(世界史)「17世紀」②(宗教戦争と絶対王政、ピューリタン革命・名誉革命)
2023年4月13日世界史
●東アジアでは、中国の明朝が滅び清国が勃興した。日本では徳川家康が、100年におよぶ諸国内乱の時代を終結させ江戸時代を創始した。しかしその後江戸幕府は、キリスト教(カトリック)に恐怖を持ち鎖国政策(対外制限政策)を行っていく。しかし日本は、オランダや中国とは通商関係にあり、また朝鮮王朝や琉球王朝とも交流関係があった。日本は海外情報・知識をオランダから得ることができた。日本の政策は、対外制限政策であって「鎖国」ではなかった。
ここでは、綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊から要約・引用した。また「東インド会社とアジアの海」・興亡の世界史第15巻、羽田正著 講談社2007年刊、「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊より要約・抜粋した。また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。関連する写真、著作からも引用した。
ここでは、16世紀から西ヨーロッパ諸国の宗教戦争に関連する事件を抜き出した。オランダの40年に及ぶスペインに対する独立運動。フランスでは36年にわたったユグノー戦争など、カトリックとプロテスタントの宗教戦争は絶対王政が確立するまで続く。
●1648年末、ついにウエストファリア条約が調印された。30年の歳月と1千万人を越える人命、そして甚大な物的被害をあたえた戦争の総決算だった。
年 | 内容 |
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1555年 | ドイツでは、フェルディナント(神聖ローマ帝国皇帝カール5世の弟)が全権委任を受け新旧両宗派と交渉し、アウスブルク宗教和議締結となる。ここに長年の宗教抗争が一応終結した。 |
1556年 | 神聖ローマ帝国皇帝カール5世は40年におよぶ支配を終え退位する。カール5世はカトリックによる帝国を目指した。神聖ローマ帝国は弟のフェルディナント、スペインは子のフェリペ2世が継承した。 |
1568年 | オランダでは、フェリペ2世(スペイン王)がプロテスタントを厳しく弾圧した。カトリックに対抗したネーデルラントの大貴族エグモント伯が処刑されたことにより、40年に及ぶスペインに対する独立戦争が始まった。 |
1593年 | フランスでは、アンリ4世(プロテスタント)がカトリックに改宗(3度の改宗)し、シャルトル大聖堂で正式にフランス国王として戴冠した。 |
1598年 | フランスでは、アンリ4世が「ナントの王令」を発布する。ここに「信教の自由」が承認され、36年にわたったユグノー戦争が終結した。 |
1610年 | しかし、フランス国王アンリ4世は、狂信的なカトリック修道士に暗殺される。プロテスタントに対する融和策に不満を抱いていた。 |
1618年 | ハプスブルク家の支配するチェコ(ボヘミア)で、プロテスタント貴族が、プラハの王宮で抗議行動を起こした。ボヘミアでは「信教の自由」が国王により破棄されたことによりこの事件が起きた。この抗議行動は武装反乱となった。 |
1619年 | フェルディナント2世が神聖ローマ皇帝として即位すると、武装反乱はさらに拡大していった。その後この戦争は「反ハプスブルク家」「反カトリック」闘争となり、ヨーロッパ諸国をまきこむ「30年戦争」となっていった。ドイツはこの戦いにより人口1600万人が、600万人に激減する被害を受け、国土は荒廃した。 |
年・月 | ドイツ30年戦争「血なまぐさい宗教戦争」1555年~ |
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1555年 |
アウグスブルクの宗教和議
●当時のドイツは、神聖ローマ(ドイツ)皇帝をいただき、3百数十の国(諸侯・自由都市)からなっていた。また宗教もカトリック・ルター派・カルヴィン派にわかれモザイクのように入り交じっていた。この宗派は固定したものではなく、それぞれの君主の改宗によってときどきかわった。 |
1618年 |
プラハの王宮で抗議行動
●そして、フェルディナント2世が神聖ローマ皇帝として即位し、ボヘミア(チェコスロバキアの一部の地域)の新教徒の迫害をはじめた。これに対してボヘミアの新教貴族達は、1618年プラハの王宮で抗議行動にでた。そして反乱はドイツ、西ヨーロッパ全域に広がり、30年戦争に拡大していった。ボヘミアは10分の9がチエック人で、反ドイツ的な民族主義的傾向が強く、同時に新教徒の多いところだった。 |
1620年 |
ボヘミア新教連合、皇帝軍と戦闘
