1928年(昭和3年)陸軍が張作霖爆殺事件(満州某重大事件)を起こす。

アジア・太平洋戦争

昭和天皇即位大礼(11/10)。天皇、「高御座」で即位の勅語。「国体」とは。
●昭和3年(1928年)11月10日、秋晴れの京都で即位大礼が挙行された。この国家行事の意味するところは、大礼使設置の際の内閣総理大臣の次の訓示にあらわされている。

「我ガ国民ハ国ヲ挙リテ深ク思ヲ建国ノ昔ニ潜メ皇位ノ神聖ナルヲ仰ギ国体ノ尊厳ナルヲ念(おも)ヒ感奮踴躍相率ヒテ忠愛ノ至情ヲ捧ゲ宝祚ノ無窮ヲ禱(いの)リ国運ノ隆昌ヲ祝セントス」

(新聞)11/11東京朝日新聞(夕刊)(第1)(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

目次
昭和3年 主要項目
昭和3年(1928年)
田中義一内閣
●政府は第1回男子普通選挙(2/20)を実施するが、3/15には、共産党員および労農党などの関係者1568人を全国で一斉検挙した(3.15事件)。そして6/29には治安維持法を緊急勅令で改正し、国体変革を目的とする勢力(共産党など)を徹底的に弾圧した(特別高等警察の機構拡張も行う)。
●田中内閣は対中国強硬外交を推進し、山東出兵、済南事件を起こした。そして6/4陸軍は張作霖爆殺事件(満州某重大事件)を起こす。
●11月10日、昭和天皇の即位大礼が秋晴れの京都で挙行された。即位は、大正天皇崩御より約1年10ヶ月半後のことである。践祚と即位は同義であり、先帝の崩御あるいは譲位の直後に行われた。だが即位は、桓武天皇(在位781年~806年)の時より別の日に行うことが常例となったといわれる。

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年表1928年(昭和3年)
年・月 1928年(昭和3年)
●(昭和3年の田中内閣の政治・経済)
田中内閣の経済政策は、積極財政を展開し金解禁には消極的だった。そして財閥の後押しがあり「金権体質」ともいわれた。しかし日本の為替相場の低迷と日本外債の価格低迷は、巨額な対外債務をかかえ、しかも継続的に外債発行を必要とする日本にとって、金本位制復帰による国際信用の回復は必要不可欠なものであった。そして昭和3年12月、経済審議会は、「国際収支の均衡をはかるため金輸出の解禁を断行すべし」との答申案を満場一致で可決し、政府は閣議で金の輸出解禁にむけて調査を開始する旨の申し合わせを行った。次の濱口雄幸内閣だけが金解禁を政策課題にしたわけではない。
日中関係略年表

●1927年(昭和2年)田中義一政友会内閣成立から、済南事件(1928年5/3)、張作霖爆殺事件(1928年6/4)までの日中関係略年表
「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋


昭和2年(1927)
4/20…田中義一政友会内閣成立。
5/11…蒋介石(国民革命軍)、北伐再開。

下

1928年
昭和3年
1月1日
銀行法施行。大蔵省による監視・指導と5大銀行集中

●この法律は、銀行の最低資本金を100万円(大都市では200万円)と定め、明治以来の中小銀行の乱立等の問題の解決を目指すものであった。政府は条件に満たない銀行に対して、廃業または他行との合併をもとめた。さらに大蔵省銀行局に検査課を設け、銀行への監視・指導を強化した。日本の銀行制度・金融行政が刷新されたのである。そして日本の銀行は、5大銀行(三井・三菱・安田・住友・第一)に集中していく。
(上表)「普通銀行数の推移(1896-1945年)」(出典)「日本経済史」慶応義塾大学出版会発行(2011年)

1928年
昭和3年
1月12日
(大相撲実況中継始まる。)
●ラジオによる大相撲実況中継が、東京の国技館大相撲春場所から始まった。実況放送が人気を呼び、大相撲は人気を盛り返していった。前年の昭和2年、東京と大阪に分立していた相撲協会は、人気の衰退を挽回するために合併し、日本大角力協会を設立していた。
1928年
昭和3年
1月19日
●全日本農民組合・全日本農民組合同盟・中部日本農民組合有志が合同を決定し全日本農民組合と称する。会員数5万人。
1928年
昭和3年
1月21日
●再開された第54帝国議会は同日解散された。これは田中内閣(政友会)が民政党から提出された内閣不信任案上程に先立ち議会を解散したもので、これにより2月20日に第1回普通選挙が行われることとなった。
1928年
昭和3年
1月23日
日ソ漁業条約調印

●この条約交渉は難航していたが、後藤新平の斡旋により合意をみた。後藤新平は初代満州鉄道総裁時代からロシアとの関係が深く、元内相・外相であり元東京市長でもあった。田中義一首相が直接後藤にこの斡旋を頼んだという。(後藤はスターリンとも2度ひざ詰め談判をしたという)
●この「日ソ漁業条約」は第2次といわれ、第1次条約は日露戦争講和条約であるポーツマス条約に基づいて1907年に結ばれていた。この頃の北洋漁業(カムチャッカ沿岸、オホーツク海、ベーリング海を漁場)は、事実上日本が独占的に操業を行っていた。それが第1次条約によって法的に認められたので、日本の北洋漁業はさらに発展し、漁獲物もそれまでの「たら」から「さけ」「ます」の資源開発が加わり、獲得した漁区も1917年までに倍増した。
●この第1次条約は1919年9月に失効したが、ロシアは革命期にあたり、日本は交渉相手が定まらず北洋漁業は不安定な操業となっていた。そこで日本は1921年、1922年と「自主出漁」を宣言して操業を行った。これは「自衛出漁」ともよばれ、沿海州には戦艦三笠、カムチャッカへは巡洋艦新高、戦艦岩見が派遣された。
●なぜ軍艦まで派遣したかといえば、この頃には北洋漁業はさらに発展し、母船工法による「かに」の漁獲と缶詰加工が、イギリス・アメリカに向けた輸出による有力な外貨獲得源になっていたからである。缶詰の生産高は、1921年270函(はこ)、1923年3万3800函、1927年には33万7000函と、6年間で122倍増となり、その大部分が輸出されたのである。
●絵は「ベーリング海のさけやかにを売りものにした日魯漁業の広告-写真・『アサヒグラフ』昭和2年11月30日号」(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊。
●「日魯漁業」とはマルハと経営統合した現在の「マルハニチロ」である。また「日魯」の意味は分かち書きして「日・魚・日」で「日々の豊漁を示し」、「日魯」の魯は「魯西亜・外国事情書(1839)」のロシアの「ロ」の意味であるという。広告にある缶詰は、100年にわたって現在も使われているデザインである。

●「かに工船」には中甲板に缶詰工場が設置され、一隻に400人ばかりの「雑夫」が詰め込まれ「監獄部屋」といわれた。小樽出身のプロレタリア作家小林多喜二の「蟹工船」は代表作のひとつである。

