(世界史)「古代文明の成立~10世紀」
2023年4月26日世界史
●だがあるとき、人間は神々を「唯一神」「絶対神」とあがめた。その時から人間は、「神」の名のもとに人間同士で凄惨な戦争を繰り返すようになった。「聖書」創世の書、第17章には次のようにある。アブラハムが「主」を唯一神として「契約」を定めたところである。キリスト教の根本概念である「主」との「契約」と「主」からの「許可」である。東洋的で多神教的な感覚からすると、キリスト教的「主=唯一神」の理解は難しい。
ここでは、綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊から要約・引用した。また「世界の歴史」中央公論社1961年刊より要約・抜粋した。また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。関連する写真、著作からも引用した。
(出典)「聖書」フェデリコ・バルバロ訳1980年講談社刊。
第17章 アブラムが99歳になったとき、主(しゅ)が彼に現れてこう仰せられた、
私は、おまえと私との間に契約(けいやく)を定め、おまえの子孫を大いにふやす、大いにふやす」。
直ちにアブラムが面(おもて)を地に伏せると、主はまた彼に仰せられた、
そして、おまえはもうアブラムの名を名のらず、アブラハムと名のることとなる。
それは、私がおまえをあまたの民(たみ)の父とするからである。
私はおまえに、非常に多くの子孫を与えよう。
おまえから多くの民が起こり、多くの王が生まれ出る。
私はおまえと、おまえの跡(あと)を継(つ)ぐ代々(よよ)の子孫との間に、契約を定める。
それは永遠の契約である。
こうして、私はおまえの神、おまえの跡を継ぐ子孫の神となる。
おまえとおまえの跡を継ぐ子孫に、いま、おまえが他国人(たこくじん)として住んでいる国、カナンの地のすべてを永遠の所有として与えよう。
私はおまえたちの神となる」。
(後半略)・・・・
●世界各地の大河周辺で文明が形作られてきた。(エジプト、メソポタミア、黄河、インダスなど)
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
●ここでは、先史時代からのエジプト・ヘブライ人・新バビロニア王国・ペルシア・アレキサンダー大王などについて述べる。
●前2500年頃、インダス川流域に都市文明が起こった。その代表的な遺跡が、モヘンジョ・ダロとハラッパである。しかしこの文明は、前2000年前半に滅亡した。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
●ここでは紀元前2500年からアーリア人・バラモン教・仏教などについて述べる。
年・月 | 前2500年頃から |
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前2500年頃 | ![]() (写真)モヘンジョ・ダロの沐浴場。祭司たちは中央の水槽で沐浴して身を清め、「聖なるもの」となり、神と交わる。水槽の階段(ガート)や水の儀礼は、後世のヒンドゥー教の増殖儀礼と深く結びついている。(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊) (写真右)石灰岩の彫刻。インダス文明の残存する数少ない石の彫刻。(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊) |
前2000年頃 | (アーリア人侵入)アーリア人の一部が、中央アジアから西北インドのパンジャーブ地方に侵入した。
(重要語)
○「リグ・ベーダ」「サンスクリット語(古代インド語)」「ドーラピーラ」「ジャイナ教」「ラーマーヤナ」「マハーバーラタ」 |
前1000年頃 | (アーリア人移動拡大)アーリア人は東方のガンジス川流域へ向かって移動拡大を始めた。そしてこの流域に都市国家が形成された。前6世紀頃には、相互に抗争を繰り返した。 ●その頃、バラモン教が成立していく。カースト制といわれるインド特有の厳格な階級制度を持ち、治者階級《バラモン(司祭者)、クシャトリア(王侯・武士)》と、被治者階級バイシャ(一般自由民)、シュードラ(奴隷・征服された先住民)》と分かれる。これは、この4つのバルナ(色)と3000のジャーティ(生まれ・職業集団)のことをカースト制と、ポルトガル人が名づけたことによる。(カスタ=血統)しかし、この4つのバルナに入れない、不可触賤民(パリア、アウトカースト)の人々が存在し、20世紀のインド独立後に、ガンジーは彼らをハリジャン(神の子の意)と呼び、その解放に力をそそいだ。 |
○仏教の成立についてをインド仏教美術より一部引用してみる。
(出典:インド仏教美術 杉山二郎「インド古代彫刻展」 東京国立博物館・京都国立博物館・ 日本経済新聞社1984年刊より) その自由思想家の一人にシャキャムニ(Sakyamuni、釈迦牟尼、遊牧民シャカ族出身の無上の聖者という仇名、本名をゴータマ・シッダッタ gotama siddhattha or siddhartha、瞿曇悉達)がいた。仏教の開祖である。彼はまた仏陀(Buddha、覚者)といわれ、その教義が仏教である。彼はインド社会の諸矛盾を指摘するために、個人の努力覚醒を促した。職業選択の自由、結婚の自由と身分の平等と、生きとし生きるものへの博愛-これを慈悲と呼んでいるーを倫理上の目的とした。その実践は八つの正しいあり方(八正道)と、四諦(苦諦、集諦、滅諦、道諦)にあるとした。この仏教活動は当時のインド社会への挑戦であり、新興宗教としての新鮮な魅力があったに違いない。シャキャムニ個人が宗教改革者、社会改良者として魅力に富んだ人であったことはもちろんであろう。個人の自覚と実践倫理をやさしく具体的に説いた。このため、保守的農民層よりも、都市の発達にともなって財力を蓄積し、能力がありながら不当におとしめられていた商工業者、奴隷、不可触賤民たちが、彼の教義に共鳴し、また僧団に加わった。 |
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前4世紀後半 | (統一帝国マウリア朝)インド史上初の統一帝国マウリア朝が樹立された。その第3代アショーカ王は、ほぼ全インド(南端部をの除いて)支配する空前の大帝国を建てた。この征服戦争中にカリンガ国(ベンガル南方)を攻撃し、10万人を殺害したという。アショーカ王は自身の暴虐ぶりとその悲惨な結果から、仏教に目覚め、慈悲の王に変わったといわれる。
(重要語)
○「バクトリア王国」「大月氏族」「クシャーナ朝」「カニシカ王」「大乗仏教」「小乗仏教」「ガンダーラ美術」 |
●前2000年頃には、黄河流域には小国家邑(ゆう)ができ、連合していったと考えられる。中国では、夏(か)・殷(商)・周を最古の王朝としている。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
●ここでは紀元前11世紀からの周・秦・都江堰・「倭人伝の世界」・項羽と劉邦・漢などについて述べる。
年・月 | 紀元前11世紀頃から |
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前11世紀頃 | 周が殷を滅ぼした。周は封建制をひいたが、その封建制・主従関係は、原始古代的な血統関係を基本とする統治方法だった。
