのである。前年の12月、日本の満州国問題を討議する国連の臨時総会が開かれ、日本はリットン報告書を激しく非難し、国内においても反発や国際連盟脱退の動きが強まっていた。

下

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★財政支出の変化、軍事費の増大と「国債の日銀引き受け」。それによる重工業の発展、そして新興コンツエルンの出現。

財政支出の変化、軍事費の増大
政府の一般会計の歳出(昭和1年・1926~昭和20年・1945)

●最初に政府の一般会計の歳出(昭和1年・1926~昭和20年・1945)をみてみよう。軍事費その他の項目の歳出状況がわかる。
●表1・左表(昭和1年~昭和11年)と下の表2は「昭和財政史3巻・歳計」より「資料Ⅱ統計」「4表一般会計歳出 事項別調」より作成したものである。(単位1000円)

●表2(昭和12年~昭和20年)。この2枚の表のポイントは1番上のオレンジ色の「軍事費」である。この軍事費の内訳は、別資料の「省別でみた一般会計(経常部と臨時部)」の陸軍省と海軍省を合計したもので狭義の軍事費とされている。そしてこの表の軍事費には、昭和12年度より設置された特別会計(ここでは「臨時軍事費特別会計」)に繰り入れた額が合算されている、とある。
●この額は別項の「一般会計の軍事費」と「臨時軍事費特別会計」の合計からは2重計上となるので差し引いてある。
●左のグラフ(単位は1000円)は上の表の昭和1年から昭和13年までをグラフ化したもので、歳出全体が増大していることと、一般会計に占める軍事費(赤色)の構成比が伸びていることがわかる。歳出全体では昭和6年が最低であったが、この年は濱口内閣と若槻礼次郎内閣での井上準之助・大蔵大臣の財政政策が終わった年である。そして6年末に登場したのが大蔵大臣・高橋是清である。政策の違いがはっきりと数値に出ている。
●また左のグラフ(単位は1000円)は昭和20年までのものであるが、一般会計における軍事費(赤色)の割合は昭和16年をピークに低下している。しかしこの軍事費の割合の減少と金額の増減は、次項で述べる「臨時軍事費特別会計」をみなければわからない。
●つまり軍事費の大きさは一般会計における軍事費だけではわからないのである。「一般会計における軍事費」と「臨時軍事費特別会計」を足さないと、その大きさはわからない。その大きさは桁違いである。
なお昭和20年の一般会計の軍事費の支出は、陸海軍復員局の610,367(千円)のみである。アジア太平洋全域から日本へ戻ってくる兵士らの復員費用である。
「一般会計の軍事費」と「臨時軍事費特別会計」の合計(狭義の軍事費)

●昭和12年度(日華事変・日中戦争開始)からは、一般会計とは別に特別会計が設置された。(注)一般会計は毎年度決済を行うが、特別会計ここでは「臨時軍事費特別会計」では事変終結までを1会計年度とした。そしてこの臨時軍事費特別会計の決算整理が行われたのは戦後だった。ただし特別会計はこの臨時軍事費特別会計だけではなく、現代と同じように数多くあった。そして明治期からも4つの大きな臨時軍事費特別会計があった。それは「日清戦争」「日露戦争」「欧州戦争・シベリア出兵」そして「日華事変・太平洋戦争」である。

●左の表(2枚に分けた)は、一般会計軍事費と臨時軍事費特別会計の合計(狭義の軍事費)である。
上が昭和1年~昭和11年、下が昭和12年~昭和20年である。出典は 「昭和財政史4巻・臨時軍事費」である。
●特に昭和20年(敗戦の年)の臨時軍事費特別会計支出額が低いのは月数が少ないことと、外貨金庫による肩代わりその他経理上の操作で決算額が減らされた、と財政史にはある。
●そして左グラフが、この「臨時軍事費特別会計」と「一般会計の軍事費」の合計をグラフ化したものである。下部の赤の部分が「一般会計の軍事費」であり、積みあがった「臨時軍事費特別会計」は、これまた桁違いの大きさである。なおグラフの黄色は、マイナス部分で、一般会計から特別会計に繰り入れられた額で2重計上のため引いたものである。
●折れ線グラフは、「臨時軍事費特別会計」と「一般会計歳出総計」の合計に対する、軍事費合計(狭義)の構成比である。70%以上が連続する昭和13年以降は、「戦争に勝った、負けた」の問題では無く、国家が破綻するかしないかの国家存亡の重大危機にあったはずである。
「国債の日銀引受け」による通貨供給

●ではこのような財政支出がどうして可能であったのであろうか。それは「日銀引受け」による新規公債を発行するという方式を、犬養内閣の高橋是清蔵相が案出したことによるのである。前任の井上準之助蔵相による緊縮財政は、さらなる不況の深刻化をもたらし、政府の租税収入の激減をもたらした。そして政権の眼目だった非募債方針は変更されていったのである。
こうして政権がかわり高橋是清蔵相が就任すると、「金解禁以来極度に沈滞した産業界に景気の呼ぶ水として通貨を補充し、一般購買力を増加させて、生産力の活動を促すこと(昭和財政史6巻国債)」を目的として、政府の財源を公債増発に求めたのである。
●そしてその方法を、金融市場での国債売買による公開市場操作ではなく、新規発行の国債を「日銀引受け」による発行としたのである。これは具体的には、

「公債が日銀引受けで発行されると、同時にその額に応じて政府の国庫預金勘定が増額するが、政府の予算執行とともに、日銀を支払人とする小切手振出しによって、この預金は次々と引き出されて民間に撒布されてゆく・・(昭和財政史6巻国債)」

とある。
上図は「昭和財政史6巻・国債」より「第1表国債増減一覧」より年度別の、(年度首現在額)と(発行額+償還額の差引発行額)と(年度末現在額)を抜き出して作図したものである。井上財政当時(昭和5-6年頃)「公債60億円」と言われていた国債総額は、毎年10億円近くを加えて、昭和10年末には98億円となっていき、その後国債の発行は桁違いに増加していくのである。
●この制度の問題は、通貨がそのまま発行されることにあった。もし日銀が引受けた国債の民間への売却がうまくいかなかったり、政府が過度に運用を続ければ、通貨の膨張を生み、悪性インフレに進む危険性があるということである。だから高橋蔵相は時期が来ればただちにこの制度を中止することを念頭に置いていたという。そして高橋蔵相が2.26事件で殺害された理由も、公債漸減政策のなかで軍事費(軍事公債)を削減しようとしたからともいわれる。
●しかしその後跡を継いだ広田弘毅内閣の馬場蔵相は赤字国債を容認し、軍部の要求する巨額な軍事費を認めたのである。

*リンクします「昭和財政史(戦前編)」→財務省・財務総合政策研究所

重工業の発展と新興コンツエルンの出現
「本邦工業生産額」(昭和1年~昭和13年)

●政府の財政支出の拡大(特に軍事費の増加)により、日本の産業構造は変化し重化学工業が発展する。そして新興財閥といわれた「日産コンツェルン」「日窒コンツェルン」「森コンツェルン」「日曹コンツェルン」「理研コンツェルン」が生まれる。
●左の表は「本邦工業生産額」(昭和1年~昭和13年までのもの・単位100万円)で、出典は「ダイヤモンド経済統計年鑑」 昭15年版(第6回)ダイヤモンド社 編 昭和11-15年刊である。そしてそれをグラフにしたのが下の図である。

●特筆すべきことは、昭和7年(1932)から始まる高橋是清大蔵大臣による財政支出の大幅拡大による重工業の発達である。折れ線グラフは、重工業(金属工業+機械器具工業+化学工業)の工業生産額全体に占める割合を示したもので、昭和7年に35%だったのが昭和13年には59.5%に拡大している。日本はそれまでの紡織工業を中心とする軽工業から産業構造を変化させたのである。

*リンクします「ダイヤモンド経済統計年鑑」「本邦工業生産額」昭15年版(第6回) ダイヤモンド社 編 昭和11-15年刊→国立国会図書館デジタルコレクション

日産コンツェルン

●日産コンツェルンは、鮎川義介が義弟の久原房之介が設立した久原鉱業を任され再建し、重工業を中心に企業の吸収合併により急成長したコンツェルンである。久原鉱業は第1次世界大戦中の銅景気にのって、日立製作所、日本汽船、合同肥料などを傘下に収めたが、大戦後経営不振に陥っていた。そして昭和3年12月に鮎川は久原鉱業を日本産業と改称し持株会社として発足させたが低迷を続けていた。しかし昭和6年12月の金輸出再禁止によって、日本産業は金の価格が急騰したことにより業績が一挙に回復した。日産は「再禁成金」と呼ばれたという。下は昭和12年現在の日産コンツェルン傘下の企業の一覧である。
●昭和9年6月1日、「自動車製造」が改称して日産自動車が生まれ「ダットサン」など国産自動車の大量生産に乗り出した。「自動車製造」は昭和8年12月、日本産業(日産)と戸畑鋳物(鮎川が創設したもの)の共同出資で設立された会社である。
(注)なお、豊田自動織機製作所内に自動車部が設置され、社業として国産自動車の研究・開発を行うことを開始したのは昭和8年9/1のことである。(現在のトヨタ自動車創業のはじまりである)
また源流でもある久原鉱業の鉱山部門は日産の名を継がず、日本鉱業株式会社となったが、後に新日鉱ホールディングス、現在のJXTGホールディングスとなっている。ガソリンスタンドの看板でいえば今のところ「ENEOS」グループとみればよいだろう。
(写真)昭和10年4/12、日産自動車横浜工場で、「ダットサンセダン」第1号車がコンベアラインから離れたところ。これは、大量生産方式による、シャーシからボディまでの一貫生産の開始だった。このため、アメリカから多くの技術者が招かれた。左から4人目が、鮎川義介。-写真・日産自動車。一覧表(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

