1936年(昭和11年)②2.26事件後の「粛軍」と「国策の基準」を決定
2023年4月15日アジア・太平洋戦争
次に、2.26事件後の軍備大拡張による兵器の近代化と海軍の大建艦計画の一例をあげる。なかでも日本の航空技術は模倣の段階を卒業し、当時の世界トップレベルにまで進歩していく。
(写真)2.26事件で、国会議事堂付近へ出動した攻撃部隊(鎮圧)の戦車隊。(出典)河野司編「2.26事件 獄中手記・遺書」河出書房新社1989年新装初版発行。
陸軍は2.26事件後(昭和11年2/26)、石原莞爾大佐、梅津美治郎陸軍次官、寺内寿一陸軍大臣、杉山元教育総監らが「新統制派」の中核となった。そして「粛軍」の名において皇道派を排除するなかで、人事・機構の改編に乗り出し、国防国家の構築に着手した。参謀本部で中心となったのは石原莞爾で、6月には新設された第2課(戦争指導課)の課長に就任し、戦争指導と情勢判断の任に就いた。石原はソ連を主要敵国とする南守北進の方針をとった。一方海軍は、長谷川清海軍次官を中心に、中国とは共栄共存、ソ連に対しては積極的な侵攻策を放棄し、南方進出を図る北守南進論の方針をとった。
こうして8/7、広田首相、有田八郎外相、馬場鍈一蔵相、寺内寿一陸相、永野修身海相による五相会議が開かれ、「国策の基準」が決定された。その中で「・・東亜大陸ニ於ケル帝国ノ地歩ヲ確保スルト共ニ南方海洋ニ進出発展スルニ在リ・・」とし東南アジア進出を決め、後の太平洋戦争に至る重大な戦略を決定したのである。
続いて8/25政府は、7大国策14項目を発表し、広田内閣として「庶政一新」の名の下に政府の国策を決定した。第1に「国防の充実」をあげ、12年度の軍事費予算を総歳出の46.3%で計上した。また産業の振興及び貿易の伸張をあげ、電力の統制強化も打ち出した。
●またここでは「陸軍士官学校(旧制11期を含む)卒業者名(37期までの一部)」を略歴を含めて一覧にした。陸軍士官学校を卒業しかつ陸軍大学校を卒業した者たちが、将官クラスと参謀本部を形成し陸軍のトップエリートとなっていくのである。この戦争でキーマンとなった軍人の略歴を書いておいた。
次段の陸軍士官学校(旧制11期を含む)卒業者名リスト(一部)を参照してください。
●軍部内におけるこの運動の萌芽は、1921年(大正10年)欧州派遣中の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次ら3少佐のドイツ・バーデンバーデンでの会合に端を発し、昭和4年鈴木貞一(22期)らを中心に結成された「一夕会=いっせきかい」の集まりにあったとされる。そしてここに東条英機(17期)、小川恒三郎(14期)、河本大作(15期)、山岡重厚(15期)、土肥原賢二(16期)、板垣征四郎(16期)、磯谷廉介(16期)、山下奉文(18期)らが集まったのである。この一夕会の当初の目的は、陸軍部内における薩長藩閥、特に長州藩閥(長州出身の山縣有朋が築いた)を排除して、人事刷新を図ろうとしたものであった。そしてこの一夕会は昭和5年にはその目的を達したが、その会員は、その後の皇道派と統制派の闘争の主役となり、さらに15年戦争(満州事変から太平洋戦争まで)推進の主軸になっていくのである。
●この皇道派とは、荒木貞夫、真崎甚三郎らが中心で、観念的で精神主義的な面が強く、直接行動によって国内改造(天皇親政、軍部独裁)をめざす青年将校らが支持していた。しかしそれだけではなく、陸軍においてはリストでみるように、陸大卒業生が将官クラスとなり軍の中枢を担い、特権階層を築いていたことも間違いない。それに対して隊附きで陸大非卒の将校達の陸軍に対する不満は高まっており、それが皇道派ともいえるのである。一方統制派とは、永田鉄山が中心で、新官僚とも連携し総合的国策をとりながら、合法的手段によって軍部の覇権確立をめざすエリートの集団ともいえよう。
●ここでは、主な士官学校同期の卒業者名、その人物の陸軍大学校卒業期、そしてその人物の簡単な履歴のポイントを一覧にした。ただここにあげたのは最終階級が将官(大将、中将、少将)クラスばかりである。実際の戦闘・作戦のなかで将官クラスがどのくらい影響力を持ったかは不明である。リストの主要卒業者名は、「図解日本陸軍歩兵」画・中西立太、文・田中正人、並木書房2006年第2版発行から抜粋した。
士官生徒・期卒業年月 | 主要な卒業者(陸大卒期) | 備考(最終階級、最終軍職、略歴など) |
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旧01期(明治10年)1877.12(人数)117名 | ●石本新六 ●木越安綱(きごし-やすつな) |
●石本新六中将(陸軍大臣1911年-1912年)、薩長出身者以外で初めての陸軍大臣に就任。後任の陸相は上原勇作が就任(1912年)。 ●木越安綱中将(陸軍大臣1912年-1913年)長州閥、軍部大臣現役武官制改正に賛成したことにより辞任。 |
旧02期(明治11年)1878.12(人数)136名 | ●田村怡与造(-いよぞう) ●長岡外史(-がいし)(1期明治18年) ●豊島陽蔵 ●大谷喜久蔵 |
●田村怡与造中将、日露戦争(1904年2月)前年1903年参謀次長の時急死、後任に児玉源太郎中将就任。 ●長岡外史中将、日露戦争旅順攻略時(1904年-1905年)の参謀次長で、東京湾要塞などに配備されていた28サンチ砲を旅順攻略のために第3軍へ送ったとされる。 ●豊島陽蔵中将、日露戦争旅順攻略時の第3軍砲兵部長(野戦砲監から満州へ転出) ●大谷喜久蔵大将、シベリア出兵時のウラジオ派遣軍(1918年10月)の司令官。 |
旧03期(明治12年)1879.12(人数)96名 | ●上原勇作(元帥) ●秋山好古(1期明治18年) ●楠瀬幸彦(くすのせ-) ●柴五郎 |
●上原勇作元帥(陸軍大臣1912年、教育総監1914年、参謀総長1915年)は山縣有朋、桂太郎ら長州閥の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原閥・九州閥)を築いた。荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らが 上原閥に属するとされる。 ●秋山好古大将(教育総監1920年) ●楠瀬幸彦中将(陸軍大臣1913年-1914年)、辞任した木越安綱の後を受け陸軍大臣に就任。 ●柴五郎大将「義和団の乱1900年」の防衛戦で世界から賞賛を受ける。会津藩士の子。「ある明治人の記録」 |
旧04期(明治14年)1881.12(人数)58名 | ●岡市之助(4期明治21年) | ●岡市之助中将(陸軍大臣1914年-1913年)、軍部大臣現役武官制改正問題で、次官でありながら木越安綱陸相に反対。 |
旧05期(明治15年)1882.12 人数60名 | ||
旧06期(明治16年)1883.12(人数)59名 | ●明石元二郎(あかし-もとじろう)(5期明治22年) | ●明石元二郎大将は日露戦争時、ロシア革命援助工作を行った。1910年寺内正毅韓国統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務、韓国での武断政治を行う。1918年(大正7年)台湾総督。 |
旧07期(明治18年)1885.06(人数)61名 | ●宇都宮太郎(6期明治23年)優等 | ●宇都宮太郎大将は3.1運動時(1919年)の朝鮮軍司令官。佐賀閥として皇道派の荒木貞夫・真崎甚三郎を庇護した。宇都宮太郎死去の後、上原閥が引き継いだ。 |
旧08期(明治19年)1886.06(人数)144名 | ●田中義一(首相)(8期明治25年) ●山梨半造(8期明治25年) ●佐藤鋼次郎 |
●田中義一大将は陸軍大臣などを歴任、1927(昭和2年)-1929(昭和4年)内閣総理大臣(第26代)、張作霖爆殺事件(昭和3年6/4)の処分の変節で、翌年(昭和4年)天皇に叱責され内閣総辞職、その約3ヶ月後狭心症で死去。 ●山梨半造大将1921年(大正10年)10月原内閣の陸軍大臣、1922年「山梨軍縮」、1927年(昭和2年)12月朝鮮総督、その後朝鮮総督府疑獄が暴露され辞任。 ●佐藤鋼次郎中将、日露戦争旅順攻略時、豊島陽蔵少将の部下で、近代要塞の数少ない専門家。この時佐藤鋼次郎砲兵中佐が、機材準備と輸送の全てを担当した。 |
