「帝国陸軍」②(まだ終わっていない日本の戦争)軍人・軍属の死亡者

アジア・太平洋戦争

「アジア・太平洋戦争」とは、戦後の世代にとっても重要な現代史であり、避けては通れない日本の過去である。

目次
基本用語 主要項目
★「アジア・太平洋戦争」の軍人・軍属の死亡者・不明者。 「戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争」毎日新聞社。厚生労働省「戦没者慰霊事業の実施」海外戦没者遺骨収容状況概見図、「別冊歴史読本第68(266)号太平洋戦争総決算」新人物往来社1994年刊掲載の厚生省援護局1964年作成「地域別兵員及び死没者概数表」など。
★NHK[証言記録 兵士たちの戦争]とアメリカ映画・TVドラマに描かれた日本軍。 「硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊」NHK。「ザ・パシフィック」2010年(アメリカ軍が日本軍を評価した戦いのひとつ「硫黄島」)。「硫黄島からの手紙」2006年。「WORLD WARⅡ」第2次世界大戦全史「硫黄島の戦い」
★春風亭柳昇「落語与太郎戦記」と輸送船の体験談。
戦死者のうち「海没」が約30万柱とある理由がわかるようである。
春風亭柳昇「落語与太郎戦記」、山本七平「一下級将校の見た帝国陸軍」から「地獄の輸送船生活」、小松真一「虜人日記」から「海難」、水木しげる「水木しげる伝(上)戦前編」の「野戦ゆき」のところなどを、紹介する。

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★「アジア・太平洋戦争」の軍人・軍属の死亡者・不明者。
●ここでは、「アジア・太平洋戦争」の死亡者等を、「戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争」毎日新聞社、厚生労働省「戦没者慰霊事業の実施」海外戦没者遺骨収容状況概見図、「別冊歴史読本第68(266)号太平洋戦争総決算」新人物往来社1994年刊などより一覧を作成してみた。
●毎日新聞社の「戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争」の数値をまとめると次のようになる。

1、戦没者合計の表
区分 明細
軍人・軍属 230万人 国外210万人、国内20万人
民間人 80万人 海外30万人、国内50万人
戦没者 合計 310万人

とある。

毎日新聞社の「戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争」
毎日新聞社

そして(第1回230万人はどのように戦死したか? – 毎日新聞)のなかでは次のようにある。

日中戦争から太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属の数について、日本政府は230万人(1937~45年)という数字を公式に採用してきた。だが、彼らがどこで、どのように亡くなったかについては不明確な点が多く、「6割が餓死した」との学説もある。・・・「厚生省(現厚生労働省)援護局は1964年に国会からの要求を受け、「地域別兵員及び死没者概数表」を発表。日中戦争が始まる37年から太平洋戦争が終わる45年までの軍人や軍属の戦没者(当時の発表では総数が212万1000人)について、地域ごとに内訳を示した。」

とあり、地域ごとの数字をあげている。
●そして、厚生労働省「戦没者慰霊事業の実施」によれば平成29年(2017年)6月末現在「海外戦没者遺骨の収容状況」はつぎのようである。

2、海外戦没者遺骨収容状況概見図
区分 備考
海外戦没者 概数 240万人 平成29年(2017年)6月末現在
収容遺骨 概数 127.4万人
未収容遺骨 概数 112.6万人 ●海没、約30万柱●収容困難(相手国の事情)約23万柱●収容可能(最大)約60万柱

とあり地域別に戦没者の一覧を載せている。

厚生労働省「戦没者慰霊事業の実施」「海外戦没者遺骨の収容状況」
厚生労働省

●上記①の戦没者の合計の表と、②の「海外戦没者概数約240万人」の関係を一覧にすると下記のようになる。すなわち厚生労働省の「海外戦没者概数約240万人」は、民間人と軍人軍属の戦没者が含まれており、日本内地の戦没者が含まれていない。そして戦没者合計310万人から240万人を引くと、70万人が日本内地の戦没者(軍人・軍属、民間人)であるということである。この内訳が現在の公式数値とおもわれる。