●日産コンツエルンは昭和12年(1937年)には77社(上図)を傘下におさめ、三井、三菱に次ぐ財閥に発展した。そして昭和12年12月、鮎川は日産を「満州重工業開発」に改組・改称し、本社を新京(長春)に移した。しかし日産は、日中戦争を契機とした旧財閥の重化学工業への進出などにより衰退していく。


日窒(にっちつ)コンツェルン

●日本窒素肥料の創業者野口遵(したがう)が電解法によるアンモニア合成工場を世界に先駆け完成し、化学肥料(硫安)製造を軸に電力・化学部門に進出し、朝鮮にも進出して巨大化したコンツェルンである。特徴は、 電気化学を利用し、ダム建設による水力発電を行い、そしてその大量の電力を利用して電気化学工場で肥料、火薬を製造したことである。北朝鮮の鴨緑江にある電源開発のための水豊ダム建設は有名である。この企業体はチッソ(現JNC株式会社の持ち株会社)であり、あの水俣病でも有名である。戦後財閥解体で第二会社新日本窒素肥料(チッソ)、旭化成工業、積水化学工業などに解体された。


森コンツェルン

●森矗昶(もりのぶてる)が創業した日本電気工業と、森が経営に関わった昭和肥料が合併して設立した昭和電工を中心に、化学、アルミニウム製造などに事業展開したのが森コンツェルンである。昭和9年1月に日本沃度(ヨード)株式会社社長の森矗昶は、長野県大町工場にて初の国産原料と国産技術によるアルミ生産に成功した。この日本沃度は昭和9年3月に日本電気工業と改称し生産施設を強化し、純度99%の製品を生産するようになった。そして昭和10年に陸軍航空本部が製品に対して航空機用として実用に供し得ると認めたのである。


日曹コンツェルン

●中野友礼(とものり)が自らの技術をもとに創立した日本曹達(ソーダ)を中心に企業集団を形成したコンツェルンである。


理研コンツェルン

●この理研コンツェルンは異色の存在で、1917年渋沢栄一を設立者総代として財団法人として創設された理化学研究所を中心に形成されたコンツェルンである。もともと科学技術に関する試験研究を総合的に行ない、その成果の応用・普及を目的とする財団法人であったが、大河内正敏が所長になると(大正10年《1921年》就任時の肩書は、子爵・貴族院議員・工学博士・東大工学部教授)、経営危機に陥っていた理研を国際研究機関にまで発展させ、かつ昭和2年(1927年)には研究成果の応用・工業化を進めるため、理化学興業を創立したのである。そして昭和12年(1937年)には、傘下企業33社を数え、製品もビタミンA(この発明により理研は経営危機を脱した)、アドゾール(吸湿剤)、マグネシウム、ピストリングなど多岐にわたった。また各種発明特許権を保有し、科学主義、高賃金・低コスト、良品廉価を経営のスローガンとした。
●この理化学研究所の歴史の中で、特に有名なことは、昭和12年(1937年)4月の仁科芳雄による物理学最先端装置サイクロトロンの完成である。最初に完成したのは大阪帝大理学部であったが、その研究者も理研から招かれた菊池正士の研究によるものだった。そして1週間遅れで理研の仁科研究室で、サイクロトロンが完成し、日本初の実験が行われた。このサイクロトロンは荷電粒子加速器のひとつであり、原子核の構造・性質を研究する装置であった。そしてウラン濃縮と核分裂反応の研究も進めていたが、本格的な実験に入る前に敗戦となり、占領軍によって理研の2基のほか日本の保有する全てのサイクロトロンが破壊された。
(写真)昭和12年4月、完成したサイクロトロンの前で記念撮影する理化学研究所の研究員たち。-写真・大河内元冬(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

★国内政治と社会年表、1933年(昭和8年)。『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。新聞はその時代をあらわしているからである

1933年(昭和8年)満州国と国際連盟脱退
(昭和8年のポイント)
●2/24国際連盟総会は、「リットン報告書採択、満州国不承認を内容とする」19人委員会の報告書を、42(賛成)対1(反対・日本)棄権1(シャム)で可決・採択した。日本の松岡洋右(ようすけ)代表は短く総会の決議は遺憾であると反対を表明し、「さようなら」と日本語で挨拶し議場を去った。左の写真は、4/27横浜港に帰り特別列車で東京駅に着き、熱狂的な群衆の歓迎を受ける松岡代表である(中央)。(写真)「・・松岡は熱狂的な群衆に迎えられ、駅のホームは「全権歓迎」と書かれた白布や日章旗を持った歓迎の人々で埋まった」(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋
●手元に、昭和8年3月の小学校(6年生)卒業記念綴方文集がある。ここから「国際連盟を思う」と題された文章を引用してみる。当時の普通の小学生が思っていたことがわかる。これは大正9年生まれの私の父親世代のものである。世論は国際連盟脱退を支持していたのだろう。

「国際連盟を思う」
国際連盟とは、世界大戦後、平和のためにつくられたのではないのか。それで東洋平和をかく乱させようとするのは何故か、僕は思う、連盟のリットン卿の報告書を見よ、皆な支那にかたを以ってゐるのだ。そして日本の力をあはよくば弱めようとするのだ。そして日本の力が弱くなれば全亜細亜の有色人種は、又もや昔のやうに欧米諸国におさえられるのだ。それをたすけるのは、すなわち日本の使命ではないか。その発端として満州国は成立し、日本はそれを承認したのだ。が、国際連盟は、いまだそれを承認せず、それを承認するか否かは、連盟の注目となってゐるのだ。もしそれを承認すれば日本満州国はますます仲よくなります、ますます日本は強くなるのだ。連盟は日本の強くなるのを恐れそれを承認しえず、それで日本は、それを説明すべく、松岡全権をはじめ種大使をジュネーブにおくったのだ。が、連盟はなを、それをきき入れず、不利の方に、みちびこうとするのだ。連盟は不義なり、日本はただちに連盟を脱退せよ。 をはり

満州国のイラスト
mansyuu

★(図はマウスホールで拡大・縮小・移動ができる)
●イラストは、次段の拓殖大学のサイトから、満州帝国地図のうち「満州帝国新行政区画図」(康徳元年《1934年》当時の満州国の省や旗の区分が記載されている地図)をイラストにしたもので、都市名、省名、鉄道などを強調して大きく記入して作成してみた。


●遼東半島にあったのが、日本の租借地だった「関東州」である。関東州は満州帝国の一部ではない。「関東」という名も日本の地名ではなく、その西にある「山海関」の東にあることに由来する。「山海関」より西は「関内」といった。万里の長城の内側である。
●吉林の南に第2松花江とある先には、松花江の源流としてあの「白頭山」がある。白頭山は鴨緑江と豆満江の源流でもあり、北朝鮮の革命の聖地である。
●モンゴル(人民共和国)と満州国との国境付近に流れているのが「ハルハ川(河)」である。この付近で起こったのが「ノモンハン事件=ハルハ川戦争」であり、ソヴィエト・モンゴル軍と関東軍・満州国軍との国境紛争(規模からすれば戦争)である。ソヴィエト共産党の指導者(独裁者)はスターリンであり、モンゴルに対するスターリンの共産主義確立のための粛清は、政府指導者から宗教指導者である僧侶にまで徹底して行われたといわれる。「ノモンハン事件」は単に国境紛争ではなく、その後の日本の軍事戦略に大きな影響を与えた。


