(世界史)「古代文明の成立~10世紀」
●だがあるとき、人間は神々を「唯一神」「絶対神」とあがめた。その時から人間は、「神」の名のもとに人間同士で凄惨な戦争を繰り返すようになった。神が人間を創造したのではない、人間が神を作り上げたのだ。
世紀別 | 主要項目 |
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●古代文明(エジプト)・ | エジプト・ヘブライ人・新バビロニア王国・ペルシア |
●古代文明(インダス)・ | モヘンジョダロ・バラモン・カースト制・仏教 |
●古代文明(中国)・・・ | 周・秦・都江堰・「倭人伝の世界」・項羽と劉邦・漢 |
●前1世紀ごろの世界・・ | ローマ帝国・「新約聖書福音書」・「紀元・元号」について |
●1~4世紀までの世界・ | ローマ帝国の分裂・中国・三国時代 |
●5世紀ごろの世界・・・ | ゲルマン民族の大移動・西ローマ帝国滅亡・テオティワカン |
●6~7世紀ごろの世界・ | 東ローマ帝国・ローマ教会とギリシャ正教会・イスラム教「クルアーン」 |
●8世紀ごろの世界・・・ | フランク王国・アラブ帝国・唐・律令制と日本天皇制 |
●9世紀ごろの世界・・・ | フランク王国分裂・キリスト教ヨーロッパ文化の基礎となる・唐滅亡 |
●10世紀ごろの世界・・ | ノルマン人の大移動・イスラム帝国の分裂・オットー大帝・宋・高麗 |
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(6世紀~)東ローマ帝国・ローマ教会とギリシャ正教会・イスラム教 | |
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世紀別世界<要旨> ●ヨーロッパでは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が勢力を拡大。ササン朝ペルシャと抗争。 ●アラビア半島にイスラム勢力が台頭。ムハンマド、イスラム教成立。 ●中国では隋に続いて唐が成立。 *綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」 | |
6世紀 | 東ローマ帝国の再征服 ●東ローマは、ゲルマン民族大移動の影響をこうむることが少なかった。最初に受けた被害も周辺地帯のトラキア、マケドニアで、首都や商工業の栄えた小アジア、シリア、エジプトは無傷だった。ユスティニアヌス帝は、西方再征服、ローマ教会との対立解消を目指した。またローマ法典の編纂を行い、古ローマの英智の結晶として「ローマ法大全」をまとめた。 |
6世紀 | ローマ教会とギリシャ正教会
(重要語)(ヨーロッパ) ○「フランク王国」「ランゴバルド王国」「ベネディクト修道会」「ローマ教皇グレゴリウス一世」 ○東ローマ帝国「ユスティニアヌス一世」「アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)=聖なる叡智」「ローマ法大全」 |
6世紀 7世紀 | 中国では5世紀から6世紀にかけて、南北に王朝が並立する南北朝時代となる。589年隋が中国を再統一したが、618年に滅び、唐が建国された。 (重要語)(東アジア) ○6世紀「突厥」「隋・文帝、煬帝」「磐井」「物部」「聖徳太子」 ○7世紀「唐・高祖」「均田法・租庸調法」「玄奘」「則天武后=史上初の女帝」「新羅」「法隆寺」「遣唐使」「乙巳の変」「蘇我氏」「白村江の戦い・663年=(唐・新羅)対(日本・百済)」「壬申の乱」 |
6世紀 | (日本)仏教が伝来する。![]() (写真左)法隆寺金堂壁画 阿弥陀浄土 外陣6号大壁(焼損) 7世紀末~8世紀初 斑鳩(奈良)法隆寺 (出典:『家庭美術館』平凡社1963年刊) (写真右)法隆寺 釈迦如来及び両脇侍像(しゃかにょらい及びりょうわきじぞう)(金堂安置)飛鳥時代7世紀 この像は飛鳥彫刻のすぐれた典型であるとともに、彫刻史上記念碑的存在である。 (出典:『国宝50選 日本の彫刻』毎日新聞社1970年刊) |
7世紀 | ムハンマド、イスラム教を創始する ●(西・中央アジア)アラビアのメッカで生まれたムハンマドは、アッラーの啓示を受け予言者として、「唯一神の信仰」「偶像崇拝の排斥」「人間の平等」のイスラム教を創始した。630年にメッカを征服し、メッカをイスラム教の聖地と定めた。 (重要語) ○「ムハンマド」「イスラム教」「ヒジュラ=622/07/16」「正統カリフ時代(632~661)=シーア派」「ウマイヤ朝(661~750)=スンニー派」「アッバ-ス朝(750~1258)」 ○(正統カリフ時代+前ウマイヤ朝)=アラブ帝国、後ウマイヤ朝イベリア半島(コルドバ)へ逃れ、繁栄。 ○(アッバ-ス朝)=イスラム帝国・首都バクダッド。人口150万人。 |
