1941年(昭和16年)①1/8、陸軍大臣東条英機「戦陣訓」全軍に示達。6/22ドイツ、ソ連に侵攻する。「バルバロッサ作戦」開始。
2023年4月27日第2次世界大戦
●日本は3国同盟にソ連を加えた4カ国で、アメリカに対抗しようと夢想した。だが6/22ドイツのソ連侵攻でその目論見は崩れ去った。ついに日本はアメリカ・イギリスと戦争する道を選択する。世界大戦がはじまる。
●このページ①では、6/22の独ソ戦開始までの半年間を記述した。
(上写真・部分)ハワイ・ヒッカム飛行場上空を飛ぶ九七艦攻(出典)「写真・太平洋戦争第1巻」編者 雑誌「丸」編集部 光文社1988年刊
ここでは、「戦陣訓」は全文を、「臣民の道」は序言だけを引用した。この「臣民の道」は、天皇を頂点に置く全体主義国家が、今までの欧米による秩序ではなく「新秩序建設」の名のもとに、「個人主義」「自由主義」「民主主義」を圧殺しようとした大日本帝国の論理である。
この中で「軍人として死に臨む覚悟」を強調したのが、下段のところである。
死生(しせい=死ぬにしても生きるにしても)を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
生死を超越し一意(いちい=ひたすら)任務の完遂に邁進すべし。身心(しんしん)一切の力を尽くし、従容(しょうよう=ゆったりと落ち付いて)として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。
第八 名を惜しむ
恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう=郷里の仲間)家門(かもん=一家一門)の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励して其(そ)の期待に答ふべし。
生きて虜囚(りょしゅう=捕虜)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ。
夫(そ)れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍(あまね)く皇道を宣布(せんぷ)し、敵をして仰いで御稜威(みいづ=御威光)の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体(たい)し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海(しかい)に宣揚せんことを期せざるべからず。
惟(おも)ふに軍人精神の根本義は、畏(かしこ)くも軍人に賜はりたる勅諭(ちょくゆ)に炳乎(へいこ=光り輝くさま)として明かなり。而(しか)して戦闘並に訓練等に関し準拠すべき要綱は、又典礼の綱領に教示(きょうし)せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎(と)もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻(もと)るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃(すなわ)ち既往(きおう)の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅論を仰ぎて之が服行(ふくこう=服従して実行する)の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠(ひょうきょ=よりどころ)を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是(これ)戦陣訓の本旨とする所なり。
第一 皇国
大日本(だいにっぽん)は皇国なり。万世一系(ばんせいいっけい)の 天皇上(かみ)に在(おわ)しまし、肇国(ちょうこく=建国)の皇謨(こうぼ=天子の治世の道)を紹継(しょうけい=承継・継承)して無窮(むきゅう=きわまりのないこと)に君臨し給(たま)ふ。皇恩万民に遍(あまね)く、聖徳八紘(はっこう=国のすみずみ・全世界)に光被(こうひ=光がひろくおおうこと)す。臣民(しんみん)亦(また)忠孝勇武(ちゅうこうゆうぶ)祖孫(そそん)相承(あいうけ)け、皇国の道義を宣揚して天業を翼賛し奉(たてまつ)り、君民一体以(もっ)て克(よ)く国運の隆昌(りゅうしょう)を致(いた)せり。
戦陣の将兵、宜(よろ)しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜(ろうこふばつ)の信念を堅持し、誓って皇国守護の大任を完遂せんことを期すべし。
第二 皇軍
軍は 天皇統帥の下(もと)、神武(しんぶ=日本第1代神武天皇)の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し、皇運の扶翼(ふよく)に任ず。
常に大御心(おおみこころ=天皇の御心、叡慮)を奉じ、正(せい)にして武(ぶ)、武にして仁(じん)、克く世界の大和(たいわ=大きな和合)を現(げん)ずるもの是(これ)神武の精神なり。武は厳なるべし仁は遍(あまね)きを要す。苟(いやしく)も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威(ぶい)を振(ふる)ひ断乎(だんこ)之を撃碎(げきさい)すべし。