1933年(昭和8年)1/1~
1933年
昭和8年
1月1日~5月
関東軍、熱河作戦を開始する




●1/1、日本軍は中国山海関で守備隊による謀略事件を起こし、1/2に関東軍が出動し海軍の支援を受け、1/3山海関を占領した。これは関東軍による熱河省侵攻の準備作戦だった。この時点では政府や陸軍中央は熱河省への侵攻に対しては消極的だった。国際連盟は前年12月21日に臨時総会を開き、リットン報告書を議題としたが結論は出ず、日本の満州問題を特別委員会に付託していた状況にあったためである。
(新聞)1/3東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●しかし関東軍司令官武藤信義は、1/28熱河作戦の準備命令を下し、兵力10万人を整えた。
●日本政府は、もし国際連盟総会が満州国不承認を内容とするリットン報告書を採択した場合、連盟を脱退することを2/20の閣議で決定していた。そして2/24の国際連盟総会は特別委員会の報告書を採択したのである。
●2/17各部隊に進軍命令が下り、2/23関東軍は熱河作戦を開始し、3方面から「熱河省」に侵攻を開始した。満州国樹立の際、関東軍は「奉天省・吉林省・黒竜江省」の東3省だけではなく、「熱河省」も満州帝国の領土に含むと宣言し予定通り侵攻を開始したのである。熱河省は、満州国の安定支配に欠かせない地域であり、特産のアヘンも財源上魅力的であった。
●こうして関東軍は、3/2熱河省北部の赤峰を占領し、3/4南部の省都承徳を、戦車隊、自動車隊からなる機甲部隊により占領した。続いて3/10前後に万里の長城の重要関門である古北口、喜峰口、界嶺口等に達し、熱河省を制圧した。兵士達の軍装は、2月下旬の気温が氷点下25度に達する極寒のため、防寒頭巾・外套・フェルト製長靴で身を固めた。この戦闘の中で赤峰に侵攻した第6師団では521人の凍傷患者を出した。
●これに対して蒋介石の国民政府軍は総勢20数万の大軍を投入して反撃に転じた。このため日本軍は3月中旬頃より苦戦に陥り、当初予定した万里の長城までの侵攻を変更し、戦局打開を口実に万里の長城を越えて関内・河北省へ侵攻した。(4/10)
●4/18天皇は関東軍に対して関内からの事実上の撤退を命じたため、関東軍は万里の長城まで撤退した。しかし5月になると再度日本軍は関内へ侵攻を開始し、5月末には中国軍を追って北平(ペーピン=北京)まで30km~50km地点まで迫った。
●5/31日本軍の猛攻に中国側は停戦を余儀なくされ「塘沽(タンクー)停戦協定」を結んで停戦した。塘沽は天津の東。


●上のイラストは、下にリンクした「満州国関連地図」の「經濟上より觀たる滿蒙の道路」という、昭和4(1929)年に南満洲鉄道株式会社より発行された図書の付録の一部を切り取って、関東軍の熱河作戦の行動を簡略してイラストにしたイメージである。茶色は万里の長城で、その上の緑のラインは熱河省の境界を示している。空色の河は「灤河(らんが)」で、4/18国際的に孤立することを憂えた天皇が、関東軍真崎甚三郎参謀次長に「関東軍はまだ灤河の線より撤退せざるや」と詰問して事実上の撤退を命じた河である。
●上写真は3/9長山峪の攻略に続いて万里の長城にせまる、第八師団歩兵第十六旅団の第三十二連隊。同連隊は第十七連隊とともに、翌10日に万里の長城への攻撃を開始し、12日には野砲兵第八連隊も加わり古北口を占領した。-写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●(下の新聞)6/1東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

*リンクします「高精細な満州国の関連地図」拓殖大学→
拓殖大学「旧外地関係資料アーカイブ」
1933年
昭和8年
1月
●1/15アメリカ、満州国不承認を列国に通告する。
●1/23国際連盟19カ国委員会、対日勧告案起草のため委員会(英仏など9カ国)を設置。
●1/26「連盟脱退大アジア団結」を主張する近衛文麿ら、東京会館で大アジア協会第1回創立委員会を開催する。
1933年
昭和8年
1月30日~3月24日
ナチス党ヒトラー、ドイツ首相に就任する

●ヒンデンブルク大統領(86)は、1/30シュライヒャーの辞任(2日前)で空席になっていた首相に、ナチス党党首アドルフ・ヒトラー(44)を任命した。副首相には元首相のパーペン(54)が就任した。この内閣はナチス党(第1党)と国家人民党の連立内閣で、シュライヒャー首相を辞任に追い込んだのも、ヒトラーとパーペンによる連立政権樹立のための合意によるものだった。
●ナチス党は第1党であったが、憲法改正に必要な3分の2以上の議席を確保するため、議会の解散と3/5の総選挙実施を閣議決定した。そして投票日6日前の2/27、ドイツ国会議事堂炎上事件(ナチスの陰謀か)をきっかけに共産党弾圧を開始し、2/28には「民族と国家の防衛のための緊急令」を公布し、共産党を含めあらゆる政治的反対者の追放を可能とした。
●そしてナチス党は、3/5総選挙の結果288議席を確保し、3/23全権委任法を441対94で可決した。弾圧にもかかわらず総選挙で81議席を得た共産党は3/9非合法政党とされ、全権委任法に反対した社会民主党は6/21党活動を禁止された。3/24全権委任法の公布・施行により、ヒトラーの独裁政権は確立し、14年間続いたワイマール共和国は終わりを告げた。
(新聞)3/25東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1933年
昭和8年
2月04日
長野県で「教員赤化事件」「2.4事件」起こる

●2/4早朝、長野県特高課は約1000人の警官を動員し、共産党員とそのシンパ層への一斉検挙を開始した。この検挙は4月上旬まで続き、600余人が逮捕されたが、そのうち教員が60余校138人にのぼった。
●この事件の背景にあったのは、昭和初頭からの農村の窮乏があった。小学校での欠食児童の問題や、教員の減俸問題により、伝統的に自由主義教育の土壌をもっていた長野県の教師達は、恐慌の原因解明と解決策を求めて、社会主義・共産主義に接近していったのである。この中心となったのが、大量の検挙者を出した諏訪郡の永明小学校で、プロレタリア教育運動がここから広がった。
(新聞)2/22東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1933年
昭和8年
2月20日
プロレタリア作家小林多喜二、築地署で虐殺される。

●この事件については下記に朝日新聞の記事と講談社の記事を順に引用してみる。どちらが真実だったかわかるであろう。
●東京朝日新聞昭和8年(1933年)2月22日 紙面より。(出典:「朝日新聞に見る日本の歩み」-暗い谷間の恐慌・侵略Ⅱ-朝日新聞社1975年刊)

『小林多喜二氏 築地署で急逝 「不在地主」「蟹工船」等の階級闘争的小説を発表して一躍プロ文壇に打って出た作家同盟の闘将小林多喜二氏(31)は二十日正午頃党員一名と共に赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中を築地署小林特高課員に追跡され約20分にわたって街から街へ白昼逃げ回ったが遂に溜池(ためいけ)の電車通りで格闘の上取押へられそのまま築地署に連行された。最初は小林多喜二といふ事を頑強に否認してゐたが同署水谷特高主任が取調べの結果自白、更に取調続行中午後5時頃突如さう白となり苦悶し始めたので同署裏にある築地病院の前田博士を招じ手當(てあて)を加へた上午後7時頃同病院に収容したが既に心臓まひで絶命してゐた、21日午後東京地方検事局から吉井検事が築地署に出張検視する一方取調べを進めてゐるが、捕縛された當時大格闘を演じ殴り合った点が彼の死期を早めたものと見られている。  (ー後略ー多喜二氏の略歴 )』

●「2月20日 小林多喜二、拷問で殺される」。(出典:「昭和 2万日の全記録 第3巻 非常時日本 昭和7年-9年」講談社1989年刊 )

『小林多喜二、築地署で虐殺される。(常態化する特高の拷問)
 昭和8年二月二〇日正午ごろ、東京赤坂の路上で、作家の小林多喜二が、築地署の特高課員によって逮捕された。築地署に連行された小林は、三時間に及ぶ拷問を受け、この日の午後七時四五分に死亡した。三一歳だった。二十一日夜、小林の遺体は、千田是也、鹿地亘、壺井栄、宮本百合子らの待つ杉並区の自宅へ戻った。拷問の跡は歴然としていた。 「内出血で紫褐色に膨れあがった両方の股、これも靴で蹴上げられた痣のある睾丸、焼火箸を突き刺したらしい二の腕とこめかみの赤茶けた凹み。― 警察は心臓麻痺だといいはり、あらゆる手をつかって屍体解剖を妨害した」(千田是也『もうひとつの新劇史―千田是也自伝』)

●「治安維持法」は昭和3年(1928年)6月の改正で、最高刑を死刑に定めたが、死刑が適用された例はなかった。しかし昭和7年10月逮捕された共産党中央委員の岩田義道も、小林と同様に逮捕後拷問によって死亡した。裁判による刑の執行ではなく、警察署内の取り調べの拷問による「死刑」である。拷問によって殺された人は100人を越えると言われている。

1933年
昭和8年
2月20日
(政府、連盟脱退を閣議決定する)
●閣議で、国際連盟総会が19カ国委員会の対日勧告案を採択した場合、連盟を脱退することを決定した。
(新聞)2/21東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1933年
昭和8年
2月24日
国際連盟総会、満州国不承認などの対日勧告案を採択する

●総会は42(賛成)対1(反対・日本)棄権1(シャム)で可決・採択した。日本の松岡洋右(ようすけ)代表は短く総会の決議は遺憾であると反対を表明し退席した。
(新聞)2/25東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