旧09期(明治20年1887.07(人数)189名 | ●福田雅太郎(9期明治26年) | ●福田雅太郎大将、台湾軍司令官などを歴任、陸軍大将に進級、軍事参議官となる。そして1923年9月関東大震災に伴い、関東戒厳司令官を兼務した。しかし在職中、甘粕事件が起こり、そのため司令官を更迭された。福田大将は上原派であり、陸軍大臣就任で宇垣一成大将に対抗したが敗退した。 |
旧10期(明治21年)1888.07 (人数)158名 | ||
旧11期(明治22年)1889.07 (人数)207名 |
士官候補生・期卒業年月 | 主要な卒業者(陸大卒期) | 備考(最終階級、最終軍職、略歴など) |
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01期(明治23年)1890.07(人数)147名 | ●鈴木荘六(12期明治31年)優等。 ●白川義則(12期明治31年) ●宇垣一成(14期明治33年)優等。 |
●鈴木荘六大将(陸軍参謀総長1926年-1930年)、張作霖爆殺事件前後における参謀総長である。 ●白川義則大将、関東軍司令官・陸軍大臣(昭和2年-4年)を歴任し、1932年(昭和7年)4月29日、上海派遣軍司令官として上海天長節爆弾事件に遭遇し重傷を負い、翌月に死去した。 ●宇垣一成大将は田中義一の後継者とされ、1925年(大正14年)陸軍大臣として大軍縮を断行する。この宇垣一成による軍縮により、上原派の有力将校は現役を追われ、宇垣によって陸軍は事実上宇垣閥に統一された。また濱口雄幸内閣で再び陸軍大臣(昭和4年-6年)となる。そして1931年(昭和6年)に発覚した3月事件は、宇垣を首班指名する未遂計画だった。1937年(昭和12年)宇垣に組閣の大命が下るが、陸軍の反対でとん挫する。そして1938年(昭和13年)5月、第1次近衛内閣の改造で外相兼拓務相に就任して日中戦争の和平交渉に尽力したが、陸軍の宇垣に対する反発から成功せず、また興亜院設置反対もあり同年9月に辞職した。東条に対抗できた人物、戦後参議院議員。 |
02期(明治24年)1891.07 (人数)148名 | ||
03期(明治25年)1892.07(人数)137名 | ●武藤信義(-のぶよし)(元帥)(13期明治32年)首席。 | ●武藤信義元帥(陸軍大将)は1932年(昭和7年)8/8関東軍司令官(特命全権大使・関東庁長官を兼任)に任命され、9/15満州国承認の「日満議定書」を日本全権として調印する。1933年(昭和8年)8月新京で病没。 |
04期(明治26年)1893.07 (人数)188名 | ||
05期(明治27年)1894.07(人数)213名 | ●金谷範三(15期明治34年)優等。 ●村岡長太郎(16期明治35年)優等。 |
●金谷範三大将、1928年8月、陸軍大将に進み、軍事参議官、参謀総長を歴任。 ●村岡長太郎中将、1927年(昭和2年)関東軍司令官。1928年(昭和3年6/4)の張作霖爆殺事件の責任を問われ、予備役編入。 |
06期(明治28年)1895.01(人数)216名 | ●南次郎(17期明治36年) | ●南次郎大将は田中義一、宇垣一成の直系として1929年(昭和4年)朝鮮軍司令官に就任、1931年(昭和6年)宇垣の後任として陸軍大臣となる。関東軍司令官だったが2.26事件後(昭和11年2月)他の大将と同調して予備役編入。 |
07期(明治29年)1896.05(人数)270名 | ●菊池武夫(男爵・貴族院議員)(18期明治39年) ●峯幸松 |
●菊池武夫(中将)、天皇機関説糾弾など、国体明徴運動の先鋒として知られる。 ●峯幸松中将(憲兵隊司令官)、1928年(昭和3年)張作霖爆殺事件で、白川陸相に現地調査に派遣され、河本大佐らの謀略を把握し、田中首相に真相を報告した。 |
08期(明治29年)1896.11(人数)292名 | ●林銑十郎(首相)(17期明治36年) ●渡辺錠太郎(17期明治36年)首席。 |
●林銑十郎大将(朝鮮軍司令官)は1931年(昭和6年)9月柳条湖事件(満州事変勃発)の際、陸軍中央の指示無しに朝鮮派遣軍を満州に越境させ(統帥権干犯)、「越境将軍」と呼ばれた。また陸相時代1935年(昭和10年)に皇道派の真崎甚三郎教育総監を更迭し、渡辺錠太郎大将を教育総監とした。1937年(昭和12年)2月宇垣内閣が流産すると、林銑十郎は総理大臣として大命を受けたが、4ヶ月足らずで総辞職した。 ●渡辺錠太郎大将(陸軍教育総監)は1936年(昭和11年)2.26事件で私邸(荻窪)にて暗殺される。 |
09期(明治30年)1897.11(人数)650名 | ●阿部 信行(首相)(19期明治40年)優等。 ●真崎甚三郎(まさき-じんざぶろう)(19期明治40年)優等。 ●荒木貞夫(19期明治40年)首席。 ●松井石根(-いわね)(18期明治39年)優等。 |
●阿部 信行大将、2.26事件(昭和11年)後、辞表を提出し予備役編入。1939年(昭和14年)首相に就任、阿部内閣発足の2日後、9/1第二次世界大戦が勃発し、5ヶ月足らずで総辞職。 ●真崎甚三郎大将、教育総監、2.26事件で皇道派の中心人物と見られ起訴されたが無罪。 ●荒木貞夫大将、皇道派の中心人物。犬養内閣、斎藤内閣の陸軍大臣(昭和6年-9年)。2.26事件後、辞表を提出し予備役編入となった。その後第一次近衛内閣、平沼内閣で文部大臣に就任、軍国主義教育を推進した。 ●松井石根大将、台湾軍司令官、中支那方面軍司令官時の「南京大虐殺」事件の責任者として、東京裁判で絞首刑。 |
10期(明治31年)1898.11(人数)649名 | ●植田謙吉(21期明治42年) ●川島義之(20期明治41年優等。 ●水町竹三(22期明治43年) ●斉藤恒(-ひさし)(19期明治40年) |
●植田謙吉大将、南次郎大将の後を継いで関東軍司令官。 ●川島義之大将、2.26事件時(昭和11年2月)の陸軍大臣(昭和10年-11年)、蹶起将校の行動を是認する内容の「陸軍大臣告示」を行い、事態はさらに紛糾する。事件終了後責任を取り他の大将と共に予備役編入。 ●水町竹三少将、張作霖爆殺事件時(昭和3年6/4)の独立守備隊司令官(南満州鉄道の守備)。部下の東宮鉄男大尉が爆薬を点火したが、水町竹三少将はけん責だけで処分はされなかった。 ●斉藤恒中将、張作霖爆殺事件時の関東軍参謀長、けん責だけですんだが、その後東京湾要塞司令官。 |
11期(明治32年)1899.11(人数)670名 | ●寺内寿一(元帥)(-ひさいち(21期明治42年) | ●寺内寿一元帥は、元帥寺内正毅陸軍大将の長男である。寺内正毅は日韓併合及び「武断政治」を行った初代朝鮮総督などを歴任し、第18代内閣総理大臣(大正5年-大正7年)になった元帥である。 寺内寿一は、2.26事件後の広田弘毅内閣で陸軍大臣(昭和11年-昭和12年)となり、新統制派として、石原莞爾大佐、梅津美治郎陸軍次官、杉山元(教育総監)らと皇道派粛正と政治変革を推進した。「軍部大臣現役武官制」「陸海軍官制改正」など。そして太平洋戦争が始まると、南方戦線の全陸軍部隊を統括する南方軍総司令官を務め、シンガポールで降伏し病死した。 |
12期(明治33年)1900.11(人数)655名 | ●杉山元(-げん/はじめ)(元帥)(22期明治43年) ●畑俊六(元帥)(22期明治43年)首席 ●小磯国昭(首相)(22期明治43年) ●柳川平助(24期大正元年)優等。 |
●元帥杉山元大将、陸軍大臣(昭和12年-13年)、教育総監、太平洋戦争開戦時(昭和16年)の参謀総長。第1総軍司令官(本土決戦)。敗戦後の昭和20年9/12自決 ●元帥畑俊六大将、参謀本部を中心に歴任後、1936年(昭和11年)に台湾軍司令官、1937年に軍事参議官・教育総監を兼任する。南京事件後1938年(昭和13年)に松井大将の代わりに中支那派遣軍司令官となり、徐州戦、武漢作戦を指揮。阿部内閣で陸軍大臣(昭和14年-15年)となり、1941年(昭和16年)に支那派遣軍総司令官。1944年大陸打通作戦を指揮、1945年第2総軍(西日本防衛担当)の司令官、広島市で被爆するが奇跡的に助かる。東京裁判で終身禁錮。1954年仮釈放。 ●小磯国昭大将、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を経て、平沼・米内両内閣の拓相、朝鮮総督を歴任。1944年(昭和19年)7月、東条内閣のあとを受けて組閣。東京裁判において終身禁固の刑、服役中に病没。 ●柳川平助中将、皇道派のため2.26事件後予備役、1937年再招集され現役復帰し第10軍司令官に任命される。そして1937年(昭和12年)11月第2次上海事変支援のために杭州湾上陸、11月7日に上海派遣軍と第10軍とが中支那方面軍に編成され、松井石根大将が司令官に任命された。ところが第1戦部隊は作戦ラインを越えて追撃し、南京攻略に向かった。「南京事件」のはじまりである。 |
