日本は欧州戦争には介入せず、日中戦争解決に邁進すると表明。先ずイギリスの国民政府支援ルート(援蔣ルート)を叩こうとする。だがソ連と大規模国境紛争を起こし、敗北する。
日本はこの時点ではアメリカとの関係悪化は避けたかった。日本は戦争に必要な石油・鉄などを40%以上もアメリカに依存していたからである。
●日本は先ずイギリスに圧力をかける。重慶(国民政府の遷都)攻略のために、「援蔣ルート」の一つである香港(英植民地)ルートを封鎖し、さらにビルマ(ミャンマー・英植民地)ルート攻略を計画する。
●だが1939年8月「ノモンハン事件(ソ連軍との大規模紛争)」で日本軍は大敗する。それから日本はドイツに翻弄され続ける。 同年8/23ドイツは突然「独ソ不可侵条約」を結ぶ。この日本とドイツとの防共協定違反は、平沼騏一郎内閣を、「欧州の天地は、複雑怪奇」と声明させるほどの衝撃を与え、総辞職(8/28)させた。一番驚いたのは陸軍かもしれない。
続いて、9/1「ドイツ軍ポーランド侵攻」、9/15「ノモンハン事件停戦協定調印」、9/17「ソ連ポーランド侵攻」など、ドイツとソ連との秘密協定にからんだ一連の出来事に、日本はドイツの外交政策に不信を抱いた。そして日本は3国同盟締結に消極的になった。
●だが陸軍は、ドイツの圧倒的な軍事力によるポーランド進撃と、イギリス、フランスのドイツへの対応を見て、アジアにおいて英米仏蘭を排除し、日本による「大東亜新秩序建設」の実現の可能性を見た。そして陸軍は国をあげての反英運動を主導し、3国同盟締結に邁進していく。
●昭和14年、依然として海軍は強く3国同盟に反対していた。だが平沼騏一郎内閣は総辞職(8/28)して、米内光政は軍事参議官となり、海軍大臣には吉田善吾前連合艦隊司令長官がなった。山本五十六次官は連合艦隊司令長官に任命された。人が替わり時代が戦争へと傾いていく。
(上写真)ノロ高地「進撃(一)の写真」(=ノモンハンへ進撃する部隊)(出典)ノロ高地 草葉榮著 昭和16年原本発行 昭和53年発行
目次昭和14年(1939年) | 主要項目 |
---|
★護国神社誕生。整理統合された宗教界 | 3/15内務省令第12号によって、「招魂社はこれを護国神社と改称」となった。この意味することは、日清・日露戦争以後全国各地につくられた戦没者をまつる招魂社を、東京九段の靖国神社を頂点とする国家による地方分社(末社)の体系がつくられることを意味したのである。
また4/8には宗教団体法を公布し、宗教団体を統制し国策に奉仕させ戦争協力を徹底させた。 |
---|
★弾圧される日本古代史研究(国体・天皇制) | 国家主義者の蓑田胸喜は、雑誌「原理日本」の臨時増刊号(第15巻第11号。昭和14年12/24付)で、津田左右吉の「古事記及日本書記の研究」などを「大逆思想」として攻撃した。「天皇機関説事件」と同じく、「天皇と国体」について疑義をはさむことは、許されざるものとしたのである。 |
---|
★戦時体制下の教育と少年産業戦士 | 5/22天皇は「青少年学徒に賜はりたる勅語」を下賜する。「・・国家隆昌の気運を永世に維持せむ・・・汝等青少年学徒の双肩にあり・・」
|
---|
★日本帝国による朝鮮支配(内鮮一体・皇民化政策) | 昭和14年11/10、日本は、朝鮮に対して「朝鮮民事令改正」を公布した(昭和15年2/11施行)。これは「創氏改名」であり、朝鮮民族は、内鮮一体・皇民化政策によって、名前、言葉を奪われていく。
(皇国臣民の誓詞・小学校用)
一、私共は 大日本帝国の臣民であります
ニ、我共は 心を合わせて 天皇陛下に忠義を尽くします
三、我共は 忍苦鍛錬して 立派な強い国民となります
|
---|
★国内政治・社会年表
昭和14年《1939年》
近衛内閣→平沼内閣→阿部内閣 | 昭和14年(1939年)になると、近衛内閣は日本・ドイツ・イタリアによる3国同盟締結の問題で閣内不一致となり総辞職した。後を継いだのは枢密院議長の平沼騏一郎であったが、近衛文麿も無任所大臣として入閣した。だが平沼内閣は、突然ドイツが「独ソ不可侵条約(8/23)」を締結したことに衝撃をうけ、「欧州の天地は、複雑怪奇」と声明し総辞職(昭和14年8/28)した。その4日後ドイツ軍はポーランド侵攻を開始した。 |
---|
★5/11ノモンハン事件 | ノモンハン事件の発端(ソ連との大規模軍事衝突) |
---|
★9/1第2次世界大戦勃発 | ドイツ軍、ポーランドへ進撃開始 |
---|
(注)一部の写真は、クリックするとポップアップし、再度クリックすると戻ります。
(注)このページでは、右下「緑・矢印ボタン」で目次に戻り、その下の「赤・矢印ボタン」でページトップへ戻ります。
★護国神社誕生。整理統合された宗教界
●2/3内務省は、各地に戦没者を祀る「招魂社」の乱立を規制するため、この招魂社設立を1道府県に1社と制限した。そして3/15招魂社を護国神社と改称し、道府県および市町村が護国神社の維持に努めるように義務付けた。
4/1内務大臣指定として、北海道護国神社(旭川市)、栃木県護国神社(宇都宮市)、佐賀県護国神社(佐賀市)など34の護国神社が生まれた。その後指定は追加され、昭和20年敗戦まで計52社となった。
東京九段の靖国神社は、それら護国神社の頂点をなす神社であった。
●そして4/8、強力な宗教統制法規である宗教団体法を公布した(昭和15年4/1施行)。平沼騏一郎首相はこの法案の提出理由を次のように貴族院で説明した。
「・・わが国体観念、わが皇道精神を涵養するということが、日本に行われる宗教としては、最も大事なことで(中略)これがためには、これに対して監督を加えることが必要・・」(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
これにより政府は、教派、宗派の合同をうながし、仏教は50あった宗派が半数に統合され、キリスト教はギリシャ正教のハリスト正教会を別にして、新教・旧教の2大教団にまとめられた。そしてカトリックは「日本天主公教」を設立し、プロテスタントは28教派が合同して「日本基督教団」を設立した。
●そして日本は、天皇崇拝と神社を「国家の宗祀」(天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点)とする「国家神道」を国民教化の基盤とする全体主義国家へと突き進むのである。神道は一般宗教の上にあり、かつ宗教ではないものとされた。
●ここで日本の「靖国神社(やすくにじんじゃ)」について基本的なことを書いておきたい。下段「靖國神社の由来」には次のようにある。
「靖国神社」とは
「国家のために戦死した本人と家族のために、国家として敬意を払い、名誉を与え鎮魂する」
ための国家施設であり、(現在は国家施設ではない)
「靖國と云ふ名は功勞者を賞するは國を靖(やすん)ずる基といふ意味で御定めになった」
という神社であった。
●この靖国神社は、日本軍国主義と天皇を崇敬し絶対化する国家神道の核心神社ではあったが、この「国家に尽くし戦死した人々を祀る」ということは、どんな国家においても認められた権利であり義務であることは知っておいたほうが良い。
この靖国神社に関しては、1978年のA級戦犯合祀(ごうし)による、それ以降の昭和天皇靖国神社不参拝や、内閣総理大臣等による靖国神社公式参拝に対する中国政府の非難など、「靖国神社問題」は現在までも続いている。
あえて言えば、この問題には日本人特有の精神文化が関係している。日本人は「死者」に対しては、生前の行いに関わらず全てを許す精神文化があるからである。さらに言えば、過去に執着しない国民性があるのかもしれない。
「靖国神社」の基本的な理解、「靖國神社の由来」
●『精神訓話 : 初年兵教育参考資料』佐々木保次郎 編述 兵事雑誌社大正1年刊より引用。
「靖國神社について初年兵教育精神訓話」
●靖國神社に就ての講話(一月二十三日)
一 靖國神社の由来
靖國神社は東京市(とうきょうし)の中央麹町区九段坂上(さかうへ)に祀(まつ)ってある、國家の爲めに名誉の戦死を遂げ一身を抛(なげう)って吾等同胞の為に盡(つく)した陸海軍の勇士の心霊を祭る神社で、毎年(まいねん)五月と十一月の兩度(りょうど)に大祭典(だいさいてん)を行はれ、同時に戦死者の遺族の人々を厚く待遇されて死者の勳功(くんこう)に酬いられるのである。


同神社は明治二年に招魂社(せうこんしゃ)として國家の難(なん)に殉(じゅん)したる戦士の靈(れい)を慰むる爲めに祭典を行はれたのが始(はじ)めにて、當時(たうじ)は仁和寺宮(じんわじのみや)、小松宮(こまつのみや)、有栖川宮(ありすがはのみや)、などの皇族方が御自身で御祭典をなされ、いかにも嚴肅(げんしゅく)壯嚴(さうげん)なものであったさうだ、正月、五月、七月、十一月の四回に伏見、鳥羽、上野、函館の役に戦死した人々の記念として祭典を營まれたのであった、是等(これら)の戰は何れも明治維新の當時に起ったので伏見鳥羽と云ふは慶應三年に徳川十五代の將軍慶喜(けいき)公が大政を朝廷に還(かへ)し奉り天下の政治は朝廷から出ることとなったのであるが、當時慶喜公は京都を守護して居る薩摩藩を快(こころよ)からず思ふことがあり、之を討(うた)うと云ふので、明治元年正月に會津(あひづ)桑名(くわな)の二藩の兵を京都に上らせた、其時慶喜公は大坂(おおさか)に居たのであつたが、京都の官軍は徳川氏の軍を伏見鳥羽に邀(むか)へ撃って之を走らせ進んで大阪に入たので慶喜(けいき)公は海上から江戸に逃れ、官軍(くわんぐん)は大挙して江戸を討(う)つことになったのである、そこで慶喜公は退隱(たいゐん)謹慎(きんしん)して罪を請(こ)ひ江戸城を明け渡した、然(しか)るに徳川氏の臣下(しんか)に不服の者共(ものども)があり彰義隊(しゃうぎたい)と稱して上野(うえの)東叡山(とうえいざん)に據(よ)り官軍の命に抗(こう)したから官軍攻めて之を平(たひら)げた、之れが即ち上野の役(えき)で明治元年五月であつた、上野を逃(のが)れ出た賊は宇都宮日光などに據(よ)ったが皆平げられ唯この先に榎本武揚(えのもとぶやう)等(ら)が軍艦を率(ひき)ゐて江戸彎から逃(のが)れ北海道に走つて函舘に據つたが官軍は進んで乙れを攻め榎本等を降参させたこれを函舘の役と云ふのである。
扨(さ)て是等の戦役(せんえき)に討死した官軍の將士(しゃうし)のために招魂社(せうこんしゃ)を建てて祭典(さいてん)を行はるることに就いては今靖國神社の御前に高く全都(ぜんと)を瞰下(みおろ)してゐる銅像を建てられれてある、故兵部大輔(ひょうぶたいふ)大村益次郎(おほむらますじらう)と云ふ人が非常に盡力(じんりょく)せられたので靖國神社の始まったのは全く大村氏の力に依ると云ってもよい程である。又 明治天皇陛下は畏(かしこ)くも是等の戰役に忠勇なる將士が身命を棄てて國家の難に殉(じゅん)したる功績を御思召し給ひ、明治七年一月二十七日には御(ご)親拝(しんぱい)あらせられて赤地(あかぢ)青地(あおじ)の大和錦(やまとにしき)を御藏めになり。
我國のためにつくせる人々の 名も武蔵野にとむるたまかき
と云ふ御製(ぎょせい)の宸翰(しんかん=天子の直筆の文書)をも賜はせられた、先帝陛下は其後も六回程も御参拝あらせられた、ことに優渥(いうあく=ねんごろに手厚いこと)なる 聖旨(せいし=天子のおぼしめし)には地下の英魂(えいこん)も感泣(かんきゅう)し奉(たてまつ)ることと思はれる、其後明治十二年八月に靖國神社の名を賜り別格官幣社(かんぺいしゃ)とし五月、十一月の兩度に祭典を行ふ事となされ、度毎(たびごと)に勅使を立てられて祭文(さいもん)を御納めになり殊に或年の如きは只一名の兵卒を祀ったのに猶ほ同じく勅使を立てられ立派なる祭典を行はれた、靖國と云ふ名は功勞者を賞するは國を靖(やすん)する基といふ意味で御定めになったのだと承(うけたま)はって居る、尚ほ神社の本殿(ほんでん)は明治五年、祭殿(さいでん)は明治三十四年の建立である。
リンクします「靖國神社に就ての講話」『 初年兵教育参考資料』佐々木保次郎 編述 兵事雑誌社大正1年刊
靖國神社の名称
●次に、『靖国神社誌』賀茂百樹 編 靖国神社 明44.12(1911年)より「名称」のところを引用。
名稱
本神社は初め招魂社と稱せしが草創に際して招魂祠、或は招魂場などとも呼びしことあり。招魂場とは神靈を招ぐ齋場の名にして、招魂社又は招魂祠とは、其招ぎたる神靈を祭祀する祠社の謂なれば自ら区別あるなり。されば本神社には別に招魂場の設ありて神靈を合祀せんとする時は、必ず先づ其神靈を招魂場に招ぎ奉り、而して後、神殿に遷して鎭祭するを例とす。然れども元来招魂社の稱號は、國家多端の際に起りし名にして、在天の神靈を一時招齋するのみなるやに聞えて、萬世不易神靈嚴在の社號としては妥當を失するかの嫌なきにあらず。茲に於てか明治十二年六月四日別格官幣社に列せらるる共に、靖国神社と改稱せられにき。靖國の字は春秋左氏傳に見えたりと雖も其意義は、祭神の偉勳に據りて國家を平和に統治し給ふの義なること、御祭文に「汝命等(いましみことたち)の赤き直き眞心を以て家を忘れ身を擲(なげうつ)て各も各も身死りにし其大き高き勳功に依りて大皇國をば安國と知食すことぞと思ほし召すが故に靖國神社と改め稱へ別格官幣社ご定め奉りて御幣帛奉り齋ひ奉らせ給ひ今より後彌遠永に怠事なく祭給はむとす」と宜らせ給へるが如し。それ我が帝國は古来平和を以て國是とすれば皇祖列聖安國と平らけく天の下を知食さむ事を軫念(しんねん)し給ひ、下民も亦聖旨を奉戴して、平和の爲めに一身を犠牲に供し、死しても猶ほ護國の神となりて、平和を格護せむことを期しつるなり。靖國の稱實に宜なりけり。
リンクします『靖国神社誌』 賀茂百樹 編 靖国神社 明44.12

(用語の意味)(広辞苑などから)
ここで用語の簡単な意味を書いておく。日本語は漢字を基礎にしているので、無数の概念を作り出すことができる。荘厳で伝統的で儀式的な装いをもった言葉だからといって、それが真実を示すものかどうかは慎重に考えなければならない。
●招魂(しょうこん)・・①{儀礼}死者の魂を招きかえすこと。昔、人が死ぬと生きかえらせようとして死者の衣を持って屋根にのぼり、北に向かい3度その名を呼んだ。たまよばい。転じて、死者の霊を招いて祭ること。
●英霊(えいれい)・・①すぐれた人の霊魂。②死者の霊の尊称。特に、戦死者の霊にいう。
(星野注:英霊の文字は、藤田東湖の『和文天祥正気歌(ぶんてんしょう・せいきのうたに・わす)』に由来するという。)