*リンクします「国際連盟脱退へ」NHKアーカイブス
1933年
昭和8年
3月3日
午前2時30分ごろ
三陸地方にM8.3の地震発生・大津波襲来

●宮城県金華山沖約250kmの海底でM8.3の地震が発生し、約30分後に大津波が三陸海岸の町や村を襲った。津波は、幅120km、長さ300kmにわたる巨大なもので、波の高さは岩手県陵里湾で23mを記録し、くりかえし押し寄せた。津波の被害は、岩手県が最も大きく、青森県、宮城県、福島県、北海道などを合わせると、死者・行方不明者3064人、流出・破損船舶8078隻を数えた。
(3/4新聞と3/4の第2号外)2/21東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
写真

1933年
昭和8年
3月4日
(フランクリン・ルーズベルト、アメリカ第32代大統領に就任する。)
●3/5夜、ルーズベルト大統領はステートメントを発表した。それは3/9の臨時議会招集まで、金融恐慌の非常対策として、4日間の全銀行の休業、休業期間中の金輸出絶対禁止などであった。
(新聞)3/7東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1933年
昭和8年
(軽演劇など)
●4/1東京浅草で古川ロッパ、徳川夢声を中心とした「笑いの王国」を旗揚げした。前年11月には浅草の公園劇場では松竹爆笑隊が旗揚げしていた。
●軽演劇では昭和8年~9年にかけて劇団「ムーラン・ルージュ」が興隆期を迎えた。前年12月の心中事件が世間の注目をあび、ムーラン・ルージュは有名になった。
●サーカスでは、3/22ドイツのハーゲンベック・大サーカス団(団員150人)が182頭の動物(ライオン、トラ、象、北極熊、あざらし、カンガルー、かばなどの他、珍しいラマ、双角さい、キリン、バクなどもいた。)を引き連れ来日し、その動物の演技と規模の大きさで観客を圧倒した。またハーゲンベック・サーカス団は動物商としても知られており、今回の来日では上野動物園が2頭のキリンを購入した(8月に到着)。この動物サーカスの成功をうけ、日本の曲馬団、曲芸団はサーカスと名乗るようになった。
(写真)6/4名古屋の広小路通りを行進する動物たち-写真カール・ハーゲンベック動物園(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●下で「サーカスの唄」松平晃(西條八十作詞・古賀政男作曲)をユーチューブから紹介する。この歌はサーカス団の来日前からヒットしていたもので、ハーゲンベック大サーカスの芝浦での興行では、ラジオで実況中継され、淡谷のり子が「サーカスの唄」を歌った。ちなみに冒頭の歌詞で「・・つばくら・ろ」とあるのは「ツバメ」のことだそうです。

*リンクします「サーカスの唄」
動画・出典:youtube(akiraplastic5氏)
1933年
昭和8年
3月27日
日本、正式に国際連盟脱退を通告、詔書も発布される

●ここでは新聞と下段で「国際連盟脱退に関する詔書」を、「時局関係十大御詔勅謹解」 御詔勅衍義謹纂会 纂 明治天皇聖徳奉讃会支部 昭和14刊より引用してみた。大変難しいが、語句の読みと意味を()内に示しておいたので、大意はつかめると思う。
(新聞)3/28東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


 今上天皇陛下 国際聯盟脱退ニ関スル詔書             昭和八年三月二十七日
(ちん)(おも)フニ、曩(さき=以前)ニ世界ノ平和克復(こくふく)シテ、國際聯盟ノ成立スルヤ、皇考(=大正天皇)之ヲ懌(よろこ)ヒテ、帝國ノ参加ヲ命シタマヒ、朕亦遺緒(いしょ=先人の遺しておいた事業)ヲ継承シテ苟(いやしく)モ懈(おこた)ラス。前後十有三年、其ノ協力ニ終始セリ。
今次満洲國ノ新興二當リ、帝國ハ其ノ独立ヲ尊重し、健全ナル発達ヲ促スヲ以テ、東亜ノ禍根ヲ除キ、世界ノ平和ヲ保ツノ基(もとい)ナリト為ス。然ルニ不幸ニシテ、聯盟ノ所見之卜背馳(はいち=反対の方向に向かう)スルモノアリ。朕乃(すなわ)チ政府ヲシテ慎重審議、遂二聯盟ヲ離脱スルノ措置ヲ採ラシムルニ至レリ。

下

*リンクします 「国際連盟脱退に関する詔書」→国立国会図書館デジタルコレクション
1933年
昭和8年
3月29日
米穀統制法公布(11/1施行)

●この日、「農村負債整理組合法」(8/1施行)、農業動産信用法(12/1施行)が公布され、「米穀法」が廃止され「米穀統制法」(11/1施行)が公布された。また「資本逃避防止法」が廃止され「外国為替管理法」が公布(5/1施行)された。
●この「米穀統制法」は、米価の下落を防止し安定化することを目的として施行されたものである。旧来の米穀法(大正10年制定)は、その方法を米穀の需要供給を調節(買入、売渡、交換・加工・貯蔵)することにより米の価格を調整しようとしたものであった。つまり供給が多ければ米価が下落し、農家が採算を取れなくなるので、政府が買入を行い供給量を減らし米の価格を上げようとするものである。逆に米価が騰貴して消費者に負担が大きくなる時は、政府が所有米を売却して供給量を増やし米の価格を下げようというものであった。
●これに対して新しい「米穀統制法」は、目的は同じだがその方法を変えたのである。それは価格公定制度(最低価格と最高価格の公定)である。旧「米穀法」では米価の基準価格を定め、その基準価格に対応して市場調節を行ったが、「米穀統制法」では年度初め(12月)に予め最低価格と最高価格を公定して、数量に関わらず申し込みがあれば最低価格で政府が無制限に買い入れ、また最高価格で売渡を行わなければならないというものであった。
●問題点は下記のようであった。

①昭和8年は内地米が大豊作になり、米価下落が予想され公定最低価格での買入申し込みが殺到したこと。(政府の買上予算の破綻)
②朝鮮米(内地向けに生産され品質が良く価格が安い)と台湾米が「米穀統制法」の対象外であり流入を制限できなかったために、米価下落の圧力となっていたこと。
③買入と売渡申し込みに数量規定があり、貧農では不可能であり共同申し込みも時間がかかり、また換金までに1カ月以上かかったことである。(同一銘柄100俵以上で同一等級と同一粒種で20俵以上が条件など)
④利ざやに貪欲な米穀商人達は、借金や肥料代のために換金を急ぐ農民に対して、公定価格より安く買いたたき、それを政府に売って多大な利益を上げたこと。(農民救済処置とはならなかった)
⑤厖大な政府買上が発生したことで米の供給量が減少し、米価上昇による売り惜しみも発生した。また「豊作飢饉」による米価下落を恐れて農民の米の売り急ぎもあって、自家用の飯米までも売ってしまう「飯米飢饉」も起きた。などである。

次段では農業年鑑から、この頃の「米需給累年比較」などの数値をあげてみる。農業の基本語句(単位)なども知っておきたい。

内地の米需給累年比較(単位千石)と米価

●左の表は、「内地の米需給累年比較(単位千石)と米価(深川正米標準相場・玄米中米・1石単位 円・米穀年度)」である。
出典は「農業年鑑. 昭和16年」「国勢グラフ」編輯部 編 国勢社 昭和12-15刊によった。
語句の意味は次のようである。
●米穀年度=前年11月~当年10月までの1年間。米穀年度の呼び方は、その年度が終る月の属する暦年をとる。たとえば昭和9年10月31日に終る年度は昭和9米穀年度と呼ぶ。かっては米の収穫は11月から始められていた。11/1が年度初めである。
●それぞれの単位は、1石(コク)=10斗(ト)=100升(ショウ)=1000合(ゴウ)、1升=1.8039L(リットル)、1斤(キン)=600gなど。
また1俵 = 4斗が事実上の統一基準になった。1斗はメートル法換算で18.039リットルと法定されていたので、明治時代の一俵は72.156リットルである。米1斗の質量は約15 kgなので、1俵は約60 kgとなる。
当時の1人当たりの年間消費量は、1人の食事1回1合で1日3合、1年間で概ね1000合とあるが、1石1斗=1.1石として計算年の4月末時点の人口で乗じた(かけた)ものともある。
●消費総額は供給総額より輸移出額及び翌年度への繰越額を減じて算出されているとあるが、消費量は計算して出しているようでもある。



