(世界史)「17世紀」①(オランダの世紀)
2022年7月17日世界史
ここでは、綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊から要約・引用した。また「東インド会社とアジアの海」・興亡の世界史第15巻、羽田正著 講談社2007年刊、「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊より要約・抜粋した。また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。関連する写真、著作からも引用した。
(左絵)イギリス東インド会社。(右絵)オランダ東インド会社(出典:両方とも『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
オランダは16世紀に繁栄を誇ったポルトガル・スペインに代わって、新大陸からインド・東アジア・日本に進出し、交易で巨富を築き、アムステルダムは世界の商業・金融・文化の中心となった。
またオランダは、鎖国時代の江戸幕府とも交易をもち、世界の最新情報、科学知識等を伝え、「蘭学」として日本に多大な影響を与えた。
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17世紀<要旨>(オランダの世紀) ●オランダが16世紀に繁栄を誇ったポルトガル・スペインに代わって、新大陸からインド・東アジア・日本に進出し、交易で巨富を得ていた。 ●しかしヨーロッパはまた「17世紀の危機」と呼ばれ、寒冷による飢饉、争乱、革命、戦争の絶えない時代でもあった。 ●イギリスは二度の革命を行って議会政治を確立した。 ●フランスはルイ14世の絶対王政下に、領土拡大戦争を繰り返した。 ●オスマン・トルコ帝国は、前世紀に続いて三大陸(アジア・アフリカ・ヨーロッパ)の要の地域を支配して強勢を保持していた。 ●サファービー朝ペルシャも全盛期を迎えていた。 ●インドではムガル帝国が領土を最大にして繁栄した。 ●東アジアでは、漢民族の明が、北方の満州族に圧迫されて滅亡し、満州族が清を樹立して大帝国を築いた。 *綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」 | |
アムステルダム、世界の商業・金融・文化の中心となる。 オランダは16世紀末からスペインに対する独立戦争を戦いながら世界に進出していった。オランダは人口は250万程度、国土の広さは日本の九州よりも小さい共和国であった。そしてその主要都市アムステルダムは、世界の商業・金融・文化の中心となった。オランダは、特に東インドで、ポルトガルの勢力圏を奪いイギリスをも破り、東インドの王者となっていった。またオランダは、鎖国時代の江戸幕府とも交易をもち、世界の最新情報、科学知識等を伝え、「蘭学」として日本に多大な影響を与えた。 | |
オランダの繁栄 (「世界の歴史」中央公論社1961年刊の「オランダの繁栄」から要約・引用。) ●日本で国名をオランダと呼ぶのは、ホラント(ネーデルラントの俗称)を、ポルトガル語訳で「オランダ」ということに由来する《江戸時代から》。世界では国名はネーデルラント。 同様にイギリスの国名の世界での略称はUnited Kingdomで、このイギリスという表現も、ポルトガル語でイングランドを意味した。 ●この中心勢力は「商人貴族」(富裕な門閥大商業ブルジョアジー)で、強大な経済的実力をバックとしてホラント州議会を牛耳り、これにより連邦議会を支配した。しかしまた一方、代々「総督」の官職にあった名門オランニェ家(独立戦争の指導者《ウィレム》や、代々資質のすぐれた軍事的指導者、政治家を生み出した)は、事実上のオランダ王室のような評価を得ていた。このオランニェ家は封建貴族層のみでなく、国内の中小市民、農民からも強い支持を得ていた。特に中小産業市民層は、大商業資本家の経済的、政治的支配に反発し、政治的にはオランニェ家の統一支配を望んでいた。こうして二つの勢力は対立を続けていった。また同時にカトリック、カルビン主義、アルミニウス派(自由主義的)などの宗教的対立もあり、1621年のスペインとの休戦期間満了後、戦争継続の中で総督の権限は強化され、1631年総督職はオランニェ家(オレンジ家)が世襲することが法制化された。こうしてオランダ王家が生まれていった。 「海によって栄え、世界の続くかぎり海と戦い、海によって生きなければならなかったオランダ人」 ①ネーデルラント(低い土地の意)の北部のホラント地域は、堤防に守られた低地帯が多く、高潮や洪水などといった海との戦いは、オランダ人に勤勉さと不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を培った。 ②北海の鰊(にしん)漁は「オランダの海の金鉱」とよばれ、またグリーンランド沖の捕鯨業は「海の銀鉱」といわれ、多大の利益をあげた。 ③海上輸送業の発達は「世界の運搬人」と呼ばれた。 ④これらの海の経済は、造船業の発達をうながし、オランダはヨーロッパ第一の造船国となった。同時に製材工業、帆布、ロープ製造業、金属工業なども盛んになり、あらゆる種類の工業が全世界の市場と結びついて栄え、「世界の工場」の観を呈した。 (重要語) バルト海貿易 ユトレヒト同盟 独立戦争(80年戦争) スペインからの独立宣言(1581年) マウリッツ(1567~1625)《ウィレムの子》 フレデリック・ヘンドリック《マウリッツの腹違いの弟》 オランダ(カルビン主義) 南部諸州、ベルギー(カトリック) アルミニウス(神学者) ウェストファリア条約(1648独立承認) | |
1595年4月 | オランダ第1回東インド航海 ●オランダは最初、シベリアを回って東洋へ達する「北東航路」の開拓を試みていた。 船名は、「マウリッツ号=総督名」「アムステルダム号=計画実行する商人団」「ホラント号=許可した州議会」そして通報艇として「鳩(はと)号=航海の平和を祈願して」の4隻だった。この船隊は100門以上の大砲を装備し、10万ギルダー以上の銀貨と商品を積んで出港した。 |
1597年8月 | 帰還乗組員わずか89名 ●しかし、この航海はさんざんなものだった。総員249名で出港し、1年と2ヶ月後にインドネシア・ジャワ島バンダムに到着し、1597年8月に帰港したが、往復に2年4ヶ月もかかり、帰還した乗組員もわずか89名だけだった。これは疾病や災害のほかに、内部の人間同士の争いがあった結果だった。だが3隻が帰還し、ポルトガル人の手を経なくても、直接貿易が可能となったことが大きかった。 |