3、海外・内地区分戦没者合計表
区分 軍人・軍属 民間人 合計
海外 210万人 30万人 240万人
内地 20万人 50万人 70万人
合計 230万人 80万人 310万人

●海外の民間人の戦没者の大きな割合を占めたのが、「満州」と「沖縄戦」であり、軍が民間人を見捨てたり、軍が民間人を戦闘に巻き込み犠牲にしたといわれる。
●内地の民間人の戦没者の大きな原因は、「全国の空襲」によるもので、特に「東京大空襲」「広島・長崎の原爆被害」が特筆される。

●次に、過去に国が行った戦争被害調査について、書いておく。1947年社会党の片山内閣が成立し、1949年4月に「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」が公表された。これは経済安定本部総裁官房企画部調査課編によるもので、戦没者、陸軍軍人1,435,676人、海軍軍人429,034人、とあるものがこの出典である。(例)講談社「昭和2万日の全記録」7巻1989年刊「総括・太平洋戦争」。

経済安定本部総裁官房企画部調査課編「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」
国立公文書館デジタルアーカイブ

●そして厚生省援護局は、1964年に「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数表」を作成し、軍人や軍属の戦没者総数を212万1000人とし、地域別に内訳を発表した。これが現在に至るまでの基礎データとなっているようである。
下に「別冊歴史読本第68(266)号太平洋戦争総決算」新人物往来社1994年刊よりぬきだしてみた。マウスホイールで拡大して確認してください。

地域別兵員及び死没者概数表

●ここで厚生省援護局が1964年作成した「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数表=戦没者総数を212万1000人」と2017年度版厚生労働省の「海外戦没者遺骨の収容状況」を、地域別に対比させ、下表を作成してみた。そして「海外戦没者遺骨の収容状況」の日本本土欄に、70万人の数値を追加した場合の合計も記入した。この内訳は軍人軍属20万人+民間人50万人であるらしい。

4、地域別、1964年と2017年対比表
1964年「地域別兵員及び死没者概数表」
(軍人・軍属のみ)
2017年度「海外戦没者遺骨の収容状況」
(軍人・軍属と民間人)
地域 死没者数 地域 死没者数 増減数
日本本土(含周辺) 103,900 日本本土(含周辺) -103,900
小笠原諸島 15,200 -15,200
沖縄諸島計 89,400 沖縄 188,100 98,700
①台湾 39,100 ①台湾 41,900 2,800
②朝鮮(南部) 15,900 ②韓国 18,900 3,000
③朝鮮(北部) 10,600 ③北朝鮮 34,600 24,000
★台湾・南朝鮮・北朝鮮計(①+②+③)計 65,600 ★台湾・韓国・北朝鮮計(①+②+③) 95,400 29,800
樺太・千島(含アリューシャン) 11,400 アリューシャン 24,400 13,000
満州 46,700 中国東北地方 245,400 198,700
中国本土(含香港) 455,700 中国本土 465,700 10,000
シベリア 52,700 旧ソ連邦 54,400 1,700
④硫黄島 21,900
中部太平洋諸島 247,200 ⑤中部太平洋諸島 247000
★中部太平洋諸島計 247,200 ★中部太平洋諸島計(④+⑤) 268,900 21,700
フィリピン 498,600 フィリピン 518,000 19,400
仏領印度支那 12,400 ベトナム・ラオス・カンボジア 12,400 0
タイ・マライ・シンガポール 18,400 タイ・マレーシア・シンガポール 21,000 2,600
⑥ビルマ(含印度) 164,500 ミャンマー・インド 167,000
⑦アンダマン・ニコバル 2,400 (インドに含)
★ミャンマー・インド計(⑥+⑦) 166,900 ★ミャンマー・インド計 167,000 100
⑧スマトラ 3,200 ⑧インドネシア 31,400
⑨ジャワ 6,500 ⑨北ボルネオ 12,000
⑩小スンダ 53,000 ⑩西イリアン(西部ニューギニア) 53,000
⑪ボルネオ 18,000
⑫セレベス 5,500
⑬モルッカ 4,400
★小計(⑧+⑨+・・+⑬) 90,600 ★小計(⑧+⑨+⑩) 96,400 5,800
ニューギニア 127,600 東部ニューギニア 127,600 0
⑭ビスマルク諸島 30,500 ビスマーク・ソロモン諸島 118,700
⑮ソロモン諸島 88,200
★ビスマーク・ソロモン諸島計(⑭+⑮) 118,700 ★ビスマーク・ソロモン諸島計 118,700 0
陸軍・海軍合計 2,121,000 海外戦没者合計 2,403,400 282,400
日本本土に70万人を加えた場合の合計数値 +70万=
3,103,400
+70万=
982,400