●左の上のグラフは、上段の「米需給累年比較」をグラフ化したものだが、ポイントは「前年内地産額」である。米穀年度は前年11月から始まるので、内地産額は前年の数値を表していると考えるべきである。
●するとこのグラフの昭和9年米穀年度の大豊作は昭和8年にあたり、米穀統制法が施行されたのはその年の11月であるわけである。下のグラフは、米の「翌年度への繰越量」を示したものでその年の過剰米の大きさを示すものでもある。米穀9年度が大豊作で突出していることがわかる。
●このため米価の下落は確実で、昭和8年12月に最低公定価格23円30銭・最高価格30円50銭が発表されると、農民(米穀商人や地主たちも)は「政府買取」に殺到したのである。このため政府保有米(買取米)は昭和9年2月には1400万石に達し、貯蔵量も昭和9年4月には1000万石に達した。こうしたなか米価は上昇を始めた。しかし、数量条件に満たない米を持ち、借金や肥料代の支払いのため換金を急ぐ農民たちは、米穀商に公定価格より安い価格で米を買いたたかれていくのである。そして米穀商はその買い集めた米を政府に売り、差額で多大な利益を上げた。
●グラフには米価の動きも示してあるが、もし政府が対策を怠れば米価の下落は必至であったはずである。だが米価は上昇しているので、政府の「米穀統制法」による内地米買上げ政策は効果を上げたと思われる。しかし一方、米価の上昇による売り惜しみや、政府保有米の大量買上げによる米不足は、農家の自家用飯米まで不足する事態となり「豊作飢饉」「飯米飢饉」を深刻化させたのであった。
●そして昭和9年秋、今度は大凶作となったのである。

●下で「農業年鑑. 昭和16年」コマ番号24、内地の米需給累年比較(単位千石)「国勢グラフ」編輯部 編 国勢社 昭和12-15刊にリンクした。

*リンクします 「農業年鑑. 昭和16年」→国立国会図書館デジタルコレクション

●ここで「農村指導者は語る」産業組合新聞社 編 産業組合新聞社昭和12年刊 コマ番号95-98を紹介する。新聞記者のインタビューに答える当時「米の神様」の異名をとった農林省米穀局長 荷見安(はすみ-やすし)である。

*リンクします「米穀統制諸法律と米価の調節」→国立国会図書館デジタルコレクション
1933年
昭和8年
4月1日
●小学校1年生用の国語教科書「サクラ読本」=『小学国語読本』卷1、の使用が始まる。初の色刷り教科書で、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まる。また「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」や「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」などもあった。この読本の「ヒノマルノハタ」の解説教授書には主眼として次のようにある。

日の丸の旗は日本の国旗だ。日の丸を賛美する心は、日本を賛美する心だ。
君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりてこけのむすまで
空にひらめく日の丸に対する情景を味わせること。その感激を深めること、そして国旗に対する愛敬の念を涵養する(=徐々に養い育てること)することは、愛国の精神を鼓吹する所以である。

とあります。

1933年
昭和8年
4月8日
●ドイツ政府、「新文官服務条例」を発布する。これはユダヤ人官吏を違法とするもので、官界から一切のユダヤ人を放逐した。また昭和9年6月には、日独混血の学者夫妻が「純ドイツ人種にあらざる者の官公職就任制限」により職を追われ日本に逃れた。
1933年
昭和8年
4月13日
●東京九段の靖国神社で石の大鳥居(高さ約11m)とこま犬(高さ約2.3m)が完成。献納式が行われた。奉納したのは、製糸業で知られた「片倉合名」長野県諏訪の片倉製糸紡績の片倉一族であった。
(写真)靖国神社で組み立て作業が進められる大鳥居-写真共同通信社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1933年
昭和8年
4月19日
(アメリカ、金本位制から離脱する。)
●アメリカ大統領ルーズベルト、金輸出禁止・ドル相場放任を声明。アメリカは金本位制から離脱した。
1933年
昭和8年
4月22日
滝川事件起こる

●文部次官栗屋謙、京大法学部刑法講座主任教授・滝川幸辰(ゆきとき)の辞職を小西重直京大総長に要求する。
この事件は、文部次官栗屋が京都帝国大学総長小西を文部大臣官邸に呼び出し、法学部教授滝川に「赤化的傾向」があるとして、同教授の免職か休職を要求したことから始まった。
●ことの発端は、前年(昭和7年)に滝川教授が中央大学で講演(トルストイの「復活」と刑罰思想)を行った際、「犯人に対して報復的態度で臨むのではなく犯罪の原因を検討すべき」というようなことを述べたことが、司法当局によって現刑法を否定する左翼的思想と見なされたことが始まりだった。そして7年の11月には「司法官赤化事件」で共産党シンパの判事らが逮捕されると、慶大の蓑田胸喜(みのだむねき)らが「赤化の温床は帝大の赤化教授にあり」として攻撃を始めたのである。
●この文部省による教授処分要請は、「学問の自由」「大学自治」に対する大きな問題となり、京大法学部の反発は全教授の辞任にまで発展した。そして学内でも法学部の学生を中心に経済学部、文学部の学生も立ち上がり、処分反対、教授会支持へと運動が広がり、東大、東北大、九大へと拡大していった。(5/26滝川教授の休職処分発令)
●しかし6月末に小西京大総長が辞任し、新しい総長が就任すると事態は急転した。新総長は、7月総長あずかりとなっていた教授たちの辞表を文部省に提出したのである。これにより文部省は6人の教授の依頼免官を発令し、残りの教授の辞職は新総長の説得により辞職を撤回させるという分断策をとったのである。そして中心的な学生も逮捕され、運動は押さえ込まれていった。
●思想弾圧は「自由主義は共産主義の温床」という論理によって、自由主義にも及んだのであった。
(新聞)5/27東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1933年
昭和8年
4月28日
(陸軍の少年航空兵制度始まる。)
●これは陸軍が航空兵力拡充のために創設した制度により編制され、海軍の予科練に相当した。15歳から19歳の少年を対象にし(二期からは14歳から16歳)所沢飛行学校で3年間の軍事教育がなされた。
1933年
昭和8年
5月3日
(日本で2番目の地下鉄《御堂筋線》開通)
●大阪市営高速鉄道、梅田-心斎橋間で開通した(5/20日開業)。写真は4/19地下鉄車両の地下入れが行われた時のもので、2台のトラクターと牛にひかれて大阪駅から南北筋に運ばれ、御堂筋前につくられた開口部から吊り降ろされた。
写真は新町橋を通過中の車両。-写真毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1933年
昭和8年
5月7日
(関東軍、関内作戦を開始する。)
●関東軍は一度長城線まで撤退したが、再び長城線を越えて、撫寧・水平など灤東一帯へ向けて侵攻を開始した。
1933年
昭和8年
5月10日
(ナチス焚書)
●ナチス学生団、非ドイツ的著作や性書などをベルリン、フランクフルトの広場で焼く。
1933年
昭和8年
5月18日
(3大製紙の合同による大製紙トラスト成立)
●王子製紙が富士製紙・樺太工業を合併し大製紙トラストが成立した。
1933年
昭和8年
5月18日
(アメリカ、ニューディール政策のひとつである「テネシー渓谷開発公社法(TVA)」成立。)
●アメリカ大統領ルーズベルトは、大統領就任後100日間で、民間資源保存団の成立、農民救済、テネシー渓谷開発公社の設立、全国産業復興法、住宅所有者再融資法、連邦緊急救済法、通貨インフレの権限付与法などニューディールを特徴づける重要法案をつぎつぎに成立させた。資本家も労働者も農民も拍手をもって歓迎したのである。
1933年
昭和8年
5月23日
(娼妓の廓外外出が自由となる)
●内務省、娼妓取締規則改正公布(6/12施行)。所轄警察署への届け出不要で外出が自由となる。
1933年
昭和8年
5月31日
塘沽(タンクー)停戦協定成立

●関東軍代表岡村寧次少将と中国軍代表熊斌が、河北省塘沽で停戦協定に調印する。この協定の重要な点は、中国軍を、河北省北東部の万里の長城と北京周辺の間にある地域より撤退させたことである。日本側はこれを非武装地帯と呼んだが、これは満州から華北への侵攻拡大を目的とするものだった。

1933年
昭和8年
6月3日
(高松地裁差別判決事件おこる)
●この事件は、高松地裁が高松市近郊の被差別部落に住む青年兄弟に、誘拐罪で懲役1年と懲役10カ月の判決を言い渡したことから始まった。2人は、岡山県へ行商に行った帰りに、船中で17歳の女性と知り合い、弟が同居を始めた。ところが、女性の父親が「娘が誘拐され」と警察に訴え、裁判になった事件である。検事は論告のなかで「特殊部落民でありながら自己の身分をことさらに隠し、甘言詐謀を用いて誘惑したるものなり」と述べ、裁判長もこの差別的な論告を支持しこの判決となったのである。
●これに対して、「水平社」(=差別からの解放を目指した)は全国的な規模で運動を展開し、各地で宣伝活動を行いながら、東京で内務省社会局長官、大審院次席検事や検事総長と面会し判決の取り消しを要求した。
●この結果、判決の取り消しにはならなかったが、司法省は2人を仮釈放し、担当検事を左遷するなど関係検事・判事の人事異動を行い決着をつけた。5カ月に及ぶ水平社の運動は勝利を得たのである。
1933年
昭和8年
6月7日
共産党幹部、獄中で「転向」を表明

