(世界史)「17世紀」①(オランダの世紀)
2023年4月16日世界史
●オランダが16世紀に繁栄を誇ったポルトガル・スペインに代わって、新大陸からインド・東アジア・日本に進出し、交易で巨富を得ていた。
●しかしヨーロッパはまた「17世紀の危機」と呼ばれ、寒冷による飢饉、争乱、革命、戦争の絶えない時代でもあった。
●イギリスは二度の革命を行って議会政治を確立した。
●フランスはルイ14世の絶対王政下に、領土拡大戦争を繰り返した。
●オスマン・トルコ帝国は、前世紀に続いて三大陸(アジア・アフリカ・ヨーロッパ)の要の地域を支配して強勢を保持していた。
●サファービー朝ペルシャも全盛期を迎えていた。
●インドではムガル帝国が領土を最大にして繁栄した。
●東アジアでは、漢民族の明が、北方の満州族に圧迫されて滅亡し、満州族が清を樹立して大帝国を築いた。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
日本とオランダの出会いと江戸時代を通じての友好関係は、徳川家康によって築かれたと思われる。オランダ(プロテスタント)がスペイン(カトリック)と独立戦争を戦っていた1600年4月、オランダ商船・旧名「エラスムス号」が九州に漂着した。この時日本は、戦国時代最後の決戦(関ヶ原の戦い1600年10月)前夜であった。家康は決戦に勝利した後、日本に残ったオランダ人のヤン・ヨーステンとイギリス人のウィリアム・アダムスの2人を家康の外交特別補佐官に任命した。
(上左絵)イギリス東インド会社。(上右絵)オランダ東インド会社(出典:両方とも『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
ここでは、綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊から要約・引用した。また「東インド会社とアジアの海」・興亡の世界史第15巻、羽田正著 講談社2007年刊、「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊より要約・抜粋した。また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。関連する写真、著作からも引用した。
オランダは16世紀に繁栄を誇ったポルトガル・スペインに代わって、新大陸からインド・東アジア・日本に進出し、交易で巨富を築き、アムステルダムは世界の商業・金融・文化の中心となった。
またオランダは、鎖国時代の江戸幕府とも交易をもち、世界の最新情報、科学知識等を伝え、「蘭学」として日本に多大な影響を与えた。
1601年、1602年と相次いでイギリス東インド会社とオランダ東インド会社が設立された。特にこのオランダ東インド会社は、世界最初の株式会社の設立であったといわれる。16世紀以来、香料貿易はポルトガルとスペインで争われていたが、そこへオランダ東インド会社が参入し、ポルトガルやイギリスを排除し高級香辛料の直接取引を独占するようになっていった。
年・月 | 1601年~ | |
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イギリス東インド会社設立とオランダ東インド会社設立
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1601年1月 |
イギリス東インド会社設立
●イギリスではこれまで、東インドの商品を、喜望峰回りではなく地中海やモスクワを経由して、陸づたいに入手しようとしていた。そのために「レヴァント会社」という地中海東岸地域との貿易を専門とする会社が設立され、イギリス国王はこれに特許独占を与えていた。
次の航海では、また新たに資金が募集される。まだ、株式会社のように、株式の販売による広範囲の資金調達を行い、固定的な資本金とするような仕組みではなかった。 ●初回の航海では、資金を提供した215人の1/3、また会社の取締役215人のうちの半分は、レヴァント会社の関係者だった。初代東インド会社総裁(トマス・スミス)は、このレヴァント会社の総裁だった。そして彼は同時にアメリカ・ヴァージニア植民協会の責任者でもあった。こうして事業者達は、母体の会社組織を作り東インド貿易の独占を求めて、イギリス国王(エリザベス1世)に特許を求めた。そして、1601年1月に、東インド会社(East India Company)が誕生した。 |
