(世界史)「17世紀」①(オランダの世紀)

世界史

オランダは東南アジア進出でイギリスに勝ち、中国・日本へ向かう。
 日本とオランダの出会いと江戸時代を通じての友好関係は、徳川家康によって築かれたと思われる。オランダ(プロテスタント)がスペイン(カトリック)と独立戦争を戦っていた1600年4月、オランダ商船・旧名「エラスムス号」が九州に漂着した。この時日本は、戦国時代最後の決戦(関ヶ原の戦い1600年10月)前夜であった。家康は決戦に勝利した後、日本に残ったオランダ人のヤン・ヨーステンとイギリス人のウィリアム・アダムスの2人を家康の外交特別補佐官に任命したのである。
(左絵)イギリス東インド会社。(右絵)オランダ東インド会社(出典:両方とも『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
目次
17世紀① 主要項目
(17世紀・要旨) オランダの世紀・ルイ14世・ピューリタン革命・清
17世紀はオランダの世紀と呼ばれる。 オランダの繁栄。オランダ第1回東インド航海と「リーフデ号」日本漂着。
1601年、1602年と相次いでイギリス東インド会社とオランダ東インド会社が設立される。特にこのオランダ東インド会社は、世界最初の株式会社の設立であったといわれる。

●綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊から要約・引用した。
また「東インド会社とアジアの海」・興亡の世界史第15巻、羽田正著 講談社2007年刊、「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊より要約・抜粋した。また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。関連する写真、著作からも引用した。

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17世紀はオランダの世紀と呼ばれる。
オランダの繁栄・オランダ第1回東インド航海と「リーフデ号」日本漂着・イギリス東インド会社設立とオランダ東インド会社設立。
17世紀<要旨>(オランダの世紀)
●オランダが16世紀に繁栄を誇ったポルトガル・スペインに代わって、新大陸からインド・東アジア・日本に進出し、交易で巨富を得ていた。
●しかしヨーロッパはまた「17世紀の危機」と呼ばれ、寒冷による飢饉、争乱、革命、戦争の絶えない時代でもあった。
●イギリスは二度の革命を行って議会政治を確立した。
●フランスはルイ14世の絶対王政下に、領土拡大戦争を繰り返した。
●オスマン・トルコ帝国は、前世紀に続いて三大陸(アジア・アフリカ・ヨーロッパ)の要の地域を支配して強勢を保持していた。
●サファービー朝ペルシャも全盛期を迎えていた。
●インドではムガル帝国が領土を最大にして繁栄した。
●東アジアでは、漢民族の明が、北方の満州族に圧迫されて滅亡し、満州族が清を樹立して大帝国を築いた。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
アムステルダム、世界の商業・金融・文化の中心となる。

オランダは16世紀末からスペインに対する独立戦争を戦いながら世界に進出していった。オランダは人口は250万程度、国土の広さは日本の九州よりも小さい共和国であった。そしてその主要都市アムステルダムは、世界の商業・金融・文化の中心となった。オランダは、特に東インドで、ポルトガルの勢力圏を奪いイギリスをも破り、東インドの王者となっていった。またオランダは、鎖国時代の江戸幕府とも交易をもち、世界の最新情報、科学知識等を伝え、「蘭学」として日本に多大な影響を与えた。

(左絵)レンブラント「冑をかぶった男」1650年頃 ベルリン国立美術館(出典:「家庭美術館」平凡社1961年刊)
(中絵)フェルメール「牛乳を注ぐ女」1657年頃 アムステルダム王立美術館
(出典:「ファブリ世界名画集」平凡社1971年刊)
(右絵)フランス・ハルス「音楽の2少年」1627年頃 カッセル美術館(出典:「家庭美術館」平凡社1961年刊)

オランダの繁栄

(「世界の歴史」中央公論社1961年刊の「オランダの繁栄」から要約・引用。)
●オランダの国家組織は「ネーデルラント連邦共和国」で、ネーデルラント北部7州の連合国家であった。
連邦議会(全国会議)が全体の行政、外交、軍事をコントロールする最高機関であったが、各7州それぞれを統制する権限はなかった。あたかも独立する国家の集まりである国際連合のようなものであった。
実際に連邦議会を動かしていたのは、経済的に強力で政治的発言力が強いホラント州だった。

●日本で国名をオランダと呼ぶのは、ホラント(ネーデルラントの俗称)を、ポルトガル語訳で「オランダ」ということに由来する《江戸時代から》。世界では国名はネーデルラント。
同様にイギリスの国名の世界での略称はUnited Kingdomで、このイギリスという表現も、ポルトガル語でイングランドを意味した。