●1620年、ボヘミア新教連合はカルヴァン教徒のファルツ伯フリードリヒを王にむかえて、ビーラー・ホラにおいて皇帝軍と戦闘となったが、2時間で粉砕されてしまった。破れたフリードリヒはじめ、新教徒3万人はボヘミアから逃れた。こうして1623年までに、ドイツでは皇帝を中心に、カトリックが完全な勝利をおさめたかのように見えた。 |
1630年 |
スウェーデン王北ドイツに進撃
●1630年、スウェーデン王グスタフ・アドルフ(新教徒)がドイツ新教徒を救うためと称し、北ドイツに進撃を開始した。スウェーデン軍は、軍事技術も当時の水準を上回り、また軍律も厳しく、新教の戒律がゆきわたっていた軍隊だった。そのため31年には不敗将軍ティリーを破り、32年南ドイツのミュンヘンを陥落させた。このため神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世は、プラハで隠棲していたワレンシュタインを皇帝軍総司令官に再起用し決戦にのぞんだ。 |
1648年 |
ドイツの人口は1600万人から600万人に減る
●すでにこの戦争は宗教戦争の性格はなくなり、また皇帝と諸侯との間に妥協が成立して、国内戦争の意味合いもなくなっていた。あるのは、ハプスブルク家(オーストリアとスペイン)とブルボン家(フランス)、共にカトリック同士の国際戦争だけだった。また依然としてスウェーデンもドイツにとどまり、4つの国の軍隊がドイツを戦場として戦い続けた。このあと10年以上戦争状態は続き、ドイツは各国傭兵軍による掠奪暴行により、町も村も荒廃し、ドイツの人口は1600万人から600万人に減り、村落の5/6は破壊されたという。ドイツの歴史は200年逆行したといわれる。 |
●この条約の結果を国別に簡単にまとめると以下のようになる。
国 | 内容 |
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フランス | アルザスの大部分と、ヴェルダン、メッツ、ツールの3司教領を獲得。 |
スウェーデン | 北ドイツのポンメルン、ブレーメンを獲得。北海とバルト海へ出る水路をことごとくおさえた。 |
オランダ、スイス | 独立が国際的に承認される。 |
ドイツ | 神聖ローマ帝国皇帝は有名無実になった。ドイツの3百数十の諸侯は、それぞれ独立し外交上の自主権すら得た。ドイツの分裂はここにきわまった。ウエストファリア条約は「ドイツ帝国の死亡証明書」とよばれる。 宗教対立は、ルター派・カルヴィン派共にカトリックと同等の権利を認められた。 |
スペイン | 16世紀太陽の沈まぬ国と称されたスペイン・ハプスブルク家(ローマカトリック)は、その非寛容な宗教政策により、本国のユダヤ人、ムーア人(イスラム教徒)を追放し、オランダの新教徒を迫害することにより独立戦争を起こさせ、本国経済の衰退をまねいた。またオーストリア・ハプスブルクを援護するため30年戦争に介入し、さらに本国経済を破産へと導いた。海外では、オランダ、イギリスとも戦い、貿易競争でも負けていった。 |
ローマ・カトリック | ローマ法王の権力は、ついに政治的には力を失った。神聖ローマ帝国というキリスト教的普遍的国家が、有名無実になったことにあらわれている。 |
●この戦争では、国家間の戦争の規模が拡大するにつれ、降伏した敵の皆殺し、非戦闘員の大量虐殺、掠奪行為の日常化などがおこるようになり、戦争の惨禍を多少でも少なくするための取り決め「国際法」の必要性が求められるようになった。
●1625年、「国際法の父」とよばれるフーゴー・グロティウスは、「戦争と平和の法」を書き上げた。
この部分を「世界の歴史」第8巻「血なまぐさい宗教戦争」中央公論社 1961年刊より以下に引用する。
グロティウスはこの本のはじめに、
と当時の戦争のありさまを嘆いた。
このような悲痛な体験の上に、彼は法学者として、人類の平和を実現し、戦争の惨禍を少なくするために国家がたがいに守らねばならぬ法を明らかにしようとしたのである。そのとき、彼は国家間の権利義務を、神の法ではなしに自然法(民族、宗教の差異を越えた全人類に普遍的な自然の法)の上に基礎づけた。
『戦争と平和の法』は、出版されるとたちまち大きな反響をよび、版を重ねた。グスタフ・アドルフもこの本を陣中にまで携帯し、リュッツェンで戦死したのち、この本が読みかけのまま机の下から発見されたほどであった。また後世にも大きな影響を与え、グロティウスは「国際法の父」「自然法の父」とよばれる栄誉をかちえた。
しかし、国際法を自然法に基礎づけたのは、彼がはじめてでなく、この点では彼の本はなにもそう独創的なものでなかった。また、この大著は論理の一貫性、体系の精密さでも欠けるところが多い。だが、この本が永遠の生命を得た理由はもっと別のところにあった。それは第一に、グロティウスが平和を人類の普遍的な願いとして求めたその熱情的な理想主義、第二に彼の宗教にとらわれぬ自由で合理的な物の考え方である。