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1602年 |
「オランダ東インド会社(=連合東インド会社)VOC」設立
●オランダはイギリスとは違い、北海沿岸諸都市には複数の東方への貿易会社が存在していた。それらが同時期に大量に商品を持ち込むので、価格が低下し利益が安定しなかった。そのため共和国政府があいだに入り、各地の会社が合同して、1602年「オランダ東インド会社(=連合東インド会社) (概略)
・オランダと喜望峰経由の東インド貿易は、21年間この会社が独占すること。 ・東インドで要塞を建設する権利、総督を任命する権利、兵士を雇用する権利、そして現地の支配者と条約を結ぶ権利などが与えられた。 ●当時は、国家とそれを統治する政府が、政治・軍事の権限を集中的に保有していたわけではない。オランダ東インド会社もオランダ政府が設立した国営企業ではなく、あくまでも民間の会社であった。一例をあげると、特許状の更新時(独占継続)には、見返りを要求されたり、1665年、第2次英蘭(イギリス・オランダ)戦争時には、20隻の船の提供を求められている。 |
●ここでの一番の貿易目的だった香辛料について、「丸善エンサイクロペディア大百科」1995年丸善刊より引用する。
とあります。また「興亡の世界史第15巻」では単に食肉の味付けのための香辛料だけでなく、医薬品として重要だったというフランドランの説を紹介している。
●いずれにしろ、このコショウをはじめとする香辛料の売上は、オランダ東インド会社アムステルダム支部の、1668年~1670年にかけて総額の、コショウが29%、高級香辛料(クローブ、ナツメグ、メイス、シナモン)は28.5%、合計で57.5%しめていたとあります。最重要商品であったことは間違いない。ウィキペディアには、
●1515年前後にポルトガル人が発見したクローブの原産地では、17世紀になると、オランダ東インド会社が、マルク諸島(=モルッカ諸島=香料諸島)、バンダ諸島での高級香辛料の独占をはかり、ポルトガルやイギリス東インド会社と武力抗争をはじめた。
(地図:「Google Mymap プラス」に地名をマーカー記入したもの)
●オランダ東インド会社は、17世紀末頃までには、高級香辛料の直接取引を独占するようになった。また一方インド洋海域でも商館を次々と設置し、オランダ東インド会社は他のヨーロッパ諸国を圧倒した。
モカ(アラビア半島)、バンダレ・アッバース(ペルシャ湾)、スーラト(西北インド)に商館を置き、コーチン(インド西南海岸・ポルトガルの拠点)を占領し、セイロン(スリランカ)でポルトガルを追放し、インド東方海岸のマスリパトナム、プリカット、タイのアユタヤなどに商館を置いた。そして日本には平戸、ついで長崎、また台湾(安平)に商館を設置した。
●こうしたなかイギリス東インド会社は、香料貿易はかろうじて行っていたが、他方でインド大陸での綿織物貿易へと向かっていった。
年 | 内容 |
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16世紀後半 | テルナテ島①のスルタンとポルトガルが争い、ポルトガルはティド-レ島②に移り要塞を建設した。 |
1605年 | オランダはアンボン島⑤のポルトガルの砦を奪い、ティド-レ島②の、ポルトガル人とスペイン人に対抗した。 |
1619年 | オランダは、イギリス東インド会社軍とバンテン王国から奪った町を、「バタヴィア」(=ジャカルタ)と命名した。1620年現在の人口は873名だが、71名は日本人だった。徳川幕府では1604年から朱印船貿易が行われ、東南アジア各地には日本人町が多く出来た。バタヴィアには、傭兵として日本から渡ってきたものもいた。日本人では、アユタヤ王朝で活躍し1630年殺害された山田長政が有名。多くの日本人が貿易や傭兵として活躍していた。 |