『・・・・ 乃(すなわち)知人(しるひと)雖亡(ほろぶといえども)。英霊(えいれい)未嘗(いまだかって)泯(ほろびず)。長(ながく)在天地間(てんちのかんにありて)。 凜然(りんぜんとして)敍彝倫(いりんをじょするを)・・・・』
(注)凜然(りんぜん)=②勇ましいさま。りりしいさま。彝倫(いりん)=人として常に守るべき道。
●靖国神社の祭神・・英霊(「祖国を守るために死んだ方々の神霊」をいう。)
●神道における人間の死後・・人間は死後、霊魂は死後の世界へ行き、神となって子孫を見守り、守り神となって永遠にとどまる。そしてさらにお祀りをすることによって、災いを防ぎご加護を得ることができる、とあります。
●祀(まつ)る・・①供物・奏楽などをして神霊を慰め、祈願する。「死者の霊を祀る」②神としてあがめ、一定の場所に鎮め奉(まつ)る。奉祀する。「祖先を祀る」。等
●合祀(ごうし)・・二柱以上の神・霊を一社に合せまつること。また、ある神社の祭神を他の神社に合せまつること。
●分祀(ぶんし)・・分けて祀(まつ)ること。本社と同じ祭神を別の新しい神社に祀ること。
●柱(はしら)・・神・霊または高貴の人を数えるのに用いる語。
●顕彰(けんしょう)・・明らかにあらわれること。明らかにあらわすこと。功績などを世間に知らせ、表彰すること。
●追悼(ついとう)・・死者をしのんで、いたみ悲しむこと。
●慰霊(いれい)・・死者の霊魂をなぐさめること。
●社(やしろ)・・『屋代(やしろ)の意。すなわち神籬(ひもろぎ)を神霊の来臨する屋の代わりとする意。』①神の降下する所。・・等
●神籬(ひもろぎ)・・(前略)後には、室内・庭上に常磐木(ときわぎ=常緑樹、マツ・杉類)を立て、これを神の宿るところとして神籬(ひもろぎ)とよんだ。またツバキ科の常緑小高木を榊(さかき)として神木とした。
●依代・憑代(よりしろ)・・神霊が招き寄せられて乗り移るもの。樹木・岩石・人形などの有体物で、これを神霊の代わりとして祭る。かたしろ
リンクします藤田東湖『和文天祥正気歌』「愛国詩文二千六百年」高須芳次郎 著
非凡閣1942年刊
★弾圧される日本古代史研究(国体・天皇制)
日本古代史研究、大逆思想として弾圧される
●国家主義者の蓑田胸喜は、雑誌「原理日本」の臨時増刊号(第15巻第11号。昭和14年12/24付)で、津田左右吉の「古事記及日本書記の研究」などを「大逆思想」として攻撃した。
●津田左右吉は、「古事記」「日本書紀」などを、現代では当たり前な、科学的史料批判の考えで研究を行い、天皇の系譜の一部の実在に疑義を提出したのである。
●そして、昭和15年2月、津田の著書である「古事記及日本書記の研究」「神代史の研究」「日本上代史研究」「上代日本の社会及び思想」が発売禁止とされ、津田は早稲田大学教授からも追われた(1月)。またこれらを出版した岩波茂雄(岩波書店)も出版法違反で起訴された。
リンクします「古事記及日本書紀の研究」津田左右吉 著 岩波書店1924年刊
現在にも続く「天皇制」の呪縛
2019年7月6日朝日新聞デジタルに「伝仁徳天皇陵」世界遺産登録に関する記事があった。この記事には内在する問題点についても書かれている(赤字部分)。記事を抜粋すると以下のようである。
「・・ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は6日、宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理する「大山(だいせん)古墳(=伝仁徳天皇陵)」など「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)を世界文化遺産に登録することを決めた。・・49基中29基が歴代天皇や皇后、皇族の墓として宮内庁が管理する陵墓(りょうぼ)などだ。非公開で本格的な発掘調査が認められておらず、考古学者や歴史学者からは「被葬者が学術的に確定していない」として「仁徳天皇陵古墳」などの名称での登録に反対する声が出ていた。」とある。
●この赤字部分の何が問題なのかといえば、日本の古代史研究は、「古事記」「日本書記」の記述を前提としてきたということである。そしてそこに書かれた天皇の古墳は国家によって比定され、明治以来の絶対的「天皇制」によって不可侵性を与えられ、今もそれが続いているということにある。具体的には以下のことである。
①「仁徳天皇陵」と決めているのは宮内庁であること。
②この古墳も、歴代天皇や皇后、皇族の墓として宮内庁が管理している陵墓(りょうぼ)であること。
③この古墳も、非公開で本格的な発掘調査を宮内庁が認めていないこと。天皇の墓もまた「天皇は神聖にして侵すべからず(帝国憲法第3条)」なのである。
④考古学・歴史学的に、誰が被葬者なのか、いつ作られたのか、などがわからない古墳であること、などである。
●現代日本人は、その科学的な思考を好む性向からすれば、「非公開で本格的な発掘調査が認められていない」不確定な古墳を「世界遺産」に登録することよりも、より学術的な方法で発掘調査研究を行い、古代日本にとって重要な古墳時代の歴史を明らかにすることの方が、より重要であると考えるに違いない。 なぜなら、現在「天皇陵」といわれる古墳の主要部には、まったく考古学的な発掘調査は入っておらず、その調査の必要性は、日本の古代史解明に大きな道筋を与えるほど重要と考えられているからである。
このままでは日本の歴史考古学は、宮内庁の管轄という政治的・宗教的な障害によって停滞し、日本国家成立に向かうダイナミックな古墳時代を解き明かすことが不可能となってしまうかもしれない。これは言い換えれば日本人の知性の衰退を招いているのである。日本が文化国家・民主国家であるためには、明治以来の「天皇制」の呪縛から自由になるべきである。学問にイデオロギーが入るとき、それを人は「宗教」というのである。
(※誰が見ても感じることとおもうが、少なくても雑木林は取り払って、堂々たる構造物である前方後円墳を現出させたほうが良いと思われる。横から見たらただの森にしか見えないのだから)
●また最近の風潮で感じることは、「世界遺産」に対する過剰なマスコミ報道による、異様な盛り上がり方(世界に認められたい感)である。ユネスコの「世界遺産」の登録を、商業主義的な価値観(観光客の呼び込み)を含め、無批判にありがたがるのは、日本人の欧米人崇拝に原因があるのだろうか。
●下は日本帝国憲法を解説した伊藤博文の「憲法義解」の第1章「天皇」と第1条の条文についての部分である。「天皇制」という明治新政府によって作られた日本国家の骨組み(国体)は、この憲法の条文の公式な解説でより鮮明に理解することができる。この「天皇制」は今も日本社会の奥底に残っているのである。
第一章 天 皇
恭(つつしみ)て按(あん)ずるに、天皇の宝祚(ほうそ=天皇の位)はこれを祖宗(そそう)に承(う)け、これを子孫に伝ふ。国家統治権の存する所なり。而(しこう)して憲法に殊(こと)に大権を掲げてこれを条章に明記するは、憲法に依(より)て新設の義を表するに非ずして、固有の国体は憲法に由(より)てますます鞏固(きょうこ)なることを示すなり。
【国体】
第一条 大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之(これ)ヲ統治ス
恭(つつしみ)て按(あん)ずるに、神祖(しんそ=神武天皇のこと)開国以来、時に盛衰ありといへども、世に治乱(ちらん=治まった世と乱れた世)ありといへども、皇統一系宝祚(ほうそ・あまつひつぎ)の隆(さかえ=栄えること)は天地(あめつち)と与(とも)に窮(きわまり)なし。本条首(はじ)めに立国の大義を掲げ、我が日本帝国は一系の皇統と相依(あいより)て終始し、古今永遠に亘(わた)り、一ありて二なく、常ありて変なきことを示し、以(もっ)て君民の関係を万世(ばんせい)に昭(あきら)かにす。


統治は大位(=大御位《おおみくらい》の意味で、天皇の位)に居り、大権を統(す)べて国土および臣民を治むるなり。古典に天祖の勅(ちょく)を挙げて「瑞穂(みずほ)の国は、是(こ)れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり、宜(よろ)しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)いて治(しら)せ」と云へり。また神祖を称(とな)へたてまつりて「始御国(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)」と謂(い)へり。
日本武尊(やまとたける)の言に、「吾(あ)は纏向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)に坐(おわ)して大八島(おおやしま)国(くに)知(し)ろしめす大帯日子(おおたらしひこ)淤斯呂和気(おしろわけの)天皇(すめらみこと)の御子(みこ)」とあり。文武(もんむ)天皇即位の詔(みことのり)に、「天皇が御子のあれまさむ弥(いや)継継(つぎつぎ)に大八島国知らさむ次(つぎて)」とのたまひ、また「天下を調(ととの)へたまひ平げたまひ公民(おおみたから)を恵みたまひ撫(な)でたまはむ」とのたまへり。世々の天皇皆この義を以て伝国(でんこく=国を伝える)の大訓(おおみさとし)としたまはざるはなく、その後「御大八洲天皇(=おおやしま《大八洲》・しろしめ《御》す・すめらみこと《天皇》)」と謂(い)ふを以て詔書の例式とはなされたり。いはゆる「しらす」とは即ち統治の義にほかならず。
けだし祖宗(そそう)その天職を重んじ、君主の徳は八洲(はっしゅう)臣民を統治するに在(あり)て一人一家に享奉(=ご愛顧を享け奉仕するの意)するの私事に非(あら)ざることを示されたり。これ乃(すなわ)ち憲法の拠(より)て以てその基礎と為す所なり。
我が帝国の版図(はんと=領土)、古(いにしえ)に大八島(おおやしま)と謂へるは淡路島(即ち今の淡路)・秋津島(即ち本島)・伊予の二名(ふたな)島(即ち四国)・筑紫(つくし)島(即ち九州)・壱岐島・津島(津島即ち対馬)・隠岐島・佐渡島を謂へること古典に載せたり。景行(けいこう)天皇東蝦夷(えみし)を征し、西熊襲(くまそ)を平げ、疆土(きょうど=領土内)大(おおい)に定まる。推古天皇の時、百八十余の国造(くにのみやっこ)あり。『延喜式(えんぎしき)』に至り六十六国および二島の区画を載せたり。明治元年陸奥出羽の二国を分ち七国とす。
二年北海道に十一国を置く。ここに於て全国合せて八十四国とす。現在の疆土は実に古のいはゆる大八島・『延喜式』六十六国および各島ならびに北海道・沖縄諸島および小笠原諸島とす。けだし土地と人民とは国の以て成立する所の元質(げんしつ=元素)にして、一定の疆土は以て一定の邦国を為し、而(しこう)して一定の憲章その間に行はる。
故に一国は一個人の如く、一国の疆土は一個人の体躯(たいく)の如く、以て統一完全の版図を成す。
●一方、日本国憲法の第1章も「天皇」から始まる。「国民」を代表する「国会=議会(立法)」、あるいは「国民」から憲法が始まらないことも、民主主義国家としては不思議なことである。憲法改正というのは「憲法9条」だけが問題ではない。
第一章 天皇
〔天皇の地位と主権在民〕
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
リンクします「帝国憲法義解」伊藤博文 著 国家学会 明治22年刊
★戦時体制下の教育と少年産業戦士
「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」
●5/22天皇臨席のもと「陸軍現役将校配属令施行15周年記念全国学生生徒代表親閲式」が宮城前広場で行われた。
内地外地の中等学校以上1800校代表3万5500余人の学生・生徒と教職員を集めて分列行進が行われた。
「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」は、この日天皇が荒木貞夫文部大臣に与えたもので、戦時下において「教育勅語」とともに重要視されたものである。
●教育も戦時体制に組み込まれ、学校も皇国民鍛錬の道場と化していった。
(新聞)昭和14年5/23の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●下は「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」(読みやすいように段を分けた-星野)
「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」
國本(こくほん)ニ培(つちか)ヒ國カ(こくりょく)ヲ養ヒ、以(もっ)テ國家隆昌(りゅうしょう)ノ気運ヲ永世ニ維持セムトスル、任(にん)タル極メテ重ク、道(みち)タル甚(はなは)ダ遠シ。
而(しか)シテ其ノ任(にん)實(じつ)ニ繋(かか)リテ汝等(なんじら)青少年学徒ノ雙肩(そうけん)ニ在リ。
汝等、其(そ)レ気節ヲ尚(たっと)ビ、廉恥(れんち)ヲ重ンジ、古今ノ史實ニ稽(かんが)ヘ、中外ノ事勢ニ鑒(かんが)ミ、其ノ思索ヲ精(せい)ニシ、其ノ識見ヲ長ジ、執(と)ル所(ところ)中(ちゅう)ヲ失ハズ、嚮(むか)フ所(ところ)正(せい)ヲ謬(あやま)ラズ、各(おのおの)其ノ本分ヲ格守(かくしゅ)シ、文(ぶん)ヲ修(おさ)メ武(ぶ)ヲ練(ね)リ、質實剛健ノ気風ヲ振勵(しんれい)シ、以テ負荷ノ大任ヲ全(まった)クセムコトヲ期セヨ。
「小学校卒業者の職業指導に関する件」
●これは厚生・文部両大臣が昭和13年10/26に訓令でだしたもので、『学校卒業後に於ける児童の職業をして国家の要望に適合せしむることを期すべし』と明示した。昭和13年3月において、全国の小学校卒業者(尋常科・高等科卒業・高等科中退を含む)248万余人のうち41万余人が就職した。
彼らは、日中戦争開始以来、軍需生産が急速に拡大するにつれ大都市工業地帯に就職していったが、住宅難、労働条件悪化になどによる結核患者も増加した。戦時労働災害において、死傷総数の30%以上が20歳以下の若年層で占められていたといわれる。また少年の非行と犯罪も目立ち、戦時下の青少年は虚無的・刹那的に追い詰められていったのである。
★日本帝国による朝鮮支配(内鮮一体・皇民化政策)
昭和14年11/10、朝鮮民事令改正公布(昭和15年2/11施行)「創氏改名」
●朝鮮総督府がこの日公布したのは、政令第19号「朝鮮民事令中改正ノ件」(氏制度と婿養子制度の創設など)と第20号「朝鮮人ノ氏名ニ関スル件」(氏名の制限など)だった。
