1942年(昭和17年)②日本軍、マニラ、シンガポール、ラングーン、バンドン占領。

第2次世界大戦

帝国陸軍、勝利に隠された捕虜虐待と処刑、華僑虐殺。フィリピン、シンガポール、インドネシア。
●この②では、1942年(昭和17年)の5月頃までを記述した。開戦以来わずか半年で日本軍は広大な地域を占領した。特に日本は、蘭印と英領ボルネオを占領したことで、蘭印で産出される南方原油(スマトラ・ジャワ・ボルネオ)の40%に当たる167万キロリットル(昭和17年度)を確保し、本土に輸送することができた。
 前年の昭和16年8月、日本は各国による石油の禁輸処置により、石油の輸入が完全に停止した。この時の日本の貯油量は940万キロリットルと推定された。そしてこの蘭印の占領により、日本は石油を確保できたかに思われた。しかし、この南方原油の輸送量は平時の需要には十分だが、戦時での広大な戦線を維持するにはまだ不十分であった。
●一方日本軍はこの勝利の陰で占領地域の数多くの一般民衆に対して、強制労働、虐待を行い、特に敵性と思われる住民に対しては、無差別な虐殺を行っていた。また捕虜に対しても強制労働、虐待を行い、即決処刑も行っていた。特にアメリカは、自国の捕虜に対する虐待、処刑について敏感で、日本に対する憎悪を募らせていった。
 1945年7/26、アメリカ・イギリス・中国はポツダム宣言を発表した。その第10条には次のようにある。戦争中より捕虜虐待の情報は連合国に伝わっており、連合国は繰り返し日本に抗議していたのである。

(ポツダム宣言の第10条)
10、吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非(あら)ざるも、吾等の俘虜(ふりょ=捕虜)を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加えらるべし。日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(しょうげ=障害)を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし。

●日本軍は、1941年11/13の大本営政府連絡会議で決定した「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」(以下に引用)に基づき、軍事行動をおこした。だが、「米英蘭の根拠を覆滅」し「蔣政権の屈服を促進」する目的だからといって、アジアの民衆に対する残虐行為が許されるわけではない。日本はアジアの民衆に対して、償いきれない程の加害責任を負ったのである。

「方針」
一 速(すみやか)に極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に、更に積極的措置に依り蔣政権の屈服を促進し、独伊と提携して先づ英の屈伏を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。
「要領」

下

(上写真)シンガポール陥落:白旗と英国旗を肩に降伏申し入れに向かうイギリス軍軍師。1942年2月15日 影山光洋(朝日新聞社)シンガポール(出典)「目撃者」朝日新聞社1999年刊

目次
昭和17年主要項目
★1942年(昭和17年)1月~5月フィリピンの戦い1942年(昭和17年)1/2、日本軍(第14軍司令官本間雅晴中将)は、フィリピン、マニラ市を占領した。
4月、日本軍は第2次バターン攻撃を行い、米比軍は降伏した(捕虜約7万人)。そして「バターン死の行進」を起こす。
★1942年(昭和17年)2/15、日本軍、英領マレー・シンガポール占領第25軍司令官山下奉文中将は、イギリス軍総司令官パーシバル中将と会談、イギリス軍は無条件降伏した。この時連合軍(英・印・豪)捕虜は約10万人といわれ、イギリス軍は英国史上最も不名誉で、最も多数の捕虜を出した降伏となった。 そして日本軍は、もっとも激しく日本軍に抵抗した抗日結社・抗日華僑を無差別に摘発逮捕し処刑した。
 1942年6月大本営は南方軍に鉄道建設(泰緬《=たいめん》鉄道)を示達し、その建設のため捕虜約6万5千人、アジア人労働者約20万人(一説では30万人)を動員し、捕虜約1万2千人、労働者7万4千人(日本側推定4万2千人)を死亡させた。これが「泰緬鉄道捕虜虐待事件」である。
★1942年(昭和17年)3/8、日本軍、ビルマ・ラングーンを占領日本軍(第15軍司令官飯田祥二郎中将)の最大目的は、英米が中華民国政府(蔣介石)に支援物資を送る「援蔣ルート」を遮断することだった。日本軍は3月にラングーンを占領、5月末にはビルマ全土を占領した。
 この日本軍には、ビルマ独立義勇軍(リーダー格アウンサン将軍=アウンサンスーチーの父親)が同行した。日本軍は、ビルマの独立運動、加えてインドの独立も支援しようとした。最初は日本軍も解放軍と見なされたのである。
★1942年(昭和17年)3/9、オランダ領ジャワ島バンドン占領日本軍(第16軍司令官今村均中将)は、蘭印占領時に最大目的である製油施設が破壊されることを防ぐため、陸軍落下傘部隊によるバレンバン奇襲攻撃(2/14)を行い成功した。
 今村司令官は、蘭印占領後インドネシア独立運動家スカルノ(初代大統領)らを監獄から釈放し、「温情を基調とした開放的軍政」を行った。
 だが一方この日本軍の蘭印(インドネシア)占領により、オランダ人計約13万人が日本軍の収容所に抑留された。さらに現地日本軍は1944年2月、「スマラン慰安所事件」を起こす。
 さらに日本軍は、インドネシアでも現地民衆に対して油田、道路工事、飛行場建設、鉱山での強制徴用を行った。日本は占領した地域を食い物にしたのである。
★国内政治・社会年表
1942年(昭和17年)1月~5月頃まで。