(重要語)
○「殷墟(いんきょ)」「甲骨文字(こうこつもじ)」「紂王(ちゅうおう)」「竜山文化」 |
前770年 | (周、都を遷す) ●周は都を鎬京(西安付近)から洛邑(洛陽付近)に移した。これ以前を西周といい。以後を東周という。東周では、周王は名目上は王であったが、実権は失われ、諸侯の対立抗争がつづいた。この時代は、「春秋時代」(前770年~前403年)と「戦国時代」(前403年~前221年)に分けられる。戦国時代の末期になると、戦国の七雄といわれる有力な七つの諸侯(秦・楚・燕・斉・韓・魏・趙)が中国の統一を目指して争った。 ●この春秋・戦国時代は、有用な人材と新しい政治思想が求められ、「諸氏百家」といわれる多くの思想家とその学派があらわれた。 ●孫子の有名な言葉、「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」 (重要語)
○「孔子」「孟子」「荀子」「韓非子」、法家=「李斯」「商鞅」、道家=「老子」「荘子」、墨家=「墨子」陰陽家=五行説、縦横家、兵家=「孫子」「呉子」 |
前221年 |
秦、統一王朝を築く
●秦は、他の諸国より徹底した改革を行い国力を充実させ、統一王朝をつくった。秦は15年間の王朝だったが、数百年の分裂を統一し、その後の中国の基礎を固めた重要な王朝であった。中国のことを、秦を中国語でチン(Chin)と発音されることから、外国ではチナ→チャイナ(China)と呼ばれるようになった。 (重要語)
○「都江堰」「郡県制」「度(ものさし)量(ます)衡(はかり)の統一」「篆書(てんしょ)の統一」「通貨(半両銭)の統一」「焚書・坑儒」「万里の長城」「阿房宮」「始皇帝陵」「兵馬俑坑」「不老長寿(徐福)」 |
秦の時代 | ![]() (写真左)秦の時代、前276年蜀郡太守の任についた李氷は、息子の李二郎とともに民衆をひきい、都江堰水利工事を完成させる。水害は一挙に軽減し、田畑に灌漑が引けたことで、農業生産は飛躍的にのび、また河川の運航の利は四川地方の繁栄をもたらした。(出典:『中国の旅3』講談社1980年刊) (写真右)中国古代の土木技術より、都江堰(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊) |
(参考) 森浩一「倭人伝の世界」1983年小学館刊
『秦(しん)の灌漑技術を伝えた秦氏(はたし)』より一部引用してみる。秦の灌漑技術が、遠く日本にまで時代をこえて伝えられたかもしれない、と書かれている。 「倭人伝の世界」 「・・・京都の嵐山は、景色の美しい場所だが、河川灌漑の説明に最適の土地だし、そこには古墳時代後期か終末期に原形ができたと推定される灌漑システムが、今日も働きつづけている。丹波に源を発した桂川は、両岸を山でせばめられた保津川の渓谷となり、嵐山に至って両岸に平地が拡がりはじめ、流れもゆるやかになる。渡月橋の少し上流に、川をせきとめるダムがある。これを堰(い)とよんだので、この付近の桂川を大堰川(おおいがわ)とよび、和歌や物語にしばしばあらわれる。 ・・・嵐山の大堰でせきとめられた水は、桂川の右岸と左岸の平野へ、溝、つまり灌漑用水路で給水されている。その左岸が嵯峨野で、渡来系の大集団として知られている秦氏(はたし)の根拠地でもあり、特に最近は映画村で名高い太秦(うずまさ)の名ものこっている。この一帯には秦氏がのこした蛇塚(へびづか)や天塚(あまづか)などの前方後円墳もあって、嵯峨野古墳群とよばれ、また氏寺としての広隆寺も名高い。嵐山からの灌漑システムも、秦氏がのこしたものである。というのは、『秦氏本系帳』という記録に、このダムが秦氏によるものだとしていて、8世紀には実在していたことがわかる。
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(始皇帝)![]() (写真左)始皇帝陵近くから発掘された銅車馬。 (写真右)始皇帝 兵馬俑(出典:『中国の世界遺産』藤井勝彦 JTBパブリッシング2012年) |
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前209年 | (大規模な農民反乱の勃発)陳勝・呉広率いる、史上初の大規模な農民反乱が起こった。(始皇帝の死=前210年50歳。始皇帝の急激な改革、思想統一、農民への負担などに対する反乱) |
前202年 |
漢帝国の創設
●項羽(もと楚国の将軍の子)と劉邦(農民出身のいち小官吏)による秦打倒の争いから、両者の激突 となり、劉邦(高祖)による漢帝国の創設を見る。前漢(西漢)前202年~後8年、新(王莽)8年~23年、後漢(東漢)25年~220年。 (重要語)
○「鴻門の会」「四面楚歌」「虞美人草」 |
前139年頃から |
「武帝」による中央主権的統一
●前漢7代目の「武帝」の時代に中央主権的統一がなされた。前139年、匈奴を駆逐し、西域に敦煌郡等(4郡)を設置した。前111年、南方に軍を送り9郡を設置し、そのうち3郡(交趾・九真・日南)をベトナム北部に設置した。前108年衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪・真番・玄菟・臨屯の4郡をおいた。またチベット・雲南方面も征服して5郡をおいた。真の意味で、中国の基礎が確立されたのは、この400年続いた漢代であるといえる。 (重要語)
○「漢民族」「漢字・漢文」、司馬遷「史記」、班固「漢書」 |
●ローマ帝国、カルタゴを滅ぼし、奴隷制を基盤とする強国に成長。(西)
●漢帝国は周辺に勢力を拡大し大帝国を築く。しかし遊牧民族の匈奴は侵入を繰り返し、漢帝国を脅かした。(東)
●この(東西)間を結ぶシルクロードの交易で、イラン系のパルティア王国等が繁栄した。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
●ここでは紀元前1世紀頃からのローマ帝国・「新約聖書福音書」・「紀元・元号」などについて述べる。
年・月 | 紀元前1世紀頃から |
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(重要語)
○「ポエニ戦争」「すべての道はローマに通ず」「水道・公衆浴場」「ローマ市民」「ホルテンシウス法」「奴隷制」「ラチフンディウム(大農場経営)」「コロセウム」「剣闘士」「スパルタクスの反乱」「カエサル」「クレオパトラ」「ブルータス」、タキトス「ゲルマニア」「パクス・ローマーナ」「ヘロデ王」「イエズス・キリスト」「キリスト教」「新約聖書」 |
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前73~前71年 |
ローマ帝国「スパルタクスの反乱」
●ローマ帝国の繁栄は、征服戦争による略奪と奴隷獲得、属州支配による収奪が基盤だった。奴隷獲得数は記録によれば、サルジニア島8万人、カルタゴ滅亡時5万人、前167年マケドニア侵入時15万人、カエサルのガリア遠征100万人といわれる。(ガリアの男子の1/3にあたる)きびしい労働と搾取のため、しばしば反乱がおきた。 |