1620年 | バンダ諸島③で香料のオランダ引き渡し拒否事件が起きた。オランダ東インド会社軍は、ルン島④に拠点を持つイギリス東インド会社の扇動とみなし、バンダ諸島を占領しルン島でも虐殺を行った。 |
1621年 | オランダ・バタヴィア総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが2,000名(日本人87名)でバンダ島で虐殺を行い、あらたにヨーロッパ出身者による奴隷農園経営を、賃貸する形でナツメグ生産を始めさせた。 |
1623年 | オランダ、マルク諸島アンボン島⑤で、イギリス東インド会社の商館長以下10人と、9人の日本人傭兵、1人のポルトガル人計20人を処刑した。(アンボン事件) |
1641年 | オランダ、ポルトガル拠点マラッカ⑧を征服。 |
1663年 | オランダ、コーチンに商館を設置し、ポルトガルを駆逐しはじめる。 |
1667年 | オランダ、インドネシア・スラウェシ島のゴア王国を制圧する。 |
1669年 | オランダ、ポルトガル拠点マカッサル⑥を激戦の末、征服した。 |
1677年 | オランダ、インドネシア・ジャワ島のマタラム王国の内乱に介入する。 |
1684年 | オランダ、インドネシア・ジャワ島のバンテン王国を支配する。 |
1688年 | オランダ、タイのアユタヤ朝の国王死去にともない、タイでの貿易権を回復する。 |
●16世紀からポルトガル人は良質なインドの織物の貿易を行っていた。またオランダ東インド会社も1630年代から、貿易を行っていた。
両者ともにプリカットに商館を置き、またオランダはマスリパタムにも商館をおいて綿織物の輸出を行っていた。(プリカットはマドラスの北40km程度北)
●綿織物の有名産地は、パンジャーブ地方(西北インド)、グジャラート地方(西北インド)、コロマンデル海岸(クリシュナ川の河口からカリメール岬《スリランカ北端と向き合う岬》までの海岸《南東インド》)そしてベンガル地方(北東部)とされる。地図参照。
●そうしてイギリス東インド会社は、インド亜大陸へ進出し、綿織物貿易拡大へ向かった。
●まずここでは、「インド更紗(サラサ)」「東西の染織技術の源泉となった多彩な模様染めの世界」小笠原小枝著を「クロニック世界全史」から一部引用する。
イギリスは、歴史的も技術的にも世界をリードしてきたインド更紗を、最初は貿易で利益をあげ、次にその模様染めの技術を革新させ、本国で大量生産することに成功し、インドの綿織物工業を奪った。
人類の歴史とともに発達してきた衣の文化は,衣の素材となる織物(テキスタイル),さらに織物や染め物をつくりあげる繊維や染料と深くかかわっている。その繊維や染料には,風土や時代によってさまざまなものが用いられてきたが,共通していえることは,近代の産業革命以前には,世界のどの地域においても天然のものが利用されていたことである。そのなかには獣皮,フェルト,魚皮,さらに樹皮を柔らかくたたきのばしたタパなど,不織布といわれる織物以前の素材も含まれていた。
・フェルト 広辞苑より
羊毛その他の獣毛を原料として、湿気・熱および圧力を加えて、縮絨(しゅくじゅう)し布状にしたもの。帽子・敷物・履物などに使用。
・縮絨(しゅくじゅう)大辞林 第三版の解説。
毛織物の仕上げ工程の一。水で湿らせて熱・圧力を加え,長さと幅を縮めて組織を密にすること。
・不織布(ふしょくふ) 広辞苑より
糸の形態を経ずに、繊維シート(ウエブ)を機械的・化学的・熱的に処理し、接着剤や繊維自身の融着力で接合して作る布。裏地・壁材・医療用など。
織物に利用された天然の素材には,植物性,動物性,そして鉱物性の繊維がある。鉱物性のものは中国で火浣布(かかんぷ)とよんだ石綿ぐらいだが,動物性には絹や毛,植物性には木綿・麻をはじめきわめて多種類の雑繊維がある。こうした繊維から採られた糸は機(はた)にかけられ,「織る」という行為をへて線から面になり,織物という衣の素材となる。さらにこれを美しく彩るという発想によって,染色の発達がうながされた。