*リンクします「蟹工船」→国立国会図書館デジタルコレクション
1928年
昭和3年
2月
●2/1、日本共産党、機関紙・赤旗(せっき)を創刊した。(非合法)
●2/11、第2回冬季オリンピック(サンモリッツ)で開催。日本スキー選手団の選手役員7人が初参加する。
1928年
昭和3年
2月11日
(第3回建国祭が挙行される)
●これは1926年創立の国家主義団体建国会(会長東大教授上杉慎吉)の幹部赤尾敏が、メーデーに対抗するため国家主義、国体賛美の示威運動を構想して実現したものである。そしてこの建国祭は年々規模拡大し、紀元節(神武天皇即位の日で戦後「建国記念の日」として復活)の国家行事として定着していった。しかし逆に国家による組織化のために、当初の右翼の情熱が失われ、永田(建国祭本部委員長)や赤尾らは昭和9年からは参加をやめた。
1928年
昭和3年
2月20日
初めての男子普通選挙が実施される(第16回衆議院総選挙)


●この選挙は1925年に公布された改正選挙法(男子普通選挙法)にもとづく初めての総選挙だった。これは、それまでの納税額による選挙資格の制限を撤廃し、25歳以上の男子に選挙権を付与したもので、これにより有権者数は従来の4倍の総人口の20.1%、1241万人となった。
●またこの普通選挙法成立にあたって枢密院が、共産主義など現体制を脅かす思想を取り締まるため、「治安維持法」を成立させたことも忘れてはならない。
●それでもこの普通選挙実施に対しては、大手新聞・通信21社は昭和3年1月に共同宣言を発し、1897年以来の普選運動の成果として、ひとまず「画期的選挙法」であると評価した。
●選挙結果は政友会217議席、民政党216議席、他政党では実業同志会が4議席、革新党3議席、中立その他18議席、労働農民党2議席、社会民衆党4議席、日本労農党1議席、日本農民党0議席、地方政党1議席、合計466議席であった。下の朝日新聞の数値とは相違しているが、速報レベルかもしれない。上2/20、下2/24東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行


●この「普通選挙法」の中の、「選挙権及び被選挙権」の章から一部を抜き出してみた。被選挙権・選挙権をもたない者のポイントは次のようであった。下段で「国立公文書館デジタルアーカイブ」の「普通選挙法(大正14年5月5日法律第47号)」にリンクした。

第2章 選挙権及び被選挙権
「第五條 帝国臣民夕ル男子ニシテ年齢二十五年以上ノ者ハ選挙権ヲ有ス」
(女子には選挙権も被選挙権もなかった)
「第六條 左ニ掲クル者ハ選挙権及被選挙権ヲ有セス」として
 一 禁治産者及準禁治産者
 ニ 破産者ニシテ復権ヲ得ザル者  
 三 貧困ノ為公私ノ救恤(きゅうじゅつ)ヲ受クル者 (下記のように修正された)
 三 貧困ニ因リ生活ノ為公私ノ救助ヲ受ケ又ハ扶助ヲ受クル者
(この「貧困ノ為」を貴族院は削り欠格範囲を拡大しようとしたが、両院協議会の協議により、「貧困ニ因リ」に字句を修正することにより、兄弟・親子の相互扶助は欠格要件とならないようにしたのである)
 四 一定ノ住居ヲ有セサル者
 五 六年ノ懲役又ハ禁錮以上ノ刑二處セラレタル者
(略)
第七條 華族ノ戸主ハ選挙権及被選挙権ヲ有セス
 陸海軍軍人ニシテ現役中ノ者(未夕入営セサル者及帰休下士官兵ヲ除ク)及戦時若ハ事変二際シ召集中ノ者ハ選挙権及被選挙権ヲ有セス兵籍ニ編入セラレタル學生生徒(勅令ヲ以テ定ムル者ヲ除ク)及志願ニ依り国民軍ニ編入セラレタル者亦同シ
(略)

*リンクします「衆議院議員選挙法(大正14年5月5日法律第47号)
《通称: 普通選挙法》」
「国立公文書館デジタルアーカイブ」

政友会と民政党の広告合戦



●左は普通選挙を前に政友会、民政党の政策や綱領の新聞広告(東京日日新聞)である。出典は下段の「国会図書館・資料にみる日本の近代」からである。また政友会と民政党は、他の「東京朝日新聞」にも1ページ広告を載せて自党の政策等をアピールした。また田中首相は自身の選挙演説をレコードに吹き込み、政友会候補の応援のため全国に送った。
●だが、田中内閣の野党に対する選挙違反の摘発は集中的に行われた。特に総選挙初登場の無産政党に対しては容赦の無い弾圧を加えた。最左派の労働農民党(委員長大山郁夫)、中間派の日本労農党(委員長麻生久)、右派の社会民衆党(委員長安部磯雄)へは治安維持法を武器に弾圧を加えた。なかでも共産党の合法組織と目された労働農民党への弾圧はすさまじいものだった。
●2月20日に内務省が発表した選挙違反人員は、与党政友会164人、民政党1701人、その他605人とある。一例をあげると、労働農民党の委員長大山郁夫が1/26香川入りして80回以上の演説会を試みたが、そのほとんどが本題に入る前に警察官によって中止されられた。著名な中央の学者・弁護士・ジャーナリストを応援弁士に呼んでも、演壇で「諸君」といえば中止、抗議すると検束という弾圧であった。
(下写真)昭和3年2月、警官立ち会いの下で行われた立会演説会。-写真・中日新聞社(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊。


*リンクします「国立国会図書館」第1回普通選挙の
「政友会の主要政策」と「普選に臨む立憲民政党の主義綱領」
「国会図書館・資料にみる日本の近代」
1928年
昭和3年
3月11日
受験制度改革と教育現場の支配

●東京府立中学校・高等女学校で初めて、昨年度文部省通牒「中等学校試験制度改正に関する件」による改正受験が実施された。これは社会問題と化した「受験地獄」への対応として、文部省が従来の試験制度を廃止し、小学校校長による「成績内申」と「口頭試問」による人物考査の2本建てにするというものだった。
●しかし小学校校長による内申を重視するということは、当初より圧力や情実の懸念があった。そして実際に昭和4年3月には、大阪府で内申書を偽造した校長、教員120人が懲戒処分になるという事件が起きた。結果文部省は「必要ある場合には筆答試験を加える」ことを認めたのである。
●一方文部省は昭和3年3月、新たに道府県の学務部に専任視学(地方視学官)各1人を配置した。この視学とよばれるものは1873年頃からあったが、昭和に入ると、この視学官は国が定めた教育内容の監督、指導だけでなく、教師の身分、人事にまで強大な権力を振るい、学校現場から恐れられる存在となった。以後日本の教育は、この視学官配置などを柱として、教育の国家管理、軍国主義教育への傾斜を強めていった。