仮令(たとい)峻厳の威(い)克(よ)く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従(したが)ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全(まった)しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢(あふ)るるを以て尊しとなす。皇軍の本領は恩威(おんい)並(なら)び行(おこな)はれ、遍(あまね)く御稜威(みいづ)を仰がしむるに在り。
第三 軍紀
皇軍軍紀の神髄は、畏くも 大元帥(だいげんすい)陛下に対し奉る絶対随順(ずいじゅん=直ちに心から従うこと)の祟高なる精神に存する。
上下(しょうか)斉(ひと)しく統帥の尊厳なる所以(ゆえん)を感銘し、上(かみ)は大権の承行(しょうこう=承り行う)を謹厳にし、下(しも)は謹んで服従の至誠(しせい=きわめて誠実なこと)を致(いた)すべし。尽忠(じんちゅう=忠義を尽くすこと)の赤誠(せきせい=真心)相結び、脈絡一貫(みゃくらくいっかん=一筋につながること)、全軍一令の下に寸毫(すんごう=すこしも)紊(みだ)るるなきは、是(これ)戦捷(せんしょう=戦いに勝つ)必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生(しせい=生死)困苦の間に処し、命令一下欣然(きんぜん=喜んで)として死地(しち=死なねばならぬ場所)に投じ、黙々として献身服行の実(じつ)を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華(せいか=神髄)なり。
第四 団結
軍は、畏(かしこ=恐れ多)くも 大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥き聖慮(あつきせいりょ=ねんごろな天皇の御思召)を体(たい)し、忠誠の至情(しじょう=誠実な感情)に和し、挙軍(きょぐん=全軍)一心一体の実(じつ)を致(いた)さざるべからず。(=事実をあらわさねばならない)
軍隊は統率の本義(ほんぎ=根本原理)に則(のっと)り、隊長を核心とし、鞏固(きょうこ)にして而(しか)も和気藹々(わきあいあい)たる団結を固成すべし。上下各々其の分を厳守し、常に隊長の意図に従ひ、誠心(せいしん=まごころ)を他の腹中(ふくちゅう)に置き(=誠心で相手に接し)、生死利害を超越して、全体の為(ため)己(おのれ)を没するの覚悟なかるべからず。
第五 協同
諸兵(しょへい)心を一にし、己の任務に邁進(まいしん)すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。
各隊は互に其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ相(あい)援(たす)け、自ら進んで苦難に就き、戮力(りくりょく=力を合わせること)協心(きょうしん=心を合わせること)相携へて目的達成の為(ため)力闘(りきとう=努力奮闘すること)せざるべからず。
第六 攻撃精神
凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。
攻撃に方(あた)りては果断積極機先(きせん)を制し(=相手の出鼻をくじく)、剛毅(ごうき)不屈、敵を粉砕せずんば已まざるべし。防禦又克く攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委(い=ゆだねる)すること勿(なか)れ。追撃は断々乎(だんだんこ=きっぱりと)として飽く迄も徹底的なるべし。
勇往邁進(ゆおうまいしん)百事(ひゃくじ)懼(おそ)れず、沈著大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克(か)ち、有ゆる障碍(しょうがい=障害)を突破して一意(いちい=ひたすら)勝利の獲得に邁進すべし。
第七 必勝の信念
信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克(よ)く勝者たり。
必勝の信念は千磨必死(せんまひっし=幾度もねりみがいて、死を覚悟して行うこと)の訓練に生ず。須(すべから)く寸暇を惜しみ肝胆(かんたん)を砕き(=苦心をかさね)、必ず敵に勝つの実力を涵養(かんよう=自然に水がしみこむように、徐々に教え養うこと)すべし。
勝敗は皇国の隆替(りゅうたい=盛衰)に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝(めいかん=肝にきざみつけ)し、勝たずば断じて已むべがらず。
第一 敬神(けいしん)
神霊(しんれい=神)上(かみ)に在りて照覧(しょうらん=明らかにみること)し給ふ。
心を正し身を修め篤く敬神の誠を捧げ、常に忠孝を心に念じ、仰いで神明(しんめい)の加護に恥ぢざるべし。
第二 孝道
忠孝一本(ちゅうこういっぽん=忠孝一致)は我が国道義の精粋(せいすい=最もすぐれた点)にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子(こうし=よく父母に仕える子)なり。
戦陣深く父母の志を体し、克く尽忠(じんちゅう=忠義を尽くす)の大義に徹し、以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。
第三 敬礼挙措(けいれい・きょそ-立ち振る舞い)