13期(明治34年1901.11(人数)722名 | ●中村孝太郎(21期明治42年) ●建川美次(たてかわ-よしつぐ)(21期明治42年)優等 ●川原侃 |
●中村孝太郎大将、林銑十郎内閣で陸軍大臣(昭和12年2月)となるが、病気のため1週間で辞任。昭和13年7月朝鮮軍司令官となる。 ●建川美次中将。1931年(昭和6年9/18)満州事変勃発前、南次郎陸相は関東軍の暴走を抑えるため、当時参謀本部第1部長の建川美次少将を満州へ送った。しかし建川はもともと満蒙問題武力解決賛成派だったので、謀略を止める気はなかった。建川は18日夕刻に奉天に着いたが、その夜柳条湖事件は勃発したのである。 ●川原侃旅団長率いる川原挺身隊は、熱河作戦での陸軍最初の自動車機械化部隊。 |
14期 (明治35年) 1902.11 (人数)702名 | ||
15期(明治36年)1903.11(人数)708名 | ●梅津美治郎(-よしじろう)(23期明治44年)首席。 ●多田駿(-はやお)(25期大正2年) ●河本大作(こうもと-だいさく)(26期大正3年) ●田代皖一郎(-かんいちろう)(25期大正2年) |
●梅津美治郎大将、支那駐屯軍司令官の時、昭和10年6月「梅津・何応欽協定」を結ぶ。2.26事件後(昭和11年2月)陸軍次官に就任し寺内寿一陸軍大臣の下、皇道派追放の粛軍を行う。その後関東軍司令官となり1944年最後の参謀総長となり、ミズリー号で降伏文書に署名した(大本営)。敗戦後東京裁判で終身刑、服役中に獄中死。 ●多田駿大将、1938年第3軍司令官(満州東部国境守備)、盧溝橋事件(1937年7月)以後、石原莞爾らと同じく支那事変不拡大派であったため、拡大派の東条英機と対立し予備役に編入される。 ●河本大作大佐は関東軍高級参謀の時、張作霖爆殺事件(昭和3年6/4)を起こした。陸軍は処罰に反対し、河本大佐は停職にとどまったが1年後予備役編入、田中内閣は総辞職(昭和4年7月)した。 ●田代皖一郎中将は、上海派遣軍司令官白川義則大将の参謀長。支那駐屯軍司令官となるが病を得て、司令官の職を香月清司中将に譲る。 |
16期(明治37年)1904.11(人数)549名 | ●板垣征四郎(28期大正5年) ●土肥原賢二(どいはら)(24期大正元年) ●岡村寧次(-やすじ)(25期大正2年) ●永田鉄山(23期明治44年)優等 ●小畑敏四郎(-としろう)(23期明治44年)優等 ●磯谷廉介(いそがい-れんすけ)(27期大正4年) ●尾高亀蔵(すえたか-かめぞう)(28期大正5年) |
●板垣征四郎大将、昭和4年、関東軍の高級参謀に就任し、昭和6年、石原莞爾らと謀り満州事変を起こす。しかし昭和7年荒木貞夫陸相による皇道派人事によって満州組は左遷される。しかし昭和10年以降の統制派人事(林銑十郎・永田鉄山らによる)によって復活し、第1次近衛文麿内閣と平沼騏一郎内閣で陸軍大臣(昭和13年-14年)、その後朝鮮軍司令官となり、第7方面軍司令官(シンガポール防衛)で敗戦を迎えた。戦後東京裁判で絞首刑。 ●土肥原賢二大将、昭和6年奉天特務機関長に就任し、のちの満州国皇帝溥儀の天津から脱出による満州国建国や、華北分離工作の推進による冀東防共自治政府の成立など謀略部門のトップとして中心的役割を果たす。その後陸軍士官学校長を務め、昭和20年教育総監に就任する。敗戦後東京裁判で絞首刑。 ●岡村寧次大将、1944年(昭和19年)11月中国大陸の部隊を統括する支那派遣軍総司令官に就任(1945年8月敗戦まで)。敗戦時においても支那派遣軍は兵力が温存されていたため、徹底抗戦遂行を主張したが、天皇の命令により降伏を承諾、南京軍事裁判では無罪となる。 ●永田鉄山少将(中将)・陸軍省軍務局長は、相沢事件(昭和10年8月)で相沢三郎歩兵中佐に局長室内で刺殺される。当時相沢少将は陸軍省きっての逸材で「永田の前に永田なく永田の後に永田なし」といわれ、陸軍大学校校長・小畑敏四郎少将、参謀本部第2部長・岡村寧次少将とともに、陸軍士官学校16期3羽烏といわれていた。この永田鉄山は統制派の中心であり、この事件の直接の原因となったのも、皇道派の真崎甚三郎教育総監が罷免されたことにあった。罷免された理由も、皇道派である真崎甚三郎が統制派による人事に猛烈に反対していたからである。陸軍の将官人事は、陸軍大臣、参謀総長、教育総監の3長官の協議で決定するのが慣例であった。そこで統制派は皇族である閑院宮参謀長の支持を得て抵抗する真崎甚三郎教育総監を罷免したのである。 ●小畑敏四郎中将、2.26事件後の粛軍人事で予備役となった。敗戦後の1945年(昭和20年)8月から10月の東久邇稔彦・皇族内閣で国務大臣を務めた。 ●磯谷廉介中将、1937年(昭和12年)3月、第10師団長として徐州会戦などに参加、1938年6月関東軍参謀長、翌1939年(昭和14年)9月にノモンハン事件の敗北の責任を取り参謀長を辞任。このノモンハン事件の時、磯谷参謀長の反対論を辻政信参謀と服部卓四郎参謀が押し切ったとされる。 ●尾高亀蔵中将は、1938年(昭和13年)7月「張鼓峰事件」(満州とソ連の国境紛争)時の第19師団長。独断でソ連軍攻撃を命令した。その後新設の第12軍司令官(北支那方面軍に編入)に転出した。 |
17期(明治38年)1905.03(人数)363名 | ●東条英機(首相)(27期大正4年) ●荻洲立兵(おぎす-りっぺい)(28期大正5年) |
●東条英機大将、関東軍参謀総長(昭和12年3月)、第1次近衛内閣の陸軍大臣(板垣征四郎)の下で陸軍次官、陸軍航空本部長(のちに陸軍航空総監)。第2次・第3次近衛内閣で陸軍大臣(昭和15年7月-昭和16年10月)、1941年(昭和16年)10/18より東条内閣組閣、内務大臣・陸軍大臣を兼務する。そして1941年(昭和16年)12/8太平洋戦争に突入する。1944年(昭和19年7/18)戦局の悪化に伴い東條内閣総辞職。敗戦後東京裁判で絞首刑。 ●荻洲立兵(中将、第6軍司令官)。初代第6軍司令官(満州-関東軍に編入、第23師団やハイラル第八国境守備隊を編合)となりノモンハン事件に出動。停戦後に参謀本部付。 |
18期(明治38年)1905.11(人数)920名 | ●山下奉文(-ともゆき) (28期大正5年) 優等。 ●阿南惟幾(あなみ-これちか)(30期大正7年) ●小松原道太郎(27期大正4年) ●安岡正臣(-まさおみ)(26期大正3年) ●澤田茂(26期大正3年) |
●山下奉文(大将、第14方面軍司令官)。皇道派であったため2.26事件後、陸軍の主流から外される。しかし太平洋戦争開戦直前1941年(昭和16年)11月、ビルマルート(蔣介石に対する各国の援助ルート)切断と、イギリス軍拠点シンガポール攻略のための第25軍(マレー攻略部隊)司令官に任命される。第25軍は近衛師団、第5師団、第18師団を基幹とし、第18師団がイギリス領コタバルへの上陸作戦を開始したのは日本時間でハワイ真珠湾攻撃(1941年12/8)より早かった。続くシンガポールの戦いでのイギリス軍司令官のパーシバル中将との降伏会談(1942年2月)は有名。しかしその後、満州の第1方面軍司令官となったのち、1944年(昭和19年)9月、第14方面軍司令官(フィリピン防衛)となり1945年(昭和20年)9月降伏した。その後すぐに戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられ、シンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の責任を問われ絞首刑となった。 ●阿南惟幾大将、1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)まで陸軍次官を務め、昭和15年7月には陸軍大臣を辞任させることによる、海軍大将米内光政内閣の倒閣を画策する。