![]() (写真左)コンスタンティヌス帝の凱旋門 312年 (写真右)コロセウム外形 80年完成(出典:『世界の旅イタリア』河出書房1967年刊) |
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イエズス・キリストの誕生前3~4年
●キリストはローマ帝国の支配下にあったパレスチナで、ユダヤの王ヘロデの時代にベトレヘムでうまれナザレトで育った。ここで「新約聖書」の一部分を引用してみる。「豚に真珠」「狭き門」など有名な言葉が語られている。「聖書」フェデリコ・バルバロ訳1980年講談社刊より引用。 新約聖書マテオ(=マタイ)による福音書
○第7章より。フェデリコ・バルバロ訳 |
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紀元前140年 | 東アジアの重要語
(重要語)
「騎馬民族」「匈奴帝国」「冒頓単于」「汗血馬(かんけつば=汗が血に変わっても走り続ける)=サラブレッドの原型=天馬」「シルクロード」「草原の道」「胡人=西域の人々」「胡瓜(きゅうり)」「胡麻(ごま)」「胡椒(こしょう)」 |
●ここで「紀元」「元号」「年号」について簡単に解説する。星野記 「武帝」の時代に中国の基礎が確立されていく。「元号」の制度も、漢の武帝の「建元」元年(紀元前140年)に始まるといわれる。 ①「紀元」・・歴史上で年を数える際の基準、または基準となる最初の年。
●西暦は、キリスト誕生年を紀元とし、A.D.=ラテン語「アンノドミニ(Anno Domini)」=「イエス・キリストが君臨する時代・主の時代」を意味し、B.C.=英語「ビフォア クライスト(Before Christ)」=「キリスト以前」を意味する。 ②「元号・年号」
●「元号」の制度は、漢の武帝の「建元」元年(紀元前140年)に始まるといわれる。中国では皇帝が時を支配するという思想から、年に称号をつけた。「平成」が元号で、「平成26年」と年をつけたものを年号という。中国では元号は廃止され、この制度は日本だけのものになった。また明治以降、一世一元となったが、1979年の元号法制定により、「元号は政令で定め、皇位の継承があった場合に限り改める」ことを規定した。日本の公文書表記は、元号(年号)表記に、事務処理手続き上(法律上ではなく)統一されているようだ。
第四條 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに卽位する。
第十六條 天皇が成年に達しないときは、攝政を置く。 天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、國事に関する行爲をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、攝政を置く。 (旧皇室典範)には次のようにあり、考え方は継承されている。
第一〇条 天皇崩(ほう)ずるときは皇嗣(こうし)即(すなわ)ち踐祚(せんそ)し祖宗(そそう)の神器(しんき)を承(う)く
第一一条 即位(そくい)の礼(れい)及(および)大嘗祭(だいじょうさい)は京都に於(おい)て之(これ)を行(おこな)ふ 第一二条 踐祚(せんそ)の後(のち)元号(げんごう)を建(た)て一世(せい)の間(あいだ)に再(ふたた)び改(あらた)めざること明治元年の定制(ていせい)に従(したが)ふ 第一九条 天皇未(いま)だ成年(せいねん)に達(たつ)せざるときは摂政(せっしょう)を置(お)く 天皇久(ひさし)きに亙(わた)るの故障(こしょう)に由(よ)り大政(たいせい)を親(みづか)らすること能(あた)はざるときは皇族会議及(および)枢密顧問(すうみつこもん)の議を経(へ)て摂政を置く (注)「踐祚」と「即位」は分けて使われていたが、今は「即位」のみ使う。明治元年の定制とは『自今(じこん)以後(いご)旧制を革易(かいえき)して一世一元(いっせいいちげん)以(もっ)て永式(えいしき)とせん』の詔勅による。 |
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●日本での中国元号の知識と、独自元号の使用については、森浩一「古代史おさらい帖」ちくま学芸文庫2011年刊によれば、つぎのように書かれている。
森浩一「古代史おさらい帖」 ・・・以上にまとめた文章でも細かく検討すべき点はたくさんあるが、重要なことは、『紀』の神功皇后の条の中国史書を引用した四つの記事に、景初、正始、泰初(始)の三つの元号があることである。少なくとも『紀』の編纂時には倭人側が元号の存在を知っていたことがわかる。ただ、問題としてのこるのは、では、さらにもっと古く卑弥呼や次の女王である台与の時代にすでにそれらの元号を知っていたのか、あるいはそれより約百年後の古墳時代前期ごろから知っていたのかの二つの状況が考えられる。 「大化」は最初の元号か・・・日本史関係の辞書では、中国の制度にならって日本で元号を使いはじめるのは大化元年(645)であるとしている。大化は六年までつづき、その二月に穴戸(長門)国が白雉を献上し、それを祥瑞として喜び、元号を白雉としたと『紀』は伝えている。 |
●ヨーロッパでは、ローマ帝国が「ローマの平和」を経て、東西に分裂した。
中心は東ローマ帝国(ビザンツ/ビザンティン帝国)のコンスタンティノープルに移った。
●インドでは、クシャーナ朝(45年)(ガンダーラ文化)が繁栄した。
●中国では、後漢末の群雄割拠から、漢の滅亡、三国時代を経て、五胡十六国時代に入る。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
●ここでは紀元前1世紀頃からのローマ帝国分裂・中国・三国時代などについて述べる。
年・月 | 紀元前1世紀頃から |
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ローマ帝国歴代の皇帝たち(一例)![]() (写真左から)●アウグストゥス(前27-後14年)、●ネロ(54-68年)、●トラヤヌス(98-117年)、●カラカラ(211-217年)、●コンスタンティヌス(307-337年) (出典:『世界の旅イタリア』河出書房1967年刊) |
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TVドラマ「ROME(ローマ)」2005年~
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1~2世紀 | ローマ帝国は「ローマの平和=パクス・ローマーナ」といわれ、平和と繁栄を享受していた。 |
3世紀 | ローマ帝国は一転して内乱が頻発し、猛烈なインフレが進行した。平和であるが故に、征服戦争がなくなり奴隷の供給が止まったことが、逆に平和そのものの危機になった。そこで、ディオクレティアヌス皇帝(3世紀末)は、専制的な支配体制によって国家の安定を図るため、4人の皇帝を置く分割統治体制をしいた。 |
4世紀 | ローマ帝国では、コンスタンティヌス1世が、宗教的基盤強化のためキリスト教を公認し、奴隷の不足の代わりに、農民を土地に縛り付けるコロヌス制度を定めた。そしてローマ帝国の繁栄の中心は、東ローマ帝国(コンスタンティノープル)へ移っていった。 ●363年、皇帝ヨウィアヌスが、ササン朝ペルシアと講和した。このことが、分裂後の東ローマ帝国の、こののち140年間の平和と、ゲルマンやフンに対抗する上での、重要な意義をもった。 |