●朝鮮民族の伝統的同族集団「同本同姓」(同本=同じ本貫)を簡単に説明すれば以下のようである。
「同本同姓」「同姓同本」
父方の祖先(始祖)を同じくする人々の集団を同本同姓と称して、広い意味での同族と考える。例えば、朝鮮王室の一族である全州李氏といえば、全州を始祖の出身地(本貫)とし、李を姓とする同族ということになる。全州李氏の始祖李翰は新羅の地方官僚だったとされるように、同本同姓集団の始祖はおおむね新羅から高麗初期にまでさかのぼる長い歴史をもっている。同本同姓は『族譜』をつくって結束を固めた。
そしてその「姓」(例えば金、李、朴等)は、近親結婚を避けるため「同姓不婚」「同姓不娶」の標識ともなった。朝鮮では生涯にわたって父祖の姓を名乗り、女性は結婚しても姓を変えることはせず、男性が養子縁組で他家に入る場合は、同本同姓でなければならなかった。これらは中国古来からの原則であったが、日本では定着しなかった。
●この朝鮮の古来からの制度を、日本式(1870年に制定)の戸主による家父長制による「氏」を創設させ、「夫婦同氏」となる制度に強制的に変えた。そして名前も日本式の名に改めさせようとした。この改名は任意とされたが、朝鮮民族を「皇民化」させるための指標であったので、当然ながら有形無形の圧力が加えられた。
●創氏改名は、締め切りが1940年8/10までだったが、総戸数の約8割である322万戸が届け出をすませ、受理された。一例をあげると、朴正煕(パクチョンヒ)大韓民国大統領(1963年~1979年)の「創氏改名」による日本名は、高木 正雄(たかぎ まさお)であった。
●下は「朝鮮総督府編・施政30年史1940年刊」からの「氏制度の創設」の部分の抜粋である。全文は下段でリンクした。「第七期 南總督時代/405」を参照してください。
(二) 改正要旨
(一) 氏制度の創設
(イ)氏制度施行の精紳
朝鮮民事令の改正は、幾多の重要なる事項を含んで居るが、其の中でも氏制度の施行は其の眼目をなすものであって、半島統治史に一時代を画する重要なる制度である。往古皇室に於かせられては渡航帰化人に対し氏を賜ひ、一視同仁の大御心を現はし給ふたのであるが、之等帰化人は今日形容共に大和民族に薫化融合して其の後裔たる跡を留めて居ない状態である。歴史的考証に依れば、今日の大和民族を形成する祖先は、必ずしも純一なる大和民族のみではない。然るに今日渡航帰化人の悉くが大和民族に大和し同化したる所以のものは、前述の如き偉大なる包容力を以て万民を愛撫し給ふた皇謨によるものであって、換言すれば肇國の大精神たる八紘一宇の理念を顕現させ給ふた賜であると拜察し奉る次第である。半島に氏制度の施行せられた所以は、実に叙上の大和大愛の発露であって、之に依り半島人の要望を容れ、以て肇國の皇猷に酬いんとする重要なる制度に外ならない。
(ロ)制定の概要

民法に於ては、第746條に依り戸主及び家族は其の家の氏(家を表彰する為の法律上の名称)を称することと定められ、他家より入りたる家族は総て従前の氏を改めて現在の家の氏を称することになっているが、朝鮮に於ては、従前男系血族の団体たる宗族制度が存在して居って、其の血族の名称である「姓」のみがあり、家の称号たる氏はなかったのであるが、近代的家族制度が確立し、家の観念が明確になった現代に於ても、家に其の称号たる氏がなく、各人は皆男系血族の称号たる姓を称して居り、婚姻等に依って他家に入っても其の姓を変えることがなかったから、一家族中に数姓存在することは通常の事例である。 斯かる一族一姓・家族異姓の制度は家族制度の本質に鑑み適当でないのみならず、後記婿養子及び異姓養子の制度を創設する上にも、家の称号を定めることは、相続の本質上當然要請される処であるので、改正令に於ては此の制度を改め、戸主及び家族は皆其の家の「氏」を称することとし、以て近代的家族制度の要求に合致せしむることとした。 氏を称するには先づ氏を定むることが前提となるが、氏の設定権は戸主権に属するから、戸主又は戸主権を代行する者(法定代理人)が之を定め、改正令施行の日(昭和15年2月11日から6月以内)に、府尹・邑面長に届出でることに因って効力を生ずるものと定めた。又氏設定に関して、制限の外自由に氏を選定し得るものとし、若し6月以内に氏の届出がなかったときは、改正令施行当時の戸主の姓を以て氏とし、而してその戸主が女戸主(一家創立者を除く)であるか、又は戸主相続人が明かでないときは、前の男戸主の姓を以て氏とすることと定めた。尚お右の外、同年12月26日府令第221号を以て、氏の設定に伴う届出及び戸籍の記載手続きに関し細則を定めた。
●これに抗議して下の遺書を残して自殺した朝鮮・全羅南道の柳健永がいた(ひとつの例)。日本は朝鮮民族に深い苦痛を与え、様々な悲劇が生まれた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
「同姓同本が互に通婚し、異姓を養子とし、婿養子が自分の姓を捨てて妻の姓に従うという。これは、禽獣の道を、5千年の文化民族に対して強要するものである」(出典)金一勉「朝鮮人の『日本名』-『展望』昭和51年4月号」
リンクします「朝鮮総督府編・施政30年史1940年刊」
日本の朝鮮支配の略年表
●下段は日本の朝鮮支配の略年表である。朝鮮民族は日本によって、名前と言葉を奪われていく。特に1936年(昭和11年)8月5朝鮮総督に南次郎が就任すると、それまでの「内鮮融和」から「内鮮一体」へと支配を強力に進めていく。
●(左写真-李淑子)高々とひるがえる日の丸。ハングル文字での説明は、「私たちの国旗は、白地に赤をまるく染めたものです」と記されている。(『初等朝鮮語読本』卷2)朝鮮総督府編集教科書から。
(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
(略年表・日本の朝鮮支配)年 | 内容 |
---|
1936年 昭和11年 | 8/5朝鮮総督宇垣一成辞任、後任に南次郎(~1942・5・29)。
●朝鮮総督南次郎は、陸軍大将、朝鮮軍司令官、陸相、関東軍司令官を歴任した。そして宇垣一成の後任となるや、「内鮮一体」をスローガンに朝鮮人皇民化政策を押し進めた。 |
---|
| 8/5府令第76号「神社規則」改正、一邑面一神社を定める。
●一邑面一神社(=一町村に一神社)を目標に神社建設を行い、翌年の日中戦争勃発後は、毎月一日を「愛国日」として神社参拝を強制した。 |
---|
| 12/12制令第16号で、朝鮮思想犯保護観察令及び付則を公布(1928~35年の治安維持法違反検挙者が1万6000人を超え、思想犯の転向を促すため)。 |
---|
1937年 | 3/17総督府文書課長談の形で、日本語使用の徹底に関し各道に通牒(行政機関等での日本語使用を強制)。 |
---|
| 10/2「皇国臣民の誓詞」を制定。
●この誓詞(ちかい)の斉唱を、学校・官公庁をはじめ、すべての職場で義務づけた。
下は、1937年10月定められた「皇国臣民の誓詞(ちかい)」一般用(上)と小学校用(下)。カタカナはひらがなに、旧漢字は新漢字に変えた。
(皇国臣民の誓詞)
一、我等は皇国臣民なり 忠誠を以て 君国に報ぜん
一、我等皇国臣民は 互に信愛協力し 以て団結を固くせん
一、我等皇国臣民は 忍苦鍛錬力を養い 以て皇道を宣揚せん
(皇国臣民の誓詞・小学校用)
一、私共は 大日本帝国の臣民であります
ニ、我共は 心を合わせて 天皇陛下に忠義を尽くします
三、我共は 忍苦鍛錬して 立派な強い国民となります
|
---|
| 12/23天皇の写真(御真影)を全朝鮮の初等学校・中等学校59校に下賜、その伝達式行われる。 |
---|
1938年 | 2/23勅令第95号で、陸軍特別志願兵令公布(訓練所人所者は1938年度406人、1939年度613人、1940年度3060人)。 |
---|
| 3/4改正朝鮮教育令公布。普通学校・高等普通学校・女子高等普通学校を廃止、内地同様の学院体系とする。
●これにより学制・教科書を日本と近似の形にし、朝鮮語を学校の正課からはずした。 |
---|
| 9/10朝鮮のキリスト教長老教会派、神社参拝を承認(1938年末の信徒数は神道9万5991、内地仏教30万9740、朝鮮仏教19万4876、キリスト教50万842。━総督府発表) |
---|
1939年 | 11/10朝鮮民事令改正、朝鮮人の氏名に関する件公布。 |
---|
| 12/26氏の設定、氏名の変更に関する細則を定め、翌年2月11日施行と決定。 |
---|
1940年 | 8/10民族紙『東亜日報』『朝鮮日報』、強制廃刊させられる。 |
---|
1941年 | 8/31朝鮮総督府、国民学院規程を公布。朝鮮語の学習を廃止。 |
---|
1943年 | 3/1兵役法改正公布。朝鮮に徴兵制を施行(同年8月1日施行) |
---|
リンクします「前進する朝鮮」朝鮮総督府情報課 昭和17年刊
★国内政治と社会年表。1939年(昭和14年)頃。『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。
年・月 | 1939年(昭和14年) |
---|
昭和14年の概略 ●昭和14年(1939年)になると、近衛内閣は日本・ドイツ・イタリアによる3国同盟締結の問題で閣内不一致となり総辞職した。後を継いだのは枢密院議長の平沼騏一郎であったが、近衛文麿も無任所大臣として入閣した。この3国同盟の意見の対立とは、海軍と外務省が敵の対象をソ連だけとしたのに対して、陸軍は英米をも含めて敵とすべきと主張したことにあった。
●陸軍は、中国戦線の苦戦と長期化の要因は、イギリスによる国民政府に対する支援(援蔣ルートなど)によるものだとして、特にイギリスに対して敵対と挑発を繰り返すようになった(国内では陸軍主導による反英キャンペーンなど)。そして6月陸軍は、親日派の暗殺事件を理由に中国天津の英仏租界を軍事力をもって封鎖した。これには国民政府の法定貨幣である「法幣」のバックボーンであるイギリスに対する圧力も主たる目的の一つだった。これに対してイギリスはドイツと同様な宥和政策で日本に対応した。
これをみたアメリカは、イギリス(チェンバレン内閣)に対してその弱気な姿勢(ドイツと同様な宥和政策)をけん制し、かつ日本に対する制裁目的で、翌年満期となる日米通商航海条約廃棄を通告した。
●また陸軍は、ソ連との国境紛争処理に対する方針を強硬なものに変えた。「・・ソ連の野望を初動において封殺・破砕す」という強硬姿勢である。そして5月ハルハ河付近の国境紛争が大規模な軍事衝突に発展した。ノモンハン事件(=ハルハ河戦争)の勃発である。
ソ連のスターリンは3月の党大会で「・・ソ連国境に対する打撃に対しては2倍の反撃をもって応ずる」と表明していた。陸軍は、この初の本格的な近代戦において、建軍以来の大敗北をこうむったといわれる。(国民には隠された。)
●こうしたなか8/23、突如としてドイツはソ連と不可侵条約を結んだ。日本はドイツと防共協定を結んでおり、ドイツのこの行動は協定違反と断定し、今後ドイツとの同盟強化は打ち切りと決定した。日本政府と陸軍は、ドイツが仮想敵国であったソ連と不可侵条約を結んだことに大衝撃を受けたのである。そして8/28、平沼騏一郎内閣は、「欧州の天地は、複雑怪奇」と声明し総辞職した。後継は阿部信行(陸軍大将)が組閣した。
●9/1早朝、ドイツ軍がポーランドに侵攻した。ドイツ機甲師団が首都ワルシャワに向かってなだれこんだのである。ついに9/3イギリス・フランス両国はドイツに対して宣戦布告した。第2次世界大戦の勃発である。
●9/4日本政府は欧州戦争に対する方針を決定、「日本は戦争に介入せず支那事変の解決に邁進する」と声明を出した。
●同じく9/4アメリカ、ルーズベルト大統領はラジオ番組「炉辺談話」で、「私は戦争を憎む」と欧州戦争不介入を宣言した。だがアメリカは11月、孤立主義を守るために制定した「中立法」の武器禁輸条項を撤廃し、ドイツと交戦中のイギリス、フランスに対し武器供給を可能にさせ、介入の度合いを強めていった。(4/11の記者会見では、大統領は、ヨーロッパでもし戦争が起きればアメリカは英仏側に参加と表明していた。)
●9/17ソ連軍がポーランドに侵攻し東部を占拠する。これは8/23ドイツとの不可侵条約の付属秘密議定書でポーランド分割占領を決めていたのである。またこの時ドイツ外相はスターリンに、ノモンハン事件での日本との停戦斡旋を示唆したといわれる。ソ連がポーランド侵攻できるように日本との停戦を斡旋したのであろう。(9/15ノモンハン事件の日ソ間停戦協定成立)
●国内での経済は、長期化する日中戦争や生活必需品の不足、輸入品(原材料等)の高騰、世界的な恐慌などにより、物価は上昇しインフレは進行していった。そこで阿部内閣は9/18、「9.18停止令」を発した。これは9/18の価格を上まわることができないというもので、対象は商品価格、運送費、保管料、保険料、加工賃、さらに地代、家賃、賃金、給料にまでおよんだ。これはあらゆる財貨とサービスの価格を対象としたもので、この応急処置は10/18、「価格統制令」「地代家賃統制令」「賃金臨時措置令」「会社職員給与臨時措置令」として法制化された。 |
1939年
昭和14年1/5 | 平沼騏一郎内閣成立 (平沼騏一郎・ひらぬま-きいちろう)
政治家。津山藩(岡山県)出身。帝国大学法科卒。判事・検事総長・大審院長・第二次山本内閣法相・枢密院議長などを歴任。昭和14年(1939)組閣。ついで第二、第三次近衛内閣国務相。この間、右翼団体国本社を主宰。第二次世界大戦後A級戦犯として終身禁固服役中病死。慶応3~昭和27年(1867-1952)(出典)日本語大辞典精選版
●平沼を後継首相に推したのは近衛文麿だった。陸軍は内閣総辞職に反対したが、近衛は陸軍受けのいい平沼を推したのである。平沼は1924年、官僚を中心とする国家主義団体「国本社」を創立し、西園寺公望ら元老、重臣から観念右翼の頭目として警戒され、万年首相候補といわれていた。
だが平沼は2.26事件以後は国本社会長を辞め、近衛などの宮廷グループに接近し、政権獲得をめざしていた。
●外務大臣-有田八郎(留任)、陸軍大臣-板垣征四郎(留任)、海軍大臣-米内光政(留任)、文部大臣-荒木貞夫(留任)などで、近衛文麿は無任所大臣として入閣した。 (新聞)昭和14年1/5の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1939年