そして1941年4月、阿南は第11軍(中支戦線)司令官に任命される。その後1945年(昭和20年)4月鈴木貫太郎内閣の陸相に就任し、徹底抗戦を主唱し、8/14無条件降伏決定後の8/15早朝、「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を残し自決(割腹)した。 ●小松原道太郎中将、参謀本部で、対ロシア・ソ連諜報活動に従事。昭和13年満州(中国東北部)配属の第23師団長に就任。頻発するロシア・モンゴルとの国境紛争なかで、昭和14年5月ハルハ河付近での紛争が大規模な戦争(ノモンハン事件)に発展した。この時の師団が第23師団で小松原道太郎中将が師団長だった。この小松原師団の損耗率(戦死・戦傷・戦病)は79%に達したといわれる。その後小松原は関東軍司令部付さらに参謀本部付となって1940年に予備役に編入され、病死した。 ●安岡正臣(中将、留守第3師団長)。安岡中将は、第1次ノモンハン事件で、関東軍が反撃のために準備した最精鋭の安岡支隊の支隊長で第1戦車団長。これは歩兵第26連隊に第1戦車団を編合したものだが、ソ連軍との交戦で大損害を受ける。 ●澤田茂(中将、第13軍司令官・支那派遣軍の戦闘序列)。澤田中将は第13軍司令官として上海にいて、第11軍の一部と昭和42年5月より杭州-長沙間沿い中国軍を挟撃しながら進軍し、7月には初期の作戦目的を果たした。 |
19期(明治40年)1907.05(人数)1068名 | ●今村均(-ひとし)(27期大正4年)首席。 ●本間雅晴(27期大正4年)優等。 ●儀峨徹二(ぎが-てつじ)(26期大正3年) ●河辺正三(かわべ-まさかず)(27期大正4年)優等。 |
●今村均(大将、第8方面軍司令官=ソロモン・ニューギニア作戦)。1942年(昭和17年)11月からニューブリテン島ラバウルに司令部を置いた。第8方面軍は、新たに編成された第18軍と17軍を統括した。 ●本間雅晴(中将、第14軍司令官=フィリピン攻略)。このとき日本軍は激戦の末、米比軍を降伏させ、マッカーサー大将はコレヒドール島を脱出した。この時起きたのが「バターン死の行進」である。本間雅晴中将は、戦後バターン死の行進の責任を問われて銃殺刑。 ●儀峨徹二(中将、浜松飛行学校校長)。儀峨中将は第1次ノモンハン事件で、第2飛行集団長として6/27ソ連領内のタムスクを越境爆撃し大きな戦果をあげた。しかしこれは関東軍の独断であった。 ●河辺正三(大将、航空総軍司令官)。河辺大将は、牟田口廉也中将の盧溝橋事件当時からの上司で、インパール作戦に関しても、ビルマ方面軍司令官として黙認した。 |
20期(明治41年)1908.05(人数)276名 | ●牛島満(28期大正5年) ●橋本群(-ぐん)(28期大正5年)優等。 ●朝香宮鳩彦王(あさかのみや-やすひこおう)(皇族)(26期大正3年) ●東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや-なるひこおう(首相)(皇族)(26期大正3年) ●下村定(28期大正5年)首席。 ●飯田祥二郎(27期大正4年) ●酒井隆(28期大正5年) |
●牛島満大将、第32軍司令官(沖縄戦を指揮)、1945/6、自決。 ●橋本群中将、支那駐屯軍参謀長、ノモンハンで予備役。 ●朝香宮鳩彦王(大将、上海派遣軍司令官) ●東久邇宮稔彦王(大将、防衛総司令官)。敗戦後、1945年8月内閣総理大臣(第43代)に就任。「一億総懺悔」を唱える。 ●下村定(大将、陸軍大臣)。戦争の末期に、北支那方面軍司令官。30数万の将兵で、黄河の流域から満洲の南部国境かけて作戦警備を行う。東久邇宮首相から陸軍大臣に任命され帰国。 ●飯田祥二郎(中将、中部軍司令官)。太平洋戦争初期(1941年)に第15軍司令官となり、ビルマ攻略を指揮。1945年に第30軍司令官として、第3方面軍(満州)の戦闘序列に編入され、南満州に配備されソ連軍と交戦し、敗戦となりシベリア抑留された。 ●酒井隆(中将、第23軍司令官)。1941年香港攻略作戦を指揮、南京軍事裁判で死刑。 |
21期(明治42年)1909.05(人数)418名 | ●石原莞爾(いしわら-かんじ)(30期大正7年)優等。 ●内山英太郎(32期大正9年) ●百武晴吉(ひゃくたけ-はるよし/せいきち/はるきち)(33期大正10年) |
●石原莞爾(中将、第16師団長)。1928年(昭和3年10月)、石原莞爾中佐が関東軍作戦主任参謀として着任、翌1929年板垣征四郎大佐が河本大佐の後任として関東軍高級参謀として着任した。そしてこの2人が1931年(昭和6年9/18)満州事変を引き起こし、1932年3/1満州国を建国させるのである。そして1935年8月から参謀本部に戻り、1936年(昭和11年2/26)の2.26事件では石原莞爾大佐は、参謀本部第1部作戦課長として皇道派を鎮圧した。しかし1937年7/7盧溝橋事件(日中戦争の始まり)が起こると、石原は慎重論を唱えたため、強硬派である関東軍の参謀長東条英機中将や参謀副長の今村均大佐ら、そして近衛文麿首相も強硬論を支持したため石原は失脚していったのである。 ●内山英太郎(中将、第15方面軍司令官=本土決戦)。1939年7月のノモンハン事件の時、ソ連軍の機械化部隊に敗退し関東軍の戦車部隊は全滅を恐れて撤退していった。代わりに前線に増強されたのが、内山栄太郎中将指揮の砲兵団だった。のちに内山中将は第12軍司令官となり「大陸打通作戦」へ向かう。 ●百武晴吉(中将、第17軍司令官)。ソロモン諸島と東部ニューギニアの攻略を担当。ただこの地域は海軍の主担当地域のため、隷下に固有師団を持たない小編成の軍だった。このニューギニア戦線でも、大本営派遣参謀辻政信中佐の専断命令でポートモレスビー攻略作戦を開始し、ガダルカナル以上の飢餓の惨状を生んだとされる。 |
22期(明治43年)1910.05(人数)721名 | ●牟田口廉也(むたぐち-れんや)(29期大正6年) ●安達二十三(-はたぞう)(34期大正11年) ●松井太久郎(29期大正6年) ●鈴木貞一 (29期大正6年) ●田中久一(30期大正7年) ●西村琢磨(32期大正9年) ●森岡皐(-すすむ)(32期大正9年) ●北野憲造(31期大正8年) ●本多政材(-まさき)(29期大正6年) ●相沢三郎 |
●牟田口廉也中将、第15軍司令官(インパール作戦1944年3月を指揮)。この作戦は無謀な作戦の代名詞とされ、「3人の師団長解任」や「白骨街道」と呼ばれた悲惨な撤退で3万人が死亡した。 ●安達二十三(中将、第18軍司令官)。1942年11月に新たに編成された第18軍司令官としてニューギニア戦線で戦闘を続ける。 ●松井太久郎(中将、第13軍司令官)。支那派遣軍の戦闘序列に編入、上海方面を作戦地域。 ●鈴木貞一中将、興亜院政務部長。東條内閣の国務大臣。太平洋戦争開戦の御前会議(1941年)で開戦を主張する。東条英機首相の側近の一人。 ●田中久一(中将、第23軍司令官)支那派遣軍隷下。戦犯として広東で銃殺刑。 ●西村琢磨(中将、近衛師団長)。マレー作戦に参加後、ビルマにて政庁長官を勤めた。戦犯として死刑。 ●森岡皐(中将、第16師団長)。1941年-1942年、第16師団はフィリピン攻略第14軍(本間雅晴中将)隷下にあった。 ●北野憲造(中将、陸軍士官学校校長)。1942年2月フィリピン攻略第14軍に新たに第4師団(北野憲造師団長)が補充された。 ●本多政材(中将、第33軍司令官)。第33軍はビルマ方面軍に編入され北部ビルマを防衛し、第28軍は南方のインド・ビルマ南部国境を守備した。しかし中央部にいた第15軍が1944年3月開始のインパール作戦で失敗、戦力を喪失すると、米中連合軍と雲南遠征軍のビルマ南下攻勢が始まった。 ●皇道派の相沢三郎は、真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し、1935年8月統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した(相沢事件)。軍法会議で銃殺刑。 |
23期(明治44年)1911.05(人数)740名 | ●水上源蔵 ●堀井富太郎 ●丸山政男(31期大正8年) ●奈良晃中将(32期大正9年) ●佐野忠義(34期大正11年) ●小田健作 ●小畑英良(31期大正8年)優等。 ●桜井省三(31期大正8年)優等。 ●橋本 欣五郎(32期大正9年) |
