事項・内容(第1次大戦頃から大正時代全般)項目別に概略 |
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(大資本家の発展) ●第1次世界大戦中の空前の大好況は、重工業・化学工業を発展させ、銀行資本の集中と同時に産業の大資本家も生み出した。1917年(大正6年)3月、主要産業の大資本家だけを会員とする「日本工業倶楽部(くらぶ)」が作られた。会員名は以下の通りである。財閥を中心とする「かくれた政府」とよばれるほどの力を持ち、「工業の発達をはかることを目的として」政府や政党を動かした。 理事長・団琢磨(だんたくま=三井財閥・総指揮者)。専務理事・和田豊治(わだとよじ=三井系の紡績資本家)、郷誠之助(ごうせいのすけ=三菱系電気事業資本家)その他。評議員会長・豊川良平(とよかわりょうへい=三菱財閥の総指揮者)、副会長・馬越恭平(まごしきようへい=三井系ビール王) ●また大戦の後半期は、成金(なりきん)時代とも言われ、都市も農村も好景気で浮き浮きしていた。小金をもつものが株式相場に手を出すことも大流行した。金と野心のあるものが製糸工場を建て成功したり、船大工の親方でも、田舎の金物屋でもちょっとした成金になった、という話はどこにでもあったという。しかし大資本家のもうけは夢のようで、代表的なものは、「鈴木商店」や「内田信也の内田汽船」であった。
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(農村の景気) ●平均米価は左図(経済状況で引用)にあるように、1915年(大正4年)は1913年(大正2年)より4割以上下がった。政府は米価引き上げにやっきとなったが、翌1916年も安値であった。しかし一般物価高の影響は農産物にあらわれはじめ、好景気と都市の人口増による米の需要の増大によって、米価は上がりはじめ、ついに買い占めや騰貴による1918年(大正7年)7月の「米騒動」につながっていく。
●また繭(まゆ)は米につぐ重要農産物で、生糸の輸出の激増にともなって、生産も増加し値段も上がっていったので、農村景気の中心となった。
●しかしこの農村景気は農家全体のものではなく、富農に上っていく一部のものと、都会に働きに行かざるをえないもの(零細農家)とへ分化していった。なかでも、自分で農業をしないで、小作人に土地を貸し付ける寄生地主が、米の投機的な販売で大もうけをしたり、大地主や巨大地主となって繁栄していくものも増加していった。
●こうして大都会や工業地帯の近くでは、小作人や農業日雇い労働者が、鉱工業へ仕事を求めて村を出て行ったり、千葉県では農民が農業をすてる傾向が強くなったりした。例えば埼玉県では、鋳物工業で知られた川口町や鉄道工場のあった大宮町の近くでは、農業から工場労働に移るものが多かった。 上グラフ(出典)「日本経済史1600-2000」慶應義塾大学出版会2011年初版第3刷発行。
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(大正デモクラシー) 「民本主義」「普通選挙運動」「労働運動」「米騒動」「部落解放運動」
●「民本主義」とは、東京帝大教授吉野作造(よしのさくぞう)が「デモクラシー」を訳した言葉である。そして衆議院が枢密院や貴族院よりも優先されるべきと主張し、衆議院中心の議会政治と政党内閣の必要を説いた。この論は、「普通選挙運動」にも理論的根拠を与え、都市の中小ブルジョアや知識人に支持され、急速に広まった。そしてこの運動の中心団体だった「普通選挙期成同盟会」(大逆事件《1910年》後にいったん解散)も各地で再興され始めた。