375年 |
「ゲルマン民族の大移動」と「ローマ帝国の分裂」
●遊牧民族のフン族の進攻により、ドナウ川北岸の西ゴート族約6万人が追われて、ローマ領内(西)に侵入を開始した。これが「ゲルマン民族の大移動」の発端である。 (重要語)
○「アウグストゥス=初代皇帝」「ネロ」「ゴルゴダの丘」「12使徒」「キリスト教弾圧」「殉教」「カタコンベ」「ポンペイ」「五賢帝時代=96~180年」「ユダヤ戦争、ディアスポラ(離散)、エルサレム立入死罪」「パルティア戦争」「カラカラ帝=大浴場」「コンスタンティヌス1世」「ミラノ勅令=キリスト教公認312年」「コンスタンティノープル開都320年」「エルサレム聖墳墓教会建築335年」「キリスト教、国教指定392年」「テオドシウス帝の長子アルカディウス=東ローマ帝国、次子ホノリウス=西ローマ帝国、東西分裂。395年」 |
8年 |
中国「三国時代」
●王莽は新を建国したが、23年新は滅亡し、後漢末の乱となり中国は三国時代へ向かう。 (重要語)
○「赤眉の乱、18~25年」「黄巾の乱、2世紀末」「魏・呉・蜀」「曹操・孫権・劉備」「諸葛孔明」 ●後漢末の黄巾の乱のスローガンは次のようである。 『蒼天(そうてん=後漢王朝)すでに死す。黄天(こうてん=自分たち)まさに立つべし。歳は申子(=184年)にあり、天下大吉』
(重要語)
蔡倫「紙の実用」班固「漢書」「赤壁の戦い」陳寿「三国志」「西晋」「五胡十六国」(316~439年)「帯方郡」 「高句麗」「広開土王」「チャンドラグプタ1世」「敦煌」「鳴沙山莫高窟」「前方後円墳」「百済」 |
諸葛孔明「出師(すいし)の表」
●ここで諸葛孔明の、出師(すいし)の表(ひょう)の最初の部分を引用する。有名な名文である。諸葛亮の蜀に対する忠義が如実に描写されているといわれる、名文中の名文。日本人が、「忠義」のお手本とした中国の「正気の歌」文天祥には次のようにある。「或(あるひ)は出師(すゐし=臣下が出陣する際に君主に奉る)の表(へう)と為(な)り、鬼神(きじん)壮烈(そうれつ)に泣(な)く」と。 『臣(しん)亮(りょう)言(もう)す。先帝(せんてい=劉備)業(げふ)創(はじ)むる未(いまだ)半(なか)ばならずして、中道(ちゅうどう=中途・半途)に崩殂(ほうそ=崩御のこと)す。
今、天下三分し、益州(えきしゅう=成都のこと)疲弊(ひへい)す、此(こ)れ誠に危急存亡の秋(とき)也(なり)。 然(しか)るに侍衛(じえい=天子や身分の高い人の近くにあって護衛すること)の臣(しん)、内(うち)に懈(おこたる=おこたる・だらける)らず、忠志(ちゅうし=真心のこもった志)の士、身(み)を外(そと)に忘するるもの、蓋(けだし)、先帝の殊遇(しゅぐう=特別のてあつい待遇)を追ひ、之(こ)れを陛下(へいか)に報(むく)いんと欲(ほっ)する也(なり)。 |
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4世紀ごろから |
「敦煌」
4世紀頃から1000年以上にわたって彫り続けられた。 |
(ゲルマン民族と五胡の大移動)
●ヨーロッパでは、ゲルマン諸族がローマ帝国領へ侵入し、西ローマ帝国を滅ばす。
●フランク王国は勢力を拡大。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は打撃を受けながらも生き延びた。
●西アジアでは、ササン朝ペルシャ、インドではグプタ朝が発展。
●東・北アジアでは、匈奴を中心とする五胡が華北に侵入、16の国を作り漢民族を支配した。
その後南北朝時代を迎える。多くの漢人が移住し、江南の開発が進んだ。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
●ここでは5世紀頃からのゲルマン民族の大移動・西ローマ帝国滅亡・テオティワカン・ヒンドゥー教などについて述べる。
年・月 | 5世紀頃から |
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ヨーロッパ |
ケルト人とゲルマン人
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![]() (出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊) |
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4世紀(375年) |
ゲルマン民族の大移動
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4世紀末(395年) |
ローマ帝国東西に分裂
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5世紀(451年) | (フン族のアッティラ、連合軍に破れる) ●フン族のアッティラは、東ローマ帝国を侵略した後、東ゴートと合流し北ガリア(フランス)へ侵入したが、西ローマ帝国・ゲルマン連合軍に破れた。 |
5世紀(476年) |
ゲルマン人将校オドアケル、西ローマ帝国を滅ぼす
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6世紀 | (中部アメリカ)テオティワカンは最盛期をむかえる。![]() ●20万人のアメリカ最大の都市テオティワカンは、近代都市とは異なり宗教都市だった。水の豊かな場所が天国との考えであり、ケツァルコアトル(羽毛の生えた蛇)、ジャガー、魚などが、水に関係の深い神体として壁画に描かれていた。このケツァルコアトルは、テオティワカン全期間を通じてあがめられ、のちのトルテカ、アステカ時代にもますます重要性をましていく。 (写真)テオティワカン、月のピラミッドから見下ろした死者の大通りと太陽のピラミッド (出典:『アステカ文明展1974年』メキシコ国立人類学・歴史学研究所、メキシコ国立人類学博物館、朝日新聞社) (注星野)2003年に陥没した穴から、地下15mの位置にピラミッドの真下に通る長さ120mの巨大トンネルが発見された。 (重要語)
○(東アジア) 「南北朝」(439~589年)「北魏」「雲崗石窟」「竜門」「道教」 ○(中部アメリカ)「テオティワカン」「太陽のピラミッド」 |
「アポカリプト」2006年アメリカ映画。監督メル・ギブソン。R-15指定作品。マヤ語。
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●この作品でのテーマはショッキングな「生け贄」だと思う。そこで、『アステカ文明展1974年』の解説、プロローグ「アステカ文明」増田義郎、から一部を引用してみる。