1600年4月29日 | 「リーフデ号」の日本漂着 ●「クロニック世界全史」によれば、リーフデ号は1600年4月29日、九州臼杵(うすき)湾口の佐志生(さしう)に漂着したとある。このオランダ船は1598年6月に僚船4隻とともにロッテルダムを出港したが、逆風のためアフリカ喜望峰まわりの東進コースをとれず、やむなく南アメリカ・マゼラン海峡を西進して、僚船とはぐれ日本に漂着したとある。 (星野私見)こう聞くと、何故そのようなコースになるかと思ってしまうが、当初オランダ船は、ポルトガルの勢力圏である喜望峰から北上してアフリカ・インドを経由するコースはとれなかったとある。そこで、喜望峰からはオーストラリア方面へ直接東進して、のちに北上してインドネシアへ到達するコースを使っていた。だから喜望峰で東進しようが西進しようが同じだったのかもしれない。なんともスケールの大きな話ではありませんか。リーフデ号の日本漂着に2年近くかかったのも当然でしょうか。 ●「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊には、この船の船尾に飾られてあった「エラスムス像」(=宗教改革の端緒を切ったオランダの知識人)について書かれている。この船の名は、旧名「エラスムス号」で改名して「リーフデ(慈愛)号」といった。そして生存者の中で帰国しないで日本に残った2人が、オランダ人ヤン=ヨーステンとイギリス人ウイリアム=アダムスだった。彼らは江戸幕府通商顧問となり、日本初の洋式帆船の建造など行い、日本とオランダの通商を開き、外国の新知識を伝えたとあります。 ウイキペディアにもこの像について書かれている。「貨狄尊者(かてきそんじゃ)または貨狄さま(かてきさま)とは、栃木県の龍江院に安置されていた木像の名称。「木造エラスムス立像」として国の重要文化財に指定されている。」とあります。「佐野市観光協会」のHPは、リニューアルされましたが、掲載されていました。 |
下段でこのあたりの事情を、山本七平「日本人とは何か」祥伝社2006年刊「第5章オランダ人とイギリス人」から引用してみる。
●漂着リーフデ号のヨーステンとアダムス 東京駅で降りて八重洲口へ出たとき、何気なく私は言った。 「ヤエスとは実はオランダ人の名前です」 相手が奇妙な顔をしているので私はつづけた。
「大君(たいくん)は私を非常に厚遇し、イギリスの貴族に比すべき地位を賜り、8、90名の農民を従僕として給せられた。大君が、このような貴い地位を外国人に与えたのは、私が最初である。 私がこのように大君の信用を得たので、前に私を敵視していたポルトガル人・スペイン人らの驚きは大変なもので、いずれも媚(こび)を呈(てい)し、友として交わろうと望んでいる。私は怨みを棄て、彼らのために尽力している」 アダムスの書簡の一節だが、彼は十二歳でライムハウスの造船所で働きはじめているから、裕福な生まれではなかったであろう。その彼を家康が「貴族なみ」に厚遇したのは、それなりの理由があった。家康は、その者が誠意をもって自分に接しているか否かに、非常に敏感な人間であった。彼が最も嫌い、それをすれば極端な場合は処刑も辞さないのは、賄賂(わいろ)や情実により歪曲(わいきょく)した情報や進言を持ってくる人間だった。確かにこれは権力者が最も警戒すべきことである。家康はアダムスの公正な態度に好感をもったのであろう。
●オランダ国王から家康に宛てた手紙 この手紙の日付は1610年12月18日だが、日本に着いて翻訳を終えて家康が読んだのが慶長17年(1612年)10月8日である。この「阿蘭陀(おらんだ)国主まうりちいす・でなつそう拝上奉る」(注星野:マウリッツと思われる)にはじまる訳文はだれの手に成るのか明らかでないが、立派な日本文である。
「其(そ)の刻(とき)ほるとぎす(ポルトガル人)申し上げ候は、おらんだの者は、盜人(ぬすびと)ばはん(海賊)人(びと)と色々申し上げ候へども、聞し召し立てられず、御心を添えられ候儀、是(こ)れは則(すなわ)ち我等に御厚恩と覚え申し候」 とある。 「……又かすてあん(スペイン)・ほるとぎす(ポルトガル)の心持ちにて成り難き処を(自分の意志通りにならないところを)、ばいてる(イエズス会神父)の心の内に、深くつつみ、色には少しも出し申さず候処を、よくよく御分別なされ候て下さる可く候。此のばいてるの心は、日本の者を次第々々に我が宗になし、余宗を嫌ひ、後は少々宗論仕(つかまつ)り、大なるとりあひ(戦争)も御座候事もこれ有る可く候。其の時はばいてるの存分次第に罷(まか)り成る節も御座あるべく候」 この「植民地化の尖兵としてのキリシタン宣教師」といった見方は、前述のサンーフェリーペ号事件のときにすでに出て来ており、当時、五大老の筆頭であった家康は当然にその報告を受けていた。ただそのときは一航海士の”失言”のようなものだが、オランダ国王からの手紙でこうはっきり言われては、彼は少々深刻に受け止めざるを得ない。
●イギリス人使節の観察した日本 アダムスは家康に忠実であったが、イギリス人として当然イギリスを愛していた。彼は巧みに故国に手紙を送り、利益の多い対日貿易を開始するように説いた。イギリスはそれ以前からすでにこのことを考え、ジョン・セーリスが三隻の船を率い、ジェームズ一世の国書を携えて1611年にテムズ河口を出発し、1612年10月にバンタムに着き、ここでアダムスの手紙を見た。セーリスは非常に喜びすぐ返事を送って、詳細な情報を求めた。これに対してアダムスは細かな指示に日本の東岸の地図を添え、江戸に近い浦賀に廻航するように記した手紙を送ったのだが、行き違いになってセーリスにとどかなかった。
「19日(1613年7月)午前10時ごろ、アダムス氏到着、クローブ号を訪問。彼は駿府から平戸まで17日を要したと言った。私(セーリス)はコックス氏とピーコック氏とを遣わし、彼を迎えさせ、上陸の際、9発の祝砲を放つことを命じた。イギリス商館に来たとき、私は盛儀をもって彼を迎えたので、日本人はこれに注目した。彼はわれわれに助力を約し、またこの国(日本)を激賞した。故に私たちは彼を帰化日本人と見なした」 こういう外国人は時々出現する。戦前に日英親善に尽力されたピゴット少将に、戦後に会ったある日本人が、話しているうちにどちらが日本人かわからなくなったと記しているが、アダムスもそのように見えたのかも知れぬ。だが、彼と本当に気が合ったのは、どうも家康だけらしい。そしてセーリスとアダムスの二人は、8月6日に平戸を出発して駿府に向かった。途中で観察したさまざまのことをセーリスは記しており、それがきわめて正確なのは。アダムズの解説があったからであろう。 「この国で一般に用いられる食物は、各種の米で、純白を最上とする。これはパンの代わりである。また鮮魚、塩魚、酢漬の野菜、豆、大根、その他の根菜を塩漬または酢漬にしたるもの。