彼は時代に何歩も、いや何百歩も先んじていた。彼の平和主義はこれから300年間、国際政治の冷たい現実のなかで顧みられることがなかった。しかし、第一次世界大戦のあと国際連盟がつくられ、さらに第二次大戦後、平和が人類の生きるぎりぎりの条件になった現代において、グロティウスの思想はいよいよその真価を発揮している。30年戦争は、彼を通して20世紀のわれわれの現実と深く結びついているといえよう。
ここでは、フランス王朝の系図から確認してみる。ブルボン王朝はアンリ4世から始まり、ルイ14世は第3代である。そしてフランス革命のとき断頭台に上がったのは、第5代ルイ16世とその王妃マリー・アントワネット(ハプスブルク家マリア・テレジアの娘)だった。
●16世紀からのユグノー戦争、3人アンリの戦い、カトリック改宗、ヴァロア王朝断絶とブルボン王朝成立など、王朝の系図から確認しないと関係がわからない。(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
最初に「国別にみる世界全史」から、ロシアの歴史の一部を抜粋する。(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊より)
1603年エリザベス1世が死去すると、スッコトランド王がジェームズ1世としてイギリス王として即位した。だが王は「王権神授説」をとなえ議会と対立した。このイギリス王朝についても、系図を確認しないと理解が難しい。ここでのポイントは、系図左下の⑤のエリザベス1世と、左中のメアリ・スチュアート(処刑)とその子のジェームズ1世(イングランド王)、そしてその子のチャールズ1世がピューリタン革命で処刑されたことである。
●名誉革命では、イギリス王朝の系図を再確認する。ピューリタン革命から名誉革命にかけての系図はさらにややこしい。そして、この奥底にはカトリックとプロテスタントの問題が深く絡んでおり、イングランド、オランダはプロテスタントであった。キリスト教を知らなければ理解不能であろう。
●こうしてピューリタン革命は、王の処刑をもって一つのくぎりをつけた。
●なかでも平等派のジョン・リルバーンの思想は以下の内容で、その思想は「人民協約」の名で議会に提出され、今日にまで生きる近代民主主義憲法の原型とされる。
●そして議会は君主制を廃止し、それと結びついた貴族院を廃止し、共和政を宣言した。クロムウェルと独立派はついに共和国を実現した。
●共和政宣言(「世界の歴史8」1961年中央公論社刊より)
●実際は、共和政といっても水平派が目指した「人民協約」も修正され、それすら議会では承認されず流れてしまった。そして教会領、王領、王党派の領地の没収、売却は行われたが、それらを購入できたのはジェントルマンと商人が大部分だった。国民の大多数であった農民は土地を得ることができなかった。クロムウェルは、当初は平等派を優遇して利用したが、その後弾圧にむかった。リルバーンらを逮捕投獄し、起こった反乱を短期間に鎮圧し、平等派を完全に弾圧した。そしてクロムウェルらの独立派は、今度は長老派に接近していった。
●結局この革命は、ブルジョアと地主の利益を擁護する革命だった、といえる。
年・月 | クロムウェルの独裁と護国卿、そして死。 |
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1649年 |
アイルランド制圧
●クロムウエル、アイルランド(ダブリン)に上陸し制圧する。アイルランドとスコットランドは、処刑されたチャールズ1世の皇太子チャールズ2世(オランダに亡命)の即位を認めていた。 |
1651年 |
チャールズ2世軍破る
●クロムウェル、1650年にスコットランドに上陸したチャールズ2世軍を、イギリスで破った。チャールズ2世はフランスへ逃亡した。 |
1651年 |
航海法制定
●イギリス議会、中継貿易で繁栄していたオランダの海上権に打撃を与える目的として航海法を制定した。これは、東インド会社や貿易商人の強い要望により、「イギリスおよびイギリス植民地に輸入されるヨーロッパ以外の地の産物は、イギリス船で輸送すること」というものであった。このような法律は14世紀以来何度か制定されたが、厳格な運用はされなかった。 |
1652年 |
イギリス・オランダ戦争
●しかしイギリスは、今回はオランダに対して挑発をくりかえし、ついに戦争となった。 |
1652年 |
アイルランド収奪
●クロムウェル、アイルランド植民法を制定して、アイルランドの土地の収奪を行った。これにより耕地面積の2/3がイギリス人のものになった。このためアイルランド人は、小作人や労働者になったり、あるいはアメリカに移住したり大陸で傭兵となったりした。 |
1653年 |
クロムウェル護国卿となる
●クロムウェルは、1653年4月にク-デターによって「長期議会」を解散し、総選挙を行わず人物を指名した「指名議会」を開いた。 |
1658年 |
