1927年(昭和2年)頃まで。大正が終わり昭和となる。昭和金融恐慌。

アジア・太平洋戦争

「震災手形」と不良債権問題が台湾銀行を破綻に追い込み、内閣が潰れる。
 経済面で象徴的なことは、戦争成金といわれた「鈴木商店」の台湾銀行がからむ不正融資(癒着)による経営破綻である。この鈴木商店は当時三井物産を凌駕する日本一の総合商社となった会社であり、現在においてもその流れを継ぐ有名企業は多くある。
●政治的には、1927年(昭和2年)田中義一(陸軍大将)内閣(政友会)の成立が大きい出来事である。その考えは「対外的には軍事力を行使しても中国における権益は守ること」(山東出兵・済南事件)であり、「国体(天皇制)を変革しようとする思想は徹底的に弾圧」(共産党弾圧・緊急勅令による治安維持法改正・全国道府県に特高課を配置)することであった。
(上絵)これは中村大三郎の「ピアノ」と題された「絹本着色屏風4曲半双」に描かれた作品である。美しい振り袖姿の京都の女性が、グランドピアノを弾いている。これを「モダン」と呼ぶのであろう。まさに時代が昭和となる。制作は大正15年(1926年)であるが、12月25日が改元日にあたり昭和元年は7日間だけで、翌年は昭和2年である。

目次
主要項目 内容
★1920年代のアメリカ「神の加護による繁栄」 第1次大戦後、1923年末には世界の金保有高の約1/2を保有したといわれたアメリカも、まもなく世界恐慌に直面する。
国内政治・社会年表
1925年頃~1927年頃
昭和2年(1927年)
若槻内閣→田中義一内閣
日本では昭和に入るとすぐに金融恐慌が始まり、全世界を覆う世界恐慌と続くなか、テロの続発をみる。大正から昭和の時代が、現在の日本の政治経済の骨組みを作ったことに間違いないだろう。若槻礼次郎内閣(憲政会)は、昭和2年(1927年)4月、台湾銀行救済のための緊急勅令案を枢密院によって否決され総辞職する。(昭和金融恐慌処理)

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1920年代のアメリカ「神の加護による繁栄」

●第1次世界大戦でヨーロッパは疲弊したが、アメリカは戦前の債務国から約100億ドルの債権国になった。そしてそのうちの90%以上が、イギリスとフランスに対するものだった。アメリカは世界の経済を支配することになったわけである。そしてそれがために、アメリカは伝統的な「孤立主義」に回帰していった。アメリカはウイルソン大統領が心血を注いだ国際連盟への加入も、上院がヴェルサイユ条約の批准を拒否したため、不参加が決定した。次のハーディング大統領も「平常への復帰」をスローガンに当選し、国際協調主義は後退していった。
●またアメリカは、政策として共和党伝統の大企業保護政策に戻り、企業の隆盛のもと景気は上昇を続け、1923年末には世界の金保有高の約1/2がアメリカに集中したといわれる。ハーディングの急死(1923年)の後大統領になったクーリッジは、高官の公金着服や汚職の中でも現状維持を続け、アメリカは経済繁栄の道を歩んだ。1928年の大統領選挙では、ハーディングの時代から商務長官だったフーヴァーが大統領になった。彼は選挙演説で次のように言った。

今日われわれアメリカ人は、歴史上どの国にも見られなかった貧困に対する最終的勝利に近づいている。・・われわれは神の加護によって、貧困がこの国から絶滅する日を、やがてまのあたり見るであろう・・

(出典)「世界の歴史15」中央公論社1963年刊
●1920年代のアメリカの繁栄(狂騒)のキーワードを列挙すれば次のようである。

①★「自動車」ヘンリー・フォード。「電力」家庭の電化率は1921年16%→1929年70%。「ラジオ」1929年40%の普及。「映画」トーキー。「摩天楼」各都市に建設開始。「都市人口」1920年51.2%に到達。「移民法」日本人と中国人は帰化禁止。②★「赤狩り」サッコ・ヴァンゼッティ事件。「KKK」Ku Klux Klanの復活。③★「禁酒法」1920年~1933年廃止。アル・カポネ。ギャング。「翼よ、あれがパリの灯だ」リンドバーグ。「日はまた昇る」ヘミングウェイ(パリ在住)。「チャップリン」。「プロボクシング」デンプシー。「プロ野球」ベーブルース。「ジャズ」など

日本でのモータリーゼーション

●上の①「自動車」について、日本でのモータリーゼーションの状況は次のようである。

初期東京市営バス「円太郎」(フォード社製)自動車振興会
●1923年(大正12年)の関東大震災はそれまでの東京市民の足だった市電を壊滅させた。その対応として東京市電気局は、急遽市営バスによる路線建設を採用した。そこで電気局はアメリカ・フォード社の「T型フォード」のトラック、シャーシ800両を輸入し、これを11人乗りバスに改造し、1924年1月から運行させた。これは貴重な市民の足となり「円太郎」の愛称で呼ばれた。(左写真)しかし最初の「円太郎」バスは、トラックに粗末な木造の屋根を付けたようなもので、不人気のため半年で営業危機をむかえたが、それを新装車を導入し女子車掌を採用したことで一躍人気者となった。
●ヘンリー・フォードは、このバスの注文に日本でのモータリゼーションのあけぼのを見た。そして1925年(大正14年)日本フォード社を設立し、横浜市に工場を建設し翌年からT型フォードの組み立て・販売を開始した。

●左写真は、ハイカラな大阪市バス(フォード社製)で銀バスと呼ばれた。
●その横の写真はモダンなファッションで昭和3年2月に登場した大阪市バスの女子車掌たち。
●またその横は「青森県浜町の構内商会前にずらりと並んだ新型車1928年式シボレー(ゼネラル・モーターズ)」の写真。GM(ゼネラル・モーターズ社)も大阪市の工場誘致から日本進出となったのである。こうして1923年(大正12年)に、日本の自動車保有台数1万4737両が、フォードとGMが日本市場を席巻した1928年(昭和3年)には6万533両にもなった。
●右端は、1927年(昭和2年)8月の東京日本橋、本石町の写真(昭和初期の3大乗り物バス・電車・タクシーの交通整理)の写真。写真出典は「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より