敬礼は至純なる服従心の発露にして、又上下(しょうか)一致の表現なり。戦陣の間(かん)特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。
礼節の精神内(うち)に充溢(じゅういつ)し、挙措謹厳にして端正なるは強き武人たるの証左なり。
第四 戦友道
戦友の道義は、大義の下(もと)死生(しせい)相結び、互に信頼の至情を致し、常に切磋琢磨し、緩急相救ひ、非違(ひい=違法)相戒めて、倶(とも)に軍人の本分を完(まっと)うするに在り。
第五 率先躬行(きゅうこう=身をもって実行すること)
幹部は熱誠以て百行(ひゃくこう=あらゆる行い)の範たるべし。上(かみ)正しからざれば下必ず紊(みだ)る。
戦陣は実行を尚(たっと・とうと)ぶ。躬(み)を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。
第六 責任
任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業(ぎょう)一務(む)忽(ゆるが)せにせず、心魂(しんこん)を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。
責任を重んずる者、是(これ)真(しん)に戦場に於ける最大の勇者なり。
第七 死生観(しせいかん)
死生(しせい=死ぬにしても生きるにしても)を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
生死を超越し一意(いちい=ひたすら)任務の完遂に邁進すべし。身心(しんしん)一切の力を尽くし、従容(しょうよう=ゆったりと落ち付いて)として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。
第八 名を惜しむ
恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう=郷里の仲間)家門(かもん=一家一門)の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励して其(そ)の期待に答ふべし。
生きて虜囚(りょしゅう=捕虜)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ。
第九 質実剛健
質実以(もっ)て陣中の起居を律し、剛健なる士風(しふう=武士たる気風)を作興(さっこう=人の気持をふるいおこすこと)し、旺盛なる士気を振起(しんき=ふるい起こすこと)すべし。
陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈(しゃし=ぜいたく)は勇猛の精神を蝕(むしば)むものなり。
第十 清廉潔白(せいれんけっぱく=欲が少なく、心のきれいなこと)
清簾潔白は、武人(ぶじん)気節(きせつ=気概節操)の由(よ)って立つ所なり。己(おのれ)に克(か)つことを能(あた)はずして物慾に捉(とら)はるる者、爭(いか)でか皇国に身命を捧ぐるを得(え)ん。
身を持(じ)するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧(は)ぢざるべし。
(ふぎょうてんちに・・=天を仰いで天に愧じず、地に附して地に愧じる所のないようにせよ)
第一 戦陣 の 戒(いましめ)
一 一瞬(いっしゅん)の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳(げん)に警(いまし)めざるべからず。
敵及住民を軽侮するを止(や)めよ。小成(しょうせい=小成功)に安(やす=安心して)んじて労を厭(いと)ふこと勿れ。不注意も亦災禍の因(いん)と知るべし。
二 軍機を守るに細心なれ。諜者(ちょうじゃ=スパイ)は常に身辺に在り。
三 哨務(しょうむ=哨戒の任務)は重大なり。一軍の安危(あんき)を担(にな)ひ、一隊の軍紀を代表す。宜(よろ)しく身を以て其の重きに任じ、厳粛に之を服行すべし。哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。
四 思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧(はさい=破砕)するのみならず、進んで皇道の宣布(せんぷ)に勉むべし。
五 流言蜚語(りゅうげんひご=流言飛語、デマ)は信念の弱きに生ず。惑(まど)ふこと勿れ、動すること勿れ。皇軍の実力を確信し、篤(あつ)く上官を信頼すべし。
六 敵産(てきさん=敵の財産)、敵資(てきし=敵の資本)の保護に留意するを要す。徴発、押收、物資の燼(じんめつ=焼き尽くすこと)等は総て規定に従ひ、必ず指揮官の命に依(よ)るべし。
七 皇軍の本義に鑑み、仁恕(じんじょ=情け深く人を責めぬ)の心能く無辜(むこ=何の罪のない)の住民を愛護すべし。
八 戦陣(せんじん)苟(いやしく)も酒色(しゅしょく=飲酒色欲)に心奪はれ、又は慾情(よくじょう=欲情)に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過(あやま)るが如きことあるべからず。深く戒慎(かいしん=言動をいましめ、つつしむこと)し、断じて武人の清節(せいせつ=清らかな節操)を汚(けが)さざらんことを期すベし。
九 怒(いかり)を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情(げきじょう)悔(くい)を後日に残すこと多し。
軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完(まっと)うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思(おもい)を父母妻子の真情(しんじょう)に馳せ、仮初(かりそめ)にも身を罪科に曝(さら)すこと勿れ。
第二 戦 陣 の 嗜(たしなみ)
一 尚武(しょうぶ)の伝統に培(つちか)ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉(つと)むべし。
「毎事(まいじ=全ての事柄)退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。
二 後顧の憂(うれい)を絶ちて只管(ひたすら)奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜を肝要とす。屍(かばね)を戦野に曝(さら)すは固(もと)より軍人の覚悟なり。縦(たと)ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる様(よう)予(かね)て家人(かじん)に含め置くべし。
三 戦陣病魔に斃(たお)るるは遺憾の極(きわみ)なり。特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来(きた)すが如きことあるべからず。
四 刀(かたな)を魂(たましい)とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間(かん)常に兵器資材を尊重し馬匹(ばひつ)を愛護せよ。
五 陣中の徳義は戦力の因(もと)なり。常に他隊の便益(べんえき)を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎(つつし)むべし。「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。雄々しく床(ゆか)しき皇軍の名を、異郷辺土(へんど=辺地)にも永く伝へられたきものなり。
六 総じて武勲を誇らず、功(こう)を人に譲るは武人の高風(こうふう=気高い気風)とする所なり。
他の栄達を嫉(ねた)まず己の認められざるを恨まず、省(かえり)みて我が誠(まこと)の足らざるを思ふべし。
匕 諸事正直(せいちょく)を旨(むね)とし、誇張虚言を恥とせよ。
八 常に大国民たるの襟度(きんど=心持・度量)を持し、正(せい)を踏み義を貫(つらぬ)きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。
国際の儀礼亦軽んずべからず。
九 萬死(ばんし)に一生(いっせい)を得(え)て(=必ず死すべき身を以て生還し)帰還の大命(=帰国の勅令)に浴(よく)することあらば、具(つぶさ)に思(おもい)を護国の英霊(えいれい=戦死者)に致し、言行を慎み国民の範(はん)となり、愈々(いよいよ)奉公の覚悟を固くすべし。
以上述ぶる所は、悉(ことごと)く勅諭(ちょくゆ)に発し、又(また)之(これ)に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資(し)し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず。
戦陣の将兵、須(すべから)く此の趣旨を体(たい)し、愈々奉公の至誠(しせい)を擢(ぬき=先立って行い)んで、克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥(あつ)きに答へ奉(たてまつ)るべし。
*リンクします「戦陣訓に関する件 通牒」→国立公文書館アジア歴史資料センター
●「臣民の道」は下段でリンクしておいたので、全文はそちらを読んでください。この「臣民の道」は、日本の古代の歴史から話を解いて臣民(国民)がどうあるべきかを説いている。神話で日本を建国した天皇が、神として世界までも統一するという論理は、まるで中世社会の宗教論のようである。この天皇制による支配を「国体」として、「世界新秩序建設」「大東亜共栄圏建設」に広げていくという思想は、以前より帝国陸軍の思想であったように思われる。(石原莞爾の「世界最終戦論」にも同じような一節がある)
序 言
皇国臣民の道は、国体に淵源し、天壌無窮の皇運を扶翼し奉るにある。それは抽象的規範にあらずして、歴史的なる日常実践の道であり。国民のあらゆる生活・活動は、すべてこれひとへに皇基を振起し奉ることに帰するのである。
顧みれば明治維新以来、後が国は広く知識を世界に求め、よく国運進展の根基に培って来たのであるが、欧米文化の流入に伴なひ、個人主義・自由主義・功利主義・唯物主義等の影響を受け、ややもすれば我が古来の国風に悖り、父祖伝来の美風を損ふの弊を免れ得なかった。満州事変発生し、更に支那事変起るに及んで、国民精神は次第に昂揚し来つたが、なほ未だ国民生活の全般に亙って、国体の本義、皇国臣民としての自覚が徹底してゐるとはいひ難きものがある。ともすれば、国体の尊厳を知りながらそれが単なる観念に止まり、生活の実際に具現せられざるものあるは深く憂ふべきである。
かくては、或が国民生活の各般において根強く浸潤せる欧米思想の弊を芟除し、真に皇運扶翼の挙国体制を確立して、曠古の大業の完遂を期することは困難である。ここにおいて、自我功利の思想を排し、国家奉仕を第一義とする皇国臣民の道を高揚実践することこそ、当面の急務であるといはねばならぬ。