●この中心勢力は「商人貴族」(富裕な門閥大商業ブルジョアジー)で、強大な経済的実力をバックとしてホラント州議会を牛耳り、これにより連邦議会を支配した。しかしまた一方、代々「総督」の官職にあった名門オランニェ家(独立戦争の指導者《ウィレム》や、代々資質のすぐれた軍事的指導者、政治家を生み出した)は、事実上のオランダ王室のような評価を得ていた。このオランニェ家は封建貴族層のみでなく、国内の中小市民、農民からも強い支持を得ていた。特に中小産業市民層は、大商業資本家の経済的、政治的支配に反発し、政治的にはオランニェ家の統一支配を望んでいた。こうして二つの勢力は対立を続けていった。また同時にカトリック、カルビン主義、アルミニウス派(自由主義的)などの宗教的対立もあり、1621年のスペインとの休戦期間満了後、戦争継続の中で総督の権限は強化され、1631年総督職はオランニェ家(オレンジ家)が世襲することが法制化された。こうしてオランダ王家が生まれていった。

「海によって栄え、世界の続くかぎり海と戦い、海によって生きなければならなかったオランダ人」
①ネーデルラント(低い土地の意)の北部のホラント地域は、堤防に守られた低地帯が多く、高潮や洪水などといった海との戦いは、オランダ人に勤勉さと不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を培った。
②北海の鰊(にしん)漁は「オランダの海の金鉱」とよばれ、またグリーンランド沖の捕鯨業は「海の銀鉱」といわれ、多大の利益をあげた。
③海上輸送業の発達は「世界の運搬人」と呼ばれた。
④これらの海の経済は、造船業の発達をうながし、オランダはヨーロッパ第一の造船国となった。同時に製材工業、帆布、ロープ製造業、金属工業なども盛んになり、あらゆる種類の工業が全世界の市場と結びついて栄え、「世界の工場」の観を呈した。
(重要語)
バルト海貿易  ユトレヒト同盟 独立戦争(80年戦争) スペインからの独立宣言(1581年) マウリッツ(1567~1625)《ウィレムの子》 フレデリック・ヘンドリック《マウリッツの腹違いの弟》 オランダ(カルビン主義) 南部諸州、ベルギー(カトリック) アルミニウス(神学者) ウェストファリア条約(1648独立承認)
1595年4月
オランダ第1回東インド航海

●オランダは最初、シベリアを回って東洋へ達する「北東航路」の開拓を試みていた。
しかし、1596年の3回目の航海では、船隊が北極の島で氷に閉ざされてしまい、悲劇的な最後を遂げてしまった。結局オランダは、ポルトガルが開拓したアフリカ南端の喜望峰経由で、東インド到達を目指すことになった。そしてついに、1595年4月、第1回目の喜望峰経由東インド行き船隊が出発した。

船名は、「マウリッツ号=総督名」「アムステルダム号=計画実行する商人団」「ホラント号=許可した州議会」そして通報艇として「鳩(はと)号=航海の平和を祈願して」の4隻だった。この船隊は100門以上の大砲を装備し、10万ギルダー以上の銀貨と商品を積んで出港した。
1597年8月
帰還乗組員わずか89名

●しかし、この航海はさんざんなものだった。総員249名で出港し、1年と2ヶ月後にインドネシア・ジャワ島バンダムに到着し、1597年8月に帰港したが、往復に2年4ヶ月もかかり、帰還した乗組員もわずか89名だけだった。これは疾病や災害のほかに、内部の人間同士の争いがあった結果だった。だが3隻が帰還し、ポルトガル人の手を経なくても、直接貿易が可能となったことが大きかった。
●これ以降オランダは、1602年までに15船隊65隻を東インドへ送った。1599年に帰港したヤコブ・ファン・ネックの船隊は「建国以来、これほどの富を積んだ船はなかった」といわれたほどだった。こうして東インド貿易はブームとなった。次に述べるリーフデ号も、この東洋を目指した船隊のはぐれた1隻だった。

1600年4月29日
「リーフデ号」の日本漂着

●「クロニック世界全史」によれば、リーフデ号は1600年4月29日、九州臼杵(うすき)湾口の佐志生(さしう)に漂着したとある。このオランダ船は1598年6月に僚船4隻とともにロッテルダムを出港したが、逆風のためアフリカ喜望峰まわりの東進コースをとれず、やむなく南アメリカ・マゼラン海峡を西進して、僚船とはぐれ日本に漂着したとある。