また野禽(やきん)、鴨(かも)、鵞鳥(がちょう)、雉子(きじ)、しやこ、鶉(うずら)、その他を食す。鳥類もまた薬味を加えて、酢漬とする。鶏多く、鹿、猪、兎、山羊、牛等もまたある。チーズも多い。ただバターはなく、牛乳を用いない。豚は多く、小麦はわが(イギリス)国産に劣らない。農耕には牛馬を用いる」 現代から見てやや意外な感がするのはチーズ、豚、山羊、牛である。鳥類の酢漬とはあるいは今では禁止されている「つぐみの塩から」のようなものかも知れぬ。またチーズは吉宗(よしむね)のころの乾酪(かんらく)と似たものであったろう。この記録は大坂の陣以前のものだから、朝鮮征伐等の影響で、今から想像する以上に肉食が行なわれた一時期もあっても不思議ではない。豚はおそらく沖縄や薩摩の黒豚であり、これならばいても不思議ではない。 「この三千の兵士の通行および給与に関しては、十分な取り締まりがある。旅客も住民もこれがために、少しも迷惑をこうむらない。彼らに供給したものは、いずれも他の旅客同様、相応の支払いを受ける。そこで他の旅客と同じようによくこれにサービスをする。途中の町村には料理人があり、飲食店があるために、兵士たちは直ちにその需要をみたすことができる」 乱世はすでにおさまり、世の中の秩序は確立し、天下は泰平であった。家康にとって残る問題は大坂だけであった。 「9月6日、駿府に到着するまで、毎日15、6里を旅行した。1里は3マイルである。道路の大部分は、驚くほど平坦で、山を通過する部分は、開削されている。これはこの国の主たる道路(東海道)で、多くは砂および小石でできている。1里ごとに道の両側に2つの小丘がある。その頂には松の木を植えている。これは人夫および馬を貸す者が、1里におよそ3ペンス以上の賃金を貪(むさぼ)らないために設けられたものである。道路は通行人が非常に多く、時々田園および田舎家がある。また村落や大都会がある。川の渡場があり、また杜(もり)がある。その地の最も快適な場所に、仏すなわち彼らの寺院がある」 その情況は、道路が地方小領主の関所で区切られ、所々に山賊がひそみ、野武士とも群盗ともつかない一団が横行する戦国時代とは全く違ったものになっていた。だが、これらの道路の多くは、その戦国時代に分国大名が建設したものであった。大兵団を動かし、補給を確保するにはどうしても道路が必要である。信玄(しんげん)は川中島まで最短距離の道路をつくった。有名な「棒道(ぼうみち)」である。また信長も岐阜から京都への道路をつくり、その開削に火薬を使ったといわれる。そしてこの道路の通行は安全が保証されねばならなかった。 「町に近づくときには、まず、処刑された死体の、十字架に掛かっているのを見るのが通例である。皇帝(家康)の居所駿府に近づいたとき、数個の首を載せた一つの台があった。その傍(かたわ)らに十字架刑に処せられた死骸に名を掲げたもの、および刀の切れ味を試すべく、処刑の後、たびたび斬られた体の断片を見て、不愉快に感じた。 駿府の町の大きさは、ロンドンと、その田園とを併せたものと同じで、工芸に従事する者は外部に居住し、上流の人々は内部に居住していた」 セーリスを感心させた秩序と治安、彼を不愉快にさせた処刑人の獄門台は、実は関連があった。「貞永式目」では窃盗罪の刑罰は極めて軽かった。それが原因であったとは単純には言えないが、戦国時代に諸大名をも人々をも悩ませたのは群盗の横行であった。そして実に峻厳な刑罰でこれを一掃しようとしたのが信長や秀吉である。「太閤の一銭斬り」は有名だが、これを始めたのは信長で、秀吉が全国化したといってもよい。「一銭斬り」はその名のように一銭でも盗んだ者は即座に斬首(ざんしゅ)刑で、その罪状の札とともに首をさらすという刑である。 「浦賀は良港で、ロンドンのテムズ河と同じように、安全に船舶を繋留(けいりゅう)することができる。この港に至る航路も安全である。江戸に近いから。船舶は平戸からこちらに来た方がよい。ただ食料および肉は平戸ほど豊富ではないが、それを除けば、他はみな平戸よりまさっている」 家康はイギリス船が浦賀に来て江戸に商館を持つことを望み、さらに東北から北海道の方まで航路を開拓させようとした。この背後にはもちろんアダムスの運動があったであろうが、それが家康の意向であったことが最も大きな要因であろう。家康は常に西国の大名を警戒していたから、江戸を政治だけではなく、経済と貿易の中心にしたいと願っていた。簡単にいえば彼の目的は、イギリスとの貿易で江戸を繁栄させることであった。
●家康はなぜ、オランダ・イギリスを優遇したか セーリスはイギリス王への返書とともに、次のような朱印状を渡された。 一 いぎりすより日本へ、今度始而(このたびはじめて)渡海之船、万(よろず)商売方之儀、無相違(そういなく)可仕(つかまつるべく)候。渡海仕付而(つかまつるについて)は、諸役可令免許(めんきょせしむべき)事。 一 船中之荷物之義は、用次第に而(て)可召寄(めしょすべき)事。 一 日本之内、何之(いずれの)湊(みなと)へ成共(なりとも)、著岸不可有相違(そういあるべからず)。若(もし)難風逢(に、あい)、帆(ほ)揖(かじ)絶(たえ)、何之(いずれの)浦々へ 寄(より)候共(とも)、異義有之(これある)間敷(まじき)事。 一 於江戸(えどにおいて)望之(のぞみの)所に、屋敷可遣(つかわすべき)之間(のあいだ)、家を立(たて)致居住(きょじゅういたし)、商売可仕(つかまつるべく)候。帰国之義は、何時(なんどき)に而(て)も、いぎりす人可任心中(しんちゅうにまかすべし)。 付(ついては)立置候家は、いぎりす人可為儘(のままたるべき)事。 一 日本の内に而(て)、いぎりす人病死など仕候者(つかまつりそうらわば)、其(その)者之(の)荷物無相違(そういなく)可遣之(これをつかわすべき)事。 一 荷物おしがい狼藉(ろうぜき)仕間敷(つかまつるまじき)事。 一 いぎりす人の内、徒者(いたずらもの)於有之者(これあるにおいては)、依罪軽重(つみのけいちょうにより)、いぎりす大将次第可申付(もうしつくべき)事。 これは実に有利な特許状である。大体に於て家康はオランダとイギリスを、スペイン・ポルトガルより優遇していたと見てよい。そこにはさまざまな思惑があったであろうし、またアダムスとヨーステンの存在も大きかったであろうが、両国の望むのがあくまでも通商だけで、面倒な宗教問題を国内に持ち込んで来ないという点にあったであろう。 「ポルトガルのイエズス会士はこの都市(京都)に壮大なアカデミーを持っている。ここには数人の日本人のイエズス会員がいる。日本語で印刷した新約聖書を持っている。このアカデミーでは、多数の児童を教育し、これに口-・カトリック教の初歩を教えている。この都市にはキリスト教徒の日本人が五、六千人いるという」 「新約聖書」は何かの間違いで、『ドチリイナ・キリシタン』のような、キリスト教の教義を記した何らかの図書であろう。 (星野注)・・「神水一味同心」の意味は、この本の「一揆という契約集団の成立」のところに書かれている。要約すると、「一揆」という契約集団の、絶対に破ることの出来ない神に対する宣誓であり、団結をいう。 例をあげると、『一揆契約状神水案文』という言葉がある。これはこのような『起請文』を2通以上作成し、1通は起請の対象である神社に奉納し、1通は焼いて灰にして水にまぜ、それを一同でのんだので、この言葉が生じたといわれる。神への宣誓が「起請の神水」、この水を飲む儀式が「一味神水」、それを行った者が「一味同心」で、この宣誓を破ることは絶対に許されない。 |
