1938年(昭和13年)4/1国家総動員法公布。日本、総力をあげ日中戦争完遂をめざす。
2023年4月15日アジア・太平洋戦争
そして4月、大本営は「徐州作戦」の発動を下命、8月には「漢口攻略」を発令し、9月に「広東攻略作戦」実施を決定した。そして10月、日本軍は広東を占領、次いで武漢三鎮(漢口・武昌・漢陽)を占領した。
●日本のこの作戦は日中戦争最大のもので、日本は国力を傾けてこの作戦を行った。日本は「国家を総動員」して中国征服へ突き進んだのである。下の「支那事変処理根本方針」における『満州国及び中国と提携して東洋平和を作り、世界平和に貢献する』というのは独りよがりにすぎず、世界はこの戦争を中国侵略戦争とみなした。
『帝国不動の国是は満洲国及び支那と提携して東洋平和の枢軸を形成し、之を核心として世界の平和に貢献するにあり』これに従わない現中央政府に対しては『壊滅を図り、又は新興中央政権の傘下に収容せらるる如く施策す』
(上新聞)昭和13年10/27の東京朝日新聞号外「武漢陥落」(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1937年(昭和12年)、鮎川義介率いる日産は、この頃までに日の出の勢いで三井・三菱に次ぐ地位に達した。そして昭和12年12月27日、日産コンツエルンは満州国進出を決め、持株会社である日本産業(日産)を満州重工業開発と改め、満州の鉱工業建設を独占的に行う国策会社として発足したのである。満州国の重工業開発は日本の生命線であった。日産自動車は、この日産コンツエルンの一員であった。満州重工業開発は発足時倍額増資(資本金4億5000万円、半額を満州国が出資)を行い、鮎川義介が総裁に就任した。
「日産コンツエルン傘下の企業一覧・昭和12年」(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●この背景には、昭和10年(1935年)当時陸軍参謀本部作戦課長だった石原莞爾が立案した「満州国第2期経済計画」があった。これは満州国の国防経済建設を目的にしたものであった。
そしてこれをもとに昭和12年3月、鉄鋼、石炭、自動車および飛行機の製造などの重工業を建設し、日本や朝鮮からの移民の増加を図るという「満州産業開発5カ年計画」が最終決定されたのである。
●だが満鉄(南満洲鉄道株式会社)と満州重工業開発との関係はどうであったのだろうか。昭和7年~11年にかけては、満鉄とその系列会社が、対満州投資合計の70%近くを占めていた。だがその資金の多くが、対ソ連戦を想定した軍用鉄道建設にさかれていた。
そしてその資金調達は、満鉄の社債によって行われていたが、これは日本の戦費調達の赤字国債と競合したのである。そのため満鉄の資金集めは困難となり、新たな経済開発に当たっては、満鉄以外の事業主体を作ることが急務となった。
●そこで関東軍は昭和11年秋に新興財閥を率いる財界人たちを満州国視察に招き、なかでも独自の構想(外資導入による資金手当)を持ち、傘下に日本鉱業・日本炭鉱・日立製作所などの重工業部門を擁し、とりわけ日本陸軍の作戦行動に必要な自動車製造能力(日産自動車)を持った「日産コンツエルン」に白羽の矢を立てたのである。
こうして、昭和12年(1937年)12月27日、日産コンツエルンは満州国進出を決め、持株会社である日本産業(日産)を満州重工業開発と改め、満州の鉱工業建設を独占的に行う国策会社として発足したのである。満州重工業開発は発足時倍額増資(資本金4億5000万円、半額を満州国が出資)を行い、鮎川義介が総裁に就任した。
●この満州重工業開発は、満鉄の重工業部門であった鞍山製鉄所を持つ昭和鉄鋼所を始め、満州炭鉱、満州鉛鉱、日満マグネシウム、同和自動車、満州石油など満鉄系列特殊会社、準特殊会社を傘下におさめた。そして昭和13年以降は、満州鉱山、満州電気協会、満州飛行機製造、満州自動車製造、満州冶鉱、満州工業会、満州軽金属、東辺道開発などの系列会社を次々に設立し、5カ年計画を推進する国策会社として活動を開始した。(この中で世界有数の撫順炭鉱だけは、そのまま満鉄の支配下に置かれた)
だが満業とよばれた満州重工業開発の経営は挫折の連続だった。その原因は次のようである。
●外資導入(主にアメリカ資本)の失敗・・この満業が発足した12月は、日本軍が南京を陥落させた時期である。そしてこのとき日本海軍が揚子江上のアメリカのパネー号(他の3隻の商船にも損害)を撃沈したことで、アメリカの対日世論が悪化したのである。これによりアメリカからの外資と技術の導入は困難となった。
●鉱物資源の調査が予想外の結果となる・・またこの外資の導入にあたって担保となる鉱物資源の調査が、アメリカ政府の元鉱山局長のフォスター博士と日本鉱業によって行われたが、調査結果は大規模な重工業の建設を可能にするだけの鉱物資源がないという結論に終わった。
●致命的な満州国政府と関東軍による経営活動への介入・・満業傘下にあるとはいえ各種の特殊会社・準特殊会社の監督権限は満州国政府にあった。そしてそのそれぞれは同格の法人だったので「満業」の経営と絶えず衝突した。なかでも満鉄系の日満商事は、原料や資材の配給統制を一手に握っていたため、「満業」による総合経営戦略も思うようにいかなかった。
また人事面でも関東軍は「満業」と系列会社の人事にことごとく干渉し、旧日産出身者を排除し、満鉄出身者の重役登用を強要したのである。
●満州産業開発5カ年計画の改変・・こうした中で鮎川義介は経営努力を続けたが、昭和14年7月に至り、外資導入の断念を認める経過報告を発表した。そして昭和15年に入ると満州産業開発5カ年計画は、日中戦争拡大と共に軍需生産力拡充に修正されていった。「満業」は満州国に重工業を建設することよりも、日本国内に基礎資材を提供するためのものに改変されたのである。
●そして鮎川自身も「満業」の経営から撤退することを決意したのである。
明治維新後の日本の移民は、ハワイから始まり→アメリカ本土→ブラジル→満州国へと変わっていく。アメリカは「合衆国」と呼ばれるように、世界から移民を受け入れて来た国家である。日本の昭和7年(1932年)から始まった武装移民団による満州入植は、昭和11年(1936年)9月の第5次をもって終了した。同年広田内閣は「20カ年100万戸移住計画」を策定した。これは昭和11年5月に関東軍が作成した「満州農業移民100万戸移住計画」などを土台に、昭和31年までに100万戸、500万人を内地から移住させることを国策として推進するというものであった。
●明治維新後の本邦の移民は、明治元年(1868年)横浜駐在のハワイ領事と日本政府が契約して、ハワイのサトウキビ農園に153名の移民を送ったことが最初といわれる。そして明治27年(1894年)までに3万人をハワイへ送った。その後日本では移民取り扱いを移民会社が担うようになり、移民会社勃興の時代となった。移民はオーストラリア、北米、南米ペルーにも渡航するようになったが、ハワイが一番多かった。
●ところが明治31年(1898年)、ハワイがアメリカ合衆国に併合されると契約移民は禁止となった。このため移民会社は大打撃を受け解散する会社が続出した。それでも残存会社は、南洋・南米に進出先を変え、フィリピン、ペルー、メキシコへ移民を送り、明治41年(1908年)には最初のブラジル移民781名を送った。
●その後アメリカ(本土)移民は自由渡航時代を迎え、明治35年(1902年)に5000人に過ぎなかった邦人は明治43年(1910年)には9万1000人に達し、毎年1万人増加の勢いとなった。これに対して日本人排斥運動が起こり、1906年3月カリフォルニア州議会が日本人移民を制限する決議案を採択、10月にはサンフランシスコ市教育委員会が、日本人と朝鮮人学童を白人から隔離する(東洋人小学校通学させる)決議を採択した。これは日本では反発を招いたが、日本政府は妥協し、アメリカと紳士協定を結び、日本人移民を極端に減らした。
(注)中国人移民は、19世紀半ば過ぎから、ゴールドラッシュやアメリカ大陸横断鉄道の労働者として積極的に受け入れられて来た。ところが1882年カリフォルニアで中国人移民が15万人に達すると、排斥運動がおこり中国人移民は10年間禁止とされた。そして1892年にはさらに10年間延長され、1902年に中国人移民は無期限禁止となった。中国人の代わりに日本人移民が増加したのである。
●こうしてアメリカへの移民が制限されると、日本人移民は中米(メキシコ)と南米(ブラジル)へ向かった。ブラジル移民は明治41年(1908年)が最初で、サンパウロ周辺のコヒー園に158家族781人が移民した。特にブラジル移民が国策として進められたのは、国内の人口増加と農地の不足が深刻化した大正時代からであった。そして関東大地震(大正12年・1923年)が起こると政府は、被災者にブラジルへの船賃を全額補助し、翌年にはブラジル移民全体に広げた。