●「労働運動」も大逆事件以後、政府による弾圧を受けていたが、1912年(大正元年)鈴木文治による「友愛会」が組織された。この会は、人道的立場から労使協調を指導精神としていたために、官憲からの弾圧を受けることもなく、渋沢栄一らの大資本からの援助も受けていた。会は年ごとに発展し1916年(大正5年)ごろには1万人の会員を有し、全国に10余の支部を持つに至った。しかし鈴木自身によるアメリカ旅行をきっかけに、現地の労働組合運動を学び取り、日本での活動を変え、「労働者共通の利害」「団結権」「罷業権(スト権)」を強く主張するようになった。そしてこの活動は労働組合の先駆となり、1921年(大正10年)の「日本労働総同盟」に発展した。ストライキ件数(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊をもとに作成。
●第1次世界大戦(1914年7月~1918年11月)(大正3年~大正7年)中の、1916年(大正5年)後半から物価の騰貴(左グラフ)が始まり、賃金の上昇をはるかに追い越して、労働者の生活は苦しさを増した。大戦中の近代工業の発展は労働者を激増させており、それにともない労働争議も激増していった。「大正前期のストライキ件数」みると上図のようで、1917年(大正6年)から激増している。上グラフ(出典)「日本経済史1600-2000」慶應義塾大学出版会2011年初版第3刷発行。
●「米騒動(1918年)」は、背景に1916年(大正5年)・1917年(大正6年)の気候不順と農業労働力不足(都市へ流出など)による米の減収があった。そして都市人口は戦前の約2倍、鉱工業人口も2倍以上に増大しており、米の需要は激増していた。そして米不足の解消のために外米の輸入を自由にさせる要望がたかまったが、時の政府は自由にはさせなかった。なぜなら米価の下落は、地主層の利益を減少させるからであった。そして外米の輸入業務は、政府と結びついた三井物産や鈴木商店などに独占させた。そしてこの不均衡は、投機商人と大地主の買い占め、売り惜しみを引き起こした。政府は、新聞各社による無能無策の非難にもかかわらず、何の対応もしなかった。米騒動が起こり始めたころ、同時に賃上げ要求の労働争議がいたるところで起こり始めた。
●1918年(大正7年)7/23富山県魚津の漁民の妻女達から始まった「米の県外移出中止」や「米の安売り」や「生活困窮者への援助」の要求運動は、県内に広がっていった。そして岡山県・香川県などで同様な騒動が起きはじめ、ついに8/10夜京都市の「未解放部落民」が蜂起して、米屋を襲った。これが全国に広がり、米屋の襲撃、悪徳富豪の家の打ちこわし、米の取引所の襲撃や、農村では地主が襲われた。
そして山口の炭鉱と、福岡の炭鉱の争議が同日に暴動となり、九州の炭鉱ではつぎつぎに争議が起こり、そのうちの10ヵ所では大暴動となり、軍隊による実弾による鎮圧と、炭坑夫によるダイナマイトの応酬というような戦いが行われたところもあった。 上写真「1918年8月12日夜、憲兵とにらみ合う名古屋市の群衆」(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊
●1918年の9月で終了したこの騒動の結果は、群衆の示威運動または暴動の起こったところ合計310カ所、1カ所も起こらなかった都道府県は4県、軍隊の出動は70市町村、騒動に参加した者は、100万人を越えたとされる。この騒動は突発的に起こったもので、計画性や組織性はなかった。しかし民衆は社会的にも政治的にも自覚をもつようになり、労働運動、農民運動、水平運動(部落解放運動)などは大きく発展していった。
これにより、寺内内閣は総辞職し原敬内閣が1918年(大正7年)9月に成立した。最初の政党内閣(政友会)である。第1次大戦は1918年11月に終結した。
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原敬(はらたかし)内閣1918年(大正7年)9月29日成立、最初の政党内閣(政友会) 政治家。岩手県出身。新聞記者から官僚となり、伊藤博文に信任される。第四次伊藤内閣の逓相、第一次・第二次西園寺内閣、第一次山本内閣の内相を歴任、大正3年(1914年)立憲政友会総裁となり、同7年寺内内閣の後、平民宰相として初めて政党内閣を組織。東京駅頭で暗殺された。(出典)「日本国語大辞典精選版」