○宇宙と世界の構造(なぜ生贄を捧げるか)増田義郎 「なぜ生贄を捧げるか 生贄の思想は、アステカ宗教のすべての側面にまつわりついている。まず世界の起源は、神の自己犠牲によって説明される。世界の創造とは神の創造にほかならなかった。世界のはじめ、神々がテオティワカンの薄暗がりの中で集まったとき、できものにからだ一面覆われたひとりの小さな神が、大きな炉の中に生贄として飛びこんで太陽になった。しかし、この新しい太陽は動かず、これを動かすためには血が必要だった。そこで、神々は自己を犠牲に捧げ、その血によって太陽は運行をはじめた。十六世紀の記録者サアグンの伝える右の伝承は、このようにして神々の犠牲によって開始された世界が、人間も自己の血を太陽に捧げることにより存続されねばならぬことを説いているのである。 闇と虚無が世界を呑みこんでしまわないためには、絶えず太陽に血と心臓を捧げて活力を与えなければならなかった。一日の旅に疲れ果てて、地下の闇の世界に落ちた太陽は、たくさんの生贄の血で元気づけられねば、もう昇る力も持っていなかった。ひとたび太陽が停止してしまえば、世界は闇にとざされ、生命は死にたえてしまう。このように考えるアステカ人たちにとって、神殿における大量殺人が、生命と世界の維持のための必要事となり、生贄のための捕虜を得るため、彼らは必死になって他部族との戦争をおこなった。戦争と生贄こそ、アステカ社会の中心的な行事でなければならなかった。テノチティトランの壮大なピラミッドも、一切の宗教儀礼も、また何千人という大勢の神官たちも、ひたすらその目的のために存在したのだった。 |
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320年 | インドではグプタ朝が成立して安定期をむかえた。始祖チャンドラグプタ一世は、マウリア朝の再興を目指してインド統一を努め、チャンドラグプタ二世(375~413年)の時全盛期をむかえた。 ●グプタ芸術は、ガンダーラ美術とインドとの融合で、中央アジアから東アジアの仏教美術に多大な影響を与えた。中国の敦煌、雲崗の石窟寺院や日本の法隆寺の壁画に影響を与えた。 (重要語)
○「サンスクリット語の完成」「シャクンタラー」「0ゼロの理論」「円周率」「10進法」「一年の算出」「アラビア数字のもと」「アジャンタの石窟寺院」「グプタ芸術」「ヒンドゥー教」 |
ヒンドゥー教への発展
(重要語)
○「輪廻転生(りんねてんしょう」「因果律・業(カルマ)」「創造神ブラフマー」「維持神ビシュヌ」「破壊神シバ」 (写真左)ヴィシュヌ立像 グプタ時代 5世紀 マトゥラー出土 赤砂岩 ニューデリー国立博物館 |
●ヨーロッパでは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が勢力を拡大。ササン朝ペルシャと抗争。
●アラビア半島にイスラム勢力が台頭。ムハンマド、イスラム教成立。
●中国では隋に続いて唐が成立。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
●ここでは6世紀頃からの東ローマ帝国・ローマ教会とギリシャ正教会・イスラム教などについて述べる。
年・月 | 6世紀頃から |
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6世紀 |
東ローマ帝国の再征服
●東ローマは、ゲルマン民族大移動の影響をあまり受けなかった。最初に受けた被害も周辺地帯のトラキア、マケドニアぐらいで、首都や商工業の栄えた小アジア、シリア、エジプトは無傷だった。ユスティニアヌス帝は、西方再征服、ローマ教会との対立解消を目指した。またローマ法典の編纂を行い、古ローマの英智の結晶として「ローマ法大全」をまとめた。 |
6世紀 |
ローマ教会とギリシャ正教会
(重要語)(ヨーロッパ)
○「フランク王国」「ランゴバルド王国」「ベネディクト修道会」「ローマ教皇グレゴリウス一世」 ○東ローマ帝国「ユスティニアヌス一世」「アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)=聖なる叡智」「ローマ法大全」 |
6世紀 7世紀 |
中国では5世紀から6世紀にかけて、南北に王朝が並立する南北朝時代となる。589年隋が中国を再統一したが、618年に滅び、唐が建国された。
(重要語)(東アジア)
○6世紀「突厥」「隋・文帝、煬帝」「磐井」「物部」「聖徳太子」 ○7世紀「唐・高祖」「均田法・租庸調法」「玄奘」「則天武后=史上初の女帝」「新羅」「法隆寺」「遣唐使」「乙巳の変」「蘇我氏」「白村江の戦い・663年=(唐・新羅)対(日本・百済)」「壬申の乱」 |
6世紀 | (日本)仏教が伝来する。![]() (写真左)法隆寺金堂壁画 阿弥陀浄土 外陣6号大壁(焼損) 7世紀末~8世紀初 斑鳩(奈良)法隆寺 (出典:『家庭美術館』平凡社1963年刊) (写真右)法隆寺 釈迦如来及び両脇侍像(しゃかにょらい及びりょうわきじぞう)(金堂安置)飛鳥時代7世紀 この像は飛鳥彫刻のすぐれた典型であるとともに、彫刻史上記念碑的存在である。 (出典:『国宝50選 日本の彫刻』毎日新聞社1970年刊) |
7世紀 |
ムハンマド、イスラム教を創始する
●(西・中央アジア)アラビアのメッカで生まれたムハンマドは、アッラーの啓示を受け予言者として、「唯一神の信仰」「偶像崇拝の排斥」「人間の平等」のイスラム教を創始した。630年にメッカを征服し、メッカをイスラム教の聖地と定めた。 (重要語)
○「ムハンマド」「イスラム教」「ヒジュラ=622/07/16」「正統カリフ時代(632~661)=シーア派」「ウマイヤ朝(661~750)=スンニー派」「アッバ-ス朝(750~1258)」 ○(正統カリフ時代+前ウマイヤ朝)=アラブ帝国、後ウマイヤ朝イベリア半島(コルドバ)へ逃れ、繁栄。 ○(アッバ-ス朝)=イスラム帝国・首都バクダッド。人口150万人。 |
![]() (写真左)バクダッド《(サラーム=平安)の都の意味》のカージマイン霊廟。シーア派の聖地、起源は8世紀以前にさかのぼるが、整備されたのは17世紀以降。(出典:『世界の旅トルコ・西アジア』河出書房1969年刊) (写真右)サマラ(サーマッラー)のアッバース朝第10代カリフ、アル・ムタワッキルによって、849-852年(846年頃か852年説あり)に 建てられた50m(53m)のスパイラル・ミナレット(=モスクの光塔)。 (出典:『シルクロードⅡ』山と渓谷社1973年刊) |
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イスラム教について
●ここでは、「伊斯蘭(イスラム)文化のホームページ」から、クルアーン=コーランの一部を引用して、イスラム教にふれてみたい。 リンクします「伊斯蘭文化のホームページ」「伊斯蘭教」(イースーランジャオ)「伊(yī)斯(sī)兰(lán) 教(jiào)」、中国語でイスラム教のこと。 |
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『聖クルアーン』=コーラン
日本ムスリム協会発行 「日亜対訳・注解 聖クルアーン(第6刷)」より一部引用。 「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において」
●2 雌牛章 *アッラー (*は星野注釈) ●12 ユースフ章 *ユースフ=ヨセフの口を通して語る。 ● 2 雌牛章 *ムーサー=モーゼのこと ●5 食卓章 *メシアについて ●(現世肯定・積極的現実主義) 2 雌牛章 *食べ物、正しく仕える、断食。*斎戒(さいかい)=断食のこと。 62 合同礼拝章 *「アッラ-フ・アクバル」=「アッラーは偉大なり」 49 部屋章 *信者の争い 16 蜜蜂章 *イスラムに反抗する人々 |