「・・・悠久の古より東方道義の道統を伝持遊ばされた天皇が、間もなく東亜連盟の盟主、次いで世界の天皇と仰がるるは吾等の堅い信仰であります。・・・・」
リンクします「臣民の道」、「国民防空書」国民新聞社出版部1941年刊
1941年昭和16年4/1、国家総動員法に基づく「生活必需物資統制令」が公布施行された。これにより、生活必需物資の生産・配給・消費・価格などを統制できるようになった。言論・思想統制では昭和16年1/11、「新聞紙等掲載制限令」によって、国家にとって都合の悪いことは全て掲載禁止とされた。政府と軍部は、12月の日米英開戦の前に、言論統制(弾圧)の体制を固めていったのである。
●4/1国家総動員法に基づく「生活必需物資統制令」が公布施行された。これにより、生活必需物資の生産・配給・消費・価格などを統制できるようになった。そして本令によって、切符制による配給統制に法的根拠が与えられ一般化していった。
こうして4/1、食料品では初の割当通帳制による米の配給が、東京・大阪・名古屋・京都・神戸・横浜の6大都市で実施され、12月には全国の99%の地域で実施されるようになった。ただし切符による配給制度は、不足する必需品を無料でもらえるのではなく、割り当てられた切符などに応じて購入ができるというものだった。
●日中戦争の長期化は、生活必需物資の不足と物価の高騰をもたらした。この原因は、すべての資源(人・モノ・カネ)を軍需物資生産と関連する産業にまわしたからである。そして外貨を稼げるものは国内での消費を抑え輸出にまわした。昭和13年に原材料に初の切符制を導入し、国内市場から綿製品(輸出品の主力)が姿を消した。昭和14年には政府は物価抑制のため、国内の全ての価格(物価・賃金等)を凍結した「9.18停止令」。
ただ軍需産業を含め、金回りの良い人々や、富裕層もいたわけで、彼らに対する締め付けと庶民の不満をそらすために、昭和15年7/7「贅沢品の製造販売制限規則」(7.7禁令)が施行された。だがこのような法律による統制は、闇取引(闇価格の高騰)・買いだめ・売り惜しみ、横流しなどの横行を許した。物資の不足は、配給の質と量の低下を生み、国民生活はさらに窮乏化していった。特に17年2月からの衣料切符は、1年間の有効期間内に必要なものが購入できる建前だったが、衣料原料不足により17年7月から有効期限を19年1月までに延長した。購入できる現物が無くなってしまったのである。
●下の一覧は、「主な切符と配給制度」(出典:『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊)
開始年月 | 物資名 | 切符の発行形態 | 割当量 |
---|---|---|---|
昭和15年6月 | 砂糖 | 家庭用砂糖回数購入券(家庭用品購入通帳/年2回) | 0.6斤(1人)/日(家族14人以下、15人以上は0.35斤/1人を追加) |
昭和15年6月 | マッチ | マッチ回数購入券(家庭用品購入通帳/年2回) | 小型1個/2カ月(家族1~3人、家族4~6人) 大型1個/2カ月(家族7人以上) |
昭和16年4月 | 米穀 | 家庭用米穀通帳/年1回 |
120g/日(1~5歳) 200g/日(6~10歳) 330g/日(11~60歳・普通人) 300g/日(61歳以上・普通人) |
昭和16年4月 | 米穀(外食者) | 外食券/月1回(1日分3枚) | 110g/日(普通人) 130g/日(普通増量の労働者) 190g/日(特別増量の労働者) |
昭和16年4月 | 小麦粉 | 家庭用小麦粉購入券(家庭用品購入通帳/年2回) | 50匁/日(家族1人) 100匁/日(家族2~3人) 150匁/日(家族4~7人) 200匁/日(家族8~15人) |
昭和16年4月 | 酒類 | 家庭用酒類通帳(家庭用品購入通帳/年2回) | 酒4合/6ヶ月(1世帯) ビール2~4本/6ヶ月(1世帯) |
昭和16年5月 | 木炭 | 家庭用燃料通帳/年1回 | 8俵/年(ガス設備の有る世帯) 14俵/年(ガス設備の無い世帯) |
昭和16年6月 | 食用油 | 家庭用食用油購入券(家庭用品購入通帳/年2回) | 2合/3ヶ月(家族1人) 3合/3ヶ月(家族2~3人) 5合/3ヶ月(家族4~7人) 7合/3ヶ月(家族8~15人) |
昭和16年11月 | 魚類 | 家庭用魚類購入票/年2回 | 丸30匁・切り身20匁/日(1人)が標準(入荷量により増減) |
昭和17年1月 | 塩 | 家庭用塩購入券(家庭用品購入通帳/年2回) | 200g/月(家族19人以下、20人以上は150g/人を追加) |
昭和17年2月 | 衣料品 | 乙種普通衣料切符(点数制総合切符/年1回) | 100点/人(背広の仕立て・31点) |
昭和17年2月 | みそ・しょう油 | 家庭用味噌醤油通帳(家庭用品購入通帳/年2回) | 味噌183匁/月(1人) しょうゆ3合7匁/月(1人) |
昭和17年5月 | パン | パン類購入券(単票)/月1回 | 1食(菓子パン3個)/月 |
昭和17年11月 | 青果物 | 家庭用蔬菜購入票/年2回 | 60~70匁/月(1人)が標準(入荷量により増減) |
昭和18年6月 | 洋傘 | 商工省指定洋傘購入券(単票)/随時 | 1本(1人) |
昭和18年6月 | 氷 | 病人用氷購入券(単票)/申請 | 1貫匁(1人、2貫匁まで追加可) |