●原敬は民衆から「平民宰相」とよばれ「民衆の時代」の象徴と喝采された。原内閣の4大政策綱領は「国防の充実、交通通信機関の整備、教育の振興、産業の奨励」であり、大正9年度予算においてその実行を試みた。明治大正財政史1巻を読むと、これらの巨額の経費支弁のために政府が採用した方策は次のようである。「増税の実行・公債の発行・減債基金繰入の停止」の3つで、国防充実費の財源は、増税収入及び減債基金繰入の停止による余裕金をあて、その他は主として公債に仰ぐ、とある。 (注)この「減債基金繰入の停止」については、現在においても論議されることがある。
●このために歳出予算は急激に膨れ上がり、1918年(大正7年度、寺内内閣)の歳出は8億4千万であったが、1921年(大正10年度、原内閣)の予算は15億8千4百万円で、3年間で2倍近くになった。
●しかし1920年(大正9年)3月、第1次世界大戦後の戦後(反動)恐慌が、東京株式市場での株式の暴落から始まった。 上写真「1918年9月30日、前首相寺内正毅(左軍服)と総理大臣官邸で事務引継ぎを行う原敬(右)」(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊 |
(恐慌の原因) 「日本銀行百年史」第3巻(大正9年の大反動と特別融通)のところで、この恐慌についてわかりやすくまとめている箇所がある、そこの一部を引用してみる。 「日本銀行百年史」第3巻(一部引用) 「・・ともあれ、9年3月以降の財界動揺は6月には一応鎮静した。高橋蔵相は7月11日の貴族院本会議において、「打撃の峠は越した」「是から段々堅実に発展するやうに赴いて来る」と述べている。もっとも、動揺の鎮静は「一時的表面的の仮装」にすぎないという意見もあったが、9年下期に入るや、ようやく明らかになってきた世界的な戦後景気の反動と銀価暴落の影響を受けてわが国経済はさらに沈滞した。
すなわち、第1次大戦に伴う疲弊から容易に回復することができなかったヨーロッパ諸国はしだいに不況の過程に入り、大戦景気を享受していたアメリカも大正8年11月来の引締め政策により景気後退を生じていた。また、インドは連月の輸入超過と銀価暴落に悩まされ、中国も引き続く南北の抗争、大凶作および銀価暴落の影響で輸入力を減殺されつつあった。 このため、大正9年下期のわが国輸出額は前年同期比36.3%の大幅減少を示し、年間の貿易収支赤字幅は3億8778万円と前年(7459万円)の5.2倍に上る巨額に達した。第1次大戦後の熱狂的好況の大反動に伴う国内経済の沈滞に加えて、大戦中の経済発展の原動力となった対外貿易が不振に陥ったので、各種の滞貨は倉庫にあふれ、生糸や綿糸など主要商品はことごとく不況にさらされた。さらに、豊作による米価の下落から地方の景気も衰退し、商勢は一段と鈍化した。大正9年中における主要商品の最高・最低値を見ると、熱狂的好況の波に乗りえなかった銅・洋紙・石炭を除けば、いずれも半値以下に低落しており、生糸・綿糸・羽二重・鉄は3分の1前後に落ち込んでいた。反動後の景気沈滞がいかに深刻なものであったかが知れよう(なお卸売物価の動きをみると、ピークの大正9年3月から同年末までに36%、さらに翌10年4月までには通計41%下落し、大正8年のブームの始まる直前の同年4月の水準に比べ6%、第1次大戦終了時の大正7年11月の水準に比べれば10%も下回るに至った)。」 |
(ロシア革命の影響、社会主義、共産主義) ●1917年(大正6年)のロシア革命は、日本の為政者、資本家、一般民衆に大きな影響を与えた。それは、帝政が倒され、そして資本家の権力も労働者ら一般民衆によって倒されたからであった。
また日本の為政者は、この革命の思想が日本国内および、とくに日本に併合された朝鮮の民族独立運動に影響することを恐れた。 写真(出典)「世界の歴史14」中央公論社1963年刊
●1917年3月の政友会総裁原敬の日記には次のようにある。