●②の「赤狩り」サッコ・ヴァンゼッティ事件は、1920年に起きた米国裁判史上に残る最大の冤罪事件と言われるもので、当時の日本の新聞でも死刑執行の報道がなされた。そしてのちに映画化もされた「死刑台のメロディ」(1971年イタリア・フランス合作)。左は1927年(昭和2年)8月24日の東京朝日新聞の紙面。(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●③の「禁酒法」1920年~1933年廃止(アル・カポネ)について、驚くべきことは「禁酒」を修正憲法で制定したことである。そして14年間それを維持したことである。「禁酒法」は1846年から州法として制定され始め、1914年前には26州になったことが憲法修正につながっていった。われわれ日本人が考えねばならないことは、「憲法」も「法律」も国民が決めるということである。時代も社会も変化していくのだから、法律の手続きに従って憲法を修正することも、普通のことである。「憲法」は「アンタッチャブル」ではないのである。
●ここで1987年製作のアメリカ映画で、禁酒法時代のアメリカ・シカゴを舞台にした「アンタッチャブル」を紹介しよう。

「アンタッチャブル」
この映画は1987年に製作・公開されて大ヒットしたリメイク映画である(ブライアン・デ・パルマ監督作品。《主演》ケビン・コスナー、ショーン・コネリー、アンディー・ガルシア、《カポネ》ロバート・デニーロなど)。これは歴史映画でもドキュメンタリー映画でもないが、そこには禁酒法時代の末頃(1920年代末)のアメリカが見えるようである。そしてカポネを追及逮捕を始めていく年代が、「アメリカを神の加護による繁栄」といったフーヴァー大統領が大統領に就任し、皮肉にも繁栄時代がまさに終わろうとするとき(1929年ニューヨーク株式市場大暴落)でもあった。その罪名が脱税であったことも、世界恐慌の中にあるアメリカ政府としては当然であったかもしれない。イタリア系、アイルランド系移民、暴力、殺人、暗殺、悪徳警官、賄賂、汚職、陪審員買収などが渦巻く狂騒のなか、それでも正義を貫くというアメリカを象徴する映画であろうか。

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★国内政治と経済年表。1925年(大正14年)から1927年(昭和2年)頃。『昭和2万日の全記録』講談社、『昭和財政史』(戦前編)大蔵省(財務省)、慶応義塾大学出版会発行(2011年)「日本経済史」など。また朝日新聞の紙面紹介なども行った。

「政友会」と「憲政会(民政党)」の経済政策と特色

●ここでは最初に、政党の経済政策の違いを述べる。日本はこの時期(1924年~1932年)、「憲政の常道」とよばれるほどに2大政党が交互に政権を担当した。政党には綱領があり基本理念があり、基本政策がある。当然ながら経済政策にも違いがあった。とくに経済・社会の大激動である昭和金融恐慌そして昭和恐慌(世界恐慌)に対する経済対策は、日本において最も重要であったに違いない。だがその激動のなかで、2人の金融財政の専門家である高橋是清(2.26事件)と井上準之助(血盟団事件)が、共にテロによって殺害された。この事件はその後の日本経済・社会にとって、大きな痛手となったに違いない。
●高橋是清は政友会、井上準之助は憲政会(民政党)であるが、2人は共に日銀総裁、大蔵大臣を歴任している金融財政の専門家であった。

●政友会・・「産業立国」をスローガンに、積極的な社会資本の整備や産業育成政策。早期の金本位制復帰は消極的。積極的な財政政策による国内経済の発展促進を重視。1900年伊藤博文以来の常に第1党。
●憲政会(民政党)・・1924年の選挙で第1党、加藤高明内閣成立まで苦節10年の野党。財政の均衡を重視する緊縮政策。非募債主義。社会政策(小作調停法、労働争議調停法など)に積極的。金本位制復帰を政策目標とした。引き締め政策による国際収支の均衡による経済の安定を重視。1927年政友本党と合同して立憲民政党となる。

年表(1925年~1927年)
年・月 事項・内容
1925年
大正14年
普通選挙法(5月5日公布)・治安維持法(4月23日公布)加藤高明内閣

●この国民の自由な思想を弾圧する治安維持法については知っておかなければならない。この法律は、1925年に普通選挙法(男子のみ25歳以上に選挙権を与えた)と抱き合わせに制定された。政治的にも思想的にも国体を護ることが目的だった。最初は7条にすぎなかった。若槻礼次郎内相は「国体を変革する者のみ取り締まる」と説明した。治安警察法は「労働運動・政治結社を取り締まる法律」として、治安維持法は「共産主義者・国体変革者を取り締まる法律」として運用された。だが治安維持法は1928年に、緊急勅令で法改正を行い、「国体の変革」の罪に対しては最高刑を死刑とし、特別高等警察(特高)を全国に設置した。これは政治・思想警察であり、国家組織の根本を危うくする行為を取り締まるものであった。治安維持法は1941年(昭和16年)にも改正され65条に拡大した。1928年の緊急勅令による改正・治安維持法の第1条は以下のとおりである。

勅令百二十九號 治安維持法中左ノ通改正ス
第一條 國體ヲ變革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務二従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年(1941年の改正で7年)以上ノ懲役若ハ禁錮二處シ情ヲ知リテ結社二加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ二年(1941年の改正で三年)以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮二處ス
1925年
大正14年
3月
●護憲三派内閣である加藤内閣は、公約に従い第50議会で普通選挙法案を成立させた(1925年3月29日)。これに対して、枢密院・貴族院および政友本党はさまざまな抵抗をこころみ、選挙権の制限などをつけた。また一方の治安維持法(3/19貴族院で可決)について政府は次のように説明した。「この法律はふつうの社会活動や民主運動を圧迫するものではなく、共産主義運動だけを取りしまるものである」と。しかしこれは政府が弾圧しようと思う結社や運動に、「赤」のレッテルさえはりさえすれば弾圧できるものだった。
●この治安維持法の制定には次のような背景があったとされる。それは、枢密院が①普選法を認める代わりに治安維持法を要求したこと。②ソ連との国交回復前に、共産主義弾圧の体制を固めるために要求したこと、などである。
1925年
大正14年
4月13
(陸軍現役将校学校配属令公布)これにより、中等学校以上の学校に現役将校を配属して学生に軍事教練を課した。また市町村には青年訓練所をもうけ、学生以外のすべての青年にも、軍事訓練を事実上強制した。これは軍縮による兵力減少を補うためでもあるが、この意味するところについて宇垣陸相は次のように日記(大正14年12月30日・31日)に記したという。