●そして南米拓殖会社、アマゾニア産業研究所などによるアマゾン河流域に入植する「企業移民」が本格化し、昭和8年(1933年)にブラジル移民はピークを迎えた。
●だが昭和9年(1934年)7月、ブラジル政府は新憲法を公布し、日本人移民を大幅に制限した。これはブラジル国内の失業対策と人種対策のためであった。こうして日本のブラジル移民は急速に退潮していった。
●こうして日本移民の残された唯一の天地は「満州国」だけになったのである。
(注)上の表は「朝日年鑑. 昭和13年 朝日新聞社 編 朝日新聞社昭和9-15出版」から「在外本邦人(昭和10年・1935年10月1日現在)」を一覧表にしたものである。特に注意すべき点は、満州国における朝鮮人の多さである。満州全体では朝鮮人の農民は一時200万人といわれるほど多くいたのである。
*リンクします「朝日年鑑. 昭和13年 朝日新聞社 編 朝日新聞社昭和9-15出版」→
昭和11年(1936年)広田内閣は満州農業移民「20カ年100万戸移住計画」を策定した。これは昭和31年までに100万戸、500万人を内地から移住させることを国策として推進するというものであった。最初に満州移民に関する略年表を引用する。また表には大きな出来事・事件などを追加記入し、ポイントも記入した。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊。(注)ただし満州軍総参謀長・児玉源太郎と満鉄総裁・後藤新平の記事の年月が1876年と1878年とあり誤謬とおもわれるので、両記事を「満鉄」の設立時期《1906年》に挿入した。
(出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」1億2千万人の映像。第1巻「世界恐慌と太平洋戦争」講談社2005年7/15第1刷発行。
※(YouTube動画、サイズ3.15.0MB、1分04秒)
年月 | 内容 |
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1939年(昭和14年)2月2日 | 満州国政府、「移民」を「開拓者」と名称変更。 |
1939年(昭和14年)12月22日 | 日本・満州両国政府、満州開拓政策基本要綱を発表。 |
1941年(昭和16年)5月2日 | 拓務省、全国7カ所に女子開拓訓練所設置を決定。 |
1944年(昭和19年)8月 | 開拓団員の応召開始。 |
1945年(昭和20年)8月15日 | 日本敗戦までに約30万人が満州に入植。 |
●下に、写真集をリンクしておいた。「満洲開拓写真集満洲農業開拓民篇」満洲移住協会 編満洲移住協会 昭和17年出版。また次段では、「満州国開拓民入植図」を記載した。敗戦までに約30万人が入植した。
*リンクします「満洲開拓写真集満洲農業開拓民篇」満洲移住協会 編→

●アメリカへの移民流入数は、1905年~1914年の10年間で1000万人を超えた。1910年のアメリカの総人口が9200万人であることを考えると、その移民数の割合は驚くべきものであった。この移民流入の最大の要因は、ヨーロッパにおける人口爆発と旧来の農村の解体にあった。
(注)写真、数値など(出典)「アメリカ移民」野村達郎、「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より。
●アメリカへの移民 |
●1800年に約2億人だったヨーロッパの人口は、1910年には4億5000万人にのぼった。そして1821年~1920年の100年間で海外へ向かった人々の数は5200万人にのぼった。この内訳は、9%がアルゼンチン、8%がカナダ、7%がブラジル、6%がオーストラリアへ向かい、そして全体の60%(3150万人)がアメリカへ向かったのである。
●20世紀の初頭、アメリカ国内における外国系人口は驚くべき比率に達した。1910年における外国生まれの人口比率は15%、アメリカで生まれた移民2世の比率は21%となり、両者の合計は総人口の35%を超えたのである。そして移民元もいままでの北・西ヨーロッパから南・東ヨーロッパへ変化した。1891年~1920年の30年間に、イタリア412万人、オーストリア・ハンガリー399万人、ロシア324万がアメリカに渡った。
●彼ら新しい移民は、南部の安価な黒人労働者との競争は避け、工業の盛んな東部へ向かう傾向にあった。1910年、マサチューセッツ、ニューヨーク、ペンシルヴェニア、イリノイの4州だけで、外国生まれの人口はアメリカ全体の半数近くを占めた。そしてその移民の大部分は都市に住み産業労働者となった。この年には、移民とその子供たちの世代だけで、ニューヨーク市の人口の79%、シカゴの78%、フィラデルフィアの57%、デトロイトの74%、クリーブランドの75%に達したのである。
●当然ながら古くからのアメリカ白人および北・西ヨーロッパ系の労働者は、賃金が高く労働条件の良い熟練度の高い職に就いた。これに対して、南・東ヨーロッパ系の非熟練労働者は産業労働力の最底辺に編入されたのである。
●そして1924年5月、いわゆる「排日移民法」である新移民法にアメリカ大統領が署名した。これは国勢調査(1890年)に基づき、出身国別移民の割り当て決めたもので、国別人口で圧倒的多数を占める北欧系移民を優遇し、南欧・東欧系移民を極端に制限したものであった。そしてさらに、これまでアジア系移民で唯一移民禁止措置をうけていなかった日本人移民を全面的に禁止したのである。これはもともとアメリカでは、「帰化不能外国人」であったアジア人の移民を、ここで建て前からも全面禁止にしたのである。
●下段のアメリカの映画「ゴットファーザーPART Ⅱ」でも、「自由の女神」が移民たちへ自由と希望を与えてきたというアメリカを象徴するシーンが描かれている。移民国家としてアメリカ人の、国家に対する忠誠の誓いは、下記のように定められている。(出典:About THE USA)
●この映画は、1972年に公開された「ゴッドファーザー」の続編である。「ゴッドファーザー」は同年度アカデミー賞(作品賞・主演男優賞・脚色賞)を受賞したが、この「ゴットファーザーPART Ⅱ」も1974年度のアカデミー賞(作品賞・監督賞・助演男優賞・脚色賞・作曲賞・美術賞)を受賞した。左は、主人公の若きコルレオーネが、シチリアからイタリア移民として1901年頃ニューヨーク・エリス島に移民として上陸する時の1ショットである。「自由の女神」に希望の眼差しを注ぐ数多くの移民たちが印象的である。
国家総動員法は、1938年(昭和13年)4/1に公布され、5/5外地を含めて施行された。この法律は50条と附則からなるが、ポイントはこの法律の各条文に基づき多くの勅令が公布されたことにある。その数は昭和16年12/8(太平洋戦争勃発日)までに59件(改正は除く)、それ以後敗戦までに多くの改正が行われたが、その改正勅令の数は118件にのぼった。ここではその勅令を一覧にしたが、まさに国家を総動員して戦争を行ったことがみて取れる。日本はアメリカと戦争をする前に、国力を結集し国家を総動員して、武力による中国全土の支配を国家方針としたのである。
●この国家総動員法は、日本の総力を戦争遂行に向け、そのために強力かつ広範囲な統制権限を政府に与えたものである。
ここでは第1条から第5条までを引用する。(全部で50条ある)ポイントはこの法律の各条文に基づき多くの勅令が公布されたことにある。次段でそれらの勅令を書き出した。一番問題なのはこの「勅令」であり、意味を辞書から引くと次のようにある。
(勅令)② 旧憲法下の法形式の一つ。一般の国務に関し、天皇の発した命令で、帝国議会の協賛を経ないもの。緊急勅令など。(出典)日本国語大辞典精選版
形としては天皇の命令だが、実際は政府が国会を通さずに無制限に定めることができたことが問題であった。
第一條 本法二於テ國家総動員卜ハ戦時(戦争二準ズベキ事變ノ場合ヲ含ム以下之二同ジ)ニ際シ國防目的達成ノ爲國ノ全カヲ最モ有效二發揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ
第二條 本法二於テ総動員物資卜ハ左二掲グルモノヲ謂フ
一 兵器、艦艇、弾薬其ノ他ノ軍用物資
二 國家総動員上必要ナル被服、食糧、飲料及飼料
三 國家総動員上必要ナル醫薬品、醫療機械器具其ノ他ノ衛生用物資及家畜衛生用物資
四 國家総動員上必要ナル船舶、航空機、車輛、馬其ノ他ノ輪迭用物資
五 國家総動員上必要ナル通信用物資
六 國家総動員上必要ナル土木建築用物資及照明用物資
七 國家総動員上必要ナル燃料及電力
八 前各號二掲グルモノノ生産、修理、配給又ハ保存二要スル原料、材料、機械器具、装置其ノ他ノ物資
九 前各號二掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル國家総動員上必要ナル物資
第三條 本法二於テ総動員業務卜ハ左二掲グルモノヲ謂フ