●日本共産党の中央委員長佐野学と中央委員鍋山貞親2人は、市ケ谷刑務所にて「転向」を声明、翌日8日に声明文「共同被告同志に告ぐる書」を発表した。
これは2人の「転向」声明といわれ、コミンテルン(=1919年レーニンを中心にモスクワに創設された国際共産主義運動の指導組織で、各国の共産党はその指導・命令に従っていた)を批判し、天皇制を認め、満州事変を認め、民族主義に基づいた一国社会主義を主張したものだった。
●これに対して共産党は、昭和8年6/16付の「赤旗」で2人を激しく非難し除名処分とした。
●しかし治安当局にとっては2人の転向は大いに利用価値があり、新聞・雑誌を通じて報じられただけでなく各刑務所にも声明文は配布された。
そして「輝ける指導者」といわれたこの2人の転向は、共産党員、党支持者、労働組合員や知識人に大きな衝撃を与え大量転向を招いたのである。
また前年より司法大臣は、被疑者が転向を表明したときは起訴を取り下げることを訓令していたため、7月末での既決囚の党員393人中133人、未決囚の党員1370人中415人が転向を上申した。
●非転向を通し獄中にいたのは、市川正一、国領伍一郎、徳田球一、志賀義雄らごくわずかの人に限られた。
(新聞)6/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

*リンクします 佐野学及鍋山貞親「共同被告同志に告ぐる書」「思想警察通論」日本警察社 編 昭和15年刊→国立国会図書館デジタルコレクション
1933年
昭和8年
6月16日
(松竹少女歌劇部員・レビューガール、ストライキに入る)
●発端は、東京浅草松竹座の音楽部員(楽士)の待遇改善要求に対して、経営側が6/12、29人の解雇、全員減給の処分を発表したことに対する抗議から始まった。翌13日、歌劇部員は音楽部員と共に「馘首・減給絶対反対」「女生徒を酷使するな」「衛生設備の完備」など26ヶ条の要求書を提出した。そして6/16、レビューガール約230人が「男装の麗人」として人気絶頂の水の江滝子(19歳)を争議委員長としてストライキに入った。この争議は大阪松竹座にも飛び火したが、大阪では高野山僧侶団の調停で和解した。
●しかし東京では争議が長引き、会社側は強硬な姿勢を崩さず争議団の切り崩しを図った。そして少女歌劇部を解散し、あらたに松竹少女歌劇団設立を発表した。これに屈せず水の江滝子らレビューガール(がんばりガール)達は7/1から湯河原の貸別荘に立てこもったのである。
●その後7/12浅草に集まった水の江滝子ら46人は、浅草の警察署の特高係によって検挙された(水の江滝子ら38名は同夜釈放)。しかし7/13から争議団は経営側と3昼夜におよぶ団交を行い7/16深夜妥結したのである。
(新聞)6/14東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1933年
昭和8年
6月17日
(ゴー・ストップ事件起こる)
●この事件は大阪の天神橋筋6丁目の交差点で午前11時30分頃起こった。赤信号を無視して交差点を渡ろうとした歩兵第4師団第八連隊の1等兵を、交通整理中の巡査が呼び止め派出所に連行、2人は派出所内で口論となり殴り合いとなった。これを目撃した通行人が大阪憲兵隊に連絡、憲兵が派出所に急行、憲兵の報告は第八連隊から第4師団へ送られ、大騒動となった。
●これを聞いた歩兵第4師団長と第4師団参謀長は激怒し、「皇軍の威信に関する重大問題」と発言して警察側に陳謝を要求した。これに対して大阪府警察部長は、兵隊が街頭で私人の資格で通行している時は、1市民として交通信号に従うのは当然であるとして、「軍人が陛下の軍人であるなら、警察官も陛下の警察官である」と声明を発表した。
●さらに7月に入ると、陸軍大臣荒木貞夫が第4師団を激励し、内務大臣は警察の支持を表明し、ついに争いは陸軍省と内務省の争いに発展して解決のめどが立たなくなった。
●この間、最初の目撃者の通行人(大阪府吹田町の会計係)は、警察と軍とに挟まれノイローゼとなり電車に飛び込んで自殺し、曽根崎警察署長は心労のため入院してしまった。
●そして11月ようやく後任の曽根崎警察署長が巡査に非があったことを認め陳謝し、第八連隊長は1等兵の不注意に遺憾の意を表して、ここに和解がなった。
(写真)「11/18、歩兵第八連隊を訪ねた増田曽根崎警察署長(右)と松田連隊長の握手。増田は陳謝、松田は遺憾の意を表した。」-写真朝日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1933年
昭和8年
6月19日
(丹那トンネルついに貫通《水抜抗》。)

●この丹那(たんな)トンネルは、東海道本線熱海駅と函南(かんなみ)駅との間にある鉄道トンネル(7804m)で、着工以来15年2カ月目で貫通した。(本坑貫通は8/25。鉄道開通は昭和9年12/1)。もろい地質と大量の湧水、破砕帯の掘削など世界的な難工事といわれ、開通までに16年の工期と、労働者延べ250万人、たび重なる事故で殉職者67人の犠牲を払い、工費2673万円でついに開通したのである。
●1925年12/13に電化された区間は、東海道本線の(東京-国府津)間と横須賀線(大船-横須賀間)だった。東海道本線の難所は、国府津(こうづ)-御殿場(ごてんば)-沼津間の「箱根越え」が最も厳しかった。急勾配やいくつものトンネルと橋梁があり、上り列車も下り列車も補助機関車を必要とした。国府津は電気機関車と蒸気機関車を付け替える役割の駅で、昭和3年(1928年)完成の国産新型電気機関車7両全てもここに配属されていた。そして東海道本線は1928年ごろまでに熱海(熱海線)までが電化され、そしてこの丹那トンネルが開業したことにより、国府津駅ー沼津駅間は現在のルートになった。今までの旧ルートは御殿場線と名称が変更され、これにより電化区間も東京駅ー沼津駅間となった。
(新聞)6/20東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
下の地図は、「カシミール3D」(国土地理院の数値地図などを使える)というソフトをもとに作成したもので、このフリーソフト(基本部分)は個人が趣味で作成しているとは思えぬ程のものである。最近は道案内もグーグルマップばかりで、もう少し手を加えてもらいたいものである。
1933年
昭和8年
7月10日
神兵隊事件起こる

(ここでは「2.26事件と昭和維新」新人物往来社1997年刊から事件の内容を要約してみる)

●この事件は「血盟団事件」や「5.15事件」と関係を持っていた2人の首謀者によって計画されたが未遂に終わった事件である。
その一人天野辰夫は弁護士であるが、東京帝大法科時代に上杉慎吉教授(「天皇機関説」の美濃部達吉教授のライバル)の門下生となり、「昭和維新」を志すようになっていた。そして卒業後弁護士業務につきながら国家主義的な運動を行い、 全日本興国同志会や愛国勤労党を組織した。
●もう一人の前田虎雄は、井上日召(血盟団)や本間憲一郎(5.15事件で逮捕)らと国家改造の同志として契を結んだ間柄だった。そして5.15事件後本間を介して天野と前田は顔を合わせることになったのである。そして3人は斎藤実内閣打倒をめざして画策するようになった。(本間憲一郎は逮捕された)
●そして昭和8年になると、計画は具体化し破壊担当は前田、天野は軍資金調達と破壊後の建設を担当することになった。資金調達に協力したのが安田銕之助(てつのすけ)元陸軍中佐であった。一方前田の方は、実行部隊の組織化に着手し、血盟団井上日召とも準同志的な関係にあった鈴木善一の協力を得た。この鈴木は、当時右翼のなかで最も大きい大日本生産党(内田良平、頭山満らが幹部)の関東本部青年部長で、前田と共に行動部隊の中心となった。またこの頃前田が同志として獲得したのが、山口三郎・現役海軍中佐(海軍航空廠飛行実験部)だった。計画では山口中佐は軍用機で首相官邸や警視庁空爆を担当した。その他に愛国勤労党や北方開拓同盟などからも同志が獲得された。さらに鈴木善一により、大日本生産党や大阪の右翼団体から多数の同志が参加し、また国学院大学生も動員された。
●当初行動計画は以下のように決まったが、規模や日程に変更があったために、7/10(蹶起予定の前日)、大部分の隊員が明治神宮講会館に集結していたことが怪しまれ49名が逮捕され計画は頓挫した。

(当初計画)
●決行日時:7月4日午前11時 (閣議開催中)
●名称: 「神兵隊」  司令部 前田虎雄 鈴木善一
●動員方法:明治神宮への祈願団体を装って集合する。
●襲撃目標人物:斉藤首相以下全閣僚・牧野内大臣・鈴木政友会総裁・若槻民政党総裁・山本権兵衛・藤沼警視総監。
●役割分担(略)