東条英機内閣
一方アメリカは、1942年2/19、大統領令9066号を発令した。これによりアメリカ西海岸を中心に、居住する日系アメリカ人と日本人移民約12万人が、強制収容所に収容された。「ジャップ」に対する差別と追放である。
 さらにアメリカは、4/18、太平洋上の空母から陸軍爆撃機を飛ばし、東京・名古屋・神戸を爆撃した。この東京初空襲は、政府・陸・海軍当局に衝撃を与えた。そして日本軍は、この爆撃機の搭乗員で、中国で捕らえられたアメリカ人8人の内3名を処刑した。この捕虜に対する処刑によって、アメリカ一般市民は日本人に対する憎悪をさらに募らせた。

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★1942年(昭和17年)1月~5月フィリピンの戦い

フィリピン攻略戦

●日本軍の南方作戦はハワイ作戦より重要で、ハワイ真珠湾攻撃は南方作戦を支援するために行われた。この作戦は全体を「あ号作戦」といい、海軍では「第1段作戦」と呼称した。戦略目標は、フィリピン、マレー、ジャワを柱として、最終目的は蘭印ジャワの石油資源を獲得することだった。
このため日本軍は、開戦と同時に比島(フィリピン諸島)各所にあるアメリカ軍航空基地(制空権)とアメリカ海軍の最大基地キャビデ軍港(制海権)を壊滅させ、その後に上陸作戦を開始することが重要だった。もしそれが失敗すれば、台湾にある日本軍の航空基地は攻撃を受け、上陸部隊も攻撃にさらされるからである。
●この航空撃滅戦は、海軍第11航空艦隊(司令長官・塚原二四三中将、台湾に基地)が中心となり、12/8から全力攻撃を中部ルソン島の航空基地(クラーク、イバ飛行場)に集中して開始した。その後攻撃を続け、12日にはルソン島全土の航空基地に対して全力攻撃を行った。反撃する敵機は減少し、航空撃滅戦は13日には完了と判断された。
●1942年(昭和17年)1/2、日本軍(第14軍司令官本間雅晴中将)は、フィリピン、マニラ市を占領した。前年12/27、マッカーサー米極東陸軍総司令官は、総司令部をコレヒドール島へ移し、マニラ市を「非武装都市」と宣言、米比軍のバターン半島への撤退を命令した。
4月、日本軍は第2次バターン攻撃を行い、米比軍は降伏した(捕虜約7万人)。そして捕虜たちを100km以上離れたサンフェルナンドまで、水も食料も与えず歩かせた。これが「バターン死の行進」で、1200人のアメリカ兵と1万6000人のフィリピン兵が死亡した。この時、大本営参謀として現地出張をしていたあの「辻政信中佐」が、大本営命令を騙り、「捕虜は射殺せよ」と命令し、実行した部隊も拒否した部隊もあったといわれる。この2年後アメリカは、この「バターン死の行進」を行った残虐な日本人に対し憎悪を募らせ、復讐を誓うのである。

フィリピン攻略戦(1942年1月~)
月日内容
1/2第14軍(司令官・本間雅晴中将)マニラ市を占領。アメリカ軍、マニラ市を「非武装都市」と宣言、米比軍はバターン半島へ撤退した。
1/9第14軍第65旅団、ヘルモサ付近からバターン半島攻撃を開始する(第1次攻略作戦)。米比軍を最初に攻撃したのは第48師団だったが、この師団は予定に従って第16軍(蘭印攻略・司令官今村均中将)に編成替えになった。代わった第65旅団はもともと占領後のルソン島を警備するために上陸した部隊だった。そのため、この第1次攻撃は困難を極め、失敗に終わった。
1/22第14軍、バターン半島攻撃を再開するが、航空援助の欠如、兵力の転出などで損害が大きく、2/8に攻撃を中止した。
2/22アメリカ大統領、マッカーサー大将に、連合軍西南太平洋方面司令官就任のためフィリピン脱出を命令。
3/11マッカーサー大将、魚雷艇で幕僚らとフィリピンのコレヒドール島を脱出する。
3/17マッカーサー大将、ケソン大統領と共に飛行機でオーストラリアのダ―ウインに着いた。その時記者団に語った言葉が「I Shall Return」である。
3/24陸・海軍航空部隊、共同でフィリピン、コレヒドール島要塞の爆撃を開始。
3/29フィリピン、ルソン島の森林地帯で抗日人民軍(フクバラハップ)結成。
抗日人民軍(フクバラハップ)

フクバラハップとは、抗日人民軍を意味するタガログ語名の略称。フィリピン共産党の指導で、3月29日ルソン島カビヤオで結成された。総司令官はルイス・タルクで、農民を中心に労働者・知識人も加わり、日本軍追放と地主制打倒を目指した。このフクバラハップは最大の抗日ゲリラ組織で中部ルソンを自力で解放した。戦後は米軍や政府軍と対決し、勢力を失った。
(出典)「昭和2万日の全記録」1990年講談社刊

4/3第14軍、マニラ、ルソン島のバターン半島への第2次総攻撃開始。
4/9フィリピン、バターン半島の米比軍、第14軍に降伏する。
4/10第14軍川口支隊、フィリピンのセブ島に上陸。
4/19マッカーサー陸軍大将、連合軍西南太平洋方面司令官に就任する。
5/7第14軍第4師団、マニラ湾のコレヒドール島の一部占領。マッカーサーの後任の米軍司令官ウエンライト中将は、全米比軍の無条件降伏を受け入れ、降伏文書に調印した。
「ユサッフェ・ゲリラ」の抵抗と民衆への報復