1928年
昭和3年
3月15日未明
3・15事件(日本共産党員大量検挙)

●共産党員および労農党などの関係者1568人を全国で一斉検挙した。捜査は内務・司法両省が連携し、全国各地の警察を動員して、1道3府27県、100数十カ所に及んだ。検挙者のなかには、共産党幹部の志賀義雄、山本懸蔵(5/8病気自宅監視より逃亡)、佐野文夫らも含まれていたが、その他の多くの幹部は逮捕を免れた。東京では警視庁の特高(特別高等警察)課も動き、活動家の自宅、共産党員が出入りしているといわれた労働農民党本部、日本労働組合評議会本部、東京市従業員組合本部、無産者新聞社、マルクス書房など50カ所あまりを一斉捜査した。
●政府は、「国家の根幹である『国体』を変革すること」を目的とする共産党の壊滅作戦を決行したのであった。
(上写真)3.15事件で検挙された被告たちが、大阪地裁で判決を受け、囚人用の編笠をかぶせられて退所するところ昭和4年(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊


(日本共産党綱領草案など)
●当時の共産党の綱領や行動指針を理解するのは難しいが、その概要を知ることができる。以下のリンク先から綱領草案の一部分を引用してみた。
当時の共産党はコミンテルン(ソビエト連邦の共産党が組織した各国共産主義政党の国際統一組織)の指令によって活動を行っていた。

(日本共産党の当面の要求)
●政治的・社会的分野 
①君主制の廃止(天皇制)②貴族院の廃止 ③18歳以上への無制限の普通選挙権 ④労働者・農民の完全な団結権 ⑤言論・出版・集会の自由 ⑥デモの自由 ⑦ストライキの自由 ⑧軍隊・警察・憲兵隊およびスパイ制度の廃止 ⑨労働者・農民の武装 ⑩被差別部落民に対する差別の完全な撤廃 ⑪死刑制度の廃止 ⑫家族制度の廃止 ⑬土地・奢侈品への高率課税制度および高率の累進課税制度の創設 ⑭間接税の廃止 ⑮教育の機会均等 ⑯生活必需品価格の公的統制 ⑰家父長制の廃止
●経済的分野
①8時間労働制 ②労働保険 ③最低賃金 ④工場委員会による工場管理 ⑤労働組合・農民組合の資本家・地主・政府との団体交渉権の承認 ⑥女性労働者および若年労働者の保護 ⑦報道機関および公共交通機関の公有
●農業分野
①大土地所有の無償での没収 ②土地の国有 ③小作制度の改善 ④農民金融制度の公的経営
●国際関係分野
①帝国主義的干渉の廃止 ②朝鮮からの軍隊の撤退 ③植民地の放棄と植民地民族の自決 ④ソヴィエト・ロシアの承認
*リンクします「1924年2月の日本共産党綱領草案」黒川伊織著
 法政大学大原社会問題研究所 2009-06-25→国立国会図書館デジタルコレクション
*リンクします「日本共産党小史」白揚社編輯部 編
 白揚社 昭和6年 刊→国立国会図書館デジタルコレクション
1928年
昭和3年
3月31日
(空母加賀竣工・ワシントン軍縮会議とその影響)
●加賀は八・八艦隊計画では戦艦だったが、ワシントン海軍軍縮条約で航空母艦に改造され、航空艦隊の主力として活躍する。これにより日本海軍は、前年3月竣工の赤城と共に2隻の巨大空母を保有することになった。日本海軍では航空母艦には「鳥や竜」など空を飛ぶ動物の名をつける。ところが、この2隻には「加賀」(国名=戦艦)と「赤城」(山名=巡洋戦艦)の名がつけられている。このことからも軍縮条約で変更されたことがわかる。この空母への改造は、各国とも割当トン数内で、基準排水量3万3000トン以下の空母を2隻を建造できるので、空母に改造したのである。(写真)上空から見た加賀。(撮影-福井静夫)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●このワシントン軍縮会議(1921年11月~1922年)のポイントは以下のようである。①10年間主力艦の建造停止②保有主力艦の基準排水量による総トン数比率をアメリカ・5、イギリス・5、日本・3、フランス・1.67、イタリア・1.67に決定したことである。これにより日本では、起工中の主力艦はすべて工事中止の処分を受けた。そのため進水を終わらせていた戦艦「土佐」は未完成のまま海軍に引き渡され、1924年に標的船として使われ1925年海没処分された。
●しかしこの条約では、基準排水量1万トン以下、備砲8インチ(20.3cm)以下の艦艇には制限がつけられなかったので、各国はこの制限以下の重巡洋艦の建造と重武装化に重点を移していった。
●そんな中、川崎造船所が破綻した。明治中期以来の三菱と並ぶ2大造船企業であったが、昭和2年7月、3千人の従業員の解雇と、神戸造船工場の海軍移管となる事態を迎えた。直接の原因は、昭和2年4月に金融恐慌によって主要取引銀行であった「十五銀行」(=華族銀行と呼ばれ抜群の大銀行であり、皇室や官庁の預金が多かった。)が休業したことによる。川崎造船所もワシントン条約によって、建造中の戦艦加賀、巡洋戦艦愛宕が建造中止命令を受け苦境に陥ったのであった。この川崎造船所の問題は、一民間企業の死活問題ではなく、国防上の問題でもあったので国家の救援を受けた。だが昭和6年再び破綻を迎えた。現在の川崎重工業株式会社の困難な時代の歴史である。
1928年
昭和3年
4月4日
●高速旅客蒸気機関車C53形誕生する。この蒸気機関車は大正の名機C51形にかわる旅客用蒸気機関車で、アメリカから輸入したC52形3気筒機関車を参考にした国産3気筒機関車であった。そして時速約121km、速力・牽引力ともに旅客用で最大で、多くの優等列車牽引に快速を誇った。(写真-交通公社フォトライブラリー)(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
1928年
昭和3年
4月10日
治安警察法第8条発動

●政府は労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟に対し、治安警察法第8条にもとづき解散命令を発した。この日は、3.15事件の報道解禁の日と同じ日であった。新聞には3.15事件が大きく載っている。また下に治安警察法第8条を引用した。
4/11東京朝日新聞(夕刊)(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●田中義一内閣の鈴木喜三郎内務大臣は次のように言った。要点は次のようである。「これら3団体は何れも日本共産党の大衆団体であり、共産党の指令にもとづき実際行動をおこしてきた。このような団体は断然これを排除して、公安を保全することは適切妥当の処置である」と公言した。
●また3.15事件の検挙者の中に官公立の学生が多かったことに驚いた政府は、各大学の社会科学研究会(=全国の大学・高校で作られたマルクス主義研究団体)の活動を禁止し、河上肇(=京大・経済学者、退官後共産党員、後に検挙収監、転向)ら左翼教授を学園から追放した。政府は、共産党にかかわるとみなす人物・組織を根こそぎにしようとしたのである。
4/16河上肇京大総長の辞職勧告をうけ、辞表提出。
4/17文部省、学生・生徒の思想傾向に関し、「善導徹底」を訓令する。