昭和14年1/6 | ドイツ、3国同盟案を日伊両国に正式提案する ●この提案に対し有田八郎外相は、陸軍と意見交換を行う。 |
1939年
昭和14年1/15 | 横綱双葉山、連勝69でストップ。 ●2019年9月現在でも双葉山の連勝記録は破られていない。2位は白鵬(63)、3位は千代の富士(53)、4位は大鵬(45)である。当時の大相撲は、春・夏の年2場所興行だったので、双葉山は69連勝を3年にわたって続けたのであった。(昭和11年1/16~昭和14年1/14まで) |
横綱双葉山、70連勝ならず
昭和14年1/15東京両国の国技館で行われた、横綱双葉山と西前頭3枚目安芸ノ海との取組の映像。
(出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」1億2千万人の映像。第1巻「世界恐慌と太平洋戦争」講談社2005年7/15第1刷発行。
※(YouTube動画、サイズ1.40MB、29秒)
年・月 | 1939年(昭和14年) |
---|
1939年
昭和14年1/19 | 5相会議、日独伊3国同盟案で方針を決定 ●相互武力援助はソ連だけを対象とすることに決定。 |
1939年
昭和14年1/28 | 東京大学「平賀粛学」実行 ●この日、東京帝大総長平賀譲(ゆずる)は、経済学部の河合栄治郎・土方成美両教授を休職処分とした。教授、助教授の身分上の処分は、学部教授会での決定によるものとされていたが、平賀総長は直接文相(荒木貞夫)に上申したのである。
●これに抗議(大学の自治を破るもの)して1/29、両派の教授・助教授・講師・助手らが一斉に辞表を提出した。新聞には「東大経済学部壊滅に瀕す」とある。
●この「平賀粛学」のねらいは、対立する両派の争いに決着をつけることよりも、強まるファシズムの風潮に批判を続ける河合栄治郎を東大から追放することにあった。河合に対する攻撃は、昭和13年初め、あの国家主義者蓑田胸喜の攻撃から始まった。そして昭和13年2/16、貴族院本会議で井田磐楠が、河合の著書『ファッシズム批判』『時局と自由主義』『第二学生生活』を取り上げて攻撃した。
●その結果内務省は10/5上記3著作と『社会政策原理』を発売禁止とした。さらに警視庁は12/24、河合を出版法の安寧秩序妨害の嫌疑で取り調べを始め、昭和14年2/22に起訴したのである。
●第1審で無罪、2審で有罪、昭和18年大審院(通常の司法裁判所中最上級審の裁判所)で上告棄却有罪となった。公判中から健康を害していた河合栄治郎は、翌昭和19年2/15、54歳で死去した。 (新聞)昭和14年1/30の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
*リンクします「ファッシズム批判」河合栄治郎著 日本評論社1934年刊→ |
1939年
昭和14年2/9 | 国民精神総動員強化方策を決定 ●3/28、国民精神総動員委員会官制公布施行。(市川房枝・菊池寛らが委員として参加する)
●7/4、国民精神総動員委員会第6回総会で基本方策を決める
●8/8、運動の見直しにより、9月より毎月一日を「興亜奉公日」と定める。
|
1939年
昭和14年2/10 | 海南島北部に上陸、海口・瓊山などを占領 ●台湾混成旅団と第4根拠地隊などによって上陸が開始され、ほとんど抵抗を受けず成功した。海南島は南方進出と援蒋ルート遮断のための航空作戦基地として海軍が要望していた。
●2/11の朝日新聞の記事によれば、この海南島についてフランスは、自国の植民地である仏領インドシナと租借地広州湾に近接しているため、重大な関心を寄せているとある。
事実2/13、駐日フランス大使は海南島占領に関して質問を行い、これに対し有田外相は、「軍事的必要以外なんら領土的野心なし」と説明した。 (新聞)昭和14年2/11の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
|
1939年
昭和14年2/16 | 商工省、鉄製品の回収を開始する。 ●ポスト、ベンチ、広告塔、マンホールの蓋、灰皿など15品目を不急品として指定。 |
1939年
昭和14年2/23 | 理化学研究所サイクロトロンの据え付けを完了 ●理化学研究所の仁科芳雄研究室、総重量200数10トンのサイクロトロンの据え付けを完了する |
1939年
昭和14年2/24 | (満州国とハンガリー、日独伊防共協定に加盟)
●3/27スペインのフランコ政権も加入した。 |
1939年
昭和14年2/25 | スペイン内戦が終了 ●スペイン人民戦線政府は、イギリス政府の休戦勧告を受諾し、抗戦放棄を声明。
3/28フランコ軍マドリードに進入、政府軍降伏。(4/1フランコ内戦終了を宣言)
●このスペイン内乱の歴史的背景を要約すると次のようである(出典)「世界の歴史」15ファシズムと第2次世界大戦。中央公論社1962年発刊。
●スペイン王国は、20世紀になってもヨーロッパの最もおくれた国家の一つだった。それはカトリック教会や貴族による封建的支配が強く残った絶対主義的な国家であった。そのため農民の地位は農奴に近かった。
●第1次世界大戦中は中立国として景気が良かったが、戦争が終わると景気が悪くなって労働運動が盛んになった。
●1923年にリベラ将軍が軍事的な独裁政府をたてて国内を安定させたが、この政権は国民から民主的自由を奪うものだったので、1931年には王政が倒れて共和制が成立した。
●だがこの共和国は、貴族と教会の大土地所有の問題に対する農地改革や、王党派で占められる軍部の改造などを行わなかった。そして1933年選挙で右翼勢力が勝利したため、これに対抗するため1934年大規模な労働者の蜂起が行われたが、政府と軍隊によって鎮圧された。
●この失敗によりスペイン労働者のあいだに「人民戦線」が結ばれ、1936年2月の総選挙で大勝し人民戦線政府が成立した。 ●イギリスの歴史家A.J.P.テイラーによれば、この「スペイン内乱」は「スペイン市民戦争」とされ題され次のようにある。
(スペイン市民戦争)
1936年に人民戦線が総選挙に勝利し、土地制度の改革や教会権力の解体などを打ち出すが、大地主や資本家と結託したフランコらのファシスト将校が軍を掌握し、クーデターを起こした。ドイツ、イタリアは半ば公然とファシストを援助したが、レオン・ブルムに率いられたフランスの人民戦線政府も、英米両国などもスペイン共和国政府に対する援助を怠たり、ついに39年には共和国政府は崩壊する。このとき、「スペインをファシズムの墓場に!」というスローガンの下に、世界各地の知識人や労働者が国際義勇兵などとして多数参加した。(出典)「目で見る戦史・第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著(株)新評論1981年刊 |
1939年
昭和14年3/1 | 大阪陸軍牧方火薬庫爆発事故発生 ●敷地200万㎡の弾薬庫が次々と爆発・延焼した。陸軍は、死者94名、重軽傷者602名と発表。原因については黙秘。 |
1939年
昭和14年3/8 | イギリス蔵相、援蒋強化策を発表。 ●中国と1000万ポンドの「法幣」安定借款協定に調印。
●前年1938年12/15には、アメリカの対中国2500万ドルの借款が成立した。この借款で中国に輸出する商品は、トラック及びガソリンが占め、ビルマ経由の軍需品の輸送に大きな役割を果たすと観測された。
|
1939年
昭和14年3/25 | 軍用資源秘密保護法公布 ●この第1条には次のようにある。外国に対して秘匿する必要がある事項の漏洩を防止することが目的とある。
第1条 本法は国防目的達成のため、軍用に供する(軍用に供すべき場合を含む以下之に同じ)人的及物的資源に関し外国に秘匿することを要する事項の漏泄を防止するを以て目的とす |
1939年
昭和14年3/27 | 日本放送協会、有線による国産テレビの初実験放送に成功 ●日本放送協会は、昭和15年開催予定の東京オリンピックでテレビの本放送を行おうとしていた。そして浜松高等工業高校の高柳健次郎教授を招いて、全電子式テレビの実用化にむけて全力を注いだ。そして3/27に有線による実験放送、次いで5/13には無線による公開の実験放送に成功した。そして昭和14年8/19から8/29まで、日本橋三越本店で行われた初の一般公開では、観覧者が屋上まで列をつくった。
●だが昭和16年5/1から毎週1日(6月から週2日)、受像器メーカー向けに定期試験放送が始められたが、6月末で中止となり、研究者たちはレーダーや超短波などの兵器研究に動員されていった。 (写真-高島屋)昭和14年のテレビ完成発表ポスター(9/20-9/27)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
|
1939年
昭和14年4/1 | 名古屋帝国大学創立(名古屋に総合大学) ●名古屋医科大学を母体に、理工学部(昭和15年開設)を新設することにして、名古屋帝国大学が創立された。 |
1939年
昭和14年4/1 | 日本発送電が設立される ●これは、昭和13年3月に「国家総動員法」を可決した第73議会で成立した「電力管理法」の基づいて設立されたものである。国が出資せずに民間資本の運用を握るという電力を統制するものであった。 |
1939年
昭和14年4/1 | 海軍「零式(れいしき)艦上戦闘機(零戦=ゼロ戦)」の誕生 
●4月1日、三菱重工名古屋飛行機製作所は、「12試(=昭和12年度試作)艦上戦闘機」第1号の試験飛行に成功する。「零式(れいしき)艦上戦闘機(零戦=ゼロ戦)」の誕生である。「神武天皇即位紀元」は紀元前660年を元年とするので、翌年の昭和15年(1940年)は皇紀2600年にあたり、末尾の零(れい=ゼロ)をとって「零式艦上戦闘機」と命名された。
●零戦は、総合的にみて当時の戦闘機として航空史に残る世界的な傑作機であり、日本で1番多く生産された(10098機)。2位は隼(はやぶさ)、3位疾風(はやて)、4位九七式戦闘機だった。
(写真)中国上空を行く零戦11型。翼幅12m、全長8.79m。最大時速533.4km、航続距離3502km。上昇力6000m/7分27秒。操縦席、燃料タンクの防弾・消火装置は無い。写真・『丸』
(下写真-堀越郁子)「零戦」の設計開発陣。中央が設計主務者の堀越二郎。その左は、構造設計の曽根嘉年。堀越はまだ羽布張り複葉機の時代にジュラルミン製の低翼単葉機を試作(7年)するなど、大胆な発想で知られた。
(出典)2枚とも「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
|
1939年
昭和14年4/5 | 映画法公布(製作・配給業者の許可制、脚本の事前検閲など) ●この「映画法」は、ナチスドイツの「映画検閲法(1934年施行)」を手本につくられたもので、国民大衆に最も影響を及ぼす媒体である映画を、国家が統制しようとしたものである。この映画法の企画立案者内務省警保局の舘林三喜男は、「映画統制の目標」を次のように説明した。 「今こそ映画人が、映画の持つ使命を自覚しつつ、大君の御用作家たり、御用監督、御用俳優となり切るときであると思う」『日本映画』昭和13年10月号 ●これに公然と反対したのは、映画評論家の岩崎昶、一人だった。岩崎は次のように批判した。 「地球上のどの国でも、懲役と罰金とによって映画の『質的向上』を図ったり『国民文化の進展』を企て得ると考えた法律などあるまい』と。『東京朝日新聞』昭和14年3月 ●だが岩崎は翌昭和15年1月、特高警察に逮捕され、1年余り刑務所生活を送った。
●こうして萎縮した映画界は、戦意高揚を目的とする国策協力映画を作るようになっていった。その頃の映画には下記のようなものがあった(一例)。
●小津安二郎『お茶漬けの味』有閑マダムの登場で却下、事前検閲。
●亀井文夫『戦ふ兵隊』治安維持法違反で逮捕。監督資格剥奪、上映されず。
●象徴的な戦意高揚映画。『燃ゆる大空』。陸軍の直接指導と全面協力による航空戦スペクタル映画。 |
1939年
昭和14年4/7 | 初の「愛馬の日」 ●「愛馬の日」は前年まで「愛馬デー」として6/1に行われていた。これを4/7に変えたのは、明治天皇が明治37年(1904年)のこの日に馬匹の改良を命じたことを記念したからであった。この日、仏教青年会は、陸軍・文部・農林3省後援で東京芝の増上寺で軍馬祭を行い、日比谷公園ではポニーが子どもたちを乗せる乗馬会、代々木練兵場では近衛師団の軍馬による戦闘演習など、全国各地で同様の催しが行われた。
すでに昭和13年10/20には、第1回支那事変軍馬祭が行われていた。その趣旨は次のようであった。(神翁顕彰会『続日本馬政史』)
「出征軍馬の功績は真に偉大なるものあり赫たる皇軍戦果の陰に能く将兵と共に身命を捧げつつある無告戦士の艱難辛苦」を追慕する。 以後戦局が悪化する昭和17年まで軍馬祭は毎年10月に行われ、功労軍馬が表彰された。(昭和17年4月までに1516頭が表彰された)
●日中戦争では、重火器を引く輓馬(ばんば)=砲兵馬と、険しい山道や道なき道で武器弾薬を背負う駄馬(だば)が特に必要とされた軍馬だった。日本軍の輸送力は軍馬に頼っていたのである。日中戦争、太平洋戦争を通じて徴発された軍馬は、おおよそ50余万頭と推定されるが、日本に戻ることはなかった。
|
1939年
昭和14年4/12 | 米穀配給統制法、公布 ●政府は、戦争経済への移行に伴う、米不足と価格の高騰に対応するためこの法律を制定した。その骨子は、①日本米穀株式会社の設立、②米穀商の許可制度、③配給統制の命令、であった。特に③により、政府は米の流通過程に介入することができるようになった。 |
1939年
昭和14年4/22 | 臨時資金調整法改正、公布施行 ●これは、設備の拡張・新設に関する許可制を、会社以外の個人にも適用したもの。 |
1939年
昭和14年4/25 | 満ソ国境紛争処理要綱を示達 ●関東軍司令官は兵団長会同(=会合など)において次の内容を示達した。カタカナはひらがなに変え、句読点、濁点を追加した。
(方針)
軍は侵さず侵さしめざるを満州防衛の根本基調とす。
之が為、満「ソ」国境に於ける「ソ」軍(外蒙軍を含む)の不法行為に対しては、周到なる準備の下に徹底的に之を膺懲(ようちょう=征伐してこらしめる)し、「ソ」軍を慴伏(しょうふく=ひれ伏す)せしめ、其の野望を初動に於いて封殺破摧(はさい=粉々に打ち砕く)す。 (出典)「防衛庁防衛研究所 戦史室著 朝雲新聞社」 |