★NHK[証言記録 兵士たちの戦争]とアメリカ映画・TVドラマに描かれた日本軍。

●ここでは、NHKの「戦争証言アーカイブ」や、アメリカのTVドラマや映画から、「硫黄島」の戦いのシーンを紹介してみる。戦意高揚映画でもなく、英雄伝説でもない。両軍の兵士達の個人の体験である。著名なアメリカの監督の作品は、必ず個人が主役であり、個人にこそ尊厳がある。日本では過去の戦争批判・軍部批判は当然のことかもしれない。しかしだからといって、この戦争で死んでいった兵隊たち(国民)を無視したり批判したりするのはおかしなことである。靖国神社に英霊として祀られるとかではなく、鎮魂でもなく、個々人に敬意と名誉を与えることができる社会が必要だと思うだけである。

作品名・簡単な内容と動画
NHK戦争証言アーカイブ[証言記録 兵士たちの戦争]

最初にNHKのサイトから「硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊」を見てみたい。この番組は、音声調整や全画面表示もできます。番組全体では、43分になるので、それぞれのチャプター(シーン)を選択して再生もできます。
『激戦地に赴いた陸軍歩兵第百四十五連隊。現役兵を中心に、鹿児島で編成された精鋭部隊でした。最後の戦いの場となった硫黄島では、太平洋戦争終盤、アメリカ軍6万人、日本軍2万1千人がこの島で激突しました。』・・

NHK戦争証言アーカイブより「硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊」

「ザ・パシフィック」第8章「硫黄島」
「ザ・パシフィック」(The Pacific)は、実話を基に太平洋戦争における米海兵隊員達と日本軍の死闘を描いた2010年のアメリカ、テレビドラマシリーズである。製作総指揮はスティーヴン・スピルバーグ、トム・ハンクス、ゲイリー・ゴーツマン。ここでは最初にアメリカ軍から見た「硫黄島」の戦いの解説のところを紹介する。

(mp4動画、サイズ9.3MB)

「硫黄島からの手紙」
「硫黄島からの手紙」は2006年のアメリカ戦争映画で、監督クリント・イーストウッドである。栗林中将が防衛体制の見直しを行い、強力な地下陣地構築を行っていく。そしてこの映画では、日本兵役で、嵐の二宮和也らが出演しており、上官に自決を強制される日本兵と、生きて帰ると誓った普通の青年の心の葛藤を熱演している。アメリカ軍の上陸作戦前の戦闘機による日本軍基地襲撃のシーンを紹介する。

(mp4動画、サイズ6.4MB)

「WORLD WARⅡ」第2次世界大戦全史「硫黄島の戦い」
これは1952年~1953年にかけて、アメリカで製作された戦史TVドキュメンタリーである。世界各国から集められた膨大な記録映像フィルムから編集されたもので史料価値は高いものである。ここでは「硫黄島の戦い」の後に、硫黄島がB29の緊急着陸基地とその護衛P-51戦闘機(第二次大戦最優秀戦闘機といわれた)の基地となったシーンを紹介する。

(注)これはアメリカ国民を対象にした映像解説である。だからアメリカ軍による無差別焼夷弾爆撃の非人道性についてふれることはない。
(mp4動画、サイズ11.9MB)