「ロシア革命を見て、超然論者も夢をさまさなければならない。近来のことは、皇室のため国家のために憂慮にたえない」 寺内首相は1918年(大正7年)5月に地方長官会議で次のように訓示した。 「資産家と労働者の生活のへだたりがひどくなり、民衆の生活難が深刻になるとともに、『外国』の影響で、『国体に合わない』国民思想の変化が起こりつつあるのを警戒せよ」と言った。 またこの年首相になった原敬は11月の日記にはつぎのようにある。 「人民はいつとはなく国外の空気に感染し、社会主義の伝播は、いまさら、にわかにどうしようもない形勢である」 と書いている。発言・日記類(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊 |
(労働運動の組織化と普通選挙要求運動) ●日本の社会運動と労働運動は、1917年のロシア革命、1919年パリ平和条約における国際労働協約(労働組合の自由、最低賃金制、8時間労働制、少年労働の禁止)などにより大きく影響を受けた。左の表は「第1次大戦後の労働争議件数と労働組合数」である。表にあるように1919年(大正8年)の争議総件数は一気に増大している、これ以外を含めて一例を列挙してみると以下のようである。東京砲兵工廠など軍工廠で2万7千人のスト、大日本鉱山労働同盟会(釜石鉱山、足尾銅山など)、神戸川崎造船所で1万7千人の争議(9月)、東京の主要新聞社の印刷工ゼネスト(7月)、印刷工組合信友会ゼネスト(10月)など。また普通選挙要求運動は、3千人の大学生による帝国議会デモ(2月)、京都と神戸で友愛会が中心となった普選要求大会開催(2月)、東京では市民と労働者を主とする5万人のデモ(3月)など、労働者と学生を主力とする普選運動が全国的に発展した。表は「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊、をもとに作成。
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●これに対して原敬内閣(政友会)は、1919年(大正8年)3月、普選要求をそらすため、議会に、選挙権資格を納税額10円から3円に引き下げ、大選挙区制を小選挙区制に改める法案を提出した。野党の憲政会と国民党も法案を出そうとしたが、政府案が通った。これにより有権者は、約146万人から2倍近い287万人となったが、当時の日本の人口(5700万人)に対して5%でしかなかった。しかし都市有権者の増加は11万人にすぎず、政友会は地方の自作農民に選挙権を与えることで地盤を守ったのである。 (注)2017年10/22の衆議院総選挙の有権者数(106,091,229人)を2017年5/1現在の日本人の人口(124,758千人)で割ると、現在の日本の有権者率は約85.04%である。(数字出典:総務省)
左の写真①は「大正8年4月13日、上野公園の普選宣伝大野外演説会」その下④の写真は「大正9年2月11日、議会に押しかけた普選促進同盟会、全国学生同盟会などの人々。」写真2枚(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊。 |
●こののち普選運動はいっそう強力になっていった。「普選の実施・労働者団結権の承認・言論の自由」これが学生・青年と労働組合のスローガンであった。そのため憲政会総裁加藤高明や国民党の犬養毅も、民衆を革命に走らせないためには、普通選挙が必要と考えるに至った。
写真は1920年(大正9年)5月2日、日本で初めて公然と行われたメーデー(上野公園)の写真。ここでは友愛会・信友会、労働組合・学生団体、そのほか15団体が主体となり、「8時間労働制・失業反対・治安警察法17条廃止」を可決し、万国の労働者の団結を強調した。しかし解散し始めると、いたるところで警察と衝突してたちまち検束された。当時の思想は、「労働者は組合に結集して直接行動(激烈なゼネスト)で資本主義を破壊する」というものと、「労働者階級が権力をにぎるため政治闘争を行う」という2つの考えがあった。 写真(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊。