1939年
昭和14年4/26 | 青年学校令改正、公布施行 ●高等小学校・中学校・実業学校等に在学しない満12歳以上19歳以下の男子に義務化。 |
1939年
昭和14年4月 | 昭和13年度物価指数と賃金指数 ●昭和8年度を100として、物価指数147、賃金指数114。両者の差が拡大と新聞に。 |
1939年
昭和14年5/11 | ノモンハン事件の発端(ソ連との大規模軍事衝突) ●突然ソ連と国境紛争が起きたわけではない。昭和12年に113回、昭和13年には166回とソ連との国境紛争は起きていた。その根本原因は、日本にとっての仮想敵国はソ連であり、モンゴル北方のザバイカル州方面にてソ連軍主力を撃滅することが、陸軍の作戦計画のひとつであったことによる。満州事変以前からソ連主力との決戦は、ホロンバイル、大興安嶺方面と考えられていた。(出典)「防衛庁防衛研究所 戦史室著 朝雲新聞社」
●ノモンハン事件については、陸軍(関東軍)の事だけではなく、別の視点も必要と思われる、それはソ連とモンゴルの政治情勢である。 ①1936年~1938年にかけてソ連ではスターリンによる赤軍(ソ連軍)幹部と将校の大粛正と、行政機関の高官たちの大粛正が行われた。1938年にはスターリンの粛正を恐れて、ソ連極東地方内務人民委員部の長官が満州に亡命を求めてきた事件なども起こった。また非ロシア民族に対してや、ソ連邦に属する共和国においても粛正、迫害、強制移住などが行われた。スターリンが指導する全体主義国家、すなわち独裁の完成である。
②当然ながらモンゴル人民共和国(1924年成立)に対する指導層の迫害粛清はすさまじかった。特に宗教を認めないソ連による「ラマ教」(モンゴル仏教)の迫害は、1万人を超えるラマ僧が逮捕殺害されたといわれる。この粛清のピークが1937年~1938年といわれる。
1936年3/12ウランバートルで「ソ連・モンゴル人民共和国相互援助議定書」が締結された。これを契機にスターリンのモンゴルに対する粛清が始まった。この条約を締結したモンゴルのゲンデン首相は1936年4月にクリミアで軟禁拘束状態におかれ、1937年に「反革命運動を企てた日本のスパイ」として銃殺された(出典:「ノモンハン隠された戦争」鎌倉英也著NHK出版2001年刊)。ソ連はモンゴルを、共産主義の名のもとに日本との戦争に向かわせたのである。
③もう一つ忘れてならないのは、モンゴル民族が3つに分断されたことである。それはモンゴル人民共和国、満州国、中国の3つである。そしてモンゴル人は民族同士の戦争を強いられたのである。
●このノモンハン事件で日本軍は大敗したが、相手のソ連軍の司令官についてはあまり語られていない。日本軍は歴史に残る司令官と戦ったのである。
この司令官は、ソ連で第2次大戦の最も偉大な将軍といわれたジューコフ軍団長(当時)で、後にドイツとの祖国防衛戦でモスクワ防衛軍司令官などを歴任しドイツ軍を破ったソ連の英雄だった。だからこそスターリンは、ノモンハンに近代的な装備・火力を持つ大兵力を動員輸送できたともいえる。後にジェーコフは「元帥回想録」で次のように述べた。 彼ら(日本兵)は戦闘に規律をもち、真剣で頑強、とくに防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。若い指揮官は決まったように捕虜として降らず、「腹切り」を躊躇しません。士官たちは、とくに古参、高級将校は訓練が弱く、積極性がなく紋切型の行動しかできないようです。「ノモンハン隠された戦争」鎌倉英也著NHK出版2001年刊」 ●ソ連との過去の紛争地点を地図上で大まかに示せば下図のようになる。この「ノモンハン事件=ハルハ河戦争」は左の西部地域で起きた。(地図は拓殖大学の満州国関連地図から作成のイラスト)
 |
ノモンハン事件の経緯(第1次) ●5/11ハルハ河付近で満州国軍とモンゴル軍が衝突。
●5/13ハイラルの第23師団司令部(師団長小松原道太郎中将)、ノモンハンへ一部兵力を派遣。
●5/15第23師団の東支隊(捜索第23連隊長東八百蔵《あずまやおぞう》中佐)、ノロ高地付近でモンゴル軍を攻撃、モンゴル軍ハルハ河西岸に退却。
●5/17モンゴル軍、ハルハ河を越えて東岸へ進出し、兵力を増強してハルハ河とホルステン河の合流地点で架橋作業実施。
●5/21小松原師団長は、歩兵第64連隊に東中佐の捜索隊などを加えて山県支隊(歩兵第64連隊長山県武光連隊長)を編成(約2000人)し、急派した。
●5/28から戦闘が本格化し、モンゴル軍に加えてソ連軍の機甲部隊が戦闘に参加。
●5/29ソ連軍の重砲と戦車によって包囲攻撃を受けた東捜索隊は全滅した。山県部隊主力は圧倒的なソ連軍の砲撃を受けて動けずにいた。だが航空戦では、関東軍はソ連機50数機を撃墜し圧倒した。
●5/31小松原師団長は山県支隊に戦場離脱を命じ第1次の戦闘は終了した。
上記東部隊長の戦死について、昭和14年6/3の朝日新聞は次のように伝えた。 「白刃の突撃戦・壮絶・東部隊長の戦死(詳報)」 「(海拉爾《ハイラル》にて今井特派員2日発)
去る28日満蒙国境ノムハン附近における外蒙兵の殲滅戦において、我が東部隊は敵の退路遮断の重要任務を帯びて出動、外蒙軍に殲滅的打撃を与えこれを完全に国境線外に撃退、同戦闘において東八百蔵部隊長は壮烈なる戦死を遂げ、満蒙国境確保の尊き犠牲となったが、同部隊の当時の激戦の模様が左の如く判明した。 
即ち28日未明〇〇を進発した東部隊は、2班に分かれてノロ高地及びバルシャカル西高地の両側面より敵陣地の背後に出て哈爾哈(ハルハ)河沿岸に至り、越境せる敵兵を1名ものがすまいと退路遮断の作戦に出たが、その時は哈爾哈(ハルハ)河対岸の背後陣地よりは重砲野砲を以て熾(さかん)に砲撃を蒙(こうむ)り、又越境の敵陣地よりは戦車軽機等により猛射を浴せて来た、而も我が東部隊は我が主力部隊の戦況を有利たらしめるため、敵陣の真正面に向って猛烈果敢な攻撃を続けた、雨霰の如く敵の銃砲弾を浴びながら東部隊長は自ら陣頭に立って部下を叱咤し、ソ連兵外蒙兵等と猛烈なる白兵戦を演じ、遂に壮烈なる戦死を遂げ、満蒙国境の華と散った。同部隊の犠牲的奮戦により敵の退路は完全に遮断され、満領内に越境せる外蒙軍を完全に撃滅、満蒙国境の固き護りに不滅の武勲を樹てたのである。」 昭和14年6/3の朝日新聞の記事(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 ノモンハン事件の経緯(第2次と8月攻勢) ●6/27関東軍、独断で、第2飛行集団119機によりモンゴル領内タムスクを爆撃。
●7/2第23師団、ノモンハン付近のハルハ河両岸で夜間攻撃を開始。7/3第2飛行集団が地上作戦に協力。
●7/16ソ連空軍機1機、満州国チチハル付近の鉄橋を爆撃。関東軍は全軍に戦備強化を命令。
●7/18、5相会議、ノモンハン事件の拡大防止・対ソ外交交渉による事件解決を決定。
●7/20大本営陸軍部、磯谷関東軍参謀長に「ノモンハン事件処理要綱」を手交。
●7/23第23師団、ソ連・モンゴル軍に対し砲兵団を主体とするハルハ河右岸攻撃を実施。
●7/31関東軍、ノモンハンにおけるソ連軍の8月攻勢に対処するため、作戦準備促進要綱を策定。
●8/3関東軍司令官、ノモンハンでのソ連軍機による連日の攻撃に対し、航空進攻作戦を大本営に具申。
●8/4大本営、第6軍の編組を発令、関東軍に編入しノモンハン方面に配備(軍司令官荻洲立兵中将)。
●8/7大本営、タムスク付近の戦場におけるソ連軍機根拠地攻撃命令を関東軍に通達。
●8/20ソ連・モンゴル軍総攻撃開始。日本軍、第23師団と第7師団全滅的被害。
●8/24日本軍、第6軍ソ連軍を側背から攻撃開始するが8/26敗退する。
●9/3大本営、関東軍司令官に、ノモンハン方面の攻撃作戦中止とハルハ河係争地域外への兵力隔離を発令。
●9/6植田謙吉関東軍司令官、ノモンハン方面における作戦中止を命令(関東軍命令)。
●9/7植田謙吉関東軍司令官が解任され、後任に梅津美治郎中将が任命される。
●9/15モスクワでノモンハン事件停戦協定に調印。
●9/18ノモンハンで現地停戦交渉。戦死者、日本4386体収容、さらに59体ソ連から送付。捕虜交換は翌15年4月までに、ソ連兵89人、日本兵204人。
ノモンハン事件の結果 ●このノモンハン事件は、「・・陸軍が初めて経験した近代戦で、兵器・戦法の遅れ、日本軍の精神主義・非合理性などの欠陥が露呈した。・・」と「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊には書かれている。さらにノモンハン事件では、陸軍は無謀な戦いを繰り返し、肉弾攻撃で多くの兵士を死なせ、大敗を喫した、という論調の本も多い。
●だが死をもってこの大敗の責任を負ったのは、多くの現場将校たちだけで、彼らは戦線離脱などの責任を追求され、軍法会議で自決を強要させられた。陸軍刑法には次のようにあります。
第三章 辱職ノ罪
第四十条 司令官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵ニ降リ又ハ要塞ヲ敵ニ委シタルトキハ死刑ニ処ス
第四十一条 司令官野戦ノ時ニ在リテ隊兵ヲ率ヰ敵ニ降リタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合ト雖六月以下ノ禁錮ニ処ス
第四十二条 司令官敵前ニ於テ其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ隊兵ヲ率ヰ逃避シタルトキハ死刑ニ処ス (注)司令官とは、軍隊の司令に任ぜられた以上、団体の大小、任務の軽重、将校・下士官を問わず総て司令官である。 ●だが軍隊の厳しさはソ連も同じで、ソ連軍は第1次ノモンハン事件の後、ノモンハン地区の軍団の責任者を処分し、上層部の総入れ替えを行い、かつ前線部隊内の責任者や兵士の処分を行った。地上軍は日本軍を圧倒して勝ったといわれたソ連軍においても、「国境防衛を処理できず、鉄の部隊の規律を守れなかった」という理由から処分を行ったのである。上層部は、来たるべき日本軍との戦いに備え、組織と装備も一新させたのである。
●この戦争での双方の戦死者等は、次のようにいわれている。
●日本軍・・戦死-約7700人、戦傷-約8600人、行方不明1020人前後、合計-約1万7300人。
(ソ連軍の戦死者等は、1991年前後のソ連の崩壊に伴う情報公開によって、今まで発表された数値以上と推定されている。)
●ソ連軍・・戦死-8000人以上、戦傷-15000人以上、合計-約2万3000人以上。
●またこの戦いで双方に多くの捕虜が生まれた。捕虜になった自軍の兵士に対する制裁が、社会的にも峻烈になっていったのも、このノモンハン事件からかもしれない。後の「戦陣訓」にある「生きて虜囚の辱を受けず」は既に陸軍において不文律であった。
●上記のようにノモンハン事件は、日本軍が一方的に大敗したのではなく、ソ連軍も日本軍と同様な損害を出した武力衝突であったといえる。
この武力衝突は、関東軍が陸軍中央の命令に従わず独断で暴走したとの評価もあるようだが、もともと柳条湖事件(満州事変)、盧溝橋事件(日中戦争)など、現地軍隊を陸軍中央が統制できなかったのは、石原莞爾以来の陸軍の体質だったのだろう。(このノモンハン事件の時の陸軍大臣・板垣征四郎は、石原莞爾と共に柳条湖事件を起こした人物である)
●もっと大きな問題なのは、このノモンハンでの大敗の事実(組織にとって都合の悪い真実)を国民に隠し、嘘を発表し国民を煽るという、国家の体質が常態化してしまったこと、そして報道も権力に迎合していったことにある。下段のニュース映像も、勝ったのは日本であるかのような報道である。
|
ノモンハン事件の現地停戦調印の映像
(出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」1億2千万人の映像。第1巻「世界恐慌と太平洋戦争」講談社2005年7/15第1刷発行。
※(YouTube動画、サイズ4.04MB、1分26秒)
年・月 | 1939年(昭和14年) |
---|
1939年
昭和14年5/12 | 朝鮮人労働者賃上げなどを要求、ストライキを実施する ●山口県石田村道路工事現場で働く朝鮮人労働者116人が賃上げなどを要求、うち45人がストライキを実施。 |
1939年
昭和14年5/15 | 各帝大医学部・官立医大に臨時付属医学専門部を設置 ●これは日中戦争における軍医の需要増加が要因の一つだった。 |
1939年
昭和14年5/18 | 拓務省は女子拓殖講習会を開くことを決める ●これは、移民の花嫁を養成するために、全国各府県で開くものであった。 |
1939年
昭和14年5/22 | 独伊軍事同盟成る ●両国が軍事同盟(鋼鉄協約)に調印する。ここにベルリン・ローマ枢軸が完成する。
平沼首相は次の声明を発表した。『・・我邦としては世界平和のため、いよいよ独伊両国と緊密なる連携を保持し、3国関係を益々密接鞏固ならしむることを期する次第である』と。 (新聞)昭和14年5/23の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
|
1939年
昭和14年5/29 | 武道(柔道・剣道)を準正課と訓令 ●文部省は、小学校尋常科(5年・6年)と高等科の男子生徒に武道を準正課として課すことを訓令した。 |
1939年
昭和14年5/31 | 汪兆銘、上海から海軍機で横須賀に到着 ●昭和13年12/18汪兆銘(中国国民党副総裁)が重慶を脱出し、12/19ハノイ着。
●昭和13年12/29汪兆銘ハノイにて、蒋介石と国民党首脳部に対して、日中和平を呼びかける第1次声明を発表。
●これに対して、昭和14年1/1、中国国民党は汪兆銘の党籍離脱と永久除名を決定した。さらに強く汪兆銘一派を恨んだ国民党は、汪兆銘の暗殺者をハノイへ放った。日本は汪兆銘を日本へ脱出させたのである。 |
1939年
昭和14年6/1 | 昭和電工(株)設立 ●森矗昶(もりのぶてる)が創業した日本電気工業と、森が経営に関わった昭和肥料が合併して昭和電工が設立された。この昭和電工を中心に、化学、アルミニウム製造などに事業展開したのが森コンツェルンである。
●昭和9年1月森矗昶は、自社の長野県大町工場にて初の国産原料と国産技術によるアルミ生産に成功した。そして昭和9年3月、社名を日本電気工業と改称し生産施設を強化し、純度99%の製品を生産するようになった。昭和10年には、陸軍航空本部が日本電気工業の製品に対して、航空機用として実用に供し得ると認めるほどとなった。 |