治安警察法第8条
「第八条 安寧秩序ヲ保持スル為必要ナル場合ニ於テハ警察官ハ屋外ノ集会又ハ多衆ノ運動若ハ群集ヲ制限、禁止若ハ解散シ又ハ屋内ノ集会ヲ解散スルコトヲ得
2 結社ニシテ前項ニ該当スルトキハ内務大臣ハ之ヲ禁止スルコトヲ得此ノ場合ニ於テ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得」
*リンクします国立公文書館「治安警察法ヲ定ム」→「公文書にみる日本のあゆみ」
1928年
昭和3年
5月3日
済南事件勃発(日本軍と中国軍武力衝突)


●これは蒋介石の国民革命軍が、北伐のため中国北方軍を追い、中国山東省の済南市へ進行してきたところ、日本人居留民保護の警備にあたっていた日本軍と武力衝突を起こした事件である。左5/4朝日新聞には「在留邦人多数惨殺」とある(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●これは陸軍省が、日本人12人虐殺を280人以上と誇大に新聞発表したためで、世論は沸騰し現地軍の武力行使を支持した。5/4、中国革命軍と停戦交渉も成立したが、日本人の惨殺死体が発見されたため、日本軍は5/9、済南城一斉攻撃を開始し5/11に占領した。

1928年
昭和3年
5月8日
第3次山東出兵を断行(名古屋師団動員)


●政府は5/8に重要閣議で第3次山東出兵を決定したが、参謀本部は全中国の武装制圧を軍事参議官会議に提出した。これに対して田中内閣は、「在支居留民の生命財産の保護と、帝国の既得権利を擁護」することにとどめると考えていたので難色を示した。この頃から政府は陸軍強行派の主張を抑えられなくなってきたのである。
(新聞)5/9の朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
(写真・部分)昭和3年5月、第三師団(名古屋)に動員令下る。ラッパの音も高らかに万歳の声に送られて出動する豊橋歩兵第十八連隊の兵士たち。(撮影-影山光洋)(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
●下段で、張作霖爆殺事件ごろまでの日中関係略年表をのせた。

1928年
昭和3年
6月4日未明
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)発生。

●この事件は、国民党軍(蒋介石・北伐)の北京侵攻を目前にして、関東軍高級参謀・河本大作大佐らが、時の北京政権の国家元首にあたる張作霖を、満州引き揚げ途上に奉天駅付近で列車ごと爆殺した事件である。
●日本は張作霖に対して、自国の満蒙の権益保護のために、資金や兵器を援助していたが、張作霖は日本の要求に従わなくなった。そこで日本は、張作霖を排除し東北軍を無力化することで、動乱(北伐)が満州へ波及することを防止することと、一挙に満州を占領することで、軍事力によって日本の権益を保護しようと意図した。
(新聞)6/5東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1928年
昭和3年
6月5日
(日本海員組合スト断行、最低賃金制を獲得する)
●前年来、日本海員組合は船主協会に社外船員の職種別最低賃金制を要求していたが、ついにその実施を迫ってストを断行した。長引けば就航船舶の7割が止まるという大事態を迎えた。この社外船というのは、日本郵船・大阪商船・三井物産の大手を除く百数十社の中小企業に属する船舶で、船員は大手と比べて劣悪な待遇であった。海事協同会は調停に失敗し、8419人371隻がストに突入し、史上空前の事態となった。
●6/7、争議解決のため仲裁委員会が労使調停にあたり、6/9にはストは解除され、仲裁委員会は労使の説得に成功した。海員組合は最低賃金制を獲得したのである。
1928年
昭和3年
6月29日
治安維持法改正、緊急勅令で公布、即日施行。

●この改正により治安維持法は「国体の変革」の罪に対しては最高刑を死刑とした。この緊急勅令による改正・治安維持法の第1条は以下のとおりである。
(新聞)6/29東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行


勅令百二十九號 治安維持法中左ノ通改正ス
第一條 國體ヲ變革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務二従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年(1941年の改正で7年)以上ノ懲役若ハ禁錮二處シ情ヲ知リテ結社二加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ二年(1941年の改正で三年)以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮二處ス
1928年
昭和3年
7月3日
(特別高等警察の機構拡張)
●内務省警保局に保安課を新設し警務官5人を置く。また全国道府県に特高課を置き、警部・刑事を増員する。
(注)(警保局)は内務省の内局の一つ。旧制の中央集権的警察制度の中央機関で、行政警察、高等警察および出版物の検閲、監獄に関する事務などを扱った。
(特別高等警察)は、旧制で特に思想運動や政治運動の取り締まりを行なった警察。明治43年(1910年)大逆事件を契機に、警視庁に特別高等課を設置させたのに始まる。(出典)「日本国語大辞典精選版」
1928年
昭和3年
7月28日
第9回オリンピック・アムステルダム大会開催

●この大会で日本勢は初の金メダルを獲得した。陸上3段跳びの織田幹雄が金、200m平泳ぎ鶴田義行が金、また日本選手団で紅一点の人見絹枝も陸上800mで銀メダルを獲得した。オリンピック大会委員会は日本選手(織田幹雄)の優勝など予想もしていなかったので、表彰用の日章旗を用意しておらず、選手団入場行進用の特大サイズの日章旗をあわてて掲揚したといわれる。そして競泳男子800m自由形リレーで銀メダル(米山弘、佐田徳平、新井信男、高石勝男)、競泳男子100m自由形で高石勝男が銅メダルを獲得、南部忠平選手も陸上3段跳びで4位に入賞した。
●人見絹枝は、1925年第2回国際女子陸上競技大会(スウェーデン)では8種目に出場し、走幅跳び、立幅跳びに優勝し大会最優秀選手となった。そしてその後も100m、200m、走幅跳びに世界新記録をマークしたスーパーウーマンだった。
●そしてこの大会で陸上競技に初めて女子種目が加えられたため、人見絹枝は日本女性として最初のオリンピック参加という名誉を担ったのである。またこの大会は、初めて聖火の導入、入場式での発祥国ギリシャを先頭にする行進、7万人収容のメインスタジアムなど、近代オリンピックの体裁が整った大会となった。
(写真)左が女子陸上800m決勝で力走する人見絹枝選手。右が人見と激しくせり合い金メダルを獲得したドイツのラトケ選手。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1928年
昭和3年
8月
東京市会疑獄事件・築地魚市場移転疑獄と京成電鉄疑獄