一 総動員物資ノ生産、修理、配給、輸出、輸入又ハ保管二關スル業務
二 國家総動員上必要ナル運輸又ハ通信二關スル業務
三 國家総動員上必要ナル金融二關スル業務
四 國家総動員上必要ナル衛生、家畜衛生又ハ救護二關スル業務
五 國家総動員上必要ナル教育訓練二關スル業務
六 國家総動員上必要ナル試驗研究二關スル業務
七 國家総動員上必要ナル情報又ハ啓發宣傳二關スル業務
八 國家総動員上必要ナル警備二關スル業務
九 前各號二掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル國家総動員上必要ナル業務
第四條 政府ハ戦時二際シ國家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所二依り帝國臣民ヲ徴用シテ総動員業務二従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ
第五條 政府ハ戦時二際シ國家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所二依り帝國臣民及帝國法人其ノ他ノ國體ヲシテ國又ハ地方公共團體ノ行フ総動員業務二付協カセシムルコトヲ得
以下は下段のリンク先から確認してください。
*リンクします「国家総動員法」→国立公文書館アジア歴史資料センター
下記勅令は「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より引用したもので、意味は以下のようである。
(凡例)●勅令名+No(=勅令が基づく国家総動員法の条文)・・○○・○○・○○(=初めて公布された昭和年月日)・・解説(=勅令の目的・内容など)+(No=勅令番号)
●新聞紙等掲載制限令20・・16・1・11・・軍事・官庁などの秘密事項の掲載の全面的禁止。国策遂行に障害となる事項の制限・禁止。出版物の発売禁止・差押え処分など。(37)
●新聞事業令18・・16・12・13・・新聞の国策的機能発揚のため新聞事業の規制と統制団体の設置を規定。17年7月から1県1紙への統合が進む。(1107)
●出版事業令16・・18・2・18・・出版企業の整理統合と統制団体の設置を規定。3395社が書籍203社、雑誌966社と約3分の1に激減。(82)
●工場事業場管理令13・・13・5・4・・軍需工業動員法第二条によって管理されている工場・事業場を国家総動員法に継続。(318)
●総動員業務事業設備令16・・14・7・1・・主務大臣に重要事業設備の新設拡充または改良を命じる権限を付与。(427)
●総動員業務指定令3・・14・7・5・・軍事上必要な土木建築に従事させるため、技術者を徴用。(443)
●総動員業務事業主計画令24・・14・7・26・・・総動員業務に従事する事業主に対して、戦時または事変に際して必要な計画を樹立させる。また、それに基づく演練を定めさせる。(493)
●軍需品工場事業場検査令19・・14・10・18・・軍需品またはその原料・材料に関して原価計算をさせて報告させ、また、軍需品の検査を規定。(707)
●工場事業場使用収容令13・・14・12・29・・軍需品の生産または修理をさせるため、工場・事業場を国が使用または収用。従業者および特許発明なども供用させる。(901)
●陸運統制令8・・15・2・1・・生産力拡充物資、生活必需物資の輸送について、主務大臣に陸上運送事業者・出荷者への命令権を付与。(37)
●海運統制令8・・15・2・1・・欧州戦争による船舶需給の逼迫に対して、主務大臣に建造許可・修繕促進命令・特定の航海の禁止または制限の権限を付与。(38)
●貿易統制令9・・16・5・14・・主務大臣に重要物資の輸出入を命令、また輸出入品目の制限・禁止する権限を付与。18年、交易営団の設立で貿易会社を下請け化。(581)
●配電統制令18・・16・8・30・・電力の計画的配給を実現するため配電会社を全国9社に再編。発電・送電・配電の国家管理を完成・(832)
●重要産業団体令18・・16・8・30・・軍需集中生産をはかるための強制カルテルを促進。鉄鋼・石炭・セメント・鉱山・造船・綿スフ・ゴムなど22産業に統制会。(831)
●港湾運送業等統制令18・・16・9・17・・港湾荷役力の増強をはかるため、全国主要港に港湾作業業者を設立して荷役の一元的運営を行う。(860)
●企業許可令16・・16・12・11・・重点生産を強化するため閣令で定める指定事業(443種)を開始。設備の新設などは許可制に。実質的に新規開業は不可能となる。(1084)
●馬事団体令18・・16・12・24・・国防および農業生産に必要な馬の増産と資質の向上をはかるため、統制団体日本馬事会を設立(帝国馬匹協会など解散)。(1201)
●戦時海運管理令18・・17・3・25・・全船舶および船員の国による管理と使用を法制化。特殊法人船舶運営会が国家使用船を一元的に運営。(235)
●金融統制団体令18・・17・4・18・・預貯金の吸収と時局産業への融資を強化するため、日本銀行を中核に金融機関を統制。全国金融統制会など4団体を設立。(440)
●企業整備令16・・17・5・9・・緊急重要産業への労働力集中をはかるため、商工大臣に事業の廃止・休止命令の権限を付与。中小企業を整理、要転換者は71万人に。(503)
●金融事業整備令16・・17・5・16・・大蔵大臣に金融機関の合同・合併の命令権を付与。昭和20年までに353行が153行に整理統合される。(511)
●臨時製塩地等管理令13・・18・2・27・・製塩業を総動員業務に指定し、製塩地・製塩用施設の新設拡張を命令。(93)
●統制会社令18・・18・10・18・・統制会の下部機関である統制会社に法的根拠を付与。統制会社でない企業の商号には「統制」の文字の使用を禁止。(784)
●調査研究事業令5・・19・8・9・・航空機など兵器の増産をはかるため、研究者・技術者の属する団体や企業を動員。(499)
●戦時建設団令18・・20・3・28・・戦局に伴う軍事諸施設の急速整備と重要工場の分散疎開のために、土木建築業を統制する団体を設立。(152)
●戦時農業団令18・・20・7・7・・食糧増産のため、供出・集荷などを行う統制団体・戦時農業団を設立。それまでの中央農業会、全国農業会を統合。(405)
●会社利益配当及資金融通令11・・14・4・1・・企業の利益配当を最高年10%までに制限。生産力拡充用産業資金供給のため日本興業銀行への大蔵大臣の命令権を付与。(179)
●会社経理統制令11・・15・10・19・・・利益配当を最高8%に制限。役員報酬・役員賞与、社員の学歴別初任給・年昇給額を制限。(680)
●銀行等資金運用令11・・15・10・19・・産業資金供給義務をすべての銀行に拡大。大蔵大臣に時局に必要な資金供給を命じうる権限を付与。 (681)
●会社所有株式評価臨時措置令11・・16・8・30・・株価低落の現状に対して評価規定を一時緩和して財産目録を作成させることとする。 (823)
●株式価格統制令19・・16・8・30・・株式の市場価格に最低価格を設定し株式の安定をはかる。最低価格は急落した前日の前場あるいは後場の大引相場。(834)
●会社経理特別措置令11・・19・11・1・・戦時災害に対処して、会社経理に関する諸法令を緩和する特別措置を認める。 (622)
●価格等統制令19・・14・10・18・・商品の価格・運送料・保管料・損害保険料・加工賃などを14年9月18日の水準に凍結。(9・18停止令)(703)
●地代家賃統制令19・・14・10・18・・地代家賃を13年8月4日あるいは本勅令施行直前の価格水準に凍結(9・18停止令)。(704)
●電力調整令8・・14・10・18・・電力消費者(事業者・一般消費者)に対して消費制限または禁止をとりうる権限を逓信大臣に付与。電気供給事業者はそれに従う義務。(708)
●米穀搗精等制限令8・・14・11・25・・搗精業者は農林省令の定める割合以上に精米できない(当初七分づき)。酒造業者は大蔵省の製造制限に従うことを義務化。(789)
●小作料統制令19・・14・12・6・・小作料など小作条件を14年9月18日の水準に凍結。また、不当な小作料を変更できる権限を地方長官に付与。(823)
●総動員物資使用収用令10・・14・12・16・・軍用に必要な物資は、国が使用または収用することができる。(838)
●土地工作物管理使用収用令13・・14・12・29・・土地、家屋、工作物を国が使用または収用することができる。(902)
●製鉄用輸入原料配給等統制令8・・15・7・3・・輸入業者は輸入の日から1ヵ月以内に配給統制機関に売渡し、商工大臣にその配給・消費に関し制限を加えることができる権限を付与。(455)
●農業水利臨時調整令8・・15・8・5・・旱魃期における農業水利に関する調整権を地方長官に付与。(516)