(出典)東京市役所『東京市切符制沿革史』、東京空襲を記録する会『東京大空襲・戦災史』第5巻、『市政週報』昭和16年6月7日号。(注)開始年月は東京市を例にとった。
●昭和16年1/11、「新聞紙等掲載制限令」によって、国家にとって都合の悪いことは全て掲載禁止とされた。16年2月、情報局第2課は、「中央公論」「改造」などの総合雑誌社に対して、自由主義的な学者、評論家の執筆禁止者リストを内示した。3月、内務省検閲課は、岩波書店や改造社の刊行物の中から、階級闘争や私有財産にかかわる459点を発禁処分とした。同じく3月、情報局は軍に協力的でない中央公論社、改造社、日本評論社に対して、発行する図書と雑誌の購読者カードの提出を通達した(購読者にも弾圧の手が伸びる)。さらに5月、情報局は総合雑誌出版社に対し、毎月10日までに編集プランと執筆予定者の事前提出を命じた。
●昭和16年10月、情報局は各新聞社幹部との懇談の席上次のような注意指導を行った。「・・日米交渉の結果、万一の場合に(戦争)突入するやも知れぬ。この場合に国民に最後のハラを決めて置かねばならない」という記事を掲載願いたい。「・・英米にこびるような記事は絶対不可、厳重に取り締まる」。(朝日新聞の90年より)
●12月の日米英開戦の前に、政府と軍部は言論統制(弾圧)の体制を固めていったのである。
第2次近衛内閣の松岡外相は、日ソ中立条約の締結に奔走した。だが独ソ戦が始まると対ソ参戦を強硬に主張して近衛らと対立した。また松岡外相は日米交渉に反対し、その強硬意見のため、ハル国務長官は松岡外相を非難するほどであった。近衛内閣としては、日米交渉の妥結に期待もかけていたのである。そして7/16近衛内閣は総辞職し、第3次近衛内閣が成立した。松岡外相を排除し日米交渉を進展させようとしたのである。
ここでは、『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。
年・月 | 1941年(昭和16年) |
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1941年 昭和16年1/1 |
午前9時「国民奉祝の時刻」
●翼賛会国民生活指導部決定。サイレンなどを合図に宮城遥拝等を行う。 「謹みて皆様と共に 紀元二千六百一年の 輝く新春を壽(ことほ)ぎます」
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1941年 昭和16年1/2 |
日蘭第1回会商会談、バタビアで開催。
●芳沢蘭印(オランダ領東インド=蘭領東印度)特派大使は、バタビア(=インドネシア首都ジャカルタの旧名)で、蘭印総督チャルダと対蘭印交渉を開始する。 |
1941年 昭和16年1/3 |
中国昆明と滇緬(てんめん)公路(=ビルマ公路)を爆撃
●戦略連合の海軍航空部隊、仏印から出撃、2隊に分かれて、中国の援蔣ルートを爆撃する。 |
1941年 昭和16年1/4 |
ルーズベルト大統領、「4つの自由」を提唱
●ルーズベルト大統領は、恒例の一般教書演説で、民主義国家を援助することを発表し、最後に「4つの自由」を提唱した。内容は下に引用したが、下段で「About THE USA」「米国の歴史と民主主義の基本文書大統領演説」の「四つの自由(1941 年)」へリンクした。アメリカ合衆国政府の公式な解説がある。
「われわれが安泰たらしめんと願う、きたるべき日々において、われわれ人間にとって欠くべからざる4つの自由の上に打ちたてられた世界を望むのである。
第1に、全世界にあまねき、言論および表現の自由である。 第2に、全世界にあまねき、すべての人間に対しての、みずからのしかたで神を敬う自由である。 第3に、全世界にあまねき、欠乏からの自由ーすなわち現実の世界にあてはめれば、すべての国家に対しその住民に健全な平和生活を送ることを保証する、経済上の相互理解ということである。 第4に、全世界にあまねき、恐怖からの自由ーすなわち現実の世界にあてはめれば、世界的規模における徹底的な軍縮をおこない、いかなる国もその近隣に対して実力行使による侵略をおこないえないようにすることである。 これは遠い来世の幻影ではない。それはわれわれ自身の時代に達成可能な世界の、明確な基礎なのである。このような世界は、独裁者たちが爆弾の炸裂によって創造しようともくろむ、専制的ないわゆる新秩序とはまったく反対のものである・・・」 (出典:「世界の歴史」中央公論社1962刊) *リンクします「四つの自由(1941 年)」「About THE USA」 |
1941年 昭和16年1/7 |
中国・皖南(かんなん)事件発生
●国民党軍が、突然、新四軍(共産党)を包囲攻撃し、7日間にわたった戦闘の末、新四軍は壊滅させられる。国民党側は相手側を反乱軍とすれば、共産党側は国民党によるクーデターと非難した。真相は謎のままだが、国民党軍と共産党軍は国共合作とはいえ軋轢があったに違いない。 |
1941年 昭和16年1/8 |
東条陸相「戦陣訓」を全軍に示達
●この章の最初で「戦陣訓」の全文を引用した。また7/21に文部省教学局の刊行した「臣民の道」は序言だけを引用した。アメリカのわかりやすい「4つの自由」と比べて、当時の日本人は、何と専制的で絶対主義的な宗教観念を強制されていたことか、愕然とするものがある。残念ながら日本人は、恐るべき専制と厳しく思想統制された暗黒社会を望んでいたのだろうか? 大東亜共栄圏(アジアの多様な民族が共に栄える世界)を本当に望んだのなら、違う結果があったはずである。 |
