(世界史)「18世紀」①イギリスとフランスの戦争。

世界史

18世紀ヨーロッパは戦争の連続である。勝ったのはイギリスで、全世界に植民地を広げていく。

日本の江戸時代前半は、武家・公家の文化、町人の文化など様々の階層が元禄文化として栄えた。上は18世紀に活躍したと思われる画家・牧野親信。

 イギリスとフランスの植民地戦争はイギリスが勝利し、インド、北アメリカを植民地化していく。イギリスはインドを植民地化するなかで、インドの綿織物技術の模倣と技術革新に成功し、本国の綿織物工業の機械化と大量生産に成功した。機械化は蒸気機関の改良から動力革命へとつながり、機械工業、製鉄業、石炭業を飛躍的に発展させた。そしてその生産量の増大は道路の整備・運河、鉄道の発達を刺激し、産業革命となっていたのである。

目次
18世紀 主要項目
18世紀世界<要旨> 植民地獲得で戦う英仏。18世紀はイギリスとフランスの戦いでもある。
スペイン継承戦争(1702年-1713年) スペイン系ハプスブルク家が断絶する。継承戦争が起こる。
オーストリア継承戦争(1740年-1748年) 神聖ローマ帝国カール6世死去すると、長女マリア・テレジアがハプスブルク家を相続した。相続に異義をとなえ戦争が起こる。
7年戦争(1756年-1763年) プロシアのフリードリヒ大王が、オーストリアの反プロイセン連合打破のためにザクセンに侵入、ほとんど全ヨーロッパを敵にまわす戦争を始めた。この戦争は植民地を含む世界大戦となった。
フレンチ・インディアン戦争(1755年-1763年) イギリスは、ヨーロッパで孤立していたプロシアに資金提供をして、フランスをヨーロッパ大陸に釘付けにし、北アメリカ大陸とインドで植民地獲得に全力をそそいだ。イギリスが北アメリカで、連合するフランスとインディアンと戦争を行った。
イギリスによるインド支配(1764年~) イギリスはインドでも敵対するフランスを倒し、インド支配を確実にしていく。

ここでは、綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊、「世界の歴史」中央公論社1961年刊、「世界歴史大系イギリス史」山川出版社1990年刊、「新版世界各国史・南アジア史」山川出版社2004年刊、などから要約・引用した。また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。

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18世紀はイギリスとフランスの戦いでもある。
18世紀世界<要旨>
(植民地獲得で戦う英仏)
●イギリスはフランスに、第2次英仏百年戦争で勝利した。イギリスは産業革命を行って大英帝国にのし上がっていく。負けたフランスは、財政難から革命が起き絶対王政は崩壊した。
●ロシア・プロシア・オーストリアが啓蒙専制君主による国内改革で台頭し始めた。
●アメリカ合衆国は、イギリスに対する独立戦争に勝利し、独立した。
●ヨーロッパは、市民革命と産業革命(二重革命)が進展して、本格的な資本主義体制が生み出された。それによって、ヨーロッパは他の世界を圧倒する時代を迎えた。
●オスマントルコはロシアの南下政策で圧迫され始めた。
●インド・東南アジアはヨーロッパ勢力の進出を受けた。とりわけインドは、イギリスの植民地化にさらされ始めた。
●清はイギリスとの交易は許したが、大清帝国の繁栄を謳歌していた。
●日本は徹底した鎖国政策で、国内的な安定を確保していた。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」

年・戦争・条約・関係国
1700年-1721年
北方戦争(21年間)(北・東ヨーロッパ)

●スウェ-デン(17世紀末からバルト海貿易を独占していた大国)は、ロシア・ピョートル1世の大軍をナルヴァの戦いで破る。これによりピョートル1世は、ロシアの軍制改革に力をそそぎ、9年後のポルタヴァの戦い(1709年)で雪辱する。新興国ロシアは、このポルタヴァの勝利により国際的な地位を上げた。
●1721年ニスタット条約(北方戦争終結)、21年続いた北方戦争が終結し平和条約が結ばれた。そしてロシアはこの条約により、バルト海への出口を獲得し、サンクト・ペテルブルクは中心都市として発展する。ロシアは大国への道を歩み始める。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎スウェ-デン
●ロシア(最終的にはロシアが勝つ。)
●ザクセン
●デンマーク
1702年-1713年
スペイン継承戦争(ヨーロッパ)