(星野私見)こう聞くと、何故そのようなコースになるかと思ってしまうが、当初オランダ船は、ポルトガルの勢力圏である喜望峰から北上してアフリカ・インドを経由するコースはとれなかったとある。そこで、喜望峰からはオーストラリア方面へ直接東進して、のちに北上してインドネシアへ到達するコースを使っていた。だから喜望峰で東進しようが西進しようが同じだったのかもしれない。なんともスケールの大きな話ではありませんか。リーフデ号の日本漂着に2年近くかかったのも当然でしょうか。

●「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊には、この船の船尾に飾られてあった「エラスムス像」(=宗教改革の端緒を切ったオランダの知識人)について書かれている。この船の名は、旧名「エラスムス号」で改名して「リーフデ(慈愛)号」といった。そして生存者の中で帰国しないで日本に残った2人が、オランダ人ヤン=ヨーステンとイギリス人ウイリアム=アダムスだった。彼らは江戸幕府通商顧問となり、日本初の洋式帆船の建造など行い、日本とオランダの通商を開き、外国の新知識を伝えたとあります。
ヨーステンは東京駅八重洲口の由来となり、ウイリアム=アダムスは三浦按針と呼ばれた。(三浦=三浦半島の領地、按針=パイロットの意)

ウイキペディアにもこの像について書かれている。「貨狄尊者(かてきそんじゃ)または貨狄さま(かてきさま)とは、栃木県の龍江院に安置されていた木像の名称。「木造エラスムス立像」として国の重要文化財に指定されている。」とあります。「佐野市観光協会」はリニューアルされたので、もう掲載をやめたようです。
●このあたりの内容を、山本七平「日本人とは何か」祥伝社2006年刊より引用してみる。
●「第5章オランダ人とイギリス人」

●漂着リーフデ号のヨーステンとアダムス
東京駅で降りて八重洲口へ出たとき、何気なく私は言った。
「ヤエスとは実はオランダ人の名前です」
相手が奇妙な顔をしているので私はつづけた。

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●オランダ国王から家康に宛てた手紙
この手紙の日付は1610年12月18日だが、日本に着いて翻訳を終えて家康が読んだのが慶長17年(1612年)10月8日である。この「阿蘭陀(おらんだ)国主まうりちいす・でなつそう拝上奉る」(注星野:マウリッツと思われる)にはじまる訳文はだれの手に成るのか明らかでないが、立派な日本文である。

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●イギリス人使節の観察した日本
アダムスは家康に忠実であったが、イギリス人として当然イギリスを愛していた。彼は巧みに故国に手紙を送り、利益の多い対日貿易を開始するように説いた。イギリスはそれ以前からすでにこのことを考え、ジョン・セーリスが三隻の船を率い、ジェームズ一世の国書を携えて1611年にテムズ河口を出発し、1612年10月にバンタムに着き、ここでアダムスの手紙を見た。セーリスは非常に喜びすぐ返事を送って、詳細な情報を求めた。これに対してアダムスは細かな指示に日本の東岸の地図を添え、江戸に近い浦賀に廻航するように記した手紙を送ったのだが、行き違いになってセーリスにとどかなかった。

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●家康はなぜ、オランダ・イギリスを優遇したか
セーリスはイギリス王への返書とともに、次のような朱印状を渡された。

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イギリス東インド会社設立とオランダ東インド会社設立


(左絵)ロンドンのレドンホール街にあったイギリス東インド会社。この社屋は18世紀末に再建されたもの。同社はインド支配の機関に変質していく。
(右写真)アムステルダムのオランダ東インド会社の社屋。17世紀初頭のアムステルダムは、商品取引所やアムステルダム銀行が設立され、国際的中継貿易港および国際金融市場として繁栄した。(出典:両方とも『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

1601年1月
イギリス東インド会社設立

●イギリスではこれまで、東インドの商品を、喜望峰回りではなく地中海やモスクワを経由して、陸づたいに入手しようとしていた。そのために「レヴァント会社」という地中海東岸地域との貿易を専門とする会社が設立され、イギリス国王はこれに特許独占を与えていた。
しかし、オランダが直接東インド貿易を成功させたことを知り、自分たちも直接インド貿易を行おうと試みた。そのやり方は「レヴァント会社」方式をとった。その内容は次のようであった。

  1. 資金は1回の航海ごとに集める。
  2. 航海が終わると出資率に従って、元本と利益を出資者に戻す決算方法を取る。
  3. 会社は形式的に継続して存続する。