1941年 昭和16年1/15 |
ハル米国務長官、対日批判演説を行う。
●ハル国務長官は、下院外交委員会で、「日本の新秩序なるものは一国による支配」と対日批判を行う。 |
1941年 昭和16年1/16 |
4つの青・少年団が統合され、「大日本青少年団」を結成。
●この4つの団体とは、大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団連盟である。統合された大日本青少年団は、国家の強力な指導の下に置かれ、男女青少年の学校外における全生活を統制した。団長は文部大臣、地方団の団長には地方長官が就任し、尋常小学校3年生から、25歳までの男女勤労青年の全員を団員とした。 |
1941年 昭和16年1/21 |
松岡外相、大東亜共栄圏に関して演説。
●外相、蘭印・仏印・タイを大東亜共栄圏に含むと演説、これに対して1/30オランダ公使は抗議文を手交する。 |
1941年 昭和16年1/22 |
閣議、人口政策確立要項を決定。
●結婚の早期化や出産を奨励し、「1家庭に平均5児を」と呼びかける。 |
1941年 昭和16年2/1 |
職業紹介所が国民職業指導所と名称を変更
●全国378ヵ所の職業紹介所が名称を変更した。前年の「7.7禁令」による贅沢品の製造販売の禁止は、全国の中小企業に大きな打撃を与えた。そのため、職業紹介所は中商工業者の転業指導を中心となったのである。 |
1941年 昭和16年2/7 |
閣議、「大政翼賛会」は政治結社ではない、と規定。
●昭和15年10月に発足した「大政翼賛会」は、近衛文麿が目指した下からの国民運動体ではなく、官僚主導のものに変質していた。総裁は首相、下部の支部長は知事が兼任するという、上意下達の官製運動機関となってしまっていた。 |
1941年 昭和16年2/8 |
衆議院本会議、国防保安法案を可決(3/7公布、5/10施行)
●これは、国家機密保護を目的とし、外国への機密漏洩を防ぐことを目的とした法律。御前会議・枢密院会議・閣議などに付された外交・財政・経済上の議事などの漏洩や探知、治安・経済活動の妨害などを処罰対象とし、最高刑を死刑とした。また検事に広範な強制捜査権が与えられた。 |
1941年 昭和16年2/11 |
満映スター李香蘭、東京日劇に出演。
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●「李香蘭」数奇な運命を駆け抜けた日本人。(昭和13年に、あこがれの祖国日本の地を踏んだときの印象語る山口淑子・参議院議員当時)
「まだ見たことのない祖国日本は、憧れの的でした。日満親善女優使節として初めて日本に行けることになった時は、とてもうれしくて、興奮してね。体中喜びいっぱいにして下関に着いたのね。でも上陸しようとしたら官憲に『オイッ』と呼び止められた。『なんだお前、日本人か! 日本人は一等国民だぞ! 三等国民のチャンコロの服着て、支那語をしゃべって恥かしくないのか!』と怒鳴られたんですよ。
もう頭の中が白くなって・・・・憧れの日本がこれか、日本人は差別をもっているのか。一緒にきた同僚の女優孟虹(モンホン)にも、とても恥かしくて事情が説明できない。それまで五族協和といわれれば、とてもいいことだと信じていたのね。でも日本人は本当はそう思っていない。とてもショックでした」 (出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
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1941年 昭和16年2/12 |
「砂漠の狐」ロンメル将軍、リビア戦線に到着
●リビア戦線で苦戦を続けるイタリア軍を救援のため、ドイツの国民的英雄のロンメル将軍がトリポリに到着した。 |
1941年 昭和16年2/21 |
第20回貯蓄債券・第6回報国債券の売り出し開始。
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1941年 昭和16年3/3 |
国家総動員法改正公布(5/20施行)
●統制強化・罰則規定強化など政府の権限が大幅に拡張される。 |
1941年 昭和16年3/10 |
治安維持法改正公布(5/15施行)
●適用範囲を拡大し、罰則強化や予防拘禁制などを追加する。 |
1941年 昭和16年3/11 |
米国で武器貸与法が成立
●アメリカは連合国向けの武器援助を定めた「武器貸与法」を成立させた。これは大統領が必要と認めた場合に武器を貸与できるものとした。対象国は最初にイギリス、6月に中国、11月にはソ連と次第に拡大し、多くの連合国に武器貸与を認めた。 |
1941年 昭和16年4/1 |
国民学校が発足
●明治以来70年にわたって親しまれた「小学校」が「国民学校」に変わった。教育体制を「皇国民の鍛錬のため」の新しい教育体制へと変えたのである。 |
1941年 昭和16年4/6 |
ドイツ、バルカン半島を攻略を開始
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1941年 昭和16年4/6 |
エチオピア、首都アジス・アベバをイタリアから解放
●イギリス軍の支援を受け進撃を続けていたゲリラ軍が、首都アジス・アベバを解放した。これによりエチオピアは5年ぶりに独立を回復した。エチオピアは1936年5月、首都アジス・アベバが陥落し、イタリアによって併合された。その時皇帝はなんとか脱出しイギリスに亡命していた。 |