クロムウェル死去
●クロムウェルの死後、リチャード・クロムウェル(子)が護国卿を継いだが、軍は革命の成果を堅持するため、議会を解散させ、護国卿は退位した。軍部内部でも争いがあり、結局議会には長老派が戻り、王政復古となった。 |
名誉革命
●もう一度イギリス王朝の系図を確認しておく。ピューリタン革命から名誉革命にかけての系図はさらにややこしい。そして、この奥底にはカトリックとプロテスタントの問題が深く絡んでおり、イングランド、オランダはプロテスタントであった。キリスト教を知らなければ理解不能であろう。 |
年・月 | チャールズ2世の王政復古とジェームズ2世の即位、そして名誉革命。 |
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1660年 |
王政復古、クロムウェルの遺体の斬首
●チャールズ2世(処刑されたチャールズ1世の子)が王として迎えられた。王は「大赦と信仰の自由、土地争いの議会決定を約束して」、絶対君主ではなく、議会と協力して政治を行う方針を示した。 |
1661年 |
ピューリタン弾圧
●1661年に開かれた議会では、王党派である「騎士党」が多数をしめ長老派は減少した。「騎士議会」のピューリタンに対する反感は強く、ピューリタン弾圧が始まり聖職者や公務員は、イギリス国教会以外は追放された。こうして国教会への転向が進んだ。 |
1667年 | (クラレンドン伯失脚) ●チャールズ2世の復古に貢献し、王の顧問であり政治の中心的な役割を担ったクラレンドン伯(ハイド)は失脚した。 ●その後議会の内部には、トーリー党(貴族、ジェントルマン、国教会、農民など)とホイッグ党(大商人、新興の金融家、関連の貴族、ジェントルマン、ピューリタンの中産階級など)ができた。政治的にはトーリー党は、王の世襲権、王権に対する無抵抗を主張し、ホイッグ党は宗教上の寛容、王権の制限を主張した。 |
1680年頃 |
ホイッグ党、王に対する武装抵抗
●チャールズ2世は、政党の発展にともない、トーリー党を利用してホイッグ党を弾圧する方針をとった。これに対してホイッグ党員は、武装抵抗を試みたが処刑され、ホイッグ党は壊滅状態におちいっていった。 |
1685年 |
チャールズ2世死去、ジェームズ2世即位
●チャールズ2世の死後、弟のジェームズ2世(カトリック教徒)が即位した。ところがモンマス公(チャールズ2世のフランス時代の子)が王位の正当性を主張し、イギリスに上陸して反乱となった。この反乱は鎮圧されモンマス公は処刑されたが、ジェームズ2世はこれを機に、常備軍(6千人規模)を復活増強(3万人規模)した。 |
1687年・1688年 |
「信仰寛容宣言」
●王は、非国教徒やカトリックに対する刑罰法規を廃止し、公然たる礼拝の自由を許した。このことは、イギリス国教会に対するカトリックの復活を意図していたため、王とイギリス国教会の衝突をまねいた。王は、国教会のカンタベリー大主教をはじめ7名の主教らを逮捕投獄したため、ホイッグ党、トーリー党両党の支持を失っていった。 |
1688年 |
名誉革命
●ジェームズ2世の廃位を決めた両党は、オランダのウイレム(オランダ総督オラニエ公)とメアリ(ジェームズ2世の娘でプロテスタント)を共同統治者として招聘した。ジェームズ2世の軍は戦意無く、王はフランス(ルイ14世)へ逃亡した。無血革命であったことから「名誉革命」と呼ばれている。 |
1689年 |
「権利の宣言」「権利の章典」
●議会は、王位の空席を宣言後、「権利宣言」を議決した。そしてウイレムとメアリはこれを認め、ウイリアム3世、メアリ2世として共同統治者として即位した。そしてこの「権利の宣言」を若干修正し「権利の章典」を発布した。 |
●議会内での言論の自由。
●国民の権利として王に対する請願は認められ、そのことに対する訴追などは違法であること。など
●そして1701年「王位継承確定法」により、王権は世襲であることより、議会の定めた法律によることとなった。
●1714年第6代のアン女王が逝去しスチュアート朝は断絶した。そして法律の定めるところにより、ソフィアの子供であるジョージ1世がハノーヴァー朝第1代としてドイツより迎えられ即位した。
●ウイリアム3世は、初めはトーリー党とホイッグ党両党から、半数ずつの大臣を任命して国政に参加させた。しかし政争が絶えなかったので、議会の多数を制した政党に内閣を組織させた。これが政党政治の始まりである。
また、イングランド銀行の創設、フランスと敵対(スペイン継承戦争)、植民地獲得など、イギリスはこの「名誉革命」以後、18世紀の黄金時代を迎えていく。
●自然科学はルネッサンス以来、いちじるしい発達を示し、特に社会発展のすすんだイギリスにおいて盛んとなった。特に基礎を築いたニュートンが有名である。また近代哲学における出発点となる、「帰納法」「演繹法」が生まれた。17世紀の科学者、哲学者そして思想家、文学者も一覧表にしてみる。(出典:広辞苑など)