●明治以来、東京市における疑獄事件は絶えることがなかった。しかしこの8月の2つの疑獄事件は伏魔殿といわれた東京市政の腐敗ぶり市民の前にさらし、これを契機に市民や新聞による市政刷新運動が展開されることとなった。またこのような地方議会における相次ぐ汚職は、国政レベルの汚職(松島遊郭移転に伴う贈収賄)とあいまって、国民の間に政党不信、議会政治への失望を植え付けた。
●築地魚市場移転疑獄とは次のような事件である。江戸期以来東京日本橋にあった魚市場が、1923年の関東大震災によって全焼し、東京市は震災復興計画の一環として築地への移転を決めた。魚市場側はこの移転をめぐり市に対して「板舟権=魚市場での売場権のこと」の保証金として総額700万円を要求したことに始まる。そしてこの金額の問題で、魚市場理事と市会議員との間で贈収賄が行われていたことが発覚し、この8月、魚市場理事2人が警視庁に召喚され、その後10数日の間に、市会議員10人と魚市場側5人がつぎつぎと召喚・逮捕されたのである。
●一方、京成電鉄疑獄は、1922年以来京成電鉄が東京市内への乗り入れを計画し、数回にわたって起点の本所区押上から浅草付近まで敷設線を申請していたが、いずれも市会によって否決されたことが発端であった。そして京成電鉄は議会工作のため100万円の運動費を使い、うち40万円を市会議員買収に使ったといわれた。そして8/15、京成電鉄疑獄の中心と目されていた民政党代議士大野敬吉が召喚されると、京成電鉄社長や多数の市会議員が検挙・拘引された。
●この京成電鉄疑獄と築地魚市場移転疑獄は相互に関連しており、黒幕として暗躍した民政党・三木武吉、政友会・中島守利らも連座した。これらにより東京市会議員の逮捕、拘留者が25人に達し、東京市会は機能不全に陥った。そして監督官庁である内務省は、12月21日に市会の解散を命令、市長も翌年2月責任をとって辞任したのである。
(新聞)9/15東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1928年
昭和3年
8月27日
パリ不戦条約調印

●この平和条約は、前年4月以来ブリアン・フランス外相がアメリカに呼びかけていたもので、会議出席国15カ国で調印がなった。調印後ソ連、中国を含む各国に参加を求め、63カ国となった。内容は「国家間の紛争は平和的手段のみで解決を図る」というもので「戦争放棄に関する条約」ともいわれる。(新聞)8/27東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●朝日新聞(昭和3年8月27日)の紙面には、この「パリ不戦条約の主文」として以下のように掲載されている。

(本日調印さるる不戦條約の主文は左の通りである)
第1條・・締約国は各自その国民を代表し国際間の争議解決のため戦争に訴ふるを非とし締約国相互間の国策の具としての戦争を廃棄することをここに厳しゅくに宣言す
第2條・・締約国は各締盟国間に発生する事あるべき争議又は紛争は総てその性質又は原因の何たるを問はず平和的手段以外のものに訴へざるべき事を約す
第3條・・本條約は前文に記載の締約国により各自その憲法上の規定に従い批准せらるべく然して本條約は各国の批准書が全部寄託済となりたる時より効力を発生す

●外務省の条約検索ではこの「戦争抛棄ニ関スル條約」の「定訳」で第1条は以下のようにある。(カタカナをひらがなに変えた)

第1條・・締約国は国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし且其の相互関係に於て国家の政策の手段としての戦争を抛棄することを其の各自の人民の名に於て厳粛に宣言する

この「人民の名に於て・・」が問題になったという。これを外務省の「日本外交文書デジタルアーカイブ昭和期I第2部 第1巻」戦争抛棄に関する条約(不戦条約)締結問題をみると、「人民の名に於て・・」の問題が次のように書かれている。何が問題となったか理解できる。(カタカナをひらがなに変え、句読点を追加した)

(「人民ノ名ニ於テ」の字句削除方米当局に申入れにつき訓令・第144号至急・6月30日後発)の一部)
・・・第1條中「人民ノ名ニ於テ」なる辞句に対しては、我憲法の精神に違反するものとして相当有力なる反対論あり。即ち「人民ノ名ニ於テ戦争ノ廃止ヲ宣言ス」なる辞句が、「人民ノ為メニ戦争ノ廃止ヲ宣言ス」若くは「人民ヲシテ戦争ヲ行ハシメサルコトヲ宣言ス」と云うが如き意味とすれば差支なきも、字義としては「名ニ於テ」と云う以上「代表シテ」即ち「agentトシテ」と解釈するの外なく、斯くの如きは、国家の主権は人民に在りとする思想を前提とするものなるを以て我が憲法上の解釈としては認容し難き所なり・・・・

●この問題は野党民政党の反対や枢密院で問題となった。苦境に立たされた田中義一内閣は、この一句は日本に適用されないとの留保条件をつけて、やっと批准をとりつけた。

1928年
昭和3年
8月14日
(宮田警視総監、東京府下4カ所で二業地の新設を認可する)
●これに対して婦人矯風会・廓清会幹部が反対運動方法を協議。(広辞苑)二業地とは、料理店と芸者屋と相混在して営業を営む土地
1928年
昭和3年
8月19日
(富山県の電灯料争議、滑川町を除き解決する)
●富山県東部地区で広がっていた富山電気株式会社に対する電灯料値下げ運動が、知事の調停で解決した。これは住民が、高額な富山電気の電球や電気料金に対して、電気料金値下げ期成同盟を結成して対抗したことからはじまる。7月までに期成同盟に加入した町村は24、会社に返還した電球は2万4000個、電灯を使わないという消灯運動に参加した家は1万3000戸に達したのであった。このような不景気の中での自然発生的な住民運動に対し、各地の電気会社は紛争を避けるため電気料金値下げに踏み切った。また県当局や警察も運動の拡大を恐れ、調停や斡旋につとめた。
1928年
昭和3年
9月9日
●田中首相、憲兵司令官陸軍少将峯幸松に、張作霖事件の実地調査を命ずる。それまで白川義則陸相は、関東軍は関与しないと報告していた。しかし田中首相は、憲兵司令官陸軍少将峯幸松の報告により、事件の真相が河本大佐らの謀略であったことを知った。
1928年
昭和3年
9月18日
(国際連盟、婦人児童売買に関して調査実施を決議)
●国際連盟は、遊郭制度を保存する国々の調査実施を決議した。日本も対象となる。
(広辞苑)遊郭とは、多数の遊女屋が集まっている一定の地域。いろざと。いろまち。くるわ。遊里。明治以後、貸座敷営業が許可された地域。
1928年
昭和3年
9月28日
(秩父宮雍仁親王《ちちぶのみや やすひとしんのう=昭和天皇の弟宮》、松平勢津子と結婚)
●皇室は初めて皇族・五摂家以外から后を迎えた。松平節子(勢津子)は、旧会津藩主・松平容保(かたもり)の六男で駐米大使の松平恆雄の長女である。幕末の頃、松平容保(9代藩主)は、京都守護職となり佐幕派の中心として尊皇攘夷派(特に長州)の弾圧に努めた。そしてその後の戊辰戦争でも会津藩は徳川最後の砦として薩長と戦ったのである。そのため戊辰戦争後、新政府による会津藩処分は激烈を極め、領土没収、藩断絶、全会津藩士を謹慎処分(各地)、戦死者の埋葬禁止、一年後には、家名存続の為の立藩移住(斗南藩=となみはん=下北半島むつ市)等と、執拗な報復が続いたのであった。
●この日松平家ゆかりの会津若松市は、60年来の怨念が晴れ、朝から祝賀行事でわきかえったという。
(写真)昭和3年9月、松平勢津子、秩父宮家へ輿入れのことを、会津若松市の松平家廟に報告。(写真-福島民報社)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1928年
昭和3年
10月1日
陪審法が全面施行