1939年
昭和14年6/1 | 空母翔鶴(しょうかく)進水 ●同艦は、日本海軍で初めて球状艦首(バルバス・バウ=波の抵抗を小さくする)を採用した。 |
1939年
昭和14年6/6 | 日本、中国に新中央政府樹立(汪兆銘政権)を決定 ●5相会議は、中国に新中央政府樹立する方針を決定した。これは汪兆銘工作を推進していくということであった。 |
1939年
昭和14年6/14 | 日本軍、天津英仏租界を封鎖する ●この天津問題の端緒となったのは、4/9夜、親日派の中国人程錫庚(税関長)が天津英租界の映画館で暗殺された事件だった。天津駐屯の日本軍は犯人の引き渡しを要求したが、英国側はこれを拒否した。抗日テロはあいついでおり、昭和14年はじめから上海では「維新政府」の外交部長、親日派の中国財界人、日本人への襲撃などが続発していた。さらに5/31、日本は犯人引き渡し要求の諾否を、期限を決めて求めたが、英国側は日本の要求を拒否した。
●そして6/14天津駐屯軍は、武力をもって英仏租界を遮断し、封鎖する行動にでた。そして日本の意を受けた天津市長は、英仏総領事に、「犯人の引き渡し」要求と、「租界内における法幣(国民政府の法定貨幣)の流通禁止と現銀の搬出など」臨時政府の通貨政策に協力することを要求した。
(陸軍の意図したこと)
①日本は、全中国における外国租界の排撃を意図した。②特に英国は、3月に中国と1000万ポンドの「法幣」安定借款協定に調印し、国民政府と交易をやめず排撃すべきとした。③反英運動をさらに高め、アジアから英国を排斥して「東亜新秩序」を打ち立てようと意図した。④反英運動の高まりにより、3国同盟に消極的な海軍を親英派として攻撃しようとした。などである (新聞)昭和14年6/15の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1939年
昭和14年6/16 | 学生の長髪・パーマネント・ネオン禁止 ●国民精神総動員委員会は上記運動方針などを決定。
6/24の朝日新聞には、「パーマネント、”落城の前夜”」との記事があった。そこには日本パーマネント協会と東洋パーマネント協会に属する、東京市内800軒の業者が自粛大会を開いたとある。合意のひとつは「醜悪なる髪容化粧を排斥し、時局下ふさわしき髪容を創案すると共に、健全なる理容術の実施普及を図る」との内容だった。 |
1939年
昭和14年6/21 | 灯台社事件発生(キリスト教団体) ●灯台社は、昭和2年(1927年)明石順三を中心として結成されたキリスト教団体である。本部はアメリカニューヨークに本部にあり、灯台社は日本支部となっていた。現在灯台社はないが、関係があった団体は、「エホバの証人」である。
●この事件のきっかけは、昭和13年4月と昭和14年1月に起きた灯台社社員2名による兵役拒否だった。内容は、宮城礼拝・御真影奉拝・軍事教練を拒否したことであった。その理由は、エホバの教えにより、「偶像礼拝行為は絶対できないこと」また「軍事教練は流血の行為の訓練なので厳禁されている」との理由だった。
●こうして6/21、東京をはじめ18府県・朝鮮・台湾で130余人の灯台社関係者が検挙された。容疑は治安維持法違反および不敬罪だった。 |
1939年
昭和14年7/1 | 総動員業務事業設備令公布 ●軍需産業における生産力拡充を強化する。 |
1939年
昭和14年7/1 | 東京芝浦電気が設立される ●東京電気と芝浦製作所が合併し、東京芝浦電気が設立される。戦時下にあって、家電製品の生産禁止にともない、電機業界では合同・集中化が進んだ。発電機をはじめとする重電機の代表メーカーである芝浦製作所と、電球や真空管など軽電機で知られる東京電気が合併したのである。 |
1939年
昭和14年7/4 | 国民精神総動員委員会第6回総会で基本方策を決める ●これは、「公私生活を刷新し戦時態勢化するの基本方策」という題目で、目的は「・・個人主義的、自由主義的生活態度の弊風を粛清して、益々国民的、奉公的生活態度を強化すべき時である・・」とし、「具体的な実行項目を定め、官民相協力して徹底的に実践に向かって邁進する」としたのである。内容は下記のようであった。
1,国民生活日の設定。毎月一定の日を国民生活日と定め、特に当日は
「全国民戦場の労苦を偲び、強力日本建設に向かってまい進し、厳粛闊達なる気分を以て、国民生活綱要に副い日本精神を如実に顕現して、自粛自省、之を実際生活の上に具現し、恒久実践の源泉となす日たらしめること」
2,国民生活綱要の提唱
「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の指標の下に、日々厳守励行すべき項目を更に高調し、・・普及徹底を図る。
①早起励行 ②報恩感謝 ③大和協力 ④勤労奉公 ⑤時間厳守 ⑥節約貯蓄 ⑦心身鍛錬
3,第1期刷新項目
①料理店、飲食店、「カフェー」、待合、遊技場等の営業時間の短縮。 ②「ネオンサイン」の抑制 。 ③一定の階層の禁酒、一定の場所の禁酒。 ④冠婚葬祭に伴う弊風打破就中(なかんずく=とりわけ)奢侈なる結婚披露宴等の廃止。 ⑤中元、歳暮の贈答廃止。⑥服装の簡易化。「フロックコート」「モーニングコート」の着用は公式の儀礼に限り、其の他は平常服を以て之に代えること。男子学生生徒の長髪禁止。婦女子の「パーマネントウエーヴ」その他浮華なる化粧服装の廃止。 4,徹底方法 (略) |
1939年
昭和14年7/5 | 米内光政海軍大臣暗殺計画発覚 ●陸軍に同調する右翼は、3国同盟に反対する者を親英派として攻撃し、要人の暗殺を計画した。狙ったのは、湯浅倉平内大臣、米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、松平恒雄宮内大臣、財界の池田成彬らであった。
●この頃の海軍に対する右翼の攻撃については、「山本五十六」阿川弘之著 新潮文庫昭和48年刊に詳しく書かれている。この本のなかでは、山本次官に対する脅迫状の一つである「辞職勧告文」が引用されているが、それを下段に書き出してみよう。当時の右翼の考えが幾分かわかる。右翼は、日独伊3国同盟に反対する海軍に対して脅迫を頻繁に行っていた。そしてそれを背後から扇動していたのは陸軍であるといわれる。カタカナはひらがなにし、句読点を追加した。
(昭和14年7月14日、海軍次官山本五十六閣下 「聖戦貫徹同盟」)
「今次戦争が日英戦争を通じてなさるべき、皇道的世界新秩序建設の聖戦たることの真義よりして、対英国交断絶と日独伊軍事同盟締結は、現前日本必須緊急の国策に拘(かかわら)ず、英国に依存する現代幕府的支配勢力は、彼らに利益なる現状の維持のために之を頑強に阻止しつつあり。
貴官はその親英派勢力の前衛として米内海軍大臣と相結び、事毎(ことごと)に皇国体のままなる維新的国策の遂行を阻害し、赫々(かっかく=輝かしい)たる皇国海軍をして、重臣財閥の私兵たらしむるの危険に導きつつあり。
貴官が去る5月17日英国大使館の晩餐会に於いて、日英親善の酒杯を挙げたる翌日、鼓浪嶼(ころうしょ・ころんす)に於いて英米仏三国干渉の侮蔑を受けたる事実の如きは、即(すなわ)ち幾万の戦死者の英霊と前線の将兵の労苦を遺忘(いぼう=忘却)せる海軍次官の頭上に降(くだ)されたる天警なりしが、貴官頑迷なお悟る処なきが如し矣。
我等は皇民たるの任務に基き、皇国日本防護の為(た)め、貴官の即時辞職を厳粛に勧告す。」 (注)鼓浪嶼(ころんす)=厦門島の西の共同租界の激戦とテロの事件を指すか?(星野) |
1939年
昭和14年7/8 | 国民徴用令公布 ●これは「国家総動員法」第4条によるもので、4条は以下の内容である。
「国家総動員法」第四條
政府ハ戦時二際シ國家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所二依り帝國臣民ヲ徴用シテ総動員業務二従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ ●この「国民徴用令」によって、政府は必要と認めた時に、国民を軍需産業などに強制的に従事させることができた。この徴用令書には罰則があり、交付を受けて無断で出頭しないと、1年以下の懲役または1000円以下の罰金が科せられた。兵役の召集令状は「赤紙」と呼ばれ、徴用令書は白い用紙から「白紙」召集といわれた。 |
1939年
昭和14年7/12 | 対支同志会主催、英国排撃市民大会が開かれる ●日比谷公会堂で開かれたこの大会では、「英国の援蒋政策放棄を要求せしめる」ことなどを満場一致で決議した。そのあと対支同志会の寺田稲次郎ら8名が「いまや永年老獪英国の欺瞞外交にあやつられていた神州日本の義憤の爆発する時が来たのだ」と演説した。その後7/14には東京府・市会議員有志が発起人となった反英市民同盟の市民大会、7/31には中野正剛の東方会が反英東亜民族大会を開催した。
●これらは、すべて7/15から開かれる有田外相とクレーギー駐日大使の会談に圧力を加えるものだった。この背後には陸軍がいたのである。 |
1939年
昭和14年7/24 | 7/15、日英で会談始まる、7/24、日英円卓会議開催される ●7/15有田外相とクレーギー駐日大使の間で、天津租界封鎖問題その他について会談が開かれた。
●7/22有田、クレーギー第4次会談でイギリス側が譲歩、「一般協定」を結ぶ。
●7/24東京で、加藤駐英公使、クレーギー駐日大使らが出席して、天津での治安維持に関して日英円卓会議開催(両国の公使、領事、武官ら少将クラスが出席)。
上記事には、英国世論は、「・・天津英租界の封鎖を1日も早く解決し、かつ極東における日英の摩擦をできるだけ少なくして、再び欧州問題に専念したい」という英政府の方針を歓迎している、とある。
●だが8/21に日英会談は決裂した。7/27アメリカは日本に対し「日米通商航海条約」破棄を通告し、ヒトラーのドイツに対しても宥和政策とるイギリス・チェンバレン政権に対して、強力な圧力をかけたからである。 (新聞)昭和14年7/25の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
|
1939年
昭和14年7/27 | アメリカ、日米通商航海条約破棄を通告 ●この条約は、明治44年(1911年)締結したもの。江戸幕府が1858年締結した日米修好通商条約は、不平等条約(領事裁判権と関税自主権)であったが、明治政府は1899年実施の日米通商航海条約で領事裁判権の撤廃に成功した。そして1911年、この日米通商航海条約の改定によって関税自主権の回復を達成したのである。 (新聞)昭和14年7/28の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●「日米通商航海条約破棄」がどのような打撃を日本に与えたかを、大蔵省昭和財政史編集室編 「昭和財政史」 第13巻(国際金融・貿易)の「日華事変期における国際金融と貿易」から一部を引用してみる。表は「重要輸入品中対米貿易の比重(昭和13年)の表」である。
 「・・これによって、それから6ヶ月後の15年2月から日米通商航海条約は失効し、両国間の最恵国約款は停止されることになった。海運業にとっては、従来享受していた通商航海の自由、船舶の係留および貨物の積卸に関する内国待遇、船舶のトン税、港税、その他の課税に関する最恵国待遇がすべて停止されるのである。わが国貿易の輸出において第2位、輸入においては第1位をしめていたアメリカ(第16表参照)との通商条約の失効は日本に脅威的な打撃を意味していた。そしてその破棄通告のあと、日本はヨーロッパにおける戦争の突発に際会したのであった。」 ●こうして日本は、天津問題と反英運動によって、日米無条約時代を招いたのである。 |
1939年
昭和14年7/28 | 朝鮮人強制連行始まる ●内務・厚生両次官、「朝鮮人労務者内地移住に関する件」を通牒。これにより朝鮮人強制連行が始まる。
これに関連して、昭和17年2/13の閣議決定で「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」というのがある。趣旨の部分を抜粋した。これは当時の建前であろう。(カタカナはひらがなに変え句読点を追加した。)
「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」 昭和17年2月13日 閣議決定
第一 趣旨
軍要員の拡大に伴い、内地に於ては基礎産業に於ける重労務者の不足特に著しく、従来此の種労務者の給源たりし農業労力亦逼迫し来りたる結果、応召者の補充すら困難なる実情に在り。茲(ここ)に於て此の種労務者の需給に未だ弾力を有する朝鮮に給源を求め、以て現下喫緊(きっきん)の生産確保を期するは焦眉の急務たり。而して従前より朝鮮人労務者に依存せること少からざりし土建、運輸等の事業に於ても最近之に期待すること益々大なり。
然るに朝鮮人労務者の内地送出並に之が使用に関しては複雑なる事情交錯し、内鮮の指導必ずしも一致せず、之が為生じたる弊害亦少からず。今や内地労務者の資質に鑑み、所要の朝鮮人労務者を内地に於て活用するは不可決の要請なるを以て、此の機会に於て既往の経験を省察し、其の施策に統一と刷新とを加へ、内鮮共に真の指導性万全方策を確立して、速に之を実行すること最も必要なり。
而して其の要は労務の活用と同時に教化を重んじ、以て朝鮮統治の大方針を推進すると共に、此等育成せられたる労務者は、之を朝鮮に還元し、朝鮮の我が大陸前進基地たる地位の強化に資せしむるに在り。 *リンクします「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」 国立国会図書館リサーチ・ナビ→ |
1939年
昭和14年8/1 | 国民徴用令に基づく初の出頭要求書、発送される。 ●これは、前月7/8に公布された「国民徴用令」に基づくもので、この徴用第1号は建築技術者だった。7/31~8/1にかけて全国の建築技術者に「出頭要求書」が送られ、選考の結果正式に徴用され、大部分は「大陸建設部隊」として現地に送られた。陸海軍に徴用されたものは軍属として処遇された。年ごとの重要職種における徴用者は、昭和14年-850人、昭和15年-5万2692人、昭和16年-25万8192人、昭和17年31万1649人と飛躍的に増大していった。 (写真・『写真週報』昭和14年8/30号)出発にあたって、訓示を聞く被徴用者。この時徴用されたのは、大林組、清水組、竹中工務店などの建築技術者。清水組からは、この年48人が徴用され、中国に送られた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