20余万人の現役軍人、300余万の在郷軍人、5~60万の中・上級学生、80余万の青少年、これを陸軍がにぎり、この力で、平戦両時を通じて天皇をたすける中枢として、働く。天皇の軍隊を統帥する大権は、国家異常時の場合には、たんに軍隊を指揮するにとどまらず、国民を支配する権力であることがある」「いまの世相に照らし、この大権の発動に思いをいたす」と。

(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊

1925年(大正14年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋
●1/1講談社の「キング」が創刊された。この雑誌は娯楽と修養をかねたもので広く愛読された。後に日本出版史上初めて発行部数100万部を突破した雑誌である。
●1/10文政審議会、政府の諮問に対して、付帯条件付きで軍事教育実施を満場一致で可決する。文政審議会は内閣直属の審議機関であった。
●1/20日ソ基本条約に調印、国交回復となる。日本はソ連の革命に対抗するため、最後までシベリア出兵を続けていたが、1922年ついに撤退した。そして変化した世界情勢のなかでソ連と国交を結んだ。
●2/11治安維持法・労働争議調停法・労働組合法の制定に反対する労働団体の大会やデモが全国で行われる。

下

1926年
大正15年
1月30日
第1次若槻礼次郎(わかつき-れいじろう)内閣成立(憲政会)

(政治家。大蔵省に入り要職を歴任ののち、第3次桂内閣の蔵相、加藤内閣の内相などをつとめた。加藤高明の死後憲政会総裁となり、第1次若槻内閣を組閣。昭和2年(1927年)金融恐慌の措置をめぐって枢密院と対立し総辞職。)(出典)「日本国語大辞典精選版」
●加藤高明首相(憲政会)が1/28日死去し加藤内閣が総辞職し、若槻礼次郎内閣が成立した。内務大臣・濱口雄幸、外務大臣・幣原喜重郎、陸軍大臣・宇垣一成など。

1926年
昭和元年
12月25日
大正天皇崩御・昭和天皇践祚(せんそ)

●大正天皇48歳で午前1時25分に崩御。同日午前3時15分、摂政裕仁(ひろひと)親王践祚。同日午前11時元号を「昭和」と改元する。
左の新聞は昭和元年(1926年)1月25日の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」昭和49年朝日新聞社発行
(新元号「光文」誤報事件)東京日日新聞が号外で、スクープとして新元号を「光文」と制定される模様と報道した。だがこれは誤報であった。これは「誤報事件」となって問題化した。「大正」の新元号は、東京朝日新聞がスクープした。

1926年(大正15年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋
●1/15治安維持法を適用。京大など全国で社研学生の家宅捜索や検挙が行われる(京都学連事件)
●1/19共同印刷でスト突入。これは操業短縮に反対して行ったもので、翌日会社側は工場閉鎖・全員解雇で対抗した。60日間に及ぶ大争議となった。
●1/20 東京京橋電話局で、日本最初のダイヤル式自動電話の使用を開始。
●1/28加藤高明首相死去。内閣総辞職、30日第1次若槻礼次郎内閣成立。

下

1927年
昭和2年
1月5日
●東京深川猿江裏町の住民は、同潤会のアパート敷地買収に反対の演説会を開いた(立ち退き後の生活に不安のため)。この場所の住民は、大部分が震災後にバラックを集めて建てて住んでいた場所で、震災前より下層労働者の住む屈指の「貧民窟」だったが、震災でも東京で一番被害の大きかった場所といわれる。(写真)東京深川(現江東)区猿江裏町にあった不良住宅地区(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より
●そこを帝都復興計画(後藤新平)で穴のあいていた住宅問題を、「同潤会」(半官半民の財団法人)が住宅政策を担当し、「同潤会文化アパートメント」と「同潤会共同住宅」を建てようとしたのである。共に鉄筋中層のコンクリート建築であったが、猿江裏町は「共同住宅」であった。写真を見ると近代都市を思わせるものである。また最初期の「青山アパート」(1925年入居開始)の場所は、現在再開発されて「表参道ヒルズ」となっている。

(左写真)改良後の猿江裏町・共同住宅。(右写真)青山アパート。明治神宮表参道。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より

1927年
昭和2年
2月7日
大正天皇大喪儀

●大葬儀の中心である「葬場殿の儀」が新宿御苑で行われた。翌日2月8日の東京朝日新聞には「哀痛國を覆ひ萬民悲みの中に 永への行幸を送り奉る」とある。
そして「・・葬列を見送る人波は、市中に集まる地方よりの赤子(せきし=人民。国民の意味)を合し其概数2百万と聞く」(東京市「大正天皇御大葬奉送誌」)とある。

1927年
昭和2年
3月14日
昭和金融恐慌発生

直接的には、3/14衆議院予算委員会での片岡直温(なおはる)蔵相の、「本日、昼頃渡辺銀行が破綻いたしました」というの失言から端を発した。これは1923年に発生した関東大震災に関わる「震災手形」の処理に関する政府案「震災手形損失補償公債法案」等について、衆議院予算委員会での審議中に起こったことであった。