1601年、1602年と相次いでイギリス東インド会社とオランダ東インド会社が設立された。特にこのオランダ東インド会社は、世界最初の株式会社の設立であったといわれる。16世紀以来、香料貿易はポルトガルとスペインで争われていたが、そこへオランダ東インド会社が参入し、ポルトガルやイギリスを排除し高級香辛料の直接取引を独占するようになっていった。
●ここでの一番の貿易目的だった香辛料について、「丸善エンサイクロペディア大百科」1995年丸善刊より引用する。
とあります。また「興亡の世界史第15巻」では単に食肉の味付けのための香辛料だけでなく、医薬品として重要だったというフランドランの説を紹介している。
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(左絵)(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』1995年丸善刊)
(右地図)ヨーロッパ諸国のアジア進出。1667年インドネシア・マッカサルのゴワ王国、前年からのオランダとの戦争に負け首都マッカサルが陥落する。(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊より)
●いずれにしろ、このコショウをはじめとする香辛料の売上は、オランダ東インド会社アムステルダム支部の、1668年~1670年にかけて総額の、コショウが29%、高級香辛料(クローブ、ナツメグ、メイス、シナモン)は28.5%、合計で57.5%しめていたとあります。最重要商品であったことは間違いない。ウィキペディアには、
●1515年前後にポルトガル人が発見したクローブの原産地では、17世紀になると、オランダ東インド会社が、マルク諸島(=モルッカ諸島=香料諸島)、バンダ諸島での高級香辛料の独占をはかり、ポルトガルやイギリス東インド会社と武力抗争をはじめた。(地図:「Google Mymap プラス」に地名をマーカー記入したもの)
●オランダ東インド会社は、17世紀末頃までには、高級香辛料の直接取引を独占するようになった。また一方インド洋海域でも商館を次々と設置し、オランダ東インド会社は他のヨーロッパ諸国を圧倒した。
モカ(アラビア半島)、バンダレ・アッバース(ペルシャ湾)、スーラト(西北インド)に商館を置き、コーチン(インド西南海岸・ポルトガルの拠点)を占領し、セイロン(スリランカ)でポルトガルを追放し、インド東方海岸のマスリパトナム、プリカット、タイのアユタヤなどに商館を置いた。そして日本には平戸、ついで長崎、また台湾(安平)に商館を設置した。
●こうしたなかイギリス東インド会社は、香料貿易はかろうじて行っていたが、他方でインド大陸での綿織物貿易へと向かっていった。
年 | 内容 |
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16世紀後半 | テルナテ島①のスルタンとポルトガルが争い、ポルトガルはティド-レ島②に移り要塞を建設した。 |
1605年 | オランダはアンボン島⑤のポルトガルの砦を奪い、ティド-レ島②の、ポルトガル人とスペイン人に対抗した。 |
1619年 | オランダは、イギリス東インド会社軍とバンテン王国から奪った町を、「バタヴィア」(=ジャカルタ)と命名した。1620年現在の人口は873名だが、71名は日本人だった。徳川幕府では1604年から朱印船貿易が行われ、東南アジア各地には日本人町が多く出来た。バタヴィアには、傭兵として日本から渡ってきたものもいた。日本人では、アユタヤ王朝で活躍し1630年殺害された山田長政が有名。多くの日本人が貿易や傭兵として活躍していた。 |
1620年 | バンダ諸島③で香料のオランダ引き渡し拒否事件が起きた。オランダ東インド会社軍は、ルン島④に拠点を持つイギリス東インド会社の扇動とみなし、バンダ諸島を占領しルン島でも虐殺を行った。 |
1621年 | オランダ・バタヴィア総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが2,000名(日本人87名)でバンダ島で虐殺を行い、あらたにヨーロッパ出身者による奴隷農園経営を、賃貸する形でナツメグ生産を始めさせた。 |
1623年 | オランダ、マルク諸島アンボン島⑤で、イギリス東インド会社の商館長以下10人と、9人の日本人傭兵、1人のポルトガル人計20人を処刑した。(アンボン事件) |
1641年 | オランダ、ポルトガル拠点マラッカ⑧を征服。 |
1663年 | オランダ、コーチンに商館を設置し、ポルトガルを駆逐しはじめる。 |
1667年 | オランダ、インドネシア・スラウェシ島のゴア王国を制圧する。 |
1669年 | オランダ、ポルトガル拠点マカッサル⑥を激戦の末、征服した。 |
1677年 | オランダ、インドネシア・ジャワ島のマタラム王国の内乱に介入する。 |
1684年 | オランダ、インドネシア・ジャワ島のバンテン王国を支配する。 |
1688年 | オランダ、タイのアユタヤ朝の国王死去にともない、タイでの貿易権を回復する。 |
●16世紀からポルトガル人は良質なインドの織物の貿易を行っていた。またオランダ東インド会社も1630年代から、貿易を行っていた。
両者ともにプリカットに商館を置き、またオランダはマスリパタムにも商館をおいて綿織物の輸出を行っていた。(プリカットはマドラスの北40km程度北)
●綿織物の有名産地は、パンジャーブ地方(西北インド)、グジャラート地方(西北インド)、コロマンデル海岸(クリシュナ川の河口からカリメール岬《スリランカ北端と向き合う岬》までの海岸《南東インド》)そしてベンガル地方(北東部)とされる。左地図参照。
●そうしてイギリス東インド会社は、インド亜大陸へ進出し、綿織物貿易拡大へ向かった。
(地図)ムガル時代の地図。(コロマンデル海岸を追加記入・星野)(出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)