●ユサッフェというのはUSSAFFEといいアメリカ極東軍のことである。フィリピンでは、日本軍による占領直後から、各島で生き残ったアメリカ軍将兵を指導者に、激しいゲリラ戦が起こった。またアメリカも彼らを秘密裏に援助した。彼らは、駐留アメリカ軍とフィリピン防衛軍が合同した「ユサッフェ」を名乗り、日本軍に対する抵抗の証としたのである。戦後のマルコス大統領も、ルソン島で5~6000人を率いるゲリラのリーダーだった。
●フィリピンでは民衆の日本軍に対する反感が強く、特に米軍が上陸(1944年)してからのゲリラ活動は強力に行われた。このため日本軍は住民を敵視し、村民を皆殺しにするという暴虐が相次いだ。さらに米軍の進攻によって、日本軍は山岳地帯を敗走し、略奪や住民への残虐行為が数多く行われた。フィリピンで日本軍は50万人近い戦死者を出し、生き残ったのは10万人あまりにすぎなかったが、日本軍によるフィリピン民衆に対する残虐行為もすさまじいものだった。フィリピン人は、日本人のことを「ワランヒア」と呼んだ。「恥を知れ」という意味である。敗戦後の昭和20年(1945年)9/16朝日新聞紙面には、「比島日本兵の暴状」と題された報道記事が掲載された。

バターン死の行進

●当時第14軍の司令官・本間雅晴中将は、フィリピン攻略作戦の遅延の責任を取らされ、すでに1942年8月から予備役に編入されていた。しかし敗戦後の1946年1月、アメリカ軍(軍事委員会)によるフィリピン・マニラにおけるBC級戦犯裁判でこの行進の責任を問われた。そして1946年2月死刑判決を受け、4月3日銃殺刑に処された。(軍人として名誉を重んじられた銃殺刑だった。)(出典)「よみがえる第2次世界大戦(カラー化された白黒フィルム)第2巻日米開戦」NHKエンタープライズ2009年。
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★1942年(昭和17年)2/15、日本軍、英領マレー・シンガポール占領

マレー・シンガポール作戦

第25軍司令官山下奉文中将は、投降したイギリス軍総司令官パーシバル中将と会談、イギリス軍は無条件降伏した。この時連合軍(英・印・豪)捕虜は約10万人といわれ、イギリス軍は英国史上最も不名誉で、最も多数の捕虜を出した降伏となった。
 そして日本軍はシンガポール占領後、もっとも激しく日本軍に抵抗した抗日結社・抗日華僑を無差別に摘発逮捕し処刑した。この虐殺命令の立案者はあの軍参謀「辻政信中佐」であり、常軌を逸した憲兵隊に対する現地指導により、この虐殺は行われた。(シンガポール華僑粛清事件)
 そして1942年6月大本営は南方軍に鉄道建設(泰緬鉄道)を示達した。日本軍は、建設のためイギリス、オーストラリアなどの捕虜約6万5千人、アジア人労働者約20万人(一説では30万人)を動員し、捕虜約1万2千人、労働者7万4千人(日本側推定4万2千人)を死亡させた。これが「泰緬鉄道捕虜虐待事件」で、24件の関連する戦犯事件を引き起こした。この労働者(労務者)は蘭印(インドネシア)からも強制動員された。

マレー・シンガポール作戦
月日内容
1/11第5師団第11連隊、マレー半島クアラルンプールに侵入。英軍が撤退していたため無血占領。
1/31第25軍、マレー半島ジョホールバルに進出。
2/8第25軍、シンガポール総攻撃開始(9日午前0時ジョホール水道渡江開始、0時10分上陸)。
2/11第25軍第5・第18師団、シンガポール島中央ブキテマ高地占領。
2/15第25軍、シンガポール占領。山下奉文司令官、英軍総司令官パーシバル中将と会談、降伏を確認。米英豪軍の捕虜約10万人。
2/17大本営、シンガポール島を「昭南島」に改称すると発表。
2/21マレー縦貫鉄道のバンコクー昭南(シンガポール)間約3000km全線の復旧がなり、この日開通式。
3/3昭南島(シンガポール)の抗日結社・抗日華僑摘発(2/27~)で、この日までに7万699人検挙される。

マレー半島を進軍する日本軍

●マレー半島を進軍する日本軍。戦車隊、工兵部隊、銀輪部隊の映像。
(映像出典)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作。
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第25軍(司令官・山下奉文)がシンガポールを占領

●下は、山下奉文第25軍司令官とイギリス軍総司令官パーシバル中将との降伏会談の映像と、山下司令官が自動車で降伏した10万人のイギリス軍兵士を閲兵する映像である。降伏会談での有名な「イエスかノーか?」は、山下司令官が下手な通訳に対して確認した発言だった、とも言われる(講談社「昭和ニッポン」第1巻)。(映像出典)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作。
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シンガポール血債の塔(シンガポール華僑粛清事件)

