(世界史)「古代文明の成立~10世紀」

世界史

世界の歴史は神の出現からはじまる。人間が神を創造したのか?
 世界史を見ると、民族の生活や思想の原点に宗教があることに気づく。ゾロアスター教、バラモン教、ヒンズー教、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、道教、儒教など、それらは全て民族の生活そのものに密接に結びついていた。
●だがあるとき、人間は神々を「唯一神」「絶対神」とあがめた。その時から人間は、「神」の名のもとに人間同士で凄惨な戦争を繰り返すようになった。神が人間を創造したのではない、人間が神を作り上げたのだ。
目次
世紀別 主要項目
●古代文明(エジプト)・ エジプト・ヘブライ人・新バビロニア王国・ペルシア
●古代文明(インダス)・ モヘンジョダロ・バラモン・カースト制・仏教
●古代文明(中国)・・・ 周・秦・都江堰・「倭人伝の世界」・項羽と劉邦・漢
●前1世紀ごろの世界・・ ローマ帝国・「新約聖書福音書」・「紀元・元号」について
●1~4世紀までの世界・ ローマ帝国の分裂・中国・三国時代
●5世紀ごろの世界・・・ ゲルマン民族の大移動・西ローマ帝国滅亡・テオティワカン
●6~7世紀ごろの世界・ 東ローマ帝国・ローマ教会とギリシャ正教会・イスラム教「クルアーン」
●8世紀ごろの世界・・・ フランク王国・アラブ帝国・唐・律令制と日本天皇制
●9世紀ごろの世界・・・ フランク王国分裂・キリスト教ヨーロッパ文化の基礎となる・唐滅亡
●10世紀ごろの世界・・ ノルマン人の大移動・イスラム帝国の分裂・オットー大帝・宋・高麗

●綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊から要約・引用した。また「世界の歴史」中央公論社1961年刊より要約・抜粋した。また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。関連する写真、著作からも引用した。また、13世紀~15世紀は、地域別簡易歴史年表を作成し、別枠で追加した。

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簡易通史・14-1(古代文明の世界・エジプト・メソポタミア)
(先史時代~)エジプト・ヘブライ人・新バビロニア王国・ペルシア・アレキサンダー大王
世紀別世界<要旨>
●世界各地の大河周辺で文明が形作られてきた。(エジプト、メソポタミア、黄河、インダスなど)
先史時代 おもな先史時代の遺跡の分布(図)(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
BC8000年~ 食物栽培の中心地 (図)(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊)


このエジプト・メソポタミアは隣接しており、宗教的にみても、この地域は「旧約聖書」の舞台となっていて興味深い。

前4000年頃まで エジプト、ナイル川流域に、40余の都市国家が成立した。


(象徴するファラオの巨大権力)
ギザのスフインクス 古王国時代(写真)(出典:『NHKルーブル美術館Ⅰ』1985年刊より)

「ツタンカーメン王の黄金のマスク」このような華麗なマスクは、いかなる民族も制作したことはない。)
(写真)(出典:『ツタンカーメン展 東京国立博物館・京都市・朝日新聞社』1965年より)

(重要語)
○「ファラオ」「神官」「ピラミッド」「パピルス」「エジプトはナイルの賜物」
前3000年頃 メソポタミア、チグリス・ユーフラテス両川の下流域に、シュメール人がウルやウルクなどの都市国家を建設した。
(地図)シリアとティグリス・ユフラテス川の三日月地帯(BC4000年~BC2000年)
(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊)

(重要語)
○「旧約聖書」の「創世記」に登場するヘブライ人(=過ぎゆく人・歩く人の意)は、紀元前2000年頃のこの地方の遊牧民であったといわれる。アブラハムも生まれはカルデヤの「ウル」といわれ、この地から三日月形肥沃地帯を通って「カナン」の地へ旅立った、と書かれている。
前2400年頃 古バビロニア王国が栄えた。
(写真)ハムラビ法典(出典:『NHKルーブル美術館Ⅰ』1985年刊より)


ヘブライ人は、ハムラビ王の支配に苦しみ、前1500年頃南シリアに移住したと思われる。そして一部がエジプトに移ったが迫害を受け、前1300年頃モーゼに率いられて、エジプトを脱出した。その後シナイ半島で「ヤハウェ」より「十戒」を授けられたといわれる。その後ヘブライ王国は栄華をむかえたが、分裂後アッシリアと新バビロニア王国に滅ばされた。

(重要語)
○「ハムラビ法典」「目には目を、歯には歯を」「自由民・賤民(被征服者)・奴隷」「バビロン」「ジッグラト」「バベルの塔」
○「ユダヤ教」「旧約聖書」「ダビテ王・ソロモン王」「ペリシテ人(パレスチナの由来)」「エルサレム」「イスラエル王国」「ユダ王国」
(注)語句の意味 ユダヤ=「神を賛美する」、イスラエル=「神は強し」エ(イェ)ルサレム=「神の平安」、ヤハウエ=ヤーッハヴェー=「YHWH」=「私は在り、また在らしめる者である」
(注)「目には目を、歯には歯を」というと「やられたらやり返せ」というイメージを持つが、それは違う。「傷つけたのが目なら目で償え、歯なら歯で償え」というのが本来の意味である。
前1200年頃 フェニキア人は、地中海貿易で栄え、北アフリカ(カルタゴ)やイベリア半島にまで植民市を建設した。彼等の文字アルファベットは、ギリシアに伝わり、ヨーロッパ各地の文字のもととなった。アラム人のアラム語は、オリエントの国際語となり、アラビア文字のもとになった。

(地図)北アフリカ沿岸からスペインにかけて建設されたフェニキア人の植民都市
(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
前900年頃 アッシリアは領土を拡大し、前671年にエジプトを征服し、初めてオリエントを統一した。アッシリアの首都(ニネベの図書館)からは「英雄ギルガメッシュの物語」が発見され、その内容は「旧約聖書」の「洪水伝説」のもとになったと考えられている。
(上左・「戦車と騎兵」前700年頃、ニネヴェ 出土)(出典:『NHKルーブル美術館Ⅰ』1985年刊より)
(上右・「楔形文書:ギルガメッシュ叙事詩 第6書板」前7世紀、ニネヴェ アッシュールバニパル王宮文書庫)
(出典:『大英博物館アッシリア大文明展-芸術と帝国 図録』1996年より)

(左・「有翼人面の精霊」 前8世紀、アッシリアの王サルゴン二世の宮殿の内側。(右・「有翼人面牡牛像」 前8世紀、アッシリアの王サルゴン二世の宮殿の玉座室入口に置かれた彫刻。)高さ4mあまり。コルサバード出土。(出典:『NHKルーブル美術館Ⅰ』1985年刊より)

前612年 アッシリアは、メディア王国とカルディア王国(新バビロニア王国)の連合国に滅ぼされた。

(左図)前7~前6世紀頃。新バビロニア王国、バビロン市街の復元図。左の7層のジッグラトが、エテメンアンキ(天と地の礎になる家)。旧約聖書のバベルの塔のモデルになったジッグラトを再建した。完成はネブカドネザル2世の時。
(右図)ネブカドネザル2世時代のバビロンの復元想像図。中央には、イシュタル門と行列道路。門の右手には「空中庭園」、後方にはエテメンアンキ。(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

(重要語)
○「ヒッタイト」「ミタンニ」「鉄製武器、騎馬隊」「ネブカドネザール」「バビロン捕囚」
前525年 アケメネス朝ペルシア(メディア王国から独立)は、ダレイオス1世の時、東はインダス川流域から、西はエジプト小アジアに及ぶ大帝国を築いた。ペルシア人は、インド・ヨーロッパ語族に属し、イラン人(アーリア人の意)とも呼ばれた。信仰は「ゾロアスター教」で、その「最後の審判」の考え方は、ユダヤ教に影響を与えた。

(写真)廃都ペルセポリス全景 東西300m、南北470mあまり、ペルシア帝国の大王宮は、前330年アレキサンダー大王に焼き払われた。(出典:『世界の旅』河出書房新社1969年刊より)

(写真左)ペルセポリス「万国の門」前5世紀。戸口支柱12m。
(写真右)ペルセポリス「アパダーナの大階段と朝貢者の列」前6~5世紀(出典:『NHKルーブル美術館Ⅰ』1985年刊より)

(重要語)
○「ペルセポリス」「バビロン捕囚の解放」「王の目、王の耳、王の道」「ゾロアスター=ザラツストラ=ツァラトゥストラ」「ツァラトゥストラかく語りき」ニーチェ、シュトラウス
前500年 ペルシア戦争(前500年~前479年)は、古代ギリシア(エーゲ文明を引き継いだ)のアテネ、スパルタ、イオニア諸都市と、勢力をエーゲ海にもとめたペルシアとの間で行われた戦争である。戦役は3回にわたり、民族意識を高めたギリシアは、この祖国防衛戦に勝ちペルシアを撃退した。

(写真)「パルテノン」アテネの守護女神アテナ・パルテノスの神殿(出典:『NHKルーブル美術館Ⅰ』1985年刊)