「震災手形」問題。
●これは1923年9月1日に発生した関東大震災によって、甚大な被害を受けた被災地の銀行や企業を救済するために、政府が行った救済策の後処理の問題であった。1923年9月、政府は被災地で発生した債務の決済期間を30日間延長する支払い猶予令を発し、また「震災手形割引損失補償令」を発布した。これは日本銀行が、震災手形(被災地に関連する手形)を保有する銀行に対して、再割引(手形を担保に資金を融資)をするなどの救済策であった。
●しかし1924年末で日本銀行が再割引した総額約4億3000万円の震災手形のうち、2億680万円の債権が1926年末の段階で未回収となってしまった。これは震災とは関係のない不良債権が大量に含まれていたことが原因だった。そしてその未決済手形の半分を保有していたのが台湾銀行(発券銀行)であった。そしてその大部分が「鈴木商店」に関係する手形であった。これは大問題となった。
●だが台湾銀行以外でも、第1次世界大戦期に放漫な融資をおこない、不良債権を多くかかえた銀行も多かった。銀行に対する救済策が必要な状況であった。

下の新聞は昭和2年(1927年)3月15日の東京朝日新聞(市内版)(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」昭和49年朝日新聞社発行
●だがこの政府の公的資金を投入しての救済策は、特定の企業や銀行に対する優遇であるとの批判があいつぎ、また台湾銀行などの不良債権をもつ銀行の存在があきらかになり、銀行に対する信用不安が高まっていた。そこに片岡直温蔵相の失言により、人々が預金をいっせいに引き出す「取り付け」が始まった。東京渡辺銀行を含む複数銀行が休業に追い込まれた。これが昭和金融恐慌の始まりだった。取り付け騒ぎは東京周辺から岐阜、京都と広がり休業銀行が続出した。

1927年
昭和2年
4月1日
●「徴兵令」全面改正され「兵役法」へ。これは、長い不況の中で、働き手を長期にわたって兵役にとられる国民の不満と、世界的な軍縮の圧力を解消する意図もあった。しかし本当の軍部のねらいは、第1次世界大戦をみて、これからの戦争は「国家総動員体制」が必要であること、そのために国内の生産能力を高め、国民の戦争遂行能力を高めることを意図したという。
1927年
昭和2年
4月
金融恐慌第2波

●3月に始まった金融恐慌は、日銀による4億余円の非常貸し出しと、震災手形法案の成立により鎮静化した。しかし台湾銀行の巨額震災手形の保有問題と、その原因である鈴木商店への融資問題が発覚し、台湾銀行は経営危機をむかえた。大蔵省は台湾銀行に対して、鈴木商店への新規貸し出しの打ち切りを命じた。これにより鈴木商店は事実上倒産した。これにより台湾銀行への信用不安(鈴木商店への融資の回収不能)が高まり、かつ三井銀行など大手銀行がコール資金(銀行間の短期融資)を引き上げたため、台湾銀行は4/18日より休業に追い込まれた。そして全国的な銀行取り付けとなり、36の銀行が休業へと追い込まれた。

「鈴木商店」
●鈴木商店は第1次世界大戦による「戦争成金(なりきん)」の代表とされる。明治の初め「カネ辰」の屋号で洋糖商としてスタートし、女社長鈴木ヨネに番頭として仕えた金子直吉が、一代にして日本最大の総合商社「鈴木商店」を築いた。日清戦争後に台湾の民政長官後藤新平に食い込み、樟脳(セルロイド・無煙火薬などの製造原料とするほか、防虫剤・防臭剤・医薬品などに用いる)の一手販売権を握る。第1次世界大戦を機に、鉄、造船にめをつけ、全盛期には年商が16億円にのぼり、三井物産をしのいで日本最大の総合商社となった。直系会社は、神戸製鋼所、播磨造船所、帝国人造絹糸、日本製粉、豊年製油など、傍系会社には第65銀行、日本セメント、東京毛織、東洋精糖、帝国麦酒、朝鮮鉄道、日本樟脳、信越電力、国際汽船、大日本セルロイドなど、合計で65社、全従業員数2万人余であった。現在においてもその流れを継ぐ企業は、日商(後の日商岩井、現双日)、神戸製鋼所、帝人、日本製粉、J-オイルミルズ、ダイセル、昭和シェル石油、サッポロビールなどがある。
1927年
昭和2年
4月17日
若槻内閣総辞職

●若槻内閣は、この危機的状況を打開するため台湾銀行救済を決め、下記緊急勅令案を決定し4/14枢密院に諮問の手続きをとった。

第1条 日本銀行ハ昭和3年5月末日マデ台湾銀行ニ対シ無担保ニテ特別融通ヲナスコトヲ得(憲法第8条ニヨル)
第2条 政府ハ第1条ノ規定ニ従ヒ日本銀行ガ台湾銀行ニ融通ヲナシタルタメ損失ヲ生ジタル場合ニオイテハ2億円ヲ限度トシテ補償ヲナスコトヲ得(憲法第70条ニヨル)
(附則 略)

しかし枢密院は4/17開かれた本会議で19対11で勅令案を否決した。枢密院始まって以来の政府と枢密院の正面衝突となったが、結局、つねづね若槻内閣の幣原外交を軟弱と非難していた枢密院によって否決された。これにより同日若槻内閣は総辞職した。そして台湾銀行は翌4月18日休業した。
●この若槻内閣の緊急勅令案反対の急先鋒に立ったのが、枢密院の平沼騏一郎や伊東巳代治らであった。彼らは、大陸不干渉政策を基本とする幣原外交に不満な軍部の強硬派や鈴木喜三郎を中心とする野党政友会や、政友会系の三井財閥と通じていた。この政変を後押ししたのが元老西園寺公望であり、対中国積極外交への転換(侵略)を目指して、天皇に後継首班として田中義一を奏薦したのであった。
(若槻礼次郎首相は、1/18第52帝国議会の施政方針演説で「中国内政には絶対不干渉」と述べていた。)

1927年
昭和2年
4月1日
●(小田原急行鉄道開通)東京新宿と神奈川県小田原を結ぶ小田原急行鉄道が開通した。新宿は1913年(大正2年)に京王電気軌道が電車営業とバス路線を開業しており、ターミナル駅として発展していった。特に関東大震災以降、東京の人口の郊外移動は加速し、郊外の宅地化が進んだ。大正末年から昭和初頭にかけての人口増加地域は、中野、杉並、世田谷、三河島、王子、代々幡(よよはた=渋谷区の代々木村と幡ヶ谷村)、鎌田、碑衾(ひぶすま=目黒区の碑文谷村と衾村)など第2圏内に属する郊外だった。(第1圏内では東京市に接続する南千住、日暮里、亀戸、淀橋《=新宿区西部にあった》、品川、大崎などは飽和状態になっていた。)(ただこの小田急は、7/12乗客僅少のため経営が不振で従業員250人を解雇した、とあるので私鉄経営も簡単ではなかったようである。)