●シンガポールの戦争記念公園内に「日本占領時期死難人民記念碑(=血債の塔)」がある。血債とは、中国語で「人民を殺害した罪、血の負債」という意味で、日本軍による虐殺の犠牲となった人々の慰霊碑である。
●当時シンガポールの人口の8割を華僑が占めていた。彼らは日本の中国侵略に対して祖国支援運動を行っていたことから、日本軍は彼らを反日的であるとみなした。
写真は「Google street view」から切り取ったもの。この事件(イギリス軍によるBC級戦犯裁判)の概要は以下の通りである。(「BC級戦犯裁判」林 博史著 2005年岩波書店刊より要約)

下

「泰緬鉄道捕虜虐待事件」

●泰緬(たいめん)鉄道というのは、タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤまでの415kmを結ぶ鉄道で、大本営がビルマ駐留軍への補給ルート確保のために建設を計画したものである。だがこの地域は、熱帯の山岳地帯のジャングルで、かつマラリアなど疫病の多発地帯でもあった。作業は困難を極め、加えて劣悪な宿舎や貧困な食料・医薬品などにより、多くが犠牲となり、現在でもこの鉄道は「死の鉄道」の名で知られている。1942年6月大本営は南方軍に鉄道建設を示達、工事は1942年11月から始まり、翌1943年10月に完成した。
●日本軍がこの建設のために強制動員したのは、イギリス、オーストラリアなどの捕虜約6万5000人、アジア人労働者約20万人(30万人という説もあり)で、工事期間中に捕虜約1万2000人が死亡、アジア人労働者も7万4000人(イギリス側推定、日本側推定4万2000人)が死亡したといわれる。死亡原因のほとんどが栄養失調による脚気やコレラ、赤痢、マラリアなどの疫病だった。
上地図は、1984年の地図に泰緬鉄道と関連する地名を書き込んだイメージ図である。概ね縦横共に500Kmであるが、正確なものではない。星野作成(地図出典)「世界大地図帳」平凡社1984年刊

下

★1942年(昭和17年)3/8、日本軍、ビルマ・ラングーンを占領

ビルマ侵攻


●日本軍(第15軍司令官飯田祥二郎中将)の最大目的は、英米が中華民国政府(蔣介石)に支援物資を送る「援蔣ルート」の遮断だった。日本軍は3月にラングーンを占領、5月末にはビルマ全土を占領した。日本軍はイギリス軍をインドへ、またアメリカ軍のスティルウェル中将が指揮する約10万の中国軍を、雲南省やインドへ追いやった。
 この日本軍には、ビルマ独立義勇軍(リーダー格アウンサン将軍=アウンサンスーチーの父親)が同行した。日本軍は、ビルマの独立運動を支援することでイギリスを孤立させ、さらにインドの独立も支援しようとした。日本軍は解放軍と見なされたのである。
●だがイギリスとアメリカは、中国支援をあきらめず、1942年4月からインド東部からヒマラヤ山脈を越える輸送機による空輸(ハンプ空輸)を開始した。だがこの空輸は困難を極め、アメリカは新たな陸路の建設を始めた。それが「レド公路」である。
●上地図は、1984年の地図にビルマ攻略作戦の主要地点を記入したイメージ図である。星野作成(地図出典)「世界大地図帳」平凡社1984年刊
●下写真は、4/17、ビルマのエナンジョン油田を奇襲する第33師団の佐間連隊。同油田の南方40kmにあるマグエとの同時攻略で奇襲に成功。ほとんど無傷で確保した。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1990年刊。

陸軍主力戦闘機「隼」

●映像は3/8ビルマ首都ラングーン入城シーンとビルマでも活躍した陸軍の一式戦闘機「隼」と陸軍の「九九式双軽爆撃機」。(陸軍の主力重爆「九七式重爆撃機」かもしれない。星野)(出典)「戦記映画・陸軍戦記映画(ビルマ編)」1943年日本映画社製作
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ3.41MB、1分14秒)

★1942年(昭和17年)3/9、オランダ領ジャワ島バンドン占領

インドネシア攻略

日本軍(第16軍司令官今村均中将)は、オランダ領東インド(蘭印)各地に分散上陸し、要所を占領した。そしてそのあとオランダ軍約8万(そのうち米豪軍約1万5千)のいるジャワ島を攻略した。だがオランダ軍はバンドン要塞であっけなく降伏した。この大きな要因となったのは、日本軍が解放軍とみなされ、インドネシア人が独立運動家を中心に日本軍に協力したことにあったといわれる。
 日本軍は、蘭印占領時に最大目的である製油施設が破壊されることを防ぐため、陸軍落下傘部隊によるバレンバン奇襲攻撃(2/14)を行い成功した。この落下傘部隊による奇襲降下作戦は、1/11セレベス島(スラウェシ島)のメナドで海軍も成功していた。
 今村司令官は、蘭印占領後インドネシア独立運動家スカルノ(初代大統領)らを監獄から釈放し、「温情を基調とした開放的軍政」を行った。だがその軍政方針は、大本営方針と対立したため、今村司令官は、1942年11月第8軍司令官としてラバウルへ転任していった。
 だが一方この日本軍の蘭印(インドネシア)占領により、オランダ人の捕虜約4万人、女性や高齢者、子供たち民間人約9万人、計約13万人が日本軍の収容所に抑留された(オランダ政府が日本政府に示した数字)。そしてそのうち約2万2千人が死亡したといわれる。さらに1944年2月、収容されていた女性35人(裁判で25人が認定)が強制連行され慰安所で売春行為をさせられた。これが「スマラン慰安所事件」であり、日本軍は「飢えと屈辱の収容所生活」を占領地でオランダ人に強いた。
●さらにインドネシアでは現地民衆に対して油田、道路工事、飛行場建設、鉱山での強制徴用が行われた。「ロームシャ(徴用される労務者)」「ケンペイ(威嚇する憲兵)」「バカヤロー(監視兵の怒鳴り声)」の言葉が戦後も長く彼らの脳裏に残されたといわれる。徴用された「ロームシャ」は日本側資料によっても300万人(インドネシア側資料400万人)にのぼり、日本は占領した地域を食い物にして、かってのイギリス人やオランダ人より現地民衆に嫌われたのである。アジアを欧米の植民地支配から解放し、「大東亜共栄圏=共に栄える東アジア」の建設するというのは、ただのお題目にすぎなかったのである。