●水上源蔵(中将、第56歩兵団長)1944年のインパール作戦と同時期、北部ビルマ防衛の第33軍から北ビルマの要衝ミイトキーナに援軍を命じられ、激戦の中、部下の将兵を撤退させその後自決。 ●堀井富太郎(中将、南海支隊長)1941年編成され、1942年(昭和17年)7月からのポートモレスビー作戦(ニューギニア戦線)で悲惨を極めた撤退の中で戦死。 ●丸山政男中将、1942年9月、ガダルカナル島の戦いで川口支隊が敗退したころ、第16軍から第2師団(師団長丸山政男中将)が17軍に編入となり、ガダルカナルへ向かったが、ジャングル内の行軍は困難を極め1493年2月撤退した。 ●奈良晃(中将、独立混成第65旅団長)。1941-1942年のフィリピンの戦いでバターン半島コレヒドール要塞の攻撃に参加。 ●佐野忠義(中将、第34軍司令官)。第38師団長として1942年オランダ領パレンバン(スマトラ)を攻略し南部スマトラを占領した。その後ガダルカナル島の戦いに従事。 ●小田健作(中将、南海支隊長)。堀井少将の後任として南海支隊長としてニューギニア戦線で戦闘。撤退作戦で自決。 ●小畑英良大将、第31軍(トラック島)司令官、戦死 ●桜井省三中将、第28軍司令官(ビルマ) インパール撤退後の防衛作戦で奮闘、全滅を回避。 ●橋本 欣五郎(大佐、野重砲兵第2連隊長)2.26事件後責任を問われ予備役となる。日中戦争の勃発に伴い、連隊長として再び召集されたが、南京攻略戦の際の1937年12/12、陸軍はイギリス砲艦レディバード号を砲撃(レディバード号事件)、また海軍機はアメリカの砲艦パネー号(アメリカ大使館臨時事務所)を揚子江南京付近で誤爆により撃沈した(パネー号事件)という事件が発生し、その責任を取って陸軍砲兵大佐で退役。東京裁判で終身刑。 |
24期(明治45年)1912.05(人数)734名 | ●河辺虎四郎(かわべ)(33期大正10年)優等。 ●佗美浩(たくみ-ひろし) ●横山与助 ●甘粕正彦(あまかす) ●土橋勇逸(つちはし-ゆういつ/たけやす)(32期大正9年) ●中野英光(-ひでみつ)(32期大正9年) |
●河辺虎四郎(中将、参謀次長)。1945年(昭和20年)4月最後の参謀次長となり、8/20降伏受け入れのため連合国の指示により、マニラにて連合国軍総司令部から降伏文書等を受領した。この降伏文書が後にミズリー号で調印された降伏文書である。 ●佗美浩(少将)1941年12/8、マレー攻略部隊第25軍(山下奉文司令官)隷下の第18師団(牟田口廉也師団長)の佗美支隊が、マレー半島コタバルへ先遣上陸した。 ●横山与助(大佐、独立工兵第15連隊長)マレー作戦で進撃路の架橋補修で名を馳せ、ニューギニア戦線のポートモレスビー攻略作戦に派遣された。 ●甘粕正彦、陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件(1923年9月)を起こした。関東大地震直後の弾圧事件(無政府主義者大杉栄らの殺害) ●土橋勇逸(中将、第38軍司令官)第48師団長として台湾で編成され、南方敵前上陸作戦専用に準備され揚陸訓練を施された部隊。(アメリカ軍の海兵隊のような部隊) ●中野英光(中将、第51師団長)。中国戦線から18軍司令部と共に中部ニューギニアに展開。第51師団はダンピール海峡で大損害を受ける。そして残余勢力でサラモア方面に展開し、さらに北方に撤退していったがオーストラリア軍との戦闘のなかで敗戦を迎える。 |
25期(大正2年)1913.05(人数)741名 | ●佐藤幸徳(33期大正10年) ●山内正文(36期大正13年) ●田中新一(35期大正15年) ●前田正実(34期大正11年) ●武藤章(32期大正9年)優等 |
●佐藤幸徳(中将、第31師団長)。1938年ソ連との国境紛争である張鼓峰事件で孤軍奮闘し張鼓峰を死守した剛将として名を馳せる。第31師団長(インパール作戦)時(1944年)には、牟田口廉也第15軍司令官に「抗命」し撤退する。解任され精神病扱いで野戦病院へ送られる。 ●山内正文中将第15師団長、インパール作戦時(1944年)マラリヤに罹患し解任され、戦病死。 ●田中新一 中将、参謀本部第1部長、ビルマ方面軍参謀長。盧溝橋事件(1937年)で拡大方針を主張。参謀本部第1部長(1940年)時には対米開戦を強行に主張。1942年東条首相と対立、南方軍司令部付きとされる。インパール作戦立案時の小畑信良少将罷免にも関与。 ●前田正実(中将、第14軍参謀長)フィリピン作戦でマニラ占領(1942年1月) ●武藤章 中将、軍務局長、第14方面軍(フィリピン)参謀長、東京裁判で絞首刑。 |
26期(大正3年)1914.05(人数)742名 | ●栗林忠道(くりばやし-ただみち)(35期大正12年)優等 ●田中隆吉(34期大正11年) ●宮崎繁三郎(36期大正13年) ●山県武光 ●川口清健(34期大正11年) ●柳田元三(34期大正11年)優等。 ●原田憲義 ●木庭大(きにわ-ひろし) |
●栗林忠道 大将、小笠原兵団長、硫黄島の戦いで戦死。陸軍史上最年少の陸軍大将) ●田中隆吉(少将、兵務局長)。第1次上海事件(1932年1月)は当時在上海陸軍武官補佐官の田中隆吉少佐による謀略だった。また綏遠事件にも関与した。敗戦後東京裁判にて検察側(連合国側)の証人として証言した。 ●宮崎繁三郎(中将、第54師団長)。1944年3月からのインパール作戦時、抗命し撤退した第31師団(佐藤幸徳師団長)の下で、31師団歩兵団長(宮崎繁三郎中将)は、コヒマでしんがりを務めた。その後1945年6月下旬ペグー山中に転戦、孤立した中でシッタン作戦(撤退戦)を展開し激戦の中敗戦となる。 ●山県武光大佐、山県支隊(支隊長・歩64連隊長・歩兵1個大隊および第23師団捜索隊基幹)がノモンハン事件で1939年5月再度の攻撃に投入されたが、ソ連・モンゴル軍の猛烈な反撃を受け、師団捜索隊が孤立し全滅、山県支隊は撤退。 ●川口清健少将、1942年8月にガダルカナル島で一木隊が壊滅した後、第17軍隷下の旅団規模の川口支隊(支隊長川口清健少将・歩35旅団基幹)が米軍基地飛行場を背後から奇襲制圧を試みたが、9月大打撃を受け後退した。 ●柳田元三 中将第33師団長、インパール作戦時(1944年)、牟田口廉也第15軍司令官に作戦再考を上申して解任される。 ●原田憲義(大佐、歩兵21連隊長)。1941年からのマレー作戦で、1942年2月シンガポール攻略作戦で第25軍隷下の第5師団・歩兵21連隊は英軍と激闘を重ねる。 ●木庭大(大佐、歩兵55連隊長)。同じくシンガポール攻略作戦で、第25軍隷下の第18師団・歩兵55連隊も英軍と激闘を重ね、シンガポールを陥落させる。 |
27期(大正4年)1915.05(人数)761名 | ●東宮鉄男(とうみや-かねお) | ●東宮鉄男(大佐)。張作霖爆殺事件(昭和3年6/4)の時、独立守備隊第2大隊の東宮鉄男大尉が爆薬のスイッチを押した。 |
28期(大正5年)1916.05(人数)651名 | ●一木清直(いちき-きよなお) ●長勇(ちょう-いさむ)(40期昭和3年) |
●一木清直大佐。1942年8月、ガダルカナル島がアメリカ軍に奪回された後、グアム島で待機中の一木支隊(歩兵28連隊基幹)がガダルカナル奪回作戦に投入された。だがアメリカ軍の予想を超える装備・兵数に対して軽装備だけの1個大隊約900名の一木支隊は壊滅し、1942年8/21、一木清直大佐は歩28連隊旗を奉焼し自決した。 ●長勇(中将、第32軍参謀長)。1945/06沖縄戦で司令官の牛島満とともに戦死(自決)。 |
29期(大正6年)1917.05(人数)536名 | ●李王垠(リ・オウ・ギン(王族) (35期大正12年) |
●李王垠(中将、第1航空軍司令官)。大韓帝国最後の皇太子。日本の王族、李王。 |
30期(大正7年)1918.05(人数)632名 | ●小畑信良(おばた-のぶよし)(36期大正13年) | ●小畑信良(少将、第44軍参謀長)。1943年5月、第15軍参謀長であった小畑信良少将は、インパール作戦を兵站の専門家として牟田口軍司令官に反対し、罷免された。 |