もちろん初期には岩絵具(いわえのぐ)などの顔料や墨(すみ)・煤(すす)・鳥賊(いか)の墨などで布に模様を描くこともあったが,より堅牢な染め色を得るためには,染料を発色させ定着させる技術が必要とされた。天然の染料にも植物性,動物性,鉱物性のものがあり,鉱物性染料にはコバルトなど,動物性染料には貝紫(かいむらさき)のほかに介殼虫(かいがらむし)からとる臙脂(えんじ)のコチニールとラックなどがある。しかし,もっとも広く用いられてきたのは植物性染料で,それぞれの特質に応じて花・葉・樹皮・果実・根などが利用されてきた。
・貝紫(かいむらさき)大辞林 第三版の解説。
地中海産のアッキガイ科の貝の分泌液からとった紫色の染料。非常に高価なため,ローマ時代には皇帝と元老院議員のみの衣服に使用した。帝王紫。ティリアン=パープル。
・臙脂(えんじ)色名がわかる辞典の解説
色名の一つ。JISの色彩規格では「つよい赤」としている。一般に、赤みをややおさえ、黒みを増した濃い赤色をさす。中国から伝わった古くからある色名で、キク科ベニバナからつくられた臙脂のほかに、カイガラムシ科の昆虫から作られた生しょう臙脂などがある。近年では中南米産カイガラムシ科エンジムシの雌のコチニールが使用される。和服だけではなく、洋服、靴、小物、インテリア、家電製品など日常の品々に用いられている。
染色の方法は,紅(べに)色を得る紅花や黄色を得る鬱金(うこん)のように直接発色するものもあるが,ほとんどの植物性染料は灰汁(あく)やアルモ,タンニン,鉄などの媒染(ばいせん)剤を必要とし,それを変えることでさまざまな色が得られる。同じ茜(あかね)や蘇芳(すおう)でも,アルモを用いれば美しい赤色を,鉄分を加えれば紫色を呈する。
このような植物性染料のなかで,とくに藍(あい)は藍瓶(あいがめ)に灰汁や石灰などのアルカリ溶液を加えて発酵させ藍汁をつくり,この液に糸または布を浸(ひた)し、これを引き上げ空気にさらし酸化させることではじめて藍色が得られる。しかしひとくちに藍染めといっても,地域によって藍にはいろいろの種類がある。なかでも広く用いられてきたのが,日本の蓼藍(たであい)(タデ科の1年草)とインドの木藍(きあい)(インディゴ,マメ科コマツナギ属),ヨーロッパのウォード(大青《たいせい》,アブラナ科の2年草)である。
・茜(あかね)(本文絵いり説明)
茜はアカネ科の多年草の蔓(つる)草で根の煎汁(せんじゅう)を用いて紅い染料に使用する。
・木藍(きあい)と蓼藍(たであい)(本文絵いり説明)
ともに葉を刻み、水に浸して沈殿物を用いて青い染料に使用する。
○インド綿とインド藍
インドの綿織物の古い歴史を物語るものに,紀元前2000年にさかのぼるモヘンジョ・ダロの遺跡から発見された茜染めの木綿の断片がある。またそれに比肩する歴史があるとされるインド藍については,古代ローマ時代の大プリニウスの「博物誌」にインドの特産品としてあげられ,染色法や薬用効果が記されている。インド藍がいかにすぐれた染料かは,蓼藍やウォードの葉は藍の含有量が20%であるのにたいし,インド藍は80%にのぼる事実に示されている。オランダの東インド会社によってインド藍がヨーロッパにもたらされて以降,ウォードは急速に衰えインド藍にとってかわられた。
堅牢で薬効性も高い藍染めは,保温性・吸湿性・耐久性に富む木綿という素材と結びついて世界的にも広く愛用されてきた。日本では木綿の歴史が室町時代以降と比較的あさく,絹物を偏重する傾向があったためか,江戸時代にももっぱら庶民の衣料として普及した。しかしインド方面では,王侯貴族の衣料となるような最高の織物もつくられている。たとえばダッカ・モスリンの名で知られる綿織物には,手紡ぎで普通のミシン糸の4分の1,今日の200番手に相当する細い糸で織られた薄い布があり,幅1ヤール(約91cm)・長さ20ヤールのターバンが女性の指輪を自由に通りぬけ,30ヤールのターバンがココナッツの実に収まったといわれる。薄さと優美さをほこる綿モスリンは,こうして古くから「織られた大気」「夜の霧」「流れる水」などの詩的な名を与えられ賞美されてきた。
○世界に広がったインド更紗
