(昭和5年のポイント)
●濱口雄幸内閣1/11、緊縮財政下において、金解禁を断行する。
●しかしながら、昭和4年(1929年)10月に起こったアメリカ・ニューヨークの株式の大暴落に始まる大恐慌は、日本の輸出産業に大打撃を与え、かつ国内の緊縮財政とデフレ政策とがさらに国内景気を縮小させ、日本は深刻な不況に陥った。労働争議、小作争議が頻発し、物価・所得は下落し失業者は増え不況は深まった。生糸・米価は惨落し、農業不況はさらに深まっていった。思想弾圧では、政府は2月に共産党壊滅第3次大検挙を開始した。また4月、濱口首相は財政圧縮と国際協調のため、海軍の反対に対して強く拒絶し、ロンドン海軍軍縮条約を締結した。しかしこれが天皇の大権である「統帥権」を政府が「干犯」したという「統帥権干犯」問題となった。
●そして11月、濱口首相は「軍部の意見を無視して条約を締結したことに憤慨した」右翼青年(23歳)にピストルで狙撃され、翌年この傷がもとで死亡した。
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1930年昭和5年1月10日 |
●金解禁を前に日銀正貨準備10億7333万3000円となる。 |
1930年昭和5年1月11日 |
金輸出解禁の実施(金本位制復帰)
●濱口雄幸内閣は、1917年(大正6年)9月以来の金輸出禁止を解禁した。濱口首相は「官民一致の緊張を将来も持続せよ」と言明する。特に問題であったのは、結果的に「新平価」ではなく「旧平価」で復帰したことであろう。この金輸出解禁については、下に、大蔵大臣井上準之助著1929年(昭和4年)9/17出版の、ベストセラーになった「金解禁━全日本に叫ぶ」の最初のところを引用してみた。国民に金解禁の必要性を分かりやすく説いたものであり。井上準之助と濱口雄幸内閣の覚悟を表している。
「第一章 死を覚悟しての難局打開」
明るき日本へ
安閑としていられない日本の現実を前にして、私は全日本の国民諸君に衷心より叫びかけたい。濱口内閣の組閣にあたり、私はその使命の重大さを泌々(しみじみ)と感じながら一大覚悟を懐(いだ)いて當面(とうめん)せる難局打開の大事業に、みづからの馬を進めた。

言ふまでもなく、私は一目茫漠たる断涯(だんがい)の頂から坦々たる大道を求めてこの難局を切抜けようと思ふのである。しかも、進むとも退(しりぞ)かぬ大決心をもってこの行詰れる難局から、挙国一致的の熱援(ねつえん)を、全日本国民に訴えんとしている。『断涯の頂きに直立している私の姿』といふのは、実は今日に於ける日本そのものの姿といふてもよい。
何故(なぜ)かならば、現実の日本は今や八方塞りといふてもよい処まで来ている。
即ち、政治的にも、経済的にも思想的にも、尋常一様の行詰り方ではなく、今日の日本は退引(のっぴき)ならぬ処まで追ひ込められて来た。澎湃(ほうはい)として大潮(おおしお)のごとく押寄せてきた思想混濁の如実相(にょじつそう)は何を意味するか。政治の不安、経済の不安、思想の不安、さうしたあらゆる社会的不安の行詰りが、全日本国民の頭の上に襲ひかかって来た。日本はまさにさうした社会的不安のドン底に沈淪(ちんりん)せんとしている。と、云(い)ふたところで私は日本の行詰りに失望落胆しているのではない。
私はこの難局に直面して、社会的不安の一切の行詰りを全日本国民と共に打開せんとする念願に燃えているのである。たしかに日本は、私の今云(い)ふた通り、この儘(まま)黙(だま)って放って置けば、どうなるか判らない。一歩を誤れば、断崖の頂から千仭(せんじん)の谷底に顚落(てんらく)せんとする、危機に臨んでいるけれども、私はこの重大なる難局も、全日本国民の挙国一致的協力によって、『明るき日本』への建直(たてなお)しが出来(でき)るものと深く信じて居るのである。
*リンクします 「金解禁:全日本に叫ぶ」井上準之助 著 先進社 昭和4年刊 →
(新聞)1/11東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1930年昭和5年1月16日 |
●京城(ソウル)で学生が示威行動。万歳(マンセイ)を高唱し、赤旗や太極旗を振って市中を練り歩く。検挙者468人 |
1930年昭和5年1月21日 |
●ロンドン海軍軍縮会議開会。若槻元首相、財部彪海相ら出席。 |
1930年昭和5年2月7日 |
●富山ラミー紡績争議団員50人余が同志奪還で富山署を襲撃。署長以下20数人負傷、検束者20人余。 |
1930年昭和5年2月14日 |
●練習船海王丸進水
文部省航海練習所公立商船学校用練習船、海王丸が進水。1/27に進水した姉妹船、日本丸とともに、昭和4年4月から神戸の川崎造船所建造が進められていた。(写真)海王丸(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1930年昭和5年2月15日 |
●日銀の正貨準備高、金解禁以来、正貨流失で減少を続け、1920年(大正9年)以来10億円台を割る。 |
1930年昭和5年2月20日 |
●総選挙-緊縮財政・金解禁の濱口民政党勝利
●総選挙で民政党(濱口雄幸内閣)は、野党政友会に圧勝し(議員総数466人中、民-273、政-174、他19)信任を得た。濱口首相は「国民の共鳴を得た以上、思ふ存分に政策を行ふ」と声明を発した。 |
1930年昭和5年2月24日 |
●共産党員の全国的な検挙が開始される。1月に組織の再建を図る共産党は、拡大中央委員会を開き、正式に党を再建したが、警察は第3次大検挙を行った。7月までに約1500人を検挙し、うち461人を起訴した。 |
1930年昭和5年2月26日 |
(東洋モスリン争議団乱闘)