31期(大正8年1919.05(人数)489名 | ●片倉衷(かたくら-ただし)(40期昭和3年) | ●片倉衷(少将、第202師団長)。1935年8月の永田鉄山惨殺事件後の皇道派に対する粛清の中で、当時参謀本部の片倉衷大尉は「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」を作成した。これが統制派による、皇道派クーデターに対する、基本実施計画だった。1936年2月に2.26事件が起こる前に、統制派は皇道派粛清の計画を綿密に準備していたのである。 |
32期 (大正9年) 1920.05 人数429名 | ||
33期 (大正10年) 1921.07 人数437名 | ||
34期(大正11年)1922.07(人数)345名 | ●秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや-やすひとしんのう)(皇族)(43期昭和6年) ●服部卓四郎(42期昭和5年) |
●秩父宮雍仁親王(少将、参謀本部附)。昭和天皇の弟宮、今上天皇の叔父。 ●服部卓四郎(大佐、歩兵第65連隊長)。1939年ノモンハン事件の関東軍作戦主任参謀で辻政信とともに積極拡大を主張。1941年(7月)参謀本部作戦課長に就任。参謀本部作戦部長は田中新一。また辻政信も参謀本部作戦課兵站班長に任命された。 |
35期 (大正12年) 1923.07 人数315名 | ||
36期(大正13年)1924.07(人数)330名 | ●辻政信(43期昭和6年)優等。 | ●辻政信大佐、関東軍参謀、第18方面軍参謀、自由民主党衆議院議員、同参議院議員。1961年ラオス視察中に行方不明。 ノモンハン事件前(1939年)に辻が作成した「満ソ国境紛争処理要綱」による紛争拡大指令。シンガポール華僑粛清事件(1942年)での虐殺命令、「バターン死の行進(1942年)」での捕虜虐殺指令、ニューギニア・ポートモレスビー作戦(1942年)、ガダルカナル、ビルマ戦線などでの独断専行、そして敗戦時の戦犯からの逃亡など、日本陸軍が生んだ恐るべき冷血・無慈悲な参謀将校であろう。 |
37期(大正14年)1925.07(人数)302名 | ●加藤建夫(かとう-たてお) | ●加藤建夫(少将)。陸軍の「加藤隼戦闘隊」・飛行第64戦隊を率い太平洋戦争初期に活躍した。一式戦闘機「隼」で日本軍を代表するエース・パイロットの一人。 |
1937年(昭和12年)4月9日、朝日新聞社の「神風号」が東京-ロンドン間の連絡飛行に成功、日本最初の航空国際記録をつくる。日本はそれまでの模倣の段階を卒業し、昭和11年から12年にかけて、多くの世界初、世界最優秀機の開発に成功していく。そして1939年(昭和14年)4月1日、「12試(=昭和12年度試作)艦上戦闘機」第1号が試験飛行に成功する。海軍「零式(れいしき)艦上戦闘機(零戦=ゼロ戦)」の誕生である。
海軍は昭和12年度(1937年)の第3次補充計画(マルサン計画)によって、艦艇66隻、基地航空隊14隊などの増強を図った。その中には世界最大の戦艦大和・武蔵、航空母艦では翔鶴・瑞鶴や伊号第16潜水艦などの建造が含まれていた。
1936年(昭和11年) |
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「神風号」の衝撃
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*リンクします「1937年 朝日新聞社機 東京-ロンドン間新記録飛行」
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海軍「九六式艦上戦闘機」と「九六式陸上攻撃機」の出現
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![]() |
![]() (写真)「九六式艦上戦闘機」「九六式陸上攻撃機」「九七式戦闘機」写真・野沢正(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
海軍「零式(れいしき)艦上戦闘機(零戦=ゼロ戦)」の誕生
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海軍、戦艦大和・武蔵の建造にむかう。
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![]() ●しかしその後各国は、ワシントン海軍軍縮会議で制限外であった補助艦艇(巡洋艦以下)について建造競争が激化したことや、ワシントン条約の主力艦建造停止期間が満期を迎えるにあたって、1930年(昭和5年)4月、ロンドン海軍条約を結んだのである。 このロンドン海軍条約の内容は、日本の補助艦総保有量対米比率を6.97割などと備砲の制限を定め、またワシントン条約の主力艦建造停止期間を1931年(昭和6年)から1936年(昭和11年)までに延長し(第1篇 第1条)、このロンドン海軍条約の有効期限も1936年(昭和11年)12月31日までと定めた。そして新たな軍縮条約締結のために、1935年(昭和10年)に全締約国による会議(第2次ロンドン海軍軍縮会議)を開くことを決めたのである(第5編 第23条)。 (写真)艦首部からのぞんだ陸奥の主砲と前檣楼-昭和16年ごろの姿と思われ、前檣楼の測距儀フラットの部分には防空指揮所が設けられている。40センチ砲塔の甲鈑の厚さは、前楯500ミリ、側楯280ミリ、後楯190ミリ、天蓋250ミリに達し、砲塔旋回部の重量は1、024トンで、これが砲術長の命令一下、自由自在に旋回俯仰する機構は、造兵技術の粋をあらわしたものである。巨大な砲口が迫力をもってせまってくる写真である。(出典)「ハンディ版日本海軍艦艇写真集①」戦艦大和・武蔵・長門・陸奥。編者・雑誌「丸」編集部。光人社1996年刊 |
●下の一覧は昭和12年6月1日調べの「帝国艦艇一覧表」の戦艦・航空母艦のみを抜き出したものである。なかでも長門(連合艦隊旗艦)は世界における16インチ主力艦の第一艦であり、陸奥もまた最新鋭主力艦であった。
数値は公称であり、主砲の口径も、軍縮条約で16インチ砲(40.6センチ砲)までの制限があった。速力も機密事項であった。「帝国艦艇一覧表」の一部(出典)「海軍読本」阿部信夫 著 昭和12年刊
艦種・艦名 | 排水量(トン)・速力(ノット)・備砲(センチ×門)・発射管(門) | 竣工年月等 |
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戦艦・金剛(こんごう) | 排水量・29,330、速力・26.0、36×8、15×16、 12.7高角×8、発射管×4 |
大正2年8月 |
戦艦・榛名(はるな) | 同上 | 大正4年4月 |
戦艦・霧島(きりしま) | 同上 | 大正4年4月 |
戦艦・扶桑(ふそう) | 排水量・29,330、速力・22.5、36×12、15×16、 12.7高角×8、発射管×2 |
大正4年11月 |
戦艦・山城(やましろ) | 同上 | 大正6年3月 |
戦艦・伊勢(いせ) | 排水量・29,990、速力・23.0、36×12、14×18、 12.7高角×8、発射管×4 |
大正6年12月 |
戦艦・日向(ひうが) | 同上 | 大正7年4月 |
戦艦・長門(ながと) | 排水量・32,720、速力・23.0、40×8、14×20、 12.7高角×8、発射管×6 |
大正9年11月 |
戦艦・陸奥(むつ) | 同上 | 大正10年10月 |
練習戦艦・比叡 (ひえい) |
排水量・19,500、速力・18.0、36×6、15×16、 12.7高角×4、8高角×4 ロンドン海軍軍縮条約成立により戦艦比叡1隻が練習戦艦へ改装(昭和7年12月改)。昭和11年以降戦艦として大改装。 |
大正3年8月。 |
艦種・艦名 | 排水量(トン)・速力(ノット)・備砲(センチ×門) | 竣工年月等 |
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航空母艦・鳳翔 (ほうしょう) |
排水量・7,470、速力・25.0、14×4、8高角×2 | 大正2年12月 |
航空母艦・赤城 (あかぎ) |
排水量・26,900、速力・28.5、20×10、12高角×12 | 昭和2年3月 |
航空母艦・加賀 (かが) |
排水量・26,900、速力・23.5、20×10、12高角×12 | 昭和3年3月 |
航空母艦・龍驤 (りゅうじょう) |