次の航海では、また新たに資金が募集される。まだ、株式会社のように、株式の販売による広範囲の資金調達を行い、固定的な資本金とするような仕組みではなかった。

●初回の航海では、資金を提供した215人の1/3、また会社の取締役215人のうちの半分は、レヴァント会社の関係者だった。初代東インド会社総裁(トマス・スミス)は、このレヴァント会社の総裁だった。そして彼は同時にアメリカ・ヴァージニア植民協会の責任者でもあった。こうして事業者達は、母体の会社組織を作り東インド貿易の独占を求めて、イギリス国王(エリザベス1世)に特許を求めた。そして、1601年1月に、東インド会社(East India Company)が誕生した。
●1601年3月、はじめてイギリス東インド会社の4隻の船団が東インドへ向かった。500人以上が乗り組み、大砲を110門備えた武装船団だった。目的地は、ポルトガルの支配が及ばない東南アジアだった。スマトラ島のアチェ、ジャワ島西部バンテン(次回の貿易ためにスタッフが残った)、マラッカ海峡ではポルトガル船を掠奪して、1603年9月までに4隻が無事帰還した。これにより、1604年には第2回めの航海が実施され、それ以降会社は軌道にのり、最初の10年間の利益率は155%だったという。
注意しなければならないことは、この組織は、イギリス国王や政府の作った国営会社ではないということ。この組織は、ロンドンの商人達が設立した会社であり、アジア諸地域の征服と植民のために設立されたのではなかったことである。

1602年
「オランダ東インド会社(=連合東インド会社)VOC」設立

●オランダはイギリスとは違い、北海沿岸諸都市には複数の東方への貿易会社が存在していた。それらが同時期に大量に商品を持ち込むので、価格が低下し利益が安定しなかった。そのため共和国政府があいだに入り、各地の会社が合同して、1602年「オランダ東インド会社(=連合東インド会社)
・VOC(=Verenigde Oostindische Compagnie)」が設立された。
●これは6つの会社が合併した、巨大会社だった。それまでアムステルダム、デルフト、ホールン、ロッテルダム、エンクホイゼンの5つの都市と、ゼーラント州ミッデルブルクに個別に拠点を置いていた6つの会社が合併したものだった。そしてこの会社は、次のような特許状(46条)をオランダ共和国政府より与えられた。

(概略)
・オランダと喜望峰経由の東インド貿易は、21年間この会社が独占すること。
・東インドで要塞を建設する権利、総督を任命する権利、兵士を雇用する権利、そして現地の支配者と条約を結ぶ権利などが与えられた。

●当時は、国家とそれを統治する政府が、政治・軍事の権限を集中的に保有していたわけではない。オランダ東インド会社もオランダ政府が設立した国営企業ではなく、あくまでも民間の会社であった。一例をあげると、特許状の更新時(独占継続)には、見返りを要求されたり、1665年、第2次英蘭(イギリス・オランダ)戦争時には、20隻の船の提供を求められている。
またイギリスと違い、オランダ東インド会社では、集められた資金の返済はその航海ごとではなく、10年間据え置かれた。つまりこれは、現代の株式会社に一歩近づいた方法であった。(世界初の株式会社の設立ともいわれる。)
●最初の資金調達は、イギリス東インド会社の12倍に達し、オランダの商業資本は巨大なものであった。第1回目のオランダ東インド会社の航海は、1603年12月に行われたが、その船隊は12隻にのぼった。また当初から、貿易に従事するだけでなく、競争相手のポルトガルの拠点を攻撃するように命令を受けていた。

東インド海域ポルトガル、オランダ、イギリスの戦い

●「貴重な戦利品」ここでの一番の貿易目的だった香辛料について、「丸善エンサイクロペディア大百科」1995年丸善刊より引用する。

はるか昔の探検は,熱帯地方の香辛料を獲得のための航路の開拓を中心に行われた。ヨーロッパ、アジア、極東の間で貿易が盛んになるまでは、コショウ(下図・K)、クローブ(チョウジ)(G)、シナモン(C)などの香辛料はヨーロッパでは大変な貴重品で、極端に高価なものであった。16世紀から17世紀には香辛料を求めて戦争が行われ、最大の戦利品はコショウであったと思われる。ナツメグ(A)、シナモン、ターメリック(H)などの香辛料は、ヨーロッパではかって贅沢品で、倹約しながら特別な場合にしか使用されなかった・・・・」

とあります。またこの「興亡の世界史第15巻」では単に食肉の味付けのための香辛料だけでなく、医薬品として重要だったというフランドランの説を紹介している。

(左絵)(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』1995年丸善刊)
(右地図)ヨーロッパ諸国のアジア進出。1667年インドネシア・マッカサルのゴワ王国、前年からのオランダとの戦争に負け首都マッカサルが陥落する。(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊より)