●まずここでは、「インド更紗(サラサ)」=東西の染織技術の源泉となった多彩な模様染めの世界=小笠原小枝著を「クロニック世界全史」から一部引用してみる。
イギリスは、歴史的も技術的にも世界をリードしてきたインド更紗を、最初は貿易で利益をあげ、次にその模様染めの技術を革新させ、本国で大量生産することに成功し、インドの綿織物工業を奪った。
人類の歴史とともに発達してきた衣の文化は,衣の素材となる織物(テキスタイル),さらに織物や染め物をつくりあげる繊維や染料と深くかかわっている。その繊維や染料には,風土や時代によってさまざまなものが用いられてきたが,共通していえることは,近代の産業革命以前には,世界のどの地域においても天然のものが利用されていたことである。そのなかには獣皮,フェルト,魚皮,さらに樹皮を柔らかくたたきのばしたタパなど,不織布といわれる織物以前の素材も含まれていた。
・フェルト 広辞苑より
羊毛その他の獣毛を原料として、湿気・熱および圧力を加えて、縮絨(しゅくじゅう)し布状にしたもの。帽子・敷物・履物などに使用。
・縮絨(しゅくじゅう)大辞林 第三版の解説。
毛織物の仕上げ工程の一。水で湿らせて熱・圧力を加え,長さと幅を縮めて組織を密にすること。
・不織布(ふしょくふ) 広辞苑より
糸の形態を経ずに、繊維シート(ウエブ)を機械的・化学的・熱的に処理し、接着剤や繊維自身の融着力で接合して作る布。裏地・壁材・医療用など。
織物に利用された天然の素材には,植物性,動物性,そして鉱物性の繊維がある。鉱物性のものは中国で火浣布(かかんぷ)とよんだ石綿ぐらいだが,動物性には絹や毛,植物性には木綿・麻をはじめきわめて多種類の雑繊維がある。こうした繊維から採られた糸は機(はた)にかけられ,「織る」という行為をへて線から面になり,織物という衣の素材となる。さらにこれを美しく彩るという発想によって,染色の発達がうながされた。
もちろん初期には岩絵具(いわえのぐ)などの顔料や墨(すみ)・煤(すす)・鳥賊(いか)の墨などで布に模様を描くこともあったが,より堅牢な染め色を得るためには,染料を発色させ定着させる技術が必要とされた。天然の染料にも植物性,動物性,鉱物性のものがあり,鉱物性染料にはコバルトなど,動物性染料には貝紫(かいむらさき)のほかに介殼虫(かいがらむし)からとる臙脂(えんじ)のコチニールとラックなどがある。しかし,もっとも広く用いられてきたのは植物性染料で,それぞれの特質に応じて花・葉・樹皮・果実・根などが利用されてきた。
・貝紫(かいむらさき)大辞林 第三版の解説。
地中海産のアッキガイ科の貝の分泌液からとった紫色の染料。非常に高価なため,ローマ時代には皇帝と元老院議員のみの衣服に使用した。帝王紫。ティリアン=パープル。
・臙脂(えんじ)色名がわかる辞典の解説
色名の一つ。JISの色彩規格では「つよい赤」としている。一般に、赤みをややおさえ、黒みを増した濃い赤色をさす。中国から伝わった古くからある色名で、キク科ベニバナからつくられた臙脂のほかに、カイガラムシ科の昆虫から作られた生しょう臙脂などがある。近年では中南米産カイガラムシ科エンジムシの雌のコチニールが使用される。和服だけではなく、洋服、靴、小物、インテリア、家電製品など日常の品々に用いられている。
染色の方法は,紅(べに)色を得る紅花や黄色を得る鬱金(うこん)のように直接発色するものもあるが,ほとんどの植物性染料は灰汁(あく)やアルモ,タンニン,鉄などの媒染(ばいせん)剤を必要とし,それを変えることでさまざまな色が得られる。同じ茜(あかね)や蘇芳(すおう)でも,アルモを用いれば美しい赤色を,鉄分を加えれば紫色を呈する。
このような植物性染料のなかで,とくに藍(あい)は藍瓶(あいがめ)に灰汁や石灰などのアルカリ溶液を加えて発酵させ藍汁をつくり,この液に糸または布を浸(ひた)し、これを引き上げ空気にさらし酸化させることではじめて藍色が得られる。しかしひとくちに藍染めといっても,地域によって藍にはいろいろの種類がある。なかでも広く用いられてきたのが,日本の蓼藍(たであい)(タデ科の1年草)とインドの木藍(きあい)(インディゴ,マメ科コマツナギ属),ヨーロッパのウォード(大青《たいせい》,アブラナ科の2年草)である。
・茜(あかね)(本文絵いり説明)
茜はアカネ科の多年草の蔓(つる)草で根の煎汁(せんじゅう)を用いて紅い染料に使用する。
・木藍(きあい)と蓼藍(たであい)(本文絵いり説明)
ともに葉を刻み、水に浸して沈殿物を用いて青い染料に使用する。
○インド綿とインド藍
インドの綿織物の古い歴史を物語るものに,紀元前2000年にさかのぼるモヘンジョ・ダロの遺跡から発見された茜染めの木綿の断片がある。またそれに比肩する歴史があるとされるインド藍については,古代ローマ時代の大プリニウスの「博物誌」にインドの特産品としてあげられ,染色法や薬用効果が記されている。インド藍がいかにすぐれた染料かは,蓼藍やウォードの葉は藍の含有量が20%であるのにたいし,インド藍は80%にのぼる事実に示されている。オランダの東インド会社によってインド藍がヨーロッパにもたらされて以降,ウォードは急速に衰えインド藍にとってかわられた。
堅牢で薬効性も高い藍染めは,保温性・吸湿性・耐久性に富む木綿という素材と結びついて世界的にも広く愛用されてきた。日本では木綿の歴史が室町時代以降と比較的あさく,絹物を偏重する傾向があったためか,江戸時代にももっぱら庶民の衣料として普及した。しかしインド方面では,王侯貴族の衣料となるような最高の織物もつくられている。たとえばダッカ・モスリンの名で知られる綿織物には,手紡ぎで普通のミシン糸の4分の1,今日の200番手に相当する細い糸で織られた薄い布があり,幅1ヤール(約91cm)・長さ20ヤールのターバンが女性の指輪を自由に通りぬけ,30ヤールのターバンがココナッツの実に収まったといわれる。薄さと優美さをほこる綿モスリンは,こうして古くから「織られた大気」「夜の霧」「流れる水」などの詩的な名を与えられ賞美されてきた。
○世界に広がったインド更紗
インドの染織はきわめて歴史が古いばかりでなく,素材と技術の多様さにおいて,東洋のみ ならず西洋の染織工芸の大きな源泉となっている。ムガル帝国時代,インド北部カシミール地方でつくられはじめたカシミア・ショールは、パシュミナという最高の山羊(やぎ)の毛を用いて繊細な綴織(つづれおり)にした毛織物で,18世紀にヨーロッパ諸国に輸出されて爆発的な人気をよんだ。そして19世紀初めにはイギリス,ついでフランスのリヨンで,機械織りによる模倣品がつくられるにいたった。絣(かすり)も,今日では一般的にインドを起点に広く東西に伝播したとみなされている。さらにヴァーラーナシー(ベナレス)やインド中部のアウランガーバードの金銀糸を織りこんだ絹織物,あるいは木綿の各種の縞(しま)模様も,インド染織の多様性を示す好例といえよう。