●この陪審法は司法にも民意を反映させることを主旨としたもので、刑事事件に限り陪審審理が認められることになった。この陪審制度の司法への導入の考えは、1880年公布の治罪法(旧刑事訴訟法の前身)の草案を作成した明治政府の法律顧問ボアソナードまでさかのぼる。彼はこの法律のなかで陪審制度導入を図ったが、1882年の治罪法制定施行の際には、陪審制度の部分は廃棄されてしまった。なぜなら当時の考えとして、陪審制度を導入すれば、めいめいが勝手なことをやって締まりがつかず、道理も失われて無法状態に陥る危険性があると考えたからである。
●だがこの陪審制度を要望する声は消えず、1919年政府はようやく臨時法制審議会を設けて陪審制度立案要綱を作成、さらに司法省が陪審法調査委員会を設けて法案を作成し、以後修正をへながら昭和3年10月1日の陪審法施行となったのである。
(新聞)10/1東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●しかしこうして始まった陪審裁判も、1929年は144件を数えたが、1935年には10件台に激減し、1943年の「陪審法ノ停止ニ関スル法律」によってその施行が停止された。そして「陪審法ハ今次ノ戦争終了後再施行スルモノトシ其ノ期日ハ各条ニ付勅令ヲ以テ之ヲ定ム」とされたのである。今次の戦争とは「アジア・太平洋戦争」である。
●そして、それから約65年たった2009年5月から「裁判員制度」が開始されたのである。陪審制と参審制との違いは下記サイトを参照してください。

*リンクします「陪審制や参審制とは違うのですか。」裁判員制度→
「裁判所ウェブサイト」
1928年
昭和3年
10月6日
●共産党書記長・渡辺政之輔、台湾基隆(キールン)で警官に追い詰められピストルで反撃、頭部を射ち抜いて自殺。
1928年
昭和3年
10月10日
国産・FF52形電気機関車完成

(日本の工業技術発展の上で記念すべき成果をもたらす)
●鉄道省は第1次世界大戦中から大規模な電化計画を立てていたが、その区間に使用される機関車はすべて輸入機関車であった。その頃の輸入車両59両中の内訳は、イギリス37両、アメリカ16両、スイス4両、ドイツ2両で、その形式も13に分かれ部品の規格もばらばらだった。そしてその頃の電化区間は、日本側の運転・保守態勢も未整備であったことなども原因して故障が頻発し、電気機関車を2両連結しての運転や、電気機関車・蒸気機関車2両連結などにより故障事故に備える状態が続いていたのである。
●そこで鉄道省は、電気機関車の国産化の実現と、加えて機構・部品の規格化と標準化の実現に向けて計画を進めた。そして日立製作所、芝浦製作所、汽車製造会社、三菱電気会社、三菱造船所、川崎車両会社、川崎造船所を製作会社に指定し、これらの各社と鉄道省の間で協議を進めながら共同設計を行った。これにより部品ひとつひとつまで規格化を徹底することができた。
●そして完成したFF52形電気機関車の性能は、輸入機関車をはるかにを超えることができたのであった。
●当時の電化区間は、1925年12/13に東海道本線(東京-国府津)、と横須賀線(大船-横須賀)が電化された。国府津(=こうづ)は電気機関車と蒸気機関車を付け替える役割の駅で、新型電気機関車7両全てがここに配属された。そして1928年ごろまでに東海道本線は熱海(熱海線)まで電化され、1934年には丹那トンネルが開業したことにより、国府津駅ー沼津駅間が現在のルートになった。今までの旧ルートは御殿場線と名称が変更され、これにより電化区間も東京駅ー沼津駅間となった。この当時2番目の長さの丹那トンネルの工事請負は鹿島組(現鹿島建設)と鉄道工業会社であった。また1931年開通の当時1番長い清水トンネルは当初より電化された。トンネル内の蒸気機関車の煤煙が運転手らへ窒息の危険をおよぼしたからである。

1928年
昭和3年
10月23日
(日本初の陪審裁判大分地裁で行われる)
●これは9月に起こった情婦殺人未遂事件の裁判で、陪審員12人が立ち会った。東京初の陪審裁判は12/17東京地裁で行われた。21歳の女性放火未遂事件だったが、陪審員から出された答申は「然らず」で無罪となった。
1928年
昭和3年
10月28日
(全国廃娼デー)
●廓清会・日本基督教婦人矯風会の主催で行われ、廃娼請願の署名約2万人分集まる。
●12/6には埼玉県会で公娼制度の廃止を全会一致で決議した。こうして昭和3年中に福井、秋田、福島と続き、4年には新潟、5年には長野、神奈川、沖縄、6年には茨城、山梨、7年には岩手、宮城の各県会が相次いで公娼制度廃止決議を行い、全国に波及していった。
●しかし数度にわたって国会にも提出された廃娼案は存娼論によってそのつど否決された。女性の人権擁護の戦いはつづくのである。
1928年
昭和3年
11月7日
●アメリカ大統領選、共和党のフーバー、40州を制圧して第31代大統領に当選する。1921年から1928年まで商務長官をつとめ、経済的繁栄政策を展開してきたが、1929年からの世界恐慌打開策で失敗する。
1928年
昭和3年
10月~11月
昭和天皇の即位大礼の準備が進む

●10/7、内務省、大礼警備のために品行方正・成績優秀な警官3万人を京都に集める。
●10/14、警視庁、大礼を前に数日来東京市内の鉄砲火薬店一斉調査。この日、ダイナマイトなどの密売発覚する。
●10/16、大礼のための主基斎田(すきさいでん)の「神穀」、福岡県脇山村から輸送式を行い京都へむかう。
●10/16、大礼使、大礼諸儀次第を発表。
●10/24、大礼大饗の宴の舞人に宮内省楽部の20人決定。久米舞、悠紀・主基地方風俗舞、万歳楽、太平楽を舞う。
●10/30、大礼に参列する25カ国駐日大公使、宮中鳳凰の間で天皇に謁見。式に先立ち、18カ国大公使に贈勲。
●11/1、大礼に際し、一般国民からの献上品、赤坂離宮で受け付け開始。1日で約600点に達する。
●11/1、大礼を記念して、「ラジオ体操」、東京で放送開始。これは大礼記念事業として逓信省簡易保険局が計画したものである。アメリカニューヨークのメトロポロタン生命保険会社が行っていたラジオ体操を、日本でも始めることを提案したものであった。そして文部省体育研究所所長を委員長に会議を重ね、同時に東京放送局によるラジオ体操の試験放送も行い、「国民保険体操」として体操の型と伴奏曲を決定したのであった。こうしてラジオ体操は、「国民的運動」として全国に普及していった。
●11/5、日本放送協会、全国中継放送を開始する。