●いずれにしろ、このコショウをはじめとする香辛料の売上は、オランダ東インド会社アムステルダム支部の、1668年~1670年にかけて総額の、コショウが29%、高級香辛料(クローブ、ナツメグ、メイス、シナモン)は28.5%、合計で57.5%しめていたとあります。最重要商品であったことは間違いない。ウィキペディアには、

特に高級香辛料であるクローブ(漢名で丁子・ちょうじ)は、紀元前より殺菌・消毒剤にもつかわれ(インド・中国)、中国商人たちは長く原産地を秘匿したまま交易商品として取り扱っていたとあります。また日本の 正倉院の宝物のなかにも当時輸入された丁子がある、ともあります
1511年
ポルトガル人クローブの原産地発見

●そしてついに、ポルトガル人がこのクローブの原産地をバンダ諸島で発見した。その後17世紀になり、オランダ東インド会社は、マルク諸島(=モルッカ諸島=香料諸島)、バンダ諸島で高級香辛料の独占をはかり、ポルトガルやイギリス東インド会社と武力抗争をはじめた。
(地図:「Google Mymap プラス」に地名をマーカー記入したもの)

オランダ東インド会社、高級香料貿易制覇へ

●オランダの進出を下段で年表にした。
●オランダ東インド会社は、17世紀末頃までには、高級香辛料の直接取引を独占するようになった。また一方インド洋海域でも商館を次々と設置し、オランダ東インド会社は他のヨーロッパ諸国を圧倒した。
モカ(アラビア半島)、バンダレ・アッバース(ペルシャ湾)、スーラト(西北インド)に商館を置き、コーチン(インド西南海岸・ポルトガルの拠点)を占領し、セイロン(スリランカ)でポルトガルを追放し、インド東方海岸のマスリパトナム、プリカット、タイのアユタヤなどに商館を置いた。そして日本には平戸、ついで長崎、また台湾(安平)に商館を設置した。
●こうしたなかイギリス東インド会社は、香料貿易はかろうじて行っていたが、他方でインド大陸での綿織物貿易へと向かっていった。

オランダの進出
内容
16世紀後半 テルナテ島①のスルタンとポルトガルが争い、ポルトガルはティド-レ島②に移り要塞を建設した。
1605年 オランダはアンボン島⑤のポルトガルの砦を奪い、ティド-レ島②の、ポルトガル人とスペイン人に対抗した。
1619年 オランダは、イギリス東インド会社軍とバンテン王国から奪った町を、「バタヴィア」(=ジャカルタ)と命名した。1620年現在の人口は873名だが、71名は日本人だった。徳川幕府では1604年から朱印船貿易が行われ、東南アジア各地には日本人町が多く出来た。バタヴィアには、傭兵として日本から渡ってきたものもいた。日本人では、アユタヤ王朝で活躍し1630年殺害された山田長政が有名。多くの日本人が貿易や傭兵として活躍していた。
1620年 バンダ諸島③で香料のオランダ引き渡し拒否事件が起きた。オランダ東インド会社軍は、ルン島④に拠点を持つイギリス東インド会社の扇動とみなし、バンダ諸島を占領しルン島でも虐殺を行った。
1621年 オランダ・バタヴィア総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが2,000名(日本人87名)でバンダ島で虐殺を行い、あらたにヨーロッパ出身者による奴隷農園経営を、賃貸する形でナツメグ生産を始めさせた。
1623年 オランダ、マルク諸島アンボン島⑤で、イギリス東インド会社の商館長以下10人と、9人の日本人傭兵、1人のポルトガル人計20人を処刑した。(アンボン事件)
1641年 オランダ、ポルトガル拠点マラッカ⑧を征服。
1663年 オランダ、コーチンに商館を設置し、ポルトガルを駆逐しはじめる。
1667年 オランダ、インドネシア・スラウェシ島のゴア王国を制圧する。
1669年 オランダ、ポルトガル拠点マカッサル⑥を激戦の末、征服した。
1677年 オランダ、インドネシア・ジャワ島のマタラム王国の内乱に介入する。
1684年 オランダ、インドネシア・ジャワ島のバンテン王国を支配する。
1688年 オランダ、タイのアユタヤ朝の国王死去にともない、タイでの貿易権を回復する。

インド綿織物貿易

●16世紀からポルトガル人は良質なインドの織物の貿易を行っていた。またオランダ東インド会社も1630年代から、貿易を行っていた。両者ともにプリカットに商館を置き、またオランダはマスリパタムにも商館をおいて綿織物の輸出を行っていた。(プリカットはマドラスの北40km程度北)
●綿織物の有名産地は、パンジャーブ地方(西北インド)、グジャラート地方(西北インド)、コロマンデル海岸(クリシュナ川の河口からカリメール岬《スリランカ北端と向き合う岬》までの海岸《南東インド》)そしてベンガル地方(北東部)とされる。右地図参照。
●そうしてイギリス東インド会社は、インド亜大陸へ進出し、綿織物貿易拡大へ向かった。
(地図)ムガル時代の地図。(コロマンデル海岸を追加記入・星野)(出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)