★春風亭柳昇「落語与太郎戦記」。各著者による輸送船のシーン。戦没者で海没が約30万柱とあるのがわかるようである。

輸送船、海難、海没
作者名・作品名、簡単な内容と抜粋、引用
春風亭柳昇「落語与太郎戦記」

春風亭柳昇1920年生まれ、1940年7月 徴兵検査で甲種合格。1944年船舶警護分隊長として輸送船「暁雲丸」に乗船とウイキにはある。この時の経験を新作落語として演じて好評をはくした。30分ちかくある落語である、動画でもなく、文章でもないが臨場感あふれるものである。
(Google Chromeでも音声ボタンで音量が調整できるようになりました《2018.12》。)
春風亭柳昇「落語与太郎戦記」

YouTube「Enshoh 100」より「落語与太郎戦記」
山本七平著「一下級将校の見た帝国陸軍」文芸春秋1987年第1刷、2012年第20刷

「地獄の輸送船生活」のところ。
山本七平は1921年生まれ。入営後、幹部候補生試験で「甲種幹部候補生」に思いもよらず合格した。そして1943年2月に豊橋第一陸軍予備士官学校砲兵生徒隊十榴(105ミリ榴弾砲)中隊へ入校し、1943年12月卒業予定を2か月繰り上げて卒業し、原隊復帰して見習士官となった。
そして1944年5月門司からフィリピンへ本部要員として向かった時の話しである。
(左地図、山本七平著「一下級将校の見た帝国陸軍」より。)


「地獄の輸送船生活」
それはいずれの時代でも同じかもしれぬ。渦中にいる者は不思議なほど、大局そのものはわからない。従って今なら「戦史」で一目瞭然のことを知らなくても不思議ではない。しかしそれは、前述のような微細な徴候から全貌の一部が判断できなかった、ということではない。
 昭和十九年六月━これもまた六月だったが━といえば、ガダルカナルの撤退からすでに一年四ヵ月、アッツ玉砕から一年、マキン・タラワ両島も半年前に全滅し、クェゼリン・ルオット両島の守備隊も、四ヵ月前の二月一日に全滅していた。とはいえ一方では大陸打通作戦が開始され、インパールへの”快進撃”がはじまり、その陥落占領は「時間の問題」といわれ、報道される全般の戦局は何となく一進一退という印象でも、大日本帝国の無条件降伏が一ヵ年余の後に迫っていようとは、だれも予想しないのが実情だった。そして”自転”する組織の中で、それが”生活”になっている”一歯車”には、この機構が永久機械の如くつづくように思われた。━ふっと「我に帰る」ことが時々あっても。

下

小松真一著「虜人日記」筑摩書房1975年刊行、2004年第1刷刊

「海難」のところ。小松真一は1911年生まれ、1932年東京農業大学農芸化学科卒。科学者として大蔵省醸造試験場、農林省米穀利用研究所を経て、台湾でブタノール工場を創設。1944年比島(フィリピン)に「軍属」としてブタノール生産のため派遣される。小松氏は1943年7月その依頼(陸軍省整備局長から)を、台北の台湾軍兵器部今井大尉から要請された。

明糖と合併
 昭和十八年(1943年)九月一日、明糖に合併され全社員もそのまま明糖に引き継がれた。
 家族は内地へ引揚ぐべきか、生活の楽な台湾に置くべきか、色々迷ってみたが、目下の戦況では台湾危しと直感し、内台航路の危険をおかして内地に引揚げる事に決心し、明糖小塚常務に交渉、明糖川崎研究所勤務と一応発令してもらった。内地転勤というかたちで台東を九月七日に出発した。昭和十四年台東に着任以来酒精工場の建設に運営に精根を打ち込んできただけに、育てあげた工場員と別れるのは感無量のものがあった。

下

水木しげる「水木しげる伝(上)戦前編」講談社2004年第1刷刊、2005年第4刷刊

「野戦ゆき=戦地へ行くこと」のシーン。「水木しげる伝(下)」の詳細年譜によれば、水木しげるは1922年生まれ、1942年徴兵検査で乙種合格(近眼のため)、1943年激戦地ニューブリテン島(ラバウル)へ送られる。この時輸送船はほとんどが沈没し、水木しげるの輸送船は奇跡的に到着できたと書かれている。そしてその後も無事に到着した輸送船はなく、水木らはラバウルに派遣された最後の兵隊団であったとある。門司から輸送船に乗って戦地へ向かうシーンである。

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