(19世紀以降)中国近代史①(清朝時代の終わり)

2022年6月3日日本・中国・朝鮮


※①のマーカの所に清の太祖ヌルハチの陵墓がある。中華人民共和国瀋陽市(=沈阳市)の東陵公園。②は太和殿。③は円明園。マーカーをクリックするとGoogle Map上の写真などを閲覧できる。

19世紀清国は、アヘン戦争、アロー号事件、清仏戦争、日清戦争、義和団事件で次々と敗北する。
1616年ヌルハチは中国東北地方の女真族(満州族)を統一して「後金」を建国した。明にとってこの勢力は脅威となり、明は1619年に討伐軍を送ったが、サルフ(撫順の東)の戦いで大敗する。1636年ヌルハチの第8子のホンタイジが新たに皇帝に即位し国号を「清」と改称した(首都は瀋陽)。ホンタイジは1634年内モンゴルに侵攻して、チャハル部全域を支配し、元朝の玉璽を手に入れていた。清国の誕生である。

1644年明朝が滅びる

●1644年、明朝最後の皇帝崇禎帝は、李自成(農民軍)によって北京城が侵攻されると、紫禁城北の景山で自害し、明朝は滅びた。その後李自成軍を追って北京に入城した清軍は、ホンタイジの子の順治帝(5歳)を皇帝とし、執政ドルゴンのもとで中国の支配を開始した。李自成は紫禁城に火を放って西安に逃れ、その後殺されたといわれる。その後清国は18世紀にかけて繁栄の絶頂を迎える。

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世界を圧倒するヨーロッパ文明(19世紀の発見・発明・開発・制度など)

ヨーロッパ文明(思想や制度、科学技術)は、圧倒的な勢いで東洋世界のみならず全世界を支配していった。東洋世界が近代化をめざした理由は、下記の19世紀のヨーロッパの科学的発明・発見などをみればよく理解できる。それはまさに驚異的であり圧倒的であった。

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清朝・西太后の時代が始まる(1861年~)

清朝では、側室の西太后が1861年11月より咸豊(かんぽう)帝の皇后(東太后)と摂政政治(垂簾聴政)を行うことで、実権を握っていった。そして1875年、同治帝が子がなく没すると、西太后は4歳の德宗光緒帝(在位1875~1908)を反対を押し切って帝位につけた。そして引き続いて東太后とともに「垂簾聴政」をおこなったが、1881年、東太后が死去すると、西太后がすべての権力を握った。
 だがこのような清朝の政治体制は腐敗していき、中国国内も1840年のアヘン戦争以降、社会不安と混乱により、多くの中国人が海外へ向かった。ここではアメリカ移民の例をあげる。

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清朝、清仏戦争敗北(1884年)、日清戦争敗北(1894年~)

1894年日本は朝鮮への支配を強めるため、朝鮮の宗主国である清国に対して戦争をしかけた。日本にとってロシアの南下に対抗するには、朝鮮半島を支配下に置く必要があったのである。

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1900年6月義和団の蜂起、8カ国連合軍出兵、北京に入城。清国敗北。

清国は義和団事件によって8カ国連合軍に敗れた。このことが日本とロシア衝突の要因となり日露戦争(1904年~1905年)へとつながった。そして日露戦争での日本の勝利は清国に衝撃を与えたのである。

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日露戦争での日本の勝利が、満州への利権拡大政策となり、のちの日中戦争・太平洋戦争の原点となる。

現代の日本人にとって、日露戦争(1904年)は忘却の彼方のことかもしれない。しかし日中戦争・太平洋戦争に起因する現代の中国・「韓国北朝鮮」との問題のすべてが、満州から始まることを知れば、忘れるべき過去ではないだろう。
●結果的に日本はこの満州(点と線)の権益をまもるため、武力によって領土(満州全域)を支配するため武力侵攻(1931年満州事変)を行って行くのである。領土獲得のための武力侵攻、これを「侵略」というのだ。

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