●スペイン・カルロス2世が死去し、スペイン系ハプスブルク家は断絶となった。
●ルイ14世はハプスブルク家を抑えて、ブルボン王家がスペインとフランスを合わせて支配しようと野心をもった。カルロス2世は、後継者として、フランス・ブルボン家ルイ14世の孫を指名したが、イギリスなど各国はフランスの勢力拡大をおそれ、フランス・スペインに宣戦を布告し戦争となった。

(図フランスのブルボン王家の系図)出典:クロニック世界全史講談社1994年刊


ユトレヒト条約(スペイン継承戦争終結)

●1713年イギリスなど各国は、フランスとスペインが合同しないことを条件に、フランス・ブルボン家のフェリペ5世のスペイン王を承認した。イギリスがこのスペイン継承戦争で最大の受益国となり、イギリスはスペイン領に対する奴隷供給の独占権(アシエント)を得た。これによりリヴァプールは奴隷貿易などで大発展し、のちにその資本はイギリス産業革命を支えていった。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎イギリス(最大の受益国となる)
◎オランダ
◎プロシア
◎オーストリア

●フランス
●スペイン
1718年
バッサロヴィツ条約

●ヴェネツィア・オーストリア軍とオスマン帝国は、モレア(ペロポネソス)をめぐって1716年来交戦中であったが、この戦いの仲裁に入ったイギリス・オランダによって、オーストリアは条約を結び、オスマン帝国領内での通商権、カトリック教徒への保護権を得て、南方へ進出する。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎ヴェネツィア
◎オーストリア

●オスマン帝国
1727年
キャフタ条約

●ロシアと清国は、1689年ネルチンスク条約以来のモンゴル地区の国境の画定や通商問題の懸案事項を解決した。これにより建設された町キャフタは、対清貿易の中心地として大いに発展した。

関係国
○ロシア
○清
1733年-1738年
ポーランド継承戦争(ヨーロッパ)

●スウエーデンの支持を受けたポーランドの新国王レシチンスキに対し、ロシアの支持を受けたザクセン候が、ザクセン軍とロシア軍とでワルシャワに侵攻し、アウグスト3世として即位した。オーストリアはアウグスト3世を支持したが、レシチンスキの娘を王妃にもつフランス・ルイ15世は、オーストリアに宣戦を布告し戦争が始まった。


●1738年ウイーン条約(ポーランド継承戦争終結)。1735年ウイーン暫定協定で一応の決着をみ、今回正式調印となった。その結果、ルイ15世の義父レシチンスキはポーランド王位を退いた。だがフランスは、オーストリアの神聖ローマ帝国の一部であるロレーヌ公国を領有することになった。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎フランス(ロレーヌ公国を領有)
●オーストリア
1739年
ベオグラード和約

●オスマン帝国は、1718年バッサロヴィツ条約での失地回復を果たし、またロシアはニッサ条約を結び、南下の基礎を築く。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎オスマン帝国
●オーストリア
1739年
ペルシャのインド侵攻