●東洋モスリン(東京亀戸)争議団、会社側警護団と乱闘。女子工員約52人が寄宿舎から日本大衆党支部へ脱出。2/28、この争議は組合同盟・総同盟が別々に交渉し、別々の条件で解決した。しかし9月に会社側は第2次合理化案として第3工場の縮小と、450人の解雇を発表し、組合側は9/25から一斉ストに入った。10月には争議団と支援グループ約2000人がデモを行い警官隊と衝突し、亀戸は住民も加わって大混乱となった。この結果、争議団側は179人が騒乱罪で逮捕され、以後活動家の検挙も続き、ついに11月19日争議団は警視庁の調停に応じたのであった。こうして組合側は、規定の退職金のほか同情金を加えること、就業規則の厳守すること、上長の命に服すこと、組合に加入しないことなどの条件をのんで、争議は幕を閉じた。こうして1000人の女子工員らは会社を去り、労働組合は解体した。
●表は小作争議と労働争議の件数などを年別に抜き出したものだが、特に労働争議が昭和5年から急増している。昭和5年1月の金解禁実施以来、日本の経済不況は深刻化し、企業はこの危機を労働者の解雇と賃下げで切り抜けようとし、労働者側はこれに激しく抵抗したのであった。 |
1930年昭和5年3月3日 |
横浜生糸相場、最安値を記録
●1916年(大正5年)以来の最安値を記録した。銀行担保価格も下回った。 |
1930年昭和5年3月24日 |
●帝都復興祭始まる

●天皇、震災記念堂をはじめ市内を巡幸する。この復興事業の主なものは次のとおりで、東京の基礎を作った。
①(土地区画整理)対象地域は震災による焼失区域の44%相当で30平方キロに達した。
②(道路)1号と2号の幹線道路を重点として整備された。1号はいわゆる「昭和通り」、2号はいわゆる「大正通り→戦後靖国通りに改名」。この整備によって、総面積に対する道路面積の比率は、震災前の12%から18%になり、大阪の5%に比べても飛躍的に向上した。
③(橋梁)震災前東京市が管理していた約600のうち、大部分が木製であったため366が被害を受けた。そのためこれらの橋全てを耐火耐震構造に変えた。特に隅田川にかかる永代橋、相生橋、駒形橋、清洲橋、蔵前橋、言問橋の6大橋と、お茶の水の聖橋が東京の新名所となった。④(公園)河岸公園として、隅田公園、浜町公園、錦糸公園が新設されたほか、大小55の公園が誕生した。
⑤(小学校)震災で焼失した小学校は117校でほとんどが木造だったが、すべて鉄筋コンクリート造りに変わった。
(写真は昭和4年6/15の銀座泰明小学校落成式の写真)
⑥(中央卸売市場・その他)震災により日本橋の魚市場が壊滅し、新しい卸売市場が築地の海軍省用地に建設された。このほか市立病院、職業紹介所、託児所、公衆食堂、公設浴場なども建設された。
(新聞)3/27東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行。(写真)泰明小学校(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
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1930年昭和5年4月9日 |
●国産タイヤ1号、ブリヂストンタイヤ誕生

●地下足袋、ゴム長、運動靴などを製造する日本足袋(株)の社長・石橋正二郎は、これからの自動車産業の興隆を予想し、国産タイヤの研究開発を続け、4/9純国産タイヤ第1号の試作に成功した。商品名は「ブリヂ(橋)ストン(石)」とし、昭和6年にブリヂストンタイヤ(株)を設立した。ちなみに旧民主党、内閣総理大臣(第93代)鳩山由紀夫の母は、この石橋正二郎の長女であり、鳩山由紀夫の父は鳩山一郎(日本民主党総裁で第52・53・54代首相)の長男鳩山威一郎である。鳩山・石橋一族の財力は、鳩山由紀夫による旧民主党結党・創設に大きな力を与えたのである。
(写真)西日本新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
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1930年昭和5年4月9日 |
●鐘淵紡績(のちのカネボウ)-賃下げ撤回スト開始
●鐘淵紡績は4/5に創業以来初めての23%減給を発表した。鐘淵紡績(は、1889年創業で三井財閥系の超優良企業といわれたが、不況には耐えきれず操業短縮と減給を決めたのであった。この賃下げ撤回ストは、モデル工場といわれた大阪淀川工場から始まり、兵庫、京都、東京、熊本などの各工場に拡大していった。
(新聞)4/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行。
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1930年昭和5年4月13日 |
●板橋「岩の坂もらい子殺し事件」

●東京板橋で養育費目当ての地域ぐるみの「もらい子殺し」事件が発覚した。以後41人殺害が判明する。新聞には「殺人鬼部落」2千人とあり、浮浪者・こじきの子供の救護が必要とあり、社会事業関係者に大波紋を巻き起こすとある。
●写真は「岩の坂もらい子殺し事件」の起こった東京板橋の「岩の坂」。『警視庁史』昭和前編によれば、ここには簡易旅館と長屋が 20数軒あり、約70世帯 2000人が住んでいた。板橋署の調べでは養育費と衣料目当てのもらい子は100余人。うまく成長して 4、5歳になるともらい乞食や遊芸乞食に、14、5歳になると女は娼妓、男は炭鉱の雑役夫に売りとばしたという。