インド綿織物について

●まずここでは、「インド更紗(サラサ)」=東西の染織技術の源泉となった多彩な模様染めの世界=小笠原小枝著を「クロニック世界全史」から一部引用してみる。
イギリスは、歴史的も技術的にも世界をリードしてきたインド更紗を、最初は貿易で利益をあげ、次にその模様染めの技術を革新させ、本国で大量生産することに成功し、インドの綿織物工業を奪った。

○テキスタイルと染色
人類の歴史とともに発達してきた衣の文化は,衣の素材となる織物(テキスタイル),さらに織物や染め物をつくりあげる繊維や染料と深くかかわっている。その繊維や染料には,風土や時代によってさまざまなものが用いられてきたが,共通していえることは,近代の産業革命以前には,世界のどの地域においても天然のものが利用されていたことである。そのなかには獣皮,フェルト,魚皮,さらに樹皮を柔らかくたたきのばしたタパなど,不織布といわれる織物以前の素材も含まれていた。

下

インド多彩な模様染め

●(左から1)「テントの飾り布」木綿にプリント、彩色、染め。ムガル、18世紀初期。184.0×111.0cm
「この飾り布は防染法、手描き、型押しという複雑な技法で作られていて、その過程は西洋ではチンツ(更紗)=さらさ、とよばれてきた。・・・・」
●(左2)「カシュミール・ショール」パシュミーナー(山羊の毛織物)カシュミール、18世紀末期または19世紀初頭。310.0×137.0cm「カシュミール・ショールはアクバル帝の時代からムガルの宮廷で好まれたが、残念なことに当時のものはまったく現存しない。・・・・」
●(左3)「パトカー(男物の帯)」木綿に絹糸で刺繍。ダッカ、1800年頃。203.0×59.0cm
「ベンガル地方、ことにバングラデーシュのダッカの上質の綿(めん)モスリンは帝政ローマの昔から有名だった。・・・この上品な帯は、上質なモスリンに典型的なムガル後期の草花文を刺繍していて、織物のようにみえる。」
●(左4)「パトカー(男物の帯)」木綿にプリント。ムガル、18世紀。540.5×72.0cm 「装飾をほどこした帯は何世紀もの間インドの男性の衣類の中で重要な役割を演じ、それは彫刻や初期の絵画に示されている通りである。・・・普通は草花文が好まれたが、このように小さな葉だけを並べた繊細なデザインのものは珍しい。」
(全て、出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)

インド多彩な模様染め

●(左1)「ジャーマー(男物の上着)」木綿。北インド、1850年頃。丈134cm、裾幅105cm、袖丈127cm。「ジャーマーは17世紀から19世紀末まで男性の式服として、何度か型は変化したが、もっとも広く用いられた。イスラム教徒もヒンドゥー教徒もともに着用し、一般的にはイスラム教徒は右前にし、ヒンドゥー教徒はこのジャーマーのように左脇で紐を結んで左前にした。・・・・」
●(左2)「少年の上着」ショール生地(パシュミーナー)。北インド、18世紀末~19世紀初期。丈87.0cm、裾幅100.0cm、袖から袖まで104.0cm。「カシュミールのショール地の衣服は、北インドの宮廷で冬に用いられた。同じ模様を繰り返し織り込んだ何メートルの生地を、このような衣服に仕立てて共布のズボン(パージャーマー《=パジャマの語源、星野》)と一緒に着用した。」
●(左3)「カーペット」羊毛に絹の横糸、木綿の縦糸。ムガル、17世紀中期。52.0×56.0cm「このカーペットのように極度に目のつんだベルベットのように滑らかな毛織物は、絹や羊毛ではなくて、むしろパシュミーナー(カシュミールの山羊の下腹の良質の毛)を使って作られた。カシュミール・ショールと同じく、良質の光沢ある素材を用いているので、単位面積あたりの結び目を多くすることができるのである。そのためムガル・カーペットの最高級品には、他ならぬこの山羊の毛を用いたのである。・・・」
●(左4)「掛け布」(ルーマール)木綿に手描きと型防染の併用染め。デカン、ゴールコンダ、1640~50年頃。62.0×89.0cm「この美しい掛け布は、中央に丸文を配する構成の点でも、ゆったりと寄りかかる王子やエキゾチックな草木のデザインの点でも、ペルシャのカーペットや写本の装丁を思い起こさせる。しかし、色調は17世紀のデカン更紗(チンツ)製品の典型で、淡いピンクの地を精密に描かれた衣服や草木で埋めつくしている。・・・・」
(全て、出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)