●宅地建物等価格統制令19・・15・11・21・・投機思惑的な不動産取引を防止するため、宅地建物の価格を14年9月18日の水準に凍結。(781)
●臨時農地価格統制令19・・16・1・30・・小作料の上昇に結び付く農地価格の騰勢を押さえるため、農地売買価格を14年9月18日の水準に凍結。(109)
●臨時農地等管理令13・・16・2・1・・重要農産物の生産を確保するため作付けの強制(不急作物は制限)、休閑地の耕作を強制。(114)
●生活必需物資統制令8・・16・4・1・・食糧・家庭用燃料・繊維製品・医薬品・育児用品などの配給統制を実施。16年12月の物資統制令に引き継がれて廃止。(362)
●金属類回収令8・・16・8・30・・工場・商店・銀行・映画館など19の施設から不急の鉄・銅製品合計88品目を強制回収。一般家庭に献納を要求。(835)
●物資統制令8・・16・12・16・・統制物資の生産・配給・保管・移動・消費について政府の権限を規定。とくに物資の貯蔵をめざす。太平洋戦争下の物資統制の基本。(1130)
●農業生産統制令8・・16・12・27・・農業生産のための機械・器具・労力・畜力の統制を通じて、それらの効率的活用をめざす。(1233)
●水産統制令18・・17・5・20・・資材・船舶などの総合的能率的・重点的利用により水産業の経営維持をはかる。帝国水産統制㈱を設立。(520)
●特許発明等実施令14・・18・3・23・・総動員業務を行う者に、他人の持つ特許発明または登録実用新案の権利を使用しうるようにする。(159)
●木材薪炭生産令8・・19・6・29・・木材と薪炭の増産をはかるため、立木の伐採の迅速化を促進。(429)
●重要水産物生産令8・・20・3・2・・水産要員制と戦時基幹漁船制度の創設、漁業用器具資材の活用をはかる。(88)
●重要林産物生産令8・・20・3・2・・木材・薪炭・松根油などの計画生産のため戦時林業要員制度を創設し、また、設備の効率的運営をはかる。(89)
●学校卒業者使用制限令6・・13・8・24・・工鉱業技術者が他の分野の産業に就職することを防ぐため、学校卒業者の雇用を許可制とする。 (599)
●医療関係者職業能力申告令21・・13・8・24・・将来的な徴用に備えて医療関係者(医師・歯科医師・薬剤師・看護婦)に就業地などの申告を義務づける。 (600)
●国民職業能力申告令21・・14・1・7・・16歳以上50歳未満の男性すべてに、それまでに従事した職業・卒業した学校を職業紹介所長に申告することを義務づける。(5)
●船員職業能力申告令21・14・1・30・・船員・海技免状者・無線通信士資格者に、その居住地などを管轄の官庁に申告することを義務づける。 (23)
●獣医師職業能力申告令21・・14・2・24・・獣医師に就業地などを管轄の地方長官に申告することを義務づける。(26)
●従業者雇入制限令6・・14・3・31・・企業による労働者の引き抜き・争奪競争を防止するため、転職者に職業紹介所長の認可を義務化。15年の労働者移動防止令で廃止。(126)
●工場就業時間制限令6・・14・3・31・・労働力維持のため、労働時間を1日12時間以内に制限。ただし、国の事業には適用しないなどの特例措置を設ける。(127)
●賃金統制令6・・14・3・31・・賃金高騰に対する抑制策として、事業主に賃金規則を定めさせる。厚生大臣・地方長官に規則変更の権限を付与。(128)
●学校技能者養成令22・・14・3・31・・生産力拡充のため、必要な技能者の養成を学校設立者に命じうる権限を文部大臣に付与。(130)
●工場事業場技能者養成令22・・4・3・31・・熟練した中堅職工確保のため、200人以上を使用している事業主に職工を自ら養成することを義務づける。(131)
●国民徴用令4・・14・7・8・・職業紹介所の紹介や一般募集によらずとも、厚生大臣は地方長官を通じて徴用することができる。(481)
●会社職員給与臨時措置令11・・14・10・18・・会社職員の給与を、14年9月18日の水準に凍結(9・18停止令)。(706)
●賃金臨時措置令6・・14・10・18・・労務者の賃金を、14年9月18日の水準に凍結(9・18停止令)。(705)
●船舶運航技能者養成令22・・14・11・21・・船舶の所有者もしくは運航者に、運航技能者の養成を義務づける。(780)
●青少年雇人制限令6・・15・2・22・・軍需産業・重要産業の労働力確保のため、不急業種の青少年雇用を制限。17年1月の労務調整令施行で廃止。(36)
●船員給与統制令6・・15・10・19・・船舶会社間の給与に関するカルテル協定を認め、船員の給与を統制。(676)
●船員徴用令4・・15・10・21・・逓信大臣に、船員職業能力申告者を船舶の運航に従事させるために徴用できる権限を付与。(687)
●船員使用等統制令6・・15・11・9・・船員の引き抜き・違反雇用を防止。また、逓信大臣に期間を限って特定の船員を他社に使用させることのできる権限を付与。(749)
●従業者移動防止令6・・15・11・6・・軍需産業・重要産業からの労働者・技術者の引き抜き防止。引き抜くための勧誘行為も禁止。(750)
●国民勤労報国協力令5・・16・11・22・・男子14歳以上40歳未満、未婚の女子14歳以上25歳未満の国民に年間30日(のち60日)以内の勤労奉仕を義務化。(995)
●労務調整令6・・16・12・8・・軍需産業・重要産業の労働力確保のため、労働者の解雇と退職は国民職業指導所長(職業紹介所の後身)の認可を要することとする。(1063)
●医療関係者徴用令4・・16・12・16・・軍事・軍事援護・防空上必要な場合、医療関係者を徴用。(1131)
●獣医師等徴用令4・・17・1・28・・軍務に服する獣医師が多く、内地での適正配置を行う目的で獣医師を徴用。(39)
●重要事業場労務管理令6・・17・2・25・・重要産業の生産性を高めるため労務管理と指導監督を強化。200人以上の女性を雇用する事業場には乳幼児施設の設置が可能に。(106)
●学徒勤労令6・・19・8・23・・軍需生産増強のため学生生徒を国民勤労報国協力令の対象より分離。期間を1年以内に延長、国民学校高等科以上、教職員も含む。(518)
●女子挺身勤労令6・・19・8・23・・12歳以上40歳未満の未婚女子を対象に選抜。期間1年、男子における徴用令書と同じ効力を持つ挺身勤労令書により徴用。(519)
●官庁職員動員令6・・19・8・23・・航空機増産のため、官庁・中等学校教職員の技術系職員を動員。身分・給与は現職のまま。
●船員動員令4・・20・1・20・・船員の充足をはかるため徴用の範囲を拡大。船員に関するこれまでの勅令を整理統合して制定。(22)
●国民勤労動員令4・・20・3・6・・国民徴用令・国民勤労報国協力令・女子挺身勤労令・労務調整令・学校卒業者使用制限令を整理統合、「根こそぎ動員」をはかる。(94)
1938年(昭和13年)1月、近衛内閣は「第1次近衛声明」を発表した。南京が陥落しても武漢に移って抗戦を続ける国民政府に対して、「国民政府を対手(たいしゅ=相手の意)とせず、新しい政權と手を結ぶ」といったのである。だが11月には前言を修正し、国民政府に対して「東亜新秩序」の建設に協力せよという「第2次近衛声明」を発表した。続いて12月、帝国の根本方針は、善隣友好・共同防共・経済提携の3原則を盛り込んだ東亜新秩序の建設であるとの「第3次近衛声明」を発表した。日本は国民政府壊滅をあきらめ、方針を変えた。
●そして陸軍も、屈服しない中国に対してついに進攻作戦を打ち切り、長期持久戦へと方針を転換していった。中国共産党の毛沢東は「日本の攻略戦は武漢で第3段階が終わり、これからは中国による遊撃戦(ゲリラ戦)の段階に達し中国の勝利となる」と述べた。
年・月 | 1938年(昭和13年) |
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1938年(昭和13年)の概略(9月頃まで)
●日本は4/7、当時日本の現有兵力の大半である20個師団で「徐州作戦」(5/19徐州占領)を開始した。だがこの中国軍40万に対する殲滅作戦は肩すかしに終わり失敗した。(日本は広大な中国大陸において、泥沼の戦争に踏み込んだのである。) |
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1938年昭和13年1/1 | ![]() ●石油は日中戦争の拡大で軍備最優先となり、5/1より「ガソリンの1滴は血の1滴」のスローガンとともに切符制となった。そして月を追うごとに石油の規制は強化されていった。 (写真)木炭バス、撮影-川上今朝太郎(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1938年昭和13年1/10 | ●海軍陸戦隊、独力で青島上陸を決行、占領する。1/2に支那方面艦隊、第4艦隊による山東省の青島占領作戦部隊が編成されていた。 |