インドの染織はきわめて歴史が古いばかりでなく,素材と技術の多様さにおいて,東洋のみ ならず西洋の染織工芸の大きな源泉となっている。ムガル帝国時代,インド北部カシミール地方でつくられはじめたカシミア・ショールは、パシュミナという最高の山羊(やぎ)の毛を用いて繊細な綴織(つづれおり)にした毛織物で,18世紀にヨーロッパ諸国に輸出されて爆発的な人気をよんだ。そして19世紀初めにはイギリス,ついでフランスのリヨンで,機械織りによる模倣品がつくられるにいたった。絣(かすり)も,今日では一般的にインドを起点に広く東西に伝播したとみなされている。さらにヴァーラーナシー(ベナレス)やインド中部のアウランガーバードの金銀糸を織りこんだ絹織物,あるいは木綿の各種の縞(しま)模様も,インド染織の多様性を示す好例といえよう。
以上のようなインドの染織品のなかで,もっとも大きな影響を世界に与えたのは模様染めの更紗(サラサ)
である。インド更紗は,すでにローマ時代から輸出され,その色彩の鮮麗さが賞美されていたという。1世紀ころのシリア・パルミラのジャムプリコ家の墓から発見された縞模様の染布や中国・新疆(しんきょう)ウイグル自治区尼雅(ニヤ)出土の木綿の﨟纈(ろうけち・けつ)も,インド製もしくはその影響下につくられたものとされている。しかし,インドの模様染めが蠟(ろう)防染と媒染法の技術を発達させながら、長い歴史をへて広く世界に知られるようになるのは,ヨーロッパ各国が大航海時代にはいった16世紀以降のことである。とくに17世紀初頭,イギリスをはじめとする各国の東インド会社設立は,インド更紗を貴重な交易品として世界各地に運ぶきっかけとなった。
なぜインド更紗はそれほどまで珍重されたのか。理由は,日本にもヨーロッパにも,当時それに匹敵する多彩な模様染めがなかったということにつきる。日本の模様染めは当時絞りが中心で,ヨーロッパでも模様染めの技術は絹織物の発達に比べ非常に遅れていた。 したがって,17世紀末以降における日本の友禅染も,ヨーロッパの各種の模様染めも,インド更紗に大きく触発されて発展してきたといえる。
日本の場合は,絹物の偏重ということもあって,和更紗は友禅染の陰にかくれ十分な発達をみることがなかった。しかしヨーロッパでは,模様はもちろん染料や媒染法までインド更紗の模倣から出発しながら,模様染めは18世紀後半以降,近代産業の技術革新のもとに銅板プリントからローラープリント,さらに合成染料の開発による量産への道をたどり,ついにはインド更紗にかわって,日本をはじめ「新大陸」アメリカにまで輸出され世界市場を席巻するにいたったのである。
●(左1)「ジャーマー(男物の上着)」木綿。北インド、1850年頃。丈134cm、裾幅105cm、袖丈127cm。「ジャーマーは17世紀から19世紀末まで男性の式服として、何度か型は変化したが、もっとも広く用いられた。イスラム教徒もヒンドゥー教徒もともに着用し、一般的にはイスラム教徒は右前にし、ヒンドゥー教徒はこのジャーマーのように左脇で紐を結んで左前にした。・・・・」 |
●(左1)「更紗(チンツ)の断片」木綿に手描きと型防染の併用染め。デカン、17世紀中期。58.0×26.0cm。「この更紗は、敷物か、カーテンか、あるいは衣服の一部であろう。その幻想的な花や埋め草に使われた繊細な文様は、17世紀のデカンの更紗の特色をよく示しているが、個々の草花のモチーフを規則的に配置するのは、ムガルの宮廷で好まれたデザインである。・・・」 |
●イギリスのインド進出の概略は以下のようである。
年 | 内容 |
---|---|
1611年 | ●イギリス東インド会社、コロマンデル海岸の拠点としてマスリパタムに商館を置く。 |
1612年 | ●イギリス東インド会社、インド西岸のスーラト、タイのアユタヤに商館を置いた。 |
1615年 | ●英国初の駐インド大使が、ムガル皇帝ジャハンギールに謁見し、商館の設置や通商上の特権を獲得した。 |
1615年 | ●イギリス艦隊がボンベイ沖でポルトガル艦隊を破る。 |
1627年 | ●ムガル皇帝ジャハーンギールが没し、翌年シャー・ジャハーンが即位する。 |
1632年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンが愛妃の廟、タージ・マハルの築造を開始する。(前章の16世紀に写真と肖像画記載。) |
1633年 | ●イギリスがベンガルに植民を開始する。 |