●こうして事件は未遂に終わり、総数95名が検挙された。そして天野辰夫、前田虎雄ら63名が殺人予備罪および放火予備罪で起訴された。
しかし東京地裁の予審の途中で内乱予備陰謀罪の嫌疑が濃くなり、昭和10年9月審理は大審院(内乱予備陰謀罪は大審院の特別権限)へ移された。
●昭和12年11月より大審院の公判が始まったが、被告らは昭和10年2月から始まった「国体明徴(こくたいめいちょう)運動」を法廷闘争として、検事や裁判官に対して天皇機関説の排除を要求して審議拒否、裁判長忌避、退廷などを行ったのである。被告たちは、国体明徴運動(天皇中心の国体観念を明確に証拠立てる)をたてに逆に検事・裁判長を追及する事態となったのである。
●こうして事件の裁判は、8年後の昭和16年(1941年)3月15日、大審院第1号法廷で天野辰夫ら44名全員に次の判決を下し終了した。

「被告らに対し、いずれも其の刑を免除す」

であった。
(新聞)7/20朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
(写真)昭和16年3/15大審院第1号法廷。-写真共同通信社。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1933年
昭和8年
7月
●7/20陸軍省、満州事変勃発以降の戦死傷者数と負傷者数の現況を発表。戦死2530人、負傷6896人。
●7/31海軍省、9年度から4年間に艦艇36隻建造・航空隊8隊増の第2次補充計画予算額を大蔵省に提示する。
1933年
昭和8年
8月1日
●帝都電鉄(現、京王・井の頭線)開通。渋谷-井の頭公園間が開通した。翌昭和9年4月、吉祥寺まで延長した。
1933年
昭和8年
8月1日
(時事新報社、芝公園で「東京音頭」盆踊り大会を開催。後援東京市)
●この盆踊り大会がきっかけに、ビクターが発売した西条八十(やそ)作詞、中山晋平作曲の「東京音頭」が大ヒットした。これはビクターが、前年発売した「丸の内音頭」が好評だったため、歌詞を変更し歌手も人気急上昇中の小唄勝太郎と三島一声(一声は同じ)に変えて8年7月に発売されたものだった。この音頭は、文部省、内務省、陸軍省、海軍省も思想善導のため推薦しているともいわれ、ブームは各地に波及し、ブラジル、アメリカなどの海外在留邦人たちの間にも及んだといわれる。
●歌詞の「君(=天皇)が御稜威(みいつ=御威光)は天照らす」や「君と臣(たみ)との、千歳の契り」など天皇賛美が織り込まれていたが、大衆はそうは思わなかったようである。下にユーチューブから「東京音頭」にリンクした。(歌詞が載っているので参考になる。「みいづ」と歌われている)
(写真一部分)9年7月、東京の帝都舞踏場で開かれた「盆踊舞踏大会」。ダンサー全員が浴衣姿で「東京音頭」を踊って客を呼び寄せた。-撮影・影山光洋(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

*リンクします「小唄勝太郎・三島一聲:東京音頭 A/B」
動画・出典:youtube(「光もとめて・・・」氏より)
1933年
昭和8年
8月9日
関東地方防空大演習始まる(~11日まで)


●防空演習は昭和3年の大阪から名古屋、北九州と行われてきた。そして関東地方では昭和5年から準備が進められ、ついに東京を中心に神奈川・千葉・埼玉・茨城の1府4県で、軍民一体となった大規模な防空演習が行われたのである。
●演習では攻撃担当は海軍で、小笠原南方海上を北上する某国艦隊が東京をはじめとする関東一帯の主要都市を空襲するという想定だった。海軍は横須賀防衛隊の駆逐艦、潜水艦、航空母艦、航空機50機を動員した。防衛担当は陸軍で、近衛師団以下10個師団の部隊、所沢飛行学校、陸軍自動車学校などを動員し、兵士総数は1万数千人に達した。仮想敵国はアメリカとソ連だった。
●今回の関東防空大演習の特徴は、今までの軍隊だけの演習から、「吾等の帝都は吾等で護れ」のスローガンのもとに、女性、小学生まで参加した軍民一体の演習だったことである。演習には防護団(在郷軍人会、青年団、少年団、婦人会を主な構成団体として結成されたもの)を中心に1千万余の住人が参加した。各地区の防護団は防護分団に分かれ、住民はそれぞれ警護班・警報班・防火班・交通整理班・避難所管理班・工作班・防毒班・救護班・配給班の任務についた。
●演習では、爆撃を避けるための煙幕を張ったり、防毒マスク着用訓練などが行われたが、最も重視されたのが、夜間の空襲から都市を守る灯火管制だった。これは各家庭が自発的に電灯を消灯したり、電灯を黒布で覆うものだった。
●こうして防空訓練が終わると、陸軍は総力戦思想のもと、防空体制の強化、防護団のような住民組織の拡充に乗り出した。そして国防献金熱の高まりや国防婦人会の誕生など、民衆の国防意識を高めていったのである。
(新聞)8/11朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊。(写真)「昭和8年5月14日の大阪献納兵器 天覧」の写真。先頭の天皇の横に見える巨大兵器が90式大空中聴音機で飛行機の位置、高度、機数を測定した。(出典)満州事変 国防記念録 陸軍省 昭和8年8月3日発行(非売品)

1933年
昭和8年
9月1日
豊田自動織機製作所、自動車製作部門を設置する

●豊田自動織機製作所は社内にのちに自動車部となる自動車製作部門を設置し、社業として国産自動車の研究・開発を行うことを開始した。トヨタ自動車創業のはじまりである。
●1918年、日本政府は軍用自動車補助法を公布し、10社近くが製造に挑戦してきたが、昭和5年になってもその販売台数は合計500台未満だった。そして政府が自動車産業の育成・保護を重要視するようになったのは、この年昭和8年の中国における関東軍熱河作戦がきっかけであった。
●陸軍は、熱河作戦では熱河省に鉄道網がないため、陸軍史上初めて自動車部隊による兵站線(=前線との輸送連絡線)確保を行い成功をおさめたのである。この主力となったのは、アメリカのフォードとシボレー(GM)の数百台のトラックだった。陸軍は、自動車の機動力を発揮したこの作戦の成功によって、軍用トラック製造の必要性を痛感したのである。昭和10年になっても日本車の技術水準はきわめて低く、戦地では国産のトラックより中古でもよいからアメリカ車に乗りたいとの要望が強かったといわれる。
●国産車が生産を増やすことが出来たのは、昭和11年(1936年)7月の「自動車製造事業法」公布以降の事で、アメリカ車の生産台数を制限して政府援助による国産化・量産化を図るという、陸軍と商工省共同の自動車製造事業確立推進計画のおかげであった。

1933年
昭和8年
9月9日
荒木貞夫陸相、陸軍の国策案大綱を高橋蔵相に提示

●荒木貞夫陸相、陸軍の国策案大綱(内外問題への提言・軍備拡充の要求など)を高橋蔵相に提示する。4時間にわたった対談の後、荒木陸相は次のように語った。
(抜粋すれば)『・・是非政府に誠意を以て諸政策を実行してもらいたいと思う。1935年-36年は恐らく未曾有の国難となる。国難に打ち勝ってゆくのには挙国一致の外はない。如何に立派な政策を樹てても実行せぬでは何の役に立たぬ、実行あるのみである。国民もほんとうに緊褌一番(きんこんいちばん=気持ちを引き締めて事に当たること)してくれねば困る』
その具体的な提言内容(概略)は以下のようである。(新聞紙面より要約)
(新聞)9/10朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

●満州問題・・過去2年間にわたる満州の実情は、非常なる勢いをもって改革せられ、産業開発も所期の計画通り行っている。この機を逸せず力を一層産業開発に致せば、その成果期して待つべきものがある。
●支那問題・・日本としてはあくまで根本方針としては日支両国の善隣関係を良好ならしむることが望ましい。さりとて下手な手を打っては却って支那側に乗ぜられることになるから、十分なる戒心を以て注視しなければならない。
●対外問題・・連盟脱退通告後、世界の情勢は日本にとり必ずしも良好であるとはいえない。日本としては未曾有な困難に直面しなければならない。東洋の平和を確保してゆくには国防力の拡充が必要である。海軍が第2次補充計画を急ぐのは当然のことであり、又陸軍としても対支対露関係に顧みても強力な軍備を準備していることが現在としてはもっとも有効なる平和維持策である。区々たる財政技術の問題などに拘泥していては、この最大の困難を切り抜けることはできない。
●教育問題・・今やその教育も動(やや)もすれば教育のための教育に堕して、真に国家国民のための必要なる教育が忘れがちになっているのではないかと思われる。共産党員中には、純然たる無産無識階級から出たものもあるが、高等教育を受けた者の内に多数輩出していることは、我が教育のどこかに重大な欠陥あるのではないかと思われる。万国に比類無きわが国体の精華を徹底せしめ、日本人たるの教育に立ち返らねばならない。