●しかし、これらの動きに対して、政友会の原首相は、野党の提出した法案に対して「社会組織をおびやかす不穏な思想があるから、この可否を問う」という理由で1920年(大正9年2月)議会を解散した。そして選挙で政友会は、「普選をやればみんなの財産はとられて貧乏人に分配される」などといって、主として地主と自作農たちの農村の有権者をおどかした。その結果政友会は、過半数を50名上回る圧倒的勝利を得た。政友会は「力は正義なり」と豪語し野党の普選法案を一蹴した。そして普選運動は勢いを失っていった。
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(その後の社会運動) ●(小作争議)
恐慌における小作争議は激増し、農民思想の変化と農民運動の広まりを基礎に1922年(大正11年)4月「日本農民組合」がつくられた。その創立宣言は、「われら農民は互助と友愛の精神をもって解放の途上に立つ」とし主張も「耕地の社会化」という穏やかのものであったが、ぞくぞくと先進的な農民の加入により、1923年(大正12年)には戦闘的小作人組合(支部300、組合員1万人超)となっていった。
●(全国水平社)
1922年(大正11年)3月、部落解放運動は奈良県の西光万吉・阪本清一郎らの努力によって「全国水平社」が作られた。創立大会の宣言は、部落民自身の闘争だけをたよりに、自力によって真の解放をかちとろうというものであった。そして1926年(大正15年)の第5回大会では、差別は民衆の責任にあるのではなく、「皇族・華族・平民」という身分制度がある社会の仕組みにあるとし、労働運動・農民運動などと手を組んでいこうと方向性を決めた。
●(婦人運動)
1919年(大正8年)末から、女性に対する封建的な差別・圧迫から解放されようとする婦人運動・男女同権運動が起こってきた。「平塚らいてう・奥むねお・市川房枝」らは、治安警察法第5条の修正運動を起こし、さらに女子の高等教育の拡充・男女共学・母性保護・婦人参政権のために、翌1920年「大正9年」3月「新婦人協会」を作った。そして東京・大阪・名古屋・広島・奈良などに支部がつくられ、機関紙「女性同盟」を発行した。これらの運動は1922年(大正11年)に成果を生み、治安警察法の一部が修正されたが、女子の政党加入はなお禁止された。しかし「新婦人協会」はこのあと突然解散してしまった。思想的な対立が底流にはあったとされる。 「公文書にみる日本のあゆみ」の「治安警察法」解説
「明治33年(1900)3月9日治安警察法が公布され、3月30日に施行されました。同法は、集会・結社の届け出を義務とし、軍人・警察官・宗教家・教員・学生・女子・未成年者の政治結社加入と女子・未成年者の政談集会参加を禁止したほか、集会に対する警察官の禁止・解散権、結社に対する内務大臣の禁止権を規定しました。また、労働者・小作人の団結・争議を禁止し、日清戦争後盛んになりつつあった労働運動・農民運動の取締りを盛り込みました。掲載資料は、同法公布時の閣議書です。」とある。 *リンクします「国立公文書館」「公文書にみる日本のあゆみ」→「治安警察法ヲ定ム」●(共産党の結成)
1922年(大正11年)1月、モスクにて「コミンテルン」主催の「極東民族大会」が開かれ、ソ連にいた片山潜や徳田球一らが参加し、日本共産党を作ることを決定した。コミンテルンとはロシア共産党を中心として、各国共産党を支部とし世界革命をめざす国際組織のことである。そして1922年7月15日、秘密裏に日本共産党が作られた。創立メンバーは、堺利彦・山川均・高津正道・荒畑寒村・徳田球一・高瀬清らであった。しかし翌1923年(大正12年)6月、堺利彦ら80余名が一斉検挙された。(第1次共産党事件)
そして1923年(大正13年)、警視庁にしか設置されていなかった特別高等課を、北海道・神奈川・大阪・京都・兵庫・愛知・山口・福岡・長崎・長野の、各府県の警察部に設けた。特高課は、幸徳事件(=大逆事件1910年)を契機に作られた社会運動や社会主義を取り締まる特別の警察であった。 |