1938年昭和13年1/11 |
御前会議「支那事変処理根本方針」を決定
●左朝日新聞紙面には、「御前会議聖断厳かに降る。対支最高方針全く確立」とあるが、内容は一切書かれていない。この天皇の「聖断」を仰ぐために参列したのは、大本営側(閑院参謀総長宮殿下、伏見軍令部総長宮殿下、多田参謀次長、古賀軍令部次長)、政府側(近衛首相、広田外相、杉山陸相、米内海相、末次内相、賀屋蔵相)そして平沼枢密院議長である。 帝国不動の国是は満洲国及び支那と提携して東洋平和の枢軸を形成し、之を核心として世界の平和に貢献するにあり・・
そしてこの方針に基づく実行施策内容に、1/16の近衛声明に関することが決められている。 *リンクします「4.支那事変処理根本方針」→「国立公文書館 アジア歴史資料センター」 |
1938年 昭和13年1/11 |
「健兵健民」のもとに厚生省誕生
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寺内寿一陸相の発言
「壮丁の健康に関する立場より最近三箇年間に於ける徴兵の成績に徴するに壮丁の健康は逐年非常に悪くなって居り特に眼の悪い壮丁が激増して居る(中略)これは軍団の根本組成の上に於て実に寒心すべき事柄であって・・」と述べた。(陸軍軍医団『軍医団雑誌』279号) |
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1938年昭和13年1/13 | ![]() ●また東京日日・大阪毎日の両新聞社も3/2「皇軍慰問芸術団」結成壮行会を開いた。歌手を中心とした顔ぶれは、勝太郎、市丸、徳山たまき、松原操、渡辺はま子、赤坂小梅、伊東久男らであった。 (写真-部分、「週刊朝日」2/13号)1/19天津陸軍病院を慰問する柳家金語楼。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1938年昭和13年1/16 |
第1次近衛声明「爾後国民政府を対手(たいしゅ=相手の意)とせず」と声明。
●その意味するところは、日本は国民政府が和を求めて来るなら交渉に応じるが、そうでなければ国民政府を壊滅させ、新しい政権の誕生を助けるという声明であった。その全文は以下のようである。 「帝國政府聲明」
帝國政府は南京攻略後尚ほ支那國民政府の反省に最後の機會を與ふるため今日に及べり、然るに國民政府は帝國の真意を解せず漫(みだ)りに抗戦を策し内民人塗炭の苦みを察せず外東亜全局の和平を顧みる所なし仍(よっ)て帝國政府は爾後国民政府を對手とせず帝國と眞に提携するに足る新興支那政權の成立發展を期待し是と兩國國交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす、元より帝國が支那の領土及主權並に在支列國の権益を尊重するの方針には豪もかはる所なし、今や東亜和平に對する帝國の責任愈々(いよいよ)重し、政府は國民が此の重大なる任務遂行のため一層の發奮を冀望(きぼう)して止まず |
1938年昭和13年1/16 |
閣議、昭和13年の「物資動員計画」を承認し決定
●これは軍需優先の物資動員計画であり、軍が配分の実権を握った。略して「物動」と呼ばれたこの計画は戦争経済を運営していく基本となった。日中戦争が長期化することがほぼ確定的となった昭和12年9月、近衛内閣は軍需品の大規模な補給を課題としなければならなくなった。 |
1938年昭和13年2/1 | ●第2次人民戦線事件発生。この日治安維持法違反容疑で東大教授の大内兵衛(おおうち ひょうえ)、法政大教授の美濃部亮吉、東北大助教授宇野弘蔵ら38名が検挙された。マルクス経済学系の教授グループが中心であった。 この人民戦線とは、1935年のコミンテルン第7回大会で採用された世界共産主義運動の方針であったが、今までは日本共産党に限定されていた検挙が、共産党以外の労農派や社会主義者一般にも及ぶようになった事件である。 |
1938年昭和13年2/11 | ●株式会社中国連合準備銀行(略称連銀)が設立。この銀行は、中華民国「臨時」政府(王克敏行政委員長、北京)が2月5日に公布した中国連合準備銀行条例に基づいた「臨時」政府の発券銀行(中央銀行)である。 日本によるこの銀行設立の目的は、国民政府の法定貨幣である「法幣」を駆逐し、連銀券による華北占領地域の通貨支配をめざしたものである。この法幣とは1935年国民政府が、孫文以来の悲願である全国的な通貨統一を目指して制定した法定貨幣である 。そして このための財政支援をしたのがイギリス・アメリカ両政府であった。 ●当初日本軍の現地での軍費支払いは「朝鮮銀行券」で行われていた。しかし「朝鮮銀行券」はポンドやドルとは交換できず、また租界内での取引は全て「法幣」建てで行われていたので、「法幣」がなければ軍の必需物資を購入できなかった。 そこで日本は新たな通貨「連銀券」を発行したのである。そして華中では当初「軍票」を発行し、1940年汪兆銘政権発足後は「中央儲備銀行」を設立させ「儲備券」を発行した。これらの通貨は無制限に発行されることになるが、日本国内の「円」とは「預け合いシステム」により分離され、日本国内でのインフレの高進は防止された。 |
1938年昭和13年2/15 | ●警視庁東京銀座新宿などで「不良学生狩り」を行う。17日までの3日間で7373人が検挙される。 警視庁はこの日夜8時、銀座・浅草・新宿・上野・神田などの盛り場で「一斉不良取締り」を行った。この「学生狩り」は国民精神総動員週間を期して行われた。戦争という時局に際し相対的に自由な生活を送っていた学生に対する見せしめとして行われたのである。 |
1938年昭和13年2/16 | ●内閣情報部は「週報」のグラフ版「写真週報」を創刊した。週刊国策グラフ雑誌である。 内閣情報部は前年に内閣情報委員会から改組された。この内閣情報委員会とは、満州事変(昭和6年)以降、情報宣伝の統一と強化を図るため、昭和7年9月、外務・陸軍・海軍・文部・内務・逓信6省による非公式の情報委員会が発足し、昭和11年7月に官制による内閣情報委員会に昇格したものである。そして同年10月に法令・省令などを告知する「官報」とは異なる「週報」を創刊した。 ●この「週報」は法令の必要性や運用、政府が目的などを分かりやすく解説したもので、「週報」の読者は隣組組長など国民の一部指導者層であった。それに対して「写真週報」は直接国民大衆に向けたものだった。 内閣情報部の役割は、自らが情報源となって積極的に国民を誘導することと、さらに民間の新聞社、出版社、映画企業などを国策に沿って統制することであった。 *リンクします「写真週報」→国立公文書館アジア歴史資料センター |
1938年昭和13年2/18 |
内務省、石川達三「生きてゐる兵隊」掲載の「中央公論」3月号を発売禁止
●内務省警保局図書課は「中央公論」3月号を発売禁止と命令。同誌の特派員として南京攻略戦に従軍した石川達三の「生きてゐる兵隊」の非戦闘員に対する略奪・暴行などの描写が、反戦気運をあおるという理由であった。そして石川は起訴され、禁錮4ヶ月判決を受けた。 |
1938年昭和13年2/24 |
政府、国家総動員法を衆院本会議に上程
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1938年昭和13年3月 | ●3/1商工省、「錦糸配給統制規則公布施行」。錦糸の割当票による日本初の配給切符制度が採用される。 ●3/7商工省、「揮発油・重油販売取締規則公布」(一部施行)、5/1から配給切符制度実施。 |
1938年昭和13年3/7 |
電力関係4法案修正可決
●衆議院本会議(第73議会)は、電力管理法案、日本発送電株式会社法案など電力関係4法案を修正可決した。この法案は第70議会(昭和11年12月)の広田弘毅内閣の時に上程されたが、電力業界と財界の強い反対で、撤回されたいわくつきの法案だった。 |
1938年昭和13年3/12 |
48億5000万円の臨時軍事費追加予算、貴族院本会議通過し成立。
●ここで下段で、一般会計軍事費、臨時軍事費、特別会計軍事費についてもう一度グラフを引用しておく。財源がなく戦争を遂行するためには、国家と国民の資産総てを必要としたのである。 |
*リンクします「昭和財政史(戦前編)」→財務省・財務総合政策研究所
年・月 | 1938年(昭和13年) |
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1938年昭和13年3/14 |
ドイツ、オーストリア併合を宣言
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1938年昭和13年3/15 |
IOC会議、第12回オリンピック大会(1940年)、東京開催を決定