1941年 昭和16年4/7 |
食肉不足のため、代用食肉の販売申請が続く
●犬、カエルなどの代用食肉の申請が続く警視庁衛生課に、アザラシの肉が申請される。 |
1941年 昭和16年4/8 |
企画院事件
●農林省農政課長和田博雄、治安維持法違反で検挙される。これは企画院事件といわれ、総力戦体制整備のため戦時経済政策を立案した企画院に対して、平沼騏一郎ら新体制運動に反発する勢力が「赤」攻撃を行ったもので、まったくのデッチ上げ事件だった。企画院関係者ら17名が検挙されたが、敗戦後昭和20年9月に一審判決が下り、1人を除いて全員無罪となった。 |
1941年 昭和16年4/13 |
日ソ中立条約調印(4/25批准発効)
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![]() ●ところがドイツは、2カ月先の6/22に独ソ不可侵条約(1939年8/23締結)を一方的に破りソ連に侵攻を開始した。この時点(4/13)でドイツのソ連侵攻準備はあらかた完了しつつあったはずである。松岡外相を含め日本はその情報を掴んでいなかったのだろうか。またドイツは英米がソ連を援助しないものと考えていたのだろうか。少なくとも日本は綱渡りをしていたことはまちがいない。 (新聞)昭和16年4/14の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 ●下は、「週報」情報局編輯(昭和16年4月23日号刊第237号)から引用した日ソ中立条約である。そこには各国の反響として、国民政府(重慶政府)がソ連からの援助を失うかもしれないという危惧や、この新条約によって日本は、ただちに南進政策を展開し太平洋戦争を引きおこすだろう、という評もあった。英国は、後顧の憂い(満州へのソ連の脅威)を絶った日本が、太平洋上に勢力を展開してくるということを最も懸念しているともある。
(日ソ中立条約)
大日本帝国およびソヴィエト連邦は、両国間の平和および友好の関係を鞏固ならしむるの希望に促され中立條約を締結することに決し左の如く協定せり。 第一條 両締約国は両国間に平和及び友好の関係を維持し且つ相互に他方締約国の領土の保全及び不可侵を尊重すべきことを約す 第二條 締約国の一方が一または二以上の第三国よりの軍事行動の対象となる場合には他方締約国は該紛争の全期間中、中立を守るべし 第四條 本條約は成るべく速かに批准せらるべし、批准書の交換は東京において成るべく速やかに行はるべし なお、右條約の調印と同時に、両国政府は次の要旨の声明を行った、とある。
「大日本帝国政府およびソヴィエ卜連邦政府は両国間に締結せられたる中立條約の精神に基づき両国間の平和及び友好関係を保障するため、大日本帝国は蒙古人民共和国の領土の保全及び不可侵を尊重し、ソヴィエト連邦は滿洲帝国の領土の保全及び不可侵を尊重す」
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1941年 昭和16年4/15 |
「昭和の国民礼法」を文部省が地方長官に通牒
●中等学校の終身の資料として、文部省が作成した「礼法要項」で、皇室に対する言動から、衣食住全般の日常生活の立ち振舞まで、細かく定められた。下にリンクしたが、絵入りで大変細かに書かれている。現代人としても読んでおいて損はないかもしれない。 リンクします「昭和の国民礼法 : 文部省制定」国民礼法研究会 編著 昭和16年刊
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1941年 昭和16年4/16 |
ハル米国務長官、「日米諒解案」を提示する。
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1941年 昭和16年4/30 |
ヒトラー総統、対ソ侵攻作戦実施を決意する。
●ヒトラー総統は、バルバロッサ作戦開始日を、5/25から6/22に変更した。 |
1941年 昭和16年5/2 |
イギリスが親ドイツ政権のイラクを攻撃
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1941年 昭和16年5/9 |
フランスとタイ、平和条約調印する
●日本の調停により東京で調印。フランスはタイにバッタンバン地方を割譲する。 |
1941年 昭和16年5/14 |
予防拘禁所官制公布
●これは、治安維持法違反者が刑期を終えても、検事の請求に基づいて裁判所が非転向と認めた場合は、再犯防止の名目で拘禁を継続させる制度。目的は、非転向を貫く3.15事件(1928年、共産主義者らを逮捕した事件)関係者などの釈放を阻止するためだった。 |
1941年 昭和16年5/19 |
インドシナ共産党、「ベトミン」を結成する
●この日、グエン・アイ・クオック(のちのホー・チ・ミン、51)を盟主に、ベトナム独立同盟(ベトミン)が結成された。これはインドネシア共産党が、第8回中央委員会総会で当面の目標を「民族解放革命」と規定した決定にもとづいたものだった。 |
1941年6/22ドイツ、ソ連に侵攻する。ドイツ軍「バルバロッサ作戦」開始。。日本はその2ヶ月前、日ソ中立条約を結ぶ。6/22松岡外相は即時対ソ参戦を主張。7/7大本営、関東軍特殊演習「関特演」のための第1次動員下命。これは対ソ戦を目的とした陸軍始まって以来の大動員だった。