(イスラム教国の勢力拡大、唐帝国の出現)
●西アジアに成立したイスラム教国が勢力を拡大し、北アフリカからイベリア半島までをも支配する帝国を築く。
●東アジアでは、強大な唐帝国が出現し繁栄した。
●ビザンツ帝国は、イスラム勢力に圧迫されて、領土を縮小した。
●フランク王国はカール大帝時代、フランス、ドイツ、イタリアを合わせた領域を支配した。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
●ここでは8世紀頃からのフランク王国・イスラム帝国・唐・律令制と日本天皇制などについて述べる。
年・月 | 8世紀頃から | ||||
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711年 |
イスラム軍、イベリア半島上陸
●イスラム軍(ウマイヤ朝)ジブラルタル海峡を越えイベリア半島に上陸した。そして西ゴート王国を滅ぼした。(ジブラルタルの名は、イスラム軍司令官ターリクが、イベリア半島のカルベ山を占領し、これが「ターリクの山」=「ジャバル・アル・ターリク」=「ジブラルタル」と呼ばれたことに由来する。) |
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732年 |
ツール・ポアチエ間の戦い
●イスラム軍(ウマイヤ朝)、ピレーネ山脈を越えてフランク王国に侵入した。しかしイスラム軍は、ツール・ポアチエ間の戦いで、カール・マルテルに破れた。この戦いは、キリスト教世界とイスラム教世界との天下分け目の戦いだった。 |
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751年 |
フランク王国の王位を奪う
●ツール・ポアチエ間の戦いに勝利したカール・マルテルとカロリング家の権威は高まり、その子のピピンは、フランク王国の王位を奪いカロリング朝を開いた。 |
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ローマ教皇、ピピンの即位を承認
●ローマ教皇は、ビザンツ帝国からの独立と、ランゴバルド王国への対抗から、ピピンの即位を承認した。ピピンは、これにこたえてランゴバルド王国を攻撃し、かって西ローマ帝国の首都だったラベンナを、教皇へ寄進した。これが教皇領の始まりとなり、ローマ教皇はビザンツ帝国と教会に対抗できる力を得た。 |
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800年 |
ローマ皇帝の戴冠
●カール大帝は自身の任務について次のように述べた。「朕の仕事は、キリスト教会を異端の侵入、不信心なものたちによる荒廃から、いたるところで武器をもって護り、カトリック教義の知識によって内部を強化することである」。 |
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750年 | (アッバース朝、ウマイヤ朝を倒す。)![]() (地図)アッバース朝時代のイスラム(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊) |
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「アラブ帝国」から「イスラム帝国」
●正統カリフ時代~ウマイヤ朝は、「アラブ帝国」と呼ばれ、アラブ人を優遇していた。そのため非アラブ人の改宗者やイラン人達の生活は改善されず、反ウマイヤ勢力が結集していった。そんななかで、750年、ムハンマドの一族に属するアッバース家は、イラン人の協力を得てウマイヤ朝を倒した。アッバース朝は、民族を問わずイスラム教徒を対等に扱い、イスラム世界の新たな転機となったので「イスラム帝国」と呼ばれる。また、多数派(スンニー派)の支持を得るため、シーア派を弾圧した。一方、ウマイヤ家の一族はイベリア半島に逃れ、コルドバを首都に後ウマイヤ朝を再興した。コルドバは豊かな経済力を誇り、文化も発達し西ヨーロッパから多くの留学生が集まり、「ヨーロッパの灯台」と呼ばれた。 『・・・一切の階級的特権も消滅し、もはや何びとたりとも、地位や血筋を誇ることは許されない。あなたがたは、アダムの子孫として平等であり、もしあなた方の間に優劣の差があるとすれば、それはアッラーを敬う心にあるのみである・・』
(重要語)
○モスク=「マスジド=礼拝、ひざまずく場、平伏する場の意」「ジャーミー」「ミフラーブ=メッカ方向を指し示す壁のくぼみ」「ミンバル=説教壇」「ミナレット=塔、光塔、アザーン(呼びかけ)」「水場」「クルアーン」「ハディース」「ムアッジン=礼拝呼びかけ人」「イマーム=導師」「ウラマー」「偶像崇拝禁止」 ○アラビアンナイトの世界 (重要語)
○「バクダッド=マディーナ・アッサラーム=平安の都」「アラビアンナイト」「イスラム商人」「ダウ船」「シンドバッドの冒険」「アリババと40人の盗賊」「砂漠の船=ラクダ」「キャラバン」「バザール」 |
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●(写真左1)「岩のドーム」687~691年エルサレム 16世紀外壁改装。(イスラーム教徒が建築した現存する最古の建物。ムハンマドが昇天した岩。ユダヤ教では「聖なる岩」、アブラハムがイサクを神のために捧げようとした岩。 ダビデ王がこの岩の上に契約の箱を納め、ソロモン王がここにエルサレム神殿を建設した。)
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(中国・唐の時代)
●618年豪族(李淵=高祖)とその子(李世民=太宗)は隋を滅ぼし、長安に都して唐を建国した。さらに李治(高宗)と続く3代で唐は大きく発展した。整備された公法典のもとでの、この皇帝による中央集権的統治の体制を、「律令体制」とよぶ。当時の東アジア諸国(新羅、日本、ベトナム等)は、競って遣唐使を送って、この体制の導入をはかった。 (重要語)
○「長安=人口100万世界最大の国際都市」「則天武后」「玄宗皇帝」「楊貴妃」「安禄山」「安史の乱」「佃戸=人が田に縛り付けられている字」「荘園」「節度使」「阿倍仲麻呂」「鑑真」 |
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●日本の律令制の違いを、「日本の歴史をよみなおす(全)」網野善彦 筑摩書房2005年刊より一部引用する。 日本は中国(隋・唐)の律令制を取り入れたが、本来の律令制の骨格である「天命思想」「易姓革命」の思想は排除したとある。これは、天子は「天の命」によってその地位にあるので、天子に徳がなければ、王朝が交替することは当たり前だという思想である。一方日本の天子(天皇)がその支配の基盤に置いたのは、皇孫思想という神の子孫が日本の国土に降り立ちその子孫だけが天皇の位につくのだという思想である。 天皇と「日本の」国号より