蘭印攻略主要地点の地図(概要)

太平洋


上地図は、1984年の地図に蘭印攻略作戦の主要地点を記入したイメージ図である。またこの地図は、マウスホイールで拡大・縮小・移動ができる。この画像操作は「Wheelzoom」jsにより行っている。(地図出典)「世界大地図帳」平凡社1984年刊。星野作成

蘭印攻略作戦
月日内容
1/11海軍第1特別陸戦隊スラウェシ島(セレベス島)メナドに落下傘降下し、飛行場を占領(日本軍初の空挺作戦)。
1/12政府は、オランダ軍の米英への基地提供などの「敵対行為を破砕する」として、対蘭印戦闘開始を声明。
1/12蘭領ボルネオ・タラカン島守備のオランダ軍、11日に上陸した第16軍坂口支隊に降伏する。
1/20寺内寿一南方軍総司令官、第16軍(司令官今村均中将)にジャワ攻略命令を下達。
1/24海軍東方部隊の陸戦隊、スラウェシ島(セレベス島)ケンダリーに上陸、占領(27日、第21航空戦隊、同地進出)。
1/25坂口支隊、ボルネオ島のバリクパパンを占領。第16軍、同隊に同島のパンジェ(ヤ)ルマシン攻略を下命。
2/4海軍基地航空部隊、マドゥラ島東方海域で米英蘭連合艦隊を攻撃(ジャワ沖海戦)
2/9海軍東方攻略部隊、セレベス島南端部マカッサルを完全占領。マカッサル海峡南部要衝を制圧する。
2/14第16軍第1挺進団(落下傘部隊)、スマトラ島のパレンバン飛行場などに第1次降下、占領。
2/19第16軍の金村支隊、バリ島に上陸・占領。第8駆逐隊、米蘭連合艦隊と交戦(バリ島沖海戦~20日)
2/20横須賀鎮守府第3特別陸戦隊、チモール島クーパンに落下傘降下(21日第2次降下、同地飛行場占領)。
2/23ボルネオ島セリア油田の原油を内地へ輸送する第1船橘丸(旭石油所属5150トン)、ボルネオを出航する。
2/27第5艦隊などスラバヤ沖でドルーマン指揮の米英豪蘭連合艦隊と交戦(~28日未明)。スラバヤ沖海戦。
2/28第5水雷戦隊など、連合軍残存艦隊と交戦(~3/1)駆逐艦4隻残しすべて撃沈。バタビア沖海戦。
3/1第16軍第48師団・坂口支隊クラガン付近に、東海林支隊バンドン北方に、第2師団バンタム湾に上陸。
3/5第16軍第2師団バタビア占領(7日東海林支隊バンドンの一部占領、同地蘭印軍、降伏を申し出る)。
3/8第16軍、坂口支隊チラチャップを、第48師団スラバヤを占領。
3/9第16軍東海林支隊、ジャワ島のバンドン占領。蘭印軍、降伏文書に署名。
3/11南方軍、第16軍(司令官今村均中将)に、占領地の軍政実施・航空基地建設協力などを指示。
3/12近衛師団、T作戦(=スマトラ攻略作戦)を開始し北部スマトラを占領。ジャワ島の英豪軍約8000人が降伏する。
「石油部隊」、徴用された採掘・製油技術者たち

●日本国内では、昭16年9月から「石油部隊」として採掘・製油技術者たちが徴用された。彼等は陸海軍の指揮下に入れられ、戦闘部隊と行動を共にして、上陸後すぐに油田の維持と復旧にあたった。
 この南方油田の復旧に徴用された技術者は、陸軍が4919人、海軍1800人とされ、この数は日本における石油関係技術者の約70%にあたった。
●この南方作戦の成功により日本は莫大な資源を手に入れた。南方原油の日本への輸送は、昭和17年度で産油量の40%にあたる167万キロリットル、18年度は産油量の29%にあたる230万キロリットルが日本に輸送された。だが日本は、開戦時より輸送する手段にこと欠き、日本の保有するタンカーは113隻、総トン数で54万6100トンでしかなかった(現在のタンカーは1隻で20万トン~30万トン級が中心)。そのため、5/20、大本営政府連絡会議は、不足する油槽船の増強のため、既存貨物船・建造中の貨物船の油槽船への改造を行う応急処置を決めた。
 だが、昭和18年度後半から連合軍の潜水艦と航空機による攻撃により油槽船の喪失は急増し、日本本土への輸送は激減した。このため現地では、製油所のタンクが飽和状態となり、貴重なガソリンを海中に投棄する有様だったという。
(上写真)昭和17年2月15日、空から見た炎上中のパレンバン。石油タンクの破壊は、連合軍が日本側にわたすまいと計画的に行った。写真は空母龍驤の搭載機が撮影したもの。(出典)「決定版・写真太平洋戦争(第1巻)」「丸」編集部 編 潮書房光人社2015年 発行