(新聞)4/15東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行。(写真)アサヒグラフ(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
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1930年昭和5年4月20日 |
●東京市電1万500人の従業員が全面スト
●罷業(スト)の原因は、新聞には7項目の要求のうち、①賞与1割減絶対反対②震災時特別給与金即時支給⑤退職一時金と退職年金の自由選択の要求が、その骨子であると書かれている。しかしこのストは、当局が「スト破り」募集や在郷軍人などの動員(2765人)によって、平常の半数の電車を動かしストは敗北した。
(新聞)4/21東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行 |
1930年昭和5年4月22日 |
●ロンドン軍縮会議-アメリカ妥協案承認し調印
●政府は、アメリカ妥協案を承認し調印した。この締結に至った背景には、世界各国を襲った経済恐慌と、労働運動の激化などによる社会不安の強まりがあった。各国にとって、軍縮による財政負担軽減が共通の問題となっていたのである。日本においても濱口雄幸内閣(民政党)は、田中内閣(政友会)の政策を転換し、財政の緊縮・金解禁(金本位制復帰)による経済立て直しと協調外交を目指し、軍縮を強く望んだ。
(新聞)4/23東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●野党、統帥権干犯問題で政府を攻撃
野党政友会総裁の犬養毅は、4月25日の議会で国防問題、軍縮剰余金、失業問題、綱紀粛正について政府を追及し大論戦になった。そしてなかでも政友会の鳩山一郎の「国防無視の責任」として追及した「統帥権」問題が、その後の海軍強硬派や右翼の「統帥権干犯」問題と発展していく。
(新聞)4/26東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
この鳩山一郎の「国防無視の責任」の追及の一部は以下の通りである。「統帥権干犯」の意味がわかる。ちなみに鳩山一郎は、旧民主党第93代内閣総理大臣鳩山由紀夫の祖父である。
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鳩山一郎君(政友)登壇
「まづ軍縮問題について伺ひいたい 政府は軍令部長の意見に反して国防計画を決定したことについて政治上の責任を速かにとるべきである、世界の平和を維持する軍備には程度があるが、この程度を決するのは軍事専門家に任すべきであって第三者の容かいすべきものではない、これがために参謀本部條令があり軍令部條令が厳として存してゐるのである、即ち用兵あるひは国防についてはこれら軍事専門家に任せねばならない、しかして国防に関しては国務大臣に天皇輔ひつの責任があるが、軍事に関する輔ひつの責任は参謀総長あるひは軍令部長にある、政府が軍縮問題に関して軍令部といふ統帥権に関する直接の機関の意向を無視したことはまことに政治上の大冒険といはねばならない・・・」
4/46東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
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1930年昭和5年5月10日 |
婦人公民権法案、衆議院本会議で初めて可決。しかし貴族院で審議未了
●婦人参政権運動は1924年(大正13年)、久布白落実(くぶしろおちみ)を総務理事、市川房枝を会務理事とする婦人参政権獲得期成同盟会が結成されたことに始まり、大正14年に男子普通選挙が承認されると、名称を「婦選獲得同盟」に変え、デモ、講演会、署名活動などを盛んに行ってきた。そしてこの婦選要求の高まりと、婦人団体に消費節約の協力を求める政府の思惑もあり、政友・民政両党による法案提出となったのである。
●しかし貴族院はこの法案に対し、「女性に参政権を与えることは日本の家族制度になじまない」として審議未了とした。これはつまり法案の可否もとらず、ただ無視したのであった。下段で婦人参政権運動関連の年表を記載した。
(写真)昭和4年1/21作製の婦選を求めるビラ。-写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
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(婦人参政権運動関連の年表) (出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●明治6年 (1873年)1/22…女子が戸主になることが許可される
●明治11年 (1878年)4/16…第2回地万官会議で女戸主の選挙権について論議される
●明治22年 (1889年)2/11…衆議院議員選挙法公布。 選挙権は男子のみ
●明治23年 (1890年)7/25…集会及政治結社法公布。女子の政治活動は全面禁止される

●大正11年(1922年)4/20…治安警察法第5条改正公布。婦人の政治集会への参加および発起が認められる
●大正12年(1923年)2/2…婦人参政同盟が結成される。2/24…婦人参政同盟、衆院に婦人参政に関する建議案を提出
●大正13年(1924年)12/13…婦人参政権獲得期成同盟会が結成される(14年4月19日、婦選獲得同盟と改称)
●大正14年(1925年)3/10…衆院本会議で婦人に関する建議案4件を上程(衆院で可決)
●昭和3年 (1928年)3/12…婦選獲得共同委員会が結成される