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1938年昭和13年4/1 |
国家総動員法公布(5/5施行)
●これにより軍需工業動員法は廃止になったが、次から次へと法律が公布された。4/1「改正職業紹介法公布(7/1施行)」、4/1「国民健康保険法公布(7/1施行)」、4/2「農地調整法公布(8/1施行)」、4/4「灯火管制規則公布(4/10施行)」 |
1938年昭和13年4/7 |
大本営陸軍部、徐州作戦の発動を下命
(ポイント)
●徐州作戦のきっかけとなったのは、3月末に日本軍が「台児荘」で敗退したことにあった。この戦闘は、上写真の第10師団瀬谷支隊が「台児荘」に突入したが、中国軍に包囲され敗退したというものだった。これを中国軍は「台児荘の勝利」と宣伝し、戦意と志気向上を図った。だがこの戦闘により、大本営は徐州に展開する中国軍総計約50コ師(40万)との一大会戦を決断し、徐州作戦発動となったのである。 ●日本の北支那方面軍と中支那派遣軍は、4月5月と作戦行動を開始し南北から中国軍の退路を遮断するように進撃した。だが中国軍は5月中旬、包囲網が完成する間隙を突破して西南方面に退却した。5/19、日本軍は徐州を占領した。 ●その後、日本軍は中国軍を追って西進し、5月末には開封、中牟まで進出した。 そして6月、中国軍は中牟の北の黄河の堤防を爆破し、日本軍阻止を試みた。このため6/12未明からの大雨で黄河が増水し、6/13には決壊した。これにより黄河の水は、幅約24km、長さ約80kmに渡って流れた。中国側調査によれば、この結果水没部落約3500、罹災民約60万人、行方不明約12万人の被害が出たという。(出典:「昭和2万日の全記録」講談社) ●陸軍は、この徐州作戦では中国軍に肩すかしをくらったことにより、殲滅作戦は失敗し、戦線を広げた形となってしまった。だがこの作戦は、実質の中国の首都機能を持つ武漢三鎮(漢口・漢陽・武昌)攻略作戦へつながるのである。 *リンクします「陸軍叢書」「第4章支那事変の拡大と長期化」→
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●地図上の青のポイントは、現在の「徐州市」の位置と上写真(戦車)の「蘭陵鎮」、日本軍が撤退した「台児荘」、黄河を決壊させた付近より南に位置する「中牟」付近。
●地図上の赤マーク(上)は日本語で「鄭州市」、中国語で「郑州市」、赤マーク(下)は日本語で「武漢市」、中国語では「武汉市」を示している。武漢三鎮は漢口・武昌・漢陽のこと。さらに西の奥にあるのが中国語で「重庆」で、日本語の「重慶」である。
※それぞれのマーカーをクリックするとGoogle Map上の写真などを閲覧できる。
昭和13年2/18、石川達三の「生きてゐる兵隊」が発売禁止となり彼は起訴された。石川達三は昭和10年(1935年)に第1回芥川賞を受賞したが、ここで紹介する火野葦平は、昭和12年(1937年)第6回芥川賞を中国戦線で受賞した。この戦地での芥川賞受賞は話題となり、従軍記である「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」は兵隊三部作として好評を博した。「麦と兵隊」は13年8月雑誌「改造」に発表され、改造社から刊行された単行本はベストセラーとなった。
●火野葦平は日中戦争が始まると31歳で召集され、杭州湾上陸、南京と従軍し、徐州会戦の従軍記を「麦と兵隊」に書いた。戦後「戦犯作家」として非難されたが、この「麦と兵隊」はルポタージュ(事実に基づく現地報告)として海外でも高い評価を得た。火野葦平はこの徐州作戦の時、中支那派遣軍報道部員として従軍した。陸軍は火野葦平らをその人気のため優遇しつつ陸軍のために利用したと言えるだろう。ちなみに火野葦平は、南京へ向かう途上の捕虜虐殺について、小説には書かなかったが、手紙にその様子を記したといわれる。
五月四日
晴れわたったよい天気である。
出発の武装をして馬淵中佐の部屋に行く。班長は、私が入って行くと、高橋少佐宛の書面と、任務に関する訓令書とを書いてくれ、蚌埠(バンプ)報道部の状態、前線に出ている報道部区署など丁寧に指示してくれた上、給仕辻嬢に命じて麦酒(ビール)を取り寄せ、元気でひとつやって来てくれたまえ、と麦酒を抜いて注いでくれた。
私はコップを取り上げ、溢れ立つ泡を大事なもののように噛みながら、先達来(せんだってらい)より馬淵班長から示された限りなき深き理解の心に思いいたり、それだけに一層何かしら軽からぬ荷物が私の肩に載せられたような感懐を持った。私が不動の姿勢を取って敬礼をし、扉を排して出ようとすると、君は拳銃を持って居ないね、僕のを持って行きたまえ、と、モオゼル10連発の拳銃を貸してくれた。
北四川路(きたしせんろ)を通り、打ち砕かれた惨澹たる閘北(ざほく)の廃墟を抜け北停車場に着く。線路のところには陸戦隊の歩哨が立っている。ガソリン・カーに乗車。満員だ。軍人ばかりで、将校が大半である。午前九時発車。上海(シャンハイ)の街が次第に遠ざかって行く。暑い。窓を開けても、むっとするような熱気のある風が一層じっとりとした暑さを感じさせる。おまけに、眠いが、寿司詰なのでどうにも仕様がなく、居眠りをしていると、あちこちに頭を打(ぶ)っつけてばかり居る。蘇州でサイダアを買う。咽喉(のど)が渇(かわ)いていたので非常にうまかった。支那人が寒山寺の石刷を売っていて、何も云わず窓のところに持って来て拡げてみせる。蘇州から先は線路の両側にはずっと深々と繁った楊柳の並木が続いて、水田の中で支那人の子供が沢山水を浴びている。ガソリン・カーが近づくと、手をあげて口々に、煙草進上進上、と連呼する。この支那の子供どもは自分で吸うための煙草をくれろというのだ。常州駅に着くと向うの歩廊に貨物列車が着いているのに、びっしり支那人が乗っている。無蓋貨車なので柿色の傘を差していたり、菅笠や編笠を被っていたりする中に断髪の一寸綺麗な姑娘(クウニャン)も交っている。日本の兵隊が水を配給したり、握飯(にぎりめし)を分配してやったりしている。上海へ帰る避難民だろう。がやがやと間断なく喋舌(しゃべ)り、難しい表情をしているが、日本の兵隊が近づくと、にやにやと愛想のよい笑顔を作り、通り過ぎると、途端にもとの表情になって何やらしきりに喋舌り、中に、頭の禿げた世話役のようなのが居って、色々と指図をして居る。・・・・(略)
年・月 | 1938年(昭和13年) |
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1938年昭和13年6/15 |
大本営御前会議で、広東作戦と漢口作戦の実施を決定。
●「6/18作戦準備を命令」、と「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊にはあるが、6/11と612の朝日新聞紙面からは、すでに進攻作戦が始まっていることが読み取れる。日本語と中国語表記の違いは前段のGoogle地図で確認してください。 ●日本語で「鄭州」とあるのが中国語では「郑州」、日本語で「武漢」は中国語では「武汉」のこと。また河の名で日本語の「長江」は中国語で「长江」であり、日本語で「揚子江」と呼ばれてきた河は「長江」のことである。同様に「広東省」は「广东省」で、その省都は「広州市」で、中国語では「广州市」である。また「重慶」は「重庆」である。
(朝日新聞昭和13年6/11と6/12の「見出し」と記事一部抜粋)
●6/11「漢口に震撼・鄭州孤立、今暁・京漢線を遮断す、糧道断たれ敵大動揺」(開封にて大谷特派員10日発)・・我快速○○部隊は10日未明鄭州南方において京漢線を爆破遮断した、茲に漢口へのルートは完全に断たれた。 ●6/11「鄭州の敵を爆撃」(北京10日発同盟)・・我が陸の荒鷲は地上部隊の壮挙に呼応して昨日に引続き今日も早朝より活躍。潰走の敵に爆撃を加え大打撃を与えつつあり・・。 ●6/11「南支に猛爆敢行、広東、白雲・・」(上海特電10日発)・・艦隊報道部午前11時発表=昨9日海軍航空隊は引続き南支方面において左の攻撃を続行せり。1、広東市攻撃隊・・被害を更に拡大せり・・(略)
●6/12「揚子江上漢口目指し、海軍進攻作戦を開始、第3国艦船に避難警告」(上海特電11日発)・・海軍特務部は漢口攻撃作戦に関し11日当局談として左の如く発表した「帝国海軍は本日をもって漢口への進攻作戦を開始する、湖口附近より蕪湖附近迄直に作戦区域となるを以て第3国艦船立退き要望を艦隊長官より谷公使を通じて各国に通告した」