●(東京周辺部の郊外電車網の発展)特に私鉄企業の発展は、大阪の阪神急行電鉄(現阪急電鉄)の経営方法を各社が競って取り入れたことが大きい。この阪神急行電鉄の経営とは、のちに社長となる小林一三(いちぞう)専務が、都市の乗客輸送には期待できなかった箕面(みのお)有馬電気軌道(現阪急宝塚線)を、沿線で宅地分譲と遊園地(行楽地)経営で見事に成功し、私鉄経営の原型とした方法であった。(宝塚の温泉浴場、少女歌劇団は有名)
東京周辺では、1922年(大正11年)池上電気鉄道(現東急池上線)、大正12年目黒鎌田電鉄(現東急目蒲線)、大正15年東京横浜電鉄《丸子多摩川-神奈川間》昭和2年《渋谷-神奈川間》(現東急東横線)などが開通した。そして路面電車網は明治時代よりあり、渋谷-三軒茶屋間(玉川電気鉄道)や、長距離の京成電気軌道(上野-成田間、大正元年)、京王電気軌道もあった。住宅地開発では、渋沢栄一が設立を主導した田園都市株式会社による「田園調布」が有名である。写真は大正12,13年頃の田園調布駅で、車に乗る渋沢栄一とある。まだ開発初期で駅周辺も閑散としている。旧駅舎はシンボルとして2000年に復元された。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●また私鉄が沿線開発で行ったものに学園都市の開発があった。例を挙げると、目黒鎌田電鉄は1923年大岡山に東京高等学校(現東京工業大学)、東京横浜電鉄は1929年日吉に慶應義塾大学予科、1931年に新丸子に日本医科大学予科を誘致した。

下にYouTubeから「佐藤千夜子 東京行進曲 」をリンクした。当時の風景の映像もあるので参考になる。「東京行進曲」の主題歌は大ヒットしたという。

*リンクします「佐藤千夜子 東京行進曲」
動画・出典:youtube(Wo Yes氏)
1927年
昭和2年
4月18日
(中国)蒋介石南京に国民政府樹立
●蒋介石の国民党右派が、武漢政府(国民党政府は、1927年2月北伐が長江流域を制圧していき、武漢に移動していた)に対抗し、南京にもう一つの国民政府を樹立し、共産党員の徹底粛清を宣言した。一方、武漢政府も右派が台頭し、7月には共産党が武漢政府を離脱し、9月に武漢政府は南京政府に合流した。
●1月から漢口のイギリス租界では衝突が起きており、イギリス政府は、反帝国主義運動の鎮圧に派遣部隊を上海に向けて2万3000人を出動させていた。しかしこれは成功せず、ついに3月には正式に漢口と九江の両租界を中国に返還することになった。
●また3月24日には、北伐途上の蒋介石の国民党軍が南京占領時に、日本を含む外国領事館と居留民に対する南京事件(襲撃事件)をおこした。
1927年
昭和2年
4月20日
田中義一(たなか-ぎいち)内閣成立(政友会)

軍人、政治家。長州藩出身。陸士・陸大卒。日露戦争に満州軍参謀。軍務局長、第2旅団長、参謀次長、原内閣・第2次山本内閣の陸相を歴任。ついで政友会総裁となり、昭和2年(1927年)若槻内閣の後をうけて組閣。不況に対し支払猶予緊急勅令(モラトリアム)を出して金融恐慌の鎮静に一応成功を収めた。張作霖爆死事件の処置をめぐり、同4年総辞職。(出典)「日本国語大辞典精選版」
内務大臣・鈴木喜三郎、外務大臣・田中義一(兼任)、大蔵大臣・高橋是清、陸軍大臣・白川義則など。
●田中義一内閣は、蔵相に高橋是清(これきよ)を任命し、この金融恐慌の収拾に努めた。高橋蔵相は、全国の銀行の2日間の臨時休業、3週間の支払猶予令を発した。そしてその間に、日本銀行が市中銀行に対して最大18億6800万円の特別融資を行い、台湾銀行に対しても2億円の政府保証による日銀特別融資を定めた法律を成立させ、救済した。こうして昭和金融恐慌は5月には収束にむかった。
新聞は昭和2年(1927年)4月23日の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」昭和49年朝日新聞社発行

(昭和2年成立の田中内閣の政治基調)
●田中義一(陸軍大将)内閣(政友会)は、昭和2年の4月より若槻礼次郎内閣(憲政会)の後を継いで成立した。この時の大きな問題は、若槻内閣が「枢密院」によって総辞職に追い込まれたという事実である。「枢密院」は、若槻内閣の金融恐慌対策の台湾銀行救済法案ではなく、内閣の軟弱な対支外交政策(幣原外交)に対して、反対したのだった。
●従って田中内閣は、「枢密院」、元老(西園寺公望)そして陸軍の意向をくんだ内閣といえるのである。その考えは「対外的には軍事力を行使しても中国における権益は守ること」(山東出兵・済南事件)であり、「国体(天皇制)を変革しようとする思想は徹底的に弾圧」(共産党弾圧・緊急勅令による治安維持法改正・全国道府県に特高課を配置)することであった。
●この天皇の諮詢に応える「枢密院」は、政治の中枢において、議会よりも、そして内閣よりも権力を持つことができたのである。大日本帝国憲法(下にその部分を引用)では、日本が議院内閣制を基本的に認めず、また行政権は天皇が自ら行う「大権」であり、内閣は天皇を補弼するだけのものでしかなかったのである。これに対して議会も枢密院弾劾決議案を第53議会に提出し可決したが、枢密院は無視したのである。この時代に「憲政の常道」といわれた政党政治・議院内閣制は、憲法に明記された制度ではなく、「慣例」であったにすぎなかった。