(原首相暗殺)1921年(大正10年)11月4日東京駅頭で刺殺される 原内閣の政友会は、地方の地主・資産家や財閥の支持を受け、国内では「産業立国」をスローガンに積極的な財政運用を行った。外交的には対英米協調路線を基本とした。そして国際連盟(1920年発足)では日本は常任理事国となり世界において「一等国」となった。しかし1920年(大正9年)3月、株式相場の暴落から戦後(反動)恐慌が起こった。この時、原内閣は銀行・会社を救済したが、これは一時的なものであった。恐慌は押さえられたが、むしろ恐慌は慢性化し、経済界はひろく不景気となった。そして小作争議、労働運動、普選運動の社会運動は激化し、共産党の結成もあった。また同時に中国・朝鮮の日本に対する民族自決の運動や、シベリア出兵の失敗など、日本は対英米協調路線を取らざるを得ず、また海軍軍縮についても財政上からも承認せざるを得なかった。この困難な時代にあって原首相は、鋭利な頭脳、強固な意志、決断力、統率力など類のない政治家であった。暗殺犯は、政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行におよんだと供述したとされるが、本人が3度の大赦で釈放されていることから、事件の背後関係など謎が多い。 |
高橋是清(たかはし-これきよ)内閣成立(政友会) 政治家。財政家。江戸の人。仙台藩士高橋是忠の養子。米国留学後森有礼の書生となる。開成学校卒業。文部省、農商務省、日本銀行に勤め、明治44年(1911年)日銀総裁。また蔵相、政友会総裁、首相などの要職を歴任。昭和11年(1936年)の二・二六事件で暗殺された。(出典)「日本国語大辞典精選版」
●1921年11月13日高橋是清内閣が成立。高橋是清は蔵相を兼務し、他の前閣僚が留任して成立した。内閣は積極方針を修正して、軍縮(ワシントン体制)と緊縮政策を実行したが、この緊縮政策が内紛となり内閣は7カ月で終わった。1922年(大正11年)6月総辞職。 |
ワシントン会議 1921年(大正10年)~1922年(大正11年)開催。 ●条約内容は、①「海軍軍縮」(海軍軍備制限条約)、②「中国の主権・独立・領土保全を保障する9か国条約」によって山東(旧ドイツ租借地の権益)を中国に返還、③日英同盟の破棄(4ヵ国条約)、また日本だけが撤兵していなかった「シベリア撤兵」などである。ポイントは原内閣は外交政策として、国際的孤立を避け、現実主義による対英米協調路線を基本方針としたことである。そしてその協調路線は、原敬暗殺(1921年11月)後も、幣原喜重郎(外務大臣1924年~)によって引き継がれていった。そしてこの対英米協調路線が政界、経済界、軍部の反発を生んでいったのである。(ワシントン条約体制) |
10万人の軍縮 ●ワシントン会議の結果、海軍は軍縮を行い、建造計画中の主力艦7隻のうち「陸奥(むつ)」を除く6隻の建造を中止し、旧式戦艦10隻を廃棄した。一方陸軍は、1922年(大正11年)から1923年(大正12年)にかけて、師団の定員をへらし、全国で総計将兵6万3200人、ウマ2万3400頭をへらした。そして1925年(大正14年)には、陸相宇垣一成のもと、4個師団を廃止し、将兵3万6900人とウマ5600頭をへらした。これらは、世界的な軍国主義否定の潮流や、国内でのシーメンス事件(海軍収賄事件)や米騒動で軍が民衆を弾圧したことなど、また国民の反対をふみ切って強行したシベリア出兵を失敗したことなどにより、軍の威信が地に落ちたことも原因であった。
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加藤友三郎(かとう-ともさぶろう)内閣成立。(海軍大将) 1922年(大正11年)6月12日 海軍大将元帥。政治家。広島県に生まれる。日露戦争で連合艦隊参謀長。第二次大隈内閣以降四内閣の海相。ワシントン会議首席全権。大正11年(1922年)政友会の支持で組閣。山東問題の処理、シベリア撤兵、軍縮にあたるが在任中に死去。(出典)「日本国語大辞典精選版」 |