昭和天皇即位大礼。天皇、「高御座」で即位の勅語

●昭和3年(1928年)11月10日、秋晴れの京都で即位大礼が挙行された。午前「賢所大前の儀」つづいて午後「紫宸殿の儀」で即位の勅語が出された。田中義一首相が寿詞(よごと)を奏した後、万歳を三唱し、参列者がこれに唱和し、午後3時全国で万歳が唱えられ、4時6分儀式が終わった。この国家行事の意味するところは、大礼使設置の際の内閣総理大臣の訓示にあらわされている。次のようである。

「我ガ国民ハ国ヲ挙リテ深ク思ヲ建国ノ昔ニ潜メ皇位ノ神聖ナルヲ仰ギ国体ノ尊厳ナルヲ念(おも)ヒ感奮踴躍相率ヒテ忠愛ノ至情ヲ捧ゲ宝祚ノ無窮ヲ禱(いの)リ国運ノ隆昌ヲ祝セントス」

●そして同日、減刑令・復権令が公布施行され、総数22万4473人が恩赦をうけた。

(新聞)11/11東京朝日新聞(夕刊)(第1)(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●旧皇室典範には以下のようにある。ポイントは「践祚(せんそ)」「祖宗の神器」「元号」「即位」「大嘗祭」「京都」である。

第10条 天皇崩(ほう)ずるときは皇嗣(こうし)即(すなわ)ち踐祚(せんそ)し祖宗(そそう)の神器(しんき)を承(う)く
第11条 即位(そくい)の礼(れい)及(および)大嘗祭(だいじょうさい)は京都に於(おい)て之(これ)を行(おこな)ふ
第12条 踐祚(せんそ)の後(のち)元号(げんごう)を建(た)て一世(せい)の間(あいだ)に再(ふたた)び改(あらた)めざること明治元年の定制(ていせい)に従(したが)ふ

(注)明治元年の定制とは『自今(じこん)以後(いご)旧制を革易(かいえき)して一世一元(いっせいいちげん)以(もっ)て永式(えいしき)とせん』の詔勅による。
●ここで大正天皇の崩御から、昭和天皇の践祚、改元、朝見の儀まで、日時を詳しく書き出してみる、各語の意味するところがわかる。

① 大正15年(1926年)12/25(土)午前1時25分、大正天皇で48歳で崩御。(葉山御用邸)(写真)大正天皇。明宮(はるのみや)嘉仁(よしひと)。明治天皇第3皇子。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
② 同日午前3時15分、摂政裕仁(ひろひと)親王、践祚の式を行う。式場には東郷平八郎、西園寺公望、若槻礼次郎首相以下各国務大臣、枢密院議長らが参集した。新天皇は特別に設けられた玉座に着席し、「剣璽渡御(けんじとぎょ)の儀」を行った。これは三種の神器のうち剣と璽(たま)を承継する儀式で、続いて国璽、御璽も承継した。この三種の神器は、神話と伝説の世界から現在にまで天皇家に受け継がれてきた3つの宝物である。八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)である。
③ 同日、践祚の式の後、御用邸で閣議が開かれ元号について協議された。政府案は「昭和」と決めて上奏し、直ちに枢密院に諮詢(しじゅん=問いはかること)された。枢密院は「上治」との対案を出したが、この協議の最中に、「東京日日新聞」が号外で、年号が「光文」で決定するだろうと報じた。そうしたなか、午前11時、枢密院は政府案通り新年号を「昭和」と決定、即日公布された。その詔書は以下である。

「朕皇祖皇宗ノ慰霊ニ頼(よ)リ、大統ヲ承(う)ケ万機ヲ総フ。茲(ここ)ニ定制ニ遵(したが)ヒ元号ヲ建テ、大正15年12月25日以後ヲ改メテ昭和元年ト為ス」

(注)大正15年(1926年)は12月24日までで、12月25日から12月31日までが昭和元年(1926年)である。翌年は昭和2年(1927年)である。
④ 昭和元年(1926年)12/28、朝見の儀が、宮中正殿で閣僚はじめ文武官およびその婦人ら300人を招集し開かれた。天皇は勅語を朗読、若槻首相が奉答文を奏し儀式を終了した。

●昭和2年に決められた「即位大礼」の日程は以下の通りである。即位は、大正天皇崩御より約1年10ヶ月半後のことである。践祚と即位は同義であり、先帝の崩御あるいは譲位の直後に行われた。だが即位は、桓武天皇(在位781年~806年)の時より別の日に行うことが常例となったといわれる。

「即位大礼」の日程

(出典)日程表と写真「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●[昭和2年]12月30日…大礼使官制公布。「即位大礼」、日程決定。大礼使総裁に閑院宮載仁(ことひと)親王任命。
[昭和3年]
●1月17日…大礼の最初の儀式「期日奉告の儀」が行われる。これは、大礼の日程を公表するのに先だち、賢所(かしこどころ)・皇霊殿(こうれいでん)・神殿(しんでん)に奉告を行うもの。ついで「勅使発遣(はっけん)の儀」を行い、伊勢神宮、神武天皇山陵および前帝四代の陵に期日奉告の勅使を派遣。また、官報号外で即位の礼を11月10日に、大嘗祭(だいじょうさい)を11月14日~15日に行うことを発布。
●2月5日…「斎田(さいでん)点定(てんてい)の儀」。大嘗祭に用いる新穀(しんこく)をつくる田(斎田)を定める儀式で、亀卜(きぼく=亀の甲を火にかざし、ひびの入り方で占う)により、悠紀田(ゆきでん)が滋賀県に、主基田(すきでん)が福岡県に選定される(さらに調査の上、田を選定、それぞれ4月14日修祓式、15日御鍬入式、20日播種式、6月5日御田植式が行われる)。
●7月20日…大礼使より、大礼日取の発表(京都行幸から親謁の儀まで)。
●10月16日…悠紀田・主基田から京都大宮御所へ新穀納入。17日上賀茂神社境内の神酒醸造所に移され、11月11日、新酒を大嘗宮(だいじょうきゅう)に納入。
●11月6日…京都に「行幸の儀」(~7日)。
●11月7日…賢所春興殿に「渡御の儀」。