●昭和4年 (1929年)3/5…婦人公民権案、衆院で否決
●昭和5年 (1930年)4/27…第1回全日本婦選大会を開催。全国から600人が参加。5/10…婦人公民権法案、衆院本会議で初めて可決
5/13…婦人公民権法案、貴族院で審議未了
●昭和6年 (1931年)2/5…政府、婦人の選挙権を25歳以上とする制限付き婦人公民権法案を議会に提出
2/14…第2回全日本婦選大会を開催し、完全公民権要求を決議。市川房枝、演壇で右翼に襲われる
2/28…制限付き婦人公民権法案、衆議院で可決。3/24…制限付き婦人公民権法案、貴族院本会議で否決
●昭和7年 (1932年)7/4…内務省省議、婦人参政隆法案提出を見合わせる
●昭和12年(1937年)1/24…第7回全日本婦選大会開催。最後の大会となる
●昭和15年(1940年)9/21…婦選獲得同盟、新体制樹立を促すためと解散
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1930年昭和5年5月 |
●東京6大学野球黄金時代をむかえて過熱する。
●東京6大学野球、春の「早慶戦」は5/17・18に神宮球場で行われた。前年の早慶戦は、徹夜で行列するファンで球場周辺が混雑し、また偽の切符が出回ったりして混乱した。そこで本年度は、入場券の前売りをやめ、はがき申し込みによる抽選に切り替えたが、7倍の競争率となり多数のダフ屋が現れるほどの人気となった。慶応大学-水原茂投手、早稲田大学-小川正太郎投手などスター選手が続々登場した。
(写真)昭和6年5月10日、松坂屋上野店の屋上。6大学野球早明1回戦の速報板。これは各地に設置され、ボールの動き、走者の位置などを速報板の裏側から人形などを使って示した。一高・三高定期戦、中等野球にも使われ球場に行けない人には、大人気だった。-写真・松坂屋(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1930年昭和5年5月26日 |
●中国政府、日本政府に対して「支那」の呼称はやめ「大中華民国」と記載するように要求せよと、同外交部に訓令。 |
1930年昭和5年5月30日 |
●満州間島(カントウ)で朝鮮人反日武装蜂起
●この間島という場所(地図参照)は、中国と朝鮮半島の境界に位置する中国領で、清朝時代から中国人と朝鮮人の雑居地域だった。しかし日本は満州の権益を主張していく中で、この地域の朝鮮人(日韓併合後)も、日本人として治外法権を得ると主張した。これに対して中国側の反発は大きく、間島とその周辺で紛争が続発することになったのである。こうした中、中朝の共産党は、周辺地域で土地や農地を失った朝鮮人や、朝鮮での独立運動や共産党に対する弾圧から逃れた朝鮮人集団に、間島での反日暴動を計画し蜂起させたのだった。この暴動は日中間で重大な事態と発展するおそれとなったが、幣原外相の努力で(陸軍首脳の反対を押し切る)、一応の解決を見た。
(地図)「満州での重要事件関連地図」(出典)「近代史日本とアジア 下」古川万太郎婦人之友社2002年刊
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1930年昭和5年5月31日 |
●大阪道頓堀のカフェー「美人座」が東京銀座に進出、オープンした。客1人に女給1人がつき、濃厚なサービスを売り物にした。不況のなかエロ・グロ・ナンセンス時代が始まる。そして「性・猟奇」雑誌も氾濫した。しかし当局による取り締まりは徐々に強化され、昭和5年11月レビュー・ダンスでズロース規制などや、昭和9年の学生未成年者のカフェー、バーの立ち入り禁止などにより衰退していった。 |
1930年昭和5年6月11日 |
内務省発表-大卒の就職率10%割る
●内務省が5月1日現在の卒業生の就職概要を発表した。大卒9.2%、専門学校卒14%、中卒23.4%であった。
(新聞)「教員の受難時代来る」3/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
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(新聞)「失業地獄を何と見る」3/17東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
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不況をあらわす事例(昭和5年中6月頃までの半年間)
解雇・賃下げなどによる争議発生事例は除いた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
(1月)
●東京市、増加する貧困児童に教科書や食物を支給するために、9万7000円予算案。
(2月)
●「糸価暴落で全国8割の製糸工場が女工への賃金不払い」と、内務省社会局が調査結果に警告。
●東京で全国初の失業保険制度実施。
●春の東京市内の小学校卒業生の約6割が就職未定。
●北海道標茶(しべちゃ)飢饉調査で、入地者205戸中、即刻救済の要あるもの85戸333人。

(3月)
●白米が各等級10キロ当たり7銭の値下げ。
●内務省の失業状況調査報告公表、全国で31万5269人、失業率4.54%。各地で教育減俸が相次ぐ、初任給引き下げ。
●東京府・市の失業者8万6000余人で約7割が至急救済が必要。
●日本銀行、2月の卸売物価指数総平均は200で、大正10年(1921年)来最低を記録と発表。
●大震災復興局を廃止、局員の約半数860人失職。
(4月)
●全国の小学校教員の馘首者(解雇・免職)、全国(32県)の合計、この日までにわかっただけで約8000人。