以上のようなインドの染織品のなかで,もっとも大きな影響を世界に与えたのは模様染めの更紗(サラサ)
である。インド更紗は,すでにローマ時代から輸出され,その色彩の鮮麗さが賞美されていたという。1世紀ころのシリア・パルミラのジャムプリコ家の墓から発見された縞模様の染布や中国・新疆(しんきょう)ウイグル自治区尼雅(ニヤ)出土の木綿の﨟纈(ろうけち・けつ)も,インド製もしくはその影響下につくられたものとされている。しかし,インドの模様染めが蠟(ろう)防染と媒染法の技術を発達させながら、長い歴史をへて広く世界に知られるようになるのは,ヨーロッパ各国が大航海時代にはいった16世紀以降のことである。とくに17世紀初頭,イギリスをはじめとする各国の東インド会社設立は,インド更紗を貴重な交易品として世界各地に運ぶきっかけとなった。
なぜインド更紗はそれほどまで珍重されたのか。理由は,日本にもヨーロッパにも,当時それに匹敵する多彩な模様染めがなかったということにつきる。日本の模様染めは当時絞りが中心で,ヨーロッパでも模様染めの技術は絹織物の発達に比べ非常に遅れていた。 したがって,17世紀末以降における日本の友禅染も,ヨーロッパの各種の模様染めも,インド更紗に大きく触発されて発展してきたといえる。
日本の場合は,絹物の偏重ということもあって,和更紗は友禅染の陰にかくれ十分な発達をみることがなかった。しかしヨーロッパでは,模様はもちろん染料や媒染法までインド更紗の模倣から出発しながら,模様染めは18世紀後半以降,近代産業の技術革新のもとに銅板プリントからローラープリント,さらに合成染料の開発による量産への道をたどり,ついにはインド更紗にかわって,日本をはじめ「新大陸」アメリカにまで輸出され世界市場を席巻するにいたったのである。
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●(左から1)「テントの飾り布」木綿にプリント、彩色、染め。ムガル、18世紀初期。184.0×111.0cm
「この飾り布は防染法、手描き、型押しという複雑な技法で作られていて、その過程は西洋ではチンツ(更紗)=さらさ、とよばれてきた。・・・・」
●(左2)「カシュミール・ショール」パシュミーナー(山羊の毛織物)カシュミール、18世紀末期または19世紀初頭。310.0×137.0cm「カシュミール・ショールはアクバル帝の時代からムガルの宮廷で好まれたが、残念なことに当時のものはまったく現存しない。・・・・」
●(左3)「パトカー(男物の帯)」木綿に絹糸で刺繍。ダッカ、1800年頃。203.0×59.0cm
「ベンガル地方、ことにバングラデーシュのダッカの上質の綿(めん)モスリンは帝政ローマの昔から有名だった。・・・この上品な帯は、上質なモスリンに典型的なムガル後期の草花文を刺繍していて、織物のようにみえる。」
●(左4)「パトカー(男物の帯)」木綿にプリント。ムガル、18世紀。540.5×72.0cm 「装飾をほどこした帯は何世紀もの間インドの男性の衣類の中で重要な役割を演じ、それは彫刻や初期の絵画に示されている通りである。・・・普通は草花文が好まれたが、このように小さな葉だけを並べた繊細なデザインのものは珍しい。」
(全て、出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)
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●(左1)「ジャーマー(男物の上着)」木綿。北インド、1850年頃。丈134cm、裾幅105cm、袖丈127cm。「ジャーマーは17世紀から19世紀末まで男性の式服として、何度か型は変化したが、もっとも広く用いられた。イスラム教徒もヒンドゥー教徒もともに着用し、一般的にはイスラム教徒は右前にし、ヒンドゥー教徒はこのジャーマーのように左脇で紐を結んで左前にした。・・・・」
●(左2)「少年の上着」ショール生地(パシュミーナー)。北インド、18世紀末~19世紀初期。丈87.0cm、裾幅100.0cm、袖から袖まで104.0cm。「カシュミールのショール地の衣服は、北インドの宮廷で冬に用いられた。同じ模様を繰り返し織り込んだ何メートルの生地を、このような衣服に仕立てて共布のズボン(パージャーマー《=パジャマの語源、星野》)と一緒に着用した。」
●(左3)「カーペット」羊毛に絹の横糸、木綿の縦糸。ムガル、17世紀中期。52.0×56.0cm「このカーペットのように極度に目のつんだベルベットのように滑らかな毛織物は、絹や羊毛ではなくて、むしろパシュミーナー(カシュミールの山羊の下腹の良質の毛)を使って作られた。カシュミール・ショールと同じく、良質の光沢ある素材を用いているので、単位面積あたりの結び目を多くすることができるのである。そのためムガル・カーペットの最高級品には、他ならぬこの山羊の毛を用いたのである。・・・」
●(左4)「掛け布」(ルーマール)木綿に手描きと型防染の併用染め。デカン、ゴールコンダ、1640~50年頃。62.0×89.0cm「この美しい掛け布は、中央に丸文を配する構成の点でも、ゆったりと寄りかかる王子やエキゾチックな草木のデザインの点でも、ペルシャのカーペットや写本の装丁を思い起こさせる。しかし、色調は17世紀のデカン更紗(チンツ)製品の典型で、淡いピンクの地を精密に描かれた衣服や草木で埋めつくしている。・・・・」
(全て、出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)
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●(左1)「更紗(チンツ)の断片」木綿に手描きと型防染の併用染め。デカン、17世紀中期。58.0×26.0cm。「この更紗は、敷物か、カーテンか、あるいは衣服の一部であろう。その幻想的な花や埋め草に使われた繊細な文様は、17世紀のデカンの更紗の特色をよく示しているが、個々の草花のモチーフを規則的に配置するのは、ムガルの宮廷で好まれたデザインである。・・・」
●(左2)「ターバンの生地」木綿、絞り染め。ラージャスターン、ジャイプル、1860年頃。500.0×18.0cm。「この良質のモスリンのターバン地にみられる色とりどりのジグザグ柄は、ラハリヤー(「波のような」の意味)と呼ばれる絞り染めの複雑な手順をへて染められている。・・・」