インド多彩な模様染め

●(左1)「更紗(チンツ)の断片」木綿に手描きと型防染の併用染め。デカン、17世紀中期。58.0×26.0cm。「この更紗は、敷物か、カーテンか、あるいは衣服の一部であろう。その幻想的な花や埋め草に使われた繊細な文様は、17世紀のデカンの更紗の特色をよく示しているが、個々の草花のモチーフを規則的に配置するのは、ムガルの宮廷で好まれたデザインである。・・・」
●(左2)「ターバンの生地」木綿、絞り染め。ラージャスターン、ジャイプル、1860年頃。500.0×18.0cm。「この良質のモスリンのターバン地にみられる色とりどりのジグザグ柄は、ラハリヤー(「波のような」の意味)と呼ばれる絞り染めの複雑な手順をへて染められている。・・・」
●(左3)「クリシュナを刺繍したチャンバー地方のルーマール」木綿に絹糸で刺繍。パンジャーブ、18世紀。82.5×89.0cm 「この種の刺繍のある布はパンジャーブ地方のあちこちで18世紀から19世紀にかけて作られたもので、同時期の細密画と密接な関係にあったことを示している。非常に上品な図柄で、それぞれの区画に笛を吹いたり、牛飼いの娘グーピーたちと語り合うクリシュナを刺繍している。・・・」
●(左4)「ドレス」木綿、彩色と染め、金彩。東南インド、ヨーロッパ向け、1780年頃。丈155.5cm、裾幅126.0cm。「17世紀の末になると、インドのチンツ(更紗)製の衣服がヨーロッパで大流行し、18世紀を通じて人気は衰えなかった。それは下層階級から上層へ広まっていった数少ないファッションの1つと思われ、最初はオランダの召使いやメイドの間で人気を博し、後にオランダの中産階級にもてはやされるようになった。オランダのウイリアムとその妻メアリーが1690年に共同でイギリス王位につくと、それが刺激となってオランダのファッションが流行し、ただちにイギリスの貴婦人が華麗なチンツに身をつつむようになり、この種の金彩をほどこしたものも見られるようになった。たいていはこのドレスのように全面に花模様を繰り返した布でできていて、注文主の好みに合わせてインドかヨーロッパで仕立てられたのであろう。オランダ人はどちらかというと大柄の大胆なデザインを好む傾向にあったので、このチンツの繊細な花の曲線はイギリス向けであったことを思わせる。」
(全て、出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)

イギリス東インド会社、インド亜大陸へ進出する

●イギリスのインド進出の概略は以下のようである。

内容
1611年 ●イギリス東インド会社、コロマンデル海岸の拠点としてマスリパタムに商館を置く。
1612年 ●イギリス東インド会社、インド西岸のスーラト、タイのアユタヤに商館を置いた。
1615年 ●英国初の駐インド大使が、ムガル皇帝ジャハンギールに謁見し、商館の設置や通商上の特権を獲得した。
1615年 ●イギリス艦隊がボンベイ沖でポルトガル艦隊を破る。
1627年 ●ムガル皇帝ジャハーンギールが没し、翌年シャー・ジャハーンが即位する。
1632年 ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンが愛妃の廟、タージ・マハルの築造を開始する。(前章の16世紀に写真と肖像画記載。)
1633年 ●イギリスがベンガルに植民を開始する。
1633年 ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンがデカンのアフマドナガル王国を併合する。
1638年 ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンがアフガニスタン・カンダハールを奪回する。
1639年 ●イギリス東インド会社、マドラスを獲得、翌年商館と1644年には要塞(セント・ジョージ要塞)が完成した。イギリスは、マスリパタムがゴールコンダ王国によって脅かされていたため、新たな拠点を求めていた。こうしてマドラスがイギリス東インド会社南インド最大の基地となった。また東インド会社は、30年間の免税という特典を設け、インド人の綿布工や商人を招来し、この地を本格的な根拠地としてインド貿易に参入していった。
1648年 ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンが、アーグラからデリーへ遷都する。
1649年 ●サファヴィー朝、ムガル帝国から奪われたカンダハールを奪回する。
1658年 ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンが息子(アウラングゼーブ)に幽閉される。翌月ムガル皇帝アーラムギール(アウラングゼーブ)として即位する。
1669年 ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、ヒンドゥー教を禁止し寺院を破壊する。ヒンドゥー教徒、皇帝に反発する。
1672年 ●フランス東インド会社、コロマンデル海岸に新拠点ポンディシェリを獲得する。
1674年 ●デカン地方で、ムガル帝国に抗して、ヒンドゥー独立国家マラーター王国できる。
1676年 ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、北西辺境のアフガン族の反乱鎮圧に成功する。
1679年 ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、非イスラム教徒へのジズヤ(人頭税)を復活、ヒンドゥー教徒反発する。
1682年 ●イギリス東インド会社、オランダに破れ、インドネシア・ジャワ島バンテンから撤退する。
1687年 ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、前年のビージャプル王国に続き、ゴールコンダ王国を併合する。
1690年 ●イギリス東インド会社、ムガル皇帝よりベンガルに商館設置の許可を得た。1696年にはウイリアム要塞の建築許可も得て、ここにイギリスのインド支配の最重要拠点になった「カルカッタ」が誕生した。
ムガル時代のヨーロッパ人