名前・生没年・国 | 内容 |
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フランシス・ベーコン (1561-1626)イギリス |
(政治家・哲学者)科学的方法と経験論との先駆者。・・経験(観察と実験)を唯一の源泉、帰納法を唯一の方法とすることによって自然を正しく認識し、この認識を通じて自然を支配すること「知は力なり」であるとした。主著「新オルガノン」 |
ミゲル・デ・セルバンデス (1547-1616)スペイン |
(作家)生涯は波乱に富み、レパントの海戦や捕虜生活・入獄も体験。当時流行の小説形式を発展させ、革新的な文学を創造した。主著「ドン・キホーテ」など。 |
徐光啓 (1562-1633)中国・明 |
(政治家・学者)マテオ・リッチに学び、ユークリッドの「ストイケイア」の前半「幾何原本」を漢訳。(これにより「幾何」「点・線・面・平行・鋭角」などの述語が定まった。) |
ヨハネス・ケプラー (1571-1630)神聖ローマ帝国(ドイツ) |
(天文学者)ブラーエの火星観測に基づいた研究の結果、惑星の運動に関する経験的法則(ケプラーの法則)を発見。 |
フーゴー・グロティウス (1583-1645)オランダ |
(法学者)自然法の立場から国際法に体系を与え、自然法の父、国際法の祖と呼ばれる。著作「自由海論」「戦争と平和の法」など。 |
ガルシラソ・デ・ラ・ベガ (1539-1616)ペルー |
(歴史家)ポルトガルにて「インカ皇統記=インカの起源に関する真実の記録」を出版。のちに本書は、ラテン・アメリカ先住民の擁護と復権を求める運動の先駆的作品として位置づけられる。 |
ウイリアム・シェークスピア (1564-1616)イギリス |
(劇作家・詩人)約32編の戯曲を創作。4大悲劇「ハムレット」「オセロ」「リア王」「マクベス」、史劇「リチャード3世」「ヘンリー4世」、悲劇「ロミオとジュリエット」「ジュリアス・シーザー」、喜劇「真夏の夜の夢」「ヴェニスの商人」、ロマンス劇「テンペスト」、詩集「ソネット集」などがある。 |
トゥルシーダース (1523/1543-1623?)インド |
(詩人)代表作の叙事詩「ラーム・チャリット・マーナス=ラーマの諸々の行い」。ラーマ神に帰依し、ラーマのように道徳的規範を守りながらみずからの義務を果たせば、解脱を得ることができると説いた。彼のこの作品はインド各地に広く浸透し、今日でも愛誦されている |
トマソ・カンパネラ (1568-1639)イタリア |
(哲学者)感覚に基づく自然哲学を説き、政治においては理性の優位を主張して、教会の圧迫を蒙り、27年間下獄。主著「太陽の都」は共産主義的ユートピアを描く。 |
ウイリアム・ハーヴェー (1578-1657)イギリス |
(生理学者)血液循環の原理を発見。この学説が発表されると賛否両論がまきおこり、パリ大学の解剖学者リオランは激しい批判を浴びせた。しかし当時のヨーロッパの思想界に大きな影響力を持つデカルトが賛同したことにより、かれの学説は急速に広まり、近代生理学の基礎を築くことになった。 |
ガリレオ・ガリレイ (1564-1642)イタリア |
(天文学者・物理学者・哲学者)近代科学の父。力学上の諸法則の発見、太陽黒点の発見、望遠鏡による天体の研究など、研究が多い。また、アリストテレスの自然哲学を否定し、分析と統合との経験的・実証的方法を用いる近代科学の方法論の端緒を開く。コペルニクスの地動説を是認したため、宗教裁判に付された。有罪判決を受けたが「それでも地球は動いている」は有名。著「新科学対話」「天文対話」など |
ルネ・デカルト (1596-1650)フランス |
(哲学者)近世哲学の祖、解析幾何学の創始者。「明晰判明」を真理の基準とする。あらゆる知識の絶対確実な基礎を求めて一切を方法的に疑ったのち、疑いえぬ確実な真理として「考える自己」を見出し、そこから神の存在を基礎づけ、外界の存在を証明し、「思惟する精神」と「延長ある物体」とを相互に独立な実体とする二元論の哲学大系を樹立。著「方法序説」「第一哲学についての省察」「哲学原理」「情念論」など。 |
宋応星 (1590頃-1650頃)中国 |
「天工開物」刊行。中国の産業技術書。3巻。農業のほか、紡績・製紙・造船など技術全般を解説、多数の図を収める。1637年成る。日本に伝来し広く読まれ、のち中国でも再発見。 |
ブレーズ・パスカル (1623-1662)フランス |
(哲学者・数学者・物理学者)大気圧・液体圧に関する業績や円錐曲線論は有名。無限の宇宙に比すれば、人間は葦の如く弱いが、それを知っている人間は「考える葦」として「知らない宇宙」より偉大であり、さらにすべてを知っていることよりも、1つの小さな愛の業の方がなお偉大であると説いた。これを物体・精神・愛という秩序の3段階と呼んだ。今日では実存主義の先駆と見なされている。著「パンセ」などのほか、イエズス会士との論争書簡集がある。 |