『・・・・それはともかく、まだまだ未開な要素を残している日本列島の社会と、高度な文明の所産である中国大陸の律令制とのドッキングのしかた、これがじつはいろいろな形で列島の国家と社会を長く規定しているのですが、天皇の特異性もこのことと関係しています。 まず、中国の律令制の骨格は儒教で、天命思想、易姓革命の思想(天子は天の命によってその地位にあるので、天子に徳がなければ、天の命があらたまり、天子の姓がかわる。王朝が交替するという思想)がその背景にあるのですが、この国家が律令制を取り入れる時に、この天命思想と易姓革命の思想は注意深く排除しているということが注目されます。もちろん、律令とともに儒教をとり入れているのですから、天命思想と日本の天皇が、まったく無縁であったわけではありません。 早川庄八さんの研究によりますと、天皇の口頭での発言を文書とした宣命には、明らかに天命思想につながる内容がもりこまれているのですが、それは八世紀という時代の状況の中で、天武・持統の直系の子孫を天皇とし、それ以外の皇統の人びとを排除するための論理として使われている。そして最終的には、天皇の皇位継承の裏付けとなっているのは、皇孫思想なので、高天原から太陽神の子孫であるニニギノミコトが、この国土に降り、その子孫が天皇の位につくのだという、私どもが戦争中にさんざん聞かされた、皇孫思想にほかならない。それを合理化するために、天命思想が用いられているにすぎないのです。しかしこの皇孫思想は、太陽神の子孫としての天皇の立場を継承するというマジカルな性格を持っており、未開な要素を持つ日本列島の社会の中から生まれた神話に裏づけられたもので、「天」という普遍的で明確な概念を前提とする、天命思想とはまったくちがっているといえます。・・・・。 |
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●また日本の天皇制と唐の律令制の違いを、「日本人とは何か」山本七平 祥伝社2006年刊より引用してみる。 日本の律令制のなかで採用しなかったのは「科挙」という試験制度である。 律令制の成立
・・・では、七世紀の半ばから八世紀にかけて形成された律令制といわれる体制の基本となった「律令」とは、一体どのようなものであったのであろう。 これは隋唐時代に完成した中国の国家的成文法体系、正式には「律令格式」で「律=懲罰的法規、令=教化的行政法規、格=律令の改正補正的規則、式=施行細則」で構成されている。その基本的発想は近代法と違って、儒教的道徳社会の実現という理想を目指す法体系であった。この点では旧約聖書の「律法」とある種の共通性をもつ。というのは一世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスが記しているように、各人がその法規を厳守すれば神の直接支配である神政制が成立するはずだからである。 中国の場合は、皇帝が聖人で、官僚が君子、そして律令が順守されれば、孔子が理想とした「王道」の国すなわち理想国家ができるはずであった。そこで、法を現実に運営する官僚は聖人の教えを完全に知り、かつ身につけていなければならない。そのために「科挙」という試験制度が必要不可欠であった。 |
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●全盛をむかえた「唐詩」を、「朗読で味わう漢詩」石川忠久 青春出版社2003年刊より引用してみる。 一章 もう一度読みたい名詩
春望 (しゅんぼう) 杜甫(とほ) 国破山河在 国破れて山河あり (くにやぶれて さんがあり) (口語訳)国の都の長安は破壊され、山や河の姿はそのままある。長安の街には春が来て、草や木がぼうぼうと生い茂った。この戦乱の時節に感じて花を見ても涙の種である。別れを恨んでは鳥の声にも心を驚かせる。いつまで経っても戦争はやまない。家からの手紙は稀にしかなく、非常に尊いものに思われる。私の白髪頭は掻けば掻くほど髪の毛が短くなつてしまう。冠を止めるピンには耐えられなくなりそうだ。 四章 人生の哀歓を詠う詩 朝回日日典春衣 朝より回りて日日春衣を典し(ちょうよりかえりて ひびしゅんいをてんし) (口語訳)朝廷を退出すると、毎日毎日春の衣服を質に入れ、そのたびに曲江のほとりで泥酔して帰る。酒の借金は普通のことで、行く先々にできている。それというのも、人生七十歳まで生きることが昔からめったにないから、いまのうちに存分に楽しんでおきたいのだ。花の中に蜜を吸うアゲハチョウが花びらの奥深く見え、水面に尾をつけて卵を産むトンボが緩やかに飛んでいる。私は自然に対して言葉を伝えたい、私とともに流れゆき、どうかほんのしばらくの間でも、このよい季節をお互いに楽しみ合って、そむくことのないようにしてくれ、と。 |
●フランク王国が3国に分裂(フランス・ドイツ・イタリアのもとになる)
●ビザンツ帝国は、イスラム勢力の圧迫を受け縮小。
●中国、唐が滅亡し、五代十国の分裂期に入る。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
●ここでは9世紀頃からのフランク王国分裂・キリスト教ヨーロッパ文化の基礎となる・唐の滅亡などについて述べる。
年・月 | 9世紀頃から |
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9世紀頃 |
フランク王国分裂
●広大なフランク王国には、多くの民族が存在した。各州に置かれた長官(伯)は、皇帝の統率力の低下によって、中央より自立し始めた。また、王国には男子の均分相続という伝統があった。そのため、王国では分割統治の争いが起こった。 |
843年 | (ベルダン条約で調停)![]() ●フランク王国はベルダン条約で調停が成り、カール(シャルルマーニュ)大帝の3人の孫で分割された。870年、メルセン条約でロタールの領土が再々分割され、その後、ルイ(東フランク王国=のち神聖ローマ帝国)、シャルル(西フランク王国)、ロタールの子(イタリア王国)の三国に分かれた。 これが、ドイツ、フランス、イタリアの基礎となった。 ●(地図右)メルセン条約後(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊) ●(絵・写真左と中)910年に建てられた、クリュニー修道院。ベネディクト戒律による厳格な修道生活を行い、ヨーロッパの精神的支柱になった。12世紀までに3回立て直されて、ヨーロッパ最大の修道院になったが、フランス革命の際、大部分が取り壊された。左が全貌を伝える絵。中が現存する第三回目のクリュニー修道院の部分。 (出典:『ルーブル美術館Ⅲ』日本放送協会1985年刊) |
(キリスト教がヨーロッパ文化の基礎となる)
●封建制に伴い、ローマ教会は、西ヨーロッパ精神世界における、指導的な地位を占めるようになった。同時に教会は、多くの土地や財産の寄進を受け、広大な所領をもつ封建領主となっていった。それにともない、教会の腐敗と堕落が進んで行った。これに対して、修道院を中心にして、正しい信仰を求め教会の刷新を図ろうとする運動が起きた。修道院の西ヨーロッパの起源は、6世紀イタリアのベネディクトゥスのモンテ・カッシノ修道院といわれる。それは「清貧・貞潔・服従」を守り「祈り、働け」をモットーに自給自足の生活を行った。13世紀には、各地を転々とまわり説教と布教活動を行う、フランチェスコ修道会とドミニコ修道会が創設された。 |
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●9世紀 |