●ペルシャの王ナーディル・シャーは、アフガンからインドに侵入し、ムガル朝王都デリーを襲って略奪と虐殺のかぎりを尽くした。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎ペルシャ(イラン)
●ムガル帝国
(重要語)(世界の動き1700年~1740年頃)
●1701年(ドイツ)プロイセン王国が成立。ホーエンツォレルン家のフリードリヒが国王となる。
●1702年(イギリス)国王ウイリアム3世が落馬がもとで死亡。共同統治者であったメアリー2世(1695年死去)の妹のアンが王位を継承した。
●1707年(イギリス)グレート・ブリテン王国が成立した。イングランドとスコットランドが合同する。
●1707年(インド)ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(インド全域を支配)が失意の晩年のを閉じる。
●1708年(西アフリカ)ダホメー王国でアガジャ王が即位する。奴隷貿易でヨーロッパ商人と直接取引を行い経済発展をとげる。多くの奴隷たちがアメリカ大陸へ売られていった。(王は国民の財産と生殺与奪権を持つ絶対君主だった。)
●1710年(ドイツ)マイセンにヨーロッパ最初の陶磁器製作所(王立磁器マニュファクチャー)が設立される。
●1714年(イギリス)アン女王が死去し、王位継承法により、ドイツハノーヴァー選帝候がジョージ1世として即位する。
●1715年(フランス)ルイ14世(太陽王)が死去する。ルイ14世の曽孫のルイが15世として即位したが、5歳だったためオルレアン公が摂政となった。
●1716年(日本)8代将軍に徳川吉宗が就任、享保の改革に着手する。
●1718年(アメリカ)フランスがルイジアナ植民地に、ニューオリンズを建設する。
●1719年(ロンドン)ダニエル・デフォー(政治ジャーナリスト)が「ロビンソン・クルーソー」を刊行、大評判となる。
●1720年(ロンドン)株価大暴落バブル崩壊、南海会社(政府の国債引き受け金融機関)株価も大暴落する。ウォルポール政権誕生して経済も回復する。
●1723年中国(清朝)雍正帝がキリスト教を禁止し宣教師を追放する。以後1850年まで国法となり、後に開国を求める列強と紛争の種となる。
●1726年(ロンドン)アイルランドのスウィフトが、社会風刺の書「ガリヴァー旅行記」を出版する。
1740年-1748年
オーストリア継承戦争(ヨーロッパ)

●神聖ローマ帝国カール6世死去すると、長女マリア・テレジアがハプスブルク家を相続した。カール6世は事前に「国事詔書」で領土の永久不分割、女子の相続などを、領内貴族そして列強各国に承認・確認をもとめていた。
●だがマリア・テレジアの相続に異義をとなえたバイエルン選帝侯は、フランスや有力諸侯の支援を受けて、家督の相続を要求した。これをみたプロシアの新国王フリードリッヒ2世は、マリア・テレジアの相続を認める代わりに、シレジア(シュレジェン)の領土を要求し、シレジアに侵攻し戦争になった。
●その後イギリスの本格的介入で、オーストリア連合軍がフランスを破り、一方プラハを陥落させたバイエルン候が、皇帝カール7世を名乗った。それに対しオーストリア軍は、バイエルンの本拠地ミュンヘンを占拠し対抗した。そしてプロシアがオーストリアにシレジアの領有を認めさせると、オーストリアはイギリスとオランダの支持を受け、プラハを奪回した。するとプロシアはフランスと同盟を結び、ボヘミアに進撃し第二次シレジア戦争を起こした。
(地図)オーストリア継承戦争(出典:クロニック世界全史講談社1994年刊)


●1748年アーヘン和約(オーストリア継承戦争終結)・カール6世の「国事詔書」は国際的に承認され、マリア・テレジアが帝位と領土の継承権を得た。1745年にカール7世が死ぬと、マリア・テレジアの夫が、神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世として選出された。プロシアのフリードリッヒ2世は、シレジアの領有を条件にフランツ1世の帝位を認めていたが、戦争は続いていた。そしてこの和約でプロシアは、シレジアを獲得しドイツ第2位の強国となった。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎オーストリア
◎イギリス
◎オランダ

●プロシア(プロイセン)
●フランス
1744年
イギリスとフランスの抗争(インド・北アメリカ)

●両国の衝突は、インドではカーナティック戦争となり、北アメリカではジョージ王戦争となり、植民地をめぐる抗争は激しさを極めた。第二次カーナティック戦争(1751年)は、イギリス東インド会社軍のクライヴの勝利となる。

(地図)18世紀中頃のインドとアメリカ(出典:クロニック世界全史講談社1994年刊)

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎イギリス
●フランス
1744年
イスラム復興運動(ワッハーブ運動)始まる(サウジアラビア)

●ナジュド地方の支配者サウード家のムハンマドが、宗教改革家ムハンマド・ブン・アブド・アルワッハーブと会見し、イスラム改革のための同盟を誓った。アルワッハーブは、聖典コーランと予言者ムハンマドの教えに帰れと主張した。サウード家は彼を保護し、彼の指導に従いイスラムの布教に努力し、イスラム復興のワッハーブ運動を始めた。このワッハーブ派は、18世紀末にはほぼアラビア半島全域に広がった。