●東京府、5郡の「細民」調査、救護を要する世帯数4万8177、19万1481人と発表。
●株価の値下がりで全株式の時価総計140億円余、半年で約10億円減。
●三井物産が全社員に給与減額の予告書を配布、一般会社への影響甚大と新聞報道。
(5月)
●浅野セメント大阪工場、従来の10時間労働制を8時間制とし、2割5分の減給を決定。
●三菱長崎造船所、剰余職工の順番休業を実施(交替で1週間ずつ休業で日給6割支給)
●東京土木建築業組合員約4000人が「全国の建築業関係の失業者は6,70万人」と失業防止大会を開く。
●蚕糸中央会評議会、養蚕家への低利融資の要望と、生糸の2割減産を決定。
●セメント連合会6・7・8月の減産率を5割1分5厘に決定。
●内務省、4月の求職者9万7178人のうち就職者2万7054人と発表。
●中央職業紹介事務局、全国270の職業紹介所を動員して一斉に求人開拓を開始。
●東京府、給食を必要とする欠食児童は市内郡部合わせて2168人と発表。
(6月)
●東京朝日新聞社・糧友会共催による、東京府・市内の欠食学童に対する無料パン配給始まる。
●警視庁、貧困家庭救済のため、10銭食券10万2000枚を所轄18署に配布。
●多発する放火事件、検挙の8割は保険金目当てと警視庁。
●内務省が5月1日現在の卒業生の就職概要発表。大卒9.2%、専門学校卒14%、中卒23.4%。
●長野県の模範納税村(諏訪郡中州村)、不景気と繭価安のため県税と家屋税の滞納を決める。
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1930年昭和5年6月18日 |
●銀塊価格大暴落-中国経済大打撃
●昭和5年2月から、インドなどの銀本位制離脱もあり銀塊の国際相場が急落していたが、6月大暴落した。そしてこの暴落によって銀本位制の中国は大打撃を受けた。そして日本も、繊維、雑貨などの対中国輸出が半減し打撃を受けたのである。 |
1930年昭和5年7月18・19 |
●北九州大暴風雨
●これは台風で、死者82人、負傷者多数、住居家屋全壊7272戸、汽船の沈没や難破数百とある。
(新聞)7/19東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
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1930年昭和5年8月27日 |
●日本銀行の正貨準備8億6000万円,大正8年以来の最低記録 |
1930年昭和5年9月 |
大量失業時代、都市で失業し無一文で徒歩帰郷する人が増える、と新聞報道
(6/11内務省発表-大卒の就職率10%割る5/1現在)
●横浜の戸塚警察署によれば、夏以来このような失業者の数は日に日にふえ、多い日は60人くらいになったという。このような増加し続ける失業者に対して、政府は救済よりも都市の治安保持から「ともかく故郷へ」と呼び掛けていた。しかし郷里にたどり着いた失業者たちを迎えたのは、より深刻な農業不況だった。都市から帰京した失業者を扶養する力は、すでになかった。彼らの多くは、再び都市へと逆流するほかなかったのである。都市における流民化現象は、こうして一層その度合いを深めていった。8/25には、道府県農会長会議実行委員会は「農村には都市失業者を引き受ける余地なし」と農相に陳情していた。
●このような都市に流入あるいは逆流した失業者は「細民(貧民)」として最底辺の生活を余儀なくされていた。昭和4年に早大教授今和次郎ら編纂した「新版大東京案内」では、「細民」世帯数3万685、「細民」人口12万3030人と報告した。また一方当時約20万人といわれた朝鮮人労働者は、さらに劣悪な条件から、その多くが流民化していった。
●一方政府の対応は、失業対策として全国の道路改修工事の実施や、職業紹介にも力を入れた。また神戸市、東京市は失業保険制度を小規模ながら開始した。だが政府自体の考えは、失業者に金銭的な援助を与えるというような発想はなかった。井上準之助大蔵大臣は次のように発言した。(「改造」昭和5年7月号座談会)
「不景気のもとで失業者の出るのは当然」といい「人間の力で失業者を防ぐことは出来やしません」
また内務大臣安達謙蔵は同じく(前出)次のように発言した。
「失業手当などやると、遊民惰民を生ずるから、さういふ弊害を極力防(ふせ)がうと考えて居る」
(新聞)9/3東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1930年昭和5年9月19日 |
●蟹工船エトロフ丸函館に入港、直ちに幹部10数人を検挙。8/27の朝日新聞には、「カニ工船の漁夫虐待、死者18名を出す」とあり「奇怪の虐殺説伝ふ」、とある。 |
1930年昭和5年9月26日 |
●生糸暴落,明治29年来の安値,農業恐慌深刻化。横浜生糸市場で10斤(約600グラム)当たり60円を割り開設以来の安値を記録した。 |
1930年昭和5年9月 |
●陸軍青年将校が「桜会」を結成。
(注)「桜会」旧陸軍将校の秘密結社。昭和5年(1930年)橋本欣五郎、長勇ら昭和の軍閥を構成する参謀本部や陸軍省の佐官級中堅将校が結成。満州侵略とそのための国家改造を目的に、北一輝、大川周明らと結んで、翌6年の三月事件、十月事件(錦旗革命事件)などをくわだて、満州事変の発生にも暗躍した。十月事件後に自然消滅。(出典)「日本国語大辞典精選版」 |
1930年昭和5年10月1日 |
昭和初の国勢調査実施
●内閣統計局による第3回国勢調査が10/1午前零時を期して全国一斉に行われた。