●(左3)「クリシュナを刺繍したチャンバー地方のルーマール」木綿に絹糸で刺繍。パンジャーブ、18世紀。82.5×89.0cm 「この種の刺繍のある布はパンジャーブ地方のあちこちで18世紀から19世紀にかけて作られたもので、同時期の細密画と密接な関係にあったことを示している。非常に上品な図柄で、それぞれの区画に笛を吹いたり、牛飼いの娘グーピーたちと語り合うクリシュナを刺繍している。・・・」
●(左4)「ドレス」木綿、彩色と染め、金彩。東南インド、ヨーロッパ向け、1780年頃。丈155.5cm、裾幅126.0cm。「17世紀の末になると、インドのチンツ(更紗)製の衣服がヨーロッパで大流行し、18世紀を通じて人気は衰えなかった。それは下層階級から上層へ広まっていった数少ないファッションの1つと思われ、最初はオランダの召使いやメイドの間で人気を博し、後にオランダの中産階級にもてはやされるようになった。オランダのウイリアムとその妻メアリーが1690年に共同でイギリス王位につくと、それが刺激となってオランダのファッションが流行し、ただちにイギリスの貴婦人が華麗なチンツに身をつつむようになり、この種の金彩をほどこしたものも見られるようになった。たいていはこのドレスのように全面に花模様を繰り返した布でできていて、注文主の好みに合わせてインドかヨーロッパで仕立てられたのであろう。オランダ人はどちらかというと大柄の大胆なデザインを好む傾向にあったので、このチンツの繊細な花の曲線はイギリス向けであったことを思わせる。」
(全て、出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)
●イギリスのインド進出の概略は以下のようである。
年 | 内容 |
---|---|
1611年 | ●イギリス東インド会社、コロマンデル海岸の拠点としてマスリパタムに商館を置く。 |
1612年 | ●イギリス東インド会社、インド西岸のスーラト、タイのアユタヤに商館を置いた。 |
1615年 | ●英国初の駐インド大使が、ムガル皇帝ジャハンギールに謁見し、商館の設置や通商上の特権を獲得した。 |
1615年 | ●イギリス艦隊がボンベイ沖でポルトガル艦隊を破る。 |
1627年 | ●ムガル皇帝ジャハーンギールが没し、翌年シャー・ジャハーンが即位する。 |
1632年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンが愛妃の廟、タージ・マハルの築造を開始する。(前章の16世紀に写真と肖像画記載。) |
1633年 | ●イギリスがベンガルに植民を開始する。 |
1633年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンがデカンのアフマドナガル王国を併合する。 |
1638年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンがアフガニスタン・カンダハールを奪回する。 |
1639年 | ●イギリス東インド会社、マドラスを獲得、翌年商館と1644年には要塞(セント・ジョージ要塞)が完成した。イギリスは、マスリパタムがゴールコンダ王国によって脅かされていたため、新たな拠点を求めていた。こうしてマドラスがイギリス東インド会社南インド最大の基地となった。また東インド会社は、30年間の免税という特典を設け、インド人の綿布工や商人を招来し、この地を本格的な根拠地としてインド貿易に参入していった。 |
1648年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンが、アーグラからデリーへ遷都する。 |
1649年 | ●サファヴィー朝、ムガル帝国から奪われたカンダハールを奪回する。 |
1658年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンが息子(アウラングゼーブ)に幽閉される。翌月ムガル皇帝アーラムギール(アウラングゼーブ)として即位する。 |
1669年 | ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、ヒンドゥー教を禁止し寺院を破壊する。ヒンドゥー教徒、皇帝に反発する。 |
1672年 | ●フランス東インド会社、コロマンデル海岸に新拠点ポンディシェリを獲得する。 |
1674年 | ●デカン地方で、ムガル帝国に抗して、ヒンドゥー独立国家マラーター王国できる。 |
1676年 | ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、北西辺境のアフガン族の反乱鎮圧に成功する。 |
1679年 | ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、非イスラム教徒へのジズヤ(人頭税)を復活、ヒンドゥー教徒反発する。 |
1682年 | ●イギリス東インド会社、オランダに破れ、インドネシア・ジャワ島バンテンから撤退する。 |
1687年 | ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、前年のビージャプル王国に続き、ゴールコンダ王国を併合する。 |
1690年 | ●イギリス東インド会社、ムガル皇帝よりベンガルに商館設置の許可を得た。1696年にはウイリアム要塞の建築許可も得て、ここにイギリスのインド支配の最重要拠点になった「カルカッタ」が誕生した。 |
●茶は輸入額は、17世紀では多くはないとみられるが、18世紀になると急増していく。オランダ東インド会社の輸入額に占める割合は、2%(1711年~13年)、18.8%(1730年~32年)、24.2%(1771年~73年)、54.4%(1789年~90年)と急増していく。そして同様にイギリス東インド会社も、中国広州と直接取引をはじめた1713年以降、茶の輸入額は増加していく。またフランス東インド会社でも取引が増加し、スウェーデンやデンマークの東インド会社も茶貿易に参入していった。こうして18世紀半ばを過ぎると、イギリスと植民地アメリカやオランダを中心に普及していった。
ここで「茶と紅茶」について、日東紅茶の公式サイトとトワイニング紅茶の公式サイトから少し引用してみる。茶と紅茶の違いと歴史がわかる。
(日東紅茶・紅茶のマメ知識)でみると
●普段、私たちが「~茶、~ティー」と呼んでいるものはたくさんあります。緑茶、烏龍茶、麦茶、ハーブティー・・・など。その中でも、緑茶、烏龍茶、紅茶は、実は、同じ茶樹から作られます。学名は「カメリア・シネンシス」(Camellia Sinensis (L) O. Kuntze) 、椿や山茶花と同じ科であり、ツバキ科ツバキ属の常緑樹です。本来「茶」とは、この「カメリア・シネンシス」から作られたものを指します。
●紅茶とは?