1751年
中国がチベットを保護国とする

●ダライ・ラマ7世は、清朝によるチベット支配強化策を認め、清朝の保護国となった。歴代のダライ・ラマは16世紀以降モンゴル高原に大きな影響力を持っていた。しかし1718年にジュンガル部が、チベット支配をもくろみ侵入してきたため、清朝はチベットに出兵しジュンガル部を追放したが、かわりにチベット支配も強めた。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎清
●チベット
1752年
ビルマ族による国土統一に成功(ミャンマー)

●新国王アラウンパヤーが、これまでのタウングー朝にかわってコンバウン朝を開いた。1754年にはビルマ族の旧都を奪回し、1755年に下ビルマに進みダゴンを陥落させ、ラングーン(戦いの終焉の意味)に改名した(現ヤンゴン)。こうして3度目のビルマ族による国土統一を成し遂げた。

1756年
アフガニスタンがデリー占領

●アフガニスタンの王アフマド・シャーがデリーを占領し、パンジャーブ地方を併合する。ムガル帝国にはこれを阻止する力はもう無く、シク教徒のみ抵抗を試みた。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎アフガニスタン
●ムガル帝国
1757年
ジュンガル王国滅亡(中央アジア最後の遊牧騎馬民族国家)

●清の大軍による総攻撃を受け、アムルサナ(先々代の王の外孫)はシベリアへ敗走する途上病没しジュンガル王国は滅亡した。これにより清は、天山の南の東トルキスタンをも1759までに征服し、パミール以東を「新疆=新しい土地」と称し、清は歴代最大となる版図を得た。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎清
●ジュンガル王国
1756年-1763年
7年戦争(ヨーロッパ・インド・北アメリカなど植民地を含む世界大戦)


●プロシアの勃興は、オーストリアに打撃をあたえた。マリア・テレジアは国内の近代化と外交戦略によって、プロシアの弱体化をはかり、反プロシア連合を主導した。カウニッツ伯の進言で、ハプスブルク家(オーストリア)はブルボン家(フランス)と、16世紀以来の敵対関係を解消し同盟を結んだ(ヴェルサイユ防衛同盟)。そしてロシアもこの同盟に加わった。
●これは、「3人の女性同盟」といわれ、マリア・テレジア(オーストリア)、ポンパドゥール夫人(フランス・ルイ15世の愛妾)、エリザヴェータ(ロシア女帝)をいう。
●一方イギリスは自国の王家であるドイツ・ハノーヴァー家を守るために、結局プロシアと同盟を結んだ(ウエストミンスター協約)。イギリスは植民地(インドや北アメリカなど)でフランスと対立しており、同盟を結ぶはずはなかった。そしてイギリスがフランスに宣戦布告を行うと、プロシアは、機先を制しザクセンに侵攻し、7年戦争が勃発した。
(地図)「7年戦争」(出典:クロニック世界全史講談社1994年刊)

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎プロシア
◎イギリス

●オーストリア
●フランス
●ロシア
●ポーランド
●スウエーデン
●スペイン
1757年~
プロシアとオーストリアの戦い(ヨーロッパ)

●1757年(12月)ロイテン会戦(ポーランド)。フリードリッヒ2世のプロシア軍(3.3万人)は、シレジアのロイテンでオーストリア軍(6.5万人)の大軍を破る。


●1759年(8月)クネルスドルフの戦い(ドイツ)。プロシアはオーストリア・ロシア連合軍に壊滅的な打撃を受け、将官のほとんどを失い、フリードリッヒ2世自身も自害することを覚悟したといわれる。しかし勝った連合軍はとどめを刺さず、プロシアにとって「第1の奇跡」といわれた。


●1760年(8月)リーグニッツの戦い(ポーランド)。苦境に立たされていたプロシアは、前年からフランスとの和平交渉を進めていたが、オーストリアの戦争意志は固かった。しかし劣勢だったプロシアは、この戦いに勝利し「第2の奇跡」といわれた。


●1760年(10月)ベルリン焼失。ロシアの女帝エリザヴェータ、ベルリンを奇襲し焼き尽くした。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎プロシア
●オーストリア
●ロシア
1757年
プラッシーの戦い(インド)