●昭和5年の確定総人口(90,396,043)の内訳は次のようである。内地(64,450,005)朝鮮(21,058,305)台湾(4,592,537)樺太(295,196)帝国全版図計(90,396,043)、そして関東州(1,328,011)南洋群島(56,294)であった。
●しかし12/10に発表された失業者数32万2527人は、おなじく世界恐慌に苦しむイギリスの150万人、ドイツの250万人と比べるとはるかに少なかった。これは失業の規定が緩やかなため、実態とはかけはなれた数字であったいわれる。 |
1930年昭和5年10月1日 |
●特急「つばめ」東京・神戸間を9時間で走る。

●それまでの特急「富士」「桜」に比べて2時間20分速く、最高時速95キロ、平均時速67.5キロだった。この「つばめ」の成功は、不況による収入の落ち込みを打破する国鉄にとって起死回生の快挙となった。この発案者は、大阪鉄道局から運輸局運転課長に転任してきた結城弘毅で、彼は記者会見で「東京-大阪間をノンストップで走って、今より3時間早く、8時間強で結んでみせる」と公言し実現させた。
(写真)10/1大阪駅を出発する「つばめ」写真-朝日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
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1930年昭和5年10月3日 |
米価惨落農業経済崩壊
●3月から生糸・繭価格の惨落が始まっていた。そしてこの10/3は豊作予想のために米価が大暴落したのである。
この米価の大暴落で農業恐慌は決定的で深刻なものとなった。地主は収入を維持するため、小作料の引き上げや上級米の納入などを要求した。これは小作人にとって大きな負担となり、小作料未払いが続出した。さらに中小地主は小作人から農地の返還を求め、土地を自ら耕すことでこの危機を切り抜けようとしたのである。また3月からの生糸・繭価格の惨落は、農家にとって貴重な現金収入だった養蚕による収入を断ち切った。こうして追い詰められた農家は、公課金の滞納、借入金の不払い、小作料不納などの猶予を求めて闘争を始めたのである。だが根本的な解決策のないまま農村は「婦女子の身売り」など、とめどもなく疲弊していき、昭和の重い課題となったのである。 |
不況をあらわす事例(昭和5年中7月からの半年間)
解雇・賃下げなどによる争議発生事例は除いた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
(7月)
●東京府1109万余円の大型失業救済事業費を決定。糸価暴落で、長野県下諏訪町の製糸工場69が、無期限の一斉休業を申し合わせる。
●農村の疲弊を救済する全国的運動をおこすため、全国町村長会長協議会を開催。
●東京市、財政難で新規採用予定1人のところ、185人の応募があったため1人の採用では厳しすぎると採用自体を中止する。
●秋田県、財政悪化のため県下小学校100校で教員の俸給未払いになると発表。

(8月)
●埼玉県熊谷町を中心とする養蚕地帯で、不況から電気料を払えずランプ生活に戻る農家が続出と新聞報道。
●和歌山県興行組合は、県下40の劇場・映画館の一斉休業を決める(経営の見込みが立つまで)。
●内務省6/1現在の全国失業者数約38万人、失業率5.33%と発表。
●昭和5年度上半期の小作争議は、帰農者・耕作希望小地主の増加による土地返還争議が目立つと新聞報道。
●岩手県の食糧欠乏農家が4000戸に達し、朝食節約のため朝寝をしたり、草木の根を食べていると新聞報道。
(9月)
●群馬県では不況のため、小学校の修学旅行はなるべく中止、中学校は許可制と通牒と新聞。
●福岡県稲築村の三井炭鉱山野鉱業所、不況対策で280人の坑内女子労働者全員を解雇。
●東京地方失業救済委員会、7月現在の府下の失業者12万4212人(女子1万4000余人)と発表。
(10月)
●福岡県三井田川鉱業所突然482人の整理を発表、即日解雇手当を支給する。東京府学務部、小学校教員初任給引き下げ・代用教員整理・師範学校入学定員削減の方針を決める。
(11月)
●東京市が出稼ぎ防止パンフレット「東京へ来たら餓死します」を各地に配布する。
●神戸・長崎の両三菱造船所が合計約2500人を解雇、解雇手当は1人平均約1000円。
●東京市水道局は大幅な減収を理由に従業員174人に解雇を申し渡す。
●川崎造船所、臨時職工70人を解雇し、1350人に帰休を命ずる、帰休の期限は12月末まで。
●東京市土木局、187人の整理を発表。
(12月)
●政府、閣議で失業対策公債3400万円の発効を決定。不況の深刻化により公債減少方針を変更する。
●内務省、財政窮乏から官公吏、職員の年末賞与節約を考慮するよう通達。
●東京市内の浮浪者1500人、各宿泊所所長に引率され、社会奉仕として深夜市内各所の道路を清掃。
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1930年昭和5年10月27日 |
●台湾霧社事件勃発。
●これは、台湾台中州霧社(むしゃ=地名)の山岳民族が反日暴動を起こし、日本人134人を殺害した事件である。日本は当時、台湾の高地族を高砂族(たかさごぞく)とよんで、「首狩り、争闘を常習とする部族」として、警察権力による抑圧と馴致(じゅんち=なれさせること)の両面支配の体制をとっていた。そして台湾全島の約45%を占める高地族の主要居住地を「蕃地(ばんち=未開の土地)」とよび、その居住部落を「蕃社(ばんしゃ)」とよんだ。そしてこの地域を特殊行政地として隔離し、警察官による専制支配のもとに、教育、水田耕作の授産(じゅさん=暮らしを立てさせること)等の行政を行い、これを「理蕃」とよんだ。この「霧社」地区は「理蕃」のなかでも有数の「開化」地区とされていた。