●6/12「続々奥地へ、漢口の引揚げ準備成る」(漢口特電11日発)(ルーター特約)・・漢口政府当局は11日に至り非戦闘員の漢口引揚げ準備を完了。今後毎日1万5千の婦女子を奥地各方面へ避難せしめることとなった。また中国戦時救済婦人会では毎日数百名づつ同会へ委託される罹災児童を重慶、成都、桂林及び昆明へ送っている。 ●(上海11日発同盟)・・漢口市民の奥地避難は連日連夜続けられ、前線から流入する避難民と入り乱れて混雑の極みに達しているが、漢口在住の外人もこの無政府状態に頗る危険を感じ、避難委員会を組織して汽車数輌借り切って香港に向け避難せしめつつあり。また義勇隊を組織して支那暴民に備えるなど極度の緊張を呈している。なお外人居住者は昨年12月既に1千余名撤退し現在なお1千2百名が残っているが、その主たる内訳は◇英国人300◇米国人200◇ドイツ人180◇その他は仏人及びソ連人である。 |
下は「WORLD WARⅡ」第2次世界大戦全史「ビルマ戦役」から中国避難民の映像。このアメリカTVドキュメンタリー「WORLD WARⅡ」シリーズはYouTubeに公開されており、原題を「Victory At Sea」という。 中国避難民のシーンは「The Road To Mandalay – Episode 24」に収録されている。この「WORLD WARⅡ」シリーズは1952年~1953年にかけて、アメリカで製作された戦史TVドキュメンタリーで、世界各国から集められた膨大な記録映像フィルムから編集されたもので史料価値は高いものである。ただ映像の中には、映画の1シーンもあり、全てがドキュメンタリー映像ではないことにも注意が必要である。紹介した映像では、1938年(昭和13年)以降、重慶へと向かう中国の無数の避難民の様子が記録されている。最初のシーンでは、避難民達が山間部の河で、人力で船を上流に引っ張り上げている。日本人は、日本軍から逃げている中国の民衆の姿を知ることは無かった。
(出典)「WORLD WARⅡ第2次世界大戦全史」「ビルマ戦役」アメリカTVドキュメンタリー(1952~1953)。輸入販売元「キープ株式会社」
※(YouTube動画、サイズ4.54MB、1分36秒)
*リンクします「WORLD WARⅡ第2次世界大戦全史」
YouTube「Victory At Sea」
年・月 | 1938年(昭和13年) |
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1938年昭和13年6/23 |
支那事変に関する政府声明
●政府は、長期持久の戦時体制確立をめざして次のように声明した。
支那事変は徐州陥落により戦局の一大進展を見たるも、その前途は尚遼遠なり。第三国の支援を頼み、長期抵抗を標榜する国民政府の徹底的壊滅のため、兵力は逐次増強せられ、今や我国有史以来の大軍は、陸海空に奮戦を重ねつつあり。この時に當り銃後施設により作戦行動に支障なからしめ、以て帝国所期の目的を達成せしめ、東洋永遠の平和を確立せんがためには、刻下凡百の施設を戦争目的貫徹に集中し、官民一体長期持久の戦時体制を確立し、以て時局に対処せざる可(べか)らず。之が為、當面の急務は物資の調整運用を最も有効適切ならしむるにあり。
即ち万難を排し輸出の振興、生産の増加、配給、消費の統制に関する政策の徹底強化をはかるの要益々緊要なりとす。茲(ここ)において政府は新事態に即応し、軍需品及輸出原料充足を優先とする物資需給の計画を樹て、之が遂行上緊要と認むる(左記の)諸方策の徹底的実行を期し、以て国防の安固、国民経済の維持を計ることに決せり。
物資総動員計画発表(戦争目的に一切集中、長期持久の体制確立)
●続いて具体策を発表した。それは軍需品調達を第1とし、消費節約を徹底し、輸出振興、貯蓄励行をはかる、というもので、具体的な項目は次のようである。
1、為替相場の堅持し、軍需物資の供給を確保し、輸出の振興をはかる。同時に物価騰貴を抑制するため、基準価格・公定価格を設定し、さらに消費節約と配給統制を強化することにより物価の引き下げを行う。
2、一般物資の極力消費節約をはかるため、輸入物資については使用制限か禁止にする。そのため代用品使用の強制するなど物資の消費節約を徹底強化する。 3、輸出を増進する。そのために、輸出用製品に関わる原材料の輸入は、国内消費転用を徹底的に防止し、輸入を確保する。(輸出入リンク制度) 4、主要物資の輸入と配給を適正円滑にするため、配給制度等を完備する。 5、貯蓄の普及徹底を図る。 6、官民一体簡素なる非常時国民生活様式の確立に努める。 (・・以下略) ●一般国内需要につき使用制限を強化すべき主なる資源は以下の通り。 (使用制限33品目)・・鋼材・銑鉄・金・白金・銅・黄銅(=しんちゅうとも呼ばれる)・亜鉛・鉛・錫・ニッケル・アンチモン・水銀・アルミニユーム・石綿・綿花・羊毛・パルプ・紙・麻類・皮革・木材・重油・揮発油・生ゴム・タンニン材料・工業塩・ベンゾール・トリオール・石炭酸・硝酸・ソーダ・苛里・燐鉱石。 |
1938年昭和13年6/24 |
第2回五相会議、今後の支那事変指導方針決定
1、支那事変の直接解決に国力を集中指向し、概ね本年中に戦争目的を達成することを前提とし、内外諸般の施策をして総て之に即応せしむ。
2、第三国の友好的橋渡しは、条件次第にて之を受諾するを妨げず。 (出典)「陸軍叢書」防衛庁防衛研究所 戦史室著 朝雲新聞社 ●上記の意味することは、「陸軍叢書」によれば、本年中に戦争目的を達成することは共通するが、陸軍は直接解決に集中し、総理および宇垣外相は第三国の橋渡しによっても和平を導こうとした、とある。 |
1938年昭和13年6/29 |
職業紹介所官制公布
●7/1施行で、同日全国196ヵ所の職業紹介所を市町村営から国営に移管した。これは、学校卒業技術者や熟練工の就職など、就労・雇用を国家が統制を加えることを主眼とした。 |
1938年昭和13年6月~7月 |
●昭和13年6月~7月の、各種民需向け製品の主な統制に関連する国民生活レベルの出来事を下記に抜き出した。正に戦時体制である。
●6/1臨時通貨法公布施行。五銭、十銭をアルミ銅貨とし一銭を黄銅貨とし、銀・銅・ニッケルなどを節約。
●6/10商工省で、消費節約・貯蓄奨励など国策遂行の一環として「昼食を手弁当に」の運動が起こる。 ●6/21目標80億円の貯蓄報国強調週間始まる。「貯蓄は身の為、国の為」のポスター20万枚全国に配られる。 ●6/26「貯蓄報国」のため、全国の各種銀行・郵便局では日曜日返上で預金取扱い業務を行う。 ●6/27国民精神総動員中央連盟では、国民生活の簡易化をめざし禁酒節酒・簡素な婚礼葬儀などの具体案を提示。 6/29内地民需向け綿製品供給を禁止
商工省は、綿製品の製造・加工・販売制限に関する4省令を公布施行した。 ●7/1商工省、皮革使用制限規則及び皮革製品販売価格取締規則を公布施行。牛革は禁止同然となる。 7/9物品販売価格取締規則を公布施行
商工省は、公定価格制度の確立のため上記規則を公布施行した。麻・ゴム製品など14品目を指定。 ●7/10商工省、羊毛を軍需向けに確保するために一般内需向けのスフ混用率強化をこの日から実施する。 7/29経済警察創設・内務省警補局に経済保安課を設置
8/4各府県に経済保安課(係)設置。 |
1938年昭和13年 |
物不足と代用品時代の始まり
●民需品で最も早く物不足の影響が表れたのは、鉄をはじめとした金属製品だった。昭和13年4/25公布の「銑鉄鋳物製造制限に関する件」によって下記の製造が禁止された。それらは、文鎮・鉛筆削り・花器・灰皿・火鉢・鋏・置物など47品目で、ついで7/8「鋼製品の製造制限に関する件」では、フォーク・スプーン・皿などの食器類、活動写真機・楽器・蓄音機など娯楽機器類、スパイクシューズ・円盤・スケート用具などの運動具類など133品目が製造禁止とされた。さらに7月このほかに、銀製品、鉛、亜鉛、錫、皮革、ゴム、ゴム靴などについて、販売または使用制限が出された。 |
1938年昭和13年7/5 |
梅雨前線による集中豪雨、阪神沿線に大水害をもたらす。神戸・芦屋・西宮
●被害の範囲は、芦屋の宮川方面から、西は妙法寺川付近にまでに到った。死者は阪神間で616人、神戸市のみで被災地面積約5140ヘクタール、被災者69万5985人、被災家屋15万973戸にのぼった。原因のひとつは、六甲山系の傾斜地は崩れやすい花崗岩でできており、さらに明治以降の無秩序な山地開発が大規模な山津波(山崩れ)を引き起こしたと考えられている。 |
●1938年(昭和13年)7月、陸軍は朝鮮、満州、ソ連国境付近の張鼓峰でソ連軍と軍事衝突を起こした。陸軍はこの軍事衝突で本格的な近代戦を経験したが、ソ連軍の反撃で大きな損害を受けた。
●陸軍はこの事件により、中国と和平を結ぶことよりも、早く中国を屈服させ、対ソ連戦に備えるべきだと考えるに至った。陸軍内部では、参謀本部の「消極持久方針」(=ソ連を仮想敵国として中国には不拡大という方針)は破れ、陸軍省の「積極拡大方針」(=中国軍の主力を撃滅し日中戦争の早期解決をはかるという方針)が決定されるのである。
●この映画は、東京葛飾の荒川放水路近くに住むブリキ職人の娘、豊田正子が、貧しい生活を率直に綴った作文を映画化したものである。