●(左絵)「ヨーロッパ人の肖像」紙に不透明水彩と金泥。ムガル、1610年頃。
●(右絵)「水パイプでタバコを吸う東インド会社の高官」紙に不透明水彩。ディープ・チャンド筆。ベンガル、ムルシダーバード、1760年~63年。
(出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年)NHK等)

茶と紅茶(紅茶の輸入は、緑茶のそれを18世紀半ば以降逆転していく

●茶は輸入額は、17世紀では多くはないとみられるが、18世紀になると急増していく。オランダ東インド会社の輸入額に占める割合は、2%(1711年~13年)、18.8%(1730年~32年)、24.2%(1771年~73年)、54.4%(1789年~90年)と急増していく。そして同様にイギリス東インド会社も、中国広州と直接取引をはじめた1713年以降、茶の輸入額は増加していく。またフランス東インド会社でも取引が増加し、スウェーデンやデンマークの東インド会社も茶貿易に参入していった。こうして18世紀半ばを過ぎると、イギリスと植民地アメリカやオランダを中心に普及していった。
ここで「茶と紅茶」について、日東紅茶の公式サイトとトワイニング紅茶の公式サイトから少し引用してみる。茶と紅茶の違いと歴史がわかる。

(日東紅茶・紅茶のマメ知識)でみると

●普段、私たちが「~茶、~ティー」と呼んでいるものはたくさんあります。緑茶、烏龍茶、麦茶、ハーブティー・・・など。その中でも、緑茶、烏龍茶、紅茶は、実は、同じ茶樹から作られます。学名は「カメリア・シネンシス」(Camellia Sinensis (L) O. Kuntze) 、椿や山茶花と同じ科であり、ツバキ科ツバキ属の常緑樹です。本来「茶」とは、この「カメリア・シネンシス」から作られたものを指します。

下

コーヒー(ウィキペディア「コーヒーの歴史」によれば)

●コーヒーは、エチオピアからイエメンへ伝播し、16世紀オスマン帝国によりイスラム世界に広まった、といわれる。1530年代には北シリアのダマスカス、アレッポにコーヒー店が開かれ、1550年代にはイスタンブルにもコーヒーを供する店舗が開かれた。皇帝セリム2世の時代(1566年 – 1574年)にはイスタンブル内の「コーヒーの店」は600軒を超えていた。そしてヨーロッパ各地へは、17世紀前半ヴェネツィア商人を介して広まっていった。もともとイスラムの飲み物であったために、当時のローマ教皇クレメンス8世は、悪魔の飲み物(ワインを飲めないイスラム教徒が悪魔から与えられた)であるコーヒーに洗礼を施して、キリスト教徒がコーヒーを飲用することを公認したという。
●イギリスでは1650年にオックスフォードでコーヒー・ハウスが営業を始め、1652年には初めてロンドンにコーヒー・ハウスが開業した。
(クロニック世界全史によれば)1690年頃にロンドンでコーヒー・ハウスが大流行し、社交や情報交換の場となり、18世紀初頭には2000軒に達した。これらの店は、それぞれ集まる客層が決まっていた。例えば、ぶどう酒や船荷を扱う同業者が集まっていたロイドというコーヒー・ハウスの名は、ロイズ海上保険会社として名を残した。また「ジャーナリズム」といわれるものは、コーヒー・ハウスに情報を提供するために生まれたともいわれる。コーヒー・ハウスは、イギリスの政治・文化に大きな影響を与えたという。
しかし18世紀半ばから減少し、代わりに、クラブ、ティーハウスが台頭し、イギリスの家庭には紅茶が定着していった。

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世界史

Posted by hhks