排水量・7,100、速力・25.0、12.7高角×12 | 昭和8年5月 |
航空母艦・蒼龍 (そうりゅう) |
排水量・10,050、速力・30.0、12.7高角×12 | 未(昭和9年11月起工) |
航空母艦・飛龍 (ひりゅう) |
未(昭和11年7月起工) |
●日本は、1934年(昭和9年)12/22ワシントン条約破棄を正式に通告し、1936年(昭和11年)1/15、第2次ロンドン海軍軍縮会議において、日本全権永野修身はロンドン海軍軍縮会議を正式に脱退した。日本は1937年(昭和12年)1/1以降軍縮無制限時代を選んだのである。
●こうして日本は米海軍への対応のため、昭和12年度第3次補充計画(マルサン計画)によって、艦艇66隻、基地航空隊14隊などの増強を図ったのである。この中には戦艦大和(やまと)・武蔵(むさし)、航空母艦の翔鶴(しょうかく)・瑞鶴(ずいかく)などがあった。

(上写真)昭和16年10月30日、宿毛湾沖標柱間で全力公試運転中の大和。–ワシントン海軍軍縮条約による海軍休日の期限終了を迎えて、日本海軍が建造した戦艦大和型のネーム・シッブである。史上最大の艦砲である45口径46センチ砲を9門搭載、同砲弾に対する十分な防御を備え、速力27ノットを発揮、基準排水量は64,000トンに達し、人類がつくりあげた最大、最強の戦艦であった。なお、この時の状態は69.304トン、151,700軸馬力、27.3ノットである。(出典)「ハンディ版日本海軍艦艇写真集①」戦艦大和・武蔵・長門・陸奥。編者・雑誌「丸」編集部。光人社1996年刊
(注)主砲は前に3連砲が2基、後ろに1基で計3基9門とあり砲身の長さは45口径46センチ砲とあるので、45×46センチ=2070センチ=20.7mとなる。主砲の砲身の長さが20m以上あるわけだから、その大きさは桁違いである。
*リンクします「海軍読本」阿部信夫 著 昭和12年刊→
*リンクします「一九三六年の危機と米露の脅威」佐藤鉄城 著 「知識と修養会」昭和8年刊→
日本は昭和11年(1936年)1/15、第2次ロンドン軍縮会議で正式に軍縮会議脱退を通告し、昭和12年(1937年)1/1をもって軍備無制限時代(建艦競争再開)に入ることが確定した。
こうしたなか、陸軍内部の皇道派はクーデター事件(2.26事件)を起こし政府要人らを襲撃・暗殺した(2/26)。翌日戒厳令が公布され2/29には事件は鎮圧されたが、陸軍は「粛軍」の名のもとに皇道派を一掃した。3/9岡田啓介内閣は(2.26事件後)総辞職し広田弘毅内閣に代わった。
●経済・産業面では、2.26事件で殺害された高橋是清大蔵大臣の後を継いだ馬場鍈一(日本勧業銀行総裁)は、軍部の推進する大軍備拡張計画(陸軍・海軍)を認め、軍事費を11年度に対して33%増加させる12年度予算を承認し、積極的に軍部に迎合していった。そして政府はこの巨大化する軍備費に対応するため「公債の発行」「大幅増税」「低金利政策」を行っていくが、国際収支は破綻し翌年広田弘毅内閣は崩壊する。
●ソ連では1935年第7回コミンテルン大会から、ファシズムに対抗して労働者階級を統一して、一部自由主義的資本家を含めて「統一人民戦線」結成を呼びかけていた。フランスでは1936年6月社会党のブルムを首相とする第1次人民戦線内閣が成立した。スペインでは1931年に王政が廃止され共和国が成立していたが、その後民主勢力とその他の勢力との間で争いが続いていた。しかし1936年1月、社・共両党をはじめとする人民戦線の統一ができ、2月の選挙で大勝しアサーニャ人民戦線内閣が成立した。ところが7月、ドイツとイタリアの援助を受けたフランコ将軍が、スペイン領モロッコで反乱を起こし、陸軍は反乱側に海軍は政府側につくというスペイン内乱となったのである。
3月満ソ国境紛争の規模が拡大していく。この紛争は1939年(昭和14年)の「ノモンハン事件=ハルハ河戦争」に発展していくのである。
そして陸軍は新たな組閣の大命を受けた広田弘毅内閣に対しても、露骨な政治介入を行い発言力を強めていった。
さらに5月軍は「軍部大臣及次官の現役武官制」を復活させ、陸軍・海軍大臣の任命権を握り、内閣の命運を左右する力すら持った。
●海外で特筆すべきことは、8/1、第11回オリンピックがベルリンで開催されたことである。ここでヒトラーは12万人の観衆の前でナチス・ドイツとしての新ドイツの文化的成果と能力を誇示したのである。
●思想・文化の弾圧では、戒厳令を7月まで解除せず、3/24内務省はメーデー等各種集会を禁止、4/10警視庁は特高課第2係(右翼係)を増員する。そして5/29「思想犯保護観察法」を公布し、6/15には軍部・財界批判等の事項を掲載した文書図画を取り締まる「不穏文書臨時取締法」を公布施行した。7/1には言論・出版を統制するために内閣に「情報委員会」を設置した。そして特高は、7/10理論活動が日本共産党に寄与しているという理由で、元東京帝大助教授ら32名を一斉検挙した(コム・アカデミー事件)。
年月日 | 1936年(昭和11年)政治・社会年表 |
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1936年昭和11年3月25日 |
満ソ国境・長嶺子で日ソ両軍が戦闘(国境紛争の規模が拡大していく)。
●昭和6年(1931年)9月の満州事変以降、ソ連・満州と、モンゴル・満州の国境線は不確定な地域が多く、小さな紛糾が多発していた。昭和7年(1932年)~昭和9年(1934年)の3年間で152件だったのが、昭和10年・11年には2年間で328件に達した。モンゴルは、ソ連と1934年に相互援助の紳士協定を結び、1936年には相互援助軍事条約を締結したことから、これらの満州国における国境紛争の実態は日・ソ間の軍事衝突であったのである。昭和10年・11年の東部国境紛争で著名なものは、楊木林子事件(1935年6月)、金廠溝事件(1936年1月)、長嶺子事件(1936年3月)、などがあった。また西部国境紛争では、ハルハ廟事件(1935年1月)、ホルステン川事件《ハイラステンゴール事件》(1935年6月)が起こった。そしてオラホドガ事件が1935年12月から始まり、1936年2月には大規模な戦闘となった。またタウラン事件(1936年3月)が発生した。
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1936年昭和11年5月5日 | ![]() |
1936年昭和11年5月5日 | ![]() (写真)「人民革命軍の同志と語り合う金日成」(出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊 |
1936年昭和11年5月7日 | ![]() (新聞)5/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1936年昭和11年5月11日 | (浜松第1中学校の運動会で食中毒発生、死者44人)![]() (新聞)5/14東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1936年昭和11年5月15日 |
陸軍省、北支駐屯軍強化を発表
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1936年昭和11年5月18日 |
「陸、海軍省官制改正」により軍部大臣現役武官制が復活
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1936年昭和11年5月18日 | (阿部定・あべ-さだ、情夫を殺害。猟奇殺人事件の発生) (注)現代の日本で俳優として活躍中の「阿部サダヲ」さんは、この事件の阿部定をヒントに「阿部サダヲ」を芸名とした。 ![]() |
1936年昭和11年3月~6月 | (経済・貿易関連は以下のようである)
●3月、馬場財政による増税。(法人所得税約8割、個人所得税約3割、相続税約10割の引き上げ。株式所得の4割控除廃止、財産税の新設、酒・たばこなどの間接税増徴など)