エヴァンジェリスタ・トリチェリ (1608-1647)イタリア |
(物理学者・数学者)ガリレイに師事し、「トリチェリの真空」を発見。 |
トマス・ホッブス (1588-1679)イギリス |
(哲学者)自然主義・唯物論を国家・社会にも適用した。自然状態では人間は万人の万人に対する闘いの状態にあるが、相互の契約によって主権者としての国家を作り、万人がこれに従うことによって平和が確立されることを説く。主著「リヴァイアサン」 |
オットー・フォン・ゲーリケ (1602-1686)ドイツ |
(物理学者)地球上の物体が大気の圧力を受けている事実を実験で証明した。マクデブルクの半球。金属製半球2個を密着させ内部の空気を抜くと、大気圧のため半球が容易に引き離せないことを示した。 |
バルーフ・デ・スピノザ (1632-1677)オランダ |
(ユダヤ系哲学者)デカルトの方法をさらに徹底させ純幾何学形式によってその体系を組み上げた。永遠で絶対な自己原因としての神が唯一の実体であり、唯一の存在である(一元論)。すなわち、神即自然(汎神論)。・・・(略)著「エチカ」「知性改善論」「神学政治論」など。 |
ロバート・ボイル (1627-1691)イギリス |
(物理学者・化学者)実験的事実を重視し、錬金術から実証的科学への橋渡しをした。また、化学元素の概念を導入、ボイルの法則を発見し、王立科学協会(ロ-ヤル・ソサエティ)の創設にも参画。この王立協会は17世紀の科学革命に大きな役割を果たす。 |
アイザック・ニュートン (1642-1727)イギリス |
(物理学者・天文学者・数学者)力学体系を建設し、万有引力の原理を導入した。また微積分法を発明し、光のスペクトル分析などの業績がある。1687年「プリンピキア(自然哲学の数学的原理)」を著す。近代科学の建設者。ロ-ヤル・ソサエティには、1672年に選出された。 |
黄宗羲 (1610-1695)中国 | (学者・思想家)君主専制を批判する「明夷待訪録」を著した。「天下を主とし、君主を従とする」、民の利益を第一に考える民衆本位の政治を説いた。中国のルソーとよばれる。 |
ジョン・ミルトン (1608-1674)イギリス |
(詩人)ピューリタン革命に参加。自由と民主制のために戦い、クロムウェルの共和政府にも関与。失明し、王政復古後は詩作に没頭。叙事詩「失楽園」「福楽園」、悲劇「闘士サムソン」、言論の自由を論じた「アレオパジティカ」など。 |
ラ・フォンテーヌ (1621-1695)フランス |
(詩人)イソップなどに取材し、自然で優雅な韻文を駆使した「寓話集」12巻は、動物を借りて普遍的な人間典型を描き出した寓話文学の傑作。 |
関孝和 (1640頃-1708)日本 |
(和算家)点竄(てんざん)術(筆算式の代数学)を考案し、方程式論・行列式論などを創始、また、幾何学を研究。関流を創始。著「大成算経」「括要算法」「発微算法」など。 |
ジャン・バティスト・ラシーヌ (1639-1699)フランス |
(悲劇詩人)コルネーユ・モリエールと並ぶフランス古典劇の代表者。完成した形式・言語で、内面的心理、特に女性の恋愛を写実的に描いた。作「アンドロマク」「ブリタニキュス」「ベレニス」「フェードル」など。 |
クリスティアン・ホイヘンス (1629-1695)オランダ |
(物理学者・天文学者)望遠鏡を改良して土星の環を発見、光の波動説を説き、振子の力学を論じ振子時計を製作。 |
エドモンド・ハリー(1656-1742) イギリス |
(天文学者)グリニジ天文台長。ハリー彗星の軌道決定、恒星固有運動の発見など、多くの功績がある。 |
ゴットフリート・ライプニッツ (1646-1716)ドイツ |
(数学者・哲学者・神学者)微積分学の形成者。モナド論ないし予定調和の説によって、哲学上・神話上の対立的見解の調停を試みた。今日の記号論理学の萌芽も示す。近代的アカデミー(学士院)の普及に尽力。主著「形而上学叙説」「単子論」「弁神論」「人間悟性新論」 |
井原西鶴 (1642-1693)日本 |
(浮世草紙作者・俳人)作「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」「武道伝来記」「日本永代蔵」「世間胸算用」「西鶴諸国ばなし」「本朝二十不孝」「西鶴織留」、俳諧に「大句数」「西鶴大矢数」など。 |
松尾芭蕉 (1644-1694)日本 |
(俳人)日本各地を旅して多くの名句と紀行文を残した。句は「俳諧七部集などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更級紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」など。 |