では、紅茶と緑茶の違いとは何でしょう? それは、製造法の違いです。お茶の葉の中には酸化酵素というものが含まれていて、この働きを利用して製造するのが紅茶、利用せずに製造するのが緑茶なのです。りんごの皮をむいておいておくと褐色に変化してしまいますが、酸化酵素の働きとはまさにこのこと。この作用を「酸化発酵」と呼びます。
酸化発酵を利用する紅茶の場合、製造の過程で茶葉の色が緑色からつやのある褐色へと変化するだけでなく、水色(すいしょく:抽出液の色)も緑黄色から美しい赤褐色へと、香りは新鮮でグリーンな香りから花や果物を思わせる華やかで芳醇な香りへと、味わいはより深いものへと変化していきます。
一方、酸化発酵を少しだけ利用して作られるのが烏龍茶。実は紅茶の発祥の地は、この烏龍茶の製造が現在も盛んに行われている中国の福建省なのです。17世紀前半に中国からヨーロッパに紹介されたお茶は当初、釜炒り緑茶と烏龍茶でした。お茶の人気が次第に高まり、特にイギリスでは、より水色と味のしっかりした酸化発酵の強いタイプの烏龍茶(福建省産の武夷茶)が好まれるようになりました。イギリス人の嗜好に合わせて産地でさらに酸化発酵を進めていくうちに、完全発酵の黒褐色の紅茶(Black Tea)が生まれたのです・・・。
(トワイニング紅茶・トワインイングストーリー)で、由来を見ると。
●1706年、創業者トーマス・トワイニングがロンドン・ストランド地区にコーヒーハウス「トムの店」をオープン。飲み物といえばコーヒー、ジン、エールと考えられていた時代に、珍しい紅茶を出す「トムの店」は、ロンドン紳士から高い支持を得ました。いずれ紅茶のブームが来ると考えたトーマスは、今度は「トムの店」の隣に英国初の紅茶専門店「ゴールデンライオン」をオープン。当時コーヒーハウスといえば男性しか入れませんでしたが、「ゴールデンライオン」は女性もOK。この画期的なサービスは多くの女性に喜ばれ、またたく間に人気店となりました。
その後、4代目・リチャード1世が紅茶の関税引き下げに成功すると、いよいよロンドンに紅茶文化が浸透。1787年、「TWININGS」のロゴを掲げた表門がオープンしました
当時海軍大臣を務めていたグレイ伯爵が、中国からの土産物として味わった紅茶を大変気に入り、トワイニング社に味や香りの再現したブレンド ティーを注文。この一件から、のちに英国首相となった伯爵の名を冠したブレンド、「アール グレイ」が生まれたと言われます。「アール」は英語で「伯爵」を意味します。
その後、紅茶の輸入権を握り、イギリスの繁栄を築いたと言われるヴィクトリア女王が即位すると、女王は自ら「4時のお茶」の習慣を始めます。これまで貴族や上流階級に限られた楽しみだった紅茶は、次第に中産階級、労働者階級にも広まり、次第に国民的飲み物に。1837年、ヴィクトリア女王は、トワイニング社に王室御用達を授けます。・・・。
●コーヒーは、エチオピアからイエメンへ伝播し、16世紀オスマン帝国によりイスラム世界に広まった、といわれる。1530年代には北シリアのダマスカス、アレッポにコーヒー店が開かれ、1550年代にはイスタンブルにもコーヒーを供する店舗が開かれた。皇帝セリム2世の時代(1566年 – 1574年)にはイスタンブル内の「コーヒーの店」は600軒を超えていた。そしてヨーロッパ各地へは、17世紀前半ヴェネツィア商人を介して広まっていった。もともとイスラムの飲み物であったために、当時のローマ教皇クレメンス8世は、悪魔の飲み物(ワインを飲めないイスラム教徒が悪魔から与えられた)であるコーヒーに洗礼を施して、キリスト教徒がコーヒーを飲用することを公認したという。
●イギリスでは1650年にオックスフォードでコーヒー・ハウスが営業を始め、1652年には初めてロンドンにコーヒー・ハウスが開業した。
(クロニック世界全史によれば)1690年頃にロンドンでコーヒー・ハウスが大流行し、社交や情報交換の場となり、18世紀初頭には2000軒に達した。これらの店は、それぞれ集まる客層が決まっていた。例えば、ぶどう酒や船荷を扱う同業者が集まっていたロイドというコーヒー・ハウスの名は、ロイズ海上保険会社として名を残した。また「ジャーナリズム」といわれるものは、コーヒー・ハウスに情報を提供するために生まれたともいわれる。コーヒー・ハウスは、イギリスの政治・文化に大きな影響を与えたという。
しかし18世紀半ばから減少し、代わりに、クラブ、ティーハウスが台頭し、イギリスの家庭には紅茶が定着していった。