●この事件は、日本の民族差別政策ゃ強制労役などに対する反抗と考えられた。指導者のモーナ・ルーダオは、山岳戦など執拗な抵抗を行い、最後には捕虜の屈辱を受けるより死を選び、親族18人とともに集団自決をした。
(新聞)10/29東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1930年昭和5年10月31日 |
●閣議、中国の正式呼称を「支那」から「中華民国」に変更することを決める。 |
1930年昭和5年11月14日 |
濱口首相東京駅頭で狙撃される

●濱口雄幸首相は岡山で開かれる陸軍大演習を陪観するため、東京駅で駅長の先導で特急乗車に向かう途上、右翼青年佐郷谷留雄(23歳)にピストルで狙撃された。その動機は、裁判の判決文を要約すると次のようである。「・・濱口内閣が軍部の意見を無視してアメリカの主張に屈し、軍艦縮小条約(ロンドン会議)を締結したのは、外交の一大恥辱であり、兵力量決定に関する大権を干犯するもので、国防の安全を脅かし、国家の存立を危うくするものと痛く憤慨し、濱口首相殺害を決意した」とある。
軍部は、軍の統帥権は天皇にあり、それは兵力量の決定にも及ぶとし「政府はその統帥権を干犯した」と攻撃し、右翼団体もそれを政府攻撃の武器にした。濱口首相は翌1931年この傷がもとで死亡した。
(新聞)11/15東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
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1930年昭和5年11月16日 |
(争議中の富士紡川崎工場に「煙突男」現れ、高さ約40mの煙突の上で争議団を激励する。)
●昭和5年6月、富士瓦斯紡績は突如、不況を理由に川崎工場の従業員2894人のうち 378人の解雇を通告してきた、組合執行部は解雇を受け入れたが、会社は3カ月後さらに1割の賃下げを通告した。これに対して数10人の組合員が反発し、ストを決行したのである。
会社側は直ちにスト参加者をロックアウトすると同時に、主要メンバー30人を解雇した。そしてそのまま40日以上が過ぎて、労働者側の惨敗は必至かと思われた時、「煙突男」が現れたのである。
●この事件の結末は、11月21日、中国地方での陸軍特別大演習を統監した天皇がお召し列車で帰京する予定があったことである。このままいけば、「煙突男」が多摩川にかかるお召列車を見下ろすことになる。このような「不敬な事態」を恐れた内務省が、神奈川県警本部長に、列車通過前に「煙突男」を必ず引き下ろすように命じたのである。こうしてしぶる会社側を警察が説得して、争議団の勝利で終わらせたのであった。 |
1930年昭和5年11月19日 |
●海軍工廠の従業員1万人の解雇を決定。海軍軍縮会議により事業費2割5分削減のため。
(新聞)11/20東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1930年昭和5年11月20日 |
●長島愛生園が開設される。わが国初の国立癩病(らいびょう=ハンセン病)療養所である。当時は「不治の病」として過度に恐れられていた伝染病だったが、大戦後昭和22年(1947年)、画期的な特効薬プロミンができて、ハンセン病は「不治の病」ではなくなった。 |
1930年昭和5年11月26日 |
●伊豆地方に大地震(M7.0)
この地震は、死者272人、負傷者572人、家屋全半壊7681戸という大惨事となった。(北伊豆地震)(新聞)11/27東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1930年昭和5年12月15日 |
●「国旗」の制式(=定められた様式。きまり)と掲揚の方法を閣議決定する
●国旗は門内から見て右に掲揚し、日の出から日没まで、雨天には掲揚しない。
(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
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1930年昭和5年12月23日 |
●文部省「家庭教育振興ニ関スル件」を訓令。家庭は「心身育成人格涵養(かんよう=徐々に養い育てること)の苗圃(びょうほ=草木の苗を育てるための畑)」であり、子供の教育は家庭教育が基礎で、母親の責任は重いと注意を促した。翌年3月には家庭教育振興の名目で婦人を動員、大日本連合婦人会を設立した。 |
1930年(昭和5年)その他の事件・災害・文化など
「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
●1/1鉄道省,全線でメートル法実施
●1/11 金輸出解禁(1月10日現在,日銀正貨準備10億7333万円)
●1/15 全国民衆党・大阪無産大衆党結党
●1 /21 衆議院解散

●1/21 日・英・米・仏・伊の海軍軍縮会離,ロンドンに開催
●1/21 臨時産業審議会官制公布施行
●1/25 第1回朝日賞を坪内逍遙・栖原豊太郎・前田青邨・入江稔夫に贈る
●1/26 名古屋・ロンドン間の無線電信開始
●2/20 第17回衆議院総選挙
●2/21 正貨現送高1億円突破
●2/24 共産党全国的大検挙,8月まで継続,検挙1500人のうち起訴461人
●3/6 海軍軍縮会議,日本の潜水艦2000トン案通る
●3/8 政府,生糸市場安定のため補償法適用を声明(4月5日貸し出し開始)
●3/10 朝鮮・鎮海で映画観覧の小学生104人焼死