●イギリスは、オーストリア継承戦争と七年戦争の中で、フランス東インド会社と戦ってきた。南インドでは、マドラス(イギリス)とポンディシェリ(フランス)との間で戦った(カーナティック戦争第1次~第3次)。イギリスはクライヴ、フランスはデュプレックスだった。しかし有能だったデュプレックスは、第2次カーナティック戦争(1750-54)で解任され、それ以後フランスは後退していくことになる。「18世紀半ばのインド」(出典:世界の歴史がわかる本 綿引弘著三笠書房2011年刊)
●1757年(6月)のプラッシーの戦いは、ベンガル太守(シラージュ・ウッダウラ)とクライヴ率いるイギリス東インド軍との戦いだったが、太守の伯父(ミール・ジャーファル)の裏切りと大雨によって、ベンガル軍は敗れた。クライヴは800人のイギリス軍と2200人のインド兵で、それにに対して、ベンガル軍は5万の歩兵と18000の騎兵と多くの軍像だったといわれる。イギリス軍は、3月にフランス軍の拠点(シャンデルナゴル)を陥落させ、ベンガルとイギリスとの間に緊張が高まっていた。イギリスは、この戦いの勝利でベンガルの支配権を握り、インド支配を確実なものとした。


●第3次カーナティック戦争(1758-63)では、イギリスが1761年に、フランスの1673年以来の根拠地をポンディシェリ陥落させ、勝敗がついた。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎イギリス東インド会社
●ベンガル太守
●フランス
1755年-1763年
フレンチ・インディアン戦争(北アメリカ)

●前年から続くイギリス・フランス間のオハイオ川流域争奪戦から、フレンチ・インディアン戦争が始まった。インディアン全部族がフランスについたわけではなく、インディアン諸部族は、イギリスとフランスの戦争に巻き込まれたというのが正確とあります。
●1754年の初めてのアメリカ植民地会議で、フランクリンはフランス軍およびインディアンと戦うために全植民地が連合することを提案し、採択された。


●1759年ケベック(カナダ)陥落。イギリスはケベック・アブラハム平原においてフランス軍を破り、ケベックをおとす。
●1761年イギリスはカリブ海に大艦隊を派遣し、アメリカ植民地統治に欠かせないスペイン植民都市ハバナを攻撃し落とす。イギリスの海上権が確立した。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎イギリス
◎アメリカ植民地

●フランス
●インディアン部族
●スペイン(カリブ海)
1763年(2月)
(7年戦争終結)パリ条約・フベルトゥスブルクの和約


(地図「18世紀中頃の北アメリカ」と「パリ条約後のアメリカ」)(出典:クロニック世界全史講談社1994年刊)

●終結にいたる各国の情勢の変化
ロシアでは、エリザヴェータ女帝が急死し(1762年)、フリードリッヒ2世を崇拝するピョートル3世が即位し、プロシアと講和を結び撤退した。(スウェーデンも講和)(しかし1762年ピョートル3世は、6ヶ月で妃エカチェリーナの宮廷革命によって幽閉され王位を失い殺害された。)
イギリスでは、主戦論者の大ピットが国王(ジョージ3世)と衝突して辞任した。国王や廷臣たちは、財政難や長期にわたる戦争に対する早期講和を求めていた。
フランスについては、情勢の変化はなく、1743年に即位したルイ15世は、無為・怠惰な国王で、ポンパドゥール夫人と共に、浪費するばかりの宮廷生活だけだった。

●(パリ条約)によって、イギリスは、フランスからカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得した。スペインからは、ハバナとマニラ(フィリピン)を返還する代わりに、フロリダを得た。インドではイギリスが、フランスのシャンデルナゴルとポンディシェリ以外の全てで優先権を得た。ルイ15世は、ルイ14世の時代のヨーロッパの最強国の地位を失った。


●(フベルトゥスブルクの和約)によって、プロシアはオーストリアに対して、シレジアを確保し、ヨーロッパの強国としての地位を確立した。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎イギリス
●フランス
●スペイン