(上左写真) 即位式の装束を着けた天皇・皇后。(左写真) 11/8記者団に公開された「紫宸殿の儀」(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●11月10日…「即位礼」。2263人が参列し午前、「賢所大前の儀」で皇霊に即位を奉告。続いて午後、「紫宸殿の儀」で即位の勅語が出され、内閣総理大臣田中義一が寿詞(よごと)を奉り、その発声で全員が万歳三唱。紫宸殿中央には高御座(たかみくら)がしつらえられ、その東には皇后の座所の御帳台(みちょうだい)が設けられる。帽額(もこう)、高御座の屋根、帳帷(ちょうすい)、その内部など、いずれも豪華な装飾がある。
●11月11日…午後から夜にかけ「賢所御神楽(みかぐら)の儀」。
●11月13日…「鎮魂の儀」。大嘗祭の前夜、天皇の霊力を最高度に高めるため行われる。
●11月14日…春興殿賢所大前に「大御饌(みけ)供進の儀」。神宮、皇霊殿、神殿、全国官・国幣社に「奉幣の儀」。
●11月14日…「大嘗祭」。午後六時から「悠紀殿の儀」、午後11時から「主基殿の儀」。それぞれ女官が斎米を臼で搗き、稲舂(いなつき)歌、近江・筑紫の風俗歌の演奏のあと「御親供(ごしんく)の儀」と「御直会(おなおらい)の儀」が行われ、午前三時すぎに終了(~15日)。
●11月16日…「大饗(おおみあえ)第一日の儀」。
●11月17日…「大饗第二日の儀」「大饗夜宴の儀」。
●11月19日…京都を出て宇治山田市着。
●11月20日…「神宮親謁の儀」(~21日)。
●11月23日…「神武天皇陵親謁の儀」。
●11月24日…「仁孝・孝明天皇陵親謁の儀」。
●11月25日…「明治天皇陵親謁の儀」。
●11月26日…東京に還幸(~27日)。
●11月27日…賢所温明(うんめい)殿に「還御の儀」。
●11月28日…賢所「御神楽の儀」。
●11月29日…「大正天皇陵親謁の儀」。
●11月30日…「皇霊殿・神殿親謁の儀」。皇室の儀式すべて終了。
●12月 2日…代々木練兵場で大礼特別大観兵式。(実況を全国中継放送)
(写真)12/2東京、代々木原の大礼特別大観兵式。先頭は大元帥服の天皇。 (出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●12月 4日…横浜沖で大礼特別大観艦式。(お召艦榛名。艦艇200隻結集、約100万人の人出)

「即位大礼」で新聞・ラジオなど報道体制の発達

●新聞紙上画期的な情報伝達手段の導入とは、「電送写真」「飛行機の活用」「超高速度輪転機」「電光ニュース」などがあった。「電送写真」とは電話線を使って写真を電送する新技術で、今でいう「ファックス/ファクシミリ」のことと考えればよいであろう。先鞭をつけたのは大阪毎日新聞社(1924年ドイツのコルン式電送写真機導入、後にフランスのベラン式などを導入)だったが、初めて昭和3年8月に姉妹紙の「東京日日新聞」に電送して掲載した写真にはまだ歪みがみられた。一方朝日新聞社はこの年、ドイツのテレフンケン式を導入して10月から掲載を始め、ベラン式をしのぐ鮮明な画像を送ることができた。こういったなか日本電気は、国産第1号の「NE式電送写真機」(丹羽保次郎と小林正次の考案)の試作品を完成させた。大阪毎日・東京日日新聞社はそれを聞くと導入すべく実用化を急がせ、大礼目前の11月4日に「NE式電送写真機」採用の社告を新聞に掲載できた。
●「飛行機の活用」というのは、東京朝日、大阪朝日、大阪毎日、東京日日など各社は、連日10数機でフィルム、写真、原稿、号外、夕刊などを内地のみならず朝鮮半島にまで空輸していたのである。また新聞社はニュース映画製作も重要な仕事であったので、撮影から上映までの時間を飛行機の活用によって短縮することができた。そんな大礼報道で各社が速報競争を繰り広げているなか、日本電報通信社の飛行機(写真と原稿を空輸中)が濃霧のため墜落し、所属のパイロット3名が死亡した事故もおきた。この日本電報通信社とは、現代日本最大手の広告代理店「電通」である。
●「超高速度輪転機」とは特に大阪毎日新聞社がニューヨークのアール・ホー社に注文し、7/19に試運転を成功させた「ニッポン・ウルトラ・ライトニング・プレス」がそれで、従来型の1時間7万2千部の印刷を、一挙に12万部に高めた。これにより即位大礼当日11/10には、第1夕刊、第2夕刊、号外、第1朝刊、第2朝刊と膨大な部数を印刷することができた。
●「電光ニュース」とは、大礼を機に登場したもので、東京朝日新聞本社屋6階東面と大阪朝日会館屋上に、イギリス製の「流通式電光ニュース速報装置」を取り付け、11/5より光文字でニュースを伝えたものである。
●一方、ラジオも大礼を前に様変わりした。東京・名古屋・大阪の既設の3局から、昭和3年6月~7月にかけて札幌・仙台・広島・熊本に放送局が開設され、11/5には7局を結ぶ有線中継放送網(札幌-仙台は無線)が完成し、放送が開始されたのである。ラジオの聴取契約数も昭和2年末の39万が、大礼のあった昭和3年11月末には53万2000へ増加した。

1928年
昭和3年
11月22日
●3.15事件の大阪地裁における公判、97人の全被告が総立ちで革命歌を歌い傍聴禁止となる。
1928年
昭和3年
11月28日
●高柳健次郎、テレビジョンの公開実験を行う。
これは浜松高等工業学校の高柳健次郎が、電気学会講演に際し、ブラウン管受像方式を用い、世界で初めて受像に成功したものである。
1928年
昭和3年
12月14日
●経済審議会第2特別委員会、金輸出解禁断行の答申案を決定。12月21日、経済審議会は、「国際収支の均衡をはかるため金輸出の解禁を断行すべし」との答申案を満場一致で可決した。
●12/28、政府は閣議で金の輸出解禁にむけて調査を開始する旨申し合わせする。
1928年
昭和3年
12月20日
●日本大衆党結成。
これは、日労・農民・無産大衆・民憲・民衆など7党が合同して結成したものである。昭和5年、全国大衆党に合流。
1928年
昭和3年
12月29日
●張学良が国民政府に合流。
国旗の変更(易幟・えきし)を宣言し、東三省各地に「青天白日旗」(=中国国民党の党旗)がひるがえる。張学良は関東軍によって爆殺された張作霖の長男。奉天軍閥として対日妥協政策を装っていたが、ついにその政策を放棄し、蒋介石率いる国民政府に合流した。12/31、日本の林総領事は張学良を訪問して会談したが、張学良は考えを変えることはなかった。
1928年(昭和3年)その他の事件・災害・文化など

「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋
●1/18、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう=昭和天皇の弟宮)、旧会津藩主・松平容保(かたもり)の六男で駐米大使の松平恆雄の長女節子と婚約。
●2/19、内相鈴木喜三郎、議会中心政治否定の声明を出す。『議会中心主義などという思想は民主主義の潮流にさをさした英米流のものであって、我が国体とは相容れない』と発言し抗議を受ける。

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