ジョン・ロック (1632-1704)イギリス |
(哲学者・政治思想家)経験論の代表者。主著「人間知性論」は近世の経験主義的認識論の端緒を開く。政治論では家父長主義と専制政治に反対し、政府は各個人の自然権を守るために人々の合意により設立されたものであり、その改廃は国民の手中にあると説き、フランス革命やアメリカ独立に大きな影響を与えた。ほかに「政府二論」「寛容について」などを著す。 |
●ここで「方法序説」から少し引用してみる。〔ワレ惟ウ、故ニワレ在リ〕
(出典:「方法序説・デカルト著」訳者谷川多佳子、1997年岩波書店刊より。)
この地で行った最初の省察について語るべきかどうか、わたしにはわからない。というのも、それはきわめて形而上学的で、普通一般から離れているので、すべての人の好みには合わないかもしれないからだ。
だが、わたしが選んだ基礎が十分堅固であるかどうか判断してもらうため、それについて語ることは、ある意味でわたしの義務であると気づいた。生き方については、ひどく不確かだとわかっている意見でも、疑う余地のない場合とまったく同じように、時にはそれに従う必要があると、わたしはずっと以前から認めていた。これは先にも述べたとおりである。だが当時わたしは、ただ真理の探究にのみ携わりたいと望んでいたので、これと正反対のことをしなければならないと考えた。ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させ
るとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純なことがらについてさえ、推論をまちがえて誤謬推理(誤った推論)をおかす人がいるのだから、わたしもまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、以前には論証とみなしていた推理をすべて偽として捨て去った。最後に、わたしたちが目覚めているときに持つ思考がすべてそのまま眠っているときにも現れうる、しかもその場合真であるものは一つもないことを考えて、わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する〔ワレ惟ウ、故ニワレ在リ〕」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。
それから、わたしとは何かを注意ぶかく検討し、次のことを認めた。どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。
逆に、ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物体〕より認識しやすく、たとえ身体〔物体〕が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。
その後わたしは、一般的に一つの命題が真で確実であるためには何が必要か考えてみた。というのも。真で確実であるのを知っている一つの命題をわたしは今見いたしたから、この確実性が何によるのかもわかるはずだと考えたからだ。そして、「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの命題において、わたしが真理を語っていると保証するものは、考えるためには存在しなければならないことを、わたしがきわめて明晰にわかっているという以外にまったく何もないことを認めたので、次のように判断した。わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることはすべて真である。これを一般的な規則としてよい、ただし、わたしたちが判明に捉えるものが何かを見きわめるのには、いくらかの困難がある、と。
(後略)
●ここでは、明の成立から滅亡に至る、皇帝の在位と業績を簡単に一覧にしてみる。明の朱元璋は、一世一元制を定め皇帝名を元号とした。(元号に○○年とつけたものを、年号という。現在中国では元号は廃止され、この制度は日本だけのものになった。)「世界の歴史No9最後の東洋的社会」1961年中央公論社を中心に要約した。
●女真族は「金」そして「清」に発展し、ついに明王朝を滅ぼす。
年代 | 内容 |
---|---|
元代~明初頃 |
ジュセン族
●ジュセン族(女真《じょしん》・女直《じょちょく》)は三つ大部族集団に分かれていた。①野人女直部(東北満州の黒竜江下流域から沿海州一帯)②海西女直部(満州中部の松花江沿岸)③建州女直部(牡丹江上流域から長白山一帯)である。明はこれらに対して分割統治政策を行っていたが、中国文化は満州の辺地までおよぶことになり、自然と民族的自覚がうまれてきた。なかでも女真族統合の原動力となったのはヌルハチ(1539-1626)だった。ヌルハチはしだいに女真部を統合し、30年間で満州の大半を征服した。 |