(重要語)
○「クレタ文明」「ミケーネ文明」「トロイ戦争」「ホメロス、イリアッド・オデッセイ」「シュリーマン」「ピタゴラス(前570年頃)」「ヘロドトス(前5世紀)」「マラトンの戦い=オリンピック・マラソンの由来」「テルモピレーの戦い=スパルタの精鋭300人対20万人」

「ミケーネ文明(前1400年頃)」(写真左)「アガメムノンの黄金仮面」シュリーマンの発掘したマスク。(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊)

前431年~前404年 (ペロポネソス戦争)ギリシャの両雄アテネとスパルタとの間で内戦が起きた。この戦争によりギリシャは、奴隷制度に立脚した政治体制、奴隷の反乱、農村の荒廃、無産市民の激増などで弱体化し、結果北方のマケドニアに征服された。

(重要語)
○「ソクラテス(前470年~前399年)」「プラトン(前427年~前347年)」「アリストテレス(前384年~前322年)」「ギリシア神話」「オリンポスの神々」「オリンピア競技」「奴隷制・古代ローマへ続く」
前334年~前324年 (アレキサンダー大王東方遠征)

●マケドニアのアレキサンダー大王は、ギリシアを征服した後、東方遠征を開始した。マケドニア・ギリシアの連合軍は、小アジアのギリシア系植民市を占領しながら南下し、ペルシア軍を撃破し、フェニキア諸都市を制圧後、エジプトのナイル河口にアレクサンドリア市を建設した。前330年にアルベラの戦いでペルシア軍を破り、ペルセポリスに入城し、ペルシア帝国を滅ぼした。
●さらに、アレキサンダー大王は中央アジアから西北インドまで進攻し、広大な大王国を樹立した。しかし前323年大王はバビロンでマラリアのため病死した。(33歳) 
●この大遠征の目的は、ペルシアに広大な植民地を建設して、ギリシアの膨大な無産市民を移住させることにあった。この遠征は、「都市の行進」といわれ、軍隊の後には無産市民、商工業者、奴隷が従っていった。アレクサンダーはペルシアの制度を受け継ぎ、かつ支配層の融合(結婚)を奨励し、ギリシア・ペルシアの文化の融合による、ヘレニズム文化を生み出した。
(地図)アレクサンドロスの東征(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
前3世紀 (王国の分裂)アレキサンダー大王の死後、熾烈な後継者争い(ディアドコイ)で王国は分裂した。アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトの三王国で、なかでもプトレマイオス朝の首都、エジプトのアレクサンドリア市は全盛をきわめた。

(重要語)
○「ユークリッド(前300年頃)」「アルキメデス(前287年頃~前212年)」「エラトステネス(前276年頃~前195年頃)」「ヘロン(前200年頃~前150年頃)」「プトレマイオス(2世紀頃)」『万物の王冠』『無いものは雪だけ』「アレクサンドリア図書館」「クレオパトラ」
やがて小さな都市国家ローマが、イタリア半島を統一し、地中海を内海にする大帝国を築いていく。
簡易通史・14-2(古代文明の世界・インダス)

(紀元前2500年~)アーリア人・バラモン教・仏教
世紀別世界<要旨>
●前2500年頃、インダス川流域に都市文明が起こった。その代表的な遺跡が、モヘンジョ・ダロとハラッパである。しかしこの文明は、前2000年前半に滅亡した。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
前2500年頃
(写真)モヘンジョ・ダロの沐浴場。祭司たちは中央の水槽で沐浴して身を清め、「聖なるもの」となり、神と交わる。水槽の階段(ガート)や水の儀礼は、後世のヒンドゥー教の増殖儀礼と深く結びついている。(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
(写真右)石灰岩の彫刻。インダス文明の残存する数少ない石の彫刻。(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊)
前2000年頃 (アーリア人侵入)アーリア人の一部が、中央アジアから西北インドのパンシャブ地方に侵入した。

(重要語)
○「リグ・ベーダ」「サンスクリット語(古代インド語)」「ドーラピーラ」「ジャイナ教」「ラーマーヤナ」「マハーバーラタ」
前1000年頃 (アーリア人移動拡大)アーリア人は東方のガンジス川流域へ向かって移動拡大を始めた。そしてこの流域に都市国家が形成された。前6世紀頃には、相互に抗争を繰り返した。
●その頃、バラモン教が成立していく。カースト制といわれるインド特有の厳格な階級制度を持ち、治者階級《バラモン(司祭者)、クシャトリア(王侯・武士)》と、被治者階級バイシャ(一般自由民)、シュードラ(奴隷・征服された先住民)》と分かれる。これは、この4つのバルナ(色)と3000のジャーティ(生まれ・職業集団)のことをカースト制と、ポルトガル人が名づけたことによる。(カスタ=血統)しかし、この4つのバルナに入れない、不可触賤民(パリア、アウトカースト)の人々が存在し、20世紀のインド独立後に、ガンジーは彼らをハリジャン(神の子の意)と呼び、その解放に力をそそいだ。
○仏教の成立についてをインド仏教美術より一部引用してみる。

 (出典:インド仏教美術 杉山二郎「インド古代彫刻展」 東京国立博物館・京都国立博物館・ 日本経済新聞社1984年刊より)
●インド仏教美術 杉山二郎「仏教の成立 紀元前6-5世紀ごろ、ガンジス河の農耕帯に数多くの都市国家が群立し、商業貿易が発達するとともに、バラモンおよびクシャトリア階級から自由思想家が出て活動をはじめる。

下

前4世紀後半 (統一帝国マウリア朝)インド史上初の統一帝国マウリア朝が樹立された。その第3代アショーカ王は、ほぼ全インド(南端部をの除いて)支配する空前の大帝国を建てた。この征服戦争中にカリンガ国(ベンガル南方)を攻撃し、10万人を殺害したという。アショーカ王は自身の暴虐ぶりとその悲惨な結果から、仏教に目覚め、慈悲の王に変わったといわれる。

(重要語)
○「バクトリア王国」「大月氏族」「クシャーナ朝」「カニシカ王」「大乗仏教」「小乗仏教」「ガンダーラ美術」

(インド古代彫刻)

(写真左)インド最古の仏教遺跡 サーンチー。釈迦の遺骨(仏舎利)を分割・安置する卒塔婆(ストゥーパ)(前3世紀頃~紀元前後に増拡したもの)、の塔門の一つ。
(写真中)仏立像 1世紀~2世紀 ガンダーラ出土 ニューデリー国立博物館
(写真右)菩提樹の礼拝 前2世紀~前1世紀 バールフット出土 カルカッタ インド博物館
(出典:「インド古代彫刻展 東京国立博物館・京都国立博物館・日本経済新聞社1984年刊より」)

簡易通史・14-3(古代文明の世界・中国黄河)
(紀元前11世紀~)周・秦・都江堰・「倭人伝の世界」・項羽と劉邦・漢
世紀別世界<要旨>
●前2000年頃には、黄河流域には小国家邑(ゆう)ができ、連合していったと考えられる。中国では、夏(か)・殷(商)・周を最古の王朝としている。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
前11世紀頃 周が殷を滅ぼした。周は封建制をひいたが、その封建制・主従関係は、原始古代的な血統関係を基本とする統治方法だった。

(重要語)
○「殷墟(いんきょ)」「甲骨文字(こうこつもじ)」「紂王(ちゅうおう)」「竜山文化」
前770年 (周、都を遷す)
●周は都を鎬京(西安付近)から洛邑(洛陽付近)に移した。これ以前を西周といい。以後を東周という。東周では、周王は名目上は王であったが、実権は失われ、諸侯の対立抗争がつづいた。この時代は、「春秋時代」(前770年~前403年)と「戦国時代」(前403年~前221年)に分けられる。戦国時代の末期になると、戦国の七雄といわれる有力な七つの諸侯(秦・楚・燕・斉・韓・魏・趙)が中国の統一を目指して争った。
●この春秋・戦国時代は、有用な人材と新しい政治思想が求められ、「諸氏百家」といわれる多くの思想家とその学派があらわれた。
●孫子の有名な言葉、「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」

(重要語)
○「孔子」「孟子」「荀子」「韓非子」、法家=「李斯」「商鞅」、道家=「老子」「荘子」、墨家=「墨子」陰陽家=五行説、縦横家、兵家=「孫子」「呉子」
前221年
秦、統一王朝を築く

●秦は、他の諸国より徹底した改革を行い国力を充実させ、統一王朝をつくった。秦は15年間の王朝だったが、数百年の分裂を統一し、その後の中国の基礎を固めた重要な王朝であった。中国のことを、秦を中国語でチン(Chin)と発音されることから、外国ではチナ→チャイナ(China)と呼ばれるようになった。