インド洋作戦

●1942年(昭和17年)3/9、ジャワ島バンドンで蘭印総督と蘭印軍司令官が降伏し、蘭印攻略作戦は終了した。そこで連合艦隊司令長官は、南方部隊指揮官近藤信竹中将に、セイロン島奇襲作戦を命じた。この目的はセイロン島方面に健在である英艦隊を撃滅することであった。これにより開戦以来の「第1段作戦」が終了することになる。
●イギリス首相チャーチルは、その著「第2次大戦回顧録」で、この日本の連合艦隊との戦いに関して、次のように述べた。

「日本の海軍航空戦の成功と威力は真に恐るべきものだった。シャム湾ではわが第1級戦艦2隻が雷撃機によって数分間で沈められた。今はまた2隻の大切な巡洋艦が急降下爆撃というぜんぜん別な空襲のやり方によって沈められた。ドイツとイタリアの空軍を相手にしたわが地中海での戦争全部で、こんなことはただの一度も起こっていない」(出典)「決定版・写真太平洋戦争(第1巻)」「丸」編集部 編 潮書房光人社2015年 発行

機動部隊インド洋作戦

●映像で、固定脚の飛行機は、九九式艦上爆撃機で、急降下爆撃機である。映像ではイギリス空母ハーミス(ハーミーズ)がこの艦爆などによって撃沈されるシーンが映っている。(映像出典)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作
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★国内政治と社会年表。1942年(昭和17年)1月~5月頃まで。『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。

日系人と日本人移民強制収容

2/19、ルーズベルト大統領は大統領令9066号に署名した。これにより強制退去を命じられた日系人は、8月までに11万2000人にのぼった。彼らはアメリカ西海岸から砂漠地帯や荒れ地に作られた有刺鉄線に囲まれた「再居住センター=強制収容所」に収容され、財産の大半を失った。この日系人に対する強制処置は、差別意識と、真珠湾攻撃に対する復讐心から行われた。そしてこの日系人達が開放されたのは、1945年の日本敗戦後から1ヶ月後のことだった。
●また日系アメリカ人はこぞって軍に志願した。そしてアメリカ人としての名誉と誇りのために、勇猛な「日系人部隊」となってヨーロッパ戦線で活躍した。
※1988年、アメリカ大統領はこの日系人強制収容に関して謝罪し、アメリカ政府は彼らに対する補償支払いを決定した。

日系人と日本人移民強制収容

(映像出典)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作
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年・月1942年(昭和17年)1月~1942年5月頃
1942年
昭和17年1/1
連合国、「大西洋憲章」を確認

●連合国26国は、日本、ドイツとの単独不講和を宣言し、「大西洋憲章」を確認した。(ワシントン)

1942年
昭和17年1/5
ソ連、対日宣戦布告要請を拒否

●ソ連は、米英からの対日宣戦布告要請を、「まだその時期ではない」と拒否。米英はソ連の態度に失望と(上海発)。

1942年
昭和17年1/8
初の「大詔奉戴日(たいしょう・ほうたいび)」

●従来の興亜奉公日に代え、大詔奉戴日を毎月8日に設けることを、年頭の初閣議で決定した。戦意高揚を図るため、対米英開戦記念日(1941年12月8日)に「宣戦の詔勅」(開戦の詔書)が公布されたことにちなんで決められた。

1942年
昭和17年1/14
陸軍、捕虜収容所を設置する

●陸軍は、香川県善通寺と中国上海・香港に俘虜(=捕虜)収容所を開設した。1/15グアム島(アメリカ領)のマクミラン総督以下の米軍捕虜421人を善通寺俘虜収容所に収容する。

1942年
昭和17年1/16
大日本翼賛壮年団の成立式挙行される

●陸軍省軍務局長武藤章らが中心となり、大政翼賛運動の実践部隊として1/16結成された。21歳以上の男子の自発的加盟による同志的組織を謳い、農村部を中心に国策遂行運動を展開した。
●太平洋戦争開戦に際して情報局が流した戦意高揚標語に、「進め1億火の玉だ」「屠(ほふ)れ米英我らの敵だ」というものがあった。これは街頭や新聞で呼号され、国民に全面戦争突入への決意を促した。そして大政翼賛会の作詞・作曲による同名の曲が年末から流され、2月にヴォーカルフェア合唱団の歌でキングレコードから発売された。YouTubeにそのレコード再生のサイトがあったので、リンクした。

*リンクします「進め1億火の玉だ」
動画・出典:YouTube(kaminokuni2669氏)
1942年
昭和17年1/16
大蔵省、戦時増税法案要綱発表

●大蔵省、増税総額11億5千余万円、基礎控除は月給60円から50円に引き下げるなどの戦時増税法案要綱を発表

1942年
昭和17年1/20
ドイツ「ヴァンゼー会議」で、具体的なユダヤ人大量虐殺を決定

●1942年ナチス・ドイツは、最重要政策であるユダヤ人の排斥・迫害に関する「最終解決」を「ヴァンゼー会議」で決定した。これは具体的な実務レベルの最終決定であり、これによりナチス・ドイツは、組織的ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を決定し実行に移した。