●3/12 ガンジー,対英不服従行脚を開始
●3/15 東京・横須賀間省線電車開通
●3/20 政府,国産品使用を申し合わせ
●3/24 労農党,各無産政党に合同を提唱
●3/23~26 帝都復興祭,26日天皇もご出席,皇居前広場で復興祝典
●3/28 蚕糸中央会,恐慌相場出現で全岡蚕糸業者へ警告
●3/28 内村鑑三死去
●3/29 東京劇場開場式
●3/30 内務省発表によると昭和4年中労働争議600件,参加人員7万8000人(最高記録)
●4/1 上野駅地下道に商店街開店
●4/2 福岡県洞海湾で渡船沈没,70余人水死
●4/2 ロンドン軍縮会議で主力艦,補助艦の日・英・米協定成立
●4/3 印度綿業保護法案英上院を通過(4日実施)
●4/9 鐘紡36工場,操短減給反対の争議3万5000人参加,6月3日まで続く
●4/11 東京株式取引所,鐘紡問題で立ち会い休止,ついに休会(12日再開)
●4/13 東京・板橋の岩ノ坂部落で養育金目的のもらい子殺し発覚,殺害41人
●4/17 正米市場規則制定(即日施行)
●4/18 英華間威海衛還付協定正式調印
●4/18 国際観光局官制公布(24日開設)
●4/20 東京市電の首切り反対争議,スト破りに青年団動員,右派3000人就業(25日解決)
●4/21 釜山取引所疑獄事件予審終結(山梨半造の有罪決定)
●4/22 ロンドン海軍軍縮条約調印(10月2日批准,昭和6年1月1日公布)
●4/22 国際決済銀行正式成立
●4/23 第58特別帝国議会開会
●4/25 政友会犬養毅・鳩山一郎,衆院で,統帥権干犯問題を追及
●4/26 失業防止委員会設置
●4/28 金解禁後の正貨兌換累計2億円を計上
●5/1 第11回メーデー,川崎で武装デモ
●5/3 商工省に貿易局新設
●5/5 第1回全日本健康優良児表彰式,日本一は望月茂輝・滝谷一子
●5/6 日華関税協定正式調印
●5/9 男装の麗人水ノ江滝子,初めてショートカットで出演
●5/10 制限つき婦人公民権案,衆院で可決(貴族院で審議未了)
●5/17 輸出補償法公布(8月1日施行)
●5/20 軍令部の草刈英治少佐,列車内で割腹自殺
●5/29 海軍航空隊令公布
●5/30 満州間島で朝鮮人武装暴動起こる
●6/1 全国労働組合創立
●6/1 商工省臨時産業合理局開設
●6/6 東京・大塚に女子だけのアパート開館
●6/10 軍令部長加藤寛治,統帥権問題で帷幄上奏により辞表提出
●6/12 関西資本家団体・商工会議所などに続き6大都市商工会議所代表,労働組合法案に絶対反対を表明
●6/21 国民政府,張学良を陸海軍副司令に任命
●7/8 倉敷労働科学研究所独立
●7/18 九州大暴風雨,熊本・鹿児島で死者16人,家屋全壊3160戸,流失船舶257
●7/20 日本大衆党・全国民衆党・無産政党戦線統一協議会合同,全国大衆党結党
●7/23 南イタリア大地震,ポゾーラ火山噴火
●7/27 中国共産軍,長沙ソビエト政府樹立(28日,日本領事館焼き払われる,8月倒れる)
●8/1 肥料配給改善助成規則公布(即日施行)
●8/18 谷崎潤一郎夫人離婚し佐藤春夫と結婚することになり3者合意声明
●8/19 農漁村救済7000万円融資案決定
●8/20 広島商業,全国中等野球大会に前年に続き優勝
●8/27 日本銀行の正貨準備8億6000万円,大正8年以来の最低記録
●9/1 東京・本所被服廠跡の震災記念堂完工
●9/1 閥錫山・汪兆銘ら反蒋北方政府樹立
●9/5 生保証券会社設立決定(10月7日設立)
●9/10 米価大暴落,大豊作で大正6年以来の安値
●9/18 張学良,国民政府中央擁護を通電
●9/25 生糸暴落,明治29年来の安値,農業恐慌深刻化
●9/~ 軍部ファシズム激化,陸軍中佐橋本欣五郎ら,上層部黙認の「桜会」結成,岡家改造クーデターを計画
●10/1 第3回国勢調査施行(内地総人口6444万7724人)
●10/1 枢密院本会議,ロンドン条約諮詢案を可決
●10/1 郵便貯金の年利を4.2%に引き下げ
●10/1 東京・神戸間に超特急「燕」の運転開始,東京・大阪間8時間20分
●10/3 東京・大阪清算米取引所,大豊作予想で立ち会い休止,全国市場立ち会い不能
●10/3 主要金融機関,産業調査協会を設立
●10/4 世界最大の英R 101飛行船墜落,47人惨死
●10/16 米穀対策もみの貯蔵目的に6000万円低資融通方針決定
●10/27 台湾能高郡霧社事件,内地人ら136人惨殺され6年4月軍隊が鎮圧
●10/27 首相浜口雄幸・英首相マクドナルド・米大統領フーバー,軍縮精神につき全世界へ軍縮記念放送
●10/29 中国の正式呼称を「支那」から「中華民国」に変更と閣議決定
●11/14 浜口首相,東京駅で愛国社員佐郷屋留雄に撃たれ重傷
●11/15 日本・エチオピア間修好通商条約調印(7年9月14日公布,同27日実施)
●11/16 富士ガス紡川崎工場のストで煙突男出現
●11/24 警視庁,エロ演芸取り締まりを各署に通達
●11/26 伊豆地方大震災(死者258人,家屋全壊2300余戸,半壊5600余戸)
●12/1 朝鮮の地方制度を大改正,府制・面制各改正ならびに道制を公布(6年4月1日施行)
●12/15 東京府下15新聞社,政府の言論圧迫に反対し共同宣言を発表
●12/18 内相安達謙蔵,新聞社共同宣言に陳謝釈明
●12/18 東京地裁,説教強盗妻木松吉に無期懲役判決
●12/18 ジャワ島メラピ火山爆発,犠牲者約1000人
●12/20 参宮急行電車開通
●12/26 第59帝国議会開会
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