|
1939年
昭和14年8/8 | 板垣陸相、留保なしの日独伊3国同盟締結を主張する ●欧州対策に関する5相会議で、板垣陸相は主張するが、結論が出ず散会となる。 |
1939年
昭和14年8/10 | 上海日本総領事館、ユダヤ人流入禁止を申し入れる。 ●日本は、外資導入と対米関係の配慮から、ユダヤ人の保護政策をとっていた。だが日本海軍が警備する共同租界には、約1万5000人のユダヤ人難民が流入し、難民収容所が溢れてしまった。そのためユダヤ人救済委員会に申し入れ、8月から難民の流入は禁止となった。
●このユダヤ人救済委員会とは、ナチスの弾圧を逃れてヨーロッパから上海にきたユダヤ人難民を救済するため、上海在住のユダヤ人が結成した組織。 |
1939年
昭和14年8/15 | (東京市、「隣組」に10万枚の回覧板を配布)
●「東京市隣組海回報」第1号が発効された。 |
1939年
昭和14年8/23 | モスクワで独ソ不可侵条約調印される ●このソ連が不倶戴天のドイツと不可侵条約を結んだ大きな原因は、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲することを定めた1938年9月の「ミュンヘン協定」と思われる。この時の英仏のドイツに対する宥和政策が、ソ連の英仏に対する不信感を募らせた。スターリンは、ソ連がドイツとの戦争に突入した場合、英仏は頼りにならないという結論に達したと思われる。そこでソ連は、独ソ不可侵条約を締結して中立を守ろうとしたのである。
●一方ドイツは、ポーランド侵攻の際、ソ連に中立を守らせることが必要だった。ドイツは英仏ソ3国と戦争はできなかったからである。ドイツは独ソ不可侵条約と同時に調印された秘密議定書で、フィンランド、エストニア、リストニア、ポーランドの半分、そしてベッサラビア(ルーマニアの地方)に対するソ連の権益を認めた。またドイツは、ソ連の極東兵力の東ヨーロッパ移動を可能にするため、日本とのノモンハン事件停戦の斡旋を行った。ドイツはソ連の中立とポーランド分割のため代償を与えたのである。 (新聞)昭和14年8/23の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
|
1939年
昭和14年8/25 | 閣議、独ソ不可侵条約は日独防共協定に違反と断定 ●日本はこれにより、日独防共枢軸強化の打ち切りを決定した。 |
1939年
昭和14年8/30 | 平沼内閣総辞職(8/28)、阿部信行(陸軍大将)内閣成立(8/30) (阿部信行・あべ‐のぶゆき)
陸軍大将、政治家。昭和14年(1939)、内閣を組織、外相を兼任するが、軍部や政党の関係で失敗し五か月足らずで総辞職。明治8~昭和28年(1875‐1953)(出典)日本語大辞典精選版
●8/28平沼騏一郎内閣は、独ソ不可侵条約締結の衝撃で「欧州の天地は、複雑怪奇」と声明し総辞職した。
●後継首班にはさまざまな候補があがった。近衛文麿枢密院議長は湯浅内大臣と会見し、広田弘毅・元首相を推薦し、湯浅内大臣は池田成彬・前大蔵大臣を強く推した。近衛は、池田を出すのは国際的に180度の大転換となり親英的になるとして反対し、広田と交渉することとなった。 陸軍大臣・板垣征四郎は、広田(親ソ論者)と宇垣一成大将(親英派)を排除するねらいから、近衛文麿に再出馬を要請した。近衛が再出馬の要請を断り陸軍の意中の人物を尋ねると、板垣は「阿部信行か林銑十郎」と答えた。
●こうして首班指名は阿部と池田に絞られ、元老西園寺公望は池田を推したが、近衛はそれを拒否した。こうして阿部信行が首相と決まった。そして8/29の朝日新聞では、「陸軍は新内閣では板垣陸相は留任せず、後任として関東軍参謀長磯谷中将を推すことに一致している」、とあった。
●ところが、ここで天皇が異例の陸相指名を行ったのである。原田熊雄の『西園寺公と政局』第8巻によれば、天皇は、 「適当な陸軍大臣を出して、陸軍を粛清をしなければ内政も外交も駄目だ」 と感じていた。天皇は28日、宮中に参内した阿部に、 「英米に対しては協調しなければならぬ」「陸軍大臣は自分が指名する、《陸軍》三長官の決定は何とあろうとも、梅津《美治郎中将》か畑《俊六大将》のうちどちらかを選任せよ」「内務、司法は治安の関係があるから、選任に注意せよ」(近衛『前掲書』) と異例の注意を与えている。
●そして8/30天皇の要望を受け入れ、畑を陸軍大臣として阿部内閣が誕生した。陸軍大臣-畑俊六(前侍従武官長、元中支那派遣軍司令官)、海軍大臣-吉田善吾(前連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官)、外務大臣は阿部総理が兼務していたが、9/25現学習院長・予備海軍大将・野村吉三郎が外相に就任した。 (新聞)昭和14年8/29の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1939年
昭和14年9/1 | ドイツ軍、ポーランドへ進撃開始 ●9/1早暁、ドイツ軍は53個師団を超える機甲師団と空軍を投入し、ポーランド西部国境を突破した。第2次世界大戦の勃発である。
●9/3午前3時、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリスは、ドイツに対して宣戦布告した。フランスも9/3午後5時ドイツに宣戦布告した。だが両国は交渉による解決を探っていたため行動を起こさなかった。
●9/17ポーランドは今度はソ連の侵攻を受け、9/27ワルシャワは陥落した。ドイツ軍侵攻直前の8/23、ドイツとソ連は不可侵条約を締結したが、そのときの付属秘密議定書でポーランド分割占領を決めていたのである。さらにこの秘密議定書でソ連は、フィンランド、エストニア、リトアニア、ベッサラビア(ルーマニア)もソ連の勢力範囲におくことをドイツと決めていた。ドイツは、ソ連に中立を守らせるために代償を払ったのである。 (写真)さえぎるものもなく延々と続くポーランドの平原を疾走するドイツ機械化部隊。対ポーランド電撃戦にヒトラーは、150万人余の兵力、約2000両の戦車と約2000機の航空機を投入した。(出典)「クロニック世界全史」講談社1994年刊
|
第2次世界大戦勃発

●ヒトラーは1933年1月に政権を獲得すると、3月には一党(ナチス)独裁を確立した。ヒトラーの求めたものは「大ドイツ」構想の実現と思われる。そしてヒトラーはさらにそこに、優等人種(ドイツ人=アーリア人)が世界を支配するべきであるという狂信的な人種論を付け加え、「ユダヤ人絶滅」「スラブ人の奴隷化」等を実行したのである。
●ヒトラーは、9・10世紀に成立した「神聖ローマ帝国」を第一帝国とみなし、自身のナチスドイツを第三帝国と称したのである。
●日本陸軍は、ヒトラーのドイツに憧れたのかもしれないが、ヒトラーにとって日本はあまり眼中にはなかったのだろう。ヒトラーの「我が闘争」に日本に関して下段のような一文がある。
アーリア人至上主義者のヒトラーにとって日本は利用するだけの存在に過ぎなかったのではないだろうか?
●下段は「わが闘争」「文化の創始者としてのアーリア人」の一部から抜粋。
(出典)「わが闘争」アドルフ・ヒトラー著 平野一郎・将積茂 訳 角川書店1973年発行 1995年29刷
・・・今日以後、かりにヨーロッパとアメリカが滅亡したとして、すべてアーリア人の影響がそれ以上日本に及ぼされなくなったとしよう。その場合、短期間はなお今日の日本の科学と技術の上昇は続くことができるに違いない。しかしわずかな年月で、はやくも泉は水がかれてしまい、日本的特性は強まってゆくだろうが、現在の文化は硬直し、七十年前にアーリア文化の大波によって破られた眠りに再び落ちてゆくだろう。・・・
(写真)ヒトラー(出典)「目で見る戦史・第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著(株)新評論1981年刊
●下段は「欧州戦争略年表」(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
欧州戦争略年表ドイツをめぐる動き年 | 内容 |
---|
1938年 昭和13年 | 2/4独、陸軍省廃止。ヒトラー、統帥権を掌握。 |
---|
| 3/1独、オーストリアを併合。 |
---|
| 9/29ミュンヘン会談。英仏独伊間で、ズデーテン地方の独への割譲決定。(9/30調印)。 |
---|
| 11/9独、ユダヤ人に組織的迫害開始。 |
---|
| 11/26ソ連・ポーランド不可侵条約更新。 |
---|
1939年 昭和14年 | 3/15ヒトラー、プラハ入城。ボヘミア・モラビアの保護領化宣言。 |
---|
| 3/21独、ポーランドにダンチヒ割譲を要求(3/26ポーランド拒否)。 |
---|
| 3/23独、リトアニアのメーメルを併合。 |
---|
| 4/3ヒトラー、ポーランド進撃を9月1日とすることを極秘命令。 |
---|
| 4/28ヒトラー、独・ポーランド不可侵条約と英独海軍協定廃棄を声明、仏のアルザス・ロレーヌ領有を否認。 |
---|
| 5/22独伊軍事同盟(鋼鉄協約)調印。 |
---|
| 8/23独ソ不可侵条約調印。 |
---|
| 8/24英仏、対ポーランド援助条約調印。 |
---|
| 8/29ヒトラー、対英回答でダンチヒ回廊への割譲要求を繰り返す。 |
---|
| 9/1独軍、ポーランド進撃を開始。第2次世界大戦始まる。 |
---|
| 9/3英仏、ドイツに宣戦布告。 |
---|
| 9/17ソ連、ポーランド侵攻、東部を占領。 |
---|
| 9/27ドイツ軍、ワルシャワ占領。 |
---|
| 9/28独ソ友好条約調印。ポーランドの分割占領を決定。 |
---|
1940年 昭和15年 | 4/9ドイツ、デンマーク・ノルウェーに侵攻、占領する。(追記) |
---|
1940年 | 5/1ヒトラー、西部戦線攻撃を指令。 |
---|
| 5/10独軍、北仏・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクを奇襲攻撃。英チェンバレン内閣総辞職、チャーチル連合内閣成立。 |
---|
| 5/14独軍、セダン付近でマジノ線突破。 |
---|
| 5/27英仏軍、ダンケルク撤退を開始。 |
---|
| 6/10イタリア、英仏に宣戦布告。 |
---|
| 6/14独軍、パリに無血入城。 |
---|
年・月 | 1939年(昭和14年) |
---|
1939年
昭和14年9/1 | 初の興亜奉公日実施。国民精神総動員の新展開 ●これをうけて、国民精神総動員中央連盟は、興亜奉公日の実施項目として、①戦死者の墓参。②前線へ慰問文・慰問袋を送ること。③務めて歩くこと。④とくに緊張して働くこと。⑤服装と食事はとくに質素とすること。⑥酒と煙草はやめること。⑦遊興はやめること。⑧この日に節約した金は必ず貯金すること。など8項目を決めた。 (写真)京都の大丸百貨店入口の看板。自粛で食堂・喫茶店は休業した。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
|
1939年
昭和14年9/3 | イギリス・フランス両国政府、ドイツに対し宣戦布告 
●日本政府、欧州の交戦諸国に対し、中国の日本軍占領地域からの船舶・軍隊引き揚げを勧告(13日完了)
●大本営、関東軍司令官に、ノモンハン方面の攻勢作戦中止とハルハ河係争地域外への兵力隔離を発令。
●日本政府、欧州戦争に対する方針を閣議決定、
「日本は戦争に介入せず支那事変の解決に邁進する」と声明。 (新聞)昭和14年9/4の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1939年
昭和14年9/15 | モスクワで、ノモンハン事件停戦協定に調印 ●東郷茂徳駐ソ大使とモロトフソ連外務人民委員がモスクワで調印した。 |
1939年
昭和14年9/19 | 9/18現在の物価・賃金を凍結 ●阿部信行内閣は国家総動員法の6条・11条・19条を発動して、国内のすべての価格を、9/18現在の価格から引き上げることを禁止すると閣議決定し、発表した。 |
1939年
昭和14年9/23 | 商工省、石油配給統制規則公布施行 |
1939年
昭和14年9/23 | 大本営、支那派遣軍の戦闘序列改定を発令 ●従来の北支那方面軍と中支那派遣軍を統合して創設された総軍で、支那派遣軍。総司令官を西尾寿造大将、総参謀長板垣征四郎中将。総司令部を南京に置き、北支那方面軍、華中の第11軍、第13軍、華南の第21軍を統一指揮した。兵力は85万人。
●10/1総司令部を南京に設置し、西尾寿造総司令官は、中国民衆に「新支那」建設協力を呼びかける声明を出す。 |
1939年
昭和14年9/27 | ポーランド首都ワルシャワ、ドイツ軍によって陥落 |
1939年
昭和14年9/28 | 中等学校の入試、学科試験を廃止 ●文部省は、学科試験を廃止し、内申書、口頭試問、身体検査とすることを各府県に通牒。 |
1939年
昭和14年9/30 | 「結婚十訓」を発表。「産めよ殖やせよ国のため」 ●これは、下記の内容のもので、厚生省予防局民族衛生研究会が、優生結婚座談会の席で、結婚する人々への指導となる「結婚十訓」を発表したもの。
①一生の伴侶に信頼できる人を選べ。②心身ともに健康な人を選べ。③悪い遺伝のない人を選べ。④盲目的な結婚を避けよ。⑤近親結婚はなるべく避けよ。⑥晩婚を避けよ。⑦迷信や因習にとらわれるな。⑧父母長上の指導を受けて熟慮断行せよ。⑨式は質素に届けは当日に。⑩産めよ殖やせよ国のため。 |
1939年
昭和14年10/1 | 厚生省「体力章検定制度」を実施 ●これは、15歳~25歳男子に義務づけたもので、昭和13年1月に発足した厚生省が、男子の青少年の基礎的総合体力の向上をはかることを目的とした。この制度はドイツやソ連の制度を参考にしたもので、初の体力章検定が10/1に行われた。