1942年
昭和17年1/20
繊維製品配給消費統制規則公布施行

●商工省は2/1から点数式総合切符制を実施する。その準備のため、1月いっぱい衣料品の販売が禁止された。

1942年
昭和17年1/25
オーストラリア陸相、国民の決意を要望

●フォード豪陸相は、「日本の豪州侵攻に備え動員計画を進めており、国民の決意を要望」と布告する。

1942年
昭和17年1/25
タイ、米英に宣戦布告する

●タイは直ちにビルマに侵攻する。

1942年
昭和17年2/2
大日本婦人会発足

●愛国婦人会・大日本国防婦人会・大日本連合婦人会の婦人3団体が統合された。会員資格は20歳未満の未婚者を除く日本人女子全員で、会長は山内禎子。5月に大政翼賛会に加盟し、国家・社会・家族への奉仕を綱領として、軍部・官庁の監督のもと防空訓練、貯蓄増強、廃品回収などの活動を行った。

1942年
昭和17年2/11
グラフ雑誌「FRONT」創刊

●これは日本の対外宣伝誌で、創刊号は「海軍号」で、露・英・中・タイ・ビルマなど15ヵ国語版が合計6万9000部刷られた。この「FRONT」は、ソ連の「建設のソ連邦」をモデルとして作られたが、日本のグラフィックデザインに新境地を開き、ソ連のものを凌駕した。
写真は、創刊号「海軍号」から、「連合艦隊大演習」の合成写真。昭和16年秋、連合艦隊は豊後水道大演習を行った。写真はそのときの遠景と近景を1枚にレイアウトしたもの。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1990年刊。

1942年
昭和17年2/12
民法改正公布

●差別撤廃のため「庶子」「私生児」の名称を戸籍から抹消する。

1942年
昭和17年2/18
閣議、強力な翼賛議会確立をめざす

●閣議、大東亜戦争」完遂、翼賛選挙貫徹などの基本綱領を決定。

1942年
昭和17年2/21
食糧管理法公布

●これは主要食糧の国家管理を目的とする法律で、7/1一部施行、9/15その他施行。戦争の長期化で食糧不足が深刻化したため、従来の米穀統制に関する諸法規を統合して制定された。これにより国家による食料の生産・流通管理体制が完成した。

1942年
昭和17年
戦時刑事特別法・戦時民事特別法公布(3/21各施行)

●「戦時刑事特別法」は戦時下の犯罪をより厳しく罰するための治安立法。2月24日公布。灯火管制中などの放火・強盗・姦淫・騒擾などに対しては刑法よりも刑を加重し、戦時における「国家変乱」を目的とする殺人・傷害・暴行脅迫・騒擾罪、防空・通信・電気・生産事業などに対する妨害罪、生活必需品の買占め・売惜み罪などを新設した。また弁護人の数の制限など被疑者および被告人の権利を大幅に制限した。

1942年
昭和17年3/10
中小商工業の再編成、職業転換促進

●閣議は、労務供出、企業整備を目的として、中小商工業の再編成と職業転換促進に関する基本方針を決定した。

1942年
昭和17年3/27
関門海底トンネル開通

●本州と九州を結ぶ国鉄の関門海底トンネルの全区間が開通した。モーターカーが初試走する。

1942年
昭和17年4/1
各配電会社が開業

●配電統制令に基づき、配電60事業を統合して、全国9地区に各配電会社が開業した。

1942年
昭和17年4/3
マレーの虎(ハリマオ)伝説生まれる

●4/3の各紙は、マレー半島でハリマオ(虎)と呼ばれた盗賊団の頭目、谷豊が日本軍のマレー作戦に協力してあげた「武勲」とその死を報じた。軍は宣伝のため谷を殉国の英雄に仕立て上げ、のち映画などで偶像化された。
(※)『快傑ハリマオ』というTVドラマの主題歌だけは今でも歌える。1960年~ 1961年放映とある。三橋美智也の歌がなんともいえず良い。YouTubeにリンクしておいた。(星野)

*リンクします『怪傑ハリマオの歌』三橋美智也
動画・出典:YouTube(kaiketsuharimao26氏)

4/18日本本土初空襲を受ける(ドーリットル空襲)

●1942年4/18、日本近海に接近したアメリカの空母ホーネットから16機のB25爆撃機(陸軍機)が飛び立ち、13機は東京、川崎、横須賀を、3機は名古屋、神戸などを攻撃した(東京午後0時10分開始)。
その後故障の1機はソ連のウラジオストックへ、残り15機は中国大陸へむかった。
●この空襲により東京では死者39人(全国で50人)、家屋損害261戸などの被害をうけた(「昭和2万日の全記録」講談社1990年刊)。
(注)「BC級裁判を読む」では爆撃による死者は45人、重傷者153人、被害家屋680戸と書かれている。
(上新聞)両方共に4/19朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●中国大陸で落下傘で降下した搭乗員8人が、日本軍に捕らえられた。「帝都」空襲に衝撃を受けた大本営は、搭乗員を死刑にしようとしたが、東条英機首相が捕虜として扱うべきだとして反対した。
 そこで、7月「空襲軍律」を制定し、搭乗員らを無差別爆撃を行った戦争犯罪人とし裁くことになった。8/18、第13軍の沢田茂司令官は上海で軍律会議を開き、搭乗員全員に死刑の判決を下した。
 しかし、この全員死刑判決に対してアメリカの報復などを危惧した日本は、8人のうち5人を天皇の特赦とし無期刑に減刑した。死刑は機長2人と機銃手1人で、無期刑の5人のうち1人は獄死した。
(左新聞)10/20朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●大本営は報復として、浙贛作戦(せっかん作戦)を実行した。
これはドーリットル隊が着陸に利用した中国浙江省内の飛行場を徹底的に破壊するというもので、この作戦には日本兵約4万5000人、中国人労働者約2万2000人、捕虜約4万人が動員され、あらゆる方法で飛行場を破壊し、作戦はこの年の9/30に完了した。
●昭和17年10月9日、防衛総司令官が出した布告は以下のとおりである。
「大本営陸軍報道部長談」・・「去る4月18日帝国本土を空襲し我方に捕へられたる米国機搭乗者中取調の結果人道を無視したる者は今般軍律に照し厳重処分せられたり」