1616年 |
ヌルハチ
●ヌルハチは、後金国と号して帝位に就いた。これは12・3世紀に女真族が建てた大金帝国を再興するという意志をあらわしたものである。 |
1619年 |
サルホ(サルフ)の戦い
●ヌルハチに対して明は10余万の大軍を動員して、本拠・興京(ホトアラ)にせまったが、サルホ山の会戦で大敗北を喫した。 |
1626年 |
ヌルハチ
●ヌルハチが戦闘で重傷をおい68歳で死亡した。後を継いだのは、子15人のうちの8男で第2代太宗であった。太宗は明との戦いに全力であたるために、後顧の憂いとなる朝鮮を、2回にわたって出兵し1637年には征服した。 |
1636年 |
太宗
●満州と内モンゴルを領有し、国号を後金国から大清国にあらためた。清朝のはじまりである。清は明を攻めたが、明は山海関を死守し清軍もせめあぐんでいた。 |
1643年 |
太宗
●太宗が急死し、6歳の幼帝世祖・順治帝が即位した。実権は叔父の摂政王ドルゴンが握った。 |
1644年 |
ドルゴン
●ドルゴンは山海関にあった明軍総司令官呉三桂から申し出を受け、難攻不落の山海関を開城させ、軍を清軍の支配下においた。そして呉三桂軍の先導により北京へ向かった。 |
1644年 |
北京・紫禁城
●明朝最後の皇帝・崇禎帝は、李自成に攻められ紫禁城北の景山で自害した。李自成は、呉三桂の軍に先導された清軍をみて、形勢不利をさとり紫禁城に火を放ち西安に逃走した。李自成の天下は40日に終わった。そして順治帝が紫禁城に入城し、清朝政権の成立を宣言し、これ以後清の中国統治がはじまった。 |
●1645年、清、薙髪令(ちはつれい)を発す。
満州人の頭髪の結い方である弁髪を、中国全土の全男子に強制した。敵か味方(帰順)の識別であり、清朝への忠誠のあかしのため、違反者には死刑の厳罰をもってのぞんだ。弁髪とは、頭髪の一部をのこして頭をそり、のこした毛をあんで「おさげ」にしたもの。この頃の東アジアでは、中国人と朝鮮人は束髪(総髪)であり、頭の一部をそった民族は、満州族、モンゴル人、日本人があった。弁髪のもともとの理由は、兜(狩猟民・武人)を被った時の頭髪の蒸れを防ぐためとある。13世紀にモンゴル族が中国を征服したときは、モンゴル風に頭をそらされ、14世紀明の太祖は、漢民族の奮起をうながすため、束髪の復活をスローガンとした。後年の太平天国の革命運動では、まっさきに弁髪を切ることを、清への抵抗運動とした。
●明は中央政府(北京)が倒されても、制度として南京が「陪都」ととされ、準首都として指定されており、中央と同じ行政組織があった。そして明の太祖は血統の絶えることをおそれ、各地に諸王を封じていた。そのため各地で亡命政権が樹立されたが、本命は南京の仮政府で、皇帝の候補者に神宗・万暦帝の孫と甥がいたが、孫の福王が皇帝となった。清は南下し戦闘となり、南京を逃げ出した福王は戦死し南京は降伏した。浙江、福建にも有力な政権がたったが、洪承疇によって鎮圧された。この亡命政権のうち、広西省によった桂王政権がもっとも長く続いた(1646-1662)。清軍は華南の地では暑さと風土の違いにより苦戦をしいられたが、呉三桂と洪承疇の合同軍によって、桂王はついにミャンマーに逃亡し、1662年呉三桂によって殺害された。この呉三桂と洪承疇は、清を助けた明軍人で、清は満州時代に中国から習った「夷(野蛮人)をもって夷(野蛮人)を制す」の逆、「漢人をもって漢人を制す」を行ったわけである。
●清朝は各地の亡命政権の鎮圧に成功したが、福建の海上には鄭成功がいて、華南地区は騒然としていた。ことに雲南には苗族はじめ非漢民族がいて明代においても特殊地域だった。そこで清朝は、福建、広東、雲南省それぞれに、漢人将軍をおいて王の称号を与え治安維持にあたらせた。これを三藩といった。一番強力だったのは、平西王(李自成を平らげる意)の呉三桂で、莫大な財産を作り軍閥の巨頭となっていた。北京では順治帝の死後、若い康煕帝(在位1662-1722)が即位し、三藩の廃止と軍閥の解消を決定した。これに対して呉三桂は反旗を翻し、三藩の乱(1673年~1681年)をおこした。康煕帝に対するこの戦いは9年に及んだが、呉三桂の病没後(1678年)、孫が後を継いだが、清軍の雲南侵攻により孫の呉世璠は1681年自殺し、三藩の乱は平定され、ここに清朝の中国統一がなった。
●鄭成功(1624-1662)は台湾にいて大陸反攻を20余年つづけた。
当時東アジア海域には、ポルトガル人、オランダ人、スペイン人などが進出していた。当時台湾にははっきりした領土の主権者おらず、オランダ東インド会社は、台南市の外港安平を占領(1624年)し、ゼーランディア城を1632年に完成させた。鄭成功は本拠地として台湾に目をつけ、1661年台湾ゼーランディア城に侵攻し1662年支配下においた。そして以後3代にわたり22年間台湾を統治した。清は1683年に鄭成功の孫を降伏させ、1684年に台湾を直轄地とした。