(大日本帝国憲法)
第4章 国務大臣及枢密顧問
第55条国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責ニ任ス
2 凡(すべ)テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅(しょうちょく)ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
第56条枢密顧問(すうみつこもん)ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応(こた)ヘ重要ノ国務ヲ審議ス
(内閣官制・明治22年勅令第135号)
第1条 内閣ハ国務各大臣ヲ以テ組織ス
第2条 内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス
昭和金融恐慌の結果と影響

●1927年3月以来休業した銀行は、台湾銀行を含めて37行。恐慌の前日(3/14)における日銀券は約10億円であった。それに対して、恐慌の一応収まった日(4/25)の日銀券は約26億円に達した。株式市場も動揺を重ね、取引所は休業し、株価も時々相当下落した。為替も下落して、恐慌前は平価に近い相場(100円=49.85ドル)を維持していたが、恐慌が過ぎた後、為替相場は46.7ドルまで下落して固定化する形勢だった。(*緊急の日本銀行券発行であったため、裏面が白紙の日銀券が発行された。)
●(恐慌の影響)銀行に対する不信が広がり、かつ、この恐慌による破産した銀行の持っていた多くの関連事業は打撃をうけ破綻に瀕した。この恐慌で破綻に瀕したものは、都市の大事業や銀行より、地方の中小企業と銀行の方が多かった。日本全国では、昭和3年(1928年)には各地において中小の商工業の倒産と操短が続いた。貿易についても大正14年(1925年)に貿易総額は50億円を突破し、第1次世界大戦直後の最高水準を初めて抜いたのだったが、昭和3年には44億1千万円と連年縮小となった。左の表を参照。
上表「全国貿易価額」(出典)「昭和財政史・第13巻(国際金融・貿易)」
●そしてこの金融恐慌は、中小銀行の淘汰と巨大銀行への預金集中とその独占的地位の確立を生んだ。これは1928年1月に施行された銀行法のもと、日本の金融システムに大きな変化をもたらした。5大銀行の1926年預金残高22億3300万円は、1929年には32億1000万円と増加し、全国普通銀行預金に占める5大銀行の割合も、24.3%から34.5%に増加した。下右表を参照。また銀行数も1926年末には1417行あった普通銀行数も1932年には538行にまで減少した。そしてその後も地方銀行を中心に銀行合併政策が進められた。さらに、大蔵省銀行局に検査課が設けられ、銀行への監視・指導が強化されるようになった。下左図参照


●左図「普通銀行数の推移」(出典)「日本経済史1600-2000」慶應義塾大学出版会2011年初版第3刷発行。
●右表「金融5大銀行集中表」(出典)「昭和財政史・第10巻(金融《上》)」

1927年
昭和2年
5月1日
鉄鋼生産カルテル結成

●日本の鉄鋼業界は初めて本格的な生産カルテルを結んだ。これは、製鋼作業の分野を協定した「条鋼分野協定」だった。条鋼とは形鋼、棒鋼、線材などをいい、生産を特定分野に絞ることで、多品種少量生産をやめ、生産コストを引き下げることが可能となり合理化することができるものだった。協定には官業の八幡製作所を中心に、日本鋼管、釜石鉱山、神戸製鋼、大阪製鉄、富士製鋼、川崎造船など民間10社が参加した。こうして持続的な物価下落(不況)のなかでも、カルテルを結ぶことで、生産調整と価格維持を行い企業の安定を図っていった。このカルテルは多くの産業で結成が助長された。後に次のステップである一大トラスト(企業合同)へ移行していく。

1927年
昭和2年
5月28日
第1次山東出兵を声明、関東軍に出動命令下る。

●日本は、蒋介石の率いる国民党革命軍の北伐を阻止し、張作霖政権を援助するため、日本人の居留民保護を名目に出兵した。本当の目的は、満蒙の権益を武力で擁護することであった。(5/30大連出発、5/31青島着予定)
●1924年中国の孫文は、中国共産党の「連合戦線」結成の申し出を受け入れ、第1次国共合作を実現した。そして独自の軍隊養成のために、広州の郊外に黄埔軍官学校を設立した。校長は蒋介石であり、共産党から派遣されたのが周恩来で重要な役割を担った。そして約10万の国民革命軍が編成された。1925年3月孫文は急逝したが、その遺志継いだ国民党と国民政府が、共産党の協力のもと、北方の軍閥政権を倒し中国統一のため1926年7月北伐を開始した。総司令・蒋介石に率いられた国民革命軍は破竹の勢いで進軍していたのである。
新聞は昭和2年(1927年)5月29日の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」昭和49年朝日新聞社発行

1927年
昭和2年
6月14日
●(伏石小作争議、大審院判決下る。小作農側が敗訴。)これは1924年(大正13年)香川県伏石(現高松市)で起きた事件である。小作争議のなかで地主側が、大正13年秋に強硬派の27人の稲(晩稲=普通の稲より遅く実る稲)を仮差し押さえて、稲を自由に刈り取りできなくした。それに対して小作農側は、時期(稲を刈り取りそのあとに麦を蒔く)が迫っていたたため、顧問弁護士の助言(民法の規定により刈り取りは保証されている)に従い刈り取りを強行した。ところが脱穀作業が終わると同時に、数十名の小作農が窃盗で、弁護士は窃盗教唆で検挙された。その後の取り調べは、人権蹂躙事件として取り上げられたほど過酷なもので、自殺者や自殺未遂者も出した。一方小作争議のもととなった小作料軽減要求については、多発する小作争議に手を焼いた政府が、1924年(大正13年)7月小作調停法を制定して対応していた。
1927年
昭和2年
6月27日から7月7日
「東方会議」の開催、「対支政策綱領」発表