◎プロシア
●オーストリア

1764年~
イギリス・インド支配への戦争

●1764年ブクサール戦闘。イギリス東インド会社軍は、ベンガル・アウド藩の太守・ムガル皇帝の連合軍を圧勝する。これにより1765年、東インド会社はムガル帝国より、ベンガル州等の「ディーワーニー=財務長官の職と権限」を授与される。実質の植民地化。
(地図)「1750年前後の南インド」(一部色づけ)(出典:「新版世界各国史・南アジア史」山川出版社2004年刊)
●1767年第1次マイソール戦争勃発。マイソール王は南部カルナータカに侵攻し、イギリス東インド会社軍と戦争となる。そしてこのマイソール戦争は、第2次1780年、第3次1790年、第4次1799年まで続き、19世紀初頭には、イギリスのマドラス管区として支配され終結した。これは一部をイギリスの直轄地とし、マイソール等を藩王国とするものである。


●1769年ベンガル大飢饉。飢餓と疫病で、特に都市部の職人層や下層労働者層に大きな打撃を与えた。推定では人口2900万人のうち、1000万人が死んだといわれる。


●1775年第1次マラータ戦争勃発。マラータ同盟内の後継者争いで、ボンベイのイギリス軍の援助要請から戦争が始まった。この戦争も、第2次1805年、第3次1817年と続き、ついにマーラータ同盟は降伏し、イギリス支配下に入った。


●1845年第1次シク戦争勃発(パンジャーブ地方)。インド総督は、最後の独立国シク王国に宣戦布告した。翌年戦争が終わり、イギリスは講和を結び、カシミールを獲得した。しかしシク教徒のイギリス支配に対する反発から、1848年第2次シク戦争となったが、イギリスは翌年シク王国を併合した。

イギリス東インド会社によるインド統治は、藩王国領を除いて、ベンガル管区、マドラス管区、ボンベイ管区に分かれていた。しかし数度にわたるインド統治法の改正によって、問題は手直しされていったといっても、やはり1私企業が植民地を支配することには、問題があった。そして1858年のセポイの反乱をもって、東インド会社によるインド統治は廃絶され、イギリスの直轄植民地になった、

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎イギリス東インド会社
●ムガル帝国と諸国・諸藩
18世紀頃のインド各地の王国の細密画

●当時の豪華な諸国・諸藩の様子がわかる。(出典:「インド宮廷文化の華」NHKきんきメディアプラン1993年発行)

(左画)「テラスのナワーブ・アリーヴァルディー・ハーンと、その甥と孫」紙に不透明水彩と金泥。ベンガル、ムルシダーバード、1750~55年頃。 
(中画)「嵐を避けて家に逃げ込む女性」紙に不透明水彩と金泥。北インド、ラクラウ、1760年頃。
(右画)「花火」紙に不透明水彩と金泥。伝ナインスク筆、パンジャーブ、ジャンムーあるいはジャスローター、1750年頃。

1768年
第1次ロシア・トルコ戦争(黒海~地中海)

●ロシア・エカチェリーナ2世、黒海から地中海への出口をねらい、オスマン領へ侵攻する。ロシアは、1769年ベッサラビアを制圧してクリミアを脅かし、1770年カグールの会戦でオスマン軍を破り、アナトリアの海戦でも、バルチック艦隊がオスマン艦隊を壊滅させる。
(地図「エカテリーナ(エカチェリーナ)時代の領土の拡大」)(出典:興亡の世界史14「ロシア・ロマノフ王朝の大地」講談社2007年刊)
●1774年ロシア・トルコ講和(ブルガリア)(第1次ロシア・トルコ戦争終結)、ロシア・エカチェリーナ2世とオスマン帝国スルタン・アブデュル・ハミト1世は、講和条約を結んだ。ロシアはアゾフ、ドニエプル川河口など多くの地方と賠償金を獲得し、さらに黒海における艦隊の建造権と、商船のボスポラス、ダーダネルス両海峡通行権などを得た。これによりロシアは黒海の制海権を得ただけでなく、オスマン帝国内のギリシャ正教徒の保護の名目で、内政に干渉する権利も得た。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎ロシア
●オスマン帝国
1769年 清・ビルマ遠征(ミャンマー)
●清の乾隆帝、4回にわたり雲南の権益確保とビルマの屈服を狙ったが失敗した。ビルマの抵抗は激しく、清軍は撤退した。ビルマ軍もアユタヤを攻略中だったが、撤退した。(ビルマは1767年タイの王都アユタヤを徹底的に破壊し、アユタヤ朝を滅ぼした。)