少女役に高峰秀子、父親役は徳川夢声が演じた。この正子が6年生のときに書いた作文が「赤い鳥」に掲載され評判になった。それがまとめられ、12年7月に中央公論社から出版されていたのである。映画化される5ヶ月前、新劇で「綴方教室」が上演され、新劇史上5万人の驚異的な観客を動員した。
(写真-ホーム・ライフ13年8月号)豊田正子。大正11年生まれ。戦後「人民文学」に参加、編集委員になる。作品に「芽生え」「傷ついた鳩」(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●松竹は第1回直木賞受賞の新進作家川口松太郎の「愛染かつら」を、主演をトップスターの田中絹代と上原謙で映画化し記録的な大ヒットをとばした。この映画は前後編、続編、完結編の3編を製作し、観客動員数は3編合わせて1000万人を記録した。(ちなみに加山雄三は上原謙の息子である。)
下でリンクしたYouTubeの背景の写真は、東京上野の寛永寺坂にある泳法寺、別名「愛染堂」にある桂の木のそばでの、津村浩三(上原謙)と高石かつ枝(田中絹代)のラブシーンと思われる。
●「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が、霧島昇と松原操(ミス・コロムビア)のデュエットでヒットした。レコードは120万枚を売った。
*リンクします「旅の夜風」
動画・出典:YouTube(kazu079himezi氏)
●松竹は、昭和11年1月に撮影所を神奈川県大船に移した後も、東京蒲田撮影所以来の「喜劇と女性中心路線」をとっていた。そして「愛染かつら」の大ヒットを生んだ。
城戸四郎所長は、「愛染かつら」製作中の昭和13年7月、「恋愛中心の映画を廃して健全な国策に沿う指導的社会教化と娯楽性、芸術性、愛国心を強調する作品を提供する」と声明を出したが、実際はその後も女性映画の製作を続けた。
●そしてついに昭和15年8月、松竹は内務省警保局図書課から「大船映画は依然娯楽本位に走る」と以下のような禁止事項を列記した通達を受けた。その1項には、
とあった。
●一方この頃東宝は「燃ゆる大空」など戦争映画のヒットで業界の王座を占めていた。松竹は観客が女性映画から離れて低調となり、ついに方針を転換してしまう。松竹は昭和15年11月国策映画「西住戦車長伝」(菊池寛原作、上原謙主演)を製作した。この映画は陸軍機械化部隊の出演が評判となり、この年最高の興行収益をあげるに到ったのである。
●1938年(昭和13年)10月、日本軍は当時の兵力の7割にあたる24個師団の大軍をもって、広東と武漢三鎮を占領する。だが中国の抗日戦意は衰えず、国民政府は武漢からさらに奥地の重慶に遷都し抵抗を続けた。この時、共産党の毛沢東は日中戦争の長期持久戦の見通しを述べ、日本の攻略戦は武漢で第3段階が終わり、これからは中国による遊撃戦(ゲリラ戦)の段階に達し中国の勝利となると述べた。
●下図のように、この時点で陸軍の配備は、対ソ戦備で朝鮮と満州に計9コ師団、北支と中支の対支戦場に23コ師団で、日本内地には2コ師団しか残っていなかった。
日本は総力をかけて武漢・広東作戦を行ったのである。下表が陸軍地上兵力の配置一覧で、下段の備考は、武漢作戦の主体となった中支那派遣軍の編制である。
(出典)「陸軍叢書」防衛庁防衛研究所 戦史室著 朝雲新聞社
地域 | 軍司令部、方面軍、派遣軍、軍、師団 |
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内地 | 近衛師団、第11師団 |
朝鮮 | 朝鮮軍司令部、第19師団 |
台湾 | 台湾軍司令部 |
満州 | 関東軍・第3軍・第4軍各司令部。 第1、第2、第4、第7、第8、第12、第23、第104(大本営直轄)の計8コ師団。 独立混成第1旅団、第1ないし第3独立守備隊。 |
北支 | 北支那方面軍・第1軍・駐蒙軍各司令部。 第5、第14、第20、第21、第26、第108、第109、第110、第114の計9コ師団。 第2ないし第5独立混成旅団。 |
中支 | 中支那派遣軍・△第2軍・〇第11軍各司令部。 △第3、〇第6、〇第9、△第10、△第13、第15、△第16、第17、第18、第22、〇第27、〇第101、〇第106、第116の計14コ師団。 |
中支那派遣軍(司令官・畑俊六大将)は、武漢攻略を、第2軍と第11軍に分けて進撃、総兵力は30万を越えた。 | |
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第2軍 | 第2軍(司令官・東久邇宮稔彦王中将)は、北方より大別山系を迂回する部隊と横断する部隊の2コースに分かれて進撃した。 |
第3、第10、第13、第16、各師団。 | |
第11軍 | 第11軍(司令官・岡村寧次中将)は、長江(揚子江)の両岸を海軍の協力を得てさかのぼって進撃した。 |
第6、第9、第27、第101、第106、各師団と、波田支隊。 | |
9/19、第21軍(軍司令官・台湾軍司令官の古荘幹郎中将)の動員が下令され、広東攻略が命じられた。 | |
第5師団(徐州付近の警備)、第18師団(上海に集結)、第104師団(南満州で待機)、第4飛行団。 |
●陸軍は、この武漢(国民政府の実質の首都)攻略戦の時、南京事件の轍を踏まないために、「不法行為」とくに掠奪、放火、強姦などの絶滅を期し、皇軍の名誉のためにこれら不法行為に対しては、厳罰に処すことを下達し、対応した(下段で引用)。
(南京事件後、陸軍がどう対応したかを知れば、南京事件についてきちんと理解が深まるだろう。)
●下は、教育総監・畑俊六大将(この時の中支那派遣軍司令官)の日誌や、第11軍司令官・岡村寧次中将「陣中感想録」などからの引用である、軽々しく軍司令官の言葉の真偽をあげつらうことはできないだろう。
(出典)「南京事件論争史」笠原十九司 平凡社2007年刊
●南京事件の実相が軍部中央に明らかになるにともない、中支那方面軍の軍紀粛正について、教育総監・畑俊六大将が杉山元陸相に進言した内容(1938年1/29日誌)。
●大本営は、1938年2/1南京に到着した本間雅晴参謀本部第2部長の調査結果を受けて、2/14松井石根中支那方面軍司令官を解任し日本に召還し、新たに編制された中支那派遣軍司令官に畑俊六大将を任命した。
●1938年7/13、第11軍司令官岡村寧次中将は、次のように記している。
(『岡村寧次大将陣中感想録』厚生省引揚援護局、戦史史料其の三、1954年)
●さらに『岡村寧次大将 戦場回想編』には、「南京事件の轍を履まないための配慮」と題したつぎのような回想がある。
稲葉正夫編『岡村寧次大将資料 上巻-戦場回想編』(原書房、1970年)
●中支那派遣軍は1938年10月下旬、武漢占領にさいして「武漢進入に際し軍参謀長の注意事項」【昭和13年10月24日発】を下達した。
二、無益の破壊、放火を厳に戒むるとともに不注意あるいは敵の謀略による火災の予防に深く注意を要す。(下略)
三、各種不法行為、とくに掠奪、放火、強姦などの絶無を期するを要す。
皇軍の武漢進入にあたりては、その一挙一動に世界人士の耳目集中すべし、まさに皇威を宣揚し皇軍の真姿を理解せしむべき絶好の時期なり。しかれどもいっぽう、一人の過誤失態は全軍の名において宣伝せらるべきをもってその進止はとくに一段の戒慎を加うべし。
もしそれ前述の非違を敢えてするものあらば皇軍の名誉のため寸毫も仮借なく臨むに厳罰をもってすべし。
しかして既往の経験に徴するに各種非違は軍隊の緊張せる進入直後の時期よりもむしろ若干日経過したる後において発生の機会多かるべきをもって、時日の経過とともに監督をゆるめざるを要す
防衛庁(当時)防衛研修所戦史室『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(2)」朝雲新聞社、1976年
●そして中支那派遣軍司令官・畑俊六大将は、武漢陥落後の日記に次のように「慶賀すべきことなり」と書いた。
11月3日 今日の明治節は天気晴朗にしてよき日なりき。午前9時洛東丸船上にて全員東向遥拝式を行ひ、前10時参謀長以下を従へ洛東丸より上陸、漢口市内にある戦闘司令所に入る。第2軍司令官東久邇宮殿下にも本日午后2時頃飛行機にて光州より御到着、午后3時半より戦闘司令所屋上にて海軍と合同、将官以上及幕僚に会し戦勝祝賀会を催ほす。光栄感激極りなし。中には感涙を催ほせるものすらありき。
『続・現代史資料(4)陸軍 畑俊六日誌』みすず書房、1983年。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
※上の航空写真を、マイナスボタンで俯瞰していくと、右手に現れる青マーカーが太平島である。
※下のリンクは、アメリカの「戦略国際問題研究所」CSISのサイトである。南沙諸島(=スプラトリー諸島)の航空写真が各国別に時系列に公開されている。
*リンクします「戦略国際問題研究所」CSIS→「island-tracker」