●この会議は、4月に成立した田中義一内閣が、対中国政策を決定するため外務省、陸海軍の首脳、在中国外交官、陸海軍当局者を一堂に集めて開いたものである。主宰は田中首相であったが、事実上の推進者は、外務政務次官で与党政友会大幹部の森恪(もり-かく、つとむ)であった。森恪が「東方会議」を田中首相に進言し、会議の前に参謀本部第一部長・荒木貞夫や関東軍参謀・河本大作らと接触し、「満州を支那本土から切り離し、日本の政治的勢力に入れる」という意見に同意していた。当時の奉天総領事の吉田茂も、満蒙での日本の権益拡大強硬派の1人だった。会議の出席者のうち陸軍関係を列記すると次のようである。畑英太郎陸軍次官、南次郎参謀次長、阿部信行軍務局長、松井石根参謀本部第二部長、武藤信義関東軍司令官、白川義則陸相(オブザーバー)らであった。
●下に「対支政策綱領」を引用したが、重要な条項は第5,6,8項であった。簡単に要点をいえば「動乱が満蒙に波及して、日本の権益が侵害されれば、断固として自衛の処置をとる」というものであった。これが日本の基本方針となったのである。森恪は会議の目的は「ワシントン条約体制を打ち破るためだ」と公言したという。またこの会議は、田中義一(外相)、森恪(外務次官)らの政友会幹部の積極方針と関東軍の強硬意見を、外務省中堅官僚らに、今までの幣原外相の協調外交の考えを一掃するために訓示したものともいえる。
新聞は昭和2年(1927年)6月19日の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」昭和49年朝日新聞社発行

「東方会議1927年」における「対支政策綱領」

●下は外務本省 日本外交文書デジタルアーカイブ 昭和期I第1部 第1巻、昭和2年(1927年)対中国関係 「1東方会議」18ページから20ページ部分であり、「東方会議ノ最終日タル七月七日(木曜)ノ会議」の「田中外務大臣ノ訓示」である。

*リンクします「東方会議1927年」における「対支政策綱領」
「外務省編纂 日本外交文書 デジタルアーカイブ」

(注)日本外交文書デジタルアーカイブが提供するデジタル画像を閲覧する際には、Djvuビューアー(プラグイン)が必要となります。Djvuビューアー(プラグイン)は、無料でダウンロードできます。(また下の文章は、原文を横書きにして、単語意味をひらがなで補足し、読みやすくするため、句読点を追加したー星野)

「対支政策綱領」

(前略)
(ホ)閉会及外務大臣訓示
 東方会議ノ最終日タル七月七日(木曜)ノ会議ニ於テ、木村幹事長ハ田中委員長ノ指命ニ依り、会議二於テ支那政情報告及対支(たいし)一般政策二関スル意見陳述以外ノ支那関係諸問題ニ関シ意見交換ヲ為シタル大体ノ経過(本報告三、(一)参照)ヲ報告シ、右終りテ後田中外務大臣ヨリ(一)ノ如キ訓示ヲ為スト同時ニ、右訓示中ノ各項ノ重要ナル点ニ言及シ、適宜(二)ノ如キ説明ヲ与ヘタリ。

下

1927年
昭和2年
7月10日
岩波文庫文庫創刊

●これは1926年(大正15年)11月に改造社から刊行された「現代日本文学全集」に始まる「円本」ブームに岩波書店が対抗したものである。当時の本は高く、この「円本」は単行本の数冊分が1冊に収まり、定価も普通の1/2~1/3とあって人気を呼んだ。写真は「改造社の予約の支払い方法の案内」と下は解説部分(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
(円本全集の支払い方法)購続希望者は予約締切日までに予約申込金1円を振替貯金または為替などで発行元か書店に払い込んで会員となる。予約申込金1円は最終回の会費にあてられるが、中途解約の場合には返金されない。全巻一時払いの予約申込みの方法もあった。通常毎月1冊ずつ刊行されるので、以後会員は毎月期日までに会費(1冊の代金1円)と送料を払い込んで配本を受ける。(解説部分引用)
●岩波書店は、それに対して真に古典的価値ある書を厳選し、100ページを基礎単位にして分売できる(全集セットではない)廉価普及版である文庫を創刊したのである。下は1927年7/9「岩波文庫」刊行の広告『古今東西の典籍。自由選択の普及版・岩波文庫』に書かれた「読書子に寄す」の部分引用。

・・・・近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。・・・この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。・・・
1927年
昭和2年
7月24日
●(芥川龍之介《あくたがわ-りゅうのすけ》、自殺)芥川の自殺は、世間、特に特に青年・知識層に強い衝撃を与えた。『・・僕の場合は唯ぼんやりとした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安である・・』
小説家。東京生まれ。別号澄江堂主人、我鬼。第三次、第四次の「新思潮」同人。「鼻」が夏目漱石に認められ、文壇出世作となる。歴史に材を取った理知的・技巧的作品で、抜群の才能を開花させた。致死量の睡眠薬を飲み自殺。著作「羅生門」「地獄変」「歯車」「或阿呆の一生」「西方の人」など。明治25~昭和2年(出典)「日本国語大辞典精選版」
●新聞は昭和2年(1927年)7月25日の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」昭和49年朝日新聞社発行
1927年
昭和2年
8月13日
新しいマスメディア・ラジオ放送出現

●8月13日に開幕した甲子園の第13回全国中等学校優勝野球大会で、ラジオが初めて実況放送を行った。全国を結ぶ放送網は未完成だったので、大阪地方だけの放送だった。しかし昭和6年の満州事変以降、時局関係の臨時ニュースが人々の関心を呼び聴取者は急速に増加した。昭和7年2月には聴取契約数は100万を突破した。

NHKアーカイブスより「第13回全国中等学校優勝野球大会」
1927年
昭和2年
8月30日
「女たちの最大の争議」山一林組で1357人スト突入

●長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)の同社の男子・女子工員1357人は、「組合加入の自由・待遇改善」などの要求に対する会社側の回答を不満として一斉にストライキに突入した。ストに入ったのは、山一林組9工場のうち平野村にある、本店・第2・第3工場に属する従業員たちで、そのうちの89%が平均年齢が17歳を満たない製糸女子工員だった。
●特に貧しい小作農から集められた女工たちは、「登録制度・寄宿舎制度・等級制度」などによって、がんじがらめに縛り付けられていた。女子工員登録制度は、1925年に施行された労働者募集取締令に抵触するものとなり、1926年2月に廃止されたが、寄宿舎制度を根幹とする奴隷制度は、改正された工場法によってもなお存続しつづけた。
●9月7日、会社側は工場閉鎖命令を出し、9月12日には本店工場の炊事場・食堂を閉鎖して兵量攻めにでた。そして争議団は外出する隙をつかれ、500余名が寄宿舎を締め出されてしまった。こうして幹部の寝返りなどがあり、女子工員413人は説得に応じ帰郷し、争議団は解散する。(下に「女工哀史」をリンクしておいた。)
写真は昭和2年12月末に工場は閉鎖され、敗北した女子工員たちが特別列車で故郷にむかうところ。(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
●ただ、日本国内にあった全ての製糸工場が「女工哀史」であったわけではない。また当時の社会の貧富の差は激しく、農村の労働作業は製糸工場以上であったといわれる。