●検定種目は、「走」(100,2000メートル)、「跳」(走幅跳び)、「投」(手榴弾投げ)、「運搬」(50メートル)、「懸垂」の5つだった。
|
1939年
昭和14年10/3 | 閣議、貿易省設置要綱を決定 ●これは、貿易統制を有効に行うために、外務省、商工省、大蔵省などに分れていた職務を一元化するため、貿易省を新設しようとしたものである。これにより外務省通商局は移管されることとなり、強硬に反対してきた松島通商局長は辞意を表明した。通商局の動揺は深刻で、通商局の事務官ならびに各課長は連袂辞職(れんべいじしょく=大勢が一緒に辞職すること)するとみられていた。
●ところが10/11、外務省の全課長、全事務官ら110数人が貿易省設置に反対し、一斉に辞表を提出した。さらに谷外務次官、栗原スイス公使も辞表を提出し、大紛争となったのである。
●10/13閣議は、円満解決の方針のもと、要綱を再検討することで譲歩した。
|
1939年
昭和14年10/14 | 陸軍省、軍中央部の人事異動発表 ●陸軍次官に阿南惟幾(あなみ-これちか)中将がなる。 |
1939年
昭和14年10/16 | 大本営、南寧攻略作戦を支那派遣軍に発令 ●これは援蒋ルートのひとつである南寧―竜州間の補給路遮断が目的だった。このフランス領インドシナ・ルートは、ハイフォン港からハノイを経て雲南省昆明に至る滇越鉄道(雲南鉄道)と、ハノイから分かれて広西省南寧に出る2つの路線からなる。 |
1939年
昭和14年10/18 | 価格統制令、公布 ●地代家賃統制令・賃金臨時措置令・会社職員給与臨時措置令などを公布。(20日施行) |
1939年
昭和14年10/18 | 電力調整令・軍需品工場事業場検査令各公布 ●この電力調整令は、電力不足を解消するため、電力消費・供給・生産についての命令を規定した勅令(国家総動員法第8条に基づく)。この目的は、一般及び平和産業の消費を抑え、軍需産業を優先するためのもので、電力の国家管理をさらに強めた。 |
1939年
昭和14年10/21 | 北海道三菱鉱業手稲鉱山で朝鮮人ストライキ決行 ●強制連行・過酷労働に抵抗し、朝鮮人労働者293人がストライキを決行した。 |
1939年
昭和14年11/4 | 野村外相とグルー駐日アメリカ大使第1回会談 ●11/5の朝日新聞によれば、グルー駐日大使はアメリカの見解を書面にて野村外相に手交したとある。その内容は、「・・帝国政府の見解とは相当に隔たりがあり、アメリカは、依然9カ国条約の旧体制を尊重し、東亜新秩序の建設に対して否定的態度をとり、在支米国権益の尊重を高唱したようである」とある。 |
1939年
昭和14年11/4 | ルーズベルト大統領、新中立法に署名、発効。 ●アメリカはこれにより、武器禁輸を撤廃し、交戦国への武器の現金販売を許可した。
●各国の反響は、11/5の朝日新聞によれば下記のようである。
(イギリス)英国朝野は、米国の新中立法成立を双手を挙げて歓迎し、武器禁輸条項が廃棄された結果、米国は今や英仏両国の兵器庫となったといって喜んでいる・・。
(フランス)・・フランスでは、米国の新中立法成立を以て英仏側の大勝利と見て之を歓迎しているが、フランス政府は早くも3日の国務会議で、長時間に亙り武器禁輸条項解除後の軍需器材、特に飛行機の購入に関する見通しにつき検討を加え・・。
(ドイツ)ドイツ外務省スポークスマンは記者団に対し次のように語った。「我々はこの新事態発展の重要性を過小に評価するものではないが、ドイツとしてはこの事あるは既に予期していたところであり且対策も十分考慮されている。」
|
1939年
昭和14年11/6 | 米穀配給統制応急措置令公布施行 ●これは別名「米穀強制買上令」とも呼ばれた。同日、買入標準最高価格を玄米一石当たり43円に引き上げて主食の確保をはかった。直接の要因は、朝鮮と西日本の干ばつによる米の不足だったが、長引く中国との戦争に備えて主食を節約することが目的だった。
●12月には白米が禁止となる。 |
1939年
昭和14年11/10 | 岩手県松尾鉱山で落盤事故発生 ●11/10午後3時35分、国内有数の硫黄採掘場である岩手県松尾鉱山で落盤事故が発生した。入坑者246人のうち144人が生き埋めになり、落盤と亜硫酸ガスのため、死者73人、重軽傷59人、行方不明12人の大惨事となった。 |
1939年
昭和14年11/15 | 第5師団、南寧攻略作戦を開始 ●第5師団は、広西省欽州湾に上陸し、南寧作戦を開始する。11/24南寧占領、援蒋ルートを封鎖する。
だが中国軍は新たに百色・昆明ルートを開拓した。 |
1939年
昭和14年11/30 | 野村外相、アンリ駐日仏大使に申し入れを行う。 ●この内容は、仏印経由の蒋介石政権への援助の停止と軍事監視団のハノイ派遣などである。 |
1939年
昭和14年11/30 | バンコクで日泰(タイ)定期航空協定調停 ●昭和15年6月、東京-バンコク間定期運航開始。初の国際航空協定。 |
1939年
昭和14年11/30 | ソ連、フィンランドに攻撃開始する ●首都ヘルシンキを空襲し、フィンランドはソ連に宣戦布告した。 |
1939年
昭和14年12/1 | 「白米禁止令」施行 ●これは「米穀搗精(とうせい)等制限令」のことで、米を精米のために搗(つ)く際の制限の意味であった。この日から米は、七分搗(づ)き以下に制限され、白米は禁止された。主食も戦時体制となったのである。
●一方米の生産体制はどうかといえば、肝心の農村労働力は、昭和14年8月から19年2月までに推計153万人の男女が軍あるいは他産業に流出した(農林省調査)。また加里肥料(=カリ肥料とは、肥料に欠かせない塩化カリウム,硫酸カリウムを主成分とする)は、昭和14年の生産高16万3000トンが16年には4万8000トンと減り、硫安をはじめ化学肥料工場は、爆薬製造工場に転換させられていった。
また昭和11年から農村電化が国の音頭で始まっていて、稲の脱穀等に使われていた電動モーターは、昭和10年に全国で4万7138台、石油発動機は全国で9万6353台使われていた。だが石油発動機の製造は軍用の上陸用船艇などのエンジンに向けられ、農業用は中止された。 |
1939年
昭和14年12/6 | 小作料統制令公布 ●価格等統制令を小作料に適用する勅令。9/18現在の水準で、物納小作料を規制(12/12施行)した。これは小作料の引き下げと地主支配へ制限を加えることを意図したもの。 |
1939年
昭和14年12/20 | 陸軍、軍備充実4ヶ年計画を策定上奏 ●昭和18年度までに地上65個師団、航空160個中隊を整備するというもの。 |
1939年
昭和14年12/22 | 野村・グルー米大使4回目の会談 ●グルー米大使、日米新通商航海条約または暫定取り決め締結を拒否する。
(12/18の第3回会談で野村外相は、揚子江(昭和12年11月以来封鎖している)の一部開放を言明した。) |
1939年(昭和14年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化 「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1.4 近衛内閣総辞職
1.5 平沼騏一郎内閣成立,近衛文麿,無任所大臣に新任
1.6 ドイツが三国同盟を正式に提議
1.7 企画院・大蔵・商工・陸海軍・宮内省などの進歩分子検挙(企画院事件) 

1.7 国民職業能力申告令公布(20日施行)
1.15 東京新橋・渋谷間地下鉄開通
1.15 横綱双葉山,安芸ノ海に敗れ69連勝にとどまる
1.25 警防団令公布(4月1日施行)
1.29 平賀譲東大総長,河合栄治郎・土方成美教授処分上申,休職反対の13教授辞表提出
1.30 船員職業能力申告令公布施行
2.2 伊63号潜水艦,豊後水道で僚艦と衝突して沈没,死者81人
2.7 対満事務局,昭和11~13年の対満投資額合計130億円と発表
2.9 社会大衆党と東方会の両党首脳部,合同を申し合わせ新党結党の共同声明発表,22日に新党結成中止の共同声明
2.10 陸海軍,海南島に敵前上陸
2.16 商工省,鉄製不急品の回収を始める
2.23 理化学研究所に原子核実験の世界一のサイクロトロンを設置
2.26 駐米大使斎藤博,ワ・シントンで客死
2.27 英仏,フランコ政権を承認
3.1 枚方陸軍火薬庫爆発,死者42,重傷90余人
3.15 各地の招魂社を護国神社と改称
3.15 ドイツ,ボヘミア・モラビアを占領して併合,チェコスロバキア国家解体
3.23 ドイツ,リトアニアのメーメル地方を併合
2.25 軍用資源秘密保護法公布(6月26日施行)
3.25 肥料配給統制規則公布施行
3.27 日本放送協会技術研究所,国産テレビジョン実験放送に成功
3.27 日本軍,南昌を占領
3.28 スペイン内戦でマドリード陥落
3.31 砂糖・清酒・ビール・木炭・絹織物などの公定価格を決定
3.30 大学の軍事教練,必須科目となる
3.31 賃金統制令公布(4月10日,外地8月1日施行)
4.1 米,フランコ政権を承認
4.1 会社利益配当および資金融通令・同施行細則公布(4月10日施行)
4.1 日本発送電会社設立
4.1 名古屋帝国大学開設
4.5 映画法公布(10月1日施行)初夕文化立法,製作本数の制限・製作(許可制・シナリオの事前検閲制(20年廃止)
4.6 船員保険法公布
4.7 伊軍,アルバニア占領
4.8 宗教団体法公布
4.12 米穀配給統制法公布(10月1日施行)
4.17 米の故斎藤博遺骨礼送艦,横浜に入港
4.26 満蒙開拓「鍬の戦士」10万人の第1期計画,農村青年6000人・学生3000人
4.26 青年学校義務制となる(20年廃止)
4.28 独,独英海軍協定と独ポーランド不侵略条約破棄を声明
4.30 政友会総裁に中島知久平就任,党内分裂
5.5 閣議で物価統制大綱承認,挙国協力要望の平沼首相談発表
5.12 ソ満国境ノモンハンで日ソ両軍大衝突(ノモンハン事件)
5.12 政友会正統派,久原房之助を総裁に推戴,総裁2人出現
5.22 独伊軍事同盟締結
5.22 全国の学生生徒代表3万2500人,教練の服装で皇居前に参集,天皇の親閲を受け,東京市内行進
5.22 天皇,青少年学徒に勅語を下賜
5.22 結核予防会創立
5.28 ノモンハンで東支隊全滅
6.6 各学校あて「修文練武」を訓令
6.6 天津事件おこる
6.10 警視庁,待合・料理屋などの午前零時以後の営業を禁止
6.14 日本軍,天津英仏租界の封鎖断行
6.16 ソ華新通商協定成立
6.16 国民精神総動員小委員会,遊興営業の時間短縮・ネオン全廃・中元歳暮の贈答廃止・学生の長髪禁止・女子のパーマネント禁止の生活刷新案を決定
6.17 藤原工業大学開校
6.21 日本軍,汕頭を占領
6.27 日本軍,温州・福州を占領
6.27 ソ満国境ボイル湖上で日ソ空中戦
6.~ 法隆寺壁両保存委員会発足,壁画模写はじまる
7.1 東京芝浦電気会社設立(東京電気と芝浦製作所合併)
7.8 関東軍,ノロ高地を占領(9日両軍激戦)
7.8 国民徴用令公布(15日施行,自紙の召集令状といわれる)
7.15 東京で有田・クレーギー日英会談開始
7.17 5相会議でノモンハン事件不拡大方針を決定
7.23 ノモンハンにソ蒙軍大部隊逆襲,空陸に大激戦
7.25 日本米穀株式会社設立
7.26 米国,6ヵ月の予告をもって日米通商航海条約廃棄を駐米参事官に通告
7.29 日独貿易協定仮調印
8.15 東京市,隣組回覧板10万枚を配布,毎月2回発行となる
8.16 文部省,休日・土曜午後を除く学生の競技試合を禁止
8.20 第25回全国中等野球大会に海草中学優勝
8.20 外蒙国境ハルハ河畔に日ソ両軍3度衝突,日本軍惨敗
8.21 日英東京会談決裂
8.23 独ソ不可侵条約,モスクワで調印
8.24 石炭不足などで電力ききん,全国に電力供給制限断行
8.25 閣議,3国同盟交渉打ち切りを決定
8.25 イギリス・ポーランド相互援助条約署名
8.26 世界一周国産機「ニッポン」号(96式陸攻)羽田出発(10月20日成功帰着)
8.28 独ソ不可侵条約の公表に「複雑怪奇」の言葉を残して平沼内閣総辞職
8.30 陸軍大将阿部信行内閣成立
9.1 蒙古連合自治政府,張家口に成立(主席徳王)
9.1 独軍,ポーランド進駐
9.1 「興亜奉公日」制定
9.3 英・仏がドイツに対し宣戦布告,豪州・エジプトも対独宣戦(第2次世界大戦ぼっ発)
9.4 政府,欧州戦争に介入せずと宣言
9.7 作家泉鏡花(本名泉鏡太郎)死去
9.8 独軍,ワルシャワに突入
9.15 東郷・モロトフ会談でノモンハン事件停戦協定成立
9.17 ソ連,ポーランド進撃開始
9.18 独ソ間ポーランド分割協定成立
9.19 閣議で9 ・18停止価格決定(物価・運賃・賃金に関し昭和14年9月18日の水準を超える引き上げを禁止)
9.21 汪兆銘が新中央政権樹立を声明
9.25 野村吉三郎が外相に就任
9.27 ワルシャワ陥落
9.28 文部省,中等学校の入試に筆記をやめるよう通達
10.1 厚生省,体力章検定を実施(15~25歳の男子に義務化)
10.1 石油,配給制となる
10.20 物価統制令実施(諸物価・運賃・賃金など14年9月18口の水準にくぎづけ),地代家賃統制令実施
10.20 電力調整令を実施
10.25 大蔵省,為替基準をポンドからドルに変更
11.4 対米国交調整のため日米東京会談はじまる
11.4 米,新中立法(交戦国に武器販売許可)成立
11.6 米穀配給統制応急措置令公布(米穀強制買い上げ制)
11.8 ミュンヘンでヒトラー暗殺未遂事件
11.10 岩手県松尾鉱山で陥没事件
11.11 兵役法施行令改正公布実施,第3乙種設定・短期現役制廃止
11.13 木造建築許可制となる
11.24 日本軍,南寧占領
11.28 中央物価統制協力会議を結成
11.30 ソ連,フィンランドと開戦
12.1 白米禁止令実施(米穀搗精制限)
12.6 小作料統制令施行,14年1月18日の水準にくぎづけ
12.8 興亜院会議,東亜新秩序の答申案決定
12.12 軍機保護法改正でビル屋上や高台から見下ろした写真の撮影禁止
12.14 国際連盟,ソ連を除名
12.17 独豆戦艦シュペー号,南米ウルグアイ沖で自爆
12.20 総動員物資使用収用令実施
12.25 木炭,配給統制となる
12.26 第75帝国議会開会
12.30 中国汪兆銘側と日華協議書類作成
12.~ 百貨店,歳末大売り出しを廃止 
|