●4/7、日銀、公定歩合を1厘引き下げ9厘とする。(馬場財政化の低金利政策の徹底) ●5/21、アメリカ大統領ルーズベルト、綿布関税引き上げを発令。引き上げ対象のうち約9割が日本製品。 ●5/22、オーストラリア、英国製品優遇のため綿布および人絹の対日関税引き上げを発表。 ●5/28重要産業統制法改正公布(7/5施行)。 ●5/28米穀自治管理法公布(9/20施行)。(内地・朝鮮・台湾の過剰米を米穀統制組合が自治的に管理するというもの) ●5/29自動車製造事業法公布。(国防の整備と産業の発展のために自動車製造業を許可制とし保護育成を行う) ●6/9政府、電力国家管理案を公表。(発電・送電事業の国営化、電気庁の設置などの国家統制案) |
1936年昭和11年5月24日 |
関脇・双葉山全勝優勝、「双葉山時代」始まる
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1936年昭和11年5月29日 |
思想犯保護観察法公布
●この思想犯保護観察法は、1925年に制定された治安維持法を全面的に改正しようとする過程で成立したものだった。この頃、治安維持法で検挙・起訴された思想犯の数がピークに達しており、かつ一連の共産党弾圧による被告たちが刑期満了で釈放される時期に達していたことが法律制定の要因としてあった。 |
1936年昭和11年5月29日 |
自動車製造事業法公布・7/11施行
●この法律の目的は、攻防上の見地から政府援助のもとに軍用車の国産化・量産化を図り、同時に日本に進出している外国メーカーの生産を抑制して、日本の自動車産業の自立を推進しようというものであった。対象となった外国メーカーとはアメリカのGM(ブランド名シボレー)とフォードのことで、フォードは昭和2年当時でも横浜に組み立て工場を建設し、年間2万台の生産能力を誇っていた。さらにフォードは月賦販売とディーラー網の展開という独自の販売方式で日本市場を席巻しつつあったのである。そしてGM(ゼネラル・モーターズ社)も昭和2年の大阪市の工場誘致から日本進出となった。こうして日本では大正12年(1923年)に自動車保有台数が1万4737両だったのが、フォードとGMが日本市場を席巻した昭和3年(1928年)には6万533両にもなったのである。 |
![]() (写真)昭和10年11月22日発表の豊田自動織機製作所自動車部G1型トラック。全長5.95m、最大積載量1.5トン。-写真トヨタ自動車。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
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1936年昭和11年6月1日 |
日本放送協会大阪中央放送局のラジオ番組に「国民歌謡」が登場
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*リンクします「椰子の実」
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1936年昭和11年6月26日 |
渡辺はま子のヒット曲「忘れちゃいやよ」発禁処分
●昭和9年8/1から施行された出版法の改正によりレコードも出版物と見なされ、言論統制の対象となった。発禁処分となった歌謡ヒット曲のなかで、とくに代表的なものがこの警視庁から処分を受けた「忘れちゃいやよ」だった。この曲は、昭和11年3/20の発売時は検閲を通ったが、3か月後に内務省図書課より「あたかも娼婦の嬌態を目前に見るごとき官能的な歌唱である」として、発売頒布と店頭等での公開を禁止されたのである。 「・・挙国振張堅忍不抜の精神を伸張する様に留意してもらひたい」と国策遂行の手段として、文化統制下に入るように要請したのである。
これに対して各社は賛意を示し、国策に協力して国民の士気を高めるレコードを重点的に発売するようになっていくのである。下に例をあげてみるが、「東京ラプソディ」は藤山一郎6/20発売、淡谷のり子の「別れのブルース」は官製の軍歌・軍国歌謡が続々と生み出される中で、哀調をおびたブルースは強い支持を受けた(昭和2万日の全記録講談社)。 *リンクします「忘れちゃいやよ」歌-渡辺はま子、作詞-最上洋、作曲-細田義勝
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1936年昭和11年6月9日 | ●政府、電力国家管理案を公表する。これは発電・送電事業の国有化であり、国家による電力統制を公表したのである。 |
1936年昭和11年6月15日 |
不穏文書臨時取締法公布施行
●これは軍部・財界批判等の事項を掲載した文書図画を出した者に最高3年の懲役を定めた言論出版弾圧法である。衆議院で言論弾圧として猛反対されたが、「臨時立法」であることと「言論自由人権尊重」の付帯決議を付けることで公布された。だがこれにより治安当局の恣意的判断で取り締まりが可能となってしまったのである。 |
1936年昭和11年7月5日 |
2.26事件に判決
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1936年昭和11年7月17日 | ●東京市に施行されていた戒厳令と同司令部を解除する緊急勅令を公布(18日施行) |
1936年昭和11年7月27日 |
南洋拓殖株式会社令公布施行
●これは南洋諸島の資源開発と融資を目的とする国策会社で、パラオ諸島のコロール島に本社を置いた。初代社長は深尾隆太郎(日清汽船社長、朝鮮郵船取締役、貴族院議員)で、理事に杉田芳朗(拓務省)、下田文一(三井物産)、北岡春雄(海軍少将)が就任した。 |
1936年昭和11年7月31日 |
![]() 東京では祝賀会が開かれ、隅田川では花火が上げられ、市電・市バスは五輪旗を掲げて運航した。だが日本は日中戦争激化のため、昭和13年、次回東京オリンピック開催を返上した。 (新聞)8/1の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1936年昭和11年8月1日 |
第11回オリンピック大会、ドイツ-ベルリンで開会
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*リンクします映画「民族の祭典」 “Olympia" 開会式
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8月、広田内閣は5相会議(首相・外務・大蔵・陸軍・海軍)で「国策の基準」を定めた。陸軍側は「南守北進論」であり、海軍は「北守南進論」であったが、5相会議はこの両方を採用し、「南北併進」という東南アジア・ソ連の双方へ進出することを国策として決定したのである。この「国策の基準」は「庶政一新」といわれ、日本が総力戦に備えた高度国防体制を確立し、戦争への道を歩み始めたことにほかならなかった。同じく8月広田内閣は「北支処理要綱」も定め、華北5省を中国から切り離し、日本の勢力下におくという前年来の陸軍の方針を、正式に政府の政策として決定した。
●中国大陸では、学生・文化人を先頭に抗日救国の動きが全国に広がっており、5月末には上海で「全国各界救国連合会」の設立大会が開催され、内戦停止・抗日民族統一戦線の結成を要求する大会宣言を発表した。日本はこうした抗日運動の発展に伴い共産党と紅軍が華北に進出してきたことに危機感を抱き、11月に内蒙古軍の徳王をそそのかし、独立運動のため中国綏遠省に進撃を開始させたが失敗した(綏遠事件)。
11月、日本はドイツとの間に「日独防共協定」を結んだ。これには軍事的に衝突が起きた時に双方でソ連を挟撃するという秘密協定が隠されていた。同じく11月広田首相は、軍部による議会制度の刷新改善に関する軍部案大綱を各閣僚に配布した。これに対し政党は軍人の政治関与排撃を決議したが、皮肉にも11/7、 17年の歳月を要した「憲政の殿堂」である帝国議会新議事堂が落成したのである。(現国会議事堂である)
●12/12、蔣介石は延安の中国共産党の根拠地に攻撃を加えようとして国防会議で西安に滞在していた。そこを掃討軍副司令の張学良らが蔣介石を監禁するクーデター事件が起きた(西安事件)。これをきっかけに、蔣介石と周恩来の歴史的会談が開かれ、事態は急速に解決し、張学良は蔣介石を釈放した。会談の内容は、内戦停止、一致抗日、救国会議招集など信義に基づく約束であったとされる。
●だが日本はこの国民政府と共産党の抗日統一戦線合意を過小評価し、中国民衆の抗日運動を甘く見て戦争に突き進むのである。