*リンクします 「女工哀史」 細井和喜蔵 著 改造社 大正14刊→ 国立国会図書館デジタルコレクション
1928年
昭和2年
9月1日
宝塚少女歌劇団・日本初のレビュー『モン・パリ』を上演

●宝塚少女歌劇団は、日本最初のレビュー『モン・パリ』を宝塚大劇場で上演した。特に鮮烈だったのは「ラインダンス」と「階段レビュー」であった。以来この2つは必ずレビューに使われる演出となった。
(注)レビューとは大衆演劇の形式の一つで、音楽、踊り、コントなどからなるショーである。19世紀末にフランスでおこり、20世紀初頭に世界的に流行した。ラインダンスもレビューのひとつ。(上写真)昭和2年10月に再演された『モン・パリ』車内吊りポスター。-写真・阪急学園池田文庫(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
●特筆されるのは、箕面有馬(みのおありま)電気軌道(現阪急電鉄)の専務・小林一三(いちぞう)の存在である。小林は私鉄の経営を、沿線の宅地分譲や遊園地(行楽地などの)経営を行うことで乗客の誘致をはかるというビジネスモデルを日本で最初に実現した人物である。この宝塚少女歌劇団も、当初は宝塚新温泉に客を集めるために創立されたものだった。
●そして1924年(大正13年)に宝塚に大劇場を完成させると、劇団は演出家岸田辰也に、大劇場にふさわしい演目を研究させた。そして岸田は欧米に派遣され、パリで人気を博していた「レビュー」の導入を決めたのである。
しかしそのレビュー1本の上演費用は、概算でも宝塚の年間上演費用の4年分に相当し、猛反対を受けたのだが、それを許可したのがここでも社長の小林一三だったのである。
●岸田はレビュー「モン・パリ」の振り付けなどを弟子の白井鉄造に任せた。こうして白井は、日本のレビュー発展の最大の功労者となっていくのである。
●宝塚少女歌劇団は、このレビュー公演の翌年(昭和3年5月)には東京歌舞伎座に進出し、5日間の公演は超満員となった。この成功を見た東京松竹は、昭和3年10月に楽劇部を設立した。そして多くのレビュー団が誕生していったのである。下段の日本最初の地下鉄のところの「佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草」の中にもラインダンスのシーンがある。

1927年
昭和2年
10月16日~
(東京府美術館で第8回帝展が開催)
●院賞受賞は日本画・鏑木清方「築地明石町」、洋画・田辺至「裸体」、彫刻・横江嘉純「大乗」。
(左の日本画)鏑木清方「築地明石町」1927年(出典)「原色明治百年美術館」朝日新聞社1967年年刊
1927年
昭和2年
11月1日
(講談社「キング」11月号、140万部を完売)
●この「キング」は初の100万部越えの雑誌となる。11月号は、キングに付録「明治大帝」をつけたもので、この付録は出版界始まって以来の大付録で、箱入り828ページ、定価がキングと2冊で一円だった。この「明治大帝」はのちに単行本として発売されベストセラーとなったという。こうして講談社は、『雄弁(明治43年)』『講談倶楽部(明治44年)』『少年倶楽部(大正3年)』『面白倶楽部(大正5年)』『現代(大正9年)』『婦人倶楽部(大正9年)』『少女倶楽部(大正12年)』『キング(大正14年)』、そして翌年には『幼年倶楽部(大正15年)』を創刊し「9大雑誌」を刊行した。この9大雑誌で国内発行の雑誌の6割以上を占め、講談社は「雑誌王国」と呼ばれるようになった。
1927年
昭和2年
11月3日
●初めての明治節。この日は旧制の4大節のひとつで、明治天皇の誕生日。明治神宮に参拝者が昼間約50万人、夜約30万人。
1927年
昭和2年
12月20日
野田醤油争議(戦前最長ストライキ)

●野田醤油株式会社は罷業中の工員735人を解雇した。これで解雇者の累計は1037人となる。
●これより前4月10日に組合側は、「増給の要求」、「解雇・退職・老衰手当の増額」など6項目の要求を会社側に提出していた。この時、会社側は要求を全面拒否したので、スト突入は必至だったが、労働組合本部の介入でストは回避されていた。そして1927年9月13日、関東醸造労働組合野田支部の組合員が千葉県野田町(現野田市)の野田醤油株式会社を訪れ要求書を手渡した。内容は下請け会社・丸三運送店がらみの組合つぶしと思われる行動に抗議するものだった。そしてこの3日後、組合はストに突入し、翌年4月20日までの218日間の戦前の最長ストライキとなった。
●この事件の結末は、1928年(昭和3年)3月20日、野田争議団副団長堀越梅雄が、東京駅前丸ビル明治屋支店前角で、葉山へ行幸する天皇に直訴に及んだことがきっかけとなった。会社側は「不敬事件」としたが、問題を起こした責任は免れず、調停もあって妥結した。調停内容は、争議団の解散、解雇者のうち342人の復職、総額45万円の手当の支給というものだった。
写真は昭和3年4月1日、内務省へ請願のため江戸川堤を東京へ向かって行進する争議団。(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
(注)1917年(大正6年)高梨家と茂木一族7家が設立した野田醤油株式会社は、のちにキッコーマン醤油株式会社に商号変更した。

1927年
昭和2年
12月30日
●日本最初の地下鉄開業。東京地下鉄道の浅草-上野間
左絵は「上野-浅草間開通のポスター」昭和2年。杉浦非水作(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊

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