●9/11高橋蔵相は「国策として定めた国防計画は公債が増えても充実させねばならぬ」と国防費先議を言明した。
●9/12大角海相は高橋蔵相に、「1935年、36年は危機、第2次補充計画は国防上不可欠の限界線」と説明。
上記の「1935年、36年の危機」というのは、①1935年3月の日本の国際連盟脱退の発効、②1936年末に期限満了となるワシントン・ロンドン両軍縮条約で、条約範囲内の日本の海軍力が米英に比べて不利になること。さらにソ連の軍事力強化などを根拠に、1935年36年が日本の「厄年」になることを軍部が予言した。

1933年
昭和8年
9月14日
●広田弘毅前駐ソ大使、内田外相の後任として就任。
1933年
昭和8年
9月27
●軍令部令が制定され、海軍軍令部条例は廃止された。海軍軍令部を軍令部、海軍軍令部部長を軍令部総長と改称した。
この意味するところは、参謀本部(かって陸軍を中心に全軍を統括していた)に対して、海軍軍令部が独立性と対等性をもとめ、軍令部としたもので、これにより「軍令部総長は参謀総長と共に、皇軍統帥の最も重大且つ神聖なる任務を負う」ことになることができたのである。
1933年
昭和8年
10月1日
児童虐待防止法施行

●この法律は4/1に公布されたもので、14歳未満の児童に対する虐待を禁止した社会福祉法である。東北地方の農村の貧困による「娘の身売り」のほか、体罰や重労働など児童を取り巻く状況が厳しさを増したことから制定された。保護責任者の虐待を禁じ、軽業(かるわざ)、酌婦、物売りなどに就業することを禁止あるいは制限した。新聞は5月に10月からの児童虐待防止法施行を報じるもの。
(新聞)5/12朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1933年
昭和8年
10月14日
ドイツ・ヒトラー政府、国際連盟とジュネーブ軍縮会議から脱退を声明


●ヒトラーは、ベルリンからラジオで全世界にむけて脱退の声明を発した。そして軍備に平等を認めないのはドイツへの差別であり、決して容認できないと強調、ドイツの再軍備を公然と主張した。
●翌月(11/12)、政府の外交政策の信任投票とドイツ国会総選挙が行われ、ナチスは660の全議席を獲得、政府信認投票では90%以上がヒトラー政府を支持した。
その背景には、1929年から始まった世界恐慌があった。この恐慌は第1次世界大戦後の賠償金問題からようやく立ち直り始めたドイツ経済に大打撃与えたのである。失業者は1929年に150万人であったのが、1932年には600万人に達した。国民はヒトラーを熱狂的に支持したのである。
(写真)1933年10/14、国際連盟とジュネーブ軍縮会議からの脱退を、ラジオで国民に告げるヒトラー。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1933年
昭和8年
11月8日
(東京競馬場が東京府下・府中町にオープンした。)
●この競馬場は東京府下・目黒町にあった東京競馬場(通称目黒競馬場)が移転したもので、坪数22万坪、収容人数5万人という東洋一の規模を誇った。
●日本における競馬は明治41年(1908年)に馬券の発売が禁止されて以来衰退していた。しかし大正12年(1923年)に競馬法が公布され、馬券の発売が復活すると人気は高まってきた。それに加えて、競馬倶楽部、農林省、陸軍省は、競馬が盛んになると国産馬の品種改良、軍馬の育成につながると考えていた。
(上写真)府中に移転した「東京競馬場」-写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊


●そして昭和7年(1932年)4/24、目黒競馬場で第1回東京優駿大競走(初の日本ダービー)が東京競馬俱楽部によって開催された。昭和5年東京競馬俱楽部(会長安田伊左衛門)は「広ク全国ニ良駿ヲ求メテ能力ノ厳選ヲ試ミム」を目的に東京優駿大競走を企画したのである。安田は、世界的レベルでの競走を行うことにより、馬の生産者に刺激を与え、馬体の改良、馬産の振興という目的を達成しようとしたのである。
●そのため優勝馬に対する破格の賞金だけではなく、馬の生産者に対しても1着1500円、2着800円、3着500円の賞金を授与したのである。第1回優勝馬には、1着賞金1万円、登録付加賞金1万3530円、さらに1500円相当の金杯が函館騎手に授与された。帝室御章典(のちの天皇賞)の1着賞金2000円と比較しても破格なレースとなったのである。
(下写真)昭和7年4/24「目黒競馬場」初のダービー開催に9千余人がつめかけた。-写真・日本中央競馬会(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1933年
昭和8年
11月13日
救国埼玉青年挺身隊事件発覚(栗原中尉クーデター計画)

この事件の経緯の概略は次のようである。(「2.26事件と昭和維新」新人物往来社1997年刊から事件の内容を概略)
●事件の中心人物である陸軍青年将校・栗原安秀中尉(のちの2.26事件で死刑)は、昭和6年の「10月事件」の橋本欣五郎中佐のグループから離れて、自身の所属する歩兵第1連隊で教官として同志獲得に務めていた。「10月事件」以降、形成されていった革新青年将校の一団が「皇道派」で、隊附きの尉官クラスの将校は、大川周明に対立する西田税(みつぎ)と北一輝の「日本改造法案大綱」を信奉していた。
●一方数年前から過激派学生の拓大生吉田豊隆や日大生水上源一(のちの2.26事件で死刑)らは、大川周明や安岡正篤らの革新思想に感化されて、各大学の学生を糾合して救国学生同盟を結成し同志獲得を行っていた。そして水上源一と栗原中尉が会うことになり、昭和8年早々には、青年将校らと救国学生同盟が提携することになったのである。
●昭和8年3月、拓大生吉田豊隆は卒業して郷里の埼玉県熊谷市の自宅に帰り、その地でクーデター計画に備えて待機していた。また予備召集後召集解除された富岡捨次(栗原中尉に教育を受け感化された)も郷里の埼玉県入間郡で、吉田や水上らと連携を取りながら待機していた。
●昭和8年9月22日の決起計画(栗原中尉と水上源一が計画)での襲撃目標は、西園寺公望、牧野伸顕、斎藤実、若槻礼次郎、鈴木喜三郎、岩崎小弥太、警視庁、新聞社、日本銀行などであり、学生、在郷軍人を含めた民間と軍部がともに一斉決起する予定だった。
●ところが、決起を知った西田税が自重するように水上を強く説得、計画はあっけなく中止となった。だが11月、民間側では単独決行計画(吉田豊隆がリーダー)が再浮上し、埼玉県川越市で開催予定の政友会関東大会で出席予定の鈴木総裁らを襲撃することになったのである。これが未遂に終わった「救国埼玉青年挺身隊事件」である。
●そしてこの事件が端緒となって、栗原中尉らのクーデター計画が露見したのである。こちらのクーデター計画は内乱陰謀事件としては昭和9年6月捜査中止となったが、嫌疑濃厚とされた中尉たちは、のちの2.26事件に重なっていくのである。

1933年
昭和8年
11月16日
●潜水母艦「大鯨」進水。横須賀海軍工廠で潜水母艦大鯨の進水式が行われた。同艦は排水量約1万トン、長さ197.3メートル、幅17.7メートル、速力20ノット。7カ月という短期間で完成。昭和17年、航空母艦に改造された。
(写真)式典準備中の大鯨。-写真・福井静夫(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1933年
昭和8年
12月8日
●松岡洋祐、政友会を脱党し衆議院議員を辞職。「1国1体」を目指す政党解消運動開始の声明書を発表。
1933年
昭和8年
12月9日
(陸・海軍省、軍部批判に対する声明を発表する。軍民離間声明といわれた。)
●軍部の政党を無視した国策決定、軍拡予算計上に対して、政友会や民政党は軍部批判の声を上げていた。それに対して陸軍当局が、「最近予算問題その他に関連して軍民分離の言動をなすものが少なくない」と反論し、さらに政党の主張は「国防の根本をなす人心の和合結束を破壊する企図」であると非難した。
1933年
昭和8年
12月23日
皇太子誕生、サイレン、ラジオ、新聞などで速報される。

●皇太子はこの日、午前6時39分に誕生した。現在(2018年4月)の天皇である。昭和天皇にはすでに4人の子がいたが4人とも女子だった。大日本帝国憲法第2条は「皇位は皇室典範ノ定ムル所ニヨリ、皇男子孫之ヲ継承ス」と定めていたので、「日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)」の誕生であった。
●翌、昭和9年2/11の紀元節(=神武天皇即位の日、現在の建国記念の日)に詔書が発布され、皇太子誕生による恩赦が実施された。該当者は約4万1000人であった。特筆されるのは恩赦を受けた次の人物達である。濱口雄幸元首相を狙撃し、死刑の判決を受けていた佐郷谷留雄。5.15事件で1週間前に判決を受けたばかりの橘孝三郎と大川周明。マルクス主義者の河上肇などである。
(新聞)12/24朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1933年(昭和8年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1.2 日本軍,山海関を占領
1.9 大島・三原山に実践女子専門学校生投身自殺,2.12 再び同校生が投身し友人が自殺に立ち会った
1. 11 ソ連,第2次5ヵ年計画発表
1. 12 河上肇検挙される
1. 15 米国,満州国不承認を列国に通告

下

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