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎ビルマ
●清
1772年~1795年
第1次~第3次ポーランド分割
1772年第1次ポーランド分割


1793年第2次ポーランド分割


1795年第3次ポーランド分割(ヨーロッパ)

(地図「ポーランド分割」)(出典:世界の歴史がわかる本「ルネッサンス・大航海時代~明・清帝国」三笠書房2011年刊)
●(第1次分割)プロシア、ロシア、オーストリア3国は、フリードリッヒ2世の提案によりポーランド分割の協定を行った。ポーランドは、国政改革により軍の増強に力をそそぎ、プロシアはポーランドの強大化をおそれて、ロシアと共に圧力をかけた。ロシアは3国の同盟を結び、ポーランドを分割した。この分割でポーランドは、国土の30%住民の約35%を失った。


●(第2次分割)ロシアとプロシア2カ国で分割の協定を結んだ。オーストリアはフランス革命で動きがとれず参加できなかった。ポーランド国内では貴族間の争いにより、ロシアに対し軍事介入をもとめ、10万のロシア軍の侵入を受け、ポーランド軍との戦闘になったが、ロシア軍に全土を支配された。


●(第3次分割)ロシア、プロシア、オーストリア3国で分割が協定された。これにより800年以上東ヨーロッパに君臨したポーランドは、消滅した。ヨーロッパ中がフランス革命に目を注がれており、この分割に対して特にイギリスが介入できなかったことが不運だった。

関係国(赤字=勝者、黒字=敗者)
◎プロシア
◎ロシア
◎オーストリア

●ポーランド
(重要語)(世界の動き1730年頃~1770年頃)
●1733年(アメリカ)13番目のユニークな植民地ジョージア(ジョージ2世の名に由来)を、オグルソープが建設。(勤勉で恵まれない貧しい人々の為)
●1735年(中国・清)第6代皇帝乾隆帝が即位し、帝国の繁栄の頂点を迎える。
●1735年(スウェーデン)、植物学者リンネ「自然の体系」を刊行し、画期的な植物分類法を提唱する。
●1745年(フランス)、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人権勢をふるう。
●1748年(フランス)、モンテスキュー「法の精神」を完成。専制政治の危険を説く。
●1751年(フランス)、啓蒙思想の象徴である「百科全書」の第1巻が刊行される。この巻には、ディドロや哲学者・数学者のダランベールなどが編集にかかわった。
●1752年(アメリカ)、科学者のフランクリンがたこあげの実験に成功する。「電気についての実験と観察」で名声を高める。
●1757年(中国・清)、清朝が海禁策をとり、海外貿易を広州1港に限定する。
●1758年(フランス)、重農主義者ケネー、国の根本は農業にありとの「経済表」を発表する。
●1759年(ロンドン)大英博物館が一般公開を始める。
●1761年(イギリス)、南部担当国務大臣ピット(大ピット)が7年戦争中なさなか、国王と衝突して政権を離れた。ピットは過去4年間首相のニューカスルと共にイギリスを指導してきた。その半年後首相も辞任し、イギリスの政局は若い国王の下で混乱する。
●1762年(カリブ海)イギリスは、カリブ海のスペイン植民地最大の海軍基地ハバナを大艦隊で攻撃し陥落させる。イギリスはカリブ海の海上権を得る。
●1762年(パリ)思想家ジャン・ジャック・ルソーが「社会契約論」と「エミール」を出版する。しかしルソーのこの厳しい批判に対して、パリ高等法院はルソーの逮捕状を出した。下に「社会契約論」の第1編第1章を引用しおく。
●1764年(イギリス)、ジェームズ・ハーグリーヴズがジェニー紡績機を発明した。ジェニーの名は彼の妻の名にちなむともいわれる。産業革命の始まりである。1769年アークライトの水力紡績機、1779年クロンプトンのミュール紡績機などが続く。
●1766年(中国・清)清朝に仕えたイタリアの画家カスティリオーネが北京で死去。
●1766年(イギリス)、ヘンリ・キャヴェンディッシュが水素ガスを発見する。鉄や亜鉛などの金属に酸を加えることで可燃性の空気を得た。これが水素ガスであった。
●1768年フランス、ジェノヴァ共和国が独立運動に手を焼き、コルシカ島をフランスに売却する。

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世界史

Posted by hhks