中国、唐の滅亡
●唐では均田制の崩壊につれ、荘園が増大していった。均田農民の減少により、軍事面でも府兵制の維持が困難になり、募兵制に変わっていった。中央政府は、その統括者として節度使を置いたが、自身の弱体化により、彼らは地方の独立政権となり「藩鎮」と呼ばれ、各地に割拠するようになった。9世紀後半になると、官僚間の対立や宦官勢力の増大で政治が乱れ、農民も重税により窮乏した。 |
850年頃 | アフリカでは、3世紀から始まるガーナ王国(サハラ砂漠南端)が、岩塩と金を交易の中心として繁栄をむかえた。またイスラム教とイスラム文化を西アフリカに広めたが、11世紀にアルモラビッド王国の攻撃を受け弱体化し、マンディンゴ族に征服された。 |
800年頃 | インドネシア、ジャワのシャイレンドラ朝が、仏教建築物ボロブドゥールを建立した。![]() (地図左)アフリカ地図(出典:『世界の歴史がわかる本』綿引 弘著三笠書房200年刊) (写真右)ジャワ ボロヴドゥール(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊) |
8~9世紀 | 日本でも、公地公民制が崩れ、土地の私的所有が認められつつあった。723年「三世一身法」、743年「墾田永年私財法」により、半世紀で徐々に崩壊していった。そして農民の逃亡が増え始める。彼らは中央・地方の豪族の私有地の労働力になっていった。 ●804年、空海(真言宗開祖、高野山)と最澄(天台宗開祖、延暦寺)、遣唐使として出発。 ![]() ●(写真左)仏涅槃 高野山 金剛峰寺 絹、着色、掛物 (出典:『家庭美術館日本』平凡社1963年刊) ●(写真右)延暦寺 根本中堂(出典:『日本の神社仏閣』毎日新聞社1970年刊) |
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
(ユーラシア全域で民族の大移動)
●西ヨーロッパでは、ノルマン人がイングランド、フランク王国に侵入し、王国をつくった。バイキングとして知られる。ノルマン人の交易は、バクダッドでアラブ商人とも行っていた。東欧でも、マジャール人が神聖ローマ帝国を圧迫した。ヨーロッパではこれらの侵入に対抗して封建制が成立していった。
●東アジアでは、トルコ系のウイグルや、モンゴル系の契丹族の遼が南下し、漢族を圧迫した。五代十国の分裂後「宋」が統一した。
●西アジアでは、トルコ系遊牧民が活発となり、バクダッドはトルコ系ブワイフ朝の支配下となった。
●中央アジアでは、トルコ系ガズニ朝が北インドに侵入し、イスラム教をもたらした。
●ここでは10世紀頃からのノルマン人の大移動・イスラム帝国の分裂・オットー大帝・宋・高麗などについて述べる。
年・月 | 10世紀頃から | |||
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ノルマン人
●ノルマン人(北方人の意=バイキング)はゲルマン人の一派。スカンジナビア半島およびデンマーク地方を本拠として、航海に長じ、8~12世紀にヨーロッパ各地に進攻した。ロシア起源をなすノヴゴロド公国(9世紀半ば)を建設し、北フランクに侵入してノルマンジー公国(911年)をたてた。イタリア南部シチリアに、両シチリア王国(12世紀)を建設した。
●(写真左)ノルウェー「ヴァイキング船オーセベリ号」女王の埋葬に使われたといわれる。完全な形で発掘された。 デーン人
●デーン人は、デンマーク地方に居住するノルマン人の一派。イングランドではデーン人と呼ばれ、大陸ではノルマン人と呼ばれる。キリスト教に改宗し、デンマーク王国としてデーン人を包括した統一国家を造り上げた。9世紀にイングランドに進攻。デーンロウ(9世紀後半以来ヴァイキング(デーン人)の支配下に置かれたイングランド東部地域)を支配した。
マジャール人
●マジャール人(ハンガリー人)は、ウラル山脈地帯からヴォルガ河流域が原住地。895年頃黒海北岸からカルパチア盆地へ侵入し、西欧進攻の拠点を築いた。 |
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918年 |
朝鮮、高麗建国
朝鮮、開城を都として「高麗(こうらい)」が建国。 |
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960年 |
中国、宋王朝建国
中国、趙匡胤(ちょうきょういん)五代の乱世に終止符を打ち、宋王朝を起こす。 |
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910年 | (イスラム) ●チュニジア、アッバス朝に対してカリフを宣言。北アフリカにファーティマ朝を創設する。(ファーティマの名は、予言者ムハンマドの娘で、アリーの妻の名にちなんだ。)969年、エジプトを征服し、新都カイロ建設に着手。 |
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929年 | (イスラム) ●スペインの後ウマイヤ朝スペイン、後ウマイヤ朝、新カリフを宣言。ファーティマ朝に対抗、西カリフ国。 |
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(イスラム) ●アッバス朝の解体が進み、カリフから「国家の擁護者」の称号を得たブワイフ家が、バクダッドを支配した。 |
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919年 | ●ドイツ、カロリング朝断絶のあと、ザクセン朝ハインリッヒ一世が後を継いだ。 | |||
955年 | ●ドイツ王、オットー一世は、マジャール人を撃退し、その進攻を終わらせた。 | |||
![]() (地図左)「955年までのマジャール人の侵入」 (写真中)「オットー大帝の王冠」戴冠式のためにつくられたもの。 (写真右)「聖槍(せいそう)」キリストの脇腹を貫いたといわれる聖遺物。聖ヘレナからコンスタンティヌスに与えられ、さらにオットー大帝の手に渡ったという。(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊) |
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962年 |
神聖ローマ帝国が成立
●ローマ教皇は、イタリア王の圧迫からドイツと結び、オットー一世を、ローマ帝国皇帝に即位させる。これにより1806年まで800年続く神聖ローマ帝国が成立した。イタリア王は963年、オットー一世に降伏した。 |
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987年 | ●一方フランスでは、カロリング朝が断絶し、封建領主達の推薦により、ユーグ・カペーが国王に即位し、カペー王朝を開始した。 | |||
988年 |
ロシアはギリシア正教に改宗し国教化する
●ロシアのキエフ大公ウラジーミル一世は、ビザンティン皇帝の妹と結婚し、ギリシア正教に改宗、国教化した。これによりビザンティン的専制君主制をスラヴ社会に導入し、以後ロシアは、西ヨーロッパ諸国とは異なり、ギリシア正教圏に帰属した。 |