1633年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンがデカンのアフマドナガル王国を併合する。 |
1638年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンがアフガニスタン・カンダハールを奪回する。 |
1639年 | ●イギリス東インド会社、マドラスを獲得、翌年商館と1644年には要塞(セント・ジョージ要塞)が完成した。イギリスは、マスリパタムがゴールコンダ王国によって脅かされていたため、新たな拠点を求めていた。こうしてマドラスがイギリス東インド会社南インド最大の基地となった。また東インド会社は、30年間の免税という特典を設け、インド人の綿布工や商人を招来し、この地を本格的な根拠地としてインド貿易に参入していった。 |
1648年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンが、アーグラからデリーへ遷都する。 |
1649年 | ●サファヴィー朝、ムガル帝国から奪われたカンダハールを奪回する。 |
1658年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンが息子(アウラングゼーブ)に幽閉される。翌月ムガル皇帝アーラムギール(アウラングゼーブ)として即位する。 |
1669年 | ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、ヒンドゥー教を禁止し寺院を破壊する。ヒンドゥー教徒、皇帝に反発する。 |
1672年 | ●フランス東インド会社、コロマンデル海岸に新拠点ポンディシェリを獲得する。 |
1674年 | ●デカン地方で、ムガル帝国に抗して、ヒンドゥー独立国家マラーター王国できる。 |
1676年 | ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、北西辺境のアフガン族の反乱鎮圧に成功する。 |
1679年 | ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、非イスラム教徒へのジズヤ(人頭税)を復活、ヒンドゥー教徒反発する。 |
1682年 | ●イギリス東インド会社、オランダに破れ、インドネシア・ジャワ島バンテンから撤退する。 |
1687年 | ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、前年のビージャプル王国に続き、ゴールコンダ王国を併合する。 |
1690年 | ●イギリス東インド会社、ムガル皇帝よりベンガルに商館設置の許可を得た。1696年にはウイリアム要塞の建築許可も得て、ここにイギリスのインド支配の最重要拠点になった「カルカッタ」が誕生した。 |
●茶は輸入額は、17世紀では多くはないとみられるが、18世紀になると急増していく。オランダ東インド会社の輸入額に占める割合は、2%(1711年~13年)、18.8%(1730年~32年)、24.2%(1771年~73年)、54.4%(1789年~90年)と急増していく。そして同様にイギリス東インド会社も、中国広州と直接取引をはじめた1713年以降、茶の輸入額は増加していく。またフランス東インド会社でも取引が増加し、スウェーデンやデンマークの東インド会社も茶貿易に参入していった。こうして18世紀半ばを過ぎると、イギリスと植民地アメリカやオランダを中心に普及していった。
ここで「茶と紅茶」について、日東紅茶の公式サイトとトワイニング紅茶の公式サイトから少し引用してみる。茶と紅茶の違いと歴史がわかる。
(日東紅茶・紅茶のマメ知識)でみると
●普段、私たちが「~茶、~ティー」と呼んでいるものはたくさんあります。緑茶、烏龍茶、麦茶、ハーブティー・・・など。その中でも、緑茶、烏龍茶、紅茶は、実は、同じ茶樹から作られます。学名は「カメリア・シネンシス」(Camellia Sinensis (L) O. Kuntze) 、椿や山茶花と同じ科であり、ツバキ科ツバキ属の常緑樹です。本来「茶」とは、この「カメリア・シネンシス」から作られたものを指します。
●紅茶とは?