(重要語)
○「都江堰」「郡県制」「度(ものさし)量(ます)衡(はかり)の統一」「篆書(てんしょ)の統一」「通貨(半両銭)の統一」「焚書・坑儒」「万里の長城」「阿房宮」「始皇帝陵」「兵馬俑坑」「不老長寿(徐福)」
(写真左)「編鍾(14点うち1)」 戦国時代の7雄以外の中山国より出土。戦国時代に音律知識は大いに発展した。編鍾はセットの打楽器のひとつで、中山国は、周王朝の礼楽制度を採用していた。(出典:『中山王国文物展』東京国立博物館・日本中国文化交流協会・日本経済新聞社 1981年)
(写真右)水利・長城の工事分布(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
秦の時代
(写真左)秦の時代、前276年蜀郡太守の任についた李氷は、息子の李二郎とともに民衆をひきい、都江堰水利工事を完成させる。水害は一挙に軽減し、田畑に灌漑が引けたことで、農業生産は飛躍的にのび、また河川の運航の利は四川地方の繁栄をもたらした。(出典:『中国の旅3』講談社1980年刊)
(写真右)中国古代の土木技術より、都江堰(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
(参考) 森浩一「倭人伝の世界」1983年小学館刊 

『秦(しん)の灌漑技術を伝えた秦氏(はたし)』より一部引用してみる。秦の灌漑技術が、遠く日本にまで時代をこえて伝えられたかもしれない、と書かれている。

「倭人伝の世界」

「・・・京都の嵐山は、景色の美しい場所だが、河川灌漑の説明に最適の土地だし、そこには古墳時代後期か終末期に原形ができたと推定される灌漑システムが、今日も働きつづけている。丹波に源を発した桂川は、両岸を山でせばめられた保津川の渓谷となり、嵐山に至って両岸に平地が拡がりはじめ、流れもゆるやかになる。渡月橋の少し上流に、川をせきとめるダムがある。これを堰(い)とよんだので、この付近の桂川を大堰川(おおいがわ)とよび、和歌や物語にしばしばあらわれる。

下

(始皇帝)

(写真左)始皇帝陵近くから発掘された銅車馬。
(写真右)始皇帝 兵馬俑(出典:『中国の世界遺産』藤井勝彦 JTBパブリッシング2012年)
前209年 (大規模な農民反乱の勃発)陳勝・呉広率いる、史上初の大規模な農民反乱が起こった。(始皇帝の死=前210年50歳。始皇帝の急激な改革、思想統一、農民への負担などに対する反乱)
前202年
漢帝国の創設

●項羽(もと楚国の将軍の子)と劉邦(農民出身のいち小官吏)による秦打倒の争いから、両者の激突 となり、劉邦(高祖)による漢帝国の創設を見る。前漢(西漢)前202年~後8年、新(王莽)8年~23年、後漢(東漢)25年~220年。
●「四面楚歌」は、「まわりが全て敵だらけで孤立している」という意味よりさらに悲しい。味方である「楚」の兵士たちが、逃亡や寝返りにより敵となってしまい、敵陣より「楚歌」が聞こえてくる。

(重要語)
○「鴻門の会」「四面楚歌」「虞美人草」
前139年頃から
「武帝」による中央主権的統一

●前漢7代目の「武帝」の時代に中央主権的統一がなされた。前139年、匈奴を駆逐し、西域に敦煌郡等(4郡)を設置した。前111年、南方に軍を送り9郡を設置し、そのうち3郡(交趾・九真・日南)をベトナム北部に設置した。前108年衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪・真番・玄菟・臨屯の4郡をおいた。またチベット・雲南方面も征服して5郡をおいた。真の意味で、中国の基礎が確立されたのは、この400年続いた漢代であるといえる。
●特に「史記」は、中国の神話時代の黄帝から前漢の武帝にいたる、全130巻の膨大な通史であり、これを著した司馬遷は、その科学的ですぐれた学問的姿勢により「東洋の歴史の父」といわれる。

(重要語)
○「漢民族」「漢字・漢文」、司馬遷「史記」、班固「漢書」
簡易通史・14-4(前1世紀頃の世界)
(紀元前1世紀~)ローマ帝国・「新約聖書福音書」・「紀元・元号」
世紀別世界<要旨>
東の漢、西のローマの二大勢力)
●ローマ帝国、カルタゴを滅ぼし、奴隷制を基盤とする強国に成長。(西)
●漢帝国は周辺に勢力を拡大し大帝国を築く。しかし遊牧民族の匈奴は侵入を繰り返し、漢帝国を脅かした。(東)
●この(東西)間を結ぶシルクロードの交易で、イラン系のパルティア王国等が繁栄した。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
(重要語)
○「ポエニ戦争」「すべての道はローマに通ず」「水道・公衆浴場」「ローマ市民」「ホルテンシウス法」「奴隷制」「ラチフンディウム(大農場経営)」「コロセウム」「剣闘士」「スパルタクスの反乱」「カエサル」「クレオパトラ」「ブルータス」、タキトス「ゲルマニア」「パクス・ローマーナ」「ヘロデ王」「イエズス・キリスト」「キリスト教」「新約聖書」
前73~前71年
ローマ帝国「スパルタクスの反乱」

●ローマ帝国の繁栄は、征服戦争による略奪と奴隷獲得、属州支配による収奪が基盤だった。奴隷獲得数は記録によれば、サルジニア島8万人、カルタゴ滅亡時5万人、前167年マケドニア侵入時15万人、カエサルのガリア遠征100万人といわれる。(ガリアの男子の1/3にあたる)きびしい労働と搾取のため、しばしば反乱がおきた。
●シチリア島では、20万人の農業奴隷が加わった大奴隷反乱が起きたが、特に前73~前71年の「スパルタクスの反乱」が有名。これは、スパルタクスに率いられた奴隷剣闘士の反乱で、奴隷、日傭労働者、没落した自由民を加え、その数は12万に達した。しかし前71年、ローマ軍の総力を挙げた鎮圧により、スパルタクスは戦死し、捕らえられた6千人の奴隷は、はりつけにされアッピア街道にさらされた。


(写真左)コンスタンティヌス帝の凱旋門 312年
(写真右)コロセウム外形 80年完成(出典:『世界の旅イタリア』河出書房1967年刊)
イエズス・キリストの誕生前3~4年

●キリストはローマ帝国の支配下にあったパレスチナで、ユダヤの王ヘロデの時代にベトレヘムでうまれナザレトで育った。ここで「新約聖書」の一部分を引用してみる。「豚に真珠」「狭き門」など有名な言葉が語られている。「聖書」フェデリコ・バルバロ訳1980年講談社刊より引用。

新約聖書マテオ(=マタイ)による福音書

○第7章より。フェデリコ・バルバロ訳
 『さばかれたくないなら、他人をさばくな。ひとをさばけばそれと同じように自分もさばかれ、ひとをはかれば、それと同じはかりで自分もはかられる。なぜ、兄弟の目にあるわらくずを見て、自分の目にある梁(はり)に気をとめないのか。自分の目に梁があるのに、なぜ兄弟に向かって、きみの目のわらくずを取らせてくれと言うのか。偽善者よ、まず自分の目の梁を取り去れ。そうすればはっきり見えて、兄弟の目のわらくずも取ることができよう。聖(せい)なるものを犬にやってはならぬ。真珠(しんじゅ)を豚に投げ与えてはならぬ。そうすれば相手は足で踏みつけ、向き直ってあなたを噛み裂くであろう。
 求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見いだす。たたけ、そうすれば開かれる。求める人は受け、探す人は見いだし、たたく人は開かれる。自分の子がパンをほしがっているのに石をやり、魚をほしがっているのにへびをやる人があろうか。悪い人間であるあなたたちさえ、子供によいものを与えることを知っている。ましてや天にまします父が、求める人によいものをくださらぬわけはない。他人からしてほしいと思うことを、あなたたちも他人に行え。これが律法であり予言者である。
 狭(せま)い門から入れ、滅(ほろ)びに行く道は広く大きく、そこを通る人は多い。しかし、命(いのち)に至る門は狭く、その道は細(ほそ)く、それを見つける人も少ない。・・・・・・』

紀元前140年 東アジアの重要語

(重要語)
「騎馬民族」「匈奴帝国」「冒頓単于」「汗血馬(かんけつば=汗が血に変わっても走り続ける)=サラブレッドの原型=天馬」「シルクロード」「草原の道」「胡人=西域の人々」「胡瓜(きゅうり)」「胡麻(ごま)」「胡椒(こしょう)」
●ここで「紀元」「元号」「年号」について簡単に解説する。星野記
「武帝」の時代に中国の基礎が確立されていく。「元号」の制度も、漢の武帝の「建元」元年(紀元前140年)に始まるといわれる。

①「紀元」・・歴史上で年を数える際の基準、または基準となる最初の年。

●西暦は、キリスト誕生年を紀元とし、A.D.=ラテン語「アンノドミニ(Anno Domini)」=「イエス・キリストが君臨する時代・主の時代」を意味し、B.C.=英語「ビフォア クライスト(Before Christ)」=「キリスト以前」を意味する。
●日本、「皇紀」=「西暦紀元前660年、神武天皇即位の年を、皇紀元年と称した(1872年明治5年制定)」「紀元節」=「2月11日神武天皇即位の日とした。戦後廃止されたが、1966年に国民の祝日として、建国記念の日として復活された。」
●ユダヤ歴は、西暦紀元前3761年10月7日を、創世紀元と称する。
●イスラム暦は、622年7月16日メディナ聖遷(ヒジュラ)を、ヒジュラ暦元年とする。

②「元号・年号」

●「元号」の制度は、漢の武帝の「建元」元年(紀元前140年)に始まるといわれる。中国では皇帝が時を支配するという思想から、年に称号をつけた。「平成」が元号で、「平成26年」と年をつけたものを年号という。中国では元号は廃止され、この制度は日本だけのものになった。また明治以降、一世一元となったが、1979年の元号法制定により、「元号は政令で定め、皇位の継承があった場合に限り改める」ことを規定した。日本の公文書表記は、元号(年号)表記に、事務処理手続き上(法律上ではなく)統一されているようだ。
●2016年、日本国天皇は天皇制の根幹をなす「皇位の継承」に関して、「生前退位」の希望を表明した。この「皇位の継承」にかんしては「皇室典範」に次のようにある。

第四條  天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに卽位する。
第十六條  天皇が成年に達しないときは、攝政を置く。
天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、國事に関する行爲をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、攝政を置く。

(旧皇室典範)には次のようにあり、考え方は継承されている。

第一〇条 天皇崩(ほう)ずるときは皇嗣(こうし)即(すなわ)ち踐祚(せんそ)し祖宗(そそう)の神器(しんき)を承(う)く
第一一条 即位(そくい)の礼(れい)及(および)大嘗祭(だいじょうさい)は京都に於(おい)て之(これ)を行(おこな)ふ
第一二条 踐祚(せんそ)の後(のち)元号(げんごう)を建(た)て一世(せい)の間(あいだ)に再(ふたた)び改(あらた)めざること明治元年の定制(ていせい)に従(したが)ふ
第一九条 天皇未(いま)だ成年(せいねん)に達(たつ)せざるときは摂政(せっしょう)を置(お)く
天皇久(ひさし)きに亙(わた)るの故障(こしょう)に由(よ)り大政(たいせい)を親(みづか)らすること能(あた)はざるときは皇族会議及(および)枢密顧問(すうみつこもん)の議を経(へ)て摂政を置く

(注)「踐祚」と「即位」は分けて使われていたが、今は「即位」のみ使う。明治元年の定制とは『自今(じこん)以後(いご)旧制を革易(かいえき)して一世一元(いっせいいちげん)以(もっ)て永式(えいしき)とせん』の詔勅による。
(私見を言えば、「憲法」「皇室典範」といっても、時代に合わなくなったと国民の総意がそう考えれば、手続きに従って改正すればよい考える。あまりにも野党のかたくな言動を聞くと、個人の信念・信条とが合体して「政教一致」のようである。)

●日本での中国元号の知識と、独自元号の使用については、森浩一「古代史おさらい帖」ちくま学芸文庫2011年刊によれば、つぎのように書かれている。

森浩一「古代史おさらい帖」

 ・・・以上にまとめた文章でも細かく検討すべき点はたくさんあるが、重要なことは、『紀』の神功皇后の条の中国史書を引用した四つの記事に、景初、正始、泰初(始)の三つの元号があることである。少なくとも『紀』の編纂時には倭人側が元号の存在を知っていたことがわかる。ただ、問題としてのこるのは、では、さらにもっと古く卑弥呼や次の女王である台与の時代にすでにそれらの元号を知っていたのか、あるいはそれより約百年後の古墳時代前期ごろから知っていたのかの二つの状況が考えられる。
 ぼくは古墳時代前期にはすでに倭国側でも中国年号を知っていたと考えている。どうしてそう考えるか。それは銅鏡に刻まれた年号からわかるのである。・・・・

下

簡易通史・14-5(1~4世紀までの世界)
(紀元前1世紀~)ローマ帝国分裂・中国・三国時代
世紀別世界<要旨>
●ヨーロッパでは、ローマ帝国が「ローマの平和」を経て、東西に分裂した。
 中心は東ローマ帝国(ビザンツ/ビザンティン帝国)のコンスタンチノープルに移った。
●インドでは、クシャーナ朝(45年)(ガンダーラ文化)が繁栄した。
●中国では、後漢末の群雄割拠から、漢の滅亡、三国時代を経て、五胡十六国時代に入る。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
ローマ帝国歴代の皇帝たち(一例)

(写真左から)●アウグストゥス(前27-後14年)、●ネロ(54-68年)、●トラヤヌス(98-117年)、●カラカラ(211-217年)、●コンスタンティヌス(307-337年)
(出典:『世界の旅イタリア』河出書房1967年刊)

●2005よりアメリカ合衆国のHBOとイギリスのBBCが共同制作したTVドラマ「ROME(ローマ)」という作品がある。DVD11枚組でも発売されており、22話が収録されている大作である。その1シーンを紹介する。
カエサルは紀元前52年、ガリア戦争最大の「アレシアの戦い」に勝利する。文明人(ローマ)と野蛮人(ガリア人)の戦いである。そしてカエサルはルビコン川を渡りローマへ向かう。この動画は「アレシアの戦い」のところである。

※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ7MB、1分04秒)

1~2世紀 ローマ帝国は「ローマの平和=パクス・ローマーナ」といわれ、平和と繁栄を享受していた。
3世紀 ローマ帝国は一転して内乱が頻発し、猛烈なインフレが進行した。平和であるが故に、征服戦争がなくなり奴隷の供給が止まったことが、逆に平和そのものの危機になった。そこで、ディオクレティアヌス皇帝(3世紀末)は、専制的な支配体制によって国家の安定を図るため、4人の皇帝を置く分割統治体制をしいた。
4世紀 ローマ帝国では、コンスタンティヌス1世が、宗教的基盤強化のためキリスト教を公認し、奴隷の不足の代わりに、農民を土地に縛り付けるコロヌス制度を定めた。そしてローマ帝国の繁栄の中心は、東ローマ帝国(コンスタンティノープル)へ移っていった。
●363年、皇帝ヨウィアヌスが、ササン朝ペルシアと講和した。このことが、分裂後の東ローマ帝国の、こののち140年間の平和と、ゲルマンやフンに対抗する上での、重要な意義をもった。
375年
「ゲルマン民族の大移動」と「ローマ帝国の分裂」

●遊牧民族のフン族の進攻により、ドナウ川北岸の西ゴート族約6万人が追われて、ローマ領内(西)に侵入を開始した。これが「ゲルマン民族の大移動」の発端である。
●そして395年、テオドシウス1世が死ぬと、ローマ帝国は東西に分かれて分裂していった。

(重要語)
○「アウグストゥス=初代皇帝」「ネロ」「ゴルゴダの丘」「12使徒」「キリスト教弾圧」「殉教」「カタコンベ」「ポンペイ」「五賢帝時代=96~180年」「ユダヤ戦争、ディアスポラ(離散)、エルサレム立入死罪」「パルティア戦争」「カラカラ帝=大浴場」「コンスタンティヌス1世」「ミラノ勅令=キリスト教公認312年」「コンスタンティノープル開都320年」「エルサレム聖墳墓教会建築335年」「キリスト教、国教指定392年」「テオドシウス帝の長子アルカディウス=東ローマ帝国、次子ホノリウス=西ローマ帝国、東西分裂。395年」
8年
中国「三国時代」

●王莽は新を建国したが、23年新は滅亡し、後漢末の乱となり中国は三国時代へ向かう。
●この「三国時代」は中国の明代に書かれた『三国志演義』によって時代小説・通俗歴史小説として人気を博した。中国では、1991年7月に国家的事業として、『三国演義』としてTVドラマ化され、中国映像史上空前の規模で製作された。三国志は日本でも人気が高く、横山光輝の漫画で『三国志』(全60巻・25年間で完結)も刊行されたほどである。

(重要語)
○「赤眉の乱、18~25年」「黄巾の乱、2世紀末」「魏・呉・蜀」「曹操・孫権・劉備」「諸葛孔明」

●後漢末の黄巾の乱のスローガンは次のようである。

『蒼天(そうてん=後漢王朝)すでに死す。黄天(こうてん=自分たち)まさに立つべし。歳は申子(=184年)にあり、天下大吉』
(重要語)
 蔡倫「紙の実用」班固「漢書」「赤壁の戦い」陳寿「三国志」「西晋」「五胡十六国」(316~439年)「帯方郡」
「高句麗」「広開土王」「チャンドラグプタ1世」「敦煌」「鳴沙山莫高窟」「前方後円墳」「百済」
諸葛孔明「出師(すいし)の表」

●ここで諸葛孔明の、出師(すいし)の表(ひょう)の最初の部分を引用する。有名な名文である。諸葛亮の蜀に対する忠義が如実に描写されているといわれる、名文中の名文。日本人が、「忠義」のお手本とした中国の「正気の歌」文天祥には次のようにある。「或(あるひ)は出師(すゐし=臣下が出陣する際に君主に奉る)の表(へう)と為(な)り、鬼神(きじん)壮烈(そうれつ)に泣(な)く」と。

『臣(しん)亮(りょう)言(もう)す。先帝(せんてい=劉備)業(げふ)創(はじ)むる未(いまだ)半(なか)ばならずして、中道(ちゅうどう=中途・半途)に崩殂(ほうそ=崩御のこと)す。

今、天下三分し、益州(えきしゅう=成都のこと)疲弊(ひへい)す、此(こ)れ誠に危急存亡の秋(とき)也(なり)。

然(しか)るに侍衛(じえい=天子や身分の高い人の近くにあって護衛すること)の臣(しん)、内(うち)に懈(おこたる=おこたる・だらける)らず、忠志(ちゅうし=真心のこもった志)の士、身(み)を外(そと)に忘するるもの、蓋(けだし)、先帝の殊遇(しゅぐう=特別のてあつい待遇)を追ひ、之(こ)れを陛下(へいか)に報(むく)いんと欲(ほっ)する也(なり)。

誠(まこと)に聖聽(せいちょう=しずかにきくこと)を開張(かいちょう=耳目を開くことで、天子たる者が衆言を容れること)して、以(もって)先帝の遺德(いとく=後世にのこる恩徳)を光(かがや)かし、志士の氣を恢弘(かいこう=おおきくしておしひろめる)すべし。・・・・・・。』

4世紀ごろから
「敦煌」

4世紀頃から1000年以上にわたって彫り続けられた。

(写真左)敦煌莫高窟57窟南壁「樹下説法図」(初唐)
(写真右)大英博物館蔵 「刺繍釈迦五尊像(敦煌)」
(出典:『シルクロード第二巻敦煌』井上靖 NHK取材班 日本放送出版協会1980年刊)

簡易通史・14-6(5世紀頃の世界)
(5世紀~)ゲルマン民族の大移動・西ローマ帝国滅亡・テオティワカン・ヒンドゥー教
世紀別世界<要旨>
(ゲルマン民族と五胡の大移動)
●ヨーロッパでは、ゲルマン諸族がローマ帝国領へ侵入し、西ローマ帝国を滅ばす。
●フランク王国は勢力を拡大。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は打撃を受けながらも生き延びた。
●西アジアでは、ササン朝ペルシャ、インドではグプタ朝が発展。
●東・北アジアでは、匈奴を中心とする五胡が華北に侵入、16の国を作り漢民族を支配した。
その後南北朝時代を迎える。多くの漢人が移住し、江南の開発が進んだ。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
ヨーロッパ
ケルト人とゲルマン人

●「ケルト人とゲルマン人」という呼び名は、使用言語による分類で、ケルト語、ゲルマン語を用いていた人々をさす。3世紀末頃のヨーロッパ大陸のケルト人の大半はすでにローマ人の支配に服していた。前52年のアレシアの戦いで、ローマ人のガリア征服は成功し、有力なケルト人勢力がローマ帝国に服属した。またブリンテン島も、北の一部を除いてローマ帝国に服属した。(地図)(3世紀末)ケルト人とゲルマン人の勢力図(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

(絵左)前52年アレシアの戦いでカエサルに降伏するウェルキンゲトリクス。ガリア人(ケルト人)8万人を率いた。
(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
4世紀(375年)
ゲルマン民族の大移動


●遊牧民族のフン族の進出が、ゲルマン民族の大移動の発端となった。フン族は匈奴の一派ともいわれるが、もしそうならば、中国での五胡十六国など東西の匈奴が大進出したことになり、世界史への影響は大きい。
●以前よりゲルマン人のローマ帝国への浸透はあり、ローマ軍の傭兵として「ゲルマン人が守るローマ帝国」といわれていた。そして周辺のゲルマン諸国はローマ化していた。ただゲルマン民族が大挙して侵入したのはこれが初めて。(地図)ゲルマン民族の大移動(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

4世紀末(395年)
ローマ帝国東西に分裂


(地図)5世紀中頃のローマ帝国(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

5世紀(451年) (フン族のアッティラ、連合軍に破れる)
●フン族のアッティラは、東ローマ帝国を侵略した後、東ゴートと合流し北ガリア(フランス)侵入したが、西ローマ帝国・ゲルマン連合軍に破れた。
5世紀(476年)
ゲルマン人将校オドアケル、西ローマ帝国を滅ぼす


(地図)476年のヨーロッパ(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

6世紀 (中部アメリカ)テオティワカンは最盛期をむかえる。

●20万人のアメリカ最大の都市テオティワカンは、近代都市とは異なり宗教都市だった。水の豊かな場所が天国との考えであり、ケツァルコアトル(羽毛の生えた蛇)、ジャガー、魚などが、水に関係の深い神体として壁画に描かれていた。このケツァルコアトルは、テオティワカン全期間を通じてあがめられ、のちのトルテカ、アステカ時代にもますます重要性をましていく。
(写真)テオティワカン、月のピラミッドから見下ろした死者の大通りと太陽のピラミッド
(出典:『アステカ文明展1974年』メキシコ国立人類学・歴史学研究所、メキシコ国立人類学博物館、朝日新聞社)
(注星野)2003年に陥没した穴から、地下15mの位置にピラミッドの真下に通る長さ120mの巨大トンネルが発見された。

(重要語)
○(東アジア) 「南北朝」(439~589年)「北魏」「雲崗石窟」「竜門」「道教」
○(中部アメリカ)「テオティワカン」「太陽のピラミッド」
●この1000年後のアステカの時代設定で、スペイン人侵略直前のユカタン半島を描いた「アポカリプト」(メル・ギブソン監督2006年制作)という映画がある。これは、当時使われた言語・衣装・時代考察等に徹底してこだわった作品といわれる。しかし同時に、マヤ文明研究家や関係者からは激しい非難を浴びた作品でもある。現実の映像として体験するという意味で、一見の価値はある。この映画の数シーンを下段でピックアップして紹介する。
●周辺部族が拉致され、男達は体に青い塗料を塗られ、生贄の祭壇へ向かう。そこでは人々の熱狂と狂気が渦巻いている。 この映画のラストは、新しい価値観とキリスト教文明を世界に広げようとするスペイン人の出現で終わる。

●「アポカリプト」2006年アメリカ映画。監督メル・ギブソン。R-15指定作品。マヤ語。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ4.4MB、41秒)

●この作品でのテーマはショッキングな「生け贄」だと思う。そこで、『アステカ文明展1974年』の解説、プロローグ「アステカ文明」増田義郎、から一部を引用してみる。

○宇宙と世界の構造(なぜ生贄を捧げるか)増田義郎

「なぜ生贄を捧げるか 生贄の思想は、アステカ宗教のすべての側面にまつわりついている。まず世界の起源は、神の自己犠牲によって説明される。世界の創造とは神の創造にほかならなかった。世界のはじめ、神々がテオティワカンの薄暗がりの中で集まったとき、できものにからだ一面覆われたひとりの小さな神が、大きな炉の中に生贄として飛びこんで太陽になった。しかし、この新しい太陽は動かず、これを動かすためには血が必要だった。そこで、神々は自己を犠牲に捧げ、その血によって太陽は運行をはじめた。十六世紀の記録者サアグンの伝える右の伝承は、このようにして神々の犠牲によって開始された世界が、人間も自己の血を太陽に捧げることにより存続されねばならぬことを説いているのである。

下

320年 インドではグプタ朝が成立して安定期をむかえた。始祖チャンドラグプタ一世は、マウリア朝の再興を目指してインド統一を努め、チャンドラグプタ二世(375~413年)の時全盛期をむかえた。
●グプタ芸術は、ガンダーラ美術とインドとの融合で、中央アジアから東アジアの仏教美術に多大な影響を与えた。中国の敦煌、雲崗の石窟寺院や日本の法隆寺の壁画に影響を与えた。

(重要語)
○「サンスクリット語の完成」「シャクンタラー」「0ゼロの理論」「円周率」「10進法」「一年の算出」「アラビア数字のもと」「アジャンタの石窟寺院」「グプタ芸術」「ヒンドゥー教」
ヒンドゥー教への発展


●伝統的なバラモン教は、さまざまな民間信仰、仏教、ジャイナ教などと混交してきたが、この時代に、庶民の生活に密着したヒンドゥー教へと発展した。

(重要語)
○「輪廻転生(りんねてんしょう」「因果律・業(カルマ)」「創造神ブラフマー」「維持神ビシュヌ」「破壊神シバ」

(写真左)ヴィシュヌ立像 グプタ時代 5世紀 マトゥラー出土 赤砂岩 ニューデリー国立博物館
(写真右)踊るシヴァ神像 10~11世紀 タミルナードゥ出土 青銅 ニューデリー国立博物館
(出典:「インド古代彫刻展 東京国立博物館・京都国立博物館・日本経済新聞社1984年刊より」)

簡易通史・14-7(6~7世紀頃の世界)
(6世紀~)東ローマ帝国・ローマ教会とギリシャ正教会・イスラム教
世紀別世界<要旨>
●ヨーロッパでは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が勢力を拡大。ササン朝ペルシャと抗争。
●アラビア半島にイスラム勢力が台頭。ムハンマド、イスラム教成立。
●中国では隋に続いて唐が成立。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
6世紀
東ローマ帝国の再征服

●東ローマは、ゲルマン民族大移動の影響をこうむることが少なかった。最初に受けた被害も周辺地帯のトラキア、マケドニアで、首都や商工業の栄えた小アジア、シリア、エジプトは無傷だった。ユスティニアヌス帝は、西方再征服、ローマ教会との対立解消を目指した。またローマ法典の編纂を行い、古ローマの英智の結晶として「ローマ法大全」をまとめた。

6世紀
ローマ教会とギリシャ正教会


●東ローマ帝国ではユスティニアヌス帝が、世界最大のキリスト教寺院(聖ソフィア寺院)をコンスタンティノープルに建立し、皇帝自身が教会の首長を兼ねる「皇帝教皇主義」を確立した。その後、聖像崇拝を厳禁するイスラム教の影響もあり、726年皇帝レオ三世は、聖像(イコン)崇拝禁止令を発するとともに、修道院の土地と財産の没収を行った。これにより、ローマ教会との激しい論争・対立が起き、東西両教会は分裂し、東にはギリシャ正教会が成立した。
(写真)コンスタンティノープルの「アヤ・ソフィア=聖なる叡智」寺院。 537年キリスト教世界最大の教会として、ビザンツ帝国、東方キリスト教会、コンスタンティノープルの象徴として建立された。
(出典:『シルクロードⅡ』山と渓谷社1973年刊)

(重要語)(ヨーロッパ)
○「フランク王国」「ランゴバルド王国」「ベネディクト修道会」「ローマ教皇グレゴリウス一世」
○東ローマ帝国「ユスティニアヌス一世」「アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)=聖なる叡智」「ローマ法大全」
6世紀
7世紀
中国では5世紀から6世紀にかけて、南北に王朝が並立する南北朝時代となる。589年隋が中国を再統一したが、618年に滅び、唐が建国された。

(重要語)(東アジア)
○6世紀「突厥」「隋・文帝、煬帝」「磐井」「物部」「聖徳太子」
○7世紀「唐・高祖」「均田法・租庸調法」「玄奘」「則天武后=史上初の女帝」「新羅」「法隆寺」「遣唐使」「乙巳の変」「蘇我氏」「白村江の戦い・663年=(唐・新羅)対(日本・百済)」「壬申の乱」
6世紀 (日本)仏教が伝来する。

(写真左)法隆寺金堂壁画 阿弥陀浄土 外陣6号大壁(焼損) 7世紀末~8世紀初 斑鳩(奈良)法隆寺
(出典:『家庭美術館』平凡社1963年刊)
(写真右)法隆寺 釈迦如来及び両脇侍像(しゃかにょらい及びりょうわきじぞう)(金堂安置)飛鳥時代7世紀
この像は飛鳥彫刻のすぐれた典型であるとともに、彫刻史上記念碑的存在である。
(出典:『国宝50選 日本の彫刻』毎日新聞社1970年刊)
7世紀
ムハンマド、イスラム教を創始する

●(西・中央アジア)アラビアのメッカで生まれたムハンマドは、アッラーの啓示を受け予言者として、「唯一神の信仰」「偶像崇拝の排斥」「人間の平等」のイスラム教を創始した。630年にメッカを征服し、メッカをイスラム教の聖地と定めた。

(重要語)
○「ムハンマド」「イスラム教」「ヒジュラ=622/07/16」「正統カリフ時代(632~661)=シーア派」「ウマイヤ朝(661~750)=スンニー派」「アッバ-ス朝(750~1258)」
○(正統カリフ時代+前ウマイヤ朝)=アラブ帝国、後ウマイヤ朝イベリア半島(コルドバ)へ逃れ、繁栄。
○(アッバ-ス朝)=イスラム帝国・首都バクダッド。人口150万人。

(写真左)バクダッド《(サラーム=平安)の都の意味》のカージマイン霊廟。シーア派の聖地、起源は8世紀以前にさかのぼるが、整備されたのは17世紀以降。(出典:『世界の旅トルコ・西アジア』河出書房1969年刊)
(写真右)サマラ(サーマッラー)のアッバース朝第10代カリフ、アル・ムタワッキルによって、849-852年(846年頃か852年説あり)に 建てられた50m(53m)のスパイラル・ミナレット(=モスクの光塔)。
(出典:『シルクロードⅡ』山と渓谷社1973年刊)
イスラム教について

●ここでは、「伊斯蘭(イスラム)文化のホームページ」から、クルアーン=コーランの一部を引用して、イスラム教にふれてみたい。

リンクします「伊斯蘭文化のホームページ」

「伊斯蘭教」(イースーランジャオ)「伊(yī)斯(sī)兰(lán) 教(jiào)」、中国語でイスラム教のこと。
(参考)「イスラームとコーラン」牧野信也著 講談社学術文庫1987刊

『聖クルアーン』=コーラン

日本ムスリム協会発行 「日亜対訳・注解 聖クルアーン(第6刷)」より一部引用。

「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において」

● 2 雌牛章 *アッラー (*は星野注釈)
163.あなたがたの神は唯一の神(アッラー)である。かれの外に神はなく、慈悲あまねく慈愛深き方である。
*「アッラー」は、旧約聖書「創世記」のアブラハムに語りかける「主=しゅ」(唯一神)と同じ存在。

下

簡易通史・14-8(8世紀頃の世界)
(8世紀~)フランク王国・イスラム帝国・唐・律令制と日本天皇制
世紀別世界<要旨>
(イスラム教国の勢力拡大、唐帝国の出現)
●西アジアに成立したイスラム教国が勢力を拡大し、北アフリカからイベリア半島までをも支配する帝国を築く。
●東アジアでは、強大な唐帝国が出現し繁栄した。
●ビザンツ帝国は、イスラム勢力に圧迫されて、領土を縮小した。
●フランク王国はカール大帝時代、フランス、ドイツ、イタリアを合わせた領域を支配した。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
711年
イスラム軍、イベリア半島上陸

●イスラム軍(ウマイヤ朝)ジブラルタル海峡を越えイベリア半島に上陸した。そして西ゴート王国を滅ぼした。(ジブラルタルの名は、イスラム軍司令官ターリクが、イベリア半島のカルベ山を占領し、これが「ターリクの山」=「ジャバル・アル・ターリク」=「ジブラルタル」と呼ばれたことに由来する。)

732年
ツール・ポアチエ間の戦い

●イスラム軍(ウマイヤ朝)、ピレーネ山脈を越えてフランク王国に侵入した。しかしイスラム軍は、ツール・ポアチエ間の戦いで、カール・マルテルに破れた。この戦いは、キリスト教世界とイスラム教世界との天下分け目の戦いだった。

751年
フランク王国の王位を奪う

●ツール・ポアチエ間の戦いに勝利したカール・マルテルとカロリング家の権威は高まり、その子のピピンは、フランク王国の王位を奪いカロリング朝を開いた。

ローマ教皇、ピピンの即位を承認

●ローマ教皇は、ビザンツ帝国からの独立と、ランゴバルド王国への対抗から、ピピンの即位を承認した。ピピンは、これにこたえてランゴバルド王国を攻撃し、かって西ローマ帝国の首都だったラベンナを、教皇へ寄進した。これが教皇領の始まりとなり、ローマ教皇はビザンツ帝国と教会に対抗できる力を得た。

800年
ローマ皇帝の戴冠


●ピピンの子のカール大帝は、ランゴバルド王国を滅ぼし、西ヨーロッパ主要部分を統一した。800年、ローマ教皇レオ三世は、カール大帝に、キリスト教世界の発展のつくしたことに対して、ローマ皇帝の帝冠を授けた。「カロリング・ルネッサンス」「首都アーヘン」


●カール大帝は自身の任務について次のように述べた。「朕の仕事は、キリスト教会を異端の侵入、不信心なものたちによる荒廃から、いたるところで武器をもって護り、カトリック教義の知識によって内部を強化することである」。
(地図左)800年前後のフランク王国(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
(写真右)シャルルマーニュ(カール)大帝騎馬小像。シャルル禿頭王との説もあり。
(出典:『ルーブル美術館Ⅲ』日本放送協会1985年刊)

750年 (アッバース朝、ウマイヤ朝を倒す。)

(地図)アッバース朝時代のイスラム(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
「アラブ帝国」から「イスラム帝国」

●正統カリフ時代~ウマイヤ朝は、「アラブ帝国」と呼ばれ、アラブ人を優遇していた。そのため非アラブ人の改宗者やイラン人達の生活は改善されず、反ウマイヤ勢力が結集していった。そんななかで、750年、ムハンマドの一族に属するアッバース家は、イラン人の協力を得てウマイヤ朝を倒した。アッバース朝は、民族を問わずイスラム教徒を対等に扱い、イスラム世界の新たな転機となったので「イスラム帝国」と呼ばれる。また、多数派(スンニー派)の支持を得るため、シーア派を弾圧した。一方、ウマイヤ家の一族はイベリア半島に逃れ、コルドバを首都に後ウマイヤ朝を再興した。コルドバは豊かな経済力を誇り、文化も発達し西ヨーロッパから多くの留学生が集まり、「ヨーロッパの灯台」と呼ばれた。
●アラブ人は、広大な地域を征服したが、その過程で多くの民族と協調し、先進文化を吸収し、集大成しさらに発展させた。特に自然科学は高度に発達した。数学(アラビア数字0.1.2.3.・・)、天文学、物理学、科学等。イスラム文化は、イスラム商人によって世界各地に伝えられ、特にヨーロッパ世界に与えた影響は大きかった。低い文化水準だったヨーロッパが、イスラム文化の影響で発展し、やがてルネッサンスを迎えることになる。
●「左手にコーラン右手に剣」イスラム教徒は、信者からなる政教一体の宗教共同体(ウンマ)を作った。ウンマ(相互補助精神と信仰による固い団結)が布教を兼ねて行う異教徒との戦争も聖戦(ジハード=努力・奮闘)というようになったが、これは外に対するジハードであって、狭義の意味にすぎないといわれる。
●彼らは征服地の民生安定と通商保護に努力したので、長年の戦乱と軍事負担に苦しんでいた被征服民に、解放者として歓迎され、改宗者が激増しイスラム勢力は急速に拡大していった。
●630年メッカを占領したとき、ムハンマドは次のように言った。

『・・・一切の階級的特権も消滅し、もはや何びとたりとも、地位や血筋を誇ることは許されない。あなたがたは、アダムの子孫として平等であり、もしあなた方の間に優劣の差があるとすれば、それはアッラーを敬う心にあるのみである・・』
(重要語)
○モスク=「マスジド=礼拝、ひざまずく場、平伏する場の意」「ジャーミー」「ミフラーブ=メッカ方向を指し示す壁のくぼみ」「ミンバル=説教壇」「ミナレット=塔、光塔、アザーン(呼びかけ)」「水場」「クルアーン」「ハディース」「ムアッジン=礼拝呼びかけ人」「イマーム=導師」「ウラマー」「偶像崇拝禁止」

○アラビアンナイトの世界
9世紀~10世紀、「アラビアンナイト」で有名な船乗りシンドバットは、アラブ系、イラン系の海上商人たちの活躍をえがいたもので、「インド洋世界」(バクダッドをから、東アフリカ沿岸、インド、スリランカ、中国、インドネシアに至る広大な世界)で活躍した。

(重要語)
○「バクダッド=マディーナ・アッサラーム=平安の都」「アラビアンナイト」「イスラム商人」「ダウ船」「シンドバッドの冒険」「アリババと40人の盗賊」「砂漠の船=ラクダ」「キャラバン」「バザール」

●(写真左1)「岩のドーム」687~691年エルサレム 16世紀外壁改装。(イスラーム教徒が建築した現存する最古の建物。ムハンマドが昇天した岩。ユダヤ教では「聖なる岩」、アブラハムがイサクを神のために捧げようとした岩。 ダビデ王がこの岩の上に契約の箱を納め、ソロモン王がここにエルサレム神殿を建設した。)
●(写真左2)「ウマイヤモスク」706~714年頃 ダマスクス シリア(現存する世界最古のモスクで、もとはキリスト教の洗礼者ヨハネ教会であり、ヨハネの墓がある。(出典:『大系世界の美術 イスラーム美術』学研1972年刊)
●(写真左3)「イブン・トゥールーンのモスク」876頃~879年 カイロ エジプト (アッバース朝のエジプト総督の手によって建設された。)
●(写真左4)「コルドバのメスキータ(スペイン語でモスク)」786~990年頃 コルドバ スペイン(旧キリスト教会跡に建設。馬蹄形アーチ が林立するモスク)(出典:『大系世界の美術 イスラーム美術』学研1972年刊)

(中国・唐の時代)

●618年豪族(李淵=高祖)とその子(李世民=太宗)は隋を滅ぼし、長安に都して唐を建国した。さらに李治(高宗)と続く3代で唐は大きく発展した。整備された公法典のもとでの、この皇帝による中央集権的統治の体制を、「律令体制」とよぶ。当時の東アジア諸国(新羅、日本、ベトナム等)は、競って遣唐使を送って、この体制の導入をはかった。
●唐はを国力充実させながら、周辺地域へ領土拡大を行った。支配下には周辺民族統治のため「都護府」を設置した。安東(平壌)、安南(ハノイ)、安西、安北、北庭、単于(ぜんう)・6都護府。羈縻政策(馬と牛のたずなの意)また、漢字文化、儒教、仏教が国々に広まり、こうして中国は、東アジアの、政治・経済・文化的な中心となり、一つの世界にまとまっていった。
●(律令体制)
 中央に「中書省=詔勅の起草」「門下省=詔勅の審査」「尚書省=行政」を置き、行政の下に「人事・財政・外交・軍事・司法・土木」の六部(りくぶ)を置いた。また御史台(査察・弾劾)や折衝府(地方の治安)を置いた。この運用のため、「律(刑法)」「令(行政法規)」「格(追加法令)」「式(施行細則)」を定めた。また「均田制(きんでんせい)」の土地制度は、口分田(くぶんでん)を与えられる代わりに、「租(穀物)」「庸(無償労働)」「調(絹・布)」「雑徭(労役)」の負担が義務となった。また「府兵制(徴兵)」、「戸籍」によって国民一人一人が管理された。「科挙(官吏登用試験)」は隋代より始まったが、この制度はのちに、フランス、アメリカ、イギリス、朝鮮、日本などに影響を与えた。

(重要語)
○「長安=人口100万世界最大の国際都市」「則天武后」「玄宗皇帝」「楊貴妃」「安禄山」「安史の乱」「佃戸=人が田に縛り付けられている字」「荘園」「節度使」「阿倍仲麻呂」「鑑真」

日本の律令制の違いを、「日本の歴史をよみなおす(全)」網野善彦 筑摩書房2005年刊より一部引用する。

天皇と「日本の」国号より 
 『・・・・それはともかく、まだまだ未開な要素を残している日本列島の社会と、高度な文明の所産である中国大陸の律令制とのドッキングのしかた、これがじつはいろいろな形で列島の国家と社会を長く規定しているのですが、天皇の特異性もこのことと関係しています。 まず、中国の律令制の骨格は儒教で、天命思想、易姓革命の思想(天子は天の命によってその地位にあるので、天子に徳がなければ、天の命があらたまり、天子の姓がかわる。王朝が交替するという思想)がその背景にあるのですが、この国家が律令制を取り入れる時に、この天命思想と易姓革命の思想は注意深く排除しているということが注目されます。もちろん、律令とともに儒教をとり入れているのですから、天命思想と日本の天皇が、まったく無縁であったわけではありません。

下

○また日本の天皇制と唐の律令制の違いを、「日本人とは何か」山本七平 祥伝社2006年刊より引用してみる。

律令制の成立
・・・・・(前略)・・・・
では、七世紀の半ばから八世紀にかけて形成された律令制といわれる体制の基本となった「律令」とは、一体どのようなものであったのであろう。
 これは隋唐時代に完成した中国の国家的成文法体系、正式には「律令格式」で「律=懲罰的法規、令=教化的行政法規、格=律令の改正補正的規則、式=施行細則」で構成されている。その基本的発想は近代法と違って、儒教的道徳社会の実現という理想を目指す法体系であった。この点では旧約聖書の「律法」とある種の共通性をもつ。というのは一世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスが記しているように、各人がその法規を厳守すれば神の直接支配である神政制が成立するはずだからである。

下

○全盛をむかえた「唐詩」を、「朗読で味わう漢詩」石川忠久 青春出版社2003年刊より引用してみる。

一章 もう一度読みたい名詩
春望 (しゅんぼう)  杜甫(とほ)
国破山河在    国破れて山河あり
           (くにやぶれて さんがあり)
城春草木深    城春にして草木深し
           (しろはるにして そうもくふかし)
感時花減涙    時に感じては花にも涙を濺ぎ
           (ときにかんじては はなにもなみだを そそぎ)
恨別烏鷺心    別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
           (わかれをうらんでは とりにもこころを おどろかす)
烽火連三月    烽火三月に連なり
           (ほうか さんげつに つらなり)
家書抵万金    家書万金に抵る
           (かしょ ばんきんに あたる)
白頭掻更短    白頭掻いて更に短く
           (はくとうかいて さらにみじかく)
渾欲不勝簪    渾て簪に勝えざらんと欲す
           (すべてしんに たえざらんと ほっす)

下

簡易通史・14-9(9世紀頃の世界)
(9世紀~)フランク王国分裂・キリスト教ヨーロッパ文化の基礎となる・唐の滅亡
世紀別世界<要旨>
●フランク王国が3国に分裂(フランス・ドイツ・イタリアのもとになる)
●ビザンツ帝国は、イスラム勢力の圧迫を受け縮小。
●中国、唐が滅亡し、五代十国の分裂期に入る。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
9世紀頃
フランク王国分裂

●広大なフランク王国には、多くの民族が存在した。各州に置かれた長官(伯)は、皇帝の統率力の低下によって、中央より自立し始めた。また、王国には男子の均分相続という伝統があった。そのため、王国では分割統治の争いが起こった。

843年 (ベルダン条約で調停)

●フランク王国はベルダン条約で調停が成り、カール(シャルルマーニュ)大帝の3人の孫で分割された。870年、メルセン条約でロタールの領土が再々分割され、その後、ルイ(東フランク王国=のち神聖ローマ帝国)、シャルル(西フランク王国)、ロタールの子(イタリア王国)の三国に分かれた。
これが、ドイツ、フランス、イタリアの基礎となった。
●(地図右)メルセン条約後(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
●(絵・写真左と中)910年に建てられた、クリュニー修道院。ベネディクト戒律による厳格な修道生活を行い、ヨーロッパの精神的支柱になった。12世紀までに3回立て直されて、ヨーロッパ最大の修道院になったが、フランス革命の際、大部分が取り壊された。左が全貌を伝える絵。中が現存する第三回目のクリュニー修道院の部分。
(出典:『ルーブル美術館Ⅲ』日本放送協会1985年刊)
(キリスト教がヨーロッパ文化の基礎となる)

●封建制に伴い、ローマ教会は、西ヨーロッパ精神世界における、指導的な地位を占めるようになった。同時に教会は、多くの土地や財産の寄進を受け、広大な所領をもつ封建領主となっていった。それにともない、教会の腐敗と堕落が進んで行った。これに対して、修道院を中心にして、正しい信仰を求め教会の刷新を図ろうとする運動が起きた。修道院の西ヨーロッパの起源は、6世紀イタリアのベネディクトゥスのモンテ・カッシノ修道院といわれる。それは「清貧・貞潔・服従」を守り「祈り、働け」をモットーに自給自足の生活を行った。13世紀には、各地を転々とまわり説教と布教活動を行う、フランチェスコ修道会とドミニコ修道会が創設された。

●9世紀
中国、唐の滅亡

●唐では均田制の崩壊につれ、荘園が増大していった。均田農民の減少により、軍事面でも府兵制の維持が困難になり、募兵制に変わっていった。中央政府は、その統括者として節度使を置いたが、自身の弱体化により、彼らは地方の独立政権となり「藩鎮」と呼ばれ、各地に割拠するようになった。9世紀後半になると、官僚間の対立や宦官勢力の増大で政治が乱れ、農民も重税により窮乏した。
●875年~884年、「黄巣の乱」がおきる。政府の塩専売制の導入による、塩価高騰と闇商人の横行による混乱は、闇商人の黄巣(こうそう)と王仙芝(おうせんし)の反乱となった。この反乱は全中国をまきこむ一大反乱となった。この乱は、黄巣の部下の朱全忠(しゅぜんちゅう)の寝返りで鎮圧されたが、結局節度使に任命された朱全忠が、907年反旗を翻し唐を滅ぼし、五代十国時代となって行った。

850年頃 アフリカでは、3世紀から始まるガーナ王国(サハラ砂漠南端)が、岩塩と金を交易の中心として繁栄をむかえた。またイスラム教とイスラム文化を西アフリカに広めたが、11世紀にアルモラビッド王国の攻撃を受け弱体化し、マンディンゴ族に征服された。
800年頃 インドネシア、ジャワのシャイレンドラ朝が、仏教建築物ボロブドゥールを建立した。

(地図左)アフリカ地図(出典:『世界の歴史がわかる本』綿引 弘著三笠書房200年刊)
(写真右)ジャワ ボロヴドゥール(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
8~9世紀 日本でも、公地公民制が崩れ、土地の私的所有が認められつつあった。723年「三世一身法」、743年「墾田永年私財法」により、半世紀で徐々に崩壊していった。そして農民の逃亡が増え始める。彼らは中央・地方の豪族の私有地の労働力になっていった。
●804年、空海(真言宗開祖、高野山)と最澄(天台宗開祖、延暦寺)、遣唐使として出発。

●(写真左)仏涅槃 高野山 金剛峰寺 絹、着色、掛物  (出典:『家庭美術館日本』平凡社1963年刊)
●(写真右)延暦寺 根本中堂(出典:『日本の神社仏閣』毎日新聞社1970年刊)

簡易通史・14-10(10世紀頃の世界)
(10世紀~)ノルマン人の大移動・イスラム帝国の分裂・オットー大帝・宋・高麗
世紀別世界<要旨>
(ユーラシア全域で民族の大移動)
●西ヨーロッパでは、ノルマン人がイングランド、フランク王国に侵入し、王国をつくった。バイキングとして知られる。ノルマン人の交易は、バクダッドでアラブ商人とも行っていた。東欧でも、マジャール人が神聖ローマ帝国を圧迫した。ヨーロッパではこれらの侵入に対抗して封建制が成立していった。
●東アジアでは、トルコ系のウイグルや、モンゴル系の契丹族の遼が南下し、漢族を圧迫した。五代十国の分裂後「宋」が統一した。
●西アジアでは、トルコ系遊牧民が活発となり、バクダッドはトルコ系ブワイフ朝の支配下となった。
●中央アジアでは、トルコ系ガズニ朝が北インドに侵入し、イスラム教をもたらした。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
ノルマン人

●ノルマン人(北方人の意=バイキング)はゲルマン人の一派。スカンジナビア半島およびデンマーク地方を本拠として、航海に長じ、8~12世紀にヨーロッパ各地に進攻した。ロシア起源をなすノヴゴロド公国(9世紀半ば)を建設し、北フランクに侵入してノルマンジー公国(911年)をたてた。イタリア南部シチリアに、両シチリア王国(12世紀)を建設した。

●(写真左)ノルウェー「ヴァイキング船オーセベリ号」女王の埋葬に使われたといわれる。完全な形で発掘された。
●(写真中)「ヴァイキングが各地から略奪してきた戦利品」出典:『世界の旅 北ヨーロッパ』河出書房1968年刊)
●(写真右)「ヴァイキングの墓」死ぬと船とともに土中に埋葬された。(出典:『世界の旅 北ヨーロッパ』河出書房1968年刊)

デーン人

●デーン人は、デンマーク地方に居住するノルマン人の一派。イングランドではデーン人と呼ばれ、大陸ではノルマン人と呼ばれる。キリスト教に改宗し、デンマーク王国としてデーン人を包括した統一国家を造り上げた。9世紀にイングランドに進攻。デーンロウ(9世紀後半以来ヴァイキング(デーン人)の支配下に置かれたイングランド東部地域)を支配した。

マジャール人

●マジャール人(ハンガリー人)は、ウラル山脈地帯からヴォルガ河流域が原住地。895年頃黒海北岸からカルパチア盆地へ侵入し、西欧進攻の拠点を築いた。
●この情勢下、ヨーロッパ各地域の領主達は、相互に契約による主従関係を結び、封建制度が形成されていった。この主従関係は、主君が臣下に土地や荘園を与え、臣下は主君に忠誠を尽くした。そして土地や荘園には、領主に隷属した農奴がいて、無制限の支配と搾取を受けた。

918年
朝鮮、高麗建国

朝鮮、開城を都として「高麗(こうらい)」が建国。

960年
中国、宋王朝建国

中国、趙匡胤(ちょうきょういん)五代の乱世に終止符を打ち、宋王朝を起こす。

910年 (イスラム)
●チュニジア、アッバス朝に対してカリフを宣言。北アフリカにファーティマ朝を創設する。(ファーティマの名は、予言者ムハンマドの娘で、アリーの妻の名にちなんだ。)969年、エジプトを征服し、新都カイロ建設に着手。
929年 (イスラム)
●スペインの後ウマイヤ朝スペイン、後ウマイヤ朝、新カリフを宣言。ファーティマ朝に対抗、西カリフ国。
(イスラム)
●アッバス朝の解体が進み、カリフから「国家の擁護者」の称号を得たブワイフ家が、バクダッドを支配した。
919年 ●ドイツ、カロリング朝断絶のあと、ザクセン朝ハインリッヒ一世が後を継いだ。
955年 ●ドイツ王、オットー一世は、マジャール人を撃退し、その進攻を終わらせた。

(地図左)「955年までのマジャール人の侵入」
(写真中)「オットー大帝の王冠」戴冠式のためにつくられたもの。
(写真右)「聖槍(せいそう)」キリストの脇腹を貫いたといわれる聖遺物。聖ヘレナからコンスタンティヌスに与えられ、さらにオットー大帝の手に渡ったという。(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊)
962年
神聖ローマ帝国が成立

●ローマ教皇は、イタリア王の圧迫からドイツと結び、オットー一世を、ローマ帝国皇帝に即位させる。これにより1806年まで800年続く神聖ローマ帝国が成立した。イタリア王は963年、オットー一世に降伏した。

987年 ●一方フランスでは、カロリング朝が断絶し、封建領主達の推薦により、ユーグ・カペーが国王に即位し、カペー王朝を開始した。
988年
ロシアはギリシア正教に改宗し国教化する

●ロシアのキエフ大公ウラジーミル一世は、ビザンティン皇帝の妹と結婚し、ギリシア正教に改宗、国教化した。これによりビザンティン的専制君主制をスラヴ社会に導入し、以後ロシアは、西ヨーロッパ諸国とは異なり、ギリシア正教圏に帰属した。

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Posted by hhks