![]() (写真左)バクダッド《(サラーム=平安)の都の意味》のカージマイン霊廟。シーア派の聖地、起源は8世紀以前にさかのぼるが、整備されたのは17世紀以降。(出典:『世界の旅トルコ・西アジア』河出書房1969年刊) (写真右)サマラ(サーマッラー)のアッバース朝第10代カリフ、アル・ムタワッキルによって、849-852年(846年頃か852年説あり)に 建てられた50m(53m)のスパイラル・ミナレット(=モスクの光塔)。 (出典:『シルクロードⅡ』山と渓谷社1973年刊) | |
イスラム教について ●ここでは、「伊斯蘭(イスラム)文化のホームページ」から、クルアーン=コーランの一部を引用して、イスラム教にふれてみたい。 リンクします「伊斯蘭文化のホームページ」「伊斯蘭教」(イースーランジャオ)「伊(yī)斯(sī)兰(lán) 教(jiào)」、中国語でイスラム教のこと。 | |
『聖クルアーン』=コーラン 日本ムスリム協会発行 「日亜対訳・注解 聖クルアーン(第6刷)」より一部引用。 |
(9世紀~)フランク王国分裂・キリスト教ヨーロッパ文化の基礎となる・唐の滅亡 | |
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世紀別世界<要旨> ●フランク王国が3国に分裂(フランス・ドイツ・イタリアのもとになる) ●ビザンツ帝国は、イスラム勢力の圧迫を受け縮小。 ●中国、唐が滅亡し、五代十国の分裂期に入る。 *綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」 | |
9世紀頃 | フランク王国分裂 ●広大なフランク王国には、多くの民族が存在した。各州に置かれた長官(伯)は、皇帝の統率力の低下によって、中央より自立し始めた。また、王国には男子の均分相続という伝統があった。そのため、王国では分割統治の争いが起こった。 |
843年 | (ベルダン条約で調停)![]() ●フランク王国はベルダン条約で調停が成り、カール(シャルルマーニュ)大帝の3人の孫で分割された。870年、メルセン条約でロタールの領土が再々分割され、その後、ルイ(東フランク王国=のち神聖ローマ帝国)、シャルル(西フランク王国)、ロタールの子(イタリア王国)の三国に分かれた。 これが、ドイツ、フランス、イタリアの基礎となった。 ●(地図右)メルセン条約後(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊) ●(絵・写真左と中)910年に建てられた、クリュニー修道院。ベネディクト戒律による厳格な修道生活を行い、ヨーロッパの精神的支柱になった。12世紀までに3回立て直されて、ヨーロッパ最大の修道院になったが、フランス革命の際、大部分が取り壊された。左が全貌を伝える絵。中が現存する第三回目のクリュニー修道院の部分。 (出典:『ルーブル美術館Ⅲ』日本放送協会1985年刊) |
(キリスト教がヨーロッパ文化の基礎となる) ●封建制に伴い、ローマ教会は、西ヨーロッパ精神世界における、指導的な地位を占めるようになった。同時に教会は、多くの土地や財産の寄進を受け、広大な所領をもつ封建領主となっていった。それにともない、教会の腐敗と堕落が進んで行った。これに対して、修道院を中心にして、正しい信仰を求め教会の刷新を図ろうとする運動が起きた。修道院の西ヨーロッパの起源は、6世紀イタリアのベネディクトゥスのモンテ・カッシノ修道院といわれる。それは「清貧・貞潔・服従」を守り「祈り、働け」をモットーに自給自足の生活を行った。13世紀には、各地を転々とまわり説教と布教活動を行う、フランチェスコ修道会とドミニコ修道会が創設された。 | |
●9世紀 | 中国、唐の滅亡 ●唐では均田制の崩壊につれ、荘園が増大していった。均田農民の減少により、軍事面でも府兵制の維持が困難になり、募兵制に変わっていった。中央政府は、その統括者として節度使を置いたが、自身の弱体化により、彼らは地方の独立政権となり「藩鎮」と呼ばれ、各地に割拠するようになった。9世紀後半になると、官僚間の対立や宦官勢力の増大で政治が乱れ、農民も重税により窮乏した。 |
850年頃 | アフリカでは、3世紀から始まるガーナ王国(サハラ砂漠南端)が、岩塩と金を交易の中心として繁栄をむかえた。またイスラム教とイスラム文化を西アフリカに広めたが、11世紀にアルモラビッド王国の攻撃を受け弱体化し、マンディンゴ族に征服された。 |
800年頃 | インドネシア、ジャワのシャイレンドラ朝が、仏教建築物ボロブドゥールを建立した。![]() (地図左)アフリカ地図(出典:『世界の歴史がわかる本』綿引 弘著三笠書房200年刊) (写真右)ジャワ ボロヴドゥール(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊) |
8~9世紀 | 日本でも、公地公民制が崩れ、土地の私的所有が認められつつあった。723年「三世一身法」、743年「墾田永年私財法」により、半世紀で徐々に崩壊していった。そして農民の逃亡が増え始める。彼らは中央・地方の豪族の私有地の労働力になっていった。 ●804年、空海(真言宗開祖、高野山)と最澄(天台宗開祖、延暦寺)、遣唐使として出発。 ![]() ●(写真左)仏涅槃 高野山 金剛峰寺 絹、着色、掛物 (出典:『家庭美術館日本』平凡社1963年刊) ●(写真右)延暦寺 根本中堂(出典:『日本の神社仏閣』毎日新聞社1970年刊) |
(10世紀~)ノルマン人の大移動・イスラム帝国の分裂・オットー大帝・宋・高麗 | ||||
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世紀別世界<要旨> (ユーラシア全域で民族の大移動) ●西ヨーロッパでは、ノルマン人がイングランド、フランク王国に侵入し、王国をつくった。バイキングとして知られる。ノルマン人の交易は、バクダッドでアラブ商人とも行っていた。東欧でも、マジャール人が神聖ローマ帝国を圧迫した。ヨーロッパではこれらの侵入に対抗して封建制が成立していった。 ●東アジアでは、トルコ系のウイグルや、モンゴル系の契丹族の遼が南下し、漢族を圧迫した。五代十国の分裂後「宋」が統一した。 ●西アジアでは、トルコ系遊牧民が活発となり、バクダッドはトルコ系ブワイフ朝の支配下となった。 ●中央アジアでは、トルコ系ガズニ朝が北インドに侵入し、イスラム教をもたらした。 *綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」 | ||||
ノルマン人 ●ノルマン人(北方人の意=バイキング)はゲルマン人の一派。スカンジナビア半島およびデンマーク地方を本拠として、航海に長じ、8~12世紀にヨーロッパ各地に進攻した。ロシア起源をなすノヴゴロド公国(9世紀半ば)を建設し、北フランクに侵入してノルマンジー公国(911年)をたてた。イタリア南部シチリアに、両シチリア王国(12世紀)を建設した。
●(写真左)ノルウェー「ヴァイキング船オーセベリ号」女王の埋葬に使われたといわれる。完全な形で発掘された。 デーン人 ●デーン人は、デンマーク地方に居住するノルマン人の一派。イングランドではデーン人と呼ばれ、大陸ではノルマン人と呼ばれる。キリスト教に改宗し、デンマーク王国としてデーン人を包括した統一国家を造り上げた。9世紀にイングランドに進攻。デーンロウ(9世紀後半以来ヴァイキング(デーン人)の支配下に置かれたイングランド東部地域)を支配した。 マジャール人 ●マジャール人(ハンガリー人)は、ウラル山脈地帯からヴォルガ河流域が原住地。895年頃黒海北岸からカルパチア盆地へ侵入し、西欧進攻の拠点を築いた。 | ||||
918年 | 朝鮮、高麗建国 朝鮮、開城を都として「高麗(こうらい)」が建国。 | |||
960年 | 中国、宋王朝建国 中国、趙匡胤(ちょうきょういん)五代の乱世に終止符を打ち、宋王朝を起こす。 | |||
910年 | (イスラム) ●チュニジア、アッバス朝に対してカリフを宣言。北アフリカにファーティマ朝を創設する。(ファーティマの名は、予言者ムハンマドの娘で、アリーの妻の名にちなんだ。)969年、エジプトを征服し、新都カイロ建設に着手。 | |||
929年 | (イスラム) ●スペインの後ウマイヤ朝スペイン、後ウマイヤ朝、新カリフを宣言。ファーティマ朝に対抗、西カリフ国。 | |||
(イスラム) ●アッバス朝の解体が進み、カリフから「国家の擁護者」の称号を得たブワイフ家が、バクダッドを支配した。 | ||||
919年 | ●ドイツ、カロリング朝断絶のあと、ザクセン朝ハインリッヒ一世が後を継いだ。 | |||
955年 | ●ドイツ王、オットー一世は、マジャール人を撃退し、その進攻を終わらせた。 | |||
![]() (地図左)「955年までのマジャール人の侵入」 (写真中)「オットー大帝の王冠」戴冠式のためにつくられたもの。 (写真右)「聖槍(せいそう)」キリストの脇腹を貫いたといわれる聖遺物。聖ヘレナからコンスタンティヌスに与えられ、さらにオットー大帝の手に渡ったという。(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊) | ||||
962年 | 神聖ローマ帝国が成立 ●ローマ教皇は、イタリア王の圧迫からドイツと結び、オットー一世を、ローマ帝国皇帝に即位させる。これにより1806年まで800年続く神聖ローマ帝国が成立した。イタリア王は963年、オットー一世に降伏した。 | |||
987年 | ●一方フランスでは、カロリング朝が断絶し、封建領主達の推薦により、ユーグ・カペーが国王に即位し、カペー王朝を開始した。 | |||
988年 | ロシアはギリシア正教に改宗し国教化する ●ロシアのキエフ大公ウラジーミル一世は、ビザンティン皇帝の妹と結婚し、ギリシア正教に改宗、国教化した。これによりビザンティン的専制君主制をスラヴ社会に導入し、以後ロシアは、西ヨーロッパ諸国とは異なり、ギリシア正教圏に帰属した。 |