大日本帝国領土を空襲し我が権内に入れる敵航空機搭乗員にして暴虐非道の行為ありたる者は軍律会議に附し死又は重罰に処す
満州国又は我が作戦地域を空襲し我が権内に入りたる者亦同じ
防衛総司令官

ドーリットル空襲

●飛行機から目隠しをされて降ろされる飛行士の写真は、アメリカの新聞にも大きく掲載され、日本人に対する憎しみをさらに増幅させたといわれる。
(映像出典)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作
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4/30第21回総選挙実施(翼賛選挙)

●この時期、東条内閣が当面する最大の政治課題は、第2次近衛文麿内閣が先送りしていた衆議院議員選挙だった。開戦後日本軍は進撃を続け、マニラ占領、シンガポール陥落などにより国民は戦勝気分にわき上がっていた。東条内閣は、ここで総選挙を行えば、国家総力戦体制を強化するうえで絶好のチャンスと考えたのである。
東条首相は、大政翼賛会(昭和15年10月に結成)に不満を持ち、陸軍省の武藤章軍務局長らを中心に、昭和17年1月16日、大日本翼賛壮年団(翼壮・団長安藤紀三郎大政翼賛会副総裁)を創設させた。これを実践部隊として、議会を政府に協力させる体制づくりのための選挙を行ったのである。

①警察リストによる候補者選び
 東条内閣は、翼賛政治体制協議会(翼協・会長阿部信行陸軍大将)という「政治結社」を設立し、政府に代わり国務遂行に都合のいい人物を推薦することにした(推薦候補制度の導入)。推薦候補は4月9日までに決まったが、このとき活用されたのが「衆議院議員調査表」だった。
これは、選挙に向けて警察が現職議員を調査し、内務省がまとめたもので、現職議員は甲(率先して国策を遂行)、乙(積極活動はしないが国策を支持)、丙(反国策的、反政府的言動を続け思想的に不適格)に3分類に評価されたものである。
②猛烈な選挙干渉と弾圧
 4月4日に選挙が公示され、466議席に対して推薦候補466人、非推薦候補613人が立候補し普通選挙始まっていらいの激戦となった。政府は翼賛会・翼壮・在郷軍人会・大日本婦人会・町内会・隣組などのあらゆる組織を通じ推薦候補を後押した。
 選挙期間中、非推薦候補は政府や軍部、警察の指導する、あらゆる組織を動員した選挙妨害をうけた。非推薦候補者とその支持者に対しては「非国民」呼ばわりや「配給を停止する」など露骨な選挙干渉が行われた。
③結果と当選者
 選挙運動は全体に低調だった。しかし、有権者が組織的にかり出されたため、投票率は全国平均83.1%と高かった。開票の結果、推薦候補は381人、当選率81.8%に達し、新人の当選者は195人となった。また、翼壮は40余人の団員を当選させ、一大政治勢力となった。
 非推薦候補は激しい選挙干渉にもかかわらず85人が当選した。主な当選者には旧民政党総裁の町田忠治、同交会の安藤正純、鳩山一郎、尾崎行雄、旧社会大衆党の浅沼稲次郎、西尾末広らがいた。

 翼協は総選挙後の5月5日に解散し、20日、総力戦体制を推進する翼賛政治会(翼政会・会長阿部信行)が発足した。議会からは尾崎行雄ら刑事訴追者8人を除くほぼ全員が参加し、ここに東条内閣にたいして「イエス」と言うだけの「翼賛議会」が成立した。
※この「憲政の神様」といわれた尾崎行雄(当時82歳)が訴追された事件とは、非薦候補だった尾崎がおこなった盟友の応援演説(4/12)で、その内容が、不敬罪に当たるとして起訴された事件のことである。昭和17年12月、尾崎は懲役8ヶ月、執行猶予2年の判決を受けたが上告、昭和19年6月無罪となった。

1942年(昭和17年)の出来事
1942年(昭和17年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1. 1 食塩の通帳配給制とガス使用量割り当て制実施
1. 2 日本軍マニラ占領、軍政布告
1. 2 連合国26カ国が単独不講和・共同戦争強行宣言を発表
1. 2 毎月1日の興亜奉公日を廃止,新たに8日を大詔奉戴日に決定
1. 7 水産物配給統制規則公布実施
1. 11 蘭印作戦を開始
1. 16 翼賛壮年団の中央機構として大日本翼賛壮年団結成

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