では、紅茶と緑茶の違いとは何でしょう? それは、製造法の違いです。お茶の葉の中には酸化酵素というものが含まれていて、この働きを利用して製造するのが紅茶、利用せずに製造するのが緑茶なのです。りんごの皮をむいておいておくと褐色に変化してしまいますが、酸化酵素の働きとはまさにこのこと。この作用を「酸化発酵」と呼びます。
酸化発酵を利用する紅茶の場合、製造の過程で茶葉の色が緑色からつやのある褐色へと変化するだけでなく、水色(すいしょく:抽出液の色)も緑黄色から美しい赤褐色へと、香りは新鮮でグリーンな香りから花や果物を思わせる華やかで芳醇な香りへと、味わいはより深いものへと変化していきます。
一方、酸化発酵を少しだけ利用して作られるのが烏龍茶。実は紅茶の発祥の地は、この烏龍茶の製造が現在も盛んに行われている中国の福建省なのです。17世紀前半に中国からヨーロッパに紹介されたお茶は当初、釜炒り緑茶と烏龍茶でした。お茶の人気が次第に高まり、特にイギリスでは、より水色と味のしっかりした酸化発酵の強いタイプの烏龍茶(福建省産の武夷茶)が好まれるようになりました。イギリス人の嗜好に合わせて産地でさらに酸化発酵を進めていくうちに、完全発酵の黒褐色の紅茶(Black Tea)が生まれたのです・・・。
(トワイニング紅茶・トワインイングストーリー)で、由来を見ると。
●1706年、創業者トーマス・トワイニングがロンドン・ストランド地区にコーヒーハウス「トムの店」をオープン。飲み物といえばコーヒー、ジン、エールと考えられていた時代に、珍しい紅茶を出す「トムの店」は、ロンドン紳士から高い支持を得ました。いずれ紅茶のブームが来ると考えたトーマスは、今度は「トムの店」の隣に英国初の紅茶専門店「ゴールデンライオン」をオープン。当時コーヒーハウスといえば男性しか入れませんでしたが、「ゴールデンライオン」は女性もOK。この画期的なサービスは多くの女性に喜ばれ、またたく間に人気店となりました。
その後、4代目・リチャード1世が紅茶の関税引き下げに成功すると、いよいよロンドンに紅茶文化が浸透。1787年、「TWININGS」のロゴを掲げた表門がオープンしました
当時海軍大臣を務めていたグレイ伯爵が、中国からの土産物として味わった紅茶を大変気に入り、トワイニング社に味や香りの再現したブレンド ティーを注文。この一件から、のちに英国首相となった伯爵の名を冠したブレンド、「アール グレイ」が生まれたと言われます。「アール」は英語で「伯爵」を意味します。
その後、紅茶の輸入権を握り、イギリスの繁栄を築いたと言われるヴィクトリア女王が即位すると、女王は自ら「4時のお茶」の習慣を始めます。これまで貴族や上流階級に限られた楽しみだった紅茶は、次第に中産階級、労働者階級にも広まり、次第に国民的飲み物に。1837年、ヴィクトリア女王は、トワイニング社に王室御用達を授けます。・・・。
●コーヒーは、エチオピアからイエメンへ伝播し、16世紀オスマン帝国によりイスラム世界に広まった、といわれる。1530年代には北シリアのダマスカス、アレッポにコーヒー店が開かれ、1550年代にはイスタンブルにもコーヒーを供する店舗が開かれた。皇帝セリム2世の時代(1566年 – 1574年)にはイスタンブル内の「コーヒーの店」は600軒を超えていた。そしてヨーロッパ各地へは、17世紀前半ヴェネツィア商人を介して広まっていった。もともとイスラムの飲み物であったために、当時のローマ教皇クレメンス8世は、悪魔の飲み物(ワインを飲めないイスラム教徒が悪魔から与えられた)であるコーヒーに洗礼を施して、キリスト教徒がコーヒーを飲用することを公認したという。
●イギリスでは1650年にオックスフォードでコーヒー・ハウスが営業を始め、1652年には初めてロンドンにコーヒー・ハウスが開業した。
(クロニック世界全史によれば)1690年頃にロンドンでコーヒー・ハウスが大流行し、社交や情報交換の場となり、18世紀初頭には2000軒に達した。これらの店は、それぞれ集まる客層が決まっていた。例えば、ぶどう酒や船荷を扱う同業者が集まっていたロイドというコーヒー・ハウスの名は、ロイズ海上保険会社として名を残した。また「ジャーナリズム」といわれるものは、コーヒー・ハウスに情報を提供するために生まれたともいわれる。コーヒー・ハウスは、イギリスの政治・文化に大きな影響を与えたという。
しかし18世紀半ばから減少し、代わりに、クラブ、ティーハウスが台頭し